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仙谷由人官房長官の「日本は個人補償を行うべきだ」発言問題

2010年7月7日の日本外国特派員協会での記者会見で、菅内閣の仙谷由人官房長官が韓国との戦後処理問題について「日本は個人補償を行うべきだ」と発言したことが話題になっています。

時事ドットコム
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010070700917
産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100707/plc1007072049009-n1.htm

ただでさえカンガンスこと菅直人の消費税増税発言が物議をかもして民主党の支持率低下が危ぶまれる中で、さらに追い討ちをかけるかのごとき今回の発言。
日韓基本条約で最終的な解決とされた戦後処理問題をことさら蒸し返し、国としての補償をさらに追加する行為に、日韓共に一体何の意味と利益があるというのでしょうか?
個人間だろうが国家間だろうが、一度成立した示談の内容は被害者・加害者問わず遵守しなければならないのが普通ですし、もし不服があるのであれば、日韓共にそもそも和解などすべきではなかったでしょう。
しかも、個人補償とやらの支払いで費われるのは日本の国費であり日本国民の税金であり、その負担は当然日本国民にのしかかってくるわけです。
韓国への個人補償など、払う理由も意義もない、まさに無駄金以外の何物でもありませんし、ましてやそのために増税を行うなど、決してあってはならないことです。

そもそも、戦前の朝鮮は日本の一部だったのですから、本来ならば韓国も「当時の日本の一員」として一緒に謝罪と賠償をしなければおかしいはずなのですけどね。
実際、第二次世界大戦前にドイツに併合されていたオーストリアなどは、戦後独立した後、ナチスに協力したことについて「加害者の一員」として謝罪しています。
そのドイツやオーストリアも、謝罪と賠償を行っているのは「ナチスが犯した犯罪」についてのみ、しかもそれでさえ「あれはヒトラーをはじめとするナチス党の人間が勝手にやったこと」として「国家としての責任」を棚上げにしているくらいなのです。
その一方で、戦争終結時に旧満州や朝鮮に置かれていた日本の資産の請求権を全て放棄したのみならず、韓国には援助金名目で当時の金額で8億ドルも支払い、それでもなお謝罪と賠償を求められた挙句に素直に応じてしまう日本。
世界中探しても、これほどまでに「お人好しでカモな国」は他に存在しないでしょうね。

それにしても、今回の件に限らず、民主党の政策は国益および国民の生活向上に何ら寄与しないどころか害にすらなるシロモノが多すぎますね。
外国人にバラまく子ども手当てとやらもその典型例ですし、マニフェストに書かないくせに何が何でも実現させようとしている外国人参政権・夫婦別姓・人権擁護法案なども然り。
政治思想的に共鳴しているであろう田中芳樹のような人間にとっての民主党はまさに理想的な政治団体なのでしょうが、余計な負担を強いられることになる大多数の日本国民にとっての民主党は、究極のアホでなければ生来の犯罪者集団でしかありえませんね。

日本になかなか浸透しないFacebookの問題点

ユーザー数が世界で5億人以上にも達し、今や名実共に世界一のSNSとなっているFacebook。
これを論拠にしているのか、巷の報道でも「Twitterの次はFacebookの時代だ!」「Facebookのリンク機能でポストGoogle時代がやってくる!」的な情報が飛び交っています。

かく言う私自身もそんな情報を信じ、先行投資とばかりにFacebookのユーザー登録を行ったクチだったりします(^^;;)。
ところが、実際にFacebookを使ってみると、これが思いのほか使い勝手が悪く、また巷の礼賛報道では全く言及されていなかった問題点も見えてきたことから、次第に「Facebookって本当に他のネットメディアを圧倒できるだけの力があるのか?」という疑問が少なからず出てきたんですよね。
現状を見る限り、Facebookはその礼賛評価とは程遠い状態にあると言わざるをえないところです。

1.世界的なユーザー数と日本限定のユーザー数の違い

まず、Facebookの絶対的優位を示す最有力要素となっているユーザー数ですが、確かに世界的なレベルで言えばユーザー数5億人と謳われ、その実力は一見揺るぎないものがあるように見えます。
しかし、こと日本に限定すると、そのユーザー数は2010年4月時点で未だ200万人にすら到達しておらず、日本の大手3大SNSであるmixi、GREE、モバゲータウンのせいぜい10分の1程度。
規模だけでいえば、Facebookは日本最大手の一角すら担えていません。

Facebookにおけるユーザー5億人以上の大部分は外国人。
彼らと会話するためには、すくなくとも他国語で会話が行えるレベルのスキルが当然のごとく要求されることになります。
一方で日本人のユーザー数は、Facebook総会員数全体からすれば圧倒的に少なく、日本人同士のコミュニティが成り立ちにくい事情があります。
必然的にFacebookは「外国にコミュニケーションが取れる友人がいる人のためのツール」になってしまい、これが日本人ユーザーから敬遠される要因のひとつとなっているわけです。
これでFacebookが日本市場を席捲できる方が変でしょう。

2.「一見さん」には複雑過ぎて分かり難いアプリケーション機能

Facebookの特徴として、多種多様なアプリケーション機能が充実しており、画像や動画の共有や他のWebサービスとの互換性にも優れているということがよく挙げられます。
ところが「多機能性」というのは「分かりやすさ」「手軽さ」としばしば反比例するもので、Facebookの場合、その多機能性が逆にFacebookへの新規参入を阻む大きな壁になっています。
多機能なシステムをユーザーに使いこなしてもらうためには、その多機能の中身をユーザーに理解させる必要がありますし、そのための「分かりやすい説明」なども付加しなければならないはずなのですが、Facebookのすくなくとも日本語版には、その辺りの配慮が全くと言って良いほど存在しません。
Facebookに参入したのは良いが、アプリケーションが多すぎてどれが「使える」機能なのか判断に迷う、また「使い方」に関する説明が不十分で分かり難く放置状態になっている、という人は結構多いのではないでしょうか。

mixiを含めた日本の大手SNSやTwitterがあそこまで成長しえたのは、「使い勝手の良さ」がまずあったからでしょう。もちろん機能が充実しているというのは大変重要なセールスポイントなのですが、それを大規模に普及させるためには「分かりやすさ」「手軽さ」が必要不可欠なのです。
分かり辛く使い難いシステムは、たとえ機能が充実していても初心者の多くが敬遠してしまいます。

しかも、Facebookが提供しているアプリケーションは必ずしも日本語対応になっているわけではなく、説明文全てが英語をはじめとする他国語で書かれていることも少なくありません。
それらのアプリケーションを使いこなすためには、これまた当然のことながら他国語で会話が行えるレベルのスキルがまたしても要求されることになります。
「分かりやすさ」「手軽さ」を追求する観点から見ても、言語の壁は無視できない大きな問題と言わざるをえないでしょう。

私自身、2010年7月7日時点でFacebook提供のアプリケーションで活用しているものはひとつもなく、唯一使おうとしたFacebookとTwitterの連携アプリは、両者のお家騒動絡みの問題からバグが修正されず使用不能で、しかたなくHootSuiteの同時投稿機能で代用する羽目になった始末(-_-;;)。
Facebookが売りにしているはずのユーザー数とアプリケーション機能でこうも大きな問題を抱えていては、Facebookが日本市場で既存の大手SNSを凌駕するなど夢のまた夢と言わざるをえないでしょう。
「使い勝手の良さ」という点でFacebookは、衰退傾向にあるはずのmixiや、携帯層を中心に勢力を伸ばしているGREEやモバゲータウンの足元にも及ばないのです。

世界最大のユーザー数を誇るはずのFacebookが日本で苦戦を余儀なくされている理由は、言語の壁と多機能「過ぎる」システム、そして何よりもそれらの問題に戸惑うであろう初心者を導き取り込むために必要不可欠なサポート体制の構築不足、の3つにその大部分が集約されます。
Facebookが今後日本で最大手のSNSにのし上がるためには、これらの問題の抜本的な解決が必要最低限やらなければならない課題となるでしょうね。

ファイナルファンタジーシリーズとの出会い

今更ながら最近、PS3のファイナルファンタジー(以下「FF」)13をプレイしています。
FF13は諸般の事情があって今までずっと「積みゲー」状態になっていたのですが、発売から半年以上も遅れてようやくプレイ可能に。
2010年7月6日時点では、第11章冒頭に出てくる召喚獣アレキサンダーを倒した後、大平原を攻略中です。

私の場合、FFシリーズは2作目の頃から関わっていて、これまでのシリーズは初期作品のFF1とオンラインゲームであるFF11以外は全てプレイ&クリアしています。
私が最初にFF2に出会ったのは、1988年12月17日のゲーム発売から少し経った1989年の春頃でしたから、もう20年以上の付き合いがあるわけですね。

初期のFFシリーズは、ストーリーは今の水準で見ても秀逸な出来だったのですが、ゲームシステムが今では考えられないほどにとにかく最悪なシロモノでしたね。
FF2では通常のザコ戦1回の戦闘時間が処理の問題から数分かかっても終わらなかったり、フィールド上で突然桁外れに強い敵が出て一撃でゲームオーバーになったり、熟練度システムが難しすぎてキャラクターのステータス成長に大きな支障が出たりするなど問題頻出。
次のFF3ではかなりの改善が見られたものの、それでもミニマム状態で攻撃力・防御力がゼロにされたままの状態で敵と戦わなければならない局面があったり、ラストダンジョンでは全くセーブができなかったりと、まだまだ多くの課題が残されていた状態。
今から振り返っても、「よくこんなゲームをクリアできたなぁ」と当時の自分についつい感心してしまいますね。

FFシリーズのゲームシステムが本当に評価されるようになったのは、スーパーファミコン(SFC)から発売されたFF4以降。
ここでようやく「通常のゲーム進行にすら障害が発生する」レベルの問題が全て解消され、純粋な「やり込み」が楽しめるようになりました。
FFシリーズの知名度と人気が、日本におけるRPG分野の先達であるドラゴンクエスト(以下「DQ」)シリーズに追いついたのもちょうどこの頃ですね。

ちなみにFFシリーズは、私の田中作品との出会いにも意外な影響を与えています。
私が田中作品で最初に読んだのはアルスラーン戦記だったのですが、初期のFFシリーズとアルスラーン戦記のイラストレーターは両者共に天野喜孝氏。
その絵柄の共通点から、アルスラーン戦記は私の目に止まることとなったわけですから、何がきっかけで出会いがあるか、分からないものですね。

今や日本ゲーム業界の最高峰に君臨するFFシリーズ。
次回作のFF14はPS3ではなく、シリーズで初めてWindows版からオリジナルが発売され、かつFF11と同じオンラインゲームになるとのことですが、ライバルのDQシリーズ共々、今後も発展し続けて頂きたいものですね。

映画「アデル/ファラオと復活の秘薬」感想

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映画「アデル/ファラオと復活の秘薬」観に行ってきました。
1911年のフランスを舞台にした作品。
作中に微妙な入浴シーンがあるためか、この作品はPG-12(12歳未満は親または保護者同伴必須)指定されています。

この作品は、双子の妹を救うべく奮闘する、破天荒で型破りな性格の持ち主である女性ジャーナリスト・アデルの物語となります。
妹の名前はアガット。
姉とのテニスの試合中にボールが頭にぶつかり、その際にアデルから借りていた髪留めが外れて後頭部から額まで貫通し、以来5年近くも植物人間と化したという設定です。

全体的にはアクションよりもコメディ色が強いストーリー進行。
特にアデルが物語の重要な鍵を握っている教授を収監されている刑務所から救うべく、色々な変装を行って何度も刑務所に潜入しては失敗を繰り返すシーンは、なりふり構わぬアデルの性格とコメディタッチなノリが上手く融合していましたね。
……刑務所の人間も、アデルが同じ日に同じ手段を何度も繰り返している段階で、いちいち中に潜入を許していないで少しは門前で変装について疑えよと(苦笑)。

そして物語の最後に、アデルはとある船に乗り込むのですが、その船というのが「誰もが知っている【悲劇で有名な】あの豪華客船」。タイタニック号。
序盤でアデルにしてやられた悪役達が港で「良い旅を」などと皮肉をつぶやいたところで終わっているところから考えても、この作品、続編を匂わせるものがありますね。
次があるとしたら一体どんな物語になるのか、少々気になるところではあります。

映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!」感想

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映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!」観に行ってきました。
人気TVドラマ映画化シリーズ第3弾。
主人公である青島俊作を演じる織田裕二と室井慎次役の柳葉敏郎には一時期不仲説も囁かれ、映画の成立自体が危ぶまれる報道もありましたが、とにもかくにも映画が公開されて何よりです。
人気シリーズ作品かつ初日ということもあってか、スクリーン内はほぼ満席状態でしたね。

「踊る大捜査線」の映画は前作もそうでしたが、今作もとにかくギャグが満載。
湾岸署の引越し本部長に任命された青島俊作の「作戦会議」から始まり、その引越しのゴタゴタにまぎれて発生した事件と不祥事の数々、そして湾岸署外部に不祥事が発覚した後、身体を張っていかにも衰弱しているかのごとき過剰演出な3文芝居を繰り出しつつ、自己保身だらけの官僚答弁的な言動を披露しまくるスリーアミーゴスの公式会見シーンの辺りまではまさにギャグとツッコミのオンパレード。
その手のギャグが出てくる都度、スクリーン内のあちこちから声を潜めた笑い声が頻出していましたし、かくいう私も同じように笑っていたクチです。

ただ、今回の映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!」は、過去2つのシリーズ作品とも内容がリンクしており、そちらも観ないと登場人物の相関関係が把握しにくいところも多々ありますね。
私も映画観賞後、Wikipediaを読んで過去作の登場人物を確認したりしていましたし。
今回の映画を観る際には、過去作である、
「踊る大捜査線 THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!」
「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」
を事前に観ることをオススメしておきます。

それ以外で個人的に気になったのは、湾岸署を閉鎖状態に追い込んで囚人の釈放を要求してきた犯人に対し、室井慎次以外の警察の首脳陣達全てが「犯人の要求を呑む」という意見で完全に一致し、しかもそれが日本国首相の公式声明として発表されてすらいたこと。
作中でも「人道的見地」だの「人の命は地球より重い」だのといった類の発言が飛び交っていましたが、アメリカであれば映画でも現実でも絶対にありえないこの描写が、日本だと「うん、普通にありえる話だよね」と素直に頷けてしまう嫌な実態がありますからね~(T_T)。
ましてや今の売国民主党政権、特にその頭目が「あの」カンガンスであれば、これ幸いと嬉々として要求を呑むどころか、下手すれば国家としての無条件降伏すら本気でやりかねないところがありますし(-_-;;)。
あのヘタレ過ぎて情けない日本の首脳陣達の描写を「ありえないフィクション」として本当に笑い飛ばせる日が来て欲しいものなのですけどね。

「踊る大捜査線」はハリウッド映画と異なり、特にこれといった直截的な恋愛描写やアクションシーンがないにも関わらず、巧みなストーリー進行とギャグによる独特のテンポを駆使して観客を魅了する非常に優れたシリーズ作品ですね。
今作も、邦画の中では今年度最優秀作品の最有力候補として数えられることになるのではないでしょうか。

「と学会」菊池誠の「私は知らない!」責任回避問題2

唐沢俊一のP&G問題について、菊池誠をはじめとする「と学会」のお歴々は、相も変わらず「私は関係ない、私に聞くな!」的なコメントを綴りまくっていますね。

http://togetter.com/li/32043

あの面々は、「と学会ML」で山本弘が唐沢俊一に処分を下そうとした際、下の会員一同がそれこそ「一糸乱れず」反対の声を上げて強引に処分を撤回させたことについて、一体どのような考えを持っているのでしょうか?
これについてはもう「そんなことがあったこと自体知らなかった」という言い訳も通りませんし。

山本弘が唐沢俊一に対し本来行うはずだった処分が撤回されたということは、結果として、唐沢俊一のP&Gは何ら問題ではないというのが「と学会」の総意である、と公式に表明しているも同然ではありませんか。
そして、それに対して反対の声を上げないのであれば、「と学会」に所属している会員達もまたそれに同意ないしは黙認していると見做されても文句は言えないでしょう。

菊池誠のような「唐沢俊一のことなどよく知らないし私の知ったことではない」的なスタンスが「個人」としてはOKでも「組織の一員」としてはNGなのもそういう理由からですし、だからこそ伊藤剛氏もその辺の注意と警告を菊池誠に提起しているのだと思うのですけどね。
何故こんな簡単な話が、会長から末端会員に至るまで「と学会」のお歴々には理解できないのやら。

「邦画の復権」を象徴する映画「ホワイトアウト」

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2000年8月公開映画「ホワイトアウト」。
織田裕二主演のこの映画は「日本版ダイ・ハード」という宣伝文句が謳われ、邦画では珍しいハリウッド映画ばりのアクションシーンや迫力あるストーリーで人気を集めました。
興行収益で見ても、2000年度の邦画の中ではトップとなる42億円を記録しており、充分に成功した映画作品であると言えるでしょう。

私的にも映画「ホワイトアウト」は、映画観賞史上最悪の反戦教材動画「きけ、わだつみの声 Last Friends」以来、実に5年ぶりに観た「邦画」となります。
そして、
「こういう作品がきちんと作れるのであれば、邦画の未来にも希望が持てるのではないか」
と強く印象づけられた映画として記憶に残っていますね。

逆に言えばその評価は、それまでの日本映画がいかに絶望的なシロモノであったかを証明するものでもあるわけなのですけどね(-_-;;)。
「きけ、わだつみの声 Last Friends」は論外にしても、それ以外の映画も「『ハラキリ・ゲイシャ・フジヤーマ』的ステレオタイプな日本のイメージを持つ外国人相手に賞を取るために制作された作品」というイメージが定着していましたし。

映画「ホワイトアウト」は、その宣伝文句のごとく、ストーリーも設定も「ダイ・ハード」そのもの。
テロの襲撃に不運にも巻き込まれつつ自分はたまたま難を逃れ、地の利や奇襲戦法を使ってテロリストをひとりずつ倒していき、最後に敵によって追い詰められた際は奇策を使って一発逆転と、その構成はまさに「日本版ダイ・ハード」と言える作品です。
そのため「ホワイトアウト」には、そのパクリな作品構成を批判する向きも多分にあります。

しかし、それまでの日本映画の惨状を知る私としては「オリジナルな超駄作よりは、パクリ&テンプレートでも面白い売れ筋作品の方がまだマシ」という評価でしたね。
「ダイ・ハード」と比較しながら観るのであればともかく、それ単体として評価する分にはストーリーも構成も良く出来ており、観て損はしない作品です。

2010年7月3日からは、映画「ホワイトアウト」で主役を演じた織田裕二がこれまた主人公として活躍する映画「踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!」が公開されます。
前作からまた年月が経ち、主人公が係長に出世しているこの映画が如何なる出来なのかも期待が寄せられますね。

レンタル掲示板「OTD」が2011年6月30日に終了予定

livedoorのレンタル掲示板「OTD」の提供サービスが、1年後の2011年6月30日をもって完全に終了するそうです。
既存の掲示板も有料無料を問わず強制的に閉鎖され、2011年7月1日から閲覧できなくなるとのこと↓

http://blog.livedoor.jp/bbsnews/archives/51114136.html

これで困ったのが「田中芳樹を撃つ!掲示板」。
2001年4月から運用されている現行の4代目掲示板は「OTD」の掲示板レンタルサービスを使用しているため、1年以内に何らかの形で移転させる必要が出てきたわけです。
現時点でも9年以上使用されている掲示板なのですからそれなりに思い入れもありますし、運用面でも利用面でも特に不便を感じていたわけではなかったので、できれば今後も使い続けていきたかったのですけどね(T_T)。

かつてはサイト運営のステータスシンボルでさえあった掲示板レンタルサービスも、ブログやSNSにシェアの大部分を奪われ、現在では悲惨なまでに縮小の一途を辿っています。
提供されるサービスがここ数年ほとんど変わっていない掲示板レンタルサービスが市場原理で淘汰されていくのは時代の流れというものなのでしょうが、それでも長年掲示板を利用してきた人間としてはやはり寂寥の感を禁じえませんね。

「と学会」菊池誠の「私は知らない!」責任回避問題

盗作常習犯である唐沢俊一が属している「と学会」の会員・菊池誠がTwitter上で自己弁護に精を出しているようです。
ことの経緯はこちらを参照↓

http://togetter.com/li/32043
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-478.html

唐沢俊一の著書の問題点について「読んでいないから知らない」と回答することについては(それはそれで大問題ではありますが)まあ理解できないこともありません。
しかし、唐沢俊一の問題を指摘されて以降でさえも、相変わらず「私は関係ない」「知ったことではない」的なスタンスを維持し続けるというのは、「と学会」の会員としてさすがにどうなのかと(-_-;;)。

別に菊池誠に限ったことではありませんが、「と学会」は他者のトンデモについて徹底的に糾弾する一方、仲間内の不祥事や問題については「私は知らない」「私は関係ない」「私に聞くな」と逃げを打ったり、陰謀論者でも言わないようなトンデモ言動でもって庇い合いを始めたりするケースがあまりにも多すぎますね。
挙句の果てには、mixiだの「と学会ML」だのといった仲間内だけの集いの場で延々と「陰口」を叩き続け、それも暴露されると逆ギレした挙句、自称SF作家な山本弘のようにサイトに閉鎖圧力をかけようとしたり、天羽優子ことゆうこりんのごとく聞きかじりかついい加減な法律知識でもって恫喝したりするのですから、何とも救いようがないというか…。

唐沢俊一のP&Gに関する責任は唐沢俊一自身が負うべきものであり、「と学会」の会員が「個人」としての連帯責任を取る必要はありませんし、また誰もそんなことを望みはしないでしょう。
しかし、仮にも他者のトンデモに言及し厳しい批判を行う以上、「身内のトンデモに対しても同じ態度で臨む」というスタンスを表明し実行することは、「と学会」および「と学会」の名で個々の会員達が行っているトンデモ批判の一貫性と公正性を示すためにも必要不可欠なことですし、何よりも同じ「と学会」に属し恩恵を受ける「組織の一員」としての社会的責任というものでもあるでしょうに。

しかもこの問題は本来、「と学会」の頭である会長の山本弘の名で唐沢俊一に何らかの処分を下していれば、それが「と学会」全体の総意ということになってここまで拗れることはなかったはずなのです。
しかし、「と学会」の下の会員連中は目先の人間関係を維持したかったのか、病的なプライド&選民思想的な意識でも働いたのか、それさえも自分達の手で無理矢理止めてしまったわけですからね。
今の惨状はまさに自分達で招いた自業自得以外の何物でもないわけで、同情の余地など全くありません。

まあ長年「と学会」の動向をウォッチしている私にとって、今回のような騒動の類はトンデモ三文喜劇として大変面白く楽しめるシロモノなのでしてね(笑)。
当事者としては大変な重圧でしょうが、「と学会」のお歴々におかれましては、一切ブレることなく今のスタンスを是非とも堅持し続けて頂き、天然お笑い芸人として私を含めたウォッチャー達に娯楽を提供してもらいたいものです(爆)。
他人のトンデモを「お前が言うな」的な論理で嘲笑いつつ、そういう滑稽な自分達の姿をありとあらゆるダブルスタンダードで正当化するキチガイぶりを他者から指摘され笑いのネタにされる。
それこそが「と学会」が誰に憚ることなく万人に誇ることができる、真の存在意義というものなのですから。

銀英伝舞台版のストーリーを予想する

キャスティング発表という初期の段階から早くも物議を醸している銀英伝舞台版ですが、原作ファンとしては、舞台版のストーリーがどうなるのかについてもキャスティングと同じくらい気になるところ。
そこで今回は、公式サイトで公開されている情報を元に、舞台版のストーリーについて予想してみたいと思います。

まず、キャスティング発表の対象にフリードリヒ四世とオフレッサーが入っていることから、銀英伝3巻以降の話は全て消えます。
また一方で、今回の舞台が「銀河帝国編」とされ、ヤンをはじめとする同盟側のキャラクターがキャスティング発表の対象として挙げられていないことを考えると、ヤンとラインハルトの対決が今回の舞台で行われる可能性もないと考えて良いでしょう。
そうなると、アスターテ会戦やアムリッツァの戦いなどの銀英伝1巻をベースにしたストーリー展開という線もないということになります。
では、最有力候補は帝国の内戦であるリップシュタット戦役、ということになるのでしょうか?

しかし、実はこれにも難があります。
というのも、銀英伝舞台版公式サイトに掲載されている、総合監修・田原正利の公式コメントに、以下のような文章が存在するからです↓

http://www.gineiden.jp/teikoku/special/tahara-comment.html
<―――私が手掛けたアニメ版『銀河英雄伝説』は、原作を忠実になぞっている様に見えながら、構造として根本的に違う部分がある。それは原作小説が「後世の歴史家」の視点を入れて後の時代から振り返って描いているのに対し、基本的に時代をリアルタイムで描く形にしたことだ。だから原作で時系列を入れ替えて描いている部分を時系列どおりに並べ替えたりして、言わば「編年体(=クロニクル)」の描き方をした点だ。それに対し、
今回の舞台化は言わば「列伝」.........各主要キャラクターにスポットを当て、そのキャラクターを描くことで時代を描き出す。こういうスタイルなら、アニメ版とは違う舞台版ならではの表現ができるのではないか? ―――そう思うようになったのだ。
また、今回の舞台は良くあるアニメの舞台化ではない。

言うなれば従来の小説やアニメ版の限られたファンを対象にするのではなく、全く新しいファンを開拓し、『銀河英雄伝説』という作品世界をより広く知らしめる機会になる。その中で、原作とアニメ版を知悉する者として、それらと今回の舞台版が「精神面」に於いて乖離しないように「監修」する役割として参加するならば、決して舞台版が従来のファンの期待をも裏切らないものにできるだろう―――そう考えた。>

「列伝」の意味を調べてみると、「個々の人物(特に国に仕えた官僚)の一生や周辺の異民族の民俗を書き並べたもの」と定義されています。
ところが原作のリップシュタット戦役は銀河帝国の覇権を巡る旧体制と新体制の戦いであり、個人を綴った「列伝」というよりは、国や皇帝の事跡を記した「本記」に近い性格を持っています。
ここで「各主要キャラクターにスポットを当てる」という「列伝」的な要素を入れようとすると、話を新規かつ大幅に作りこまなければならなくなってしまうのです。
さらに、「全く新しいファンを開拓」し「『銀河英雄伝説』という作品世界をより広く知らしめる」という主旨から考えれば、銀英伝1巻を飛ばして唐突にリップシュタット戦役から始めるというのも不合理かつ不可解です。
しかも銀英伝舞台化は一作だけで終わるのではなく、今後もシリーズ化していく予定なわけで、それならなおのこと、話をあちこち飛ばしてダイジェスト的な舞台構成になどしてはマズイことになります。
舞台の全シリーズを観ることで物語の全体像が把握できる、みたいな構成にしなければ、「全く新しいファンを開拓」するなど夢のまた夢でしかないでしょう。

これらのことから考えると、銀英伝舞台版は正真正銘「列伝」のカテゴリに属するであろう、アンネローゼが皇帝の寵妃になるところから、ヤンとラインハルトが初対峙するアスターテ会戦直前までの銀英伝外伝の話を持ってくる可能性が高いのではないでしょうか。
今回の舞台が「銀河帝国編」で同盟側の登場人物が一切出てこないというのもこれなら頷けます。

そしてその銀英伝外伝の中で一番「舞台向き」なストーリーは、ラインハルトとキルヒアイスが初陣を飾った惑星カプチェランカの戦い。
何故これが一番「舞台向き」かというと、これが艦隊戦ではなく白兵戦がメインとなる戦いだからです。
これをベースに描いた場合、艦隊戦はメインではなくサブ的な位置付けになるため、銀英伝舞台版で特に懸念されている「艦隊戦はどう表現するのか?」という問題にも対処しやすくなります。
舞台進行のやり方によっては、艦橋における司令官や参謀達のやり取りだけで艦隊戦絡みのシーンを全て構成できる可能性も出てくるわけで、この舞台演出的な利点は無視できるものではないでしょう。

銀英伝舞台版は、第一部で帝国側の外伝メインの「列伝」を、第二部で同盟側のこれまた外伝メインの「列伝」を、そして第三部でようやく銀英伝本編のアスターテ会戦における初対峙&初対決およびその後のストーリーを描く、という構成になるのではないでしょうか。
今後のシリーズ構成面から考えても、今回の舞台におけるストーリーは外伝の話をメインに持ってくる、という線が妥当なように思えるのですが。

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