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投稿ログ84 (No.1509 - No.1516)

board1 - No.1509

わっはっは、お返事うれしいぜ

投稿者:ココ
1999年07月12日(月) 00時41分

>書き込みやな。いきなり罵倒してくる貴公の方が余程ケツの穴が狭い気がするがの。

 わはは、貴公だって! 「銀英」チック~。罵倒してるのはお互いさまさ。これからも仲良く罵倒していこう。田中でも石井でもココでもさ。
>「田中芳樹の左翼的思考」は嫌いだな。アンタもそういう事を書きたいのなら、自分の志向くらい書いたらどうだい?

 おいおい、思想調査? 別にどうだっていいじゃん。
 ただ、はっきり言えることは「お前らが嫌い」ってことだ。

board1 - No.1510

みんなもおこるよそりゃあんた

投稿者:satoko
1999年07月12日(月) 01時31分

管理人さん、ココさん
いいかげんにしてください!ここでもそもそもの目的は「田中作品、または田中氏の思想について」議論することでしょう?

管理人さん
今まで私を含めた田中ファンがあなたに対する個人的な批判をしなかったのは、この掲示板がそういう趣旨のものだと判断しているからです。ほかに投稿なさってる方もそうではないのですか?

アンチが来てくれてうれしいのはかまいませんが、ほかの人から見れば二人がお互いのことでやりあってるのははっきりいって邪魔です。

ココさん
あなた、ライターでしょ?この場の趣旨がどういうものか読めないのでしょうか?
また、管理人さんも指摘してますけど文章の意味を取り違えるものいいかげんにしてください。もちろんあなたがどこかのありもしない芸能ネタで騒ぎを大きくするのが楽しい程度の三流ライターなら仕方ないかもしれませんが、普通ライターの方って言うのは取材したことからそこにある事実を見ぬくのが仕事なのでは?あなたのは単なる不平を不愉快な言葉で書き換えてるのみ。おもしろくもなんともないです。

そもそもココさんは荒らしてやるつもりでいらしてるんでしょうが、管理人さんはそういうものを防ぐ立場にあるのでは?少なくともこんなやり取りがつづくのであればここにくる意味なんてありません。田中ファンがココを訪れても所詮この程度かとあきれることでしょう。

お二人の争い(ほかの人にも余計なこと言ってるみたいですが)、田中氏のものと関係ないことで争われるのであればメールか何かで続けてください。はっきり言って目障りです。

失礼します。

board1 - No.1511

パルス、馬などまとめレス(ちょっと長いぞ~)

投稿者:仕立て屋
1999年07月12日(月) 08時13分

 毎度、仕立て屋です

<パルスのモデルの一つは間違いなくササン朝のペルシアでしょうが、十字軍(どうみても)の時代もモデルですし、わたしはどちらかというと中世のほうが妥当だと思うのですが。>
================以上、管理人さん=================

十字軍の時代になると、ペルシアは完全にイスラム化してますし、戦略的には十字軍は、キリスト教圏にとって(イスラム教圏にとっても同じなんだけど)最大の聖地をオスマン・トルコなど異教のイスラム勢力から解放しよう、というものですよね。イアルダボートの光で異教の地を照らす、というルシタニアの建前とは戦略目標の点で微妙にずれると思います。ところで、作中ではパルスの友邦国マルヤムはルシタニア同様、イアルダボート神を崇める国です。ルシタニアはその協会会議にてルシタニアの西方教会に対してマルヤムの東方教会が異端であると決議し、これを併呑しました。史実においては、エフェソス公会議におけるコンスタンチノープル主教ネストリウス異端断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が自称東方教会と名のりビザンティン教会から離脱、ローマ帝国の弾圧を逃れ、ペルシャ領ニシビスをネストリウス派教会の拠点とし、その後、ササン朝ペーローズ王からペルシアにおける支配的キリスト教派として公式に認可される、という出来事があったそうですが、この史実をヒントにしますと、マルヤムという独立国とペルシア領内北西部の1キリスト教派拠点という違いはありますが、この教派の拠点をシリアあたりの国とし、ペルシアがそれを保護するという形にすれば、立地的に地中海に面している点もちょうどマルヤムと共通しますし、これに十字軍の伝承を加味すれば、ちょうど作中イメージになると思います。どうでしょうか。

<イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。>
=================以上、はむぞうさん===================

 たしかに、そうみたいですね。甘かったわい。二つの山脈沿いには地中海性の気候が分布してますので各オアシスで果物もよく作られたらしいです。それでも、貴重な耕地ですからこうした嗜好品は高価な食物だったのかもね。

<高校時代の教科書を開いて気づいたのですが、ササン朝ペルシアというのはイラン南部の農耕民族が、イラン北東部からきた騎馬民族が建てた国家であるパルティアを滅ぼして建てた国だったんですね。国土はどちらもほぼ同じですが、パルティアのほうの当時の地図をみると「エクバターナ」や「アトロパテネ」などの地名が登場していました>
==================以上、はむぞうさん===================

 浅はかでした。良く調べたら、イラン高原を南下していた西イラン族ペルシア人も前7世紀過ぎにはファールス地方で徐々に定着農耕に移行していったらしいです。この際、一時エラム人の支配下に入ったらしいので、想像ですが、おそらく、かの地で農耕を営んでいたエラム人を駆逐して農耕生活に移ったのではないでしょうか。騎馬遊牧民族はおしなべて、農耕民族との出会いにより定着化する傾向があるようですから。その際でも、当然、兵器としての馬という認識は維持されるでしょうから、定着初期の段階では、管理人さんがおっしゃるように半農半牧畜の形で軍馬も飼育されたのだと思われます。その後徐々に身分制度と国家としての体裁が確立していくにしたがってそれ専門に直轄の軍馬飼育部門などが各ステップにて組織されていったのではないでしょうか。また同時に農耕で得られる穀物飼料により大型の品種(体高145cmくらい)も創出されていったのでしょう。騎馬は軍人のステイタスですから、軍人はもちろんのこと、パルス人一般にもより良き馬の所有と騎馬技術の研鑚は、一種文化的嗜みとしてひろく行き渡ったと想像されます。それがパルス騎兵の精強さを形作ったと思われます。
 ただ、それでも腑に落ちない点がいくつかあります。まず一つ、もはや純粋な騎馬遊牧民ではないのですから、パルス人一般に対する形容「歩くよりも早く乗馬をおぼえる」って、まるでモンゴル遊牧民などに対する形容を使うのは不自然な気がするという点。これを、騎馬遊牧民だった頃からの伝統的形容と見れば、まあ、許せる範囲ですが。また、パルスを農耕基盤の国家とした場合、その軍構成(大雑把に、貴族1万人、自由民10万人の騎馬兵と、自由民4万人、奴隷26万人の歩兵)はどう見ても遊牧国家のそれです。たとえば、ササン朝の文化、制度的継承元であるアケメネス朝の場合はペルシア貴族1千人、不死隊と呼ばれるペルシア人1万人が常時動かせる国軍の主力(親衛隊みたいなの?)で、その他に各方面の分遣隊と約20州からの召集軍で構成され、その内訳は主にペルシア人、メディア人など西イラン族からなる騎兵隊2万、各州の従属臣民臨時召集軍を含む歩兵及びフェニキア人、エジプト人などからなる海軍あわせて30万人というものです。騎兵の割合は全軍の1~2割であって、やはり主力は歩兵となります。ギリシアの重装歩兵に痛い目にあってるペルシア人ならなおさら歩兵の重要性は認識していたはずです(それでも軽装歩兵しか組織しませんでしたが、マイナス面を帳消しにするだけの圧倒的な兵力を持っていました)。ところで、作中ではパルス軍は奴隷を除いては、ほぼパルス人によって構成されているように見うけられます。以前、冒険風ライダーさんによる上記パルス軍、騎兵12万5千と歩兵30万が常設軍だとの見解に対して私はその騎馬の多さを農耕兵も含まれる、とすることで説明しようと試みたことがありましたが、よくよく調べて見ると冒険風ライダーさんの常設軍とする見解が正しいような気がしてきました。というのも、まず、西アジアでは馬を農耕には普通利用しないという点が一つ。また、軍馬は戦場の環境(大きな騒音や鬨の声、血の臭い)に慣れている必要がありますし、第一、重装備の騎兵を乗せて俊敏に動けなければ役に立ちません。それには、組織的に訓練される必要がありますから、それには直轄の軍馬繁殖地などで生産されるべきではないでしょうか。同時に職業は分化してるでしょうから騎士はもちろんのこと、自由民歩兵も職業軍人の可能性が高いです。以上の点から騎兵12万5千人、歩兵3万人は職業軍人であると予想されます。さらに冒険風ライダーさんがおっしゃったように東方国境8万人、西方国境6万が常駐しているということでこれらを王直属の地方分遣隊(もし、これら国境防備隊が王直属でなく、地方領主による防備砦とするならば、かなり信用の置ける譜代の臣を配置する必要がありますが、他に分遣隊と思われる記述が見落としなければありませんので、ここでは王直属としておきます)と見なすならば、当然、国庫支出の常設軍であり、その軍構成も主力軍と同様でしょうから、内、東西両方面軍で騎兵、歩兵の職業軍人として3万人、2万人が見こまれます。その異常な兵科構成を除いても、パルス王国軍における国王直属の職業軍人の多さ(計、17~18万人)は、なんだか現実離れしているように感じられます。まだ、パルス王国軍に、各属州からの臨時召集歩兵隊が存在するならば、この異様な軍構成は幾分、正常視されるでしょうが、そうなると今度は、王国軍全体の最大動員兵数が下手すると100万人に達するという異常な自体になりかねません。こうしたつじつま合わせにおける不都合を回避する手としてパルス遊牧国家説を唱えてみたのですが、これだと皆さんのご指摘通り作中の封建体制の雰囲気と矛盾してしまいますね。しかし、パルス王国を農耕及び商業国家とみた場合、どうしても初期の命題「騎馬兵の異様な多さと異様な軍構成」に立ちかえらざるを得ないんですよね。こうなったら、いよいよ”そういう設定の作品なの!!”と言うほかないのでしょうか。きっと、田中氏自身、物語にでてくるような英雄的騎馬突撃の有効性を信じて疑わないのでしょうが、MerkatzさんのHPにおける武田騎馬軍は実際には戦う前に下馬してから戦った、という話を考慮しますと、パルス王国軍はかな~り無茶してます。
(一部、わたしの想像からなっていますがご了承をば!)

< パルスでは国王自らが「大陸公路の守護者」と名乗るほどですから、商人の地位もかなり高かったのではないかと考えられます。金の単位が「金貨(デーナール)」「銀貨(ドラフム)」「銅貨(ミスカール)」と設定されているくらいですし、商業活動がさかんだったのもうなづけます。私はパルス国を「商業国家」と考えていたくらいですしね。>
================以上、冒険風ライダーさん==============

 これは、そのとおりだと思います。重要なオアシス拠点を押さえたオリエント国家は間違いなく商業でもかなり利益をあげています。
パルス王国軍構成の異常さから遊牧国家説を唱えてみたのですが、ちょっと無理があったようです(^^;

<エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。>
================以上、冒険風ライダーさん===============

 品種改良のための種馬というのは、きっとあったでしょうね。
種馬って重要ですから。

<「王書(シャーナーメ)」はアルスラーン戦記の参考文献のひとつに数えられています。
 それにしてもトゥラーンって本当に実在していたのか……。私はササン朝に滅ぼされた「エフタル」という民族の事かと思っていましたが。>
================以上、冒険風ライダーさん===============

 ちなみに、トゥラーンはモンゴル・トルコ系民族で、チュルクはトルコ系民族、エフタルというのはアーリア系のイラン族という説が有力らしいです(またの名を白いフンと呼ばれたそうです)。

<イランのアーリア系が遊牧民であるという仕立て屋さんの指摘はその通りです。ですが、中近東の遊牧民は主にサウジに展開するベドウィン族を除いてすべて半農半牧であることは注目に値します。

 その農業ですが、今までの議論だと「パルスは、まあ、農業に使える土地もあるけど、ほとんどが砂漠や高山といった農業に適さない土地で…」という消極的意見がほとんどでした。しかし、考古学的に調べてみると、この地域(特にイラン南西部の「豊穣の三日月地帯」と呼ばれる地域。あのチグリス・ユーフラテス流域であり、それ以外の丘陵地もそれなりの降水量があります)の農耕は世界のすべての他の地域に先駆けるものであったようです。また、植相の面ではエメル小麦、アインコルン小麦、六条小麦、二条小麦が野生していた(原産)ところだと言われ、ムフロン羊や山羊が野生で生息していたと言われています。つまり、小麦栽培に関しては発祥の地であり、小麦を粉化する技術が生まれパン食が誕生したのもメソポタミアでした。この地域では降雨や降雪が多いのが冬期なので、冬作作物である麦は農作にも適していたようです。また、この農作と同時に山羊や羊の家畜化が始まりました。ともあれ、この技術が伝播したものが、後の地中海農耕文化と言うことのようです。
 さて、この限られた豊穣な農耕地を取り損ねたものが遊牧民化したところから、半農半牧の文化が誕生しました。小麦栽培はもともと牧畜を伴って発展したと言われています。代表的な半農半牧文化を持つイラン東部のチャハールアイマク族の場合、家畜を畑耕に使い、脱穀は穂の上を家畜に歩かせ、麦刈り後の畑は放牧地へ使い、そこでの家畜の糞が肥料になるという、農耕と牧畜が見事に絡み合い回転する文化を持っていますが、これはそれが現存している姿と言えそうです。

 このように、イランでは小麦栽培と遊牧を両立させる半農半牧生活がメインであり、それがどちらに重きを為すかによって農耕民と呼ばれたり遊牧民と呼ばれたりしてきたということが、社会構造の大前提になります(私が大雑把なんじゃないですよ(^_^;)ホントにこうなんですって)。

 余談ですが、この半農半牧説の論拠はイランの遊牧の家畜が牛、羊、山羊といった、農耕可能な土地でなければ飼えないものであることが挙げられます。大げさに言えばこれらの家畜は三日草や水を欠かすと乳も出さず、荒涼とした土地では遊牧が出来ないわけです。一方、遊牧専門のベドウィン族のテリトリーは砂漠であり、家畜はラクダです。ラクダはしばらく水や草の不足する土地でも安定した乳量が期待でき、むしろ伝染病の心配がいらない分だけ乾燥した砂漠が適しているのです(ちなみに現在は遊牧禁止政策や農業の近代化によってベドウィンも半農半牧化しているということです)。>
================以上、管理人さん===================

ふむふむ、確かにササン朝の滅亡前の地図を見ると、その領土に「豊穣の三日月地帯」は入っとりますね。メソポタミアの1年草のイネ科草原(小麦類)に群れていた群居性有蹄類(群れてくれたほうが生産管理しやすいためか?)を捕獲、家畜化したのが早いのか、それら小麦の原種による農耕が早いのか、はっきりとはわからないがとにかく同時期にメソポタミアで小麦栽培と牧畜が始まったのは確からしいですね。農耕で食っていけるところは牧畜は副業的になりますし、農耕だけで食っていけないところでは牧畜の比重は高くなるでしょう。もともと、群居性有蹄類というくらいだから、群れで移動するわけです。これは遊牧に非常に向いてるわけでして、ステップ、サバンナなどの乾燥した草原は遊牧に大変都合が良いようです。騎馬遊牧が発達した理由の一つに、馬の移動力により少人数でより大規模な群れを管理可能になったことが挙げられます(具体的に羊では/人1人徒歩にて100頭以上、騎馬では人1人で1300頭以上と徒歩の場合の10倍以上の作業効率です)。これにより遊牧のみでも生活可能となり、乾燥帯のステップ草原においては最適化した生活形態といえます。実際、騎馬遊牧民といわれる人たちは(モンゴル人など)はその家畜のメインは羊、山羊で一番多く、、牛は森林ステップなど、より乾燥度の低いところで多くみられ、馬は牛などと大体同数らしいです。
 あと、現在、中近東における遊牧が半農半遊牧(耕作した段階で、厳密には遊牧とは言わないのですが/家畜をともなった農耕かな?)であるということですが、これは、管理人さんがベドウィン族の現状で仰ってるように、政府による定住化政策の推進というのは当てはまりませんでしょうか?中近東においては、歴史的に、時の政府が遊牧民を一種の暴力装置として利用してきた過去があり、一方で遊牧民側も、時の政府が混乱した際には反政府組織として立ち振る舞ってきた過去があるわけで、政府にとって、遊牧民は役立つときもあるが、非常に厄介な存在であることも確かなのです。国家としては、容認できるものではありません。それに、不動産を持たない遊牧の民から税金を徴収することはなかなかままならないものです。これらは、近代国家の論理と真っ向から対立するものです。
 ベドウィン族の場合は、定住化ということで、それぞれに土地が区分けされて与えられるわけですが、その特質である境界線のあいまいさに立脚すべき遊牧が、線引きされた狭い土地で成立するはずがありません。結局、その土地を大地主に売却した現金をもって、都市に流入していったベドウィンの民が大勢いると聞きます。なお、遊牧生活をおくるベドウィンにしろ、武装解除はもちろんのこと、いまでは、政府の補助金なしでは生活もままならないそうです。また、モンゴル遊牧民に関しては、同様に政府による定住化政策が進められているのですが、森林ステップを除いてなかなか定着化は進まないそうです。

 ちょっと、話がずれまして(^^; イランにおける半農半遊牧が、見るものによってコロコロ変わるというのは、なんだか、わかるような気がします。ただ、先に申し上げたように、厳密には農耕する牧畜民は遊牧民とは呼べないと思います。そういう意味で、パルスが純粋な遊牧国家であるとしたわたしの説は、ちょっと暴走気味だったと思っています。
 また、イランの気候については、豊穣の三日月地帯ですら乾燥帯なので、人の手で灌漑しなければ、すぐさま、緑の地は失われてしまいます。逆にいえば、人の手が加わる限り、かの地は非常に豊かな土地になりうるということですね。実際、その時々の為政者によって、人口の増減は激しいようです。イスラム征服以前のペルシアではゾロアスター教が盛んだったため、大地の耕作は推奨されたようです(ササン朝の名の由来ササンはアナーヒターという水と水流の女神の祭司だったくらい、関係ないか、ナハ)。前8世紀くらいにイラン北西部で始められたカレーズ(カナート)の技術がファール地方でも前6世紀くらいから導入され、灌漑利用されたようです。ですから、イスラム征服以前はかなり豊かな国だったらしく、聖書やギリシアの哲学者の著書にもそのような記述があるらしいです。いろいろ、本を探したのですが、なかなかペルシアの総人口に関するデータがなく、唯一、紀元0年あたりのローマ帝国の総人口が7~8000万人ということなので(これも確かかどうか不明、トホホ)、ササン朝ペルシアに2000万人ぐらいいてもおかしくないのかもしれませんね。
 また、これは、冒険風ライダーさん宛てになるかと思いますが、アケメネス朝ペルシアにおいては属州含めて大体20州前後だったらしいです。ササン朝においてはディフカーン(村の領主)とよばれる小貴族を軍人や役人に取りたてられた、とあるので、州の中でさらに細かく行政区画を分ければ問題ないとは思いますが。参考までに。

 それから、以前の冒険風ライダーさんのパルスにおける地形様相<パルス中央部のやや南よりにはニームルーズ山脈があり、この山脈より南は砂漠と岩場と草原が多い>との記述と、アルスラ1巻のパルス王土図を見ると、南海のペルシア湾に面する海岸線が湾の南岸に回りこまず、そのまま左右に切れている様子から考え合わせると、ひょっとしたら、「豊穣の三日月地帯」はその王領に含まれていないかもしれません。とても微妙なラインなんですが、とりあえず、悪足掻いてみました。あと、お米に関して。カスピ海南西沿岸のギーラーン地方では地中海性気候とあいまって、年間降水量1000mmを越え、稲作も行われているそうです。

<これは多分パルス南部になるのではないでしょうか。実際にイラン南部は紀元前からワインと葡萄の産地として有名だったようです。まあイランとパルスが同じ気候だと仮定した場合の話ですが。>
============以上、はむぞうさん=================

 ですね(^^

<バシキール。原産はロシアのウラル地方。体高140cm(これは地面から首の付け根の骨までの高さ)駄馬、輓用、乗馬ならびに肉・乳および衣服の素材供給用として飼育改良された。どんなに過酷な気象条件下でも生活できるという点において世界で最も頑丈な馬である。これはトゥラーンの馬に近いのではと思われます。>
===========以上、はむぞうさん===============

 トゥラーン人はアルタイ山脈から天山山脈北に分布していたモンゴル・トルコ系民族なので、体高120cm~のモウコウマ系の馬では?で、パルス人がどんな馬を欲していたか、考えをめぐらせてみると、一般に、ペルシア人はモンゴル・トルコ系の人たちより体格が大きく、騎兵も重装騎兵であり、ある程度、体高も必要とされたと想像されます(これは秦の騎馬に関する法律からの推測です)。

<苦しまぎれに考えついた裏設定が意外な効果を生むとは……(^_^)。そうなると、新たに考えられる裏設定は
「トゥラーンの馬は頑丈で耐久性があるが、それゆえに高価なものであり、大規模な輸入はなかったがトゥラーンからの貴重な商品として珍重されていた。そのためパルスの騎馬軍団のなかでも、精鋭部隊や指揮官の馬はトゥラーンの馬で構成されていた」
というところでしょうか。そうなると、ダリューンの馬の「黒影号(シャブラング)」はトゥラーンの馬だったのかな?

 ところで馬の問題となると、その前に鎧や甲冑の問題がでてきます。ルシタニアの甲冑はパルスのそれよりも重いという記述がありますし(アルスラーン戦記8 P118)、馬の比較と同時に鎧の比較をする必要があるでしょうね。馬が鎧の重さによって受ける影響などもあるでしょうし、機動部隊になるか打撃部隊になるかの違いもでてきます。パルスやトゥラーンの鎧ってどんなものだったのでしょうね。このあたりは記述が不足なので分かりませんが。
 余談ですが、チュルクでは「山羊の革をかさねて間に鎖を編みこんだ甲」(アルスラーン戦記8 P97)を使っているようです。>
==============以上、冒険風ライダーさん================

 当時、騎馬は騎士独特の優越感、ステイタスの具現化であった
はず。大きく立派な馬が好まれたと思います。主将級の騎士の馬が雄馬(未去勢馬)であることもままあったらしいです(荒荒しく、扱い難くはあるが、警戒心が旺盛など、戦場では役立つこともあり)。これは、わたしの主観ですが、ダリューンのような偉丈夫がトゥラーンの比較的小さい馬に騎乗していたのなら、それはそれで、わらえるかもしれません。
 アルサケス朝パルティア~ササン朝ペルシアにおける重装騎士戦法と鐙、蹄鉄の技術がヨーロッパの重装騎士を生み、また、より重い甲冑がより大きな馬を要求していったという歴史があるのだそうです。

board1 - No.1512

はじめまして

投稿者:ホリー
1999年07月12日(月) 10時48分

つい2,3日前初めてこのサイトを知った銀英ファンです。内容が高度なのに感動し、じっくり皆さんの意見を拝見してから参入させていただこうと思っていたら、えらく下品な人が混ざっていてびっくりしました。
 それではきちんと議論していた皆さんの真剣さはむくわれません。男性、特に学生さんはしばしば自分が一番偉いと勘違いして特定人物を批判してそのくせ自分を批判されると
急にしょぼくれたりしますね。こちらのサイトの皆さんはそんなつまらない人ではないと
信じたいものです。
 田中氏の最近の作品はまったく読んでいないので、氏の思想がいまどのあたりにあるのかわかりません。が、結局のところ小説が小説としての面白さを失ったらまともな読者は去っていくだけのことではないでしょうか?
最近同人界で広がっている中国古典の端緒は
田中作品ではなくゲームの影響大、と私は見ています。
 そういえば10年位前に銀英のことを批判する同人誌がありまして、つくった本人達はファン心理で書いてたようですが、
「未来の話なのになんで帝政が復活するん だ」
という、わけわからんことを言ってました。
今考えてみればこれ、マルクス的進歩史観で
す。これを田中氏本人に送って、どこかの誌上でひどく怒られてましたね。
 右だろうと左だろうとイデオロギーにはま
ってる人の考えはひどく狭量でつまらないものです。そういう枠から外れたところで作品論というのをやりたいです。
 今更、の話でしたらごめんなさい。

board1 - No.1513

マルヤム

投稿者:ドロ改
1999年07月12日(月) 15時27分

>仕立て屋さん

>十字軍の時代になると、ペルシアは完全にイスラム化してますし、戦略的には十字軍は、キリスト教圏にとって(イスラム教圏にとっても同じなんだけど)最大の聖地をオスマン・トルコなど異教のイスラム勢力から解放しよう、というものですよね。イアルダボートの光で異教の地を照らす、というルシタニアの建前とは戦略目標の点で微妙にずれると思います。ところで、作中ではパルスの友邦国マルヤムはルシタニア同様、イアルダボート神を崇める国です。ルシタニアはその協会会議にてルシタニアの西方教会に対してマルヤムの東方教会が異端であると決議し、これを併呑しました。史実においては、エフェソス公会議におけるコンスタンチノープル主教ネストリウス異端断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が自称東方教会と名のりビザンティン教会から離脱、ローマ帝国の弾圧を逃れ、ペルシャ領ニシビスをネストリウス派教会の拠点とし、その後、ササン朝ペーローズ王からペルシアにおける支配的キリスト教派として公式に認可される、という出来事があったそうですが、この史実をヒントにしますと、マルヤムという独立国とペルシア領内北西部の1キリスト教派拠点という違いはありますが、この教派の拠点をシリアあたりの国とし、ペルシアがそれを保護するという形にすれば、立地的に地中海に面している点もちょうどマルヤムと共通しますし、これに十字軍の伝承を加味すれば、ちょうど作中イメージになると思います。どうでしょうか。

私はてっきり、マルヤムはビザンチンだと思っていたのですが。勿論イスラム勢力の圧力を恐れて救援要請を出し、十字軍遠征のきっかけを作ったビザンツとは立場が違いますし、攻略された順番も逆になります。しかし、マルヤム宮廷の描写などを見ていると、ルシタニアとは文化レベルが一桁違う様ですから史実のビザンツがそうしていたのと同じように、ルシタニア(西ヨーロッパ)をバカにしていたとしても全く不自然では無いと思います。十字軍遠征初期であれば、海峡東岸は失っていてもヨーロッパ方面の領土は大部分健在でしたし、地中海貿易の覇権も握っていてマルヤム国に似た状態であったと思われます。(マルヤム国はルシタニア方面から見て大陸の玄関口)大陸航路を扼し陸の貿易を押さえるパルス、内海を含め海の貿易を押さえるマルヤム、結構ぴったりはまると思うのですが。
ただ、当時のカスピ海沿岸は、取れるものが精々穀物どまりの上便利な陸路が完備されているため、押さえるも何もないでしょうが。

board1 - No.1514

自分でHPを作ったらいかが?

投稿者:不沈戦艦
1999年07月12日(月) 15時36分

>どう、気に入った。できればこれもベスト版に加えてくんないかな? ダメ?

 「田中芳樹を撃つ!を撃つ!」か「石井由助を撃つ!」でもご自分でお作りになられたらいかがかな?ベストでも何でも勝手に作って好きに掲載すればよいでしょう。図々しい事夥しいの。はっきり言って鬱陶しいだけなのでこれが最後、以後はアンタの相手はやめるわ。荒らしを相手にしてもしゃあないですしな。

 もちろん、こっちもアンタのような人間が気に入る訳はない。言うまでもない話だがの。

board1 - No.1515

パルス国の庶民の生活水準と主食、そして都市の修正計算

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月12日(月) 17時31分

Infoseekで「田中芳樹」と検索したら、面白いHPサイトを見つけました。
ttp://members.tripod.com/~neko_maru/index.html
いろいろと特集しているのですが、この中の「田中芳樹考」で、田中芳樹作品の特徴や社会評論の影響力についての考察があります。なかなか面白いものでしたので、興味のある方はぜひどうぞ。直接見るならば下のURLです↓
ttp://members.tripod.com/~neko_maru/yosiki.htm

<現代のクウェートになるんですが、普通の日常食の基本形態は、
「パン類(ナン、ホブス)」+「乳製品(ミルク、チーズ、ヨーグルト)」で、ちょっと奮発して(牛丼に卵つける感覚)ケバブを食べるという感じらしいので、庶民食があの通りだとすれば、パルスはかなり生活水準が高いと言うことになりそうです。
 しかしそれよりかは、まず商人が結構金持っていていいもの食べているとは考えられないでしょうか? また、長旅で普段粗食していると考えれば「やっとエクバターナに着いたんだからちょっと奮発したもの食おうぜ」という気分があるのかも知れません。
…ってところでどうでしょうか?>

 パルス全体の庶民の生活水準が見えてくるかは分かりませんが、アルスラーン戦記の記述の中に庶民の生活水準を推測できる記述がいくつかありますので、それらを少し引用してみましょう。

アルスラーン戦記2 P128
<「馬を買うにしても、お金はあるの?」
 現実的なことをアルフリードに問われ、ナルサスはむぞうさに羊皮の袋を少女に手わたした。袋の口をあけたアルフリードが目をみはる。
「馬が百頭くらい買えそうだね。何でこんなに金貨を持ってるのさ」
「なぜといって、もともとおれのものだが」
 アルフリードはしかめつらしい表情をした。
「ふうん、あんた、あんまりまともな生活をしてなかったんだね。見かけはまともそうだけど」
「どうしてそう思う?」
「金貨なんて、まともな人間の手には、はいらないようになっているんだよ。もし自由民が金貨なんて持ってたら、役人がきて拷問するくらいさ。どこかで盗んだに決まってるといってね」>

アルスラーン戦記2 P129
<彼女の、凍りついた視線を追って、ナルサスは見た。一軒の家の戸口に、男がうつ伏している。流血のあとが、男の死を証明した。
 死体のふところから羊皮の袋がはみだし、こぼれおちた銀貨と銅貨が夕日を反射してきらめいている。>

アルスラーン戦記4 P52
<パルス王国の東北部、広大なダルヴァント内海に面したダイラム地方である。
 働き者の漁師や製塩職人たちが、すでにひと仕事をすませた後、屋根と柱だけでつくられた集会所に顔をそろえ、朝のお茶を楽しんでいた。砂糖菓子や乾したイチジクをつまみ、女房が肥ったの、町の酒場にいい女がはいったが情夫がついているの、噂話の花を咲かせる。>

アルスラーン戦記9 P200~P201
<初夏五月。パルスの王都エクバターナは緑陰濃い季節をむかえている。
 陽ざしはかなり強いが、空気が乾燥して適度の風があるので、樹木や建物の影にはいると、ひやりとするほど涼しい。石畳にも水がまかれ、蒸発する水が熱気をとりさる。水をまいてまわるのは老人や子供が多く、彼らには役所から日当が出る。
 露店は葦を編んだ屋根をかけて、陽ざしをふせぐ。地面に、絹の国渡りの竹づくりのござを敷き、ハルボゼ(メロン)をはじめとする色とりどりの果物を並べてある。ときどき冷たい水をかけると、果物の色どりはひときわあざやかになるようだ。
 汗と塩を上半身に噴きださせて、炉の火をあおっているのは、硝子の器具をつくる職人たちだ。交替で公共の井戸に出かけて水をあびる。タオルを冷水にひたして頸すじに巻き、ふたたび炉の前にもどるのである。
 小麦の薄いパンに蜂蜜をぬって売る店がある。どうやら小銭の持ちあわせもないらしく、ひとりの子供が、ひたすらパンを見つめている。最初は無視していたパン屋が、根まけしたように、ひときれのパンを渡す。顔をかがやかせた子供が走り去る。その背中にむけてパン屋がどなる。
「恩を忘れるなよ。出世したら十倍にして返すんだぞ!」>

 パルス国の通貨単位の問題がありますが、村の人間が銀貨や銅貨を持っていること、ダイラム領土の漁師たちの生活水準の良さ、そしてエクバターナの様々な職業や、露店で売られているといった記述から推測すると、パルス国の庶民の生活水準はかなり高いものであるという解釈は充分に可能であると思われます。もちろんこれもまた、肥沃な地方と不毛な地方とで差があることでしょうが。
 食糧の物価については下の記述である程度推測できるのではないでしょうか?

アルスラーン戦記1 P73~P74
<侍童の少年が、大きな盆をはこんできた。葡萄酒、鶏肉のシチュー、蜂蜜をぬった薄パン、羊肉と玉ねぎの串焼き、チーズ、乾リンゴ、乾イチジク、乾アンズなどがこうばしい匂いをふりまき、アルスラーンとダリューンの食欲を刺激した。
(中略)
 テーブルに出されたすべての食物が、客人たちの胃におさまってしまうと、エラムは食器をかたづけ、食後の緑茶を出し、ナルサスに一礼して自分の部屋にひきとった。
「おかげで人心地ついた。礼を言う」
「お礼にはおよびません、アルスラーン殿下、私は殿下のお父君から、一万枚もの金貨をいただいたことがあります。今日の食事は銀貨一枚にもおよびませんな」>

 さらに村の人間までもが通貨を持っていることから、パルスでは商業の力が末端まで徹底していたという解釈も可能です。パルスの村でも、原始的な物々交換はあまりなかったのではないかと思われます。そうなると、パルス国内のみを回って商売をする隊商がいるという裏設定もでてくるのではないでしょうか。これならば、末端にまで通貨が行き届くでしょうし、商業国家パルスの補強にもなるし、地方都市が発展しているのも説明できます。まさに一石三鳥(^_^)。
 それから「羊肉が主食」という解釈は、

アルスラーン戦記5 P24
<パラザータは肉を主体とした料理をことわり、一椀の麦粥、それに卵と蜂蜜をいれた麦酒を所望した。疲労で胃が弱っているので、重い食事を避けたのである。>

という記述から、パルス軍の補給物資が小麦系と羊肉で構成されているのではないかと考えたからです。肉が高価な物資であるならば、パルス軍はもっと安価なものを補給物資にしたでしょうしね。10万もの軍団の食糧となると半端な量ではないのですから。他の記述とも合わせて「これが主食」と推理したというわけです。

<以前、冒険風ライダーさんによる上記パルス軍、騎兵12万5千と歩兵30万が常設軍だとの見解に対して私はその騎馬の多さを農耕兵も含まれる、とすることで説明しようと試みたことがありましたが、よくよく調べて見ると冒険風ライダーさんの常設軍とする見解が正しいような気がしてきました。というのも、まず、西アジアでは馬を農耕には普通利用しないという点が一つ。また、軍馬は戦場の環境(大きな騒音や鬨の声、血の臭い)に慣れている必要がありますし、第一、重装備の騎兵を乗せて俊敏に動けなければ役に立ちません。それには、組織的に訓練される必要がありますから、それには直轄の軍馬繁殖地などで生産されるべきではないでしょうか。同時に職業は分化してるでしょうから騎士はもちろんのこと、自由民歩兵も職業軍人の可能性が高いです。以上の点から騎兵12万5千人、歩兵3万人は職業軍人であると予想されます。さらに冒険風ライダーさんがおっしゃったように東方国境8万人、西方国境6万が常駐しているということでこれらを王直属の地方分遣隊(もし、これら国境防備隊が王直属でなく、地方領主による防備砦とするならば、かなり信用の置ける譜代の臣を配置する必要がありますが、他に分遣隊と思われる記述が見落としなければありませんので、ここでは王直属としておきます)と見なすならば、当然、国庫支出の常設軍であり、その軍構成も主力軍と同様でしょうから、内、東西両方面軍で騎兵、歩兵の職業軍人として3万人、2万人が見こまれます。その異常な兵科構成を除いても、パルス王国軍における国王直属の職業軍人の多さ(計、17~18万人)は、なんだか現実離れしているように感じられます。まだ、パルス王国軍に、各属州からの臨時召集歩兵隊が存在するならば、この異様な軍構成は幾分、正常視されるでしょうが、そうなると今度は、王国軍全体の最大動員兵数が下手すると100万人に達するという異常な自体になりかねません。>

 この記述を見て思い出したのですが、1巻のアトロパテネ会戦時のパルス軍の配置があったのでそれを調べてみたら、とんでもない事が判明しました。
アトロパテネに展開したパルス軍(アルスラーン戦記1 P27)
騎兵85000 歩兵138000
エクバターナの留守部隊(アルスラーン戦記1 P42)
騎兵20000 歩兵45000
東方国境
騎兵20000 歩兵60000
西方国境
騎兵0 歩兵60000
これらを計算すると
騎兵 =  85000 + 20000 + 20000 = 125000
歩兵 = 138000 + 45000 + 60000 + 60000
   = 303000
 何とほぼこれでパルス全軍になってしまいます(しかも歩兵は3000人オーバー)。
 しかもさらに2巻では諸侯のひとりホディ―ルが「三千の騎兵と三万五千の歩兵を動かすことができる」(アルスラーン戦記2 P24)という記述があったり、三カ国同盟軍侵攻時に「ダイラムの領主テオスは五千の騎兵と三万の歩兵を率いて駆けつけると約束し、王を喜ばせた」(アルスラーン戦記1 P62)などといった記述があることから、パルス軍の中には、諸侯の軍が入っていないとしか思えません。
 そうなると、仕立て屋さんのいう「王国軍全体の最大動員兵数が下手すると100万人に達するという異常な事態になりかねません」というのは全くそのとおりで、これでは今までの軍事計算が全部水の泡です(T_T)。諸侯軍が全体でどれくらいの軍を持っているかが問題になってきますが、記述が不足していますし、以前計算した「人口に対する軍隊の比率」もやり直さなければならない事になってしまいます。さすがにこれでは私にも手におえませんね。何とかならないものかな~。

<田中氏自身、物語にでてくるような英雄的騎馬突撃の有効性を信じて疑わないのでしょうが、MerkatzさんのHPにおける武田騎馬軍は実際には戦う前に下馬してから戦った、という話を考慮しますと、パルス王国軍はかな~り無茶してます。>

 これは日本の馬が西洋の馬と比べて小柄だった事、そして牧畜がそれほどさかんではなかったことが原因ではないでしょうか。武田の騎馬軍団にしても、品種改良を重ねて何とか戦に使えたのですし、その騎馬隊にしてもその程度の力でしかなかったということです。
 しかしパルスの場合はそもそも祖先が騎馬民族だったのでしょうから、馬を戦争に使う事に関してはそれほど無茶ではないような気がしますが。数はそろえられたかというとやはり疑問ですけどね。
 余談ですが、MerkatzさんのHPは私も見ています。グラディウスⅢの音楽をダウンロードしてますしね(^^)。

<また、これは、冒険風ライダーさん宛てになるかと思いますが、アケメネス朝ペルシアにおいては属州含めて大体20州前後だったらしいです。ササン朝においてはディフカーン(村の領主)とよばれる小貴族を軍人や役人に取りたてられた、とあるので、州の中でさらに細かく行政区画を分ければ問題ないとは思いますが。参考までに。>

 う~ん、マヴァール年代記のマヴァール帝国が130州で構成されているから、パルス国の100州もそれほど無茶ではないかなと思ったのですが。
 そこで今度は州県制で考えてみました。
諸侯の中でも大諸侯が州を管轄し、その中の4つの県を4人の小諸侯が支配する。
大諸侯の州都を10万、小諸侯の県都を5万として、エクバターナとギランの合計140万と計算すると
20000000 - (1400000 + 20×100000 +80×50000)
= 12600000
この残りを一千万と二百万と六十万で区別し、一千万を人口一万の街に、二百万を人口1000の大村に、六十万を人口100の小村に配置します。そうなるとパルス国には
1000の街
2000 + 6000 = 8000の村
が存在する事になります。これで何とかバランスがとれたかな? 例によって大雑把だけど(^^;;)。あとそれから税制と交通網システムは以前指摘した通りです。ただ
村・街――→県都――→州都――→エクバターナ
というパターンになっているかもしれませんが。

board1 - No.1516

なんかとりとめなくなってしまった・・・

投稿者:Merkatz
1999年07月12日(月) 18時07分

>ttp://www.linkclub.or.jp/~suno/

これはなかなか良いですね。確かにルドルフの敷いた「専制」という道から一歩も出ることがなかった以上、ラインハルトはルドルフを超えることはついに出来なかったといえるでしょう。
彼は善政を敷きましたが、所詮「専制」という枠内での話です。「俺はルドルフのようにならない」と少年の頃誓いましたが、専制そのものの打破をしなかったのですから、「ルドルフのように」なってしまったといえるでしょう。単に権力の使い方が違っただけで。

>うーん、「人類の歴史がもっていた君主制→共和制というベクトル」「あるべき歴史の流れ」という未論証の根拠を
>持ってローエングラム朝を批判するのはどうかと思いましたね。「人類の歴史がもっていた君主制→共和制という
>ベクトル」「あるべき歴史の流れ」が本当にそうなのか、という思考実験が銀英伝のテーマの一つですから。
>これについてはまた、そのうち。

基本的に人類史は民主共和制という、よりベターな方向に進んだと私は思います。ただこれからの未来において、つまり銀英伝の世界のような時代にもその流れが続くかどうかは分かりません。
あくまで民主共和制は「よりベター」ですから、将来的により良いシステムが産まれればそちらに流れるでしょう。
また、専制への逆行も当然ありうるわけで、そのなかでラインハルトのように「非民主的な制度がきわめて民主的な政治を行なう」という皮肉が生じる可能性もあるわけです。

ですから、「ラインハルトがあるべき歴史の流れに逆行した」とはいえないでしょうね。民主制→専制という流れが「あるべき歴史の流れ」なのかもしれないのですから。

>私があのサイトでもっとも興味深かったのがこれです。「単一国家」は人類が未だ経験していないシミュレーション
>として非常に面白い。義務教育は富国強兵制度の一環であり、近代国家においては権力者が人民の無知蒙昧を望むこと
>はあり得ません。
>自国民の知能指数の高さを誇るのが、ある意味近代国家の為政者の本音でしょう(銀英伝の世界だって宇宙船によって
>戦う以上は一般兵でも高度なレベルの知識が必要)。が、専制によって人類統一国家が誕生したら富国強兵の
>必要性がない以上人民に知識がある必要はない。むしろ、無知蒙昧のほうが扱いやすいはずですし、必要な知識は
>一部階級によって独占された方が支配には効率的です。
>同盟という恒久的な敵が居てはじめて、帝国は強力な近代国家たり
うるのではないでしょうか。
>となると、どうも、帝国には同盟の存在がないと成立し得ない逆説があるような気がします。

これについては一つ考えてみました。
「宇宙の摂理は弱肉強食であり、適者生存、優勝劣敗である。人類社会もまたその例外ではありえない」と主張したルドルフのことですから、バカな国民というのは「弱者」であり、生きる価値のないものだと考えた。したがって義務教育を施し、優秀で強健な帝国臣民を育成した、というのはいかがでしょう?

ルドルフは単なる権力者ではなく、人類に対する異常な使命感を持っていましたから有り得るのではと思いますが。

>さらに責任には法的責任と道義的責任に分けられると思います。議会制民主主義の場合、民衆に法的責任を
負わすことは事実上不可能です。となると、このMerkatzさんの言う「責任」は道義的責任と言うことになります。
>この道義的責任は社会を構成する上で不可欠ですが(ex.人を殺すな、物を盗るな)、制度として見た場合、
非常に脆弱な物です。よく言われるとおり、「ゴメン(道義的責任)で済んだら警察(法的責任)はいらない」のであって、
>強制力を有する法的責任が必要です。
>道義的責任に依拠した民主制はきわめて脆弱で危なっかしい制度とはいえないでしょうか?

純粋に道義的責任に依拠しているのなら、確かに危なっかしいでしょうが、それを権利且つ義務として法に定めることにより、擬似法的責任と化していますよね。
もちろんそれだって放棄ということがあるわけですから、完全ではありませんが、現段階における人類の試行錯誤の結果としては、まあまあではないかと私は思います。

>ちなみに皇帝には道義的責任も法的責任もないと言われそうですが、道義的責任で言えば結構な責任はあると
>思います(「朕たらふく食う汝ら臣民飢えて死ね」とはたぶん言えないですよ。いくら絶対君主制でも)。
>法的責任においても、文字通りの法的責任はないかもしれませんが、政治力学的な意味での法的責任は厳然として
>あると思います(歴史を見れば滅んだ帝国の皇帝の末路がよく物語っている)。ただ、世界にただ一つの国家しかない
>という状況はきわめて特異なので、その状況下ではちょっと興味深い物がありますけど。

私は皇帝に対するそれは甚だ弱いと思います。
道義的責任は暴君の例を見れば明らかでしょう。ゴールデンバウム朝のアウグスト2世が、果たして道義的責任を1ミクロンでも感じていたでしょうか。
現実の歴史でも「いくらなんでもそんなことすれば滅びて当たり前だ」と思える暴君はいくらでもいますよね。彼らが道義的責任を感じていたとは到底思えない。
まさに彼らは「朕たらふく食う汝ら臣民飢えて死ね」だったわけです。

法的責任についても「政治力学的な意味」というのは確かにあるでしょう。しかし皇帝自身が、それを感じてなければ意味がない。
対抗勢力に滅ぼされた皇帝というのは、直前までその動きに気付かなかったなんていう事はよくあります。
存在していても、本人が感じてなければ、ない事と同じです。

したがって法的責任・道義的責任の両者において、民主制は専制よりは「マシ」だといえると思います。

究極的な事を言えば、どんな制度も運用する人間次第なんですけどね(^^;;。

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