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投稿ログ361 (No.6288 - No.6294)

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board4 - No.6288

Re:「竜堂始の教育法」の問題点

投稿者:黒崎
2005年02月28日(月) 19時50分

> 「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
> という前提条件です。

 確かに、化学を学ぶのに元素記号や法則を何も知らないでは始められません、「ある程度の知識を習得している」ことが前提となるということはわかります。
 この舞台は高校でしたから、私は始の方式が成り立つと考えました。小学校・中学校の段階であれば、違うやり方が求められるでしょう。しかしそれでも、大事なことは年号や名前を「覚える」ことではありません。

 野球を例にあげられましたが、確かに、野球をするためにはルールを学び、投げ方や打ち方を練習し、、、というように段階を経る必要があります。
 しかし、野球をやってみようと思うのは何故でしょうか?それは、公園で楽しそうに、あるいはグランドやテレビでかっこよくプレイしてる姿をみて、それに憧れて、ということではないですか?
 また、初めて野球に触れるとき、まずルールを覚えさせられましたか?細かいことはいいから投げてみろ、打ってみろ、だったはずです。
 まず興味や楽しさ(楽しそう)が先にあり、それがあるからこそ必要な知識を身に付ける努力をするのです。もっと上手くなりたい、もっと知りたい、というエネルギーが生まれるのです。
 ゲームにしても然り、そのゲームで遊んでる人が楽しそうだ、友達が熱心に勧める、紹介している文章が面白い、扱っている題材が好きだ、似たゲームを知っているが面白かった、これも面白いかもしれない・・・まず関心ありき、です。それがなければルールブックを読破する情熱は生まれません。

 アメリカで、基礎学力の低下が問題視され、「詰め込み」が導入されて、それがある程度実を結んでいる、というのは聞き及んでおります。が、それをもって従来の日本の詰め込み教育を是とすることはできません。もちろん全否定ではありませんが、個の偏重からやや日本のやり方を取り入れて修正されたからといって、日本のやり方が生んでいる問題を気に留めなくていいことにはなりません。

 生涯教育が叫ばれる昨今の流れから、試験を上手くクリアするノウハウを身に付けることは重要である、とのことですが、資格や技術、そのために必要な知識を身に付けることは、確かに大切ですが、試験を要領よくクリアすれば、「有能な技術者」ではありませんし、優れた実務者とも言えません。
「要領よく本質を掴む」ことで、楽に試験を突破し、資格欄に書き込める肩書きを効率よく増やせるかもしれません、そういう生きがいもあるでしょう、しかし、そうした手法は、「合格する」ことに重きを置くあまり、それ自体が目的になってしまっている観を禁じ得ません。さまざまな余分なことを知らなければ、視野が狭くなり、バランス感覚を欠く結果となるでしょう。
 受験と同一視するということは、その試験のときだけ覚えていればよくて、実際にその技術を使ったり、それでお金をもらうような時には、ほとんど残ってなくていい・・・ということですか?
 また、それらはさせられる勉強ではありません、自分でやりたいと思ってやることですよね、違うことのように思います。
 競馬騎手の安藤勝己という人は、地方競馬で実績を積み、非常に優れた騎乗技術の持ち主です。しかし中央の免許を発行してもらうための試験に合格することは出来ず、特例を認めてもらって免許を受けました。しかし中央でもその技術が一流であることをいかんなく見せつけています。その手腕に疑いを持つ人はいません。
 いかに日本の資格試験が、試験のための試験になっているかの好例のように思われます。受験のノウハウを生かして「試験」をクリアすること・・・これは「生涯教育」の本義ではないと、私は思うのですが、いかがでしょうか。

 学内で順位を出すこと・・・このこと自体に私はさしたる意義を認めておりませんので、そのためにバランスを取るなら、やりようはあると思いますが、それが重要なこととは思いません。
 また、先に申し上げましたように、最低限の努力しかしなければ高得点は出ず、単位認定に必要な標準ラインしか与えない・・・ので、平均点の高騰は抑えうると考えます。
 また、究極的には、出題する教師の側が、平均60くらいと想定してテストを作っても、生徒全員が実力で100点を取る・・・が理想的な状態なわけですよね?目指している境地であるはずです、この場合平均点は100点になってしまいますが、バランスが悪いから100点を60点に修正・・・おかしな話ですよね?これは極論ですが、バランスに何の意味があるのでしょうか。

 順位付けのための試験、それは現実かもしれませんが、理念から語るなら、さして意味がないと言わざるを得ません。
 考えて欲しいこと、学んで欲しいことを問う、というのが本義のはずです。また最終的には「好きな歴史上の人物について語れ」で救済するというようなやり方だったと記憶しておりますが(他の作品と混同していたらすみません)、興味を持ってることについて調べ、まとめ、文章にする、そういう経験は、生涯教育の望ましいあり方のためには非常に有意義であると思います。

 生徒の興味や適性に基づく教科選択、現状がこれを実現しているかと言われれば、私は否だと思いますよ?受験を視野に入れているなら、個々人が点の取りやすさで選んでいるはずです、あるいは受験科目で必須にされているから、でしょう。

「試験前に問題を教える」について
 他人のノートを写して楽をする生徒が出る、従ってその生徒は思考力や想像力を使っていない、望ましくない・・・とのことですが、では従来の方式なら彼らの思考力や想像力が生かされているでしょうか?
 教師が板書した内容を機械的に写し、線を引かせたりした名詞や年号を暗記し、解答欄に写し、忘れる・・・それが望ましい歴史教育ですか?
 解答欄は余計なことを切り捨てた簡潔な文章や数字・記号ばかり、カンニングする生徒ももちろん出るでしょうね、数字や記号の方が伝達は楽ですし。
 どこぞのクイズ番組のように、1人を除いてみんな同じ答え・・・になるはずだというのも、妥当な想定とは思えません。
 もちろん50人全員が積極的に取り組み、50通りの解答用紙を提出する・・・そうなるはずだというほど夢想的にはなれません。そんなことは限りなく不可能に近いことです。
 しかし、歴史を面白いと思う生徒が、最初は5人だったのが10人になった・・・これは大きな成功ではないですか?

 試験前に問題を教えないならば、多少は評価に値する・・・と仰っておられるように読めましたが、それはその試験の難度を上げますよね?逆に平均点を低くさせ、逆のバランス調整が必要になりそうです。
 あくまでそのようにした場合、の想像であって、あなたの言によれば必要ないのでは?と言われても困りますが。
 私も、前もって問題を教えないほうが、勉強になる、思考力を鍛える、という意見には賛成です。
 しかしながら、おそらくここで始が考慮したのは、対象となる生徒達が「生涯教育」にのっとった市民大学や講座に集まった大人たちや、大学生が相手ではなく、高校生、それもおそらく一年生(?)だということです。
 懸念されているように、十分な基礎知識がないかもしれない、しかし前もって問題がわかっていれば、事前に配布されるであろう資料やプリント、教科書、参考文献を当たって、カバーできます。また、それこそが「勉強の方法」ではないですか。
 また、触れておきたい、身に付けておいて欲しい基礎知識を盛り込ませる上でも、あらかじめ問題を予告することは意味があると思います。

 生徒全員が意欲的に取り組み、授業内容を完璧に理解し、思考力や想像力を身につけ、歴史を面白いと思う・・・このようになることは理想ですが、実現が可能だとは考えにくいことです。
 私がいいたいのは、従来の授業や試験方法と比較した場合、始のやり方のほうが、生徒に歴史への関心を持たせる契機を多く生み出す可能性を持っている、思考力や想像力を鍛えられる可能性をより多く持っている、ということです。そして、高等学校の段階であれば、それが望ましいことだと思うのです。

 全員が教師の願いどおりには動くわけがありません。共感し、ついてきてくれるのは半分に達すればたいしたもの、下手をすれば、皆さんの懸念されているように1割程度かもしれません。他人のまとめたものを丸写ししてしのぐだけの生徒が過半かもしれない、しかしそれでもなお、歴史(ひいては社会科)嫌いを増やすばかりだった、一律に数字や名前を暗記させるだけの授業や試験より、比較にならないくらいましである、というのが私の意見です。

 試験が終わってしばらくすれば忘れてしまうようなことを「習得」とは言えません。従って基礎知識の習得にマイナスである、という見解は肯えません。
 一生懸命暗記しても、その事項を引っ張り出す機会がなくなれば、忘れてしまいます。端的には大学に入学してしまえば、世界史を一生懸命勉強した人でも、年号や名前はどんどん忘れていくでしょう。しかし、「面白いな」と感じたことや、討論で感情を高ぶらせたりしたこと、仲間と懸命に調べた思い出・・・そういったものは心の中に残り、財産になります。
 歴史を学ぶということは、年号や名前を覚えることではない、であるのに、従来の歴史教育は、受験のシステムの求めもあって、それに終始しがちであった、それが社会化嫌いを生み出す最大の要因ではないですか。それはとりもなおさず、歴史を通して何かを学ぶ、感じ取ることを、そういう経験をさせず、遠ざけてきてしまったということに他なりません。

 パンツァーさんは、高校生には時期尚早である、というご意見と思いますが、私は高校においてこそ、為すべきことであると考えます。前もって問題を予告するような、「準備的な、あるいは前段階的な」やり方でも、です。
 高校までで興味を持てず、嫌悪ばかり育んでいて、大学にいたって目覚める、それで十分である・・・とは私は思えません。大学における歴史教育こそ、前もって意欲や関心がなければ、のめりこめないものではないでしょうか?
 大学の講師は(予備校で副業しているような人を除いて)多くが「研究者」にすぎず、ついてこないものは「不可」で落第させても苦に感じなかったり、自分の研究をするために仕方なく講義をもっていたり、、、というように、教えることに情熱を持っていたり、テクニックを持っていたりすることは期待できないのです。
 また、学生の方も、卒業要件を満たすために仕方なく、や、講師が甘くて楽だから・・・といった者が、高校のとき以上に増えます。ノートの共有(?)やカンニングまがいの行為も、より組織的に、確信的に行われます。
 レポートを課題にだしても、「美味しいカレーの作り方」で水増しして笑い話になるようなレベルでしかありません。
 大学なら、それでもいいでしょう。自分の意思で判断・選択すればよろしい。
 高校の段階までに、いろんなことに興味を持たせ、嫌悪感をなるべく抱かせないことが重要です。面白い授業や、好感の持てる先生との出会いが、可能性を拡げます。
 大学まで行ってしまうと、選んだ専門分野の勉強や、サークル活動、アルバイトなどに忙しく、また近年の傾向を考慮すれば2年になるともう就職を意識し、そのための活動を始める・・・
 そういうことは大学以上でやればよい・・・というのは、それこそ実効性を伴わないと思われませんか?
 高校において為さなければチャンスは潰える・・・とさえ感じます。大学における教養科目に対する学生のモチベーションは、それこそ絶望的である、と思います。

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board4 - No.6289

Re:Re6279:不正行為の横行を許す教育の弊害

投稿者:黒崎
2005年02月28日(月) 22時54分

 まぁ、あなたが同意してくださると思うほど、ギャグと笑いの世界に生きてはおりませんが(笑)

 最低の教師というものに、学生が行う不正や狡さに無頓着であることが含まれるとは私は思いません。

 人のノートを写して持ち込む行為と、ドーピングを同列に論じられる価値観には到底同意いたしかねます。
 1位でなければ意味がない、勝たなければ許さない、認めない、そういう歪んだ価値観や強迫観念が薬物不正を生むのです。
 オリンピックやプロスポーツにおける薬物問題は、楽をして結果を出そうなんていう次元の問題ではありません。
 結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生むわけでしょう?
 私は学内の定期試験で数字を競ったり、その数字だけで全てを評価しようとしたりということを肯定しておりませんので、このような混同はおかしい、わかってらっしゃらないのはあなたの方です。
 競技スポーツと教育を同じ基準で語ること自体が間違っています。
 教育の目的は他人よりいい点数を取ることではありません、その程度のことも分からないなら、教育についてうんぬんなどなさらないことです。

 学校の営利を第一に考えれば、進学率や一流大学合格者を多く出すことが、重要であるでしょう。
 ですが、それは本来の教育の目的からは外れる行為です。

 誤った判断や、好悪によるえこひいき、これも授業の方針や試験の方法に関わらず、教師の倫理観の問題で起こることです。

 もちろん、採点基準を明らかにすることは必要です。
 そこが難しいから、実際に採用されることはなかなかありません。が、理念としてはより望ましく、目指したいやり方だと申し上げてます。

 教師の主観が全く入らない試験や授業などありえません。
 この試験方式、さらには授業方針が、教師に多くの負担と、判断力、公平さ、そういった多くの資質や努力を求める、ということは既に触れたとおり、その上で、実現は決して容易ではないが、目指すところは間違っていない、理念としては望ましいと申し上げているのですがね。
 竜堂始が実際にそのような問題を設定し、生徒が実際に「それは事実無根だ」と調べてまとめ上げたのであれば、それはしっかり評価すべきことです、そして竜堂始がその解答をどう評価し、どう行動するかという推察は、創竜伝における描写からすれば、ありえることだと私も思います(笑)しかし、公平に裁定する「かも」しれません。
 ですが今回は試験方法が論題。竜堂始がその主張にふさわしい公平さをもっているかは別の問題です。

 まじめにやった人間が馬鹿を見る、それが避けるべき事態であることはもちろんです。
 それを避けることは容易ではないにしろ、不可能だとは思いません。
 そもそも、試験の点数という単純な数字だけで、優劣を決めたり順位付けすること自体が、そこにいたる過程や努力を切り捨てた不完全な評価ではないですか。
 試験当日に風邪を引いて頭が回らず、失敗してしまった生徒と、やまが当たって高得点を上げた生徒、テストの結果だけを見るなら後者が優秀な生徒ですね。どんな試験方法でも、平素の努力を評価することは難しいことです。
 教師が犯す誤断や偏見、自分の思想と相容れないから0点をつけて呼び出し、説教する?そういうことにならないように、自戒、自律することは、当然求められます。
 論述重視の試験にも、当然問題点はありますよ、何の問題もない、完璧な試験方式だなどと、誰一人として述べてはおりません
。記号選択オンリーなら何の問題もないんですか?どんな試験のやり方を採用しても、例えに上げられたような教師なら台無しです。

<一つの可能性・・・
 真面目で、なおかつ清廉なのでしょうね、おそらくあなたもそうなのでしょう。
 そしてそういう人は、えてして他人の横着や狡さ、甘さに対し、憎悪にも似た弾劾をしがちです。
 あなたが仰るように、ずるいことをしている生徒とひとくくりにされることが我慢ならない。
 しかし私に言わせれば、それこそが歪んだ優越意識であり、価値観です。
 誰のために勉強しているのですか?
 何のために努力しているのですか?
 高い評価を得るためなんてことを第一の目標に置くから、他人が横着をするのが許せなくなるんです。
 ずるいことをした生徒がいるから、そのクラスは腐ったミカンの集まりなんですか?そんなばかな話はない、確かに、レッテルを貼ってひとくくりにし、あれはダメだ、と言うのが好きな人は少なくありませんが、そういう判断をしてしまうことの方が改善を要する問題でしょう。

 学内の定期考査ごときで、満点を取ったからそれがなんです?
 ばかばかしいとしか言いようがありませんね。
 他の人間が、手を抜きながらも要領よく試験を切り抜けて、自分より高い評価を得たら、努力したことは無駄なんですか?
 より確かな知識や学力が身についてるのは自分だという自負はないんですか?自分は出来ることを精一杯やった、それが自信でしょうに。
 教師がそれを評価しなかったら、その生徒の努力は無駄?違うでしょう?

 そんなところで優越しようと思わなくても、誰がずるをしたか、誰が真面目にやったけど失敗してしまったのか、たとえ馬鹿な教師が気づかなくても、クラスメイトにはわかっているでしょうに(笑)
 他人の弱さを許せず、自分は真面目にやったんだからあいつより高い評価を受けなければ我慢ならない、そんな狭量なことをいうようになるから、点数至上の教育はだめなんですよ。
 たとえ試験の点数で一番でなくても、周りの人間には、あいつはすごく真面目で、物事に真剣に取り組む、ことに歴史(他の分野でも一向にかまいませんが)においては、あいつに聞けば確かだ・・・どうしてそれで納得できないんでしょうかね?
 点数とそれにたいする評価でしか、自分の価値を感じられないような観念、そんな風にしてしまった親や教師、社会は、改善すべき問題を抱えていると思います。

 大学入試の本番になれば、否応なく数字至上の足切が待ってます。多数の応募から一定数を選抜しなければならない以上、やむを得ない側面もあるでしょう。常に真剣に取り組んだ生徒がいい目を見るといいですね、どうもそうとはいい切れない事例も多く見受けられると思いますがね。

 勉強にしろ、他の努力にしろ、目的は何かをより深く知るため、何かに上達するためであり、自分自身のためです。
 確かに、誰かに評価してもらえれば嬉しいし、もっと頑張ろうという気持ちになります。そのためのひとつの指針にすぎなかったはずのテストの点に、執着しすぎるから、ずるをしたあいつと俺が同じ評価になるのは我慢できない、ということになるんです。
 テストというのは、これが大事なことだけどちゃんとわかってるか?できなかったら復習しような?というのが基本で、それだけのものでしかなかったのに、いつしかその結果、数字だけを比較して優劣を論じ、順位をつけ、点が低いからお前はだめだ、と一面的に断定してしまう、そのことが間違っているのです。
 目的が変質してしまったから、これは解けないだろう、これは覚えてないだろう・・・と、徒に暗記力を問うようなやり方が横行してしまい、思考力や想像力が育ちにくくなるのです。それは現状の教育の大きな問題点です。

学内考査が模試やセンター試験のための事前演習?
いかにも「優等生」が言いそうな台詞ですね?
 根本的に間違っているんですよ、そうやって名ばかりもとめることがね。
 点数や結果ばかりを追求し、一流大学、一流企業に入ること(今は独立起業でもいいのでしょうが)こそがステイタスだ、などという社会の歪みが、そこに色濃く根ざしているんです。
 それはあくまでも一つの見方でしかないというのに。

 全国で何番か、なんていう位置づけが知りたければ、それこそ模試を受ければよろしい。まったく同じ問題、同じ時間で稼いだ得点を競いたいなら、そういう人同士でやってればいいのです。

 数字だけで評価する方が楽なんですよ、結果だけ見てりゃ良いんですから。だから教師も親も、管理する人間も、そこに逃げてしまう。その方がよほど不正の横行を許し、真面目にやってる人間に馬鹿を見させているんです。その得点を挙げるためにどれほど努力したか、真面目に取り組んだか、そんなことはどうでもいいことになってしまうんです。結果さえよければいいんですから。
 逆に言えば、だからこそカンニングに代表される不正行為が横行するんです。過程をすっ飛ばそうが、結果さえあげれば、高い評価を得られる、あなたが支持・信頼してらっしゃるシステムや価値観こそが、そうした不正を助長するのです。
 ま、おわかりにならないでしょうけどね。

 繰り返しますが、本来「試験の結果」などというものは、その人の能力や努力を判断する資料の一つでしかないんです。
 カンニングして90点の生徒と、自力で90点の生徒、点数しか見ないから同列になるんじゃないですか?
 結果だけで判断するのは、一面において公平な判断です、しかしそれこそ、努力に対してそれにふさわしい評価をせず、正直者に馬鹿を見させる結果をうむ大本だということが、どうしておわかりにならないんでしょうね?
 どんな試験方法だろうと、人のノートを写す生徒は出ますよ?
 でも、結局そのつけを払うのは自分でしょうが(笑)
 ばかな教師を欺くことが出来たとしても、馬鹿な上司を欺いて出世できたとしても、そして巨万の富を手に出来たとしても、それがなんだというのです?そうやって要領よく世の中を渡って最後まで本人が自分は幸福だと思っていられたのなら、それはそれで結構じゃないですか。
 そういう人が現れたら、それを許容した社会は最低で許せないものであり、真面目に地道に生きてる人は、搾取されるだけの存在で、不孝で救われず、誰にも評価してもらえてない人生なんですか?
 なんだかどこぞのテロリストが同じようなことを言いそうですね(笑)

 受験で役に立たないということと、卒業後の人生において役に立たないということを、イコールで結んでなんの疑問も感じられない、そのような価値観の形成を助長してしまったことこそが、現代の教育の失敗であり、学校や教師に大いに問題があるということの証左です。

board4 - No.6291

自由惑星同盟によるフェザーン自治領征服の可能性について

投稿者:一学徒(管理人転載)
2005年03月01日(火) 15時14分

過去の議論を読んでみて、積極的で冒険的な議論が展開されているのを見ると、自分もそうした行為に参加してみたいと考えるようになった。
すなわち、自由惑星同盟によるフェザーン「征服」と「侵略」の実行可能性について、である。
まず先に、侵略と統治、そして征服について、私なりの定義を行っておく。
まず侵略。これは純軍事的な行為であり、統率された暴力によって他に己の意志を強要する行為である。
次に統治。これは純政治的行為を主として、軍事的行為を従とする。おおむね官僚などによる文治を以ってする特徴を持つ。
そして征服。これは単純に軍事力のみで行えるものではなく、また文治のみで行えるものでもない。文字通り、征を以って他を服せしめる行為であり、侵略と統治をつなぐ役割を持つ。
ここでは特に、自由惑星同盟がフェザーン自治領を征服しえたか、あるいはフェザーン自治領に侵略しえたか、を論述する。

まず考えなくてはならないのは、対外的に兵力を用い、軍事的目標の達成を以って征服とはいえないという事である。
ラインハルト軍はフェザーン自治領を侵略した。先鋒はミッターマイヤー上級大将率いる艦隊である。
確かにこの段階で、軍事的目標である惑星フェザーンの支配権を確立し政治的にも支配下においた。だが、これを征服とは言えない。単に軍事的な支配権が確立したのみだからであり、これはあくまで侵略に留まる。
この後、ラインハルト軍がフェザーン自治領を征服しえたのは、他の存在とは異なって絶対的な存在を有したからである。
長大な征旅によって為された自己の侵略行為の正当化と、他を服せしめた後に来る将来の展望とを同時に示しえる者、ラインハルト・フォン・ローエングラムの存在である。
ラインハルトの示した未来は希望に満ち、それに参加する事が最高の正義であるとフェザーンの民衆は感じた。無論、利にさとい彼らがそれだけを理由に動いたなどとは言えない。だが、これまでの利とそれまでの現実に固執して抵抗したりはせず、征服者が展望した新しい世界に希望と功利を見出し、ラインハルトの下に多くが進んで参加したのもまた事実だ。
征服の成功は、円滑な統治へと発展した。新宮廷ルーヴェンスボルンの建設はその象徴である。
一方、自由惑星同盟は帝国辺境領征服に失敗した。これを「食料及び生活物資の供給失敗によるもの」と考えるのは、一知半解との批判をまぬがれまい。
考えてみればいい。帝国辺境領を侵略した同盟軍は、通り一遍の理想を説いたものの、現実には食料と生活物資を用いてしか辺境住民を引きつけ得なかった。このまま行けば同盟は、延々と物資を供給して、モノで帝国辺境領を釣り続けなければならなかっただろう。財政力の限界に挑戦して、これを繰り返すのだろうか。
あるいは生産手段を与え、最終的に物資を自給自足できるようになれば己が訴える理想が浸透し、帝国辺境領は同盟辺境領となる――
それは本当だろうか。現実は過酷だった。物資不足となった同盟軍は、帝国からの攻撃を受ける前から、口先の理想など簡単にかなぐり捨て、守るべき民衆から自ら供した物資を奪い、更なる略奪を以って侵略の果実をまかなおうとし、自ら求めて帝国辺境民衆の敵となった。
すなわち、同盟の提示した「未来」とは、物不足という現実の前には簡単に雲散霧消するものでしかない事を、自らの行動で示したのである。
帝国辺境領の征服に失敗した同盟が、フェザーン自治領征服には成功する、理由はラインハルト軍が成功したからだ――などという言説は、現実的ではない。
何? 人はパン無くして生きる事は出来ない。だから、パンを用いて民衆の耳目を自らに向けるようにしたのだ。物資の供給は理想追求の為の方便に過ぎない。フェザーンならば物資は自給できているし、初めから高邁なる理想を論じればよい。
乞食の問答と断じて良かろうか。さもなくば盗賊の説く理とでも言おうか。
少なくとも侵略した後、自己の軍事力を維持する為に、一時的にはフェザーンの富――すなわち高い生産力を有するフェザーン民衆の自由を奪い、搾取を企図するわけである。富の蓄積度に差はあれど、帝国辺境領で窮した同盟軍と、何ら変わらない行動だろう。これを糊塗するに口先の理想を以ってする同盟軍の軍事支配を、フェザーンの住民は納得して受け入れるだろうか? 同様の状況で帝国辺境の住民は抵抗したが。
フェザーンの生産力を使う事は無い。後方は安全である。よって、後方からの物資がつけば事足りる――本当に?
それでは帝国辺境征服と同じである。動機と経過が同じなのだから、結末も変わらない。限界を超えた同盟の経済力はやがて崩壊し、軍は短期的には後退するか略奪するかを選択し、最終的には撤退する。結果、フェザーンは独立を回復する。
人はパンのみにて生きるにあらず。現在の自由とある程度まで保証された将来と自らの才覚で上げた収益と、何よりも独立不羈の誇りとを、侵略行為と偏狭な実無き理想で奪った者達を、フェザーン市民は許さないだろう。かくてラインハルト軍による逆侵攻がなり、そうして新帝国の版図フェザーンが確立される。フェザーン市民は諸手を上げて、人類の再統一を果たすローエングラム朝銀河帝国の建設を推し進める。
歴史は変わらない。
とどのつまり、ここで仮定される「自由惑星同盟」とは、初めから物資を求めて征服を企図する盗賊国家だったという事になろう。さもなくば、征服に際して国民の富を吸い上げる吸血国家か。
どちらにしても救いがたい話ではないか。
物さえあれば何とかなる。富める者は最後に勝利する。こんな議論は、少なくともアーレ・ハイネセンやグエン・キム・ホアの前ではしない方がいい。奴隷としてパンを受け取っていれば彼と同志たちは当面の生を(あくまで一時的にだが)得る事が出来た。だが彼らはあえて理想を説き、食料と物資の不足など及びもつかないほどの過酷な現実に立ち向かった。犠牲は多く、その阿鼻驚嘆は想像を越えるが、結果としてそれを現出せしめたアーレ・ハイネセンとその与党に対し、奴隷でいればそれほどの苦しみを味わう事無く済んだ愚昧な民衆を扇動して惑わし支配して壮絶な苦難に追いやった、と非難する者はいない。出来ようはずも無い。
専制に屈して奴隷として死ぬならば、民主共和政の理想を達成する為に数多の苦難を乗り越えて毅然たる生を求めよう、と正しく唱えて自らを厳しく律し長征を断行し、そして最後には正しく理想を実現する事に成功した彼らは、その乗り越えた苦難故ではなく、高い理想を以って現実に挑むという、人としての生き方を示した事で称えられるべきであろう。
こうして生まれたのが自由惑星同盟である。
彼らの長征とは、単に長旅だったのではない。過酷な現実を超克し、理想を遂げる為に行われたものだったはずだ。
征服とは、単に武力の優越や富力による建設ではない。そこにいる人々の心をこそ征し、服させなくてはならないはずだ。その基準に照らせば、アーレ・ハイネセンもまた、偉大なる征服者の一人だろう。
区々たる理想の名の下に、論ずるにも値しないほどの暴挙を為す自分達の子孫達について、真の意味で理想に殉じた先人がどう評するか、いっそ試みてみたいものだ。

――興奮して筆が踊り、思いがけず、論述が長くなった。
自由惑星同盟によるフェザーン自治領侵略の可能性については別に論じる事としよう。

親記事No.6291スレッドの返信投稿
board4 - No.6293

自由惑星同盟によるフェザーン自治領侵略の可能性について

投稿者:一学徒(管理人転載)
2005年03月01日(火) 15時17分

前回の予告どおり、今回は自由惑星同盟によるフェザーン自治領侵略の可能性について論述する。

侵略とは、他に対して自己の意思を強制する為に、統制された暴力を用いる行為である、と言う解釈を示しておいた。
これはすなわち、軍事力を行使して、相手を屈せしめる事を意味する(これがすなわち戦争である、とは言わない。軍事力の行使はさまざまな形がある為である)。
ただ、現実の侵略は、おおむね敵地における軍事力の展開とこの直接的な行使を以ってする――すなわちこれを戦争という。
さて、同盟のフェザーン侵略には、絶対に議論されねばならない、非常に重要な問題がある。
自由惑星同盟が民主共和政によって民衆を統治する国家である、という事実がそれである。
奇しくも、同盟がフェザーンを侵略するに対して、地球で行われた第一次・第二次世界大戦において、二度とも侵略の対象になった国を上げ、その正当性を実証するかの言説があったのを記憶している。
ベルギーは、ドイツ・フランスの二大国と陸上でつながり、更に海上ではイギリスと国境を接する、大国角逐の地である。
見よ、大国間の戦争において、良心の発露などありえない。一方的に宣戦布告され、一方的に蹂躙されるのである。このような実例があるから、長期にわたる大戦において小国の存続は困難である――

しかし、この主張には重大な瑕疵がある。
一度目の大戦で、ベルギーに侵略したのは、専制君主制帝国であり、二度目の大戦で侵略したのは、民主共和政を簒奪した全体主義・民族差別主義政権であった。彼らは、個の権利を制限もしくは無視する、法治国家とは言いがたい国家であった。何よりも、法的な制限を受けない権力者が国家の全権を握る、という点で、両者は特徴的な共通点を持つ。
一方、第一次大戦末期に専制君主制帝国を打倒する革命を起こして発足したワイマール共和国、あるいは、全体主義政権が戦争によって破綻した後に生まれたドイツ連邦共和国は、ベルギーを侵略、征服する事を実行していない。
両者の特徴は、権力の分散と、権力者を掣肘する法を持つ民主共和政国家であり、国民個々人の基本的人権を法によって保障している。
無論、後者が前者ほど普遍的に好戦的でないという保証は何も無い。
しかし、現実問題として、ある一つの地域に成立した国家が、もう一つの国家に対して侵略した歴史をもつのは、前者であって後者ではない。
これを重要な示唆を為す。
民主共和政――万人が等しく侵害されるべからざる政治的権利を有する事を国是とした国家は、そうでない国家に比べ、侵略の実行に対する障害が大きいのである。
当然であろう。外交において、大国には小国の権利を侵害する当然の権利がある――そんな事を、主張できるかどうかの違いなのだ。
自由惑星同盟が、フェザーン自治領を侵略する為には、小国と大国にかかわらず、相手側に、侵略に値する理由がある、という実証を行う必要がある。
この実証は、外交交渉という形で行われる。
外交無くして行われた侵略が、必ず破綻するとはいえない。なんとなれば、侵略とは軍事力の行使を以ってし、そこで道義的側面は配慮されないからである。
しかし、現実の民主共和政国家は、侵略するに際して外交交渉を欠く事が出来ないのだ。相手の権利を尊重する、という理由ゆえに。
何? 非常の時である、非常の法を取るべし。なるほど、かような説はしばしば通用するかも知れない。何より簡便なるが故に。
ではこういう事になろうか。
刑事犯と見込まれる人間を逮捕・拘束するに令状は不要であり、また彼を裁くに法を以ってする必要は無い。非常の時なのだ。
隣家との経済問題を解決するに、訴訟を以ってする必要は無い。非常の時なのだ。実力を以って解決すべし。
……これを無法国家と呼ばずしてなんと呼ぼう。
ここで仮定される「自由惑星同盟」とは、このような国家なのだ。このような自称「民主共和政国家」が存立する価値があるのだろうか。
軍事的、政略的に有効なフェザーンへの無外交開戦奇襲――侵略は、こうして歴史上最大の民主共和政国家を崩壊させる原因となる。
ローエングラム朝銀河帝国が人類圏を征服・統治する歴史は、変わらないのだ。「自由惑星同盟」の自壊によって。

さて、これまでの論述で、自由惑星同盟によるフェザーン自治領の征服と侵略は、実質的に不可能である事を主張した。
次回の論述では、奇矯なる「銀河帝国」について論述してみたい。
「自由惑星同盟」によるフェザーン「征服」に際して、現実の銀河帝国では誰がどのような形で、前線で兵を統帥するのだろうか。

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銀河帝国のフェザーン自治領奪還作戦における戦闘序列 その一

投稿者:一学徒(管理人転載)
2005年03月01日(火) 15時18分

今回は、前回の予告どおり、銀河帝国フェザーン自治領奪還軍についての論述を行う。

ここで為された、興味深い思考実験がある。
自由惑星同盟が軍を持ってフェザーンに侵攻し、これを攻略した場合、銀河帝国宇宙艦隊副司令長官ラインハルト・フォン・ローエングラム伯爵元帥に奪還の勅命が下る。イゼルローン回廊失陥よりも重大な事態であり、自国が承認した自治領への侵攻であるから、これは優先される。
後方に控えた国務尚書リヒテンラーデ侯や、帝国軍三長官は、出兵したラインハルト軍に対して、軍事的支援を行わず、兵力で劣るラインハルト軍は、豊富な物資を有する根拠地を得た自由惑星同盟軍との戦いに奔命させられ、疲労困憊の末、皇帝崩御の事態に遭遇し、奪還の実無く帰還を命じられ、処罰されて終わる――。
自由惑星同盟軍の征服や侵略の実態を考慮すると、このような想定の前提が成り立つ事すら考えがたい事は既に論述したが、それ以上に、殊更常識的に考えがたいのは、過小な兵力で、ラインハルト軍が敵前孤立する事だろう。
ここに至る前の時空間に戻ってみよう。
ヤン・ウェンリーによるイゼルローン要塞無血占領という、劇的な事態が発生し、イゼルローン回廊は自由惑星同盟軍によって陥落した。これに接して、帝国軍三長官は全員が同時に、引責辞任を表明している。
だが、これはラインハルトの提案により、撤回された。
奇矯なる「銀河帝国」では、この事実が等閑視される。まるでその後起きたフェザーン回廊失陥の全責任が、宇宙艦隊副司令長官ラインハルト・フォン・ローエングラム伯爵元帥に課せられたかのように、勅命が下る。直隷の軍のみを以って、フェザーン逆侵攻を実施せよ。遅滞は許されない。
当然、かような事が、まともな国家で起こりえるはずも無い。
一方の回廊が失陥した際に下位者からの助言で引責を免れた重臣が、もう一方の回廊を失陥した際にはその下位者自身を頤使して奔命せしめ、自滅させる――。
これが栄光ある「銀河帝国」諸侯の為し様なのだ。かような重臣が帝権を輔弼してよくぞ五世紀も命脈を保ちえた、と、いっそ賞賛したくなる。
夜郎自大の為した厚顔無恥の生きた実例として、百科事典にさえ掲載されるだろう。
無論現実の銀河帝国では、かような厚顔無恥は通用しない。
アムリッツァ会戦後、宇宙艦隊司令長官グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー元帥は辞任する。
政治的理由での辞任であり、また彼自身、内戦に巻き込まれる事を恐れてした、文字通りの現役引退であるが、無論、国権と軍権の中では当然の辞任でもある。
上位者がした失態の結果生じた国家領域の侵害を、下位者が克服したのだ。
下位者の功を報いる以上に、上位者の罪を罰する為の人事である。
結果、空位となった宇宙艦隊司令長官は、功労者に与えられる。
銀河帝国軍宇宙艦隊司令長官、ラインハルト・フォン・ローエングラム侯爵元帥の誕生である。
さて、本論に戻ろう。
現実の銀河帝国で、国権と軍権の中で、同盟軍のフェザーン回廊占拠という事態を、帝国軍三長官が責任を負わぬはずも無い。なればこその権力であり、地位なのだ。
当然、皇帝フリードリヒ4世は、これを踏まえて勅令を発する。
帝国軍三長官は軍を直率してフェザーン自治領を奪還せよ。他に優先して、可及的速やかに。
また、皇帝の代理人として、国務尚書はこれに同行し、その職権を以って政軍の統一を果たして、フェザーン自治領奪還を効率たらしめよ。
さらに、宇宙艦隊副司令長官は、直率する軍を以って帝都オーディンに残留して叛乱軍のイゼルローン回廊方面からの侵攻に備えよ。
なお、委細は軍三長官と国務尚書に一任する。
……この結果、軍三長官と門閥貴族軍はフェザーン回廊周辺に結集する。なぜ門閥貴族軍なのか。それこそが、政軍統一の実を為す為にリヒテンラーデ侯が派遣された所以なのだ。
国家の総力を挙げ、フェザーン自治領を回復しなくてはならない勅命の下令により、文字通り、可能な限りの兵力を、フェザーンに結集せざるを得ない。数のみ充たして編成上混乱した門閥貴族軍を巧みに調整・統制するには、軍権を掌握する三長官のみでは不足である。国務尚書の手腕が必要になる。
一方のラインハルト軍は、勅命ある限り忠実に帝都警護を行う為、前線には出兵出来ない。無論、過小な兵力しかないラインハルト軍は援軍など送らない。否、送れない。勅命では、副司令長官は直率の軍を以って帝都守護を為す事を求めているのだ! いわば高みの見物である。
これが想定され得る、現実の銀河帝国軍の戦闘序列なのだ。
(もはやこう評してよかろう)エセ思考実験とは逆に、現実は、ラインハルト軍が戦力を温存し、門閥貴族軍が大損害を被る!
無論、奪還の如何を問わず、三長官は辞任する。一方の回廊が失陥した際に、もう一方の回廊が失陥する事に対策しなかったのは明らかな三長官の失策である。この罪を問うに、辞任以外の何かがあるだろうか。
あげく、帝国軍で最初に皇帝死没の事実に接するのは、ラインハルト・フォン・ローエングラムとなる。この事態ははなはだ大きい。

今回、件名にはあえて、その一と記した。
無論、ラインハルト軍がその総力を挙げて「自由惑星同盟軍」からフェザーン自治領を奪還しなくてはならない事態も想定される。
次回は、エセ思考実験の参加者諸氏が熱望して止まない、ラインハルト軍によるフェザーン奪還作戦における戦闘序列を考えてみたい。
……フェザーン回廊は、同盟軍の死屍で舗装されたり……

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