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カテゴリー「2009年以前」の検索結果は以下のとおりです。

観賞自体が困難な映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」

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「ツリー・オブ・ライフ」などという近年稀に見る駄作を観賞した縁から、今回は未だ紹介していない他の駄作映画について少し。

実は私、映画については作中のストーリーや設定について疑問を呈することはあっても、映画そのものをクソミソに酷評するということは滅多にないんですよね。
「ツリー・オブ・ライフ」レベルまで酷評した作品というのは、私の長い映画観賞歴を振り返っても、これまでに2つしかありません。
ひとつは、1995年公開映画「きけ、わだつみの声 Last Friends」
そしてもうひとつが、今回紹介する2008年公開映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」です。

映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」のストーリーは、ニューヨークで突如謎の巨大怪獣が暴れる様子を、一市民の視点からリアルタイム的に描くというもの。
作中は全て撮影者が持つ「カムコーダ」というハンディタイプのビデオカメラから見た視点で描かれています。
疑問の余地なくそのせいなのですが、作中における映像は、撮影者が歩いたり走ったりするのに応じて上下左右に激しく揺れるというスバラシイ特徴があり、しかもそれがエンドロールを除く上映時間の全てにわたって展開されます。
人によっては「車酔い」のような症状に襲われることもあり、実際、海外の劇場では酔いに注意するよう観客に注意を促すところもあったのだとか。
私も酔いこそしませんでしたが、長時間にわたるブレブレの映像を見せられたこともあって最後の方では不快な気分にさせられましたね。
普通に映画を観賞することにすら多大な支障をきたす、という時点ですでにダメダメです。

そして作品を構成するストーリーもとにかく「暗い」の一言に尽きます。
PG-12指定ということもあってか、作中では無為無用に残虐描写が盛り込まれている上、最後は謎の巨大生物に主要な登場人物が全員殺されて終了というバッドエンドな展開で終わってしまいます。
作中で展開された様々な謎(たとえば「怪物が何故出てきたのか?」等)も作中のストーリーでは全く解明されていませんし、ラストが全員死亡という結末では一体何が言いたかったのかも理解不能としか言いようがありません。
ただでさえ上下左右ブレブレの見辛い映像を85分も観賞されられた挙句がこれではねぇ…。

何とか映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」を観終わった際の感想は、
「最初から最後まで評価できるところは全くなし」
「時間とカネを無駄にした」
以外は出てきようもありませんでした。
当時「きけ、わだつみの声 Last Friends」しかなかった駄作認定作品のリストにこれを追加することにも何ら躊躇はなかったですね。
「ツリー・オブ・ライフ」もそうなのですが、駄作認定的な評価を叩きつけたくなるような映画には、できればあまり出会いたくないものではあるのですけどねぇ…。

親子愛をテーマにしたハリウッドらしからぬ映画「A.I.」

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スティーブン・スピルバーグ監督が製作を手がけた2001年公開映画「A.I.」。
日本でも有名なスピルバーグ監督は、大衆娯楽映画を多く製作する傾向にあります。
しかし、映画「A.I.」は元々、1999年に亡くなった故スタンリー・キューブリック監督の企画を受け継いだ作品であったためか、親子愛がテーマの非常に哲学的な内容となっています。

映画「A.I.」は、自分達の御都合主義でロボットを好き勝手に使役したり敵視したりする人間達のエゴイズムと、「感情」をプログラミングされた少年ロボットが「母親の愛」を求める姿が描かれています。
前者は「ターミネーター」シリーズを筆頭にハリウッド映画ではさして珍しいものではありませんが、後者は極めて稀有なパターンです。

この映画のストーリーは、一言で表現するならば「近未来版ピノキオ」。
母親に「子供としての愛情」を抱くようプログラムされた、主人公である少年ロボット・ディビットが、諸事情あって母親に捨てられた後も母親から愛されることを望み続け、ロボットから人間になる方法を探すべく、時間的にも物理的にも長い旅に出るのです。

その旅の結末は、ある意味では主人公の願いを叶えるものであり、別の見方では単に主人公にとって都合の良い幻想を見せただけのシロモノと、個人によって「哀しいハッピーエンド」とも「単純なバッドエンド」とも解釈しえる非常に意味深なもので、映画ファンの間でも賛否が分かれています。
その哲学的なラストシーンはハリウッド映画の中でもかなり異色です。

そのため、映画「A.I.」はアメリカではあまりヒットしなかったものの、日本では逆に大ヒットして制作費を楽々と回収したのだとか。
確かにこの映画はハリウッド映画の長所にして魅力でもある「単純明快な面白さ」といったものがありませんし、どちらかと言えば日本人向けの映画と言えるでしょうね。

好みは分かれるかもしれませんが、「ハリウッド映画らしからぬハリウッド映画」を求める方には、映画「A.I.」は是非ともオススメしたい一品です。

バッドエンドが全てを台無しにした映画「パーフェクト・ストーム」

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世の中には色々な映画があるもので、作中の設定や映像処理が良く出来ているにもかかわらず、ストーリー的には「一体何が言いたかったのか?」と何度も首をひねってしまう映画というものが存在します。
2000年公開映画「パーフェクト・ストーム」などは、まさにその典型と言える作品です。

映画「パーフェクト・ストーム」は、1991年にアメリカ東部の北大西洋沖で実際に発生した史上最大の大嵐(3つの嵐が折り重なって発生した「パーフェクト・ストーム」)と、その大嵐に自ら突っ込んで乗員も船も丸ごと行方不明となったアンドレア・ゲイル号という漁船のエピソードを元に製作された作品です。
映画の宣伝では、30メートル以上の大津波が船を襲う画像がよく使われていました。

この映画、主に各主要キャラクターを取り巻く人間ドラマに力を注いでいる前半から、大嵐を相手に七転八倒の苦闘を演じる中盤の終わり頃までの出来はそれほど悪くありません。
そこまでは多くのハリウッド映画でもよく見られるパターンですし、先の展開を期待させるものが充分にありました。

問題はその結末部分。
まさに映画の宣伝でも使われていた「パーフェクト・ストーム」による大津波に襲われ転覆したアンドレア・ゲイル号およびその乗員達は、それまでの奮戦の甲斐もなくそのまま海の藻屑と消えてしまいます。
誰一人として助かることなく、残された遺族達が悲しむシーンで終わるのです。

ノンフィクションとしてのアンドレア・ゲイル号はまさに船ごと行方不明となり、生存者は一切確認できていないわけですから、史実を忠実になぞるためにそのような結末が用意されたのでしょう。
しかし映画のストーリーとして見ると、その結末は「一攫千金に目が眩んだ漁船が勝手に大嵐に自ら突っ込んで乗組員全員が死んだ自業自得な話」にしかなっておらず、観客の共感が呼べるだけの物語性も悲劇性もおよそ皆無。
しかもアンドレア・ゲイル号は、何も知らないまま大嵐に巻き込まれたわけではなく、大嵐の存在を事前に察知しその危険性を充分に承知していた上、別の漁船から警告まで受けていながら件の行動に出ていたわけですし、その行動によって救助隊が出動する事態にまで発展しているのですから、実のところ同情の余地すらも全くなかったりします。
それでも、せめてひとりでも生存者がいれば、大自然の恐ろしさとそれを乗り越えた人間の強さ、そして何よりも自分達の無謀な航行に対する反省といった色々な描写や表現もできたでしょうし、悲劇性の中にも「生きていて良かった」的な明るさを演出することもできたはずなのに、肝心の結末がアレではねぇ…(-_-;;)。

せっかく丁寧に作りこんでいたにもかかわらず、最後の最後で全てが台無しになってしまった作品として、映画「パーフェクト・ストーム」は悪い意味でその名を歴史に残してしまった作品と言えるでしょう。
なまじ人間ドラマや大嵐との戦いの演出が良く作りこまれていただけに、支離滅裂なバッドエンドの悪さが余計に際立つ、非常に残念な作品です。

男女平等をグロテスクに表現した映画「スターシップ・トゥルーパーズ」

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1997年(日本では1998年)公開映画「スターシップ・トゥルーパーズ」。
「ロボコップ」「トータル・リコール」などの製作で知られるポール・バーホーベン監督が手がけたこの作品は、地球に侵略してきた昆虫型宇宙生物(アラクニド・バグズ)と戦う全体主義政権下の人類社会が皮肉たっぷりに描かれています。

この作品の大きな特徴のひとつとして、作中のあちこちで何度も展開されるニュース・CM等のTV番組の存在が挙げられます。
これは、作品世界内で起こった事件や出来事が作中世界のマスメディアでどのように報じられているかを表現するもので、作品内の世界観や未来世界のあり方をブラックユーモアも交えて解説する手法として、特に近未来世界が舞台となるポール・バーホーベン監督作品ではよく多用されています。
ところが、この作品のそれは全体主義的な軍事政権が人類社会を支配しているためか、やたらと過激でプロパガンダ的だったりするんですよね。
地球が襲撃されたことで国民の怒りを煽り、戦争に駆り立てていく報道などはまだ大人しい部類。
昆虫そのものに対する敵愾心を植えつけるためなのか、学生が学校の授業で砂カブトムシの解剖実習をするシーンが放映されたり、ラストでは勝利のプロパガンダとして、捕獲したアラクニド・バグズのボスキャラ的存在のバグにドリルを突っ込んで解剖するニュース報道が流されたりと、まあとにかくやりたい放題。

また、どう見ても重装甲で固められているとしか言いようのない見た目のバグ達に対し、ほとんど軽機関銃だけを武器に第二次世界大戦レベルの銃剣突撃を、しかも空(宇宙)からの支援もなしに敢行する、あまりにも非合理的な地球連邦軍の兵士達。
案の定、敵のバグ達に兵士達は次々と簡単にやられていくのですが、バグに兵士達が血祭りにされていくシーンはとにかく悲惨で残虐の一言。

作品製作側としては、あえてそういう手法を用いることで、全体主義、とくに「アメリカ帝国主義」に対する皮肉と風刺を意図していたとのこと。
そのためなのか「スターシップ・トゥルーパーズ」は、製作されたアメリカよりも日本の方が大ヒットしていたのだそうです。
実際、確信犯的に描かれたその手の報道描写や戦争描写のバカっぷりは、下手な反戦映画よりもはるかに「戦争の愚劣さ」というものを上手く痛烈に表現していますね。

ところで、この作品で地球を支配している政権下の社会では、完全な男女平等が実現されているという設定があります。
完全な能力主義が採用されており、女性であっても能力があれば高い地位に上れるし、そうでなければ男性でも最前線の平隊員。
実際、作中でも軍のトップは女性ですし、機動歩兵である男性主人公よりも、艦隊アカデミーに配属されたヒロインの方が軍内では地位が高かったりします。

しかし、この作品はそれでも男女平等を上手く表現できないと考えたのか、更なる「男女平等」を描写していきます。
男女の身体格差など無視して同一プログラムの軍事訓練が、しかも男女混合で行われる。
軍内の寝食も男女の区別は一切設けられず全て共同。
挙句の果てには複数の男女が「一緒かつ同室で」シャワーを浴びているシーンが、男女共に恥らう様子もなく当然のように描写される徹底ぶり。
特に男女同室のシャワーシーンは、作中で皮肉交じりに描かれている滑稽なプロパガンダ報道などよりも、「そこにある事実」と言わんばかりに否定も肯定もなく淡々と描写されているため、却って奇妙な迫真性が加わって衝撃的でしたね。

何でも監督であるポール・バーホーベンは、件のシャワーシーンを撮影するにあたり、裸になるのを嫌がる俳優達の前で自ら服を脱いでスッポンポンになり、俳優達に喝を入れたのだとか。
監督が何を意図していたかはともかく、「男女平等」という概念が抱える負の側面を最もグロテスクに表現するという点で、あのシャワーシーンは他に並ぶものがない秀逸な描写であると言えます。
私はあのシャワーシーンから、「男女平等」というものに対してこれ以上ないほどの気持ち悪さを覚えましたし、「ひょっとするこんな未来が本当に実現してしまうかもしれない」という奇妙なリアリティまで感じてしまったほどです。

何しろ日本には、「男女性差全否定」を掲げるジェンダーフリーなる過激で愚劣な思想を持つ勢力が、しかもよりによって小中高校の教育現場に実在し辣腕を振るっているわけですからね。
連中は男女混合名簿をはじめとする「男女性差全否定」を実施したり、また身体測定を男女混同で行ったり、体育の授業などの際に男女同室で着替えをやらせたりするなど、まさに「スターシップ・トゥルーパーズ」のシャワーシーンの実現が最終目的としか思えない教育指導を「実際に」行っています。
ジェンダーフリー教育がこのまま推進されれば、最終的には「スターシップ・トゥルーパーズ」におけるシャワーシーンが本当に日常生活の一部として現出する未来が実際にありえるわけです。
全く、あのシャワーシーンを「今後もありえない架空の絵空事」として一笑できるものならどんなに良かったか…。

かくのごとく、作中のあちこちに散りばめられたブラックユーモア&グロテスクな描写と、純粋な戦争アクションシーンの迫力を売りにして大ヒットした映画「スターシップ・トゥルーパーズ」。
この作品、一応続編も作られてはいるのですが、製作予算の規模が1に比べてあまりにも小さく、これといった話題にもなっていません。
1は色々と面白かっただけに、続編にも力を入れて欲しかったところです。

映画「タイタニック」の現実逃避な恋愛劇

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1912年4月10日にイギリスのサウサンプトン港を出航し、5日後に氷山にぶつかって沈没した豪華客船「タイタニック」。
この事件を扱った映画は数多いのですが、中でも一番有名なのは、やはり何と言っても1997年に公開されたジェームズ・キャメロン監督製作による映画でしょう。

1997年公開映画「タイタニック」は、史実のタイタニック沈没事件を扱ったのみならず、悲劇の恋愛映画としても大いに喧伝された作品。
主演男優だったレオナルド・ディカプリオの名を世界的に有名にしたのみならず、映画を製作した同監督による2009年公開映画「アバター」に抜かれるまでは、興行収益がギネスブックにも登録されていた作品としても有名です。
2012年にはこの映画の3D版も公開されるとのことで、その人気の根強さが伺えます。

映画観賞といえばSFX・アクション物が中心で、普段は恋愛映画になど見向きもしない私も、周囲で「面白い」と評判だったこともあり、この作品については映画館へ観に行っていたりします。
男女の恋愛をメインテーマとした映画で私が映画館で観た作品というのは「タイタニック」が初めてとなりますね。

ただ、この映画に対する私自身の評価はというと、

「確かに絵になるシーンが多いし演出は上手いが、肝心の恋愛描写にはほとんど感情移入ができなかった」

というのが正直なところ。
許婚との結婚を嫌がるヒロインのローズの「主人公ジャックに惚れる過程」が、一種の「目の前にある嫌な現実からの逃避」に見えて仕方がなかったんですよね。

自分の意思に反した結婚が嫌だったローズにしてみれば、その嫌な現実を忘れさせてくれる存在が「たまたま」ジャックだったのであって、現実逃避ができるのであれば相手は誰でもよかったのではないか?
また現実から目を背けているからこそ、2人は背徳的な恋愛に快感を覚えて大いにのめり込んでいたのではないか?

そんな負の印象と疑惑を、この2人の出会いのシーンからずっと感じずにいられなかったため、物語終盤でタイタニックが沈没して海水温度零下2度以下の海に投げ出され、ローズを助けて海に沈んでいったジャックの悲劇のシーンでも、

「ああ、これで2人の現実逃避な思い出は永遠に美しく記憶に残るね。今後2人の関係が現実の壁にぶつかって迷走した挙句に破綻する可能性が完全になくなって結構なことだ」

などと私は冷淡そのものだったんですよね。
もし「タイタニックの沈没」がなく、2人の関係がそのまま進んでいたら、いずれ遠からぬ未来に「現実の壁」にぶつかり、逃避もできなくなってあっさり関係が破綻してしまったのではないでしょうか。

画家志望の貧乏青年であるジャックと、上流階級の娘であるローズでは身分が全く異なりますし、ローズには(親が勝手に決めたこととはいえ)許婚もいたわけですから、2人の恋愛は、世間一般的には一種の「不倫関係」と見做されても文句が言えないシロモノです。
現にジャックとローズの関係を知ったローズの許婚相手は、ジャックに対して明確な物理的攻撃を行っていますし、もし「タイタニック」が沈没することなく彼らが無事に船から降りられていたら、それに社会的な制裁まで付け加えられた可能性が極めて高いと言わざるをえないのです。

それに何よりも、あの2人は互いに出会ってから死別するまで最大でもたったの5日間しか付き合いがなかったのですが、たったそれだけの時間で相手の「表面的な美点だけでなく短所も含めた全て」を知り尽くすことができるものなのでしょうか。
どんな恋愛や夫婦関係でも、長く付き合っていればいずれ必ず「相方の幻滅すべき現実」を知ることになります。
互いのことを知り尽くしたかに思える昔馴染み同士の恋愛や結婚でさえ、それまで自分が知らなかった相手の短所や欠点に否応なく気づかされて激怒するといった事例は充分に起こりえることです。
ましてや一目惚れに限りなく近いところから始まった恋愛関係ならばなおのこと、その後の付き合っている時間が長ければ長いほど、自分の理想と食い違っている相手の現実に気づいて幻滅する、という事態は容易に発生しえるでしょう。

そもそもの動機が「現実逃避」から始まっている恋愛が、果たしてやる気や腕力だけでは決して解決できないそれら「現実の直視と対処の問題」に耐えられるものなのか、はなはだ心許ない限りなわけです。
そう考えると、あの結末も実は悲劇ではなく「2人が永遠に幸せになれるハッピーエンド」であったとさえ言っても過言ではなかったのではないでしょうか。

こと恋愛描写については、「タイタニック」と同じジェームズ・キャメロン監督製作による2009年公開映画「アバター」の方がはるかに上手かったですね。
「アバター」では、最初は異星人達に対する一種のスパイ活動を命じられ、命令のままに異星人達と接触したはずの主人公が、次第に異星人達の社会および異星人のヒロインに惹かれていく過程と、主人公の「ヒロインや異星人達と共に自分が属していた組織&人間と戦う」という不退転の決意がしっかりと描写されています。
主人公にとって、特に自分を虐げていたわけでもない、これまで自分が属していた組織および人間社会を結果として裏切ることになるその決断を下す際には、相当な抵抗や葛藤があったことは想像に難くありません。
それでも異星人のヒロインと一緒になることを選び、かつての仲間達と戦う決断をあえて下したところに、「タイタニック」の現実逃避な恋愛とは比べ物にならない「人間的な強さ」というものが表現できているわけです。

カップル毎に様々な結ばれ方や相手に対する想い・依存度といったものが千差万別に存在する恋愛というものに「正しい結ばれ方」「正しい結末」といったものはないでしょう。
しかし「タイタニック」という映画は、その千差万別な恋愛における「老若男女問わず万人が共感できるあり方」というものについて、私的には色々と考えさせられる作品でしたね。

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの影響

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私は昔から映画観賞が大好きで、映画は必ず映画館で観るようにしています。
2010年1月から映画館で観ている映画の本数は、5月18日時点ですでに9本。
去年は年間通じて23本、一昨年は24本と2年連続で20本越えしており、映画観賞は今や私にとって欠かせないライフワークの一部になっていますね。

しかし、元々私は映画に対して特にこだわりがあったわけではなく、小学生の頃はどちらかといえば「映画は別に映画館でなくてもとにかく観れれば良い」的なスタンスだったんですよね。
小学生の頃も「ドラえもん」の映画作品などは定期的に映画館へ観に行っていたものの、「半年も経てばテレビでも観れるのだし、別に映画館にこだわる必要はないだろう」とすら考えていたくらいです。

そんな私が映画観賞にのめりこむ最初のきっかけとなった映画は、1985年に公開された映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー1」です。
当時は小学生だったこともあり映画館&リアルタイムでは観ておらず、レンタルビデオ経由での観賞でしたが、この映画をきっかけに私は初めて洋画に興味を持つに至りました。

そして「趣味としての映画館での映画観賞」が本格的にスタートするのは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー1」の続編で1989年に公開された映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」からとなります。
当然、完結編となる「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」も映画館で観てきたわけで、「映画は映画館で観賞する」のがライフワークになったのはこの頃からです。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズは、今の私の映画観賞趣味を方向づけただけに留まらず、歴史改変物の架空戦記やタイムトラベル作品を好むきっかけにもなりました。
また私がアメリカ映画を特に愛好し贔屓するようになったのもこの映画なくしてはありえませんでした。
そういう意味で、私が最も大きな影響を受けた映画作品のひとつと言えますね。

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