初代掲示板過去ログ

WEBRANKING テキストサイト部門 サイトランキング 文学・小説・童話部門 mixiチェック

このエントリーをはてなブックマークに追加

投稿ログ82 (No.1483 - No.1491)

board1 - No.1483

時代的に

投稿者:本ページ管理人
1999年07月08日(木) 01時19分

><主食はおそらく、小麦の加工品だと思われる(違っていたらスマン)ので、米と比べて人口支持力はいくらか落ちるものと想像されます。日本の場合、温暖多湿であるし、海の幸、山の幸に恵まれていたという環境もあると思います。それでも同時代、日本の人口は600~700万人ぐらいじゃなかったでしょうか。>
>
> 当時の日本は聖徳太子~大化の改新あたりの時代ですね。遣隋使・遣唐使による中国の文物を取り入れ始めたばかりの頃ですから、発展はまだこれからという状態です。それに対して当時のササン朝ペルシアは当時の世界の中では最先進国のひとつでしょう。最先進国と後進国ではあまり比較にならないので、日本の場合は戦国時代から取り上げてみました。

 パルスのモデルの一つは間違いなくササン朝のペルシアでしょうが、十字軍(どうみても)の時代もモデルですし、わたしはどちらかというと中世のほうが妥当だと思うのですが。

board1 - No.1484

実在のトゥラーン人

投稿者:はむぞう
1999年07月08日(木) 08時10分

偶然見つけた本に、トゥラーン人の記述がありました。実在した民族だったのですね。昭和53年に発行された「シルクロード百科」という本です。シルクロードと言ってもイラン、イラクあたりの歴史や風俗がメインに書かれた本です。

この本によると11世紀のササン朝ホスロー1世の時代に編纂された「シャーナメー」(シャーは王、ナメーは書を意味する)というペルシアの「古事記」とでも言うべき民族叙事詩に登場しているそうです。このなかで遊牧民は「トゥラーン」と呼ばれ、定住する人「イラン」と数々の戦闘をしたというエピソードが記されているということです。

そして、その末裔は現在のペルシア語で「クゥーチ」と呼ばれているそうです。ベルベル族やバクティアリ族、シャーサヴァン族など多くの遊牧民の総称です。今は女が食事とテント張りを、男は女と子供を守ることを掟とし、男女平等な社会であるようです。しかし昔話の時代には、女たちが男たちを牛耳っていたことを示す表現が残っているそうです。これを参考に考えると、アルスラーン世界のトゥラーンが16万もの遠征をしたのも、実は陰に王より強大な権力を持つ影の女性の影響があったりして。でもそうすると今まで考えていた世界観がひっくり返ってしまいそう。こじつけるのは無理すぎるだろうなあ…。

それとトゥラーンの産業として今まで忘れていたものが一つ。それはペルシア絨毯です。もともとは遊牧民の移動式住居の折りたたみ式の床が原点で、現在に至るまで遊牧民の有力な収入源でもあります。高価なものというイメージから、アルスラーン世界ではパルスあたりの産業かと思っていたのですが、言われてみればそうかと納得してしまいました。考えてみれば遊牧民が絨毯を織るほうが自然ですよね。材料になる羊毛は飼っている羊からいくらでも採れるし、必要性からいっても当然ですし、定住を目的とする建物では床がなくて地面が剥き出しなんてことはないでしょうから。すると女と子供と老人だけの集団になっても、細々となら食べていけるような気がしてきた…。

ううむ、しかしこれだけでは16万もの遠征での採算性が説明できない。

board1 - No.1485

アルスラーン世界についてレスなど

投稿者:はむぞう
1999年07月08日(木) 08時12分

> アルスラーンが王族であることを多少差し引く必要があるでしょうが、これらからの記述から、パルス国では小麦と羊肉が主食である可能性が高いように思われます。日本の戦国時代をある程度参考にしたにもかかわらず、米はほとんど出てきません(T_T)。また、やたらと葡萄酒がでてくることから、葡萄の生産もさかんだったのではないでしょうか。

>あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に”乾”とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。

>ところで、私は昔トルコを旅行したことがあるのですが、その経験からみると、アルスラーンに出てくる食事はトルコ料理そのものであると思います(キョフテなんてそのものの料理名も出てくるし)。葡萄を多用するのもトルコ料理の特徴のひとつですね(葉っぱまで香りづけに使うくらい)。トルコとイランは隣国ということで、同じような食文化なのでしょうか。
 とりあえずパルスとイランが非常に似通った環境にあるとして、イラン料理ってどのようなものなのでしょうね。

この小麦と羊肉が主食というのは、ほぼ正しいようです。前述の書き込みで書いた本のなかに、イラン・イラクを中心とするシルクロード周辺の国々の伝統的な食事についても記述がありました。

まず主食はナンです。小麦粉(日本の感覚では強力粉)と水と塩少々を混ぜ、耳たぶくらいの硬さにし、1cmくらいの厚さにのばしたあと、穴を掘っただけのようなかまどの壁に貼り付けて焼いたものです。現地の人たちはこれを食べないと、どんなご馳走がでても納得しないとまで言われているそうです。

次に羊肉のスープ。羊肉とナスや玉ねぎなどの野菜を煮込み、ヨーグルトをかけて仕上げたもの。

そしてシシカバブ。羊肉を適当な大きさに切り、串に刺して塩を擦り込んだあと、羊の脂で焼いたもの。通常日本で手に入る味付ラムなどとは、桁外れの強烈な臭いらしく、筆者は我慢大会ものだったと書いていました。

パラオという米料理もありました。これがヨーロッパに伝わってピラフになったと言われる料理で、米の種類が違うことと肉が羊であること以外はピラフとそっくりらしいです。ナンに次いでよく見かける食べ物らしいです。

このほか油で焼いたナスにヨーグルトをかけたものや、ヨーグルトを水で割った飲み物があるようです。遊牧民が多いから乳製品が多く使われていたのではと感じました。それにオレンジやメロンなどの果物も豊富にあるそうです。乾燥した土地でとれる(それしかとれないともいう)果物ばかりだから、はっきりした気候区分はわからないけど乾燥ぎみの気候のようです。イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。

> 私が考えたのは替え馬の数自体を減らす方法です。以前はむぞうさんの投稿No.1184でおっしゃっていた装蹄技術で少しは減らせないかとも考えたのですけど、これでどのくらい減らせるでしょうか? せめて20万前後くらいまで減らせれば何とかなるのでしょうけど。

ううむ、装蹄技術で実際に何頭まで減らせるかは私にもわかりません。モンゴル軍はこの技術がなかったために1人6頭もの馬を連れていたというけど、蹄以外にも足の骨や腱や腰を痛める馬も多い上に、替え馬には非常食や万一の際の武器や防具の補修材としての意味もあったというから「0」にはならないでしょうね。おそらく半分の3頭くらいかとも思ったのですが、5巻のP129で「替え馬をふくめ10頭、それに4頭立ての馬車を用意せよ」というアンドラゴラスのせりふがあり、馬車にアンドラゴラスとタハミーネと部下が1人そして残りの5人が馬に乗ったとあるので、ここから想像すると1人2頭になるかと思われます。これは小人数だったからで、集団になると2人につき3頭でよいというように考えれば24万頭で足ります。これくらいなら大丈夫かなと、私は思うのですが。しかし20万なら4人で5頭という感じでしょうか。そこまで減らすと足りるかどうか、心もとないのではと思います。でもあとは略奪で補うとすればやれそうな気もします。

>騎馬兵(初期の段階は兵が直接乗馬するのではなく、戦車を付けて兵がそれに乗る馬戦車)の登場はいままでの戦争を一変させ、広大な国土の占有も可能になり、それが世界帝国を築く原動力になりました。

これは脱線してしまう話ですが、乗馬が先か戦車が先かについては、まだ定説はないようです。少し前までは戦車が先というのが有力だったらしいのですが、今は乗馬が先という方も盛んなようです。理由としては実用に耐える耐久性と性能をもつ車軸をつくる技術の発明にかかわるようです。またスキタイ人の騎兵に脅かされたギリシア人が、彼らをモデルにケンタウロスという怪物を神話に登場させたともいわれていることからです。でも戦車の絶大な戦略的価値は間違いないようです。揚げ足を取るような余談ですいません。

>常設軍といえば長期にわたって訓練し何も産まない金くい虫とばかり思っていましたが、実は、すでに良質に訓練済みの傭兵奴隷を必要に応じて”売り買い”すれば済むだけなんですよね(それには金が必要なわけですが、遊牧国家では構造的に金は潤沢なのでこのやり方は適当といえる)。逆にいえば奴隷っていうのがまさに必要に応じて売り買いされるモノだったということでしょう。また、遊牧に対してなんだか遅れているような感覚を持っていて、支配者になっていても尚、遊牧し続けるというのはなんだか滑稽だなぁという気持ちを持っていました。したがって、彼らが、実は誇り高く優れた戦闘集団であり、平時でも遊牧に従事していればよかったという考えにはまったく及びませんでした。パルス人が「歩くよりも早く乗馬をおぼえる」というのもなるほど、という感じです。支配者層の同朋が遊牧兼、メッセンジャー兼、警察、偵察、戦士の役割を担ってくれれば、国家の運用は効率的でしょう。

これはまさに目から鱗のような気がしました。なるほどと思う点もおおかったのですが、でも定住していて遊牧だと少々苦しい点もないでしょうか? 草を食べ尽くさないように移動していくのが遊牧であるし、ゾット族が遊牧民だという記述もあることから(あえて遊牧民と書いている)パルスの自由民の一部が遊牧していたと考える方が、自然ではないでしょうか? パルス人の自由民全部が遊牧民なら、ゾット族が云々という書き方はないのではと思うのですが。また定住しての牧畜となると中世ヨーロッパの方法に近くなるのではと思うのですがいかがでしょうか。周囲の野山の草がなくなると繁殖用以外の家畜を大量屠殺して燻製やソーセージなどを作り、また草が生える頃に数を増やすようにするというものです。パルスならそのときに必要な香辛料も、ヨーロッパよりは簡単に手に入るでしょうし。

高校時代の教科書を開いて気づいたのですが、ササン朝ペルシアというのはイラン南部の農耕民族が、イラン北東部からきた騎馬民族が建てた国家であるパルティアを滅ぼして建てた国だったんですね。国土はどちらもほぼ同じですが、パルティアのほうの当時の地図をみると「エクバターナ」や「アトロパテネ」などの地名が登場していました。でも各国の配置をみると、その時代より元の時代のほうがしっくりいくように見えます。パルスがイル汗国、トゥラーンがキプチャク汗国、チャガタイ汗国がチュルク、デリー=スルタン朝のインドがシンドゥラ、ビザンティン帝国がマルヤム、マムルーク朝がミスルです。インドとの国境がインダス川でカーヴェリー河とも一致すると思います。まあ架空の世界を現実の世界に当てはめようとするには無理があるのは承知してますし、だから何だといわれればそれまでですが…。

board1 - No.1486

いわれると思っていたんですよね(笑)

投稿者:satoko
1999年07月08日(木) 08時19分

>No.1470
1455があったので、こういう感じで返されるだろうと思ってました(笑)で、突っ込まれると嫌な(というか、私もそう思わないでもない)のでヤンのあの発言はかかないでおいたのですが・・・。

あまり自分自身完全に納得いく考えではないのですがとりあえず。

ヤンが主張したかったのは、「専制君主の責任・・・。」の後に続けた「つまり、どんな悪政になろうとも自分の責任を言い逃れする事ができない、そこが民主政治の一番大事な所で・・・(正確じゃないけどこんな感じの事でした)。」という事なのだろうと思います。

で、創竜伝での終や始の発言はそのことを否定しているわけではなく、「みんなの責任」という発言の使い方が間違っている、もしくは悪用されているという事を言ってるのではないでしょうか。

民主政治では確かにみんなに責任がある、だがそれを自分の責任を言い逃れするための道具として用いる事は許されるものではない。だから、そういう言い方をしたその政治家個人(官僚全体でもいいけど)に向けられたもので、終や始(ひいては田中氏)が「民主政治はみんなに責任がある。」という事を否定しているわけではないと考えます。

つまり、民主主義ににたいする考え方や、ラインハルトの独裁政治云々という話とはまったく別次元の話のようにも思うのですが。

あんまり強く主張できるものではないのですが、こうとも取れるかなと思ったもので

board1 - No.1487

みんなに責任がある=無責任!?

投稿者:Merkatz
1999年07月08日(木) 09時03分

ここでいう「責任」には2種類の意味があるのではないでしょうか。
すなわち、「直接的」責任と「間接的」責任です。

例えば政治家が不正を働いた場合、彼の責任とは彼自身が不正を働いたという直接的な行為に関する責任です。したがって刑事罰等を受けるのは彼自身です。
しかしその彼を選んだのは民衆であるから、民衆にも責任があるといいますね。ここでいう責任とは、直接不正を働いたことに対してではなく、そのような人物を選んだことに対するもの、つまり間接的な責任です。

したがって「民衆にも責任がある」というとき、それは行為の直接責任を指すのではなく、その行為が為された遠因となったことを指していっているのではないでしょうか。

ではここでもう一度竜堂兄弟の言を見てみますと、

終『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」というのと同じだもんな。これ以上の無責任はないよな。』
続『終君、どうしたんですか、えらく的確な発言ですよ、それは。』
始『まったく終のいうとおりで、「みんなに責任がある」というのは、責任の所在をごまかすために最高責任者が使う詭弁なんだ。(後略)』

なぜこれが詭弁なのか。それは直接的責任と間接的責任を混同しているからではないでしょうか。為政者が処断されるのは、彼が不正や背信を働いたからです。つまり直接その行為を為したことを非難されている。
しかしそれを「みんなに責任がある」というのは、まさに責任の混同です。何故なら、非難されるべき不正行為を働いたのは民衆ではなく、その為政者本人だからです。あくまで問題なのは直接行為を働いたものの責任、つまり直接的責任であります。
民衆の責任も免れ得ませんが、それは行為を為したことではなく、そのような人物を選んだことに対する責任、間接的責任です。明らかにこれら二種類の責任は同一線上に並べるべきものではありません。

それを強引に同一線上に並べ、自己の直接責任をうやむやにするからこそ、これが「詭弁」と称される所以でしょう。

さて次はヤンの言葉を見てみましょう。

「専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきるのです」

何故ヤンはこのような言い方をしたのか。ここでヤンが意識している「民衆の責任」とは実に間接的責任ではないでしょか。
不正を働いた者の直接責任という点において、実は専制でも民主制でも同じです。しかし問題はそこから先です。その遠因としての間接的責任を民衆が感じることができるか否か。
ここにおいて専制は「他人のせいにでき」ますが、民主制はそうではないことが分かります。これこそが肝心なところではないでしょうか。

つまり民主制のもとでは民衆は間接的責任を意識させられますから、必然的に政治に関心を持ちます。為政者の不正も糾弾します。
しかし専制のもとではそれがありません。為政者がどんなに不正を働こうとも民衆には間接的責任すらない、つまり無責任な状態ですから、まったく気にする必要はない。民衆にとってはどこまでも「悪政は他人のせい」なのです。

「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することのできない状態を、政治の腐敗というんだ」

民主制においては、民衆は間接的責任により政治家の腐敗を批判する状態を維持することができますが、専制においてはそもそも批判する状態が発生することすらありません。
だからヤンは言うのです。

「最良の専制政治より最悪の民主政治の方がマシ」

だと。

民主制の優れた点とは、実に民衆に間接的責任を負わすことにより、政治意識を高めるところにあるのではないでしょうか。そしてヤンはそれを分かっていたからこそ、あんなにも必死に戦ったのではないでしょうか。

board1 - No.1488

それでは更に問題提起

投稿者:本ページ管理人
1999年07月08日(木) 16時50分

 田中思想の矛盾撞着、というよりかは、キャラクターのセリフを使った言葉遊びといった感の趣向だったのですが、なかなか面白い提案になったようです。
 そもそも、銀英伝自体、田中氏の民主主義の存在意義に対する思考実験でもあったので、この件について考えてみるのも面白いかも知れません。

>民主政治では確かにみんなに責任がある、だがそれを自分の責任を言い逃れするための道具として用いる事は許されるものではない。

>したがって「民衆にも責任がある」というとき、それは行為の直接責任を指すのではなく、その行為が為された遠因となったことを指していっているのではないでしょうか。

 たとえば、天下り先から接待を受けた類の明白な背任行為に関しては直接的責任と間接的責任の違いはわかりやすいでしょう。不正が不正として明白だからです。
 では、バブルのように「結果として間違った政策」を取ってしまった責任に関してはどうでしょう?
 例として、第二次大戦中ユダヤ人を殺戮した「結果として間違った政策」は、誰の責任でしょう? ヒトラー個人の責任でしょうか。ワイマール憲法下できわめて民主的に彼を選んだ国民は「選んでしまった責任」だけでしょうか? だとしたら、民主制とは構造的にファシズムの温床ではないでしょうか。
 小林よしのりが激怒する「私たちは軍部(オウム)にだまされていたんだ!」もこれと同質で、結果として「民主制は人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきる」事になってしまうことになります。

>民主制の優れた点とは、実に民衆に間接的責任を負わすことにより、政治意識を高めるところにあるのではないでしょうか

 さらに責任には法的責任と道義的責任に分けられると思います。議会制民主主義の場合、民衆に法的責任を負わすことは事実上不可能です。となると、このMerkatzさんの言う「責任」は道義的責任と言うことになります。
 この道義的責任は社会を構成する上で不可欠ですが(ex.人を殺すな、物を盗るな)、制度として見た場合、非常に脆弱な物です。よく言われるとおり、「ゴメン(道義的責任)で済んだら警察(法的責任)はいらない」のであって、強制力を有する法的責任が必要です。
 道義的責任に依拠した民主制はきわめて脆弱で危なっかしい制度とはいえないでしょうか?

 ちなみに皇帝には道義的責任も法的責任もないと言われそうですが、道義的責任で言えば結構な責任はあると思います(「朕たらふく食う汝ら臣民飢えて死ね」とはたぶん言えないですよ。いくら絶対君主制でも)。法的責任においても、文字通りの法的責任はないかもしれませんが、政治力学的な意味での法的責任は厳然としてあると思います(歴史を見れば滅んだ帝国の皇帝の末路がよく物語っている)。ただ、世界にただ一つの国家しかないという状況はきわめて特異なので、その状況下ではちょっと興味深い物がありますけど。

board1 - No.1489

商業国家パルス王国と、まとめレス

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月08日(木) 17時30分

<パルスのアトロパテネ会戦にいたる数年間の戦乱期では運用兵数を見てもほとんど総力戦(民主国家でないのでほんとの総力戦とは言えませんが)ですよね。それを同時に、しかも複数の敵対国を向こうにまわして数回繰り返していては、大いにその国力を剃いだことでしょう。しかし、あの数年で常に勝利していることはほとんど奇跡のようです。さすが、ナルサスさま~~ってとこですか。>

 これは純粋に兵力と国力が相手国よりも上だった事、そして地の利があった事が勝利につながったのでしょう。アンドラゴラス三世は無能ではなかったという事です。
 また、アトロパテネの会戦まででナルサスが活躍していたのは、パルス歴315年の三カ国同盟軍を撃退した時だけですから、別にナルサスの活躍で常に勝利したのではないんですね。
 余談ですが、上記の三カ国同盟軍侵攻の年はパルス歴315年、物語が始まるのはパルス歴320年で「5年前」の設定のはずなのに、そうなっているのは1巻と2巻だけで、3巻以降は「3、4年前」という設定になってしまっています。ここは単なる誤記でしょうけど、かつては結構悩んだものです。

<遊牧国家の支配構造を考慮にいれますと、上記のようなパルスにおける国家運用に対する冒険風ライダーさんの考察は、実に理にかなっているように思われます。おそらく、そのとおりなのかもしれません。ただ、都市規模と総人口については引き続き調べて見ます。>

 地方都市10万の設定をさらに補強するための追加裏設定をまた考えてみました(^_^)。
 パルス国には奴隷がいますよね。この奴隷の数はどのくらいだったのかという問題がありますが、私はだいたい全パルス人口の25%ほどではなかったかと考えています。というのも、奴隷を持つ事ができる人はある程度の金持ちだけですし、あまりにも奴隷が多いと非生産的になってしまいます。奴隷貿易による補充もできるのですし、奴隷の使いつぶしというのもあったでしょうしね。
 この奴隷の数を計算してみると
20000000 × 0.25 = 5000000
これをエクバターナに40万、ギランに15万、そして地方都市ひとつにつき4万1500、残りをパルス軍歩兵隊に配備するという解釈はどうでしょうか。ギリシアのアテネでは市民15万に対して奴隷が10万であったという話を聞いた事がありますし、地方都市には諸侯と貴族と商人が住んでいるという設定にすれば、それだけの奴隷がいるという設定も不自然ではありません。裕福な商人も奴隷を持っているでしょうしね。ギランの商人シャガードも奴隷を持ってたし。
 パルスでは国王自らが「大陸公路の守護者」と名乗るほどですから、商人の地位もかなり高かったのではないかと考えられます。金の単位が「金貨(デーナール)」「銀貨(ドラフム)」「銅貨(ミスカール)」と設定されているくらいですし、商業活動がさかんだったのもうなづけます。私はパルス国を「商業国家」と考えていたくらいですしね。

<これに関しては、アーリア系の流れを汲むペルシア人がもとになっているパルス人自身が遊牧に従事していたとするなら、多分、馬の輸入はしないでしょうし、調教もトゥラーン人よりよっぽど上手だった可能性が高いです。おそらく馬の輸入はなかったのではないでしょうか。>

 これは失敗かな~(T_T)。エクバターナでトゥラーンの隊商が馬を商品にしているという記述があるから「ひょっとして」と思ったのですけど、これではダメですね。あと考えられるの裏設定は「トゥラーンの馬は体格がよい」というのがありますが、これも難しいでしょう。
 エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。

<あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に"乾"とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。>
<このほか油で焼いたナスにヨーグルトをかけたものや、ヨーグルトを水で割った飲み物があるようです。遊牧民が多いから乳製品が多く使われていたのではと感じました。それにオレンジやメロンなどの果物も豊富にあるそうです。乾燥した土地でとれる(それしかとれないともいう)果物ばかりだから、はっきりした気候区分はわからないけど乾燥ぎみの気候のようです。イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。>

 葡萄酒の主要な輸入先としてはマルヤムでしょうけど、葡萄は輸入以外にパルス国内で生産されているのもあるでしょうね。パルスの村にさえ葡萄酒があるくらいですし。生産地はマルヤムに近いパルス北西部~北部地域でしょうか。このあたりが気候的・地理的にも妥当だと思うのですが。

<この本によると11世紀のササン朝ホスロー1世の時代に編纂された「シャーナメー」(シャーは王、ナメーは書を意味する)というペルシアの「古事記」とでも言うべき民族叙事詩に登場しているそうです。このなかで遊牧民は「トゥラーン」と呼ばれ、定住する人「イラン」と数々の戦闘をしたというエピソードが記されているということです。>

 「王書(シャーナーメ)」はアルスラーン戦記の参考文献のひとつに数えられています。
 それにしてもトゥラーンって本当に実在していたのか……。私はササン朝に滅ぼされた「エフタル」という民族の事かと思っていましたが。
 ところでササン朝は651年に滅んでいますので「11世紀」というのは間違いです。

<それとトゥラーンの産業として今まで忘れていたものが一つ。それはペルシア絨毯です。もともとは遊牧民の移動式住居の折りたたみ式の床が原点で、現在に至るまで遊牧民の有力な収入源でもあります。高価なものというイメージから、アルスラーン世界ではパルスあたりの産業かと思っていたのですが、言われてみればそうかと納得してしまいました。考えてみれば遊牧民が絨毯を織るほうが自然ですよね。材料になる羊毛は飼っている羊からいくらでも採れるし、必要性からいっても当然ですし、定住を目的とする建物では床がなくて地面が剥き出しなんてことはないでしょうから。すると女と子供と老人だけの集団になっても、細々となら食べていけるような気がしてきた…。>

 これはトゥラーン人が誇り高い事と、大規模な飢饉が発生して緊急の遠征が必要になったという解釈をすれば何とかなるのではないでしょうか? トゥラーン軍が6巻で壊滅した後、商人に足元を見られて相手の言い値で売らざるを得なくなったから、8巻のヒルメスの誘いに乗ったという解釈もできますしね。強欲な商人ってどこにでもいますから(^^;;)。

<ううむ、装蹄技術で実際に何頭まで減らせるかは私にもわかりません。モンゴル軍はこの技術がなかったために1人6頭もの馬を連れていたというけど、蹄以外にも足の骨や腱や腰を痛める馬も多い上に、替え馬には非常食や万一の際の武器や防具の補修材としての意味もあったというから「0」にはならないでしょうね。おそらく半分の3頭くらいかとも思ったのですが、5巻のP129で「替え馬をふくめ10頭、それに4頭立ての馬車を用意せよ」というアンドラゴラスのせりふがあり、馬車にアンドラゴラスとタハミーネと部下が1人そして残りの5人が馬に乗ったとあるので、ここから想像すると1人2頭になるかと思われます。これは小人数だったからで、集団になると2人につき3頭でよいというように考えれば24万頭で足ります。これくらいなら大丈夫かなと、私は思うのですが。しかし20万なら4人で5頭という感じでしょうか。そこまで減らすと足りるかどうか、心もとないのではと思います。でもあとは略奪で補うとすればやれそうな気もします。>

 非常に無理をいってしまったようですいません。「せめて20万前後くらいまで減らせれば何とかなる」と言った理由は、30万では多すぎると思ったので20万にしたという全く単純かつ適当な理由でありまして(-_-;;)。
 まあ24万頭にまで減らせれば、短期決戦と掠奪で何とかなるかもしれませんし、「風のごとく進撃し、風のごとく去る」というのが完璧に実行できれば採算がとれる利益があげられたかもしれませんね。あんなにずるずると長期戦に引きずり込まれた上に壊滅したのでは話になりませんが。
 あと主食についての詳しい説明、ありがとうございます。

 それにしてもアルスラーン戦記、結構設定考えてあるんだな~。私が屁理屈こねられるのも設定が充実しているからですしね(^^)。

board1 - No.1490

食事の引用について

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月08日(木) 17時32分

<やはり、アルスラーンが王族でエエモン食っているのは考慮するべきだと思います。たとえば、江戸時代の大名の食事を現在再現すると白米のご飯なんかが出てきて「これは伝統的な日本食だなぁ」というものが出来上がるでしょうが、当時の庶民が食べていた主食の実体は雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)なわけで、目に見える食文化にとらわれ過ぎると実体を見誤る事になりかねないと思います。>

 「アルスラーンが王族ゆえにエエモン食えた」という記述は、私が引用した記述の中では
アルスラーン戦記2 P22~P23
アルスラーン戦記6 P38~39
の二つぐらいで、その他の引用はアルスラーンが王族であるということとはあまり関係ないと思います。「アルスラーン戦記1 P73」の食事は「銀貨一枚にもおよびませんな」という記述がありますし、その他の引用は酒場や村での食事や遠征中の食事、兵士や捕虜に対する食事の引用ですので。おまけに田中芳樹の作品の御多分にもれず、主人公アルスラーンは贅沢好きではありませんし。
 それに引用した食事の素材がパルスで収穫されたものである事は間違いないのですから「こういったものがパルス国内で生産されている」という判断材料になりますし、そこから頻繁に出てきている素材を「主食である」と推理することは妥当であると思いますが。
 あと余談ですが、江戸時代の庶民が食べていた主食の実体が雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)というのはかなり眉唾ものではないでしょうか。江戸時代の石高は、農地開発や農業技術の発展で、表面には出てきていませんがかなり伸びているんです(表面に出ている石高は統計の問題か何かで江戸時代初期のままだったようです)。以前主張したように戦国時代で1800万~2000万石ほどの収穫があり、江戸時代の日本の人口が2000万人ほどですから、米は全人口を食べさせられるだけの量があるはずなんですね。それなのに一般庶民が雑穀を主食にしなければならない理由がどこにあるのでしょうか。農民以外の人口は最大でも300万人以下ですから、彼らが全部の米を食べきれるはずがありません。当然余った米は商人を介して一般庶民の方へまわったはずです。飢饉のために備蓄するにしても、1700万石以上の米を備蓄して何になるというのでしょうか。来年はまた同じ量の米が収穫されるのですよ? よほどの飢饉でもないかぎり。
 雑穀を食べていたのも全くウソではないでしょうが、「雑穀が主食」というのは「江戸時代=暗黒時代」というデマゴギーのもっともたるものだと思います。

<パルスのモデルの一つは間違いなくササン朝のペルシアでしょうが、十字軍(どうみても)の時代もモデルですし、わたしはどちらかというと中世のほうが妥当だと思うのですが。>

 あの比較で強調したかったのは「狭い日本の土地でもあれだけの収穫ができるのだから、それより大きい面積を持つパルスならば充分に自給できるだろう」ということだったのですが。
 それと日本の場合、「近世」というのは大体定義できるのですが(だいたい江戸時代ですね)、「中世」というのは具体的にどこら辺の時代を指すのでしょうか? 確か戦国時代(特に初期)も「中世」という解釈があったようなのですが。
 それに大化の改新あたりの時代は、日本の場合どう見ても「古代」に属するのではないでしょうか。私的には「遣唐使の廃止」か「鎌倉幕府の成立」あたりから「中世」に入ったのではないかと思うのですが、それにしても日本の「中世」は範囲があいまいすぎますね。管理人さんは日本のどの時代の、何の政治体制が「中世国家」であると定義しているのでしょうか?

 それにしても管理人さんは結構外国旅行しているのですね。私は日本を出た事は一度もないので、うらやましいものですな~(^^)。
 それから「アルスラーン戦記の食卓」を引用したのは、以前歴史を勉強していた時に「昔の生活を知るためには、その当時の食卓を知る事が最大の近道である」というのがあったので、それをアルスラーン戦記に引用してみたのですよ。結構重要なテーマかと思ったもので。「アルスラーン戦記の設定資料集」でもあれば簡単なのですけど。田中芳樹もくだらんガイドブックよりもこちらの方に力をいれればよいものを。まああの遅筆じゃ無理か(^_^;)。

board1 - No.1491

遊牧民と食生活論

投稿者:本ページ管理人
1999年07月08日(木) 18時28分

 とりあえず、あくまでもモデルであり同一視は出来ないと言う前提の元に、イラン中近東の風土についてわかったことを挙げてみます。

 イランのアーリア系が遊牧民であるという仕立て屋さんの指摘はその通りです。ですが、中近東の遊牧民は主にサウジに展開するベドウィン族を除いてすべて半農半牧であることは注目に値します。

 その農業ですが、今までの議論だと「パルスは、まあ、農業に使える土地もあるけど、ほとんどが砂漠や高山といった農業に適さない土地で…」という消極的意見がほとんどでした。しかし、考古学的に調べてみると、この地域(特にイラン南西部の「豊穣の三日月地帯」と呼ばれる地域。あのチグリス・ユーフラテス流域であり、それ以外の丘陵地もそれなりの降水量があります)の農耕は世界のすべての他の地域に先駆けるものであったようです。また、植相の面ではエメル小麦、アインコルン小麦、六条小麦、二条小麦が野生していた(原産)ところだと言われ、ムフロン羊や山羊が野生で生息していたと言われています。つまり、小麦栽培に関しては発祥の地であり、小麦を粉化する技術が生まれパン食が誕生したのもメソポタミアでした。この地域では降雨や降雪が多いのが冬期なので、冬作作物である麦は農作にも適していたようです。また、この農作と同時に山羊や羊の家畜化が始まりました。ともあれ、この技術が伝播したものが、後の地中海農耕文化と言うことのようです。
 さて、この限られた豊穣な農耕地を取り損ねたものが遊牧民化したところから、半農半牧の文化が誕生しました。小麦栽培はもともと牧畜を伴って発展したと言われています。代表的な半農半牧文化を持つイラン東部のチャハールアイマク族の場合、家畜を畑耕に使い、脱穀は穂の上を家畜に歩かせ、麦刈り後の畑は放牧地へ使い、そこでの家畜の糞が肥料になるという、農耕と牧畜が見事に絡み合い回転する文化を持っていますが、これはそれが現存している姿と言えそうです。

 このように、イランでは小麦栽培と遊牧を両立させる半農半牧生活がメインであり、それがどちらに重きを為すかによって農耕民と呼ばれたり遊牧民と呼ばれたりしてきたということが、社会構造の大前提になります(私が大雑把なんじゃないですよ(^_^;)ホントにこうなんですって)。

 余談ですが、この半農半牧説の論拠はイランの遊牧の家畜が牛、羊、山羊といった、農耕可能な土地でなければ飼えないものであることが挙げられます。大げさに言えばこれらの家畜は三日草や水を欠かすと乳も出さず、荒涼とした土地では遊牧が出来ないわけです。一方、遊牧専門のベドウィン族のテリトリーは砂漠であり、家畜はラクダです。ラクダはしばらく水や草の不足する土地でも安定した乳量が期待でき、むしろ伝染病の心配がいらない分だけ乾燥した砂漠が適しているのです(ちなみに現在は遊牧禁止政策や農業の近代化によってベドウィンも半農半牧化しているということです)。

>米

 中東では「料理の王様」とよばれ、大変なご馳走なようです(あまりとれないのでしょうから)。基本的にはハレの日の食べ物ですね。その為かかなり調理にはこだわりがあり、日本のような炊き干し法とタイのような湯取り法といった二種類の炊き方があります。もっとも、スープで炊くピラフが基本です。余談ですが、クウェートなどでは近年米食が盛んになる傾向があるらしいですね。日本でパン食が増えているのと全く逆のあこがれといったところでしょうか。

>肉
 ケバブやシチュー、カレーのように、我々日本人からすると肉食のイメージがあります。しかし、これは現在の考えであって、食糧事情が発達していなかった当時、肉と乳製品のどちらを主食にしていたかと言えば、とうぜん後者になります。効率の問題です。遊牧民にとっては家畜は命綱であり、一定数が確保できるまでは家畜を手放すことはありません。彼らが肉食をするということはやはりご馳走という意味でハレの日の食事であるか、逆にせっぱ詰まった非常食であることになります。
 これは、中近東に限ったことではなく、ヨーロッパでも新大陸が発見されてアメリカ・オーストラリアでの大規模牧畜が誕生するまで現在のような肉食様式はありませんでした。

 というわけで、もしパルスでコメ・肉が贅沢品でないのであれば、パルスとイランの間には何かしらの差違があるものと考えられますね。

WEBRANKING テキストサイト部門 サイトランキング 文学・小説・童話部門 mixiチェック

このエントリーをはてなブックマークに追加