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投稿ログ363 (No.6301 - No.6309)

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6301

Re:どのように都合の良い生徒を対象とした議論なのでしょうか?

投稿者:六月
2005年03月02日(水) 07時22分

 みなさんはじめまして
いままで読むばかりだったのですが、ちょっと考えを。
流れを切ってしまうかもしれませんがご容赦を。

 私は詰め込み世代です(今からだと20年近く前か…)。その時高校で教わった先生の例です。
 まず、授業の内容は(詰め込み学習になると思いますけど)大変おもしろかったです。

試験は「通常の試験形態」で、順位もありました。
ただ、学期末テスト後に自筆ノートを回収し、評価に加算ということをしていました。

 もしかしたら、このやり方は真面目だけど成績が上がらない生徒を掬いあげる方法だったのかもしれません。
それに授業ごとにきちんと書き込んだモノとノートを写したモノはあきらかに違うモノと思います。
(私が書き写した時、そう見えました。まあ、私が下手だったかもしれませんが)

 私は「通常の試験」にしても「論述試験」であっても、真面目にノートをとった生徒が点数が高かったり、よい解答ができるとはいえないと思います。
理由としては、理解にも差があるとから。ノートを写すだけで理解してしまう人もいれば、まじめな生徒だが、理解が遅い人もいる。
ということです。(私は勉強の才能というのもあると考えていますが…。私はなかったみたいです(苦笑))
 あと、「論述試験」の場合、100点の解答は難しくなりますね。さらに教えてる先生の解答を上回ったら120点?(笑
「論述試験」を行う場合、先生と生徒のレベルアップが必要になりそうです。特に先生は…。
「論述試験」で論点をうまくまとめられるかが難しいですね。高校生くらいになればできるかな?(うーん

黒崎さんの言うとおり<勉強に意欲を持たせる>ということは大事だと思います。
でもそれは先生の教え方によるものや、環境などもあるでしょう。
好き<意欲的>になったからといって飛躍的に伸びるかはどうでしょう?嫌いよりは全然ましでしょうが…
「通常の試験」も今の知識(成績)がどれだけ頭あるかという目安にはなるはずで、無駄になるモノではないと考えます。たとえ一夜漬けでも。
さらにノート提出の時にレポートでも書かせ、それも評価、加点すればどうでしょう。

案外最良の方法はないかもしれません。先生自身の問題もありますし。
単純に全体の成績(知識)をあげるなら詰め込みの暗記が一番早いと思います。
ですが、今回の話は努力している人をいかに掬い(さらに評価して)あげるかということだといわれてますし、こういうやり方をしていた先生もいたよ、ということで。

 少なくとも私は、教師の資質として考えるなら始より高校の恩師をとります。

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6302

Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点

投稿者:蜃気楼
2005年03月02日(水) 13時37分

>しかし、下がるという推論も確かではないと思います。その理由は、関心を持たせることに成功すれば、自分で調べたり、知ろうとしたりします。そうして知ったことは、試験のための暗記で覚えこんだことよりも、身につき、残るからです。
 アフリカの人々の暮らしや文化に興味をもって学んだ人にとっては、ケニアの地勢や主要な都市名、民族、言語、そういったことは「暗記」ではなくなっているでしょう。

貴方の主張によれば、興味を持つ人間は1~5割とのことですので、確実に下がるでしょうね。
 アメリカの位置も知らない人間が5割になったのと引き換えに1割の人間が世界中のすべての国の位置を覚えることを私は評価しません。
 興味を持たなかった人間の学力はどうなるとお考えですか?
 5~9割と言う大多数の人間がこの興味を持たなかった人間となるのですからお答えください。

>しかしながら、学内の定期考査ということですので、私は努力点に高い評価を与える方針を是とします。
 模試のように順位付けを目的としたものではなく、その学期、期間で、その生徒がどの程度学んだか、どんなことを身に付けたか、といった確認が主目的です。

 まさにその”主目的”のためにテストは厳正かつ客観的な基準で行われるべきなのです。
 そうしてはじめて、生徒は自分の実力を知ることができるのですから。
 点数に反映されなかった努力や熱意は”評価”のときに反映させればいいのですよ。

> では文句を言ったのは蜃気楼さんのような方だったかもしれませんね。
 高等学校の役割を、大学へ進学するための準備・訓練としか捉えないのであれば、「有害無益」ということになるのでしょう。

 「受験の役にはたたないけど人生には大切なこと」を学校の”授業”で教えてもらおうと考えるほど甘ったれた人間じゃなかったので、「進学校」に行きました。
 そんなことは自分で学ぶことです。
 高校の授業に求めたのは志望校に合格できるだけの学力を最小限の労力で身につけさせてくれることです。
 おかげで、塾や予備校に通っていた人たちより充実した高校時代を過ごせました。
 彼らが塾や予備校で受験勉強をしている時間に、部活や、読書ができました。
 ホント、進学校に進んでおいてよかったです。

>受験技術を訓練するだけの授業の方こそ、否定されるものです。

 受験技術を訓練するだけの授業ってなんですか?
 そんなものだけを訓練しても合格できる学校はないと思いますが。

> それでも、そうした目的しか持てない生徒にも、始のやり方ならば逃げ道があるわけです。歴史が好きな、或は生真面目な人に渡りをつけ、ノートを確保し、最低限の解答を構築しておけば、単位は出ます。通常の試験より「楽に」「余分な科目」をクリアできるわけです。

 まず、世界史を「余分な科目」にした時点で大問題です。
 次に、”通常の試験より「楽に」クリアできる”と言うのはどういった理由からでしょうか?
 貴方は以前
 「私は始の「自筆ノート持ち込み方式」が、従来の方式よりも、意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求めるという点で、優れていると考えます。」
 と発言し明らかに多くの労力を必要とする試験方法だと述べています。
 どちらが正しいのでしょうか?
 さらにいえば、終が敬遠するくらいには「難関科目」です。
 とても、”通常の試験より「楽に」クリアできる”とは言えません。

 ところで、黒崎さんは日本の基礎学力に問題があるとお考えのようですが、「世界のトップレベル」と言うのが一般的な評価です。
 ま、最近はゆとり教育の所為で怪しくなりましたけどね。

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6303

「記述式、自筆ノート持ち込み可」の有利点は一体なんですか?

投稿者:パンツァー
2005年03月02日(水) 15時17分

話を脱線させてくれるので、なかなか本論の話が展開しませんね。

No.6268の黒崎さんの記載
<私は竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」というのは、従来の試験方式よりは、生徒の力を育てる可能性が大きいと考えます。>
<私は始の「自筆ノート持ち込み方式」が、従来の方式よりも、意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求めるという点で、優れていると考えます。>

上の記載は、冒頭部分と、結論部分にそれぞれ出てきますので、これがメインテーマですよね。

No.6275の冒険風ライダーさんの記載
> >  そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。> >

上の冒険風ライダーさんの定義にしたがって、以下、論じてみましょう。

1:「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」(竜堂始の試験方式)
2:「資料の持込不可」   +「問題の事前予告あり」
3:「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告なし」
4:「資料の持込不可」   +「問題の事前予告なし」

黒崎さんの言う「従来の試験方式」というのが、2,3,4のどれに当てはまるのか不明ですが、すべてについて考察を加えてみます。

1の場合、
既に何度も論じているように、
「すばらしい自筆ノート」を作成する極一部の生徒と、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒と、に別れる結果になります。ここで、冒険風ライダーさんの指摘する半ば公然たるカンニング、が行われることにもなります。

「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒は、「書き写す際に使う程度の思考を費やすだけ」ですね。
(No.6299>  書き写す時、本当に頭を使わないでしょうか?)

1の結論として、
極一部の生徒:「すばらしい自筆ノートの作成という有意義な思考」
大半の生徒:「書き写す際に使う程度の思考」+「半ば公然たるカンニングの実行」

2の場合、
「資料の持込不可」ですが、「問題の事前予告あり」なので、
やはり、
「すばらしい自筆ノート」を作成する極一部の生徒と、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒と、に別れる結果になります。「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒は、解答の暗記用テキストとして、「すばらしい自筆ノート」を書き写すわけです。

しかし、この場合は1と違って、「資料の持込不可」なので、
「すばらしい自筆ノート」を書き写しただけでは駄目で、「すばらしい自筆ノート」の記載内容を覚えこんでしまう必要があります。
「すばらしい自筆ノート」を作成した極一部の生徒は、別に努力しなくても、自分で一から書いたノートであるからには、容易に内容を記憶することが可能でしょう。
一方、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒は、単に書き写しただけなので、それを試験で生かすには、暗記のための努力が必要でしょう。

2の結論として、
極一部の生徒:「すばらしい自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験に備える記憶作業」
大半の生徒:「書き写す際に使う程度の思考」+「半ば公然たるカンニングの実行」+「暗記作業」

3の場合も、
「すばらしい自筆ノート」を作成する極一部の生徒と、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒と、に別れる結果を招くかもしれません。しかし、「すばらしい自筆ノート」は、必ずしも試験の解答に直結するものではないので、効果としてはポイントが要領よくまとめられている程度であって、参考資料の域を越えないでしょう。生徒によっては、人のまとめたノートを資料として、問題など解けない、自分流にノートを作らないと役に立たない、などと言うものもいるでしょう。試験で、「人のノートを丸写し」すればよい場合(1の場合)とは違うのですから。この場合、「すばらしい自筆ノート」を写したからといって、「半ば公然たるカンニングの実行」という観点から見れば、たいした問題は引き起こさないでしょう。

また、この場合は、1と違って、
「問題の事前予告なし」ですから、
どのようなノートを持ち込んだにせよ、
試験では、生徒たちは皆、頭を真剣に使うことになります。

3の結論として、
極一部の生徒:「すばらしい自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験での思考」別の一部の生徒:「自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験での思考」
残りの大半の生徒:「書き写す際に使う程度の思考」+「試験での思考」
(「自筆ノート」は「すばらしい自筆ノート」よりも質的に劣るものとします)

4の場合も、「問題の事前予告なし」なので、3と同様に、
「すばらしい自筆ノート」を作成する極一部の生徒と、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒と、に別れる結果を招くかもしれませんが、自分流ノートの作成者が発生することになるでしょう。

しかし、この場合は3と違って、「資料の持込不可」なので、
「すばらしい自筆ノート」を書き写しただけでは駄目で、「すばらしい自筆ノート」の記載内容を覚えこんでしまう必要があります。
「すばらしい自筆ノート」や「自筆ノート」を作成した一部の生徒は、別に努力しなくても、自分で一から書いたノートであるからには、容易に内容を記憶することが可能でしょう。
一方、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの残りの生徒は、単に書き写しただけなので、それを試験で生かすには、暗記のための努力が必要でしょう。

また、この場合は、1,3とは違って、
「問題の事前予告なし」ですから、
当然試験では、生徒たちは皆、頭を真剣に使うことになります。

4の結論として、
極一部の生徒:「すばらしい自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験に備える記憶作業」+「試験での思考」
別の一部の生徒:「自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験に備える記憶作業」+「試験での思考」
残りの大半の生徒:「書き写す際に使う程度の思考」+「暗記作業」+「試験での思考」

1の試験方式が、どうして、2、3、4の試験方法より優れているのでしょうか?

(No.6299>  書き写す時、本当に頭を使わないでしょうか?)
十歩譲って、書き写す時に頭を使うとしてもですね、
上で書いたように、
1の「書き写す際に使う程度の思考」単体よりも、
2の「書き写す際に使う程度の思考」+「暗記作業」や、
3の「書き写す際に使う程度の思考」+「試験での思考」、
4の「書き写す際に使う程度の思考」+「暗記作業」+「試験での思考」
などの方が、はるかに有意義だと思いませんか?

具体的に、1が2、3、4の試験方法に比して、
優れている点を列挙していただきたいものですね。

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6304

試験方法自体によってなぜ生徒の興味が阻害されるの?

投稿者:パンツァー
2005年03月02日(水) 15時20分

<従来の方法で、歴史に興味を持つ生徒が増える、と期待できますか?従来の方法は半数どころか、ほとんど全員を突き放してきたのではないですか?>

話がどんどん脱線しているのですが、
上のような問題は、試験方法と密接な関係があるのですか?

教師が生徒の学問に対する興味に全責任を追うと仮に仮定しても、
それは試験方法ではなく、教師の授業のやり方に求めるのが筋ではありませんか?
「下手の横好き」という言葉がありますけど、
別に他の生徒との比較ランキングが低かろうが高かろうが、興味のあるものはあるし、ないものはないものですよ。
試験方法とは基本的に関わりがないのではありませんか?
教師が、生徒が興味を抱くように、授業を配慮することの方がはるかに重要ではありませんか?

勝手に、「生徒に歴史に対する興味を持たせる方法」の話をしていますが、
黒崎さんが立ち上げたテーマは、
竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」が、「従来の試験方式」より、「生徒の力を育てる可能性が大きい」という点ですよ。
この観点で、首尾一貫として、論じてください。
勝手に、問題を、試験方法以外に拡張しないでください。


No.6268の黒崎さんの記載
<私は竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」というのは、従来の試験方式よりは、生徒の力を育てる可能性が大きいと考えます。>

< そして、従来の方法、詰め込みや暗記の結果が、北朝鮮やイラクの位置を4割ものの学生が知らない、ということではないでしょうか。>

だから、これは「ゆとり教育」が招いた弊害ですって。

日本社会では、「潰しの利く人間の育成」が欧米などよりも徹底して行われているのです。アメリカなどでは、教師も一般に、生徒の美点を見つけてそれを誉め、美点のみを伸ばすようにして、劣等な点については、別に無理に努力することを薦めたりしないのです。個人的には、こういう考え方の方が、精神衛生上良さそうな気がしますが、実社会では困ることが多いのですよ。潰しが利かないわけです。一つのことは得意ですが、他のことはできない人間になっているのです。この辺は、良し悪しが別れるところですね。

だから我々日本人は、興味の無いことでも、それなりに習熟させられているわけで、だからこそ、国民一般の常識レベルが高いのです。既に、高かった、というべき時代が到来しているのかもしれませんが。
江戸時代において、識字率が、ヨーロッパの平均を超えていた、などという話も、日本の文化的(正確には儒教文化圏)なものです。

「潰しの利く人間の育成」が、「天才」を生み出す弊害となっているのではないか、という議論もあって、その一つの対案が「ゆとり教育」だったわけですよ。その結果が、義務的に勉強する機会すら奪われたために、生徒の一般知的レベルを一層低下させる結果となってしまったわけです。

<基礎知識というものは、詰め込みや暗記によってのみ身につくのでしょうか?
 詰め込み教育であれば、部分的にでも残ったであろう知識すら身につかない、と仰いますが、基礎知識の習得に力点を置いているはずなのに、部分的にしか残らない。現役の学生ですら、受験が終われば、あれほど頻繁に新聞やテレビに登場するアメリカ合衆国の位置が頭に残っていない。>

これは、部分的すら残っていない結果ではなく、
一度も覚えたことが無い、結果ですよ。
そもそも暗記すらしたことが無いから、「ゆとり教育」の緩やかさの中で、
暗記させられることすら経験してないから、一度もこれらの知識を覚えることなしに、通過してしまったんですよ。

生徒の学力低下の問題はいろいろありますが、少子化の影響も無視できないほど大きいですね。
倒産を避けるべく学生確保に走る私立大学等は、推薦入試枠を拡大し、大学は10年前などと比べて著しく入り易くなっています。

私も、本論から外れた余計なことを多々書いてしまいましたが、
是非是非、本論に対する回答をしてくださいね。
試験方法自体によって、なぜ、「歴史に興味を持つ生徒が増える」などということが起こりうるのか、是非、説明していただきたいですね。うえにも書いたように「下手の横好き」というのは理解できませんか?試験方法によって、生徒の興味の方向性が規定されてしまうと言う根拠は一体なんですか?

また、それが、どうやって実用レベルになりうるのか、教えていただきたいものです。

三国志が好きで熟読したからと言って、歴史を学んだことにはなりませんよ。個々の出来事の因果関係の把握やその考察、すなわち、未来予測の一つの手法となりうる程度まで学習したのでなければ、歴史を学んだことにはならないでしょうから。最低、高校程度の教科書の一冊くらい、過去に丸暗記したことがあって、聞けば思い出す程度にはなってないと、推論を組み立てるべき、材料が少なすぎると思いますけどね。

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6305

巧妙なすり替え?!

投稿者:パンツァー
2005年03月02日(水) 15時30分

>  私は、「カンニングの横行を招く」からダメだ、と言うあなたの意見に対し、手抜きをする生徒が出るであろうことはわかるが、歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高く、その利点が指摘された欠点をしのぐ、と申し上げているのですがね。

ついでに問い掛けますが、
「自筆ノート持ち込み可」+「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」とのセットが、
「歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高い」のであれば、
成績評価などと関わりのない普段の宿題で、やらないのですか?
成績評価と関わりがないとすれば、あえてカンニングまでしようという生徒もいなくなるでしょうよ。なぜ、生徒の利害が大きく絡む、試験という場で、公然たるカンニングを横行させるような方法を、採用する必要があるのですか?
試験自体は、あくまで実力の判定手段とし、上のような公然たるカンニングを横行させるような方法を取らず、普段の授業ででも、
「歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高い」方法、を採用すればよいのではありませんか?

No.6268以降の黒崎さんの意見を読んだ者は、
あくまで試験方法に関する話だと思っているのですよ。

巧妙に、
「歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性」一般の話に
すりかえないで頂きたいものですね。
試験方法の是非は、一体どうしたのですか?
これについて論じるのが先ではありませんか?

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6308

Re6300:「理想」の前に「現実」を

投稿者:冒険風ライダー
2005年03月02日(水) 17時55分

<私は学校の授業において、また試験において、1点を争うようなことはすべきでない、と申し上げてます、ですからこのような指摘は的外れです。
「学内の定期試験において」「人のノートを写す」「それを読みながら論述する」ということと、オリンピックやプロスポーツで薬物不正を行う、ということは同列の問題ではありません。
 定期試験はスコアを競うものではありません、その期間に学習した内容を確認するためのものです。
 競技スポーツは、公平な条件のもとで、記録を競うものです。
 入試において、認められていない行為を行ったというのであれば、不正行為という基準において同じことだというのは理解できますが、私は学内の定期試験を、点数を競うものだとは考えておりませんので、私の中では矛盾してはおりません。>

<入試のような選抜を目的とした試験と、学内の定期試験とは目的が違いますから、これもまた別のものです。
「競技スポーツと教育」が同じものだとしか思えないあなたの価値観に合わせなければならないのですか?あなたのいいようこそ、私から見れば痴者のタワゴトに他なりません。
 違う意見や価値観を持つ人に対してヒステリックに噛み付いてるだけにしか見えませんね。>

 その「試験において、1点を争うようなことはすべきでない」だの「私は学内の定期試験を、点数を競うものだとは考えておりませんので、私の中では矛盾してはおりません」だのといった主張自体が、あなた個人の主観的価値観のみに基づいたものでしかないから「ダブルスタンダード」呼ばわりされるのですよ。現実問題として、学内の定期試験は「点数を競うもの」になっていますし、私立学校や進学校などではセンター試験および全国模試を多かれ少なかれ意識したものになっています。その事実を無視して己の主義主張のみをアジり倒すのはいかがなものでしょうか。
 あなたも中学以降の学校現場を一度でも見ていれば分かると思いますけど、学内の定期試験というのは、試験後に学校や教師が生徒の順位を公に公表するイベントが存在しますよね? 公表する手段は学校によって様々でしょうが、アレの存在自体が、学内の定期試験が「点数を競うもの」として「客観的に」定義されている、何よりの証拠なのではありませんか? 最高至上の目的でなくても、すくなくとも学内の定期試験が指向する「目的のひとつ」では確実にあるでしょう。
 そしてもちろん、その「点数を競うもの」である学内の定期試験もまた、センター試験や全国模試と同様に、「公平な条件のもとで、記録を競う」ことが最低限必要不可欠な前提条件として存在しているのです。これが存在するからこそ、試験結果を発表される生徒達はその結果を厳粛に受け止めると共に、競争意識と向上心をもって勉学に励むことになるわけですし、またこれが存在しなければならないからこそ、その動機が「楽をしたいから」であるにせよ「何が何でも一位を取りたい」というプレッシャーであるにせよ、学校や教師には、カンニングのような不正行為を厳しく取り締まる義務と責任が課せられるわけです。
 また、前の投稿でも言いましたけど、学内の定期試験の基準が厳しく、また公正さが保たれていれば、いざ「本番」たるセンター試験や全国模試の舞台に立っても、カンニング行為に全く走ることなく好成績をマークできる生徒も出てくるでしょうし、学校全体の評価も上がっていきます。逆に学内の定期試験でカンニング行為が横行し、ぬるま湯のような雰囲気が蔓延していれば、「本番」の受験に臨む生徒が取り返しのつかない転落を余儀なくされてしまうこともありますし、自分自身の学歴および学校に対して致命的な汚点がついてしまうことにもなりかねません。だからこそ「学内の定期試験」は「センター試験や全国模試の事前演習」という側面を持つことになるわけで、「学内の定期試験」における目的のひとつ「点数を競う」は、その点でも決しておろそかにして良いものではないのです。
 こういう「現実」を無視してカンニング容認論を提唱されたり、「試験において、1点を争うようなことはすべきでない」だの「私は学内の定期試験を、点数を競うものだとは考えておりませんので、私の中では矛盾してはおりません」だのといった「あなた個人の主観的価値観」を披露されたりしたところで、そんなものには何ら普遍的かつ客観的な説得力が付加されることはありえないのですよ。しかもあなたは、学内の定期試験におけるカンニング行為をそんな論法で免罪する一方、条件的には全く同じ「公平な条件のもとで、記録を競うもの」であるはずの「スポーツにおけるドーピング行為」については突然人が変わったかのように断罪に走るときているわけです。あなた個人の主観的価値観では矛盾してなくても、他人の目には大いに矛盾かつ破綻しているように見えるものなのですけどね、これは。
 もしあなたがあくまで「学内の定期試験におけるカンニング行為」と「スポーツにおけるドーピング行為」に違いがあると言い張るのであれば、その違いを主観だけでアジり倒すのではなく、具体的かつ客観的な根拠でもって述べてはくれませんかね? あなたにとっては自明の理であることでも、あなたの価値を共有できない他人にとって、この現象は到底理解できないことなのですから。

<いいえ、別の問題ですよ。
 私は始の試験方法、教育方針が、理念として間違ってはいない、いいところもあって、従来の方法よりいい、と言っているのであって、創竜伝を擁護しているのではありませんので。
 それに、それを実地するに当たって竜堂始が、ふさわしい公正さを、学生に対して発揮するかどうか、疑問符がつくとは申しましたが、否定するには材料が足りません。彼の考えに反する解答を「真面目に」出してきた「生徒」に対し、どう振舞うかは、まだ推測でしかありませんから。
 また、その思想の正当性は、その実行者、あるいは信奉者がその思想に適う資質を持っているかどうかとは、別の問題です。
 創竜伝と竜堂始を否定することは可能ですが、その思想を否定するのは尚早です。>

<現状に問題があるとき、あなたのように振舞えばその状況は悪化するだけです。
 理想を持つものを嘲笑することでしか、自分の価値を認められないのであれば、哀れに思いますがね。
 他人の価値観を全否定し、来るべき「数字至上の足切」を乗り越える試練を課すことは、学校や教師の義務であり、ひいては生徒自身のためでもあるのです。などという現実論を振りかざす前に、人間は理想を持ち、その実現に努力することが望ましいということを、少しは自覚していただきたいのですがね。>

<私は、「カンニングの横行を招く」からダメだ、と言うあなたの意見に対し、手抜きをする生徒が出るであろうことはわかるが、歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高く、その利点が指摘された欠点をしのぐ、と申し上げているのですがね。
 そして、現状にはそぐわない面が確かにあるが、少しずつでも本来の教育のあるべき姿のために努力することは望ましい、と思い、そのように述べています。>

 私は「高邁なる理想と理念」を謳い上げている「つもりになっているらしい」竜堂始の教育理論が「カンニング行為の容認&横行、およびそれに伴う教育効果の低下」という致命的欠陥を「現実に」しかも「構造的に」抱えこんでいる、という問題をテーマに論じているのであって、その「現実」によって全てが破壊されている「事実」が存在する「高邁なる理想と理念」などいくら挙げても意味がない、とあなたに対しては手を変え品を変え何度も申し上げているつもりなのですがね。
 「現実の問題」を突きつけている人間に対して「理念として間違ってはいない」などという主張が反論になると思っているのですか? 「現実の問題」は「間違ってはいない」理念や理想をも結果的に破壊しているわけなのですから、「現実の問題」を踏まえずして理念「だけ」を語っても意味がないでしょう。「理念として間違ってはいない」という論法でいくならば、「現実に破綻した」共産主義や「あなたが問題であると考えている」詰め込み教育なども「理想や理念として間違ってはいない」ことを主張しているはずですし、「いいところもあって、従来の方法よりいい」などと言い張れないことはないのですけどね。
 理念や理想を語るのも結構ですが、その際には必ず「現実の道」を歩むようにして下さい。本来、理念や理想というのは「妄想」と紙一重の存在でしかないのですから。

<あなたの意見は、高等学校は大学進学のための訓練機関である、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです。>

 こんなことが言えるのであれば、私だって「あなたの意見は、学校の授業において、また試験において、1点を争うようなことはすべきでない、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです」とかいえてしまうわけなのですけど、それが反論になるとまさか本気でお考えで?

<まじめにやった人間の努力が踏みにじられるから、カンニングはダメだ、と言いながら、努力に対する評価などは主観の割り込む余地が大きいからだめなんだ、と仰るわけですね。
 しかし、あなたの憎むカンニングは、「結果だけで判断する教育手法」が、助長するのですがね。>

 これは国語の問題なのでしょうが、「まじめにやった人間の努力が踏みにじられる」の主語は「生徒」であり、「努力に対する評価などは主観の割り込む余地が大きい」と評価される相手は「教師」です。そして「まじめにやった人間の努力」を行った生徒は客観的かつ公正な基準で評価されるべきであり、また「教師」は「生徒」に対して強大な権力を行使できる存在であるからこそ、「主観の割り込む評価」などを「生徒」に行ってもらっては困るわけです。
 対象が全く異なるものを同列に並べて何を言っているのですか?

<人のノートを写すことを否定なさらないのであれば、ノート持ち込み可であっても何の問題もなくなるではありませんか、人のノートを暗記するのはよくて、読みながら論述をまとめるのはダメなんですか?
 従来の試験で、テキストやノートのコピーを暗記して、解答用紙に書き込むことと、予告されたテーマについて、人のノートを書き写し、試験でもう一度書き写すこと、この二つの行為の間に、あなたが主張するほどの不正の度合いの差があるとは思えませんね。あなたの主張を厳密に適用するなら、ノートの貸し借りもまずいということになるんですが。>

<あなたは明らかにノートを写す行為を不正行為として糾弾していますね?
 あなたの主張の骨子とも言える部分ですよね?
 しかもこの文脈では、事前の問題の提示よりも、ノート丸写しが重視されているように解釈するのが妥当かと思われますが?
 年月がたってますから、自分の言ったことを忘れてしまうのはしかたがありませんが、相手に理解力がないと非難する前にするべきことがあるでしょうね。>

 全体の文脈を無視してよくもまあそんなバカげたことが平気で言えたものですね。だからあなたは「一知半解な理解力しか持たない人間」などと評されることになるのですよ。
 いいですか? 私がこの議論に際して「ノートを写す行為」を「不正行為」として「糾弾」した最大の理由は、何度も言っているように「自筆ノート持ち込み可」と「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」とがセットになっている教育手法では、それが「【試験現場における】カンニングの温床」になるからなのであって、たとえばパンツァーさんの投稿No.6303が提示する「3」「4」のような試験方法ならば、「ノートを写す行為」が「【試験現場における】カンニングの温床」になる可能性は著しく低下するわけですから、当然「ひとつの学習方法」として認めても問題はないことになるでしょう。だからこそ、私は「ひとつの学習方法」を「【試験現場における】カンニングの温床」にまで堕してしまう竜堂始の教育手法を問題にしているわけですし、一方で「ノートを写す行為」そのものを「ひとつの学習方法」として否定することはないわけなのですけどね。
 「試験直前まで」「それが模範解答になるとは限らない」暗記やノート写しに熱中することと、「試験最中に」それも「事前予告と他人によって導き出された模範解答がびっしり記載されている」丸写ししたノートを覗き込むこととでは、当然のことながら天と地ほどの格差が存在します。こんなこと、いちいち言うまでもないほどに自明なことだと思うのですけど。

board4 - No.6309

過去ログ更新のお知らせ

投稿者:冒険風ライダー
2005年03月02日(水) 18時20分

HP「過去ログ資料館」に、
「田中芳樹を撃つ!」4代目掲示板の投稿6001~6300番
「場外乱闘掲示板」の投稿246~342番
までをアップデート致しました。
過去ログをまとめて閲覧したい方は上記URLリンクからどうぞ。

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