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投稿ログ81 (No.1470 - No.1482)

board1 - No.1470

あと一歩

投稿者:本ページ管理人
1999年07月06日(火) 14時53分

>No. 1469
>ヤンは何度か同じような事を言うんですが「最悪の民主政治でも、最良の専制政治にまさると私は思っている。」で、だからラインハルトの政治は最良のものだとわかっていながら戦うと

「最悪の民主政治でも、最良の専制政治にまさる」という「信念」の是非はともかくとして(ちなみに私は全く別の信念を持っていますが)、ヤンがその信念を抱く理由が「民主主義の最悪の政治は少なくともそれを選択した市民それぞれに責任があるが、専制の最悪の政治は為政者個人の責任である(大意。うろ覚えなので勘違いがあったら指摘していただけるとありがたい)」というところが興味深いんですね。

 ここで、私が前に書いたNo. 1455が出てくるんですが、抜粋すると、
終『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」というのと同じだもんな。これ以上の無責任はないよな。』
続『終君、どうしたんですか、えらく的確な発言ですよ、それは。』
始『まったく終のいうとおりで、「みんなに責任がある」というのは、責任の所在をごまかすために最高責任者が使う詭弁なんだ。(後略)』
 つまり、この終君の言によると、ヤンが信念とする「民主主義という理念」は、その理念自体の中に自ら腐敗する構造を持っていることになります。つまり、民主主義がヤンの理想に近ければ近いほど、大蔵省の責任逃れ(これは一部分の例に過ぎないが)的な腐敗が避けられないという事になります。

 これは田中芳樹の思想の矛盾撞着と取るか、変節と取るか、はたまたあくまでキャラクターの発言であるとして竜堂終Vsヤン・ウェンリーの夢の論壇キングオブファイターズと取るか(笑)、見方はいろいろありますが、私がヤンの民主主義の定義が結構重要なテーマだと思うのはこんな理由です。

board1 - No.1471

僕も、初めまして

投稿者:はむいち
1999年07月06日(火) 17時21分

高校生の頃から、田中氏のファンでしたが・・・
今は「芳樹」より「ユタカ」です(笑)

さて、このHPですが、何だか読んでいて嬉しいです。というのも、これだけ批判のでる小説も珍しいからです。
ちなみに友人は「ドラよけお涼」をあかほりさとるの盗作、といって憤慨していました。
「田中芳樹は未完が多くて」とぼやいたら、火浦功ファンに「彼よりマシ」といわれ続けています。下には下が・・・

board1 - No.1472

RE.1471

投稿者:本ページ管理人
1999年07月06日(火) 17時46分

>はむいちさん

こんにちは。はじめまして。

>ちなみに友人は「ドラよけお涼」をあかほりさとるの盗作、といって憤慨していました。

 たしか「すれいやーず」のパクリでしたよね(いや、見てないんで詳しく知らないんですけど)。……あかほりでしたっけ??

>「田中芳樹は未完が多くて」とぼやいたら、火浦功ファンに「彼よりマシ」といわれ続けています。下には下が・・・

田中芳樹には銀英伝10巻のあとがきで大言壮語した実績がありますからねぇ(あれ自体は立派なものなのですが…)。

board1 - No.1474

自己レス

投稿者:はむいち
1999年07月06日(火) 22時49分

「すれいやーず」はあかほり、じゃなく「神坂」でしたっけ。
お詫びして訂正します。
「はむ」とつく方が先客でいましたね、紛らわしければ変えますが?

board1 - No.1475

やれやれ。

投稿者:yukie
1999年07月07日(水) 04時01分

WEB上にしろなんにしろ、議論ってのはほとんどは不毛なものなのだなと。
どうせどちらにしても自説を曲げる気はないだろうし、どっちかがどっちを言い負かしたとて遺恨が残るのみ。
大概の論説というのは、誤解と偏見によって成り立ってたりするものだし。
それを承知の上で、論議というのもひとつの虚構の文章作品として、娯楽として提供できれば、それはそれでヨシ。
日記ならまだしも、掲示板でクソ真面目に語ってるヤツみると、どーしても私は茶々を入れたくなってしまうんだけどね。
なにかにつけても、「たった一つの正しい方法」なんてないものだろうなあと。
数学にしたって、限定された状況下でのみ唯一の答えがでるものなのだし。
(普段はデフォルトとして扱ってるのだけど)

何が言いたいってさ。
結局ここはお互いに田中芳樹をけなしあって楽しんでる内輪サークルなんだな、と。

御多分に漏れずWEB上の評論ページにある傾向をなぞっているし。

ある傾向とは
日常的でない漢字や漢語、外国語を多用する。
・「こんなこと知ってて当然ですよね~」その実(こんなこと知ってるのは自分くらいなもんだろ)
・更には、(自分はそれが当然とされるくらい高い知的レベルにいるんだ)
・自分の言葉で説明できない事象は無視するか、「取るに足らないコト」と卑下しようとする。

board1 - No.1476

アルスラーン戦記関連 まとめレス

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月07日(水) 08時40分

<首都の100万都市は、国際都市(長安とか)とするならまあ良いとしても、地方で10万都市がそんなにも林立している状況は当時ありえるかな、とは思います。>

 エクバターナとギランにはそれぞれ、
「大陸公路の公用語であるパルス語のほか、数十カ国語がいりみだれ、人間、馬、ラクダ、ロバが石畳の道を行きかう」(アルスラーン戦記1 P107)
「町の人口は40万人に達し、そのうち三分の一が異国人で、町では六十種の言語が用いられているといわれていた」(アルスラーン戦記6 P31)
という記述があることから、充分に国際都市であると断定できるでしょう。
 地方都市10万はそれを補強するための裏設定を一応考えてみました。
 パルス国では、100の州が100の諸侯によって統治されており、地方都市10万は州都であると解釈するのはどうでしょうか。さらに州単位で租税が徴収され、それがいったん州都に集められた後、諸侯がエクバターナへ決められた額なり率なりの税を納めるという設定にすれば、州都を中心とした交通網と、州都とエクバターナを結ぶ交通網が整備されますし、それによってエクバターナほどではないにしても州都にも物が集まり、小なりながら地方の政治・経済の中心地となりますから、管理人さんの解釈と合わせて、地方都市10万という設定も充分にありえるのではないかと思います。
 また、この設定だとアンドラゴラス三世がエクバターナと大陸公路を重視し、ギランの海上貿易を軽視した理由も説明できます。陸上の交通ネットワークがパルスのアキレス腱になるのですから。平時は陸上貿易の方が利益をあげていたのではないでしょうか。ギランでは代わりにならないわけです。

<主食はおそらく、小麦の加工品だと思われる(違っていたらスマン)ので、米と比べて人口支持力はいくらか落ちるものと想像されます。日本の場合、温暖多湿であるし、海の幸、山の幸に恵まれていたという環境もあると思います。それでも同時代、日本の人口は600~700万人ぐらいじゃなかったでしょうか。>

 当時の日本は聖徳太子~大化の改新あたりの時代ですね。遣隋使・遣唐使による中国の文物を取り入れ始めたばかりの頃ですから、発展はまだこれからという状態です。それに対して当時のササン朝ペルシアは当時の世界の中では最先進国のひとつでしょう。最先進国と後進国ではあまり比較にならないので、日本の場合は戦国時代から取り上げてみました。
 ところでパルス国が何を主食としているかは非常に興味深いことですので、参考になるかどうかは分かりませんがアルスラーン戦記の食卓を少し覗いてみましょう。

アルスラーン戦記1 P73
<侍童の少年が、大きな盆をはこんできた。葡萄酒、鶏肉のシチュー、蜂蜜をぬった薄パン、羊肉と玉ねぎの串焼き、チーズ、乾リンゴ、乾イチジク、乾アンズなどがこうばしい匂いをふりまき、アルスラーンとダリューンの食欲を刺激した。>

アルスラーン戦記2 P22~P23
<祝宴は豪華なものだった。肉も酒もふんだんにあったが、肉はともかく酒のほうは、アルスラーンには無用のものだった。果糖水や紅茶で口のなかを湿しながら、一方では多すぎる料理をもてあましていた。
 巴旦杏と糖蜜をいれた柘榴のシャーベットを、アルスラーンが銀のさじで口に運んでいるとき、(略)>

アルスラーン戦記2 P137
<「とにかく、あんたの言ったとおり、食事にしようよ、ナルサス。麦酒もあるし、豆スープもホットケーキもできるからね。あんたの口にあうといいけど、そうでなかったらつくりなおすよ」>

アルスラーン戦記3 P98
<ナルサスの前には、二皿の料理が並んでいる、エラムがつくった羊肉のピラフと、アルフリードがつくった鶏肉をはさんだ薄焼パンだ。>

アルスラーン戦記4 P113
<葡萄酒や蜂蜜酒、麦酒の匂いが広間に渦を巻き、羊肉の焼けた匂いもただよった。>

アルスラーン戦記4 P173
<芳香を放つ羊肉のシチューは、たちまち少女の腹におさまった。>

アルスラーン戦記5 P24
<パラザータは肉を主体とした料理をことわり、一椀の麦粥、それに卵と蜂蜜をいれた麦酒を所望した。疲労で胃が弱っているので、重い食事を避けたのである。>

アルスラーン戦記6 P38~39
<港町であるギランの名物料理は、魚介類を主としたものだ。アルスラーン一行の卓に並べられたのは、香辛料で味つけされた白身魚のからあげ、蟹の蒸し焼、大海老の塩焼、帆立貝の揚物、魚のすり身をダンゴにして串に刺して焼いたキョフテ、ムール貝の実を多量にいれたサフランライス、海亀の卵をいれたスープ、白チーズ、ムール貝の串焼などであった。飲物は、葡萄酒の他に、サトウキビ酒、リンゴ茶、蜂蜜いりのオレンジのしぼり汁。それに色とりどりの果物であった。>

アルスラーン戦記7 P22
<総帥である王弟ギスカールは、朝食の場にモンフェラート将軍を同席させ、パルス葡萄酒でパンを咽喉に流しこみながら告げた。>

アルスラーン戦記7 P210
<やがて「白鬼」は食事の席に招かれ、葡萄酒と薄パンを口に運びながら、エステルの質問に、ぽつぽつと答えた。>

アルスラーン戦記9 P202
<給仕たちが酒と料理を並べはじめたのだ。酒は壷ごと井戸で冷やされた麦酒。鳥肉と乾葡萄をまぜたピラフ。香辛料をきかせて飴色になるまで焙った鶏の腿肉。やはり香辛料をきかせた淡水魚のからあげ。牛の挽肉と玉葱を小麦の薄皮につつんだもの。五種類の果物。>

 アルスラーンが王族であることを多少差し引く必要があるでしょうが、これらからの記述から、パルス国では小麦と羊肉が主食である可能性が高いように思われます。日本の戦国時代をある程度参考にしたにもかかわらず、米はほとんど出てきません(T_T)。また、やたらと葡萄酒がでてくることから、葡萄の生産もさかんだったのではないでしょうか。
 そうなると、パルス国の第一産業は農業と畜産が中心という事になり、そこから前回の投稿で挙げた農業・狩猟・畜産・漁業の比率を設定してみると、
農業 : 狩猟 : 畜産 : 漁業 = 35 : 15 : 40 : 10
というところでしょうか。もちろん、何が主食であるかについては地方差があることでしょうが(例えばギランは魚主体であるとか)。
 また、農業と畜産を連携させて(例えば畜産で発生した肥料を農家に供給し、農業で実を収穫した後の茎や葉を飼料にするなど)相互発展をはかることで、かなり効率的な生産が可能になるというのはどうでしょう。素人的な考えですけど(-_-;)。
 また、前回主張したとおり、狩猟や漁業の獲物は今よりもずっと多かったでしょうから、「海の幸、山の幸に恵まれていたという環境」はパルスも同じであるという解釈はできないでしょうか。それに
「ニームルーズの北は、適度の雨量にめぐまれ、冬には雪もふる。針葉樹の森と草原がひろがり、穀物と果実が豊かにみのる。いっぽう、分水嶺をこえて南にでると、太陽は灼熱し、空気と大地はかわき、点在するオアシスのほかには砂漠と岩場と草原が多く、森はない」(アルスラーン戦記2 P15~16)
という記述から、特に北の方は日本と同じような環境であると解釈できます。南は亜熱帯かな?
 あと余談ですけど、日本の戦国時代の1800万~2000万石には北海道がはいっていないので、やはり面積がそれよりもかなり大きいパルス国では充分な食糧生産が可能であったと思われます。アルスラーン戦記8では、解放奴隷に土地を開拓させているくらいですから、それまでも土地の余裕は充分にあったのでしょう。

<馬の問題については、輸入はないと思います。定住はしているものの仮にも騎馬民族というのであり、また歩くよりも早く乗馬をおぼえるというパルス人(8巻P176)なのだから、輸入に頼らずとも生産できたであろうと思います。>

 これは全く無かったわけではないと思います。
<王都エクバターナは、ただパルス一国の首都たるにとどまらず、広大な大陸を東西につらぬく「大陸公路」のもっとも重要な中継点であった。東西の諸国から隊商があつまり、絹の国の絹と陶磁器と紙と茶、ファルハール公国の翡翠と紅玉、トゥラーン王国の馬、シンドゥラの象牙と革製品と青銅器、マルヤム王国のオリーブ油と羊毛と葡萄酒、ミスル王国の絨毯――など、さまざまな商品がもたらされ、交易の熱気があふれかえっていた。>(アルスラーン戦記1 P101~102)
という記述がありますし。トゥラーンの馬はパルスの馬よりも使い勝手がよかったとか、側対歩を身につけている馬を売っているとかそういう裏設定があれば、畜産業で馬がたくさんいるパルスでトゥラーンが馬の売りこみをするのもそれほど不自然ではないかと思います。第一、パルス軍はかなりの数の騎兵軍団がいますし、優秀な馬はいくらでもほしいでしょうから。
 それに遊牧を産業のひとつとしているトゥラーンが、馬を全く商品にしていないというのもおかしな話です。余分な馬は食糧にしているのかもしれませんが、「商品」という選択肢もあったと考えるのが自然でしょう。

<実際の歴史上、シルクロードや海の道や草原の道での交易で取引されていたのは、絹織物や香辛料や宝石、貴金属、陶磁器のたぐいだったようです。王侯貴族などを対象にした贅沢品がメインだったようです。ギランの総督の説明にも異国の商船が宝石や真珠や象牙、白檀、竜涎香、茶や酒、陶器、絹、各種香料などを献上する云々の記述(6巻P37)がありますので、アルスラーンの世界でも同様ではと思われます。当時の技術では生鮮食料品は無理でしょうが、あまり日常の食料品は中心ではなかったように感じます。>

 う~ん、このあたりは考えが及びませんでしたね。私は「交易は戦争時でもない限り可能だ。当時と今では貿易に対する考え方は違う」という事の方を強調したかったので、当時の食糧保存法や貿易商品についてまではあまり考えていませんでした。特定の地方でしかとれない特産品の輸入はあるのかもしれませんけど、たしかに当時はあまり食料品輸入はなかったでしょうね。保存の問題もあるし。
 それと当時の貿易では、間違いなく「奴隷」という品目もありますね。アルスラーン戦記8でミスル国が侵略してきたのも、パルスが奴隷解放をしたために奴隷貿易による利益が減ったという理由もありますし。
 まあ、食糧自給率は前回と今回の第一産業分析でほぼ100%近く(場合によってはそれ以上)になるでしょうから、貿易で食糧を輸入する必要性もあまりないでしょうけどね。

<食料も替え馬もすべて現地調達するということで、わずかな食料と身の回りのものだけを持って遠征してきたというのはどうでしょうか? パルスは騎馬民族の国だから馬はたくさんいるはず(仮定)だし、そもそも略奪目的なのだから馬を随時奪っていけばよいというのはいかがでしょう。これなら替え馬は不要とまではいかなくても、かなり減らせます。ついでに食料も不足した都度、村々を襲って奪うというものです。>

 食糧は納得できますが、馬はそんなにいるのかという問題がありますね。上記の畜産がいくら発展していたとしても、トゥラーン軍が必要としている替え馬は数十万単位ですからどこまでもつやら……。日本軍の場合、必要な馬の数は数百~千単位だったでしょうから現地調達も可能だったでしょうが、トゥラーンの場合はあまりにも多すぎますからね。もちろん、全く効果が無いわけではないでしょうが、騎馬軍団たるトゥラーン軍を支える馬を、現地調達で完全にまかなえるかどうか……。
 私が考えたのは替え馬の数自体を減らす方法です。以前はむぞうさんの投稿No.1184でおっしゃっていた装蹄技術で少しは減らせないかとも考えたのですけど、これでどのくらい減らせるでしょうか? せめて20万前後くらいまで減らせれば何とかなるのでしょうけど。

<これなら国元に女や子供や老人が大部分を占める数万の民を残しただけ(6巻P102)で、強引にパルスにせめてきたと納得できるのではないでしょうか。そもそもは豊かなパルスの混乱に乗じて、適当に略奪したらさっさと引き揚げるつもりで、長期戦のつもりはなかったのではないかと思います。即位したばかりの国王トクトミシュが「国を富ませる」と約束したのも、前国王時代に家畜が激減し国の存亡の危機に陥ったのを利用して即位したからと考えると、その約束を実行するために遠征軍を編成し、国民も国力から考えて無謀に見えるのに従ったという図式ならすんなりいくのではないでしょうか。そうでなければ16万もの軍を出した後には数万の民しか残らないというのでは、万一失敗したときを考えると恐いと思うのですが。だから思いがけず長引き自軍が負けてくると、6巻のP97のイルテリシュの「負けたらトゥラーンが地上から消える」やクバートの「死兵というやつだ」のせりふにつながるかと思います。>

 トゥラーン軍が短期決戦のつもりで遠征してきたのは全くそのとおりでしょうね。実際、
「もともとあまり補給を重視しないのが、トゥラーン軍の伝統である。短期決戦と掠奪とが、トゥラーン軍の戦いを特徴づけるものであった」(アルスラーン戦記5 P209)
とはっきり書いてありますし。
 動機については「なるほど」と納得させていただきました。アルスラーン戦記には特に記述はないですけど「追い詰められて侵略する」というのは歴史上よくあることですし、パルスが混乱しているのを見計らって「成功の可能性が高い」と踏んだのでしょう。不幸にも思惑が外れてしまいましたが(-_-)。
 ただ、16万もの遠征軍を率いるとなると、よほど効率的かつ短期的に掠奪しない限り、掠奪物資を遠征中のトゥラーン軍自身が使いつぶしてしまうのではないかと思うのですが。遠征軍の維持費も相当なものでしょうしね。「採算がとれるのかな?」という観点から問題提起してみたのですよ。「遠征から帰ってみたら何もなくなっていた」ではシャレになりませんから。
 まあ「トクトミシュの政権維持」のための遠征なら採算はある程度度外視しても良いでしょうね。「マイナス」でさえなければ。

<トゥラーンの人口は20~30万人と言うことになるのかな? 最盛期の元でモンゴル人は100万だったというからそんなものなのかな?>

 その記述から推理すると、トゥラーンの人口は最大25万人ほどになりますね。「数万」ですから最大が9万ということで(^^;)。しかしトゥラーンは人口の6割以上を遠征軍に参加させているとは……。本当に失敗した時のことは考えていたのでしょうか? まあナルサスの事は考慮にはいっていなかったのでしょうけどね。

<この規模の国家になると、もはや多民族国家にならざるを得ないでしょうから、「パルス王国」というよりかは「パルス帝国」ではないかと。>

 エクバターナもギランも国際都市ですし、パルス語は大陸公用語、さらにはバタフシャーン公国を併合してもいますから、まさに多民族国家そのものでしょうね。パルスには「帝国」という概念はなかったのかな? 代を重ねるたびごとに少しずつ領土が増えていったので「帝国」と名乗らなかったのかもしれませんが。

 これでかなり矛盾は解決できたかな? かなり無理なこじつけもあるような気もしますので、「ここはおかしいのではないか」というのがありましたら、ツッコミお願いします。

board1 - No.1477

やれやれやれ

投稿者:satoko
1999年07月07日(水) 08時58分

最近こういうのおおいですね。なんかこういうことかく人ってかわいそう・・・。

自分が体験した議論がそういうものだったから、そういう感じ取り方になるんだろう。其処から出る意味ってあるのにね。

管理人さんはしっかりなさってるから、こういうのぜんぜんへいきだと思うんですが、ここに人が集まるのはそれなりに理由があると思うので、がんばってくださいね。

board1 - No.1478

えっとですね。

投稿者:maske
1999年07月07日(水) 12時00分

ネット上に出現するこういうたぐいの方達は調教プレイではなく放置プレイで楽しむのがよろしいかと思います。

自分の意見がまとまるまで書き込みはしないつもりだったんですが、変なのがあったんで。

続編を書かない作家っていうのはけっこういっぱいいるのでそう珍しくないとおもいます。
藤本ひとみとか……(趣味ばれます)

board1 - No.1479

RE:1465,1466

投稿者:仕立て屋
1999年07月07日(水) 13時02分

 毎度、仕立て屋です。
長文になりますが、お許しを。

>主要交通機関が馬車や帆船の世界では、だいたい平方キロメートル当たりの人口密度が3~20人ぐらいのようです。

>人口密度10人/平方キロメートルを前提とした場合、平均的国家の人口と広さは次のようになり
ます。国家規模は中世国家の参考です。

1万人  1000平方キロ(広さは東京都の半分程度。国家規模は地方の豪族程度)
10万人  1万平方キロ  (広さは岐阜県程度。国家規模は江戸時代の小藩程度)
100万人  10万平方キロ  (広さは北海道より少し広い程度。国家規模は中世日本や中世ヨーロ
ッパ諸国。ルシタニア?)
1000万人 100万平方キロ (広さは現在のエジプト程度。国家規模はローマ帝国や中華帝国。パ
ルス国はここでしょう)
1億人   1000万平方キロ (現在の中華人民共和国程度。国家規模はモンゴル帝国)

> で、パルス国ですが、今までの掲示板を参考にすると、人口2000万、領土が143万平方キロ、ということですので、人口密度はおよそ14人/平方キロということで、中世国家としてはかなり肥沃な国であることがわかりますね。
>  以上のように考えれば、地方で10万都市がそんなにも林立している状況は江戸時代の封建制のようなものであり、決してあり得ない状況ではないと思います。

 なるほど、言われてみれば143万平方キロの王土に、人口2000万もそれほど無茶な数字ではないということですね。作中ではパルスが概ね肥沃な大地を領有していたということにしといて、有りは有りってとこでしょうか。ただ、ひとつ疑問が。上記の国家モデルの類例がローマにしろ、中華帝国にしろ、広大な平野と温暖な気候の大地を領有していたという点が気にはなりますね。そこで、以下は、ちょっとした脱線ってことで。

 パルス王土に対する冒険風ライダーさんの風土的考察を参考にいたしますと、カスピ海などの位置関係から、パルスの位置は大体現在のイランの場所と一致し、また、王土の地形的様相もかなりイランのそれに近いようです。イランの国土面積が163万平方キロぐらいなのでパルスのそれはその1/8ってとこでしょう。イランの国土はそのほとんどが、山岳地帯と砂漠地帯で占められています。なんせ、イラン高原などもありますから。気候区分で言うと(懐かしい)、BS(ステップ)、BW(砂漠)ってやつで、農耕には不向きです。カナート、カレーズ(伏流水を利用した井戸みたいなの)などを灌漑利用するしかありません。ですから人が集まる場所はおのずとオアシス付近になってきます。都市を一歩出ると次の都市まで広大な乾燥地帯が続くという点と点を線で結んだ感じになります。このような土地柄ではどうしても遊牧主体になってしまうのでしょうね。実際、イランはそのほかの中東諸国と比べて、遊牧の比率は高いそうです。まあ、パルス人が遊牧系(騎馬系)民族の末裔というのもなるほどという感じです。なにせ、ペルシア人は南ロシアあたりから南下してきたアーリア人の末裔ですから(ちなみにパルスの名前の元になったファールスはラテン語読みでPERSIA?「ペルシア」で、また、エーラーンってのがいたと思いますが、アーリアの古代ペルシア語読みから現代ペルシア語のイーラーン「イラン/アーリア人の国」になっていく途中の訛りの過程に、エーラーンというのがあるそうです、ほんまかどうか知らんけど)。話を戻します(^^; イランで肥沃な土地はカスピ海の南西部、山脈沿いのギーラーンと呼ばれる地方です。また、ササン朝の頃はペルシア湾岸沿いも灌漑施設が整い肥沃だったそうです。作中では対ミスル国境付近でしょうか。人口分布という概念に留意しますと、住めないとこにはほんとに住めないんですよね(砂漠とか極点付近など)。山岳地帯や砂漠地帯は極端に人口が少なく、低地や平野、水の豊富な場所はその逆になります(あたりまえか)。イランにおいては低地はギーラーン地方など国土の1割ぐらいで、農業生産の殆どは、こうした地域に集中しているようです。1割といってもその割合は日本より多いかも知れませんが、日本の場合、温暖湿潤の気候のせいかその山もイランのそれとは異なり、非常に豊かなものです。おまけに回りは豊富な水産資源に囲まれています。事実、現在でも地球上の人口の6割は日本を含めたアジアの"モンスーン"地域にかたまっています。今ほど技術の発達していない当時(ササン朝/パルス時代)では、なおさらモンスーン地域の有利さが顕著であったろうことは予想されます。それにお米パワーってほんとにすごいらしいですね。で、各諸公の地方都市のことですが、乾燥地帯の生活が遊牧メインのものだとすれば、その遊牧人口はそれほど大した数ではないと予想されます。各諸公の治める都市がオアシス都市とするならば人口の大部分はこうした諸公の治める都市部に集中していたことでしょう。さあて、そこで問題の10万都市です。正直言うと時間がなかったので調べていません(なんやソレ)。時間があいたら本屋にでもいって調べようかとは思っていますが、根拠のない推量ということで、一応の考えを述べておきます。現在、イランの人口に占めるペルシア系民族は半数の3200万くらいです。イスラムによるペルシア征服後、その進んだ文化と経済力によってどのくらい人口が増えたかによりますが、概ねイスラム化した地域では都市化されるようですので、その影響は無視できないと思います。でも、やはり当時の人口などに関する文献をあたってみないことにはなんとも言えませんが、まぁ、わたしの直感的な感覚では10万というと現在でも結構な規模のように感じられます。

 次に話をササン朝期の経済力にもっていきますと、ダマスカス産の鉄製品や中国産の絹、陶磁器類の交易など、地理的に有利な面は否めませんね。海上ルートによってそれ以前ほどではないかもしれませんが。また、金銀細工類の技術は特筆すべきものがあり、当時多方面にかなりの影響を与えたらしいです(歴史を学んだ方は御存じかもしれませんが)。よって交易以外にも王国産の製品の輸出などにより、国庫は随分と潤っていたのかもしれませんね。それでも、パルスのアトロパテネ会戦にいたる数年間の戦乱期では運用兵数を見てもほとんど総力戦(民主国家でないのでほんとの総力戦とは言えませんが)ですよね。それを同時に、しかも複数の敵対国を向こうにまわして数回繰り返していては、大いにその国力を剃いだことでしょう。しかし、あの数年で常に勝利していることはほとんど奇跡のようです。さすが、ナルサスさま~~ってとこですか。

>つまらないことですが、この規模の国家になると、もはや多民族国家にならざるを得ないでしょうから、「パルス王国」というよりかは「パルス帝国」ではないかと。

 ペルシア帝国期は、たしかに多民族国家だったようです。しかも、力の支配に頼らず、巧みな施政によって治めていたようです。でないと今ほど交通速度がない当時、その広大な領土を長期にわたって維持し続けるのは至難の技でしょう。ただ、ササン朝末期(パルス)ではかなり東に追い詰められていたので多民族国家といってもどういう形態だったのかわかりません(143万平方キロもあれば複数の民族がいてもぜんぜん不思議ではありませんが)。ひょっとしたら、異民族の奴隷を引き連れつつ東に移動していったのかもしれません。なにせ奴隷は貴重ですから。ちなみに、ギリシア世界においては奴隷はその人口の半数にまで及んでいたらしいので、その文化の影響を受けていたのならパルス王国における奴隷の数の多さはうなづけるものです。

board1 - No.1480

訂正

投稿者:仕立て屋
1999年07月07日(水) 13時21分

パルスの王土はイランの1/8ではなく7/8の間違いです。スマン

board1 - No.1481

遊牧国家パルス王国について

投稿者:仕立て屋
1999年07月07日(水) 20時03分

 毎度、仕立て屋です。

 馬の家畜化の歴史を調べてみました。どうやら南シベリアから黒海に広がる乾燥帯のステップ地域で馬の遊牧(家畜化)が始まった、というのが今のところ有力な説のようです。アーリア系民族も当然紀元前のかなり前から南ウクライナからイラン高原におよぶステップにて遊牧を始めていたようです。ですから騎馬兵という兵種が誕生したのもこのあたりの地域からであるらしいです。騎馬兵(初期の段階は兵が直接乗馬するのではなく、戦車を付けて兵がそれに乗る馬戦車)の登場はいままでの戦争を一変させ、広大な国土の占有も可能になり、それが世界帝国を築く原動力になりました。実際、アーリア系の民族は馬によってまわりの古代国家に度々進入していることで、その効果は明らかなようです。
 アーリア系の末裔であるペルシア人は事実、遊牧民ですから、必然的にその戦士性(遊牧民の戦士性はすべての民族に共通するようです)と侵略性は激しく、各オアシス都市を占有していきました。そこで北部産の毛皮を運んできて南部農耕系の民族と農作物を取引したり、オアシスを通過する商人から通行税などを徴収したり、東西交易路を押さえて商人を保護(管理、監視?)することで自国を富ませるなど、荒っぽくはありますが、かなりの繁栄を築いたことが想像されます。モンゴル帝国などにも共通しますが、遊牧国家の中にはパルスのように城塞を築くものもあったそうです。しかし、実際には王といえども季節の大半は遊牧生活を送ったようです(これってなぜだか微笑ましい)。まあ、作中ではさすがに王と有力貴族は城で過ごしていたとは思いますが、パルス人の自由民は遊牧生活をおくっていたのではないでしょうか。で、必要に応じて戦時は遊牧民が騎馬兵となり、王とその諸侯が彼らを率いて戦ったのではないでしょうか。さいわい、イランのあたりはイラン高原があり、広大なステップ地域が広いがっています。馬の遊牧に向いていたのかもしれません。ですから12万以上の騎馬も支配者層が全員遊牧に従事し、日本の武士階級よろしく支配と搾取のみに専念していれば、十分可能な気がしてきます。なにも自由民だからといって農耕や工業に従事する必要はないんですよね。逆にいえば、奴隷以外の被征服民族は戦時でも戦闘に参加する必要がないとも言えます(ここが日本の戦国期と異なるのかもしれません)。また、遊牧民の略奪性から異民族国家に進入して大勢の奴隷を獲得し、自国まで連行し農耕などにあたらせていたものと考えられます。遊牧民の異民族支配は非常に巧みで、金融などはユダヤ人、治金はXXX(適当)人、商人はイスラム人といったように、それぞれ得意な分野を生業とする人たちに分業して任せて、支配者としてはそこから利益を吸い上げればよい、といったように実に効率が良く、非征服者といえども、扱いは寛容だったようです。こうした寛容さと効率性が、少数で多数を支配する、特に異民族を支配する場合には必要なのかもしれません。奴隷に関してはどういう扱いだったのか、まだ調べていないのでわかりません。イスラムでの奴隷の扱いが意外に緩やかだったことは調べてわかったのですが(結婚も認められていたし、最高権威者のカリフには女奴隷の子供も多く見られたそうです。独特の宗教観でしょうが、こうした考えは異民族への浸透力において大いに寄与したことでしょう)、イスラムによるペルシア征服以前のペルシア世界に関しては奴隷の扱いは、パルスの状況から考えると結構きついものだったのかもしれません。イスラムには軍人奴隷(黒人のアブド、トルコ人、ギリシア人など白人のマムルーク)が常設軍として組織され、実力のある者は解放され地方の司令官になった者もいます。また、このような軍人奴隷の数は弾力的に運用され必要に応じて(戦時はその数を増やすなど)購入、編成されたもようです。ササン朝末期(パルス)においても、他国との戦争が続いていたため臨時に購入されたとも考えられます。イスラムにおける解放奴隷のような存在がパルス軍歩兵における自由民として指揮官を勤めていたのかもしれません。ですから、長期的には非生産な戦闘奴隷も短期的な必要性からあれほどの数を常設できたのかもしれません。それでも国庫にはかなり響くと思いますが。ただ、悲しいかな、いくら頑張れば解放される望みがあろうとも、その機会は滅多にないのですから、ルシタニアによる扇動(神の前に平等)に乗せられて反乱をおこしてしまったのも仕方のないことでしょう。

 調べていく過程で偏見って滑稽なほどの勘違いを生んでしまうことが改めてわかりました。私の場合、常設軍といえば長期にわたって訓練し何も産まない金くい虫とばかり思っていましたが、実は、すでに良質に訓練済みの傭兵奴隷を必要に応じて”売り買い”すれば済むだけなんですよね(それには金が必要なわけですが、遊牧国家では構造的に金は潤沢なのでこのやり方は適当といえる)。逆にいえば奴隷っていうのがまさに必要に応じて売り買いされるモノだったということでしょう。また、遊牧に対してなんだか遅れているような感覚を持っていて、支配者になっていても尚、遊牧し続けるというのはなんだか滑稽だなぁという気持ちを持っていました。したがって、彼らが、実は誇り高く優れた戦闘集団であり、平時でも遊牧に従事していればよかったという考えにはまったく及びませんでした。パルス人が「歩くよりも早く乗馬をおぼえる」というのもなるほど、という感じです。支配者層の同朋が遊牧兼、メッセンジャー兼、警察、偵察、戦士の役割を担ってくれれば、国家の運用は効率的でしょう。
 以上の考察には、一部想像も含まれていますので誤りがあるかもしれません。気づいた方はご指摘ください。

ところで、上記のような考察とこの”乾燥地域”における総人口や地方都市の規模がいかほどだったのかは話が別です。

<パルス国では、100の州が100の諸侯によって統治されており、地方都市10万は州都であると解釈するのはどうでしょうか。さらに州単位で租税が徴収され、それがいったん州都に集められた後、諸侯がエクバターナへ決められた額なり率なりの税を納めるという設定にすれば、州都を中心とした交通網と、州都とエクバターナを結ぶ交通網が整備されますし、それによってエクバターナほどではないにしても州都にも物が集まり、小なりながら地方の政治・経済の中心地となりますから、管理人さんの解釈と合わせて、地方都市10万という設定も充分にありえるのではないかと思います。
 また、この設定だとアンドラゴラス三世がエクバターナと大陸公路を重視し、ギランの海上貿易を軽視した理由も説明できます。陸上の交通ネットワークがパルスのアキレス腱になるのですから。平時は陸上貿易の方が利益をあげていたのではないでしょうか。ギランでは代わりにならないわけです。>

 遊牧国家の支配構造を考慮にいれますと、上記のようなパルスにおける国家運用に対する冒険風ライダーさんの考察は、実に理にかなっているように思われます。おそらく、そのとおりなのかもしれません。ただ、都市規模と総人口については引き続き調べて見ます。

<トゥラーンの馬はパルスの馬よりも使い勝手がよかったとか、側対歩を身につけている馬を売っているとかそういう裏設定があれば、畜産業で馬がたくさんいるパルスでトゥラーンが馬の売りこみをするのもそれほど不自然ではないかと思います。第一、パルス軍はかなりの数の騎兵軍団がいますし、優秀な馬はいくらでもほしいでしょうから。
 それに遊牧を産業のひとつとしているトゥラーンが、馬を全く商品にしていないというのもおかしな話です。余分な馬は食糧にしているのかもしれませんが、「商品」という選択肢もあったと考えるのが自然でしょう。>

これに関しては、アーリア系の流れを汲むペルシア人がもとになっているパルス人自身が遊牧に従事していたとするなら、多分、馬の輸入はしないでしょうし、調教もトゥラーン人よりよっぽど上手だった可能性が高いです。おそらく馬の輸入はなかったのではないでしょうか。

あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に”乾”とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。

<農業 : 狩猟 : 畜産 : 漁業 = 35 : 15 : 40 : 10>

これは、妥当といった感じです。

<また、農業と畜産を連携させて(例えば畜産で発生した肥料を農家に供給し、農業で実を収穫した後の茎や葉を飼料にするなど)相互発展をはかることで、かなり効率的な生産が可能になるというのはどうでしょう。素人的な考えですけど(-_-;)。
 また、前回主張したとおり、狩猟や漁業の獲物は今よりもずっと多かったでしょうから、「海の幸、山の幸に恵まれていたという環境」はパルスも同じであるという解釈はできないでしょうか。それに
「ニームルーズの北は、適度の雨量にめぐまれ、冬には雪もふる。針葉樹の森と草原がひろがり、穀物と果実が豊かにみのる。いっぽう、分水嶺をこえて南にでると、太陽は灼熱し、空気と大地はかわき、点在するオアシスのほかには砂漠と岩場と草原が多く、森はない」(アルスラーン戦記2 P15~16)
という記述から、特に北の方は日本と同じような環境であると解釈できます。南は亜熱帯かな?
 あと余談ですけど、日本の戦国時代の1800万~2000万石には北海道がはいっていないので、やはり面積がそれよりもかなり大きいパルス国では充分な食糧生産が可能であったと思われます。アルスラーン戦記8では、解放奴隷に土地を開拓させているくらいですから、それまでも土地の余裕は充分にあったのでしょう。>

これに関しては、イランの地形と気候から、まだ、わかりませんので、保留にしておきます。また、いまアメリカなどがやっている穀物の大量輸出は現在の技術をもってして可能なことですが、パルスの時代、主食類の輸出および輸入はあったのでしょうか。ブドウ酒や乾燥果物など嗜好品の類は別として、おそらく、主食類は自給していたのではないかと思います。ですから、当時、自給できる量の食糧でどれほどの人口を養えたのか、ちょっと調べてみようかと思います。

最後に、上記にて12万以上の騎馬が”可能”とは言いましたが、ペルシア帝国における総騎馬数がもっとずうっと少なかったことを考慮すると、この数字自体多すぎる感はやはり否めません。

board1 - No.1482

パルス食文化

投稿者:本ページ管理人
1999年07月08日(木) 01時14分

> アルスラーンが王族であることを多少差し引く必要があるでしょうが、これらからの記述から、パルス国では小麦と羊肉が主食である可能性が高いように思われます。日本の戦国時代をある程度参考にしたにもかかわらず、米はほとんど出てきません(T_T)。また、やたらと葡萄酒がでてくることから、葡萄の生産もさかんだったのではないでしょうか。

>あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に”乾”とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。

 やはり、アルスラーンが王族でエエモン食っているのは考慮するべきだと思います。たとえば、江戸時代の大名の食事を現在再現すると白米のご飯なんかが出てきて「これは伝統的な日本食だなぁ」というものが出来上がるでしょうが、当時の庶民が食べていた主食の実体は雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)なわけで、目に見える食文化にとらわれ過ぎると実体を見誤る事になりかねないと思います。

 ところで、私は昔トルコを旅行したことがあるのですが、その経験からみると、アルスラーンに出てくる食事はトルコ料理そのものであると思います(キョフテなんてそのものの料理名も出てくるし)。葡萄を多用するのもトルコ料理の特徴のひとつですね(葉っぱまで香りづけに使うくらい)。トルコとイランは隣国ということで、同じような食文化なのでしょうか。
 とりあえずパルスとイランが非常に似通った環境にあるとして、イラン料理ってどのようなものなのでしょうね。東京などにはあれだけ大勢のイラン人がいるにも関わらず、イラン料理が超マイナーなのは少々残念です。もっとも、ホメイニ師のお膝元ですから、イスラム教以前と以後ではかなり食生活が変化していそうな点は考慮しなければなりませんけど。

 あと私が食べた中近東の料理というと、ニューヨークに行ったとき食べたシリア料理がありますが、トルコ料理とは微妙に違うような感じを受けました(例えるなら中華料理とベトナム料理の違い?ようなカンジ??)。もっとも、いくら移民が作っているといってもニューヨークで食べたということでシリアそのものの料理とは違うかもしれないことは考慮しなければならないですけどね。
 まあ、そもそも、いくら「日本食」といわれるものを食べても日本の食事の実体などというものがわからないのと同様、現在の食文化の表面をなぞっても参考以上のものはわからないと思います。たぶん、書物や文献を当たったほうが速いでしょう。

 アルスラーンの影響ということで余談ですけど、トルコで実際に「エルマーチャイ」を飲んだときにはちょっとした感激でしたね。というか、これぐらいしかわかる言葉がなかったんですが(笑)

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