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投稿ログ6 (No.125 - No.137)

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board4 - No.125

Re:はじめまして

投稿者:魂のよしりん
2001年05月11日(金) 22時08分

> どうも、初めまして
> いつも興味深く読ませていただいてます
>
> 既に出た話題かもしれないので恐縮ですが
> 銀英伝の「ヴェスターラントの虐殺」について疑問があるので皆さんの意見が聞かせてください
> あの話はいろんな意味で銀英伝の重要なポイントとなっていますが
> そもそもラインハルトがヴェスターラントを見捨てる必要はあったのでしょうか?
> 確かに記録映像は効果があったようですがそもそも虐殺未遂だけでも充分宣伝になるのではないでしょうか
> あれをラインハルトが止めに行っていたら貴族連合の名をおとしめるだけではなくて
> 「民衆の味方としてのラインハルト」という位置を決定付けることが出来たというのは素人考えでしょうか?
> 賛成でも反対でもぜひ意見を聞かせてください
 あれは田中芳樹が「大のために小を殺すことがはたして正しいのか」
ということを書くために出してきたエピソードではないでしょうか。
大学の教養の英語の時間に「リア王」(について書いた本)をやりまし
たけど、「リア王」の最初の方にグロスター伯の庶子エドマンドが「二
人で父を殺して財産を山分けしよう」という嫡子エドガーの手紙を父に
見せるシーンがあるそうです。そこでは「父が息子の筆跡を知らないの
か」という疑問は読者が進んで停止しなければならないとも書いてあり
ました(自分はそもそも何もしなければ全部自分のものになるの
に、何でわざわざやばい橋を渡って半分にしなければならないの
か、借金で首が回らなくなっているわけでもなさそうなのにと思いまし
た)。

親記事No.123スレッドの返信投稿
board4 - No.126

辻褄合わせ

投稿者:よしを
2001年05月12日(土) 01時44分

>  あれは田中芳樹が「大のために小を殺すことがはたして正しいのか」
> ということを書くために出してきたエピソードではないでしょうか。
> 大学の教養の英語の時間に「リア王」(について書いた本)をやりまし
> たけど、「リア王」の最初の方にグロスター伯の庶子エドマンドが「二
> 人で父を殺して財産を山分けしよう」という嫡子エドガーの手紙を父に
> 見せるシーンがあるそうです。そこでは「父が息子の筆跡を知らないの
> か」という疑問は読者が進んで停止しなければならないとも書いてあり
> ました(自分はそもそも何もしなければ全部自分のものになるの
> に、何でわざわざやばい橋を渡って半分にしなければならないの
> か、借金で首が回らなくなっているわけでもなさそうなのにと思いまし
> た)。

返答ありがとうございます
その本の考え方が正しいとすればヴェスターラントもつっこんではいけ
ないのだと思いますが、自分はそうは思いません
物語というのは仮想現実であってその中の人物は出来る限りリアルに動かなくてはならないと思うからです
しかし、リア王と銀英伝では条件が違うと思います
自分はリア王についてまったく分かりませんがその手紙は
エドマンドが用意した物のようですね
それで筆跡がどうのと書いた本があるようですが筆跡は真似ることが出来ます
また、魂のよしりんさんが指摘されている「分け前が半分になる」という物ですが、
父親の暗殺後、もしくは暗殺時にエドマンドも始末すれば分け前は減りません(笑)
父親はそこまで考えたのではないでしょうか?
このようにリア王は拡大解釈すれば辻褄が合うのですが銀英伝の場合、
自分には納得できる辻褄合わせが見つかりません
(文を読む限り魂のよしりんさんもヴェスターラントはおかしいという方向性で考えていると取ってよろしいでしょうか?)
出来ることならばあの虐殺の必然性をストーリーの面では無く、仮想現実世界としての面から見つけたいのです

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board4 - No.128

Re:辻褄合わせ

投稿者:S.K
2001年05月13日(日) 02時10分

> 出来ることならばあの虐殺の必然性をストーリーの面では無く、仮想現実世界としての面から見つけたいのです
横レス失礼いたします。
ヴェスターラント虐殺の看過ですが、理由としてはラインハルト側に
予定外の戦線拡大をするだけの余裕がなかったのだと思われます。
9巻にてオーベルシュタインがラインハルト暗殺未遂犯に対して
「あの虐殺を阻止していれば戦乱の収拾は半年は遅れた」
的な発言をしていますが、あれは大義名分の確立の意味だけではなく
実際に虐殺阻止を行った場合のシミュレーションの結果でもあったの
でしょう。
総体的にいかに愚劣で脆弱とはいえ貴族連合軍は400年に及ぶ蓄財
による軍備を持ち、またこの段階では名将メルカッツやファーレンハイ
トを軍事指揮官に擁しています。
参謀総長たるオーベルシュタインが予定外の会戦を避けたいと判断する
のはやむを得ない状況だと思います。
事後、キルヒアイスがラインハルトを非難したのはこうした実情を踏まえた上ではなく純粋に人道上の思いからでしょう(だから彼はラインハ
ルトにとり「部下」や「副官」ではなく「友人」として貴重だったので
すが)。
仮想現実におけるあの一件の説明として、以上のような解釈でいかがで
しょうか。

追記:管理人様、申し訳ありません127番の投稿をしくじった後
   完全な削除ができません。
   消去をお願いしてよろしいでしょうか。

親記事No.124スレッドの返信投稿
board4 - No.129

Re:海嘯について

投稿者:小村損三郎
2001年05月13日(日) 15時28分

この作品については以前に一部文章を引用していますので過去ログまたはザ・ベストをご覧ください。
まあ、そこでも書いてますが、とにかく銀英伝であれだけ否定していたはずの

「王朝の再興」
「国家への献身」
「不動の信念」
「滅びの美学」

といった要素を全編で全面的に全肯定してるというものすごい作品です(^^;;)。

でも個人的には中国物の中では結構好きな作品。
いや、基本的に「滅びの美学」物は好きなもんで(笑)。

言うまでもありませんが、現在放送中の『北条時宗』とほぼ同時期のお話です。

board4 - No.130

ふとおもうこと

投稿者:見学者
2001年05月14日(月) 03時19分

>この作品については以前に一部文章を引用していますので過去ログま
>たはザ・ベストをご覧ください。
>まあ、そこでも書いてますが、とにかく銀英伝であれだけ否定してい
>たはずの

>「王朝の再興」
>「国家への献身」
>「不動の信念」
>「滅びの美学」

>といった要素を全編で全面的に全肯定してるというものすごい作品で
>す(^^;;)。

横レスですが、してたんですか。している人としてない人を同時に出して、問い掛けていたような気がしますが。やりかたはへただけどね。

 ちなみに、私は、作品としては嫌いです。文天祥がそんな大才ともおもえんので。科挙の成績と、自身の才幹と、気概は別物だと思うので。卑劣だけど有能な人はいるし、高潔だけど無能な人はいるのだから。

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board4 - No.131

Re:海嘯について

投稿者:平松重之
2001年05月14日(月) 04時06分

「国に殉じて死ぬなんて馬鹿らしい」というのは、おそらくは田中氏の基本的な考えだとは思いますけど、徹底した考えではないと思います。 かのヤン・ウェンリーにしてからか、敬愛するアレクサンドル・ビュコックが同盟に殉じたと知った時でも、

(第七巻P178下段)

 人命を国家の滅亡時に供するという思想を、ヤンは否定したいのだが、ビュコック元帥の選択を非難する気にはなれなかった。

 との事ですから、要するに殉死者の行動に対して感動・共感・理解出来れば称揚するが、出来なければ単なる大バカ者(笑)としか見ないと言う事なのでしょう。「王朝の再興」 「国家への献身」「不動の信念」にしても、要は「感動・共感・理解出来るか出来ないか」という基準で左右されているのはないかと思います。

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board4 - No.132

Re:個人的意見(管理人さん&恵さんありがとうございます)

投稿者:ウシマル
2001年05月15日(火) 03時36分

> 現在、個人的事情により(今月末まで仕事にて出張中)本格的な書き込みが出来ないでいます。
> 大変申し訳ありませんが、返答まで時間がかかることをご了承ください。

 はい。了解です。別にせっつくつもりは毛頭ありませんから、まずはお仕事ガンバッて下さい。しかし、待っているのはなんかテストが帰ってくる生徒のような心境ですな。ドキドキものです。
 それと
 恵さん、はじめまして。そしてありがとうございます。
 確かにこの意見は、僕から管理人さんへ発信したものですが、僕一人ではわからないことは多々ありますし、個人の考え方や物事の捉え方は千差万別ですから、多くの人の意見が聞けることは貴重なことだと思います。
 恵さんのおっしゃることは、確かに一々もっともだと思います。ですが、ちょっと言葉が足りなかった感もあるので、一応僕の意見も書かせていただきます。

(引用)田中氏の作品には中国を舞台にした物も多く(翻訳物も含みます)、その完成度の高さ(賛否両論あるでしょうけど)からもご本人に中国の歴史と文学に関する蘊蓄がかなりあることは間違いありません。「代表者の一人」という言い方は「管理人さんが感じる世間一般のイメージ」かもしれませんが、少なくともそう呼ばれてもおかしくないだけの経歴と素養は、田中氏にはあると思います。

 そう言われればそうですね。過去の活動実績を見れば、そういう評価がされることも充分頷けます。ただ田中芳樹という作家を知っている人であれば、だと思います。僕は「代表者の一人」ではない、というつもりではありません。ただ田中氏がマイナーだとは決して思いませんが(むしろメジャーなほうだと思っています)、世間一般の認知度がどれくらいあるのか知らないのです。中国を舞台にして小説を書いている人は他にも大勢いますが、その中でどれだけ広く知られているか、客観的なデータがあってのことかと思ったのです(実際のところ何部売れているのでしょう。詳しいこと知らないんですが)。と、いいますのも、これだけインターネットが普及している現在、このサイトを訪れる人の中には作家・田中芳樹を知らない人もいるのではないか、その人が批評を読むに当たり余分な先入観が与えられてしまうのではないか、と心配したわけです。杞憂でしたでしょうか。

(引用)「事あるごとに」というのは、言い過ぎかもしれませんね。でも、普通に生活してたら、わたしたち日本人がそもそも中国の格言を知っていても使う機会はまずないんじゃないでしょうか?小説の中とはいえ、それをあえて何度も使わせているのは、「田中氏は自分の知識を無用に誇示したいのではないか?」と管理人さんは言いたかったんだと思います。わたしも、冗談以外で格言(というか、ことわざ)を使ったことはありませんから(笑)、読んでいて違和感はありましたけど。

 そりゃそうですね。僕だって普段使っているか、と問われたら使ってない、と答えるでしょう。だって、使っているところ思い出せませんから。思い出せないと言うのは使ってないか、気づかないほど自然に使っているかでしょう。後者ではありえないから、やっぱり前者でしょうね。まあ、蛇足とか矛盾とか簡単なものなら使っているかもしれませんが。でも登場人物にことわざや故事成語を言わせるのは田中氏に限ったことではないと思うし(但し、具体例はありませんので単なる思い込みかも)、小説の台詞が芝居がかっていてもおかしくはないと思うので、僕は違和感はなかったですよ。

(引用)わたしも儒教にあまり詳しくありませんけど、確か儒教は「革命」を肯定しているから体制にとって危険だ、と聞いたことがあります。体制側は当然、自身の永続的な維持を願うものですから、「革命を肯定する思想などけしからん!」ということではないでしょうか?

 そうなんですか。僕は根気がないので(そういう問題か?)『論語』も全部読んでないんです。何処に書かれているかご存知でしたら、ぜひ教えて下さい。

(引用)この主張は田中氏の弁護になっていないと思います。再販の企画自体は出版社の意向でも、田中氏は納得できなければ拒否すればいいのですから。もちろん、再販されたものは「田中芳樹」の名前で販売されているわけですから、企画の流れをご本人が知らないわけはありません。過去に掲示板でも議論されましたけど、田中氏と出版社の力関係は、田中氏のほうが圧倒的に強いとの仮説も出ています(わたしも賛成です。ベストセラー作家の田中氏がもう書かないぞッ、とへそを曲げたら困るのは出版社の方でしょうから)。つまり、ご本人は拒否できる立場にあるのにそれをなされないのは、再販にある程度肯定的だからではないでしょうか?もしかすると、人のいい田中氏が出版社に拝み倒された、という読者の知らない事情もあったかもしれません。でも、あこぎな金儲けを批判する(創竜伝の社会評論等)田中氏にとって、それが免罪符になるとはわたしには思えませんけど、どうでしょうか?

 前にも書きましたが、ハードカバー(に限りませんが)で出版された本が文庫になって発売される、というようなことは以前から行われていることです。これ自体は僕の経験で言えば、中学、高校のお金がないころは高いハードカバーより安い文庫になってくれたほうが、はるかにうれしかったものです。陰謀うんぬんは冗談にしても、購買層を広げる意味では的確ではないでしょうか。田中氏が拝金主義を批判していながら、拝金主義に手を染めているのであれば確かに問題ですが、購入者がいなければお金にならないのだし、買う・買わないは購入側に選択権があるのは前に書いたとおりだと思います。田中氏も、同じ人が2冊も3冊も買ってくれるものと期待しているわけではないと思います。あと、出版社との力関係ですが、恵さんのご意見も説得力ありますけど、僕は逆転していないと思うのですが・・・。確かに出版社にとってお金になる人物なのは、実際に出版されていることから間違いはないと言えますが、出版社の経営戦略にまで口が出せるほどなんて、そうそうなるものじゃないと考えてます。もちろん勝手な思い込みですが。

最後になりましたが、おまけの部分ではありがとうございます。こう言って頂くとうれしいです。推敲を重ねた甲斐があったと言うものです。いつもこう思われるようにしたいものですね。

親記事No.116スレッドの返信投稿
board4 - No.133

Re116:過去の管理人さんの主張と私の解釈に基づく先行解答

投稿者:冒険風ライダー
2001年05月15日(火) 15時19分

 ウシマルさん、はじめまして。
 管理人さんがしばらく出張するとのことですので、過去の管理人さんの主張を元にして私がある程度の解答を出しておくことにしましょう。
 それと管理人さんがレスを返すまでの間に、他のザ・ベストファイルなども読まれておいた方が良いと思います。下でも書きますけど、そちらにウシマルさんの疑問に対する解答が書かれているものがあったりしますので。

<また、主人公が読書型の知識人であるのが現代物で一貫してとっているスタンス、と言いますが、まだまだ半人前の大学生であったり、傭兵であったり、警察官であったり、一貫しているとは思えません。さらに「高次元の正論家」なのも一貫していると言いますが、引用している『地球儀の秘密』の中でも姪の多夢のこととなると、と限定されており、どんな時もそうであるとはされていません。むしろ自分のことになるととたんにレベルが下がる、とまで書かれています。他の作品においては何をかいわんや、でしょう。>

 「読書型の知識人」というのは職業設定ではなく性格設定のことを指しているのではないですか? 教師とか学者とかいった具体的な職種を指しているのならともかく「読書型の知識人」だけでは、職業設定を指す言葉としてはあまりにも具体性がなさすぎるのですけど。
 ここで管理人さんが主張している「読書型の知識人」というのは「趣味で何十冊もの本を乱読・熟読しており、そこから多くの知識を得ている読書マニア」のことを指しているのであって、別に「大学生」だの「教師」だの「警察官」だのといった特定の職種を指しているわけではないでしょう。性格設定であれば、現代物どころか田中作品に登場している主人公達のほとんど全てが、かなりの確率でこのスタンスを踏襲しています。銀英伝のヤンもそうですし、アルスラーン戦記のナルサス、タイタニアのジュスランなどもこの範疇に入ります。
 現代物に限定するとしても、ウシマルさんが挙げられた3作品の主人公以外に「夏の魔術シリーズ」の能戸耕平、「薬師寺シリーズ」の泉田準一郎、短編でも「冬木涼平シリーズ」の冬木涼平、それに何よりも田中作品現代物小説の代表格たる「創竜伝」の竜堂始があの定義に当てはまります。どう考えても、かなりの確率で「読書型の知識人が主人公」というスタンスを貫いているようにしか見えませんが。

<さらに、白川周一郎が「事あるごと」に故事成語など使うとありますが、『地球儀の秘密』で故事成語を使っている場面は、
 「やれやれ気の毒に。狡兎死せざるにすでにして走狗は煮られたり、か。(後略)」P64
 「いわく、渇しても盗泉の水を飲まず。餓えても周の粟を喰らわず、だったかな」P64
 「(前略)おれは自信家だが、シグマが三顧の礼をつくして求めてくるとまでうぬぼれちゃいない。(後略)」P68
ぐらいしか有りません。次点として、
 「(前略)倉橋浩之介氏は偉大だと思うけど、シグマの粟を食らう気にはなれないな」P103
というところでしょう。ほかにも故事成語を使っている場面はありますが、それは別の人物で、白川周一郎のものとしては上記のものだけです。
 これだけで果たして「事あるごと」と言えるでしょうか。>

 あの文章で管理人さんが言いたかったのは「白川周一郎が事あるごとに故事成語を使う」ということではなく、「田中芳樹が中国系の知識に精通している」ということなのではないでしょうか。本論2の原文である↓

<田中芳樹が中国古典(特に老荘思想)を溺愛しているのは周知の事実であるが、例にもれなく、この白川周一郎も事あるごとに中国格言を引用する。>

 という文章を見ても「田中芳樹が中国古典(特に老荘思想)を溺愛しているのは周知の事実」の部分を強調するために、あえて白川周一郎の事例を出したと解釈できるのですが。
 それに仮にウシマルさんが仰られる通りの内容で管理人さんが「白川周一郎が事あるごとに故事成語を使う」と主張していたとしても、恵さんも仰られているように普通一般の日本人がめったに中国格言など使わない環境下において、しかも200ページに満たない小説1冊の中で、さらには全ページの6~7割ぐらいしか登場していないキャラクターの言動として考えると、格言引用数3~4回という数値はむしろ多い部類に入るのではないかと思うのですが。

<ここで言われているのは、先程の10作中の3作品のことですね。この3作品は『自転地球儀世界シリーズ』、『晴れた空から突然に・・・』、『夢幻都市』です。
 それぞれ、白川周一郎・多夢、梧桐俊介・日記、相馬邦夫・葉月のカップリングになっています。二人の関係はと言うと、前の2つが「叔父・姪」で後の1つが「父・娘」です。主人公は、立場的にも社会的にも弱い少女を守る保護者です。田中氏は肉親の情に厚い、面倒見のいい人なんですね。(笑)
 それはともかく、これも実像とは言い難いある種のイメージを、不要に読み手に喚起していると思います。田中氏に対する負のイメージを植え付けていると言うか、そんな感じです。>

 これに関する解答は以下の通りです↓

初代掲示板 No.711(ザ・ベスト「私は創竜伝をこう読んだ・その3」収録)
<これについては、過去に掲示板やメールで様々な方から忠告されています。私も、異論はありません。
 これらの初期のコンテンツは、直そうと思えばいつでも直せましたし、レイアウトを変更したときなど、直す機会もありました。
 それにも関わらず修正しなかったのは、散々得意げに開陳しておいて、いざとなったら都合の悪い部分を隠すという方法が、私にとって感覚的にイヤだったからです。もし、これが事実誤認や当方の認識不足などのような緊急を要す場合でしたら修正や補記(例えば盗泉における水経注の指摘のような)・謝罪をしますが、この件については私はそこまでする必要もないことだと思っています。
 もちろん、「口汚くののしりやがって」と思われるのは自由ですし、私もそう思われても仕方がないと思っています。そして、指摘されたからと言って隠したりせず、それを甘んじて受けることが責任ではないかと、私個人は考えています。とにもかくにも、あのような形で発表してしまったことの責任はとらなくてはならないと思うのです。>

 これでウシマルさんの疑問に対する解答には充分になっているのではないでしょうか?

<また、田中氏作の『創竜伝』の1シーンを引き合いに出しているところがあります。そこでは、主人公たち(竜堂兄弟)の叔父(鳥羽靖一郎)が『荀子』の性悪説の誤用したことをあげつらって喜んでいる、と書かれています。このところを読めば田中氏にいい印象はもてないでしょう。ですが、本編を実際に読めば印象が変わると思います。鳥羽靖一郎は自分が悪いことをしていると自覚していながら、その自分の行動を正当化するために読んでもいない『荀子』の性悪説を持ち出しているわけで、誤用というような簡単なものではなく、自分の都合のいいように意味を捩じ曲げている、悪用とでもいうものです。本来の意味も知らずに言葉を悪用しているのを、それは違う、一度でも本当の文章を読んだのか、と詰め寄ることをあげつらっていると悪い印象で言われたらどうしようもないように思います。それにこういう批判の文とはいえ、相手をバカ呼ばわりしたら、これは単なる悪口に成り下がってしまうとのではないかと考えます。>

 鳥羽靖一郎の性悪説誤用を指摘し、正しい意味を教え諭すという「だけ」であるのならばそれはそれで結構なことです。しかし連中は、性悪説を誤用した鳥羽靖一郎相手にこんなことをほざいています↓

創竜伝3巻 P78上段
<「荀子は、不正をはたらく政治家を、こんなにも憎んでいたんですよ。叔父さんとはえらい違いですね。叔父さんに好きといわれて、さぞ荀子も迷惑なことでしょう」>

 これは明らかに性悪説誤用に対する批判には全く不要なセリフでしょう。こんなことを言われたら、たとえその主張内容が正しかったとしても、説教(というより侮辱)された相手は説教者に対して悪感情を抱くに決まっているではないですか。それにウシマルさんの主張だと「批判の文とはいえ、相手をバカ呼ばわりしたら、これは単なる悪口に成り下がってしまう」のではないのですか?
 さらに創竜伝5巻では、「諸葛亮孔明」を誤用した敵に対して、竜堂始がこんなことを述べていますな↓

創竜伝5巻 P201上段
<「だ、だまれ。諸葛亮孔明は歴史上最大の大軍師なのだぞ」
「ついでに教えておいてやるが……」
 始の声は、さらにひややかさを増した。
「諸葛亮と姓名で呼ぶか、諸葛孔明と姓プラス字で呼ぶか、どちらかにしろ。諸葛亮孔明などと姓名と字をあわせて呼ぶような呼びかたは、中国では絶対にしない。風水や奇門遁行がどうのこうのというくらいなら、そのていどの常識はわきまえておくんだな」>

 まあこの描写に関しては「敵をあえて挑発する」という意図もあったようなのですけど、それを差し引いても、こうまで自らの知識をひけらかし、相手の「無知」に対して居丈高に説教することが、どれほどまでに相手のマイナス感情を刺激し、対人関係を悪化させることになるのか、少しは連中も考えてみた方が良かったのではないですかね? 自分が同じように言われた時、どう感じるかを考えてみれば、こんな居丈高かつ断罪論調的な物言いは普通はできないと思うのですけど。
 それから田中芳樹ないしは竜堂兄弟は、作中において散々なまでに「礼儀を守らない奴に礼儀を守る必要はない」などと平然と口にし、さらには「恩は2倍にして返せ、怨みは10倍にして返せ」とまでのたまっています。ならば田中芳樹ないし竜堂兄弟達は、自分達が批判される際に同じ手法で10倍返しされたとしても文句を言うことはできないでしょう。自分達がかつて好き勝手にのたまった主義主張に対して、きちんと責任を取っていただかないと。
 田中芳樹や竜堂兄弟自身の誤用・悪用・事実改竄・虚実混同・その他諸々の間違いに関しては、ザ・ベストや考察シリーズのファイル群に多数収録してありますので、そちらを参照すれば、すくなくとも田中芳樹や竜堂兄弟にあんな説教をする資格などないことが分かるかと思います。

>書籍の出版形態

 これに関してもザ・ベスト「トンデモ小説が売れる責任の所在」の3・4・5で同じような質問に基づく議論が収録してあり、管理人さんの意見もそこに書いてありますので、そちらを参照してみてはいかがでしょうか。

親記事No.116スレッドの返信投稿
board4 - No.134

Re:個人的意見(No.132について)

投稿者:
2001年05月16日(水) 08時36分

こんにちわ、恵です☆

> 恵さん、はじめまして。そしてありがとうございます。

こちらこそ、レスありがとうございました、ウシマルさん。
そして、冒険風ライダーさん、わたしが舌足らずでいたらなかった部分を論評として上手にまとめておられる点、さすがに見事ですね☆
冒険風ライダーさんの意見にほぼ同感なのですが、人の意見にただ賛成するだけというのも面白くないので(笑)、管理人さんが帰ってこられるまでの有意義な時間の過ごし方として、ウシマルさんにはもう少し意見交換に付き合っていただけると、わたしも嬉しいです(^-^)

>でも登場人物にことわざや故事成語を言わせるのは田中氏に限ったことではないと思うし(但し、具体例はありませんので単なる思い込みかも)、小説の台詞が芝居がかっていてもおかしくはないと思うので、僕は違和感はなかったですよ。

台詞に芝居がかかるのは、違和感はあっても別に悪いことじゃないと思います(あくまで『小説』の中の台詞ですから。ルール違反でもないでしょうね)。ただ、ウシマルさんご自身も自覚があるみたいですが、現代を舞台にした小説で故事成語を言わせるものって滅多にないですよね?それも一度ならともかく、あえて何度も行っているところに、違和感があるんです。できるだけ現代人の使う現代用語を正確に扱うことで、物語(フィクション)のリアリティー性が増していくとわたしは思いますので、現実にあまり使わない言葉は多用しない方がいいんじゃないでしょうか?わたしの場合、いくら作り話でもあまりに非現実的な台詞を聞くと、一気に興ざめしてしちゃうんですけど…f(^-^;;)。

>そうなんですか。僕は根気がないので(そういう問題か?)『論語』も全部読んでないんです。何処に書かれているかご存知でしたら、ぜひ教えて下さい。

ごめんなさい、この部分はわたしも「人から聞いたことがある」、という程度の知識で書いてしまいました。現在、論語関係のサイトで自分なりに検索をしているんですが、あまりに数が多くてなかなか確認ができません。宣和堂さんをはじめ、中国関係のスペシャリストの方からご教授いただけたらすっごく助かるんですけど(←図々しくてごめんなさ~い(>_<)、とにかく確認がとれるまでお待ちいただけると幸いです。

>前にも書きましたが、ハードカバー(に限りませんが)で出版された本が文庫になって発売される、というようなことは以前から行われていることです。これ自体は僕の経験で言えば、中学、高校のお金がないころは高いハードカバーより安い文庫になってくれたほうが、はるかにうれしかったものです。陰謀うんぬんは冗談にしても、購買層を広げる意味では的確ではないでしょうか。田中氏が拝金主義を批判していながら、拝金主義に手を染めているのであれば確かに問題ですが、購入者がいなければお金にならないのだし、買う・買わないは購入側に選択権があるのは前に書いたとおりだと思います。田中氏も、同じ人が2冊も3冊も買ってくれるものと期待しているわけではないと思います。あと、出版社との力関係ですが、恵さんのご意見も説得力ありますけど、僕は逆転していないと思うのですが・・・。確かに出版社にとってお金になる人物なのは、実際に出版されていることから間違いはないと言えますが、出版社の経営戦略にまで口が出せるほどなんて、そうそうなるものじゃないと考えてます。もちろん勝手な思い込みですが。

「出版社の経営戦略にまで口が出せるほどなんて、そうそうなるものじゃないと考えてます」
↑ご自身も認めておられますが、このご意見には根拠がありませんね。
ベストの議論と同じ内容を言いますが、現実に田中氏は自分の書きたい作品だけを執筆しているという状況です。(ご本人のストレス解消としか思えない薬師寺シリーズや創竜伝など)各出版社の販売戦略(細かいことですが、田中氏が“経営戦略”には口が出せなくて当たり前ですから、販売戦略の間違いですよね?(^-^;;)としては、とにかく書けばヒットする田中氏に休眠シリーズの再開を!と思っているはずです。(タイタニア、灼熱の竜騎兵、クラン、地球儀の秘密など)本当に立場が弱い作家さんなら、無理矢理書かされてもおかしくないんですが、田中氏はそうではありません。自分で優先順位をつけて執筆ができる人なんです。そうでないと反論なされるなら、今度は具体的な根拠をお願いしますね。

親記事No.116スレッドの返信投稿
board4 - No.135

Re:個人的意見(販売形態について)

投稿者:てんてんdwp
2001年05月16日(水) 12時53分

てんてんdwpです。

> 「出版社の経営戦略にまで口が出せるほどなんて、そうそうなるものじゃないと考えてます」
> ↑ご自身も認めておられますが、このご意見には根拠がありませんね。
> ベストの議論と同じ内容を言いますが、現実に田中氏は自分の書きたい作品だけを執筆しているという状況です。(ご本人のストレス解消としか思えない薬師寺シリーズや創竜伝など)各出版社の販売戦略(細かいことですが、田中氏が“経営戦略”には口が出せなくて当たり前ですから、販売戦略の間違いですよね?(^-^;;)としては、とにかく書けばヒットする田中氏に休眠シリーズの再開を!と思っているはずです。(タイタニア、灼熱の竜騎兵、クラン、地球儀の秘密など)本当に立場が弱い作家さんなら、無理矢理書かされてもおかしくないんですが、田中氏はそうではありません。自分で優先順位をつけて執筆ができる人なんです。そうでないと反論なされるなら、今度は具体的な根拠をお願いしますね。

これについてお答えしておきます。田中芳樹クラスになれば可能です。文庫化は一切認めないといって干されるクラスじゃありませんから。
証拠を示しましょうか?平井和正という作家がいます。この作家は自分の本が「読み捨てられる」ことに不満を抱き、あるときからハードカバーか新書でしか作品を発表しなくなりました。そのことは地球樹の女神だったかな、その前後の作品に理由も含めて書かれていますよ。
ちなみに著作権法を読むとわかりますが干されることを覚悟するならたとえ無名の新人作家であっても文庫化を拒否することは可能です。いわんや田中芳樹おや。発行部数は増やすことは(基本的に)できませんが減らすことは可能なんですよ。
というわけで、この件に関しては終了でよろしいですか?

board4 - No.136

体制と儒教

投稿者:葉藪砂人
2001年05月17日(木) 04時19分

通りすがりのものです。

>引用開始
(引用)わたしも儒教にあまり詳しくありませんけど、確か儒教は「革命」を肯定しているから体制にとって危険だ、と聞いたことがあります。体制側は当然、自身の永続的な維持を願うものですから、「革命を肯定する思想などけしからん!」ということではないでしょうか?
 そうなんですか。僕は根気がないので(そういう問題か?)『論語』も全部読んでないんです。何処に書かれているかご存知でしたら、ぜひ教えて下さい。
引用終了<

私も儒教に詳しいわけではありませんが、知っている範囲で少し。
儒教ってのは、中国やら朝鮮やら日本やらに入ってきて体制側に使われてきているのですから、体制擁護に便利な面があるのは確かだと思います。(具体的な根拠を挙げろ! とか言われると困るのですが)
それで、なぜ反体制の面をもっているかというと、基本的に儒教というのは、国家が国民と国土を統治していられるのは、徳だとか天帝からの委任があるからだとか、そういったものが前提にあるからなのでしょう。
つまり、皇帝が天下を支配していられるのは、何らかのバック(人民の支持であるとか、天の命令だとか)を根拠としていて、何の根拠も無く皇帝は天下を支配できるとはしていないのだと思います。
まぁ、天の命令(いわゆる天命)なんてあやふやな物なら、どうとでもなりそうなのですが、それは反乱側にも言えることで、向こうも「天命我にあり」とか言い出してしまえば、お互いが正当性を主張しあうことになってしまうのだと思います。
この考え方は、
「皇帝はなぜ偉いのか?」
「それは~である」
といった定義を作ることにより、天下支配の正当性を与えたのでしょうが、逆にいえばその「~である」の部分が否定されてしまえば、それは「皇帝(天下支配の正統者)ではない、匹夫(ただの男、ただの人)である」となるわけです。
そんな感じで、皇帝の支配が不服になったとき、その理由を挙げていけば易姓革命(A姓の人からB姓の人への支配権がうつる)もOKですよ、という思想になるのでしょう。

また、体制にとって危険ではない思想を考えてみると、
「皇帝が偉いのは、皇帝だからだ。その理由は天地が存在するのと同じだ」
とか、理屈になっていないような思想なら全然危険ではないと思います。
要するに、儒教というのは天下支配の論理体系を示しているわけです。

まぁ、これは「~の~に書いてある」とかの確実な情報ではないのですが、私個人の儒教解釈として参考にしてみてください。
でも、革命思想は孔子じゃなくて、孟子あたりがいっていることのような気もします。

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board4 - No.137

儒教における革命思想

投稿者:新Q太郎
2001年05月17日(木) 13時32分

儒教における革命思想(湯武放伐論)というのは非常に大きいテーマであるのですが、参考までにこんなとこを紹介しましょう。

ttp://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/abesonnou14.htm

※孔子と湯武放伐

※孟子と易姓革命論

の項目をどうぞ。

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ところで「革命思想」というもののジレンマについて。それは、その思想を担いで闘い、旧勢力を倒したとき、その「革命思想」が体制になるのですね。

「共産主義」は革命思想かもしれない。
しかしソ連が成立すたあと、子ども達は学校で共産主義のただしさを教えられ、
「○○君は卒業後、共産党に入れるんだって」
「彼はエリートだからなあ」というように、いい子が学ぶよいこのイデオロギーになったわけです。それと同じ事が漢以降の儒教にあったのでしょう。

ちなみに江戸時代ごろ、「『孟子』(のような危険思想本)を積んだ船は、日本につく前に嵐にあって沈む」といわれていたとか

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