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投稿ログ10 (No.205 - No.218)

board4 - No.205

水戸黄門

投稿者:バスク大佐
2001年06月12日(火) 04時37分

>例えば「水戸黄門」と言うTV番組に対し
>「史実の水戸光くには~だから」とか、
>「史実の江戸時代は~ではない」とか、
>「悪代官と描かれていた~藩の藩主は、本当は~だった」とかを根拠にして、
>水戸黄門の脚本家は勉強不足だとか、偏っていると批判しているような感じでした。

実は今回の老公は歴史公証がそれなりによくできているんですよ。
江戸時代に白ヒゲの爺なんてスタイルは存在しないと言って権威のないツルあご爺さんに仕上がっていたり、
前副将軍という御決まりの肩書きも中納言に差し替えられています。
関係ない話ですみません。でもちょっと中国に関係する話になります。
安能務という人をご存知でしょうか?講談社文庫で最近彼の三国演義が出ました。
前書きで彼は、演義はフィクションであるから関羽の首が飛ぶのは仕方がないが
地理などで誤りがあるのはいけないと語っています。
いくら娯楽でも藩主の性格が変わるのはいいとしても、
昼間から黒装束の忍者が出現してはいけないのですよ。
変な文章ですみませんでした。

board4 - No.206

もう一度

投稿者:ユウ
2001年06月12日(火) 09時58分

文章をよく読んでいただければ分かると思いますが私は少数が多数を防いだ例は少ないという内容の文を書いたつもりです。ゲリラ戦についてもそれが戦争行為であるか、ないかが重要なのではありません。ゲリラは戦略的意味が無く戦術的意味が強すぎるので少数が多数に勝つ例としてはふさわしくないので分けただけです。もう一度文章を読んでいただければ幸いです。

親記事No.202スレッドの返信投稿
board4 - No.207

Re:レスと質問です

投稿者:ランゼル
2001年06月12日(火) 16時08分

初めまして、オズマさん。こちらこそよろしくお願いします。

> 確かに貴方の言うことにも一理あります。

ここである程度の同意が取れたと思うので、私としてはそれで充分です。
後は、勧善懲悪物として、オズマさんの定義する「それ以外の要素」をどこまで許容範囲と見なせるかと言う、個人差の話だと思うので。
ちなみに、私は批判風の記述の部分を現実世界に対する社会評論とは考えていません。小説の一部と考えています。
ですので、感想の繰り返しになりますが「現実と違うから田中氏は~だ」と批判している印象を、このHPの批判文から受けたので、違和感が出たわけです。

例えば、

> 少々脱線してしまいましたが、そこで水戸黄門ですが、私はそこに史学的な観点からの主張なんかは見てとれませんし、純粋なドラマ、それこそ勧善懲悪もの以外何ものでもないように思います。もちろんそれは私の考えであって、そこに史学を研究している人が「どうしても」許せない点があれば、それはそれでそれに相応しい場で議論することに異存はありません。

と言う相応しい場で、水戸黄門の脚本家は勉強不足だとか、偏っていると批判しているとしたら、違和感を覚えます。

後、質問なのですが、

> 田中芳樹の中国至上主義や、偏重左翼思想、自分勝手な教育論(まあそれらが彼自身の信念である以上、思想の自由からも、そういう考え方を持つな、なんてことはいいませんが、純粋に学問的な批判は可能なはずです)、それを小説の中であたかもそれを唯一の思想であるかのように述べること(これこそが一番ヤバイ)、なんかがその代表ですね。

の所で、

>小説の中で唯一の思想であるかのように述べる

のが、なぜ「ヤバイ」のでしょうか?
勧善懲悪ものでは、主人公は自分の正義を疑ったりしないと思うのですが。

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board4 - No.208

Re:感想の感想のレスを

投稿者:ランゼル
2001年06月12日(火) 16時09分

初めまして、恵さん。よろしくお願いします。

え~と、問いかけが多いので、思ったことを。

> 創竜伝を弁護される方、よく「あれは勧善懲悪物だから」とおっしゃいますが、仮に創竜伝が勧善懲悪物のフィクション作品なら、そもそも社会評論など入れる必要がないと思いませんか?(中略)でも、不必要な上に偏重した社会評論で設定を破壊するのはどうでしょうか?

私は創竜伝を勧善懲悪物として見ているので、
特に評論風の記述の部分を現実世界に対する社会評論とは考えていません。小説の一部と考えています。
従って、私にとっては創竜伝はあの形で完成品なので、特定の部分が不必要かどうかは、判断できません。

それと、

> ベスト収録の冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察シリーズ」

に関しては、

> 現実に立脚したバカ正直な批判ですので(相手はフィクション小説なのにね)

と冒頭にありましたので、私は現実世界と創竜伝世界の区別をした上で、
敢えて(エンターテインメントとして)書かれていると思っています。

従って、

> しかも、その内容ときたら、
>
> (一例)「刑務所や秘密警察で働く者は高貴ではありえない(大意)」
>
> などと、職業差別的なことを平気で述べておられます。作中人物の言葉ならともかく、「勧善懲悪物」小説の社会評論の部分で語るようなことではないでしょう。(中略)少なくとも、刑務所で勤務する人たちに罪はありませんし、そういう方が創竜伝を読めば気分を害されるのも当然ではないでしょうか?

と言う部分も、例えば確かに水戸黄門にやられた藩主の子孫は、気分を害するのも当然だろうな、とは思います。
でも、実在する藩主の子孫が、「水戸黄門は嘘つきだ」と水戸黄門の脚本家に主張しても、私は無条件に賛同はしないと思います。

> こういう矛盾を無視してまで「あれは勧善懲悪物・娯楽小説だから」と言えますか、ランゼルさん?

と言うわけで、特に勧善懲悪物として矛盾は感じていないので、私は言えます。

それと、

> わたしも、読んでいて小気味がいいと感じるときがあります。

と創竜伝を部分的にでも楽しんでいる恵さんが

> 創竜伝は「田中氏にとっての」娯楽小説のように見えます。

と娯楽対象を限定するような記述は不自然に感じました。

また、

> 社会評論でストレス発散して一番気分がいいのは、たぶん田中氏本人でしょうから。

の部分ですが、そもそも社会評論って書くとストレス発散が出来るのですか?
私は社会評論など書いたことがないので、良く解りません。

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board4 - No.209

Re:水戸黄門

投稿者:ランゼル
2001年06月12日(火) 16時16分

初めまして、バスク大佐さん。よろしくお願いします。

> 実は今回の老公は歴史公証がそれなりによくできているんですよ。
> 江戸時代に白ヒゲの爺なんてスタイルは存在しないと言って権威のないツルあご爺さんに仕上がっていたり、
> 前副将軍という御決まりの肩書きも中納言に差し替えられています。

情報ありがとうございます。
今回の老公の設定が今後の水戸黄門の標準になるのでしたら、
水戸黄門もリアル指向の時代になったのでしょうか。
でも、それでも水戸黄門である限りは勧善懲悪物になると思います。
悪代官に正義があったり、水戸黄門が負けることはないと思います。

> 安能務という人をご存知でしょうか?講談社文庫で最近彼の三国演義が出ました。
> 前書きで彼は、演義はフィクションであるから関羽の首が飛ぶのは仕方がないが
> 地理などで誤りがあるのはいけないと語っています。

え~と、勧善懲悪物の時代劇と歴史小説を同列に扱うのはどうかと思うのですが。
(語りたい内容と求められる歴史公証の質が違うと思うので)

従って、

> いくら娯楽でも藩主の性格が変わるのはいいとしても、
> 昼間から黒装束の忍者が出現してはいけないのですよ。

と言う部分で「いけない」と断定するのは言い過ぎのような気がします。

ただ、最初に投稿した感想で言いたかったのは、この例のように、昼間から黒装束の忍者が出現していることをもって、
水戸黄門の脚本家は勉強不足だと批判するのは、少し違うのでは?と感じた部分です。

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board4 - No.210

Re:もう一度

投稿者:とっしー
2001年06月12日(火) 17時14分

> 文章をよく読んでいただければ分かると思いますが私は少数が多数を防いだ例は少ないという内容の文を書いたつもりです。

 これは基本的に正しい認識だと思いますが

>ゲリラ戦についてもそれが戦争行為であるか、ないかが重要なのではありません。ゲリラは戦略的意味が無く戦術的意味が強すぎる

 これはどうでしょう?
 ゲリラ戦に戦略的意味が無いとは思えません。むしろゲリラ戦こそ劣勢側が局地的に多数となるための状況を作り出すため行う工夫の最たるものです。
 たとえばナポレオンのスペイン戦役、米のベトナム戦争、ソ連のアフガン戦争をご覧下さい。ゲリラ側はゲリラ戦を採用することにより、敵が最大の威力を発揮する正規戦を回避し、各地に隠蔽分散することによって
侵攻軍の各戦域への拡散を強要。そして局所的に敵がもっとも弱い部分を狙って精鋭でもって反撃を行い消耗を強います。
 以上、明らかに戦略的にも戦術的にも意義深い軍事技術です。
 戦争が単なる数比べで終わるなら、世界は中国人とインド人の制圧下にあるはずです。
 そうなっていないのは軍事力の有効性には戦力の運用効率というもう一つの重要な要素があるからです。
 戦略目的に添った効率的な運用効率とその基礎となる基礎戦力の双方を鑑みた上で戦力評価することが必要ですね。

>ので少数が多数に勝つ例としてはふさわしくないので分けただけです。もう一度文章を読んでいただければ幸いです。

 少数で多数を撃破した戦例は実のところ結構な数があります。
 特に近代以前はそうです。なぜなら膨大な軍勢を管理するシステムがなかった場合が多すぎたからです。
 圧倒的な数的優勢を誇る軍勢がその自己の重みに耐えかねて、ほとんど自滅といってよい形で自己崩壊した例はいくらでも挙げることが出来ます。
 田中芳樹作品で言えば、隋軍100万の高句麗遠征、また西洋史で言うならナポレオンのロシア遠征などが好例でしょう。

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board4 - No.211

Re:レスと質問です

投稿者:オズマ
2001年06月12日(火) 20時00分

こんにちはオズマです。

> ここである程度の同意が取れたと思うので、私としてはそれで充分です。
> 後は、勧善懲悪物として、オズマさんの定義する「それ以外の要素」をどこまで許容範囲と見なせるかと言う、個人差の話だと思うので。
> ちなみに、私は批判風の記述の部分を現実世界に対する社会評論とは考えていません。小説の一部と考えています。

まあ人によって創竜伝を勧善懲悪物の小説と判断するのは自由ですから。ランゼルさんがあくまでもそれを勧善懲悪小説というなら、それはそれでいいんでしょうし、私が幾ら勧善懲悪以外の要素を挙げてもおそらくかみ合わないでしょう。個人差ですから。

> ですので、感想の繰り返しになりますが「現実と違うから田中氏は~だ」と批判している印象を、このHPの批判文から受けたので、違和感が出たわけです。
>
> 例えば、
>
> > 少々脱線してしまいましたが、そこで水戸黄門ですが、私はそこに史学的な観点からの主張なんかは見てとれませんし、純粋なドラマ、それこそ勧善懲悪もの以外何ものでもないように思います。もちろんそれは私の考えであって、そこに史学を研究している人が「どうしても」許せない点があれば、それはそれでそれに相応しい場で議論することに異存はありません。
>
> と言う相応しい場で、水戸黄門の脚本家は勉強不足だとか、偏っていると批判しているとしたら、違和感を覚えます。

そこについては、水戸黄門を単なる勧善懲悪物とする大前提があるからこその違和感でしょう。それを史実ドラマとして捉える人にとってはランゼルさんの違和感は当てはまらないのではないでしょうか。田中芳樹小説についても同じことです。

> >小説の中で唯一の思想であるかのように述べる
>
> のが、なぜ「ヤバイ」のでしょうか?
> 勧善懲悪ものでは、主人公は自分の正義を疑ったりしないと思うのですが。

ここでもその大前提が出てきましたね。
それは勧善懲悪物と割り切っている人の視点でしょう。私は少なくとも創竜伝を勧善懲悪ものとして割り切ってはいませんし、さらに言わせてもらえれば、ランゼルさんの意見、「勧善懲悪ものでは、主人公は自分の正義を疑ったりしないと思うのですが」というのなら、主人公のみならず、読者にもその正義を疑わせないだけの説得力がほしいものです。そうでなければ勧善懲悪ものではありませんから。例えば桃太郎。「暴れまわる鬼がいました。ヒーローがそれを退治に出かけました。」そんな単純なほどの、ね。
ここでランゼルさんの疑問に対する答えですが、私もそこまで人間をアホだとは思いたくはありませんが、人間何かと権威には弱いもので、ベストセラーにかかれていることを鵜呑みにする人もいるってことです。
それが社会論評として出版されるならば、それは学問的な批評の対象となりますから、その批判の場があるわけです。しかし、それは小説である以上、その思想に対する批判の機会は予め完封されてしまいます。しかもランゼルさんがおっしゃられるように、(というよりそれは勧善懲悪ものに限らず小説とはそういうものですが、)疑問ももたないようにその正義を主張しています。それ故に鵜呑みにされやすいわけです(もっとも受け入れるか否かは人それぞれの個人差ですから、私の危惧も杞憂だといわれるかもしれませんが)。だから「ヤバイ」んです。自分の思想を語りたいんなら小説という形をやめろ、というのが私の意見ですし、このホームページで多くの人が主張していることです。
田中芳樹にそれを社会論評や哲学書、思想書として発表するだけの度量も無いでしょうから言うだけ野暮ですけどね(むしろ自分の勝手な思想が小説だからこそ許されることをわきまえている?)。
補足ですが、このホームページはそんな批判の機会をあえて作った場のように思います。

ではこのへんで。

board4 - No.212

ゲリラ

投稿者:ユウ
2001年06月13日(水) 04時25分

さてゲリラによる戦争ですが、ゲリラとは何をもってゲリラと成すかが重要になってきます。ゲリラ…遊撃戦,または遊撃隊.一般住民の支持を背景として,小部隊が奇襲,待ち伏せ,夜襲などの変則的な戦闘形式で敵を攻撃,その戦闘能力,戦意を低下させる戦法。またそのための小武装集団。(「ベトナム戦争とゲリラ」より)ということになります。そしてゲリラとテロの区別は非常に難しいとされています。また、ゲリラ戦には相手の十倍の兵を動員しなければ互角ではないというのが軍事上の常識となっています。そういう意味でアメリカは多数兵とは必ずしもいえません。ナポレオン、ソ連とも同様です。ここではそれを踏まえた上で述べています。また戦略的意味ですが、ベトナム戦争におけるゲリラ戦は必ずしもそれによる消耗、疲労による撤退を意図したとは言えないという背景があります、しかし、ナポレオン等の例は私にも再考する必要性を感じました。

>戦争が単なる数比べで終わるなら、世界は中国人とインド人の制圧下にあるはずです。
 そうなっていないのは軍事力の有効性には戦力の運用効率というもう一つの重要な要素があるからです。
 戦略目的に添った効率的な運用効率とその基礎となる基礎戦力の双方を鑑みた上で戦力評価することが必要ですね。
と言われていますが、中国人とインド人が戦争において弱かったのは兵器と戦術が古かった点につきます、またインド人の軍隊は言語が統一されておらず(一応されている規定であるが形骸化)結果小集団が多数に攻撃をしかけてしまし結果各個撃破されてしまうためです。また私の論述の内容は兵器、士気、補給、等など兵士数以外は全て整った状態の話です。しかも、近代は特に兵器に差があり単純に数では計れないので前述で”近代以外は”という内容の文を書いていると思います。
すなわち軍隊の肥大化による内部の崩壊というのは問題外で、これは外部と戦う前に敗北している、すなわち戦略的崩壊ということになります。戦略が誤っているのに戦術を論じるのは軍事上の誤りですから。
しかし、私にも説明不足な点があり、お詫びいたします。

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board4 - No.213

Re:ゲリラ

投稿者:とっしー
2001年06月13日(水) 06時18分

お返事ありがとうございます。

> また、ゲリラ戦には相手の十倍の兵を動員しなければ互角ではないというのが軍事上の常識となっています。そういう意味でアメリカは多数兵とは必ずしもいえません。ナポレオン、ソ連とも同様です。ここではそれを踏まえた上で述べています。

 踏まえた上なら、ゲリラ戦が軍事的な常識で十分説明できることを御納得いただけることかと思います。いや、ゲリラ戦は訓練も補給も指揮系統も作戦も不要だという妄論が、世間ではまかり通っているようでしたので。冷戦時代によく左翼系の学者が主張していた常備軍無き人民戦争論とか。

> と言われていますが、中国人とインド人が戦争において弱かったのは兵器と戦術が古かった点につきます。

 おそらく西欧諸国の侵略を指しておられるのだと思うのですが、例えば私が例に出した煬帝の高句麗遠征などは如何でしょう?
 また北方騎馬民族は重装備を擁し、圧倒的に数的優勢を誇る中国に対し、近代まで互角以上に対抗しています。
 大軍を編成できても、それを運用するシステムは全く別ということです。
 ナポレオンのロシア遠征がその好例で、ナポレオンという天才にあまりに依存していたフランス軍は、ナポレオン個人が管理できる限界を越えたため、戦う前にその勢力は数分の一にまで減少してしまいます。侵攻開始当時45万(ほかに15万の後衛あり)だった大陸軍はボロジノ会戦の時点で12万にまで消耗しています。この後に冬将軍の猛威によってこのあと僅か5000余りにまで打ちのめされますから、けして冬将軍だけがナポレオンの敗因ではありません。

>またインド人の軍隊は言語が統一されておらず(一応されている規定であるが形骸化)結果小集団が多数に攻撃をしかけてしまし結果各個撃破されてしまうためです。

 言語が統一されていないのは国民国家の成立をみる近代まで、けしてインドの軍だけの特徴ではありません。西欧も西アジア諸国もそういう例はいくらでもあります。

>また私の論述の内容は兵器、士気、補給、等など兵士数以外は全て整った状態の話です。

 たとえば大軍を編成した場合、その運用する際の困難さは単純に倍数で語りうるものではありません。
 進軍経路をとってみても、機動性を維持するため、縦列を短くするために分進の必要があります。これには個人の軍事的才能に依拠しない整備された官僚機構が必要となります。
 さらにその軍勢が必要な時点で一点に集結できなければアスターテの如き各個撃破の好餌となります。このため通信技術もまた一定のレベルが無くてはなりません。
 軍の規模が比較的小規模ならば、軍隊の足を重くする補給を現地調達で凌ぐことは出来ますが、大軍の場合、現地の物資を当てにすることは、大軍であればあるほど困難となります。
 従ってA、B両陣営の人的リソースが同一と仮定した場合、大軍を編成した側が優位であるとはけして言えません。
 大軍が小軍に比較して兵器、士気、補給のことごとくにおいて対等という仮定は両者によほどの国力差が無いと実現し得ないものです。
 むろん軍事学上の仮想論としては十二分に正しいですが、現実的では余りありません。

>しかも、近代は特に兵器に差があり単純に数では計れないので前述で”近代以外は”という内容の文を書いていると思います。

 ですので隋の遠征もご指摘しました。他にも御必要とあれば戦例を提示する用意はございます。

> すなわち軍隊の肥大化による内部の崩壊というのは問題外で、これは外部と戦う前に敗北している、すなわち戦略的崩壊ということになります。戦略が誤っているのに戦術を論じるのは軍事上の誤りですから。

 うーん。ここだけ見ればまったく同意見なのですが・・・
 ただ戦術的天才はしばしば戦略的失敗を覆してしまうものです。
 ナポレオン、項羽、義経などは戦略的失敗をしばしば戦場での軍事的勝利で覆しております。

> しかし、私にも説明不足な点があり、お詫びいたします。

 私も田中芳樹ネタではないことをえんえんと書いてしまい、お詫びします。無駄話、お付き合いありがとうございました。

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board4 - No.214

Re:感想の感想のレスを

投稿者:
2001年06月13日(水) 08時48分

> 初めまして、恵さん。よろしくお願いします。

こちらこそ、よろしくお願いしますね、ランゼルさん。

> 私は創竜伝を勧善懲悪物として見ているので、
> 特に評論風の記述の部分を現実世界に対する社会評論とは考えていません。小説の一部と考えています。
> 従って、私にとっては創竜伝はあの形で完成品なので、特定の部分が不必要かどうかは、判断できません。

読みとり方は人それぞれですから、あなたが創竜伝を勧善懲悪物として解釈するのはいいでしょう。わたしはそうは思いませんけど、別に自分の考え押しつけるつもりはないです。ただ、オズマさんもおっしゃっていましたが、読みとり方の前提があなたとわたしたちでは随分違うように思います。
まず、明らかに現実に起こった事件に対する批評(マハティール大統領批判etc.) は、たとえ小説の中に紛れていても間違いなく「批評」ですし、「これは小説だ、社会評論ではない」などという逃げのスタンスをとるが故に、田中氏はこのサイトで批判されているのです。あなたや田中氏の理屈が通るなら、「小説の一部」ということで創竜伝の中では何を言っても、どんな描写をしてもOKになってしまうじゃありませんか。仮に百歩譲ってそれを許したとしても、真っ当な手法(新聞に寄稿、本の出版etc.)で堂々と社会評論(批判)を書いている評論家の方々と比べると、すごく卑屈な行為だとわたしは思います。社会評論を書きたいなら、小説の看板を借りてコソコソ創竜伝に挿入しなくてもいいじゃないですか。はっきり言って、社会評論はストーリーの筋とは全然関係ないものも多いので、わたしには不必要にしか見えないんですけど。

> それと、
>
> > ベスト収録の冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察シリーズ」
>
> に関しては、
>
> > 現実に立脚したバカ正直な批判ですので(相手はフィクション小説なのにね)
>
> と冒頭にありましたので、私は現実世界と創竜伝世界の区別をした上で、
> 敢えて(エンターテインメントとして)書かれていると思っています。

冒険風ライダーさんの意図は、「創竜伝の偏向した社会評論は、現実と照らし合わせるとこんなに事実と違うんだ」ということだと思います。それは社会評論が間違っているのを示唆しているのであり、現実世界と創竜伝世界を区別したからといって、現実に向けた社会評論まで「創竜伝世界」として完結し、許されているわけではありません。何度も言いますが、どうして「現実の」マハティール大統領の批判等が「創竜伝世界」の社会評論に必要なんですか。そういうことを指摘する行為が「エンターテイメント」だとしたら、世の評論家の方々はみんなエンターテイメントとして評論をしていることになりますよ。この部分は、ランゼルさんが冒険風ライダーさんの言葉を、ご自分に都合良く解釈されているように思います。

> 従って、
>
> > しかも、その内容ときたら、
> >
> > (一例)「刑務所や秘密警察で働く者は高貴ではありえない(大意)」
> >
> > などと、職業差別的なことを平気で述べておられます。作中人物の言葉ならともかく、「勧善懲悪物」小説の社会評論の部分で語るようなことではないでしょう。(中略)少なくとも、刑務所で勤務する人たちに罪はありませんし、そういう方が創竜伝を読めば気分を害されるのも当然ではないでしょうか?
>
> と言う部分も、例えば確かに水戸黄門にやられた藩主の子孫は、気分を害するのも当然だろうな、とは思います。
> でも、実在する藩主の子孫が、「水戸黄門は嘘つきだ」と水戸黄門の脚本家に主張しても、私は無条件に賛同はしないと思います。

ちょっと待ってください。同列にして比べられない問題を無理矢理並べてたとえるのはやめてくれませんか?
もし、わたしが「竜堂兄弟に叩きのめされた政治家のモデルとなった人物が、創竜伝を読んで気分を害するのも当然です」と主張しているならともかく、わたしはそんなことは一言も言っていません。
どうして、
「刑務所や秘密警察で働く者は高貴ではありえない」
と、
「実在する藩主の子孫が、「水戸黄門は嘘つきだ」と水戸黄門の脚本家に主張する」
ことが同列の問題なのですか。前者は、田中氏が創竜伝の社会評論で、現実に「本当に刑務所で働いている人々」を「高貴ではない」と職業差別的に貶めている発言です。比べて後者は、「水戸黄門」というお芝居(フィクション)の設定・ストーリー上、たまたま自分の先祖を悪役にされた子孫が制作者に「けしからん!」と抗議(いちゃもんつけ)するという問題でしょう。(だいいち、水戸黄門って本当に実在した人物を悪役にしたりするんですか?詳しい方、情報をください)水戸黄門の放映中に、突然、ストーリーとは関係なく「もともと、商人や農民という身分は高貴ではありえない」なんてナレーションが入りますか?創竜伝で田中氏がやっているのはそういうことなんですよ。あなたが問題提起していることと、わたしの指摘している問題とは別次元のものです。いくら何でも、こんな無理なたとえ方で比較するのはやめてくださいね。
ちなみに、創竜伝の(ここではストーリーにまったく関係のない)社会評論は「現実に刑務所で勤務する人々」を侮辱していますが、水戸黄門は「こらしめた悪役」を侮辱してはいません。同じ「フィクション」でも随分違いますね。

> それと、
>
> > わたしも、読んでいて小気味がいいと感じるときがあります。
>
> と創竜伝を部分的にでも楽しんでいる恵さんが
>
> > 創竜伝は「田中氏にとっての」娯楽小説のように見えます。
>
> と娯楽対象を限定するような記述は不自然に感じました。

わたしは、創竜伝を「勧善懲悪物」としては見てはいませんけど、「娯楽小説」だとは思っています。両者は似て非なるものですし、わたし自身、「創竜伝は娯楽小説ではない」という主張もしていません。対象を限定するつもりはなかったのですけど、(「田中氏にとっても」と言えば良かったかもしれません。ここは訂正させていただきます)こういう風に表現した理由は後述しますね。

> > 社会評論でストレス発散して一番気分がいいのは、たぶん田中氏本人でしょうから。
>
> の部分ですが、そもそも社会評論って書くとストレス発散が出来るのですか?
> 私は社会評論など書いたことがないので、良く解りません。

簡単です。それは、彼の評論が偏向した内容で対象を「斬りまくって」いるからです。(対象は「日本」そのものが多いです)

~創竜伝2巻より引用~
「破局は栄華のきわみに、突然おそいかかる。日本もそうならないといえるだろうか。世界中から富をかき集め、それを国際社会に還元しようとしない。有色人種の国でありながら、人種差別を制度化したファシズム国家南アフリカと深い関係をむすび、名誉白人といわれて喜んでいる。戦争放棄をうたった憲法を持ちながら、軍事予算は、アメリカとソビエトにつぐ世界第3位である。どういうわけか、「人種差別撤廃条約」にも「大量虐殺禁止条約」にも「生物化学兵器禁止条約」にも知らぬ顔である。バランス感覚を失して、大金をかかえたまま一輪車にまたがり、他の人々を突きたおして走りまわっている。いずれ必ず転倒するだろうし、そうなったとき、誰も助けてくれないだろう」

たとえば、この評論を読んで、内容が正しいかどうかはともかく、書いたご本人が「自分は正論を書いている」という意義を持ち、快感を覚えているのは想像に難くありません。
わたしはこの評論の内容には疑問を感じますが、「ここまで一方的に(社会を)斬ってれば気持ちいいだろうなぁ~」とは思います。書かれないまま休眠中の他のシリーズを差し置いて、田中氏が創竜伝を意欲的に執筆していることもその証拠になるのではないでしょうか。
また、
「他人の批判(悪口)を言うと、すっとする」
というのは、程度の差はあっても、誰でも持っている感情だと思います。もちろん、わたしも社会評論を書いたことがありませんが、突き詰めていくと田中氏の偏向した上に一方的な(つまり根拠が少ない)社会評論は「他人の批判(悪口)を言うと、すっとする」というレベルでしかないと思うんです。

えっと、けっこう長い反論になってしまいましたけど、前提となる「創竜伝の社会評論をフィクション(小説)ととるか、現実の社会評論ととるか」でお互いの見解が大きく異なるのは仕方ないことかもしれません。ただ、わたしは思うのです。「あれは小説だから」という逃げ口上が、本当に田中氏にとっての弁護になっているのかな、と。小説なら小説として完結していればいいし(現実の評論などせずに)、上記のように社会に対して何か言いたいことがあるなら、「社会評論」の本として発表すればいいのです。評論を書いたことによる批判をかわすためだけに、「小説」の看板を使うのはおかしいのでは?というのがわたしたちの意見なんですよね。

p.s.
反論されるのを覚悟で、(アンチの)タナウツ掲示板(笑)に書き込まれたランゼルさんの勇気には敬意を表します(^_^)

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board4 - No.215

Re:感想の感想のレスを

投稿者:Merkatz
2001年06月13日(水) 09時00分

ランゼルさん、はじめまして。
既に他の方からレスがありますので、私からは少しだけ。

創竜伝において問題なのは社会評論だけではありません。
仮にそちらに目をつむるとしても、小説としてのストーリー破綻という致命的な欠点があるのです。
この辺りについては冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察シリーズ」でも述べられていますので、
一度目を通されてはいかがでしょうか。

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board4 - No.216

Re:ゲリラ

投稿者:太郎
2001年06月13日(水) 10時18分

とっしーさん、はじめまして。太郎と申します。

横レスで申し訳ないのですが、ちょっとお聞きしたいことがあります。
それは以下の部分です。

>  うーん。ここだけ見ればまったく同意見なのですが・・・
>  ただ戦術的天才はしばしば戦略的失敗を覆してしまうものです。
>  ナポレオン、項羽、義経などは戦略的失敗をしばしば戦場での軍事的勝利で覆しております。

とのことですが、ナポレオン、項羽はともかく義経のことに関してなんですが、この場合の戦略的失敗とは具体的には何をさすのでしょうか?もちろん義経の戦術的才能がなければああも簡単に平氏側が敗れることはなかったというのならわかりますが、それ以前に頼朝の戦略がまずかったという評価はあまり聞いたことがないのですが。
私が知らないだけなのかもしれませんが、そのあたりどうなのでしょうか?
ちょっと話の流れからずれるかもしれませんが、よければお教え願えないでしょうか。よろしくお願いいたします。

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board4 - No.217

Re:ゲリラ

投稿者:とっしー
2001年06月13日(水) 10時49分

太郎さん、ご質問にどこまでお応えできるかわかりませんが、お答えさせて頂きます。

> とのことですが、ナポレオン、項羽はともかく義経のことに関してなんですが、この場合の戦略的失敗とは具体的には何をさすのでしょうか?もちろん義経の戦術的才能がなければああも簡単に平氏側が敗れることはなかったというのならわかりますが、それ以前に頼朝の戦略がまずかったという評価はあまり聞いたことがないのですが。
> 私が知らないだけなのかもしれませんが、そのあたりどうなのでしょうか?
> ちょっと話の流れからずれるかもしれませんが、よければお教え願えないでしょうか。よろしくお願いいたします。

 義経の行った対平氏戦、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いはいずれも当時の常識では源氏軍が勝てるはずが無い戦いです。
 たとえば一の谷では海と山に挟まれたところに陣取った平氏の本営は、東から攻撃をかけてくる源氏にとり難攻不落で、実際に木曽義仲が撃退されており、また源氏軍の主力を率いた源範頼も苦戦しております。
 しかも一の谷に展開した平氏の軍勢は3万ほどと推測されており、1万強程度の源氏方より遥かに優勢でありました。
 補給状態も当時西日本は不作に喘いでおり、食糧事情がかなり逼迫しておりました。
 水軍を擁し、福原港を利用できる立場にある平氏に比べ、源氏側のそれは遥かに事情は悪いものでした。
 京都という大人口地帯はもとから余剰食糧が少なく、さらに既に木曽勢が京都からさんざん徴発を繰り返していましたし、ここで無理な食糧調達を行えば木曽と同じく鎌倉も京都を追われる羽目になりかねないため、どうしても彼らは短期決戦で勝つ必要があったのです。
 源氏の一の谷攻撃は軍事的な情勢判断よりはむしろこうした政治的な事情から行われています。
 こうした無茶苦茶な背景を持つ作戦が成功したのは義経がわが国史上稀に見るほどの軍事的天才だったからで、それ以外の理由は補強材料に過ぎません。
 義経は正面から名乗りを挙げて正々堂々と行う当時の野戦の慣わしを無視した奇襲を企図、さらに軍事的に行動不可能とされる山岳地帯の強行軍を決断し、これを覆しました。

 屋島、壇ノ浦についても思うところはありますが、全然田中芳樹に関係ないので割愛します(^^;

親記事No.202スレッドの返信投稿
board4 - No.218

Re:レスです

投稿者:ランゼル
2001年06月13日(水) 17時56分

こんばんわ、ランゼルです。

あれ?

> ここでもその大前提が出てきましたね。
> それは勧善懲悪物と割り切っている人の視点でしょう。

え~と、大前提と言われても、元々の感想が勧善懲悪物として見ている私から見て…という物なのですが。

私はオズマさんが前回、勧善懲悪物に一定の理解を示したと思ったので、
勧善懲悪物としてみることを前提で、あの様に書いただけなので。

> 私は少なくとも創竜伝を勧善懲悪ものとして割り切ってはいませんし、

勧善懲悪物と見えないのなら、単に見方の問題なので、特に問題はないと思います。

そして、勧善懲悪物としてみたとき、このHPの批判が変に感じることが伝わればいいです。

> さらに言わせてもらえれば、ランゼルさんの意見、「勧善懲悪ものでは、主人公は自分の正義を疑ったりしないと思うのですが」というのなら、
> 主人公のみならず、読者にもその正義を疑わせないだけの説得力がほしいものです。
> そうでなければ勧善懲悪ものではありませんから。例えば桃太郎。
> 「暴れまわる鬼がいました。ヒーローがそれを退治に出かけました。」そんな単純なほどの、ね。

これに関しては、どうでしょう?

オズマさんの主張は、水戸黄門ですら史実ドラマとして捉えて、勧善懲悪物として書いた脚本家を批判する人がいると言う物なので、

> 読者にもその正義を疑わせないだけの説得力

を持たせるのは、非常に難しいと思いますが。従って全て個人の解釈になると思うので、創竜伝が勧善懲悪物と読めても、読めなくても人それぞれという結論になると思います。

> ここでランゼルさんの疑問に対する答えですが、私もそこまで人間をアホだとは思いたくはありませんが、人間何かと権威には弱いもので、ベストセラーにかかれていることを鵜呑みにする人もいるってことです。
> それが社会論評として出版されるならば、それは学問的な批評の対象となりますから、その批判の場があるわけです。しかし、それは小説である以上、その思想に対する批判の機会は予め完封されてしまいます。しかもランゼルさんがおっしゃられるように、(というよりそれは勧善懲悪ものに限らず小説とはそういうものですが、)疑問ももたないようにその正義を主張しています。それ故に鵜呑みにされやすいわけです(もっとも受け入れるか否かは人それぞれの個人差ですから、私の危惧も杞憂だといわれるかもしれませんが)。だから「ヤバイ」んです。

お答えありがとうございます。ヤバイと思っている根拠は解りました。

ただ、

> 私もそこまで人間をアホだとは思いたくはありませんが、人間何かと権威には弱いもので、ベストセラーにかかれていることを鵜呑みにする人もいるってことです。

と言う部分をもって創竜伝がヤバイとしているのは、問題があるような気がします。

なぜならこれは、
オズマさんが鵜呑みにする人間と言っているか、
オズマさんは鵜呑みにしないが、他のオズマさんの定義する権威に弱いアホだという人間が鵜呑みにするだろう、と言っているのと同じですから。

前者なら鵜呑みにするオズマさんがヤバイだけですし、
後者なら、どうしてオズマさんが鵜呑みにしなかったのに、他の人間が鵜呑みにすると思うのでしょうか?
この意味でのヤバイに関しては、杞憂だと思います。

後、オズマさんの意見を読んで疑問に感じたことです。

オズマさんの田中芳樹氏への批判の根拠は、中国至上主義や、偏重左翼思想、自分勝手な教育論などを小説に載せるな、と言う物だと思うのですが、
オズマさん本人は、その思想が、本当に田中芳樹氏の思想であると考えていますか?

つまり、小説に(小説の内容に沿った)偏った思想を載せるから問題にしているのか、
小説に自分の思想を載せるから問題にしているのかと言うことです。

前者なら、作家、田中芳樹氏の創作手法に対する批判(例えば「創竜伝は左翼思想小説だ」のような)ですが、
後者だと、人間、田中芳樹氏の思想に対する批判(例えば「田中芳樹氏は現代日本を歪めて書いている、それが氏の思想だからだ」のような)を含むので、それが田中芳樹氏の本当の思想だと示す必要があると思います。

一例としては、思想が創竜伝に依存しているのか、創竜伝を離れても、その思想は生きているのかと言うことです。
田中芳樹氏の本当の思想なら、創竜伝に関係なく、あらゆる媒体で生きると思います。

逆に創竜伝だけなら、それはその思想の表現の場を田中芳樹氏自らコントロールしているのであり、それは即ち、創竜伝で意図的に出している思想、創竜伝だけのための思想と言うことになりませんか?

> 自分の思想を語りたいんなら小説という形をやめろ、というのが私の意見ですし、このホームページで多くの人が主張していることです。
> 田中芳樹にそれを社会論評や哲学書、思想書として発表するだけの度量も無いでしょうから言うだけ野暮ですけどね(むしろ自分の勝手な思想が小説だからこそ許されることをわきまえている?)。
> 補足ですが、このホームページはそんな批判の機会をあえて作った場のように思います。

私のように、良く解っていない人間に説明してくださると嬉しいです。

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