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2012年04月の記事は以下のとおりです。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」感想

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映画「HOME 愛しの座敷わらし」観に行ってきました。
荻原浩の同名小説を原作とした、劇場版「相棒」シリーズの和泉聖治監督と水谷豊主演で送る、家族の再生物語。

物語のメイン舞台となるのは東北地方の岩手県。
その片田舎にある一軒の民家に、一組の家族が東京から引っ越してきました。
TOYOTAのミニバン「NOAH」に乗ってやってきたその家族・高橋家一同の前に姿を現した民家は、何と築200年を数えるという、「和製ログハウス」という名の今時珍しい藁葺き家でした。
トイレは水洗ではなくポットン便所ですし、風呂もガスではなく薪をくべて湯を沸かす五右衛門風呂というありさま。
あまりにも古めかし過ぎる家に、家を選んだ主人以外の家族は当然のごとく不満タラタラです。
しかし、一家5人が暮らすには充分なだけの広さがあり、また支払う家賃が3分の1で済むとの主人の説明で、その場は皆渋々ながらも納得せざるをえなかったのでした。

引っ越してきた高橋家は、両親に長女(姉)と長男(弟)、それに祖母の5人家族。
この5人は、それぞれ少なからぬ問題を抱え込んでいました。
勤め先の会社である「日栄フーズ」で、東京本社から岩手の盛岡支社への転勤を命じられた、一家の主人にして今作の主人公でもある、水谷豊演じる高橋晃一。
東京生まれの東京育ちなことから、主人の地方転勤に戸惑いを隠せず、一家を支えつつ慣れない近所付き合いに悪戦苦闘を強いられる、専業主婦の高橋史子。
中学3年生の長女で、父親に反感を抱き、前の学校で少なからぬ人間関係で苦しめられていた高橋梓美。
小学5年生の長男で、喘息の持病を持つために母親からスポーツを止められている高橋智也。
そして最近、認知症の症状が出始めつつある祖母の高橋澄代。
それぞれがそれぞれに問題を抱えているところに今回の引っ越しが重なったこともあり、新住居での新生活も最初は当然のことながら全く上手くいきません。
それに加えて、新生活を始めた直後から、誰もいないのに囲炉裏の自在鉤が勝手に動いたり物音が聞こえたりするポルターガイストや、掃除機のコンセントが勝手に抜けるなどの現象が確認されるようになりました。
さらには、後ろには誰もいないのに手鏡を見ると何故か映っている謎の幼女。
最初は気のせいだと思っていた個々の家族達も、主人を除く全員で同じ現象を確認し合ったことから、一家共通で取り組むべき問題であると認識するに至ります。
そして彼らは、近所の人達からの証言で、自分達が住んでいる藁葺き家に「座敷わらし」が住んでいるのではないかという結論に到達するのですが……。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」は、ストーリー構成が全体的にほのぼの感で溢れていて安心して観賞することができますね。
「家族の絆」を扱っているという点では、同日に公開されている映画「わが母の記」も同じですが、今作はあちらに比べるとまだストーリーに起伏がありますし、起承転結の流れも比較的分かりやすい構成となっています。
あちらがシニア層・主婦層向けだとすると、今作は親子や一家揃っての観賞に適した作品、と言えるでしょうか。
少年からお年寄りまで、老若男女の層全てを取り入れていますし。
主演の水谷豊は、やはり「相棒」シリーズのイメージが強いのですが、今作では「普段は家族にあまり強く出れないが、いざという時には自己主張をしっかりやる父親像」を違和感なく演じていました。
物語前半では「どこか頼りない父親」だったものが、後半では見違えるかのごとく頼もしい存在になっていましたし、ラストで高橋晃一が再度東京に呼び戻されることになった際、高橋晃一だけ単身赴任で行くのではなく、全員一致で一緒に行くことを決定した過程と光景は、最初の頃からは想像もつかないものだったでしょう。
それと、地元の祭りを楽しんでいる最中に祖母が認知症を本格的に発症してしまったことが判明した際の高橋晃一こと水谷豊の男泣きぶりは、やはり「わが母の記」における役所広司のそれと比較せずにいられませんでした。
「わが母の記」と同じく、あの描写も今作のハイライトのひとつではあるでしょうね。

ただ、日栄フーズの本社で最初に東京勤務に戻れることを示唆された際に、反発した高橋晃一が行った「愛」云々の演説は、何の伏線もなく唐突に出てきたこともあり、観客的には今ひとつその思いが伝わり難いものがありました。
あれだと、突然意味不明な理由をでっち上げてワガママをこねている、とすら解釈されてしまいかねないですし。
高橋晃一がそう思うようになった背景などについてもある程度描写した方が、あの演説により説得力が与えられたのではないでしょうか?

あと、今回出てきた「和製ログハウス」こと藁葺き家は、高橋一家が居住する前にフォスターという名の外国人(一家?)が住んでいたらしいのですが、居住して1年程経った頃に突然引っ越ししてしまったとのこと。
藁葺き家の台所が現代風に改造されていたり、家のところどころに魔除けが貼ってあったりするのはその名残なのだそうです。
作中では「昔のエピソード」として登場人物の口で紹介されていただけでしたが、この個人だか一家だかのフォスターさんが一体どういう過程を経て引っ越しをすることとなったのか、そこは少しばかり興味が出てくるところです。
家に魔除けが貼ってあってしかもそのまま放置されていたところから考えると、彼(ら?)は「座敷わらし」のことが理解できず、最後まで「排除すべき化け物」とでも解釈していた可能性が高いように思えるんですよね。
あんな「和製ログハウス」にわざわざ住むくらいですから、日本文化について相当なまでの理解はあったのでしょうが、それでも「座敷わらし」のことまで理解できるのかというとかなり微妙なところですし。
あの手の妖怪を尊重し、共に共生する文化って、外国にはほとんどないものですからねぇ(-_-;;)。
「突然引っ越ししてしまった」という辺り、近所の人間にも何も告げずに出て行ったことは確実ですし、ノイローゼでも患って逃げるように藁葺き家から去ってしまったのではないかと、ついつい考えてしまったものでした。
高橋一家の面々でさえ、最初は「座敷わらし」の悪戯について「私って何か(精神的に)おかしいんじゃないの?」と疑っていたくらいなのですし。
もちろん、高橋一家と同じく幸福になった上で転勤を命じられた等の理由で再引っ越しした可能性もありますし、「座敷わらし」の動向とは全く何の関係もなく「郷里の親族に何か突然の不幸があって……」などの事情があった可能性もありえるわけではあるのですが。
作中では結局、具体的な理由や事情について何も言及されていないために色々な想像ができてしまうのですが、できれば個人だか一家だかのフォスターさんも幸せな人生なり家庭環境なりを構築していることを願いたいものです。

今作は、「GWで一家揃って映画を観る」という需要に応えた映画と言えるのではないかなぁ、と。

映画「テルマエ・ロマエ」感想

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映画「テルマエ・ロマエ」観に行ってきました。
月刊雑誌「コミックビーム」で連載されているヤマザキマリの同名漫画を原作とした、古代ローマ帝国の公衆浴場「テルマエ」を設計する技師が現代の日本へタイムスリップすることから始まる、阿部寛・上戸彩が主演のコメディ作品。
一応古代ローマ帝国も舞台になっているのに、主要登場人物の俳優が全て日本人だけで構成されているという、なかなかに斬新な手法が用いられている映画です。
なお、今作で私の2012年映画観賞本数はちょうど30本目となります。

物語の始まりは西暦128年の古代ローマ帝国。
ローマ帝国のこの時代は、後に五賢帝の3人目に数えられることとなる第14代皇帝ハドリアヌスの御世であり、当時のローマ帝国は、異民族の度重なる侵入に手を焼きつつも、全体的には「パックス・ロマーナ」の恩恵を存分に享受していました。
ハドリアヌス帝は、即位当初に自身の政策に反対した4人の元老院を殺害するなどの強硬策から元老院の受けが悪く対立していたものの、「テルマエ」と呼ばれる公衆浴場を整備することで一般大衆の支持を得ていました。
阿部寛が演じる今作の主人公ルシウス・モデストゥスは、そんな「テルマエ」を設計する技師のひとり。
ところが彼は、革新的かつ豪華な建造物が次々と誕生していく世相の中、その生真面目過ぎる上に頑固な性格から時代に合わない古風な「テルマエ」を設計し続けたことが災いし、仕事を斡旋してくれていた依頼主と喧嘩別れをすることとなってしまいます。
自身の考え方が受け入れられないことに憮然とならざるをえなかった彼は、親友であるマルクス・ピエトラスに連れられ、ローマの「テルマエ」に一緒に入ることとなります。
しかし、あまりの喧騒と、自分の理想から著しくかけ離れた「テルマエ」の様相にさらに落胆したルシウスは、喧騒を避けるため浴槽の湯中にひとり潜りこむことに。
そこでルシウスは、浴槽の壁の一部に穴が開いており、そこから水が排水されている光景を発見します。
ルシウスが確かめてみようと近づくと、突如ルシウスは水流に足を取られ、壁の穴に吸い込まれてしまうのでした。

ルシウスは無我夢中で出口を求め、ようやく水から顔を出すことに成功します。
しかし、そこは自分がいたローマの「テルマエ」ではなく、何と現代日本の銭湯だったのです。
どう見てもローマ人の顔つきとは異なる日本人と、見たこともない浴場の様相に戸惑いを覚えるルシウス。
そんなことなど知る由も無い彼は、そこがあくまでもローマの属州であり、かつ入浴している日本人達もローマの奴隷であると思い込み、彼らを「平たい顔族」として下に見るのでした。
基本的に好奇心旺盛かつ学習意欲満々のルシウスは、浴場、ひいては現代日本の文明水準にいちいち大真面目なリアクションで驚愕することを繰り返しまくりつつも、それが自分が理想とする浴場のあり方と合致していることから、日本の浴場文化をローマの「テルマエ」に取り入れていくことを考えつきます。
素っ裸のまま浴場・脱衣所を経て一度外に出たルシウスは、今度は女湯の方へと足を踏み入れてしまい、悲鳴と共に体重計?を投げつけられ気絶してしまうのでした。
そんなルシウスを女湯から引き摺り戻し、フルーツ牛乳を渡す「平たい顔族」の老人達。
それを飲んだルシウスが味に感動していると、次第に視界が霞んでいき、次に気づいた時には元いたローマの「テルマエ」に戻ってきていたのでした。
ローマに戻ってきたルシウスは、現代日本で得た知識を元に、当時のローマにはなかった斬新な「テルマエ」を次々と作り出し、それまでとは一変して人気を博するようになっていくのですが……。

映画「テルマエ・ロマエ」は、阿部寛が演じる主人公ルシウスの驚愕なリアクションが序盤の見所のひとつですね。
洗面器やシャンプーハットなどについて、いちいち仰天の表情と詳細なモノローグを交えて、その驚きぶりを表現してくれます(苦笑)。
そのカルチャーショックは浴場だけにとどまらず、トイレのフタの自動オープン機能やお尻ウォッシャーなどにも及び、電気のことを知らないルシウスは「これは奴隷が隠れてやっているに違いない」と間違った解釈をしていたりします。
ただそれにしても、お尻ウォッシャーに感動して涙まで流すのはさすがにどうかとは思うのですが(爆)。
しかし一方で、そうやって見聞した現代日本の文化を自分なりに解釈し、その結果をローマの「テルマエ」に反映させてしまう辺り、ルシウスの仕事に対する情熱とやる気は並々ならぬものがあります。
ルシウスにとっての「テルマエ設計技師」という仕事は、生計の術であるのと同時に、現代日本の「オタク」「マニア」と似たようなものでもあるのでしょうね。
ただ、その仕事一筋な性格が災いして、奥さんに不倫された挙句に逃げられてしまったのは何とも気の毒な話ではありましたが(T_T)。
また、この手の作品では、異世界にジャンプする際に何故か自分と相手との言語の問題が自動的にクリアされていて普通に意思疎通が可能だったりするのが一般的なパターンなのですが、今作ではルシウスは当時のローマで使われていたラテン語で、日本人は普通の日本語をしゃべっているという設定となっていました。
日本に来た際のルシウスはラテン語をしゃべっていましたし、物語中盤までは「平たい顔族」との意志の疎通自体が困難を極めるありさまでした。
普通にありえる話なのに、巷のエンターテイメント作品では意外と見かけない設定であり、却って斬新な感がありましたねぇ。

ルシウスのタイムトラベルには、ルシウス本人が身に纏っている物や手に持っている物も一緒に移動させることが出来るという特性があります。
序盤でも牛乳瓶などを持ち帰っていたり、バナナの皮と種を入手して「テルマエ」の建造に利用したりしているのですが、何と人間まで持ち帰ることも可能という恐るべき仕様も。
さらには、ルシウスが現代日本からローマへとタイムリープする際、その場には一定時間の間、タイムホール?のようなものが出来るらしく、他の人間達もその穴を伝ってローマ時代にタイムトラベルすることも可能なようです。
結果、物語後半では、逆にルシウスのいるローマの時代に複数の現代日本人がタイムトラベルしてくるという事態に。
しかもその際、ルシウスに連れられる形でローマにやって来た山越真実は、自身がケイオニウス(後のルキウス・アエリウス・カエサル)の愛人にされかけるところをアントニウスに助けられることで、世界の歴史が変わりかねない事態を招くこととなってしまう始末。
何と、史実ではハドリアヌス帝の後を継いで第15代ローマ皇帝に即位するはずのアントニウスが、本来ケイオニウスが赴任しそこで死去するはずのパンノニア属州の総督に任命されることとなってしまうのですね。
歴史の流れを修正するため、山越真実はルシウスと共に奔走することとなるのですが、この辺りが今作の映画オリジナル要素と言えるところなのでしょうか?

ただ、その歴史を修正する過程で2人が提示した改善策だと、ケイオニウスとアントニウス絡みの歴史は修正されても、その他の部分で歴史が大幅に変わるような気はしなくもないのですけどね。
戦いの兵士達の傷を癒す「テルマエ」を作った結果、ローマ辺境蛮族との戦いに勝ってしまったら、それは充分に歴史を変える行為になってしまうのではないかと思うのですが(^^;;)。
あの蛮族との戦い、作中ではモロにローマ側の敗色濃厚な状態でしたし。
ハドリアヌス帝は、本来負けるはずの戦いに勝ってしまったのかもしれませんし、その戦いで死ぬはずだった人間が生き残り、またその逆も充分に発生しえる事態なのですから、歴史に与える影響が少なかろうはずもありません。
下手をすれば、遠い未来にどこかの国の王族を誕生させることになるはずの遠い祖先が、その戦いで死んでしまった、などという事態もないとは言い切れないわけですし。
これって本当に大丈夫なのだろうか、とは、正直野暮だろうと思いつつも考えずにはいられなかったですね(苦笑)。

ちなみに、今作のオリジナルキャラクターでもあるらしい山越真実は、明らかに原作者自身をモデルにしたキャラクターですね。
元々、名前からしてそっくりで「漫画家志望」という設定な上、物語の最後にどこかの出版社?で今回の事件をモデルに書いたらしい、そのものズバリ「テルマエ・ロマエ」の漫画原稿を提出していたのですから(笑)。
ここは繋げ方が上手いなぁ、と少し感心したところです。

出演俳優とコメディ映画の好きな方にはイチオシの作品、と言えるでしょうか。

タイタニア完結巻数&薬師寺シリーズ新刊のタイトルについて

https://twitter.com/adachi_hiro/status/195300619974746113
<いえ、タイタニアは5巻で完結の予定です。 RT @livemaster: @adachi_hiro @mage_jp え、って事はタイタニアは次巻で完結なんですか?(苦笑>

https://twitter.com/adachi_hiro/status/195306879868612608
<@sako0321 @mage_jp 『創竜伝』も大事な作品なのですが、まずは田中さんが「書きたい」気分になっている『タイタニア』を書いて貰おうかと。あと2冊で完結なんだし、2冊連続で書いて欲しいと思ったりもするのですが、さすがにそれは難しいかな。>

タイタニアが5巻完結予定とは初めて聞きましたよ。
元々銀英伝10巻および「夢幻都市」のあとがきでも「次回は比較的コンパクトなものになります」的なことを述べていましたから、それよりは最初から少ない巻数の予定ではあったのでしょうけど。
まあ、5巻完結だろうが10巻完結だろうが、続巻が刊行されなければ全く意味がないのですが(苦笑)。
2012年4月下旬現在の田中芳樹は、何やら短編を書いているとのことで、それが済んだらいよいよタイタニア4巻の執筆に取りかかる予定なのだとか。

https://twitter.com/adachi_hiro/status/195285472598167552
<田中さんの今後の予定ですが、5月から6月にかけて、短篇をひとつ書く予定です。すでに構想も固まっているので、さほど時間は掛からないんじゃないかな。>

短編の内容が何なのかまでは分かりませんが。
タイタニア続巻については、もう3年も前から告知されニュースにまでなってしまっているのですから、よほどの厚顔無恥かやむをえない事情でもない限りはもう今更引き返すこともできないわけですが、とっとと執筆にかかって欲しいものです。

それと、どうやら薬師寺シリーズ9巻のタイトルも決定したようですね↓

http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2012/04/post-9600.html
>  先日、『薬師寺涼子の怪奇事件簿』の新作原稿を書き上げ、編集さんに渡した田中さん。
>  垣野内成美さんから、表紙カバー絵のラフも届きました。
6月初旬の発売日に向けて、着々と準備が進んでいます。
>  
タイトルも『魔境の女王陛下』と決まりました。
>
>  どうやら、すでに絶滅した大型肉食ほ乳類が出てくる話のようです。
>  あと1ヶ月、発売まで楽しみにお待ち下さい。

読む前から相当なまでの駄作臭が漂いまくっているのですが、また「既に作中世界でも当たり前になっているはずのオカルト絡みの超常現象を、主人公達以外の一般人がありえない物でも見るような対応に終始する」みたいな描写が出てきたりするのですかねぇ(苦笑)。
あれだけ衆人環視どころか全国・全世界レベルのTV放映でオカルト現象が周知されていれば、一般人レベルでもある程度の耐性が出来ているのがむしろ当然なのではないかとすら思うのですが(笑)。
あと、「すでに絶滅した大型肉食ほ乳類」というのはサーベルタイガーのことのようですね。
以前にも、「(薬師寺シリーズの)新刊の資料」として田中芳樹がサーベルタイガーの人形を持ってきていたという話がありましたし。

ただ、タナウツ的には創竜伝よりも評判が悪い(というより無関心な人が多い)薬師寺シリーズですが、巷では新刊の予約がそこそこある程度の人気はあるようで↓

https://twitter.com/adachi_hiro/status/195282511432122368
<田中さんの新刊、『魔境の女王陛下 薬師寺涼子の怪奇事件簿』、Amazonで見たら、講談社ノベルスで予約で2位になってる。ありがたいなあ。>

まあ、主人公2人の掛け合い漫才&コテコテのラブコメ描写「だけ」を観る分には、それでもそれなりに楽しめるのかもしれませんが……。
個人的にも薬師寺シリーズ考察を始めてから初となる新刊となるわけですが、作者サイドおよび一般的なファンとはまるで異なる意味で内容が楽しみな限りですね(笑)。

銀英伝2次創作「亡命編」におけるエーリッヒ・ヴァレンシュタイン考察8

久しぶりにタナウツ本家の常連である不沈戦艦さんのサイトに掲載されている「悪ふざけ架空戦記」を読んでいたところ、主人公の図茂艦長があまりにもエーリッヒ・ヴァレンシュタインそっくりに見えて思わず笑ってしまいました。
「悪ふざけ架空戦記」について知らない方向けに簡単に説明しますと、これは過去に存在した(現在は消滅している)保守系サイト「日本ちゃちゃちゃクラブ」およびその界隈の議論系サイトの掲示板に投稿していた投稿者およびその言動を元ネタに作られたパロディ小説です。

悪ふざけ架空戦記 戦艦「百舌鳥」大作戦!
http://www.geocities.jp/hangineiden/warufuzake1.html
悪ふざけ架空戦記2 暦新島上陸作戦
http://www.geocities.jp/hangineiden/warufuzake2.html

左派系の投稿者達が集った国である酉国と、保守系論者で構成されているちゃちゃちゃ国の戦争を描きつつ、タイトル通りのお笑いギャグやパロディネタを大量に織り交ぜてストーリーが進行していきます。
そして、この作品の主人公である酉国艦隊所属の図茂艦長は、元々は金融業界系の人間だったのに、ただ「フネがマトモに操縦できるから」というしょうもない理由で軍に徴用&いきなり艦長に任命されたことから、周囲に被害者意識ばかり抱く上に罵倒ばかり繰り返すという、まさにどこぞのキチガイ狂人を彷彿とさせるような性格設定がなされているんですよね。
あまりにも性格や言動が生き写しと言って良いほどにそっくりなため、「ヴァレンシュタインってもしかして図茂艦長をモデルにして作られたキャラクターなのか?」とすら考えてしまったほどです(苦笑)。
「悪ふざけ架空戦記」が置かれているサイトには、皮肉にもヴァレンシュタインと同じファーストネームを持つエーリッヒ・フォン・タンネンベルク(こちらはヴァレンシュタインの1億倍以上はマトモな性格のキャラクターですが)を主人公とする銀英伝二次創作小説「反銀英伝 大逆転!リップシュタット戦役」もあるわけですし、作者氏があのサイトをある程度参考にしていた可能性は高そうではあるのですが。

反銀英伝 大逆転!リップシュタット戦役
http://www.geocities.jp/hangineiden/

ただ「悪ふざけ架空戦記」の場合、最初からパロディを意図したツッコミ役兼ギャグキャラクターとして図茂艦長が造形されており、かつ周囲もわざとパロディキャラばかりで固めストーリー自体も笑いを取ることを目的としているからこそ、周囲のトンデモキャラのトンデモ言動に囲まれて苦労している図茂艦長に笑いと共に同情・共感できる部分も出てくるのであって、本質的に真面目路線一辺倒で作られているはずの「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝」で、図茂艦長と似たりよったりなギャグキャラクター同然の人物が主人公というのはミスマッチもいいところでしかないんですよね。
ヴァレンシュタインは銀英伝の二次創作小説などではなく、ボケ役だらけのギャグ小説におけるツッコミ担当の主人公として本来活躍すべきキャラクターであるべきだったのではないのかと、ついつい考えてしまった次第です。
まあもっとも、ヴァレンシュタインの偉大さを示すために周囲の人間を軒並み禁治産者レベルの無能者集団に仕立て上げるという荒業が駆使されまくっているために、「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝」自体が「悪ふざけ架空戦記」、もっと悪く言えば創竜伝や薬師寺シリーズの形態にどんどん近づいてはいるのですが(爆)。
それでは今回も引き続き、第6次イゼルローン要塞攻防戦におけるヴァレンシュタインの言動について検証を進めていきたいと思います。
なお、「亡命編」のストーリーおよび過去の考察については以下のリンク先を参照↓

亡命編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
http://ncode.syosetu.com/n5722ba/
銀英伝2次創作「亡命編」におけるエーリッヒ・ヴァレンシュタイン考察
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-570.html(その1)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-571.html(その2)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-577.html(その3)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-585.html(その4)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-592.html(その5)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-604.html(その6)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-608.html(その7)

第6次イゼルローン要塞攻防戦では、原作でも同盟軍の癌細胞とすら言って良い「無能な働き者」ぶりを披露していたロボス&フォークを、ヴァレンシュタインが排除するというコンセプトがメインで展開されていきます。
原作知識を持っている人間からすれば、ロボス&フォークを排除することが同盟にとってプラスになることは一目瞭然なのであり、その点でヴァレンシュタインの選択自体は妥当なものであるとは言えるのですが、問題なのは肝心のヴァレンシュタインが、例によって例のごとくあまりにも幼稚&自己中心的過ぎる点にあります。
それが最も悪い形で出ているのが、作中で披露されている以下のような会話ですね↓

http://ncode.syosetu.com/n5722ba/23/
> 三日前だがロボスと廊下でばったり会った。腹を突き出し気味に歩いていたが、あれはメタボだな。お供にアンドリュー・フォーク中佐を連れていたが俺を見ると顔を露骨に顰めた。上等じゃないか、そっちがそう出るなら俺にも考えがある、必殺微笑返しで対応してやった。ザマーミロ、参ったか!
>
> フォークがすれ違いザマに“仕事が無いと暇でしょう、羨ましい事です、ヴァレンシュタイン大佐”と言ってきた。仕事なんか有ったってお前らのためになんか働くか、このボケ。
>
>
“貴官は仕事をしないと給料を貰えないようですが私は仕事をしなくとも給料が貰えるんです。頑張ってください”と言ってやった。顔を引き攣らせていたな。ロボスが“中佐、行くぞ、我々は忙しいのだ”なんて言ってたが、忙しくしていれば要塞を落とせるわけでもないだろう。無駄な努力だ。
>
> 余程に頭に来ていたらしい、早速嫌がらせの報復が来た。クッキーを作るのは禁止だそうだ。
“軍人はその職務に誇りを持つべし”、その職務って何だ?人殺しか? 誇りを持て? 馬鹿じゃないのか、と言うより馬鹿なんだろう、こいつらは。

再春館製薬所が販売するドモホルンリンクルのCMで一昔前に喧伝されていた「365日間、何もしないことが仕事になる、そんな仕事があります」のキャッチフレーズじゃあるまいし、「仕事をしなくとも給料が貰える」などという状態が自慢できるシロモノなどであるわけがないでしょうに(笑)。
軍隊だけでなく一般企業でも「仕事をしなくとも給料が貰える」というのは、上司が部下に仕事を任せきりにしているパターンでなければ、窓際族として干されていたり、仕事がなくて自身が左遷・免職される、最悪は組織自体が瓦解する直前の状態にあったりするなどといった状態を意味するのですが(爆)。
ドモホルンリンクルのCMにしても、アレは本当に何もしていないのではなく、長い時間をかけて抽出されるエキスを1滴1滴チェックしていくという、単調かつ気の抜けないキツイ仕事を表現するものだったりするのですし。
またそれ以前の問題として、他人があくせく仕事をしている中で、ひとりだけ楽をしている(ように見える)人間がいたら、文句や嫌味のひとつも言いたくなるのが普通一般的な人情というものでしょう。
そもそもヴァレンシュタイン自身、バグダッシュやヤンに対して「お前のような暇で気楽な人間と違って俺は忙しいんだ、ウザいから失せろ」みたいな罵倒を平気で吐き散らしているではありませんか(爆)。
全く同じ発言を自分がやるのはOKだが、他人がするのはNGだとでも言うのでしょうか?
いくら相手がロボスやフォークであっても、いやむしろあんな連中【だからこそ】、相手に対する罵倒内容がそっくりそのまま自分自身に跳ね返ってくるような発言は、いかに外面が良くても内実は醜悪かつ無様そのものでしかないのです。
その問題をクリアできない限り、自分がロボスやフォークと同類でしかないという自覚が、ヴァレンシュタインには絶対に必要なのではないかと思うのですが。

そしてもうひとつ、軍人という職業を「人殺し」「誇りなんてない」と断言して憚ることのないヴァレンシュタインは、そもそも何故自分が蔑んでやまない軍隊などという「卑しい職種」に、それも自ら選んで就いていたりするのでしょうか?
元々ヴァレンシュタインは、実の祖父だったらしいリメス男爵から20万帝国マルクもの金が入ったカードを譲り受けており、すくなくとも当面の間は金銭的な心配をする必要が全くない立場にありました。
しかも、同盟に亡命して以降も「帝国への逆亡命計画」なるものを構想しており、同盟に永住するつもりも最初から更々なかったのです。
となれば、ヴァレンシュタインには別に同盟内で職を得る必然性自体が全くありませんし、仮に「手に職をつける」ために就職を考えていたとしても、その先が同盟軍でなければならない理由もありません。
むしろ、考察1でも述べていたように、下手に同盟軍内に入ってしまうと、同盟から抜け出すことが至難を極めるようになってしまい、「帝国への逆亡命計画」に重大な支障を来たす恐れすらあったのです。
元々軍人になることを嫌がっていたヤンの場合は、それでも「カネがなかったから」「タダで歴史を学びたかったから」などといった「止むに止まれぬ」金銭的な事情がまだあったのですが、ヴァレンシュタインにはそんな切迫した事情もなく、それどころか自身の計画に弊害すら発生しえるであろうことが最初から分かりきっていたわけです。
そこに来てのこの軍人差別発言は、わざわざ同盟軍に入ったヴァレンシュタインの選択に、ますます大きな矛盾と疑問を突きつけることになってしまうではありませんか。
ヴァレンシュタインは資格を取って弁護士稼業をやりたかったとのことですが、そのために軍隊に入らなければならない理由もないでしょうに。
そもそも、同盟で獲得した国家資格が帝国でも通用するという保証自体が実のところ全くありませんし、帝国に亡命したら同盟で得られた資格は全て無効化する可能性も多々ある(というか普通は確実にそうなる)のではないかと思うのですけどねぇ(苦笑)。
勉強すること自体には意味があるにしても、資格を得てから帝国に逆亡命するまで5年あるかどうかも不明な「同盟における」資格の取得などに、果たして意味などありえるのかと。
繰り返しますが、ヴァレンシュタインは何故、さしたる緊急性もない状況下で、自分にとって何の利益もないどころが弊害すら予測され、自身でも蔑んでやまない「同盟の」軍隊などに、それも自ら志願して入ったりしたのでしょうか?
こういうのって普通、「考えなしなバカの自殺行為な所業」とでも評すべきシロモノなのではないのですかねぇ(爆)。

そもそも、この一連のヴァレンシュタインのタワゴトって、実はヴァレンシュタインのオリジナルですら全くなかったりするんですよね。
何と、銀英伝6巻で全く同じ主張がヤンによって繰り広げられているのです↓

銀英伝6巻 P60上段
「仕事をせずに金銭をもらうと思えば忸怩たるものがある。しかし、もはや人殺しをせずに金銭がもらえると考えれば、むしろ人間としての正しいあり方を回復しえたと言うべきで、あるいはけっこうめでたいことかもしれぬ」
 などと
厚かましく記したメモを、この当時ヤンは残しているが、これはヤンを神聖視する一部の歴史家には、故意に無視される類のものである。>

もちろん、原作知識を持っているなどと称するヴァレンシュタインともあろう者が、この記述のことを知らないはずもないわけで。
原作でさえ「厚かましい」「故意に無視される類のもの」などと酷評され、ヤンの怠け根性とユーモアセンスを披露する程度のシロモノとしてしか扱われていなかった「内輪向けな本音」などを、その意味すらも全く理解せず何の疑問も抱くことなくパクった挙句に、他人に叩きつける罵倒文句として活用しまくっているヴァレンシュタイン。
何しろヴァレンシュタインは、これと全く同じ主張を、この後で繰り広げられることになる軍法会議でさえも堂々と披露しているわけですからね(38話)。
アレって、当のヤンですら人目を憚って私的に書いただけの「ネタ」の類でしかなかったはずなのですけどねぇ(爆)。
「釣り」とか「ネタ」とか「炎上マーケティング」とかいった概念を永遠に理解することすらできない、悪い意味での「大真面目」な性格をしているみたいですね、狂人ヴァレンシュタインは(苦笑)。
今更心配する意味があるとも思えないのですが、頭大丈夫なのですかね、ヴァレンシュタインは(笑)。

ただでさえ原作知識からロボスとフォークに全く好意的ではない上、同族嫌悪・近親憎悪の観点からも対立せざるをえないヴァレンシュタインは、自らの感情の赴くがままに公の場でロボスとフォークを吊るし上げることとなります。
フォークを原作同様に転換性ヒステリー症に追い込み、ロボスに対しても侮蔑交じりの嘲弄を繰り広げ始めたのです。
しかしこれ、実はヴァンフリート星域会戦後の自爆発言に続く、ヴァレンシュタイン2度目の最大の危機に【本来ならば】なりえたはずなのですけどねぇ……↓

http://ncode.syosetu.com/n5722ba/25/
> 「小官は注意していただきたいと言ったのです。利敵行為と断言……」
> 「利敵行為というのがどういうものか、中佐に教えてあげますよ」
> 「……」
> ヴァレンシュタインは笑うのを止めない。嘲笑でも冷笑でもない、心底可笑しそうに笑っている。
>
>
「基地を守るという作戦目的を忘れ、艦隊決戦に血眼になる。戦場を理解せず繞回運動等という馬鹿げた戦術行動を執る。おまけに迷子になって艦隊決戦に間に合わない……。総司令部が迷子? 前代未聞の利敵行為ですよ」
>
> フォークの顔が強張った。ロボス元帥の顔が真っ赤になっている。そして会議室の人間は皆凍り付いていた。聞こえるのはヴァレンシュタインの笑い声だけだ。
目の前でここまで愚弄された総司令官などまさに前代未聞だろう。
>

(中略)
>
> 困惑する中、笑い声が聞こえた。ヴァレンシュタインが可笑しそうに笑っている。
> 「何が可笑しいのだ、貴官は人の不幸がそんなに可笑しいのか!」
> 唸るような口調と刺すような視線でロボス元帥が非難した。
>
>
「チョコレートを欲しがって泣き喚く幼児と同じ程度のメンタリティしかもたない人物が総司令官の信頼厚い作戦参謀とは……。ジョークなら笑えませんが現実なら笑うしかありませんね」
>
>
露骨なまでの侮蔑だった。ロボス元帥の顔が小刻みに震えている。視線で人を殺せるならヴァレンシュタインは瞬殺されていただろう。
> 「本当に笑えますよ、彼を満足させるために一体どれだけの人間が死ななければならないのかと思うと。本当に不幸なのはその人達ではありませんか?」
>
> ヴァレンシュタインが笑いながらロボス元帥を見た。ロボス元帥は憤怒の形相で
ヴァレンシュタインは明らかに侮蔑の表情を浮かべている。
>
> ロボス元帥が机を叩くと席を立った。
> 「会議はこれで終了とする。ご苦労だった」
> 吐き捨てるように言うとロボス元帥は足早に会議室を出て行った。皆が困惑する中ヴァレンシュタインの笑い声だけが会議室に流れた……。

原作や「亡命編」におけるロボスやフォークが無能であるにしても、ヴァレンシュタインにそれを誹謗する資格があるとは到底言えたものではないでしょう。
自分の穴だらけの言動について「自分だけは何が何でも正しく、悪いのは全て他人」と頑なに信じ込んで反省もせず、まさに「チョコレートを欲しがって泣き喚く幼児と同じ程度のメンタリティ」なるシロモノを散々発揮しまくって、被害妄想と共に周囲に当たり散らしてきたのはどこのどなたでしたっけ?
ヴァレンシュタインがあの2人と異なるのは、原作知識があることと、「神(作者)の介入」による超展開と御都合主義の乱発によるものでしかありません。
何しろ、ヴァンフリート星域会戦後における自爆発言をやらかしてさえ、周囲の人間はヴァレンシュタインを罪に問うどころか、その問題点に気づきすらもしなかったというのですから。
この件に関して、当のヴァレンシュタイン自身は全く何もしていない上に、原作知識とやらも少しも発動されてなどいなかったのですから、この「奇跡」が「神(作者)の介入」によるものであることは疑いの余地がありますまい。
原作のフォークに原作知識と神(作者)の祝福を与えた上で大量の興奮剤とサイオキシン麻薬でも投与すれば、それでヴァレンシュタインが出来上がるわけなのですから、ずいぶんと安普請な話ではあるのですが(苦笑)。
「目くそ鼻くそを笑う」とは、まさに上記にあるがごときヴァレンシュタインの態度を指す格言なのではないですかねぇ(笑)。

さて、原作知識の恩恵をすらはるかに凌ぐ、ヴァレンシュタインの最強無敵にして本当の切り札である「神(作者)の介入」は、実はこのロボス&フォークとのやり取りの中でも如何なく発揮されています。
何しろ、ここでヴァレンシュタインが自らの身の危険について全く考慮する必要すらなく好き勝手に暴れられるという事実そのものが、「神(作者)の介入」の恩恵によるものでしかないのですから。
実は一般的な軍事組織では、ヴァレンシュタインのような人間の出現を未然に阻止するために、いわゆる「軍法」というものが整備されています。
「軍法」は、一般的な民法や刑法などのような「個人の権利を守る」ためのものではなく、「軍の秩序を維持・安定させる」ために存在するものです。
そして、ヴァレンシュタインのごとき人間に対処するための対処法としては、「上官侮辱罪」の適用が最も有効かつ効果的なものとなります。
軍法における「上官侮辱罪」の構成要素は、「直接面と向かって上官を罵倒する」「公衆の面前で公然と上官を罵倒する」というものであり、ヴァレンシュタインの言動はこの2つ共に充分過ぎるほど該当します。
つまり、ヴァレンシュタインに罵倒されたロボスは、ただ「上官侮辱罪」をヴァレンシュタインの眼前に突きつけるだけで、ヴァレンシュタインを力づくで黙らせるどころか、逮捕拘禁にまで至らしめ軍法会議にかけることすらも【本来ならば】充分に可能だったのです。
そして、すくなくとも原作「銀英伝」および「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝」の世界には、疑問の余地なく「上官侮辱罪」が存在します。
銀英伝10巻では、オーベルシュタインの発言に激怒したビッテンフェルトが、オーベルシュタインに掴みかかったことから謹慎処分を受けていますし、「本編」には以下のごときそのものズバリな単語が存在するのです↓

http://ncode.syosetu.com/n4887n/49/
> 「オッペンハイマー中将は命令違反、上官侮辱罪、さらに皇位継承の有資格者の身を危険にさらした事、反逆を煽った事、それらの罪で逮捕しました」

これらは全て帝国の事例ではありますが、帝国にあるのに同盟側にだけ「上官侮辱罪」がないとは到底考えられません。
ましてや「亡命編」における同盟には、この後に登場する、軍の司令官の首を挿げ替えることを可能にする「自由惑星同盟軍規定第214条」の存在がありますので、そのバランスと兼ね合いからなおのこと「上官侮辱罪」は必要とされます。
本来、「上官侮辱罪」なるものが作られた最大の理由は、上官個人の権利や名誉を守るなどという瑣末な事象のためなどではなく、上官をトップとする軍としての指揮系統や団結・秩序を維持するためという目的こそが大きいのです。
司令官の意向と権威を無視して皆が好き勝手に振舞っていたら、軍という組織そのものが成り立たなくなってしまいます。
それを未然に抑止すると共に、全ての将兵を各部署毎の上官に従わせ、その上官達全てをまとめ上げる最高司令官の意思ひとつで軍内が統一され軍としての機能を最大限に発揮させる、それこそが「上官侮辱罪」が持つ本来の立法趣旨なのです。
そのため「上官侮辱罪」では、上官に対する罵倒の内容が正当なものであるのか否かなど、実は罪の構成要素を論じるに際しては何の争点にもなりはしません。
内容が正当であろうがなかろうが、上官に対する罵倒によって軍が混乱し秩序が乱れることには変わりがなく、またいちいち内容によって適用の度合いを判断などしていたら、そこにつけ込んで上官侮辱を乱発されてしまうことにもなりかねないのですから。
罵倒の内容などは、「上官侮辱罪」が成立すると見做された後に、せいぜい情状酌量の余地として弁護側が主張できることもあるかもしれない程度の意義くらいしかありえませんね。

ヴァレンシュタインに罵倒されたロボスおよび周辺の人間達は、ヴァレンシュタインの発言内容に対してではなく、ヴァレンシュタインの「行為」そのものを「軍の秩序を乱し混乱を招くもの」として糾弾し、「上官侮辱罪」として告発すれば良い、というよりもむしろ「そうしなければならなかった」のです。
ヴァレンシュタインがいくら「自身の発言の正当性」について述べたところで、そんなものは「上官侮辱罪」の構成要件をむしろ強化する結果にしかならないのですし、この当時のヴァレンシュタインには、相手を黙らせたり自らの不祥事をもみ消すことができたりするだけの権力的なバックアップが存在していたわけでもありませんでした。
ヴァレンシュタインが本格的かつ公然とシトレやトリューニヒトのバックアップが得られるようになったのは、この第6次イゼルローン要塞攻防戦が終わって以降のことだったのですし。
また、ヴァレンシュタインから直接罵倒されたロボスなどは、立場的にも軍法的にも心情的にも、ヴァレンシュタインに対して容赦などしなければならない理由は全くなかったはずです。
しかも「上官侮辱罪」というシロモノは、むしろ上層部が無能だったり不正行為の類に手を染めていたりする事実があればあるほど、「口封じの道具」などというその立法趣旨に反したやり方で濫用されることが珍しくない法律なのですからなおのこと。
にもかかわらず、この場でもそれ以降でも「上官侮辱罪」は全く発動されなかったのですから、これはもう「神(作者)の介入」によるもの以外の何物でもないでしょう。
狂人ヴァレンシュタインを偉く見せるため、またその立場を死守するため、神(作者)による「奇跡の行使」がまたしても振舞われたわけですね(苦笑)。
こんな神(作者)の祝福があるのであれば、そりゃどんなに愚劣な言動を繰り出しても、ヴァレンシュタインは永久に無敵でいられるに決まっています。
自分の足で立つことなく、神(作者)が押す乳母車にふてぶてしく鎮座し、誰も逆らえない神(作者)の力に守られながら周囲に威張り散らして他者を罵り倒すヴァレンシュタイン。
その光景の、何と愚劣で醜悪で滑稽なことなのでしょうか。

第6次イゼルローン要塞攻防戦の考察はまだまだ続きます。

映画「わが母の記」感想

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映画「わが母の記」観に行ってきました。
作家・井上靖の同名小説を原作に役所広司・樹木希林・宮崎あおいが主演を演じる、高度成長期の古き良き昭和の時代を舞台とした人間ドラマ作品。
今作は本来、2012年4月28日公開予定の映画なのですが、今回もたまたま試写会に当選することとなり、公開予定日に先行しての観賞となりました。
まあ、今回はほんの数日程度の違いでしかなかったですけどね(^^;;)。

土砂降りの雨が降る中、幼い妹2人と共に雨宿りをする母親を、少し離れたところでただひとり見つめる自分――。
1959年、役所広司が演じる今作の主人公にして小説家の伊上洪作は、老齢で身体の容態が思わしくない父親の隼人を見舞うべく他の家族と共に訪問していた、現在の静岡県伊豆市湯ヶ島にある郷里の実家で、昔見た母親の八重の光景について回想していました。
洪作は、5歳の頃に2人の妹を連れて当時は日本領だった台北へと行ってしまい、以後13歳になるまで自分のことを放置していた母親に対する恨みとわだかまりをずっと抱き続けていました。
母親は自分だけを捨てていった、と洪作は考えたわけですね。
八重がそうするに至った本当の理由については物語後半で明らかとなるのですが、今作はこの「母子関係の葛藤と心情」が大きなテーマのひとつとなっていきます。
さて、もう長くないであろうことが確実な父親と半ば「最後の別れ」的な対面をした洪作は、ついさっき自分に言った発言を二度も繰り返す母親に「困ったものだ」的な苦笑いを浮かべていました。
実はこの頃からすでに、八重の老人ボケは既に進行しつつあったのですが。
洪作は東京ではそれなりに売れている小説家で、その東京の家では、まもなく売り出す予定の洪作の新刊に、洪作の家族が一家総出で検印を押し続けていました。
……ただし、洪作の三女である琴子を除いて。
湯ヶ島から帰ってきて、家族に加えて編集者も共にした夕食会でも全く姿を見せようとしない琴子に怒りを覚えた洪作は、琴子の部屋へ直接怒鳴り込みに行く亭主関白ぶりを見せつけます。
琴子は琴子で、父親に対する反抗心丸出しな様子を隠そうともしませんし。
ところがその日の深夜、昼に見舞いに行った父親・隼人の容態が急変し、そのまま逝去したとの連絡が伊上家にもたらされます。
ささやかながらも一族総出の葬儀が行われる中、父親に対する反発も手伝ってか、琴子は八重に話しかけ、洪作絡みの話題にしばしの時を費やすのでした。

以後、1960年、1963年、1966年……と時間が過ぎていき、1973年に八重が亡くなるまで物語は続いていくことになります。
時が進むにしたがって八重の老人ボケの症状はますます酷さを増していきます。
1966年頃になると、もう現在の息子の顔すらも忘れ、ただひたすら昔の思い出を途切れ途切れかつ脈絡もなく思い出しながら、たちの悪い放浪癖で家族をハラハラさせるような状態にまで至ってしまいます。
洪作も琴子もその他の家族の面々も、それぞれの人生を歩みつつ、そんな八重の様子を時には気にかけ、時には激怒しつつ見守っていくのですが……。

映画「わが母の記」は、認知症の実態を描いているという点においては、映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」に近いものがあります。
ただ、あの作品が「マーガレット・サッチャーの現状と本人の視点」に重点を置きすぎて観客の期待からは大きく外れた形で終始していたのに対し、今回は最初から「母親の認知症」を前面に出し、かつ母親周辺の人々にスポットを当てている点が、違うと言えば違うところですが。
今作では「認知症を患っている母親本人の視点」というものは一切登場せず、あくまでも「認知症の母親を見る周囲の視点」だけでストーリーが進んでいきます。
認知症患者の物忘れや奇行ぶりに振り回され悩まされ続ける家族の様子もよく描かれており、その点では地に足のついた現実味のある物語に仕上がっています。
ただ、全体的に淡々と進みすぎた感があり、特に1973年に八重が死ぬことになるラストを飾る「八重とのお別れ」の描写は「あれ? これで終わり?」的なあっけなさがありましたね。
あまりにあっけなさ過ぎてエンドロール後に何かあるのかと期待していたら、結局そちらでも何もなかったですし。
まあ正直、あの段階だと洪作と八重絡みのしがらみも終わってしまっていますし、あれ以外に締めようもなかったというのが実情ではあったのでしょうが、あそこはもう少し何かを感じさせる終わり方でも良かったのではないかと。

物語のハイライトは、やはり何といっても1969年の2つのシーンですね。
ひとつは、「洪作が少年時代に自作したものの本人ですら忘れていた詩の内容を八重が全て諳んじて、洪作が号泣するシーン」。
琴子との会話で出てきた少年時代の詩のエピソードがああいう形で繋がる点も見事の一言に尽きましたし、また洪作の「男泣き」も役所広司ならではの安定した上手い演技でした。
ふたつ目は、予告編でもある程度明示されていた「海辺で洪作が八重をおんぶするシーン」。
こちらは、終盤で徘徊していた八重が、人の良いトラックの運ちゃんに乗せられて海に向かったという情報が出た時点で「ああ、あのシーンが来るな」と簡単に予想はついたのですが、琴子に連れられた八重が洪作に背負われ、2人で一緒に海を歩くシーンは確かに充分絵になる描写でした。
映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」ほどのサプライズ感はさすがになかったものの、家族愛を表現する描写としては邦画の中でもトップクラスに入るものなのではないでしょうか。

ただこの映画、アクションシーンのような派手な描写は全くないですし、人間ドラマとしても全体的に起伏が少な過ぎる感が否めないので、正直言って「観る人を選ぶ」作品ではありますね。
出演俳優は豪華ですし演技も上手いので、俳優のファンの方々には一見の価値があるでしょうけど、果たして一般向けなのかと言われると……。
内容から考えるとシニア層&主婦層向けの作品、ということになりますかねぇ、やっぱり。

アメリカでは本当に3D映画が受け入れられているのか?

アメリカでは映画ファンの70%以上が2Dよりも3Dの映画を好む、という調査結果が発表されました↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0041556
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 大作・話題作が軒並み3D公開されている現在、アメリカでは映画ファンの70パーセント以上が2Dよりも3D映画を好むという調査結果が発表された。
>
>  
今や3D公開されているのは当たり前であり、今年夏に公開される映画『ダークナイト ライジング』に至っては3D上映を行わないことがニュースになるほどだった。それは裏を返せば、3D映画がいかに観客に浸透しているかという証だろう。
>
>  それをデータとして裏付けるのが、インターナショナル3Dソサエティーと市場調査会社ORCインターナショナルが合同で発表した調査結果。
調査は18歳以上のアメリカ人1,011名を対象に行われ、内52パーセントが過去3年間に3D映画を観たことがあると回答。さらに、その内の71パーセントが2Dよりも3D映画を好むと回答した。
>
>  もともとは2Dカメラで撮影された映像を変換したものも多いため、3D作品に対する不満もよく聞かれる。だが、『アバター』を筆頭に、『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』など、3Dカメラで撮影された作品はやはり3D作品でしか味わえない魅力がある。
一定数の観客が3D映画の方を好むと証明された以上、今後も3D映画は製作され続けるに違いない。(編集部・福田麗)

この調査結果は、一見すると確かに3D映画が大衆に受け入れられているかに見える内容ではあります。
しかしこれ、よく読んでみると「映画ファンに3D映画が受け入れられている」とはとても言えない内容が多分に含まれていることが見えてくるんですよね。
まず、この調査結果では、そもそも3D映画を観賞したことのある人自体が全調査対象者数の半分程度しかいないことが分かります。
そして、3D映画が2Dよりも好みであるという人は、その半分程度の観賞経験者のさらに7割程度しかいないという結果が出ているわけです。
つまり、調査対象者1011名の中で、実際に3D映画を2Dよりも好むという人の数は、

1011×0.52×0.71=373.2612

しかいないことになり、全体から見た割合は36.92%となるのです。
3分の1弱しか支持されていないのに、「3D映画が大衆に受け入れられつつある」などと言えるのでしょうか?

それに、3D映画の観賞経験だけをもって「映画ファン」と定義するのもいかがなものかと。
そもそも「2Dか3Dか」というのは必ずしも自分で選択できるものではなく、映画によっては3D以外の選択肢がないことも珍しくありません。
特に、普段は映画を観ない人がごく稀に映画を観るようなケースでは、選択の余地がない3D映画をほとんど自動的に観賞させられる事例も少なくないでしょう。
そうなると、映画は年に1本観に行くかどうかという人でも、件の調査の定義では「この人は映画ファンである」ということにされてしまうわけです。
また逆に、年に何回も映画を観ているものの、料金問題を嫌う等の理由から3D映画を避けている人は、何本映画を観ても「映画ファン」と換算されることがないのです。
これでは「映画ファン」の定義自体がおかしいと言わざるをえませんし、また映画館で映画をあまり観ない観客を多分に含んでいるであろう中で、確たる根拠と論理でもって「2Dよりも3Dの方が良い」と言える人が果たしてどれだけいるというのか、はなはだ疑問と評さざるをえないでしょう。
件の調査結果は、むしろ逆に3D映画があまり受け入れられていない事実を示すものである、とすら言えてしまうのではないでしょうか?

以前から何度も述べていますが、3D映画は料金問題ひとつ取っても敬遠されるに充分なものがあるはずなんですよね。
3D映画を選択するだけで2Dよりも高い料金が取られるとなれば、ただそれだけでも敬遠されない方が変というものです。
ましてや、3D映画自体の粗製乱造の結果、「どこに2Dとの違いがあるのか理解に苦しむ」的な3D映像がしばしば提供される事実まであるのですからなおのこと。
カネを払うメリットが少ないのにリスクが大き過ぎる、それが今の3D映画の実情なんですよね。

また、これは最近になって私も知ったことなのですが、3D映像というと「=飛び出す」というイメージ【だけ】で語られることが多いのも問題です。
そのイメージが3D映像の良さを宣伝するのに一番インパクトがあり客に理解させやすい、という事情もあるのでしょうが、それが結果として3D映像について誤解をばら撒くことにも繋がっています。
かく言う私自身、つい最近まで「何故ほとんど飛び出すことのない映像などのために余計なカネを払ったり専用メガネをかけたりしなければならないんだ!」と憤っていたクチでしたし(^^;;)。
最近の3D映像は「奥行き感」や「立体感」を重視しているのだそうで、そりゃ「スクリーンから飛び出す」というイメージと実態がまるで違ってくるのも当然です。
しかし、「では奥行き感や立体感というのは、通常の2D映像と比べてどこがどのように異なるのか?」と問われると、その説明は至難を極めるというのが実情だったりするわけで(-_-;;)。
2Dと3Dのスクリーンを両方置いてリアルタイムで直接見比べてさえも、両者の違いは理解しにくいものがあるのではないでしょうか?
TVがアナログから地上波デジタルへ移行する際によく喧伝されていた「画像が綺麗になる」でさえ、その違いが一般的に理解しにくいものがあった上に「何故そんなことのために…」という声が少なくなかったくらいなのですから。
「3D映像=飛び出す」という安易な宣伝を止めると共に、それに代わる宣伝文句&マーケティング戦略を新たに作りだす。
3D映画を一過性の流行で終わらせないようにするためには、その課題を避けて通ることはできないのではないでしょうか?

おかしな調査結果を使って実体のない詐欺のような宣伝などを行うことよりも、料金体系と宣伝戦略の抜本的な見直しに着手する方が、3D映画にとっても有益になると思うのですけどね。

人里に出現したヒグマの射殺に苦情殺到

北海道札幌市で北海道猟友会が射殺したヒグマがニュースで報じられた結果、札幌市役所に「何故ヒグマを殺した!」という苦情電話が相次いだのだそうです。
これを受けて札幌市では、これからはヒグマを殺さず、山に追い返す方法を模索するとのこと↓

http://megalodon.jp/2012-0424-2314-46/www.j-cast.com/2012/04/23130005.html?p=all
>  札幌市の民家近くに2、3歳と思われるオスのヒグマが一頭出現し、北海道猟友会のハンターが猟銃で駆除した。この様子がテレビのニュースで流れたことがきっかけで、札幌市役所には100件を超える電話が入り、その大半は「なぜ殺した!」という苦情だった。
>
>  札幌市役所では、本州に生息するツキノワグマに比べてヒグマは比較にならないほど巨大で凶暴なため駆除してきたが、これからは山に追い返すなど別の対策を検討しなくてはいけない、と頭を抱えている。
>
>  泣きながら訴える女性など100件以上の電話
>
>  駆除されたヒグマは体長が135センチ、体重が120キロほどだった。
2012年4月19日、里に降りてきたことが確認され、翌20日の午前6時ごろには民家から約20メートル離れた林の中にいた。人を怖がる様子はなく、このままでは住宅街に進入する心配があると判断し射殺した。この日、近隣の小学校では子供に親が付き添って登校させる姿が目立った。
>
>  ヒグマが射殺される様子を20日に複数のニュース番組が放送したところ、直後から札幌市役所の電話が鳴り続けた。環境局みどりの推進課だけでこの日60件近くあり、これまでに100件を超えているという。メディアからの問い合わせを除くと全てが苦情で、
>
> 「なんで殺したんだ!」「山に返せばいいだけなのに」
>
> といったものに加え、
>
> 「何も悪いことをしていない若いクマなのに・・・」
>
> と電話口で泣く女性もいたという。
全ての内容を細かく調べてはいないが、苦情は札幌市内からのものではなかったようだ、とみどりの推進課では話している。
>
> 北海道でヒグマを前年度785頭駆除
>
>  みどりの推進課によれば、ヒグマは大きいものになると体長が3メートル、500キロもあり非常に凶暴だ。小熊であったとしても人を恐れない場合はやがて大きな被害をもたらす可能性があるため射殺してきた、という。しかし、
今回のニュース映像がショッキングに受け止められ、苦情が多数寄せられた。これからはすぐに殺したりはせず、山に追い返すにはどうしたらいいのかなどの検討を始めているという。
>
>  北海道警察の調べによれば、2011年度の北海道でのヒグマの捕獲数は785頭で、調査を始めた55年度以降3番目に多い数字となった。目撃数は1240頭だった。
>
>  里に降りてきたクマの捕獲については、ニュースが流れるたびにネットで論争が起こる。以前は「可愛いから熊を殺さないでほしい」という意見も多かったが、今回の札幌に関しては「やむをえない」がネットでは主流になっている。

街中にヒグマが現れ、人に害を及ぼすかもしれないという状況では、ヒグマの射殺もやむをえない正当な行為としか評しようがないでしょう。
北海道は、ヒグマの獣害のために無人となった開拓民達の集落があるほどに、昔からヒグマの害が少なくない地域なのです。
行政側にしてみれば、市民の安全を守る義務があるのですし、ヒグマを放置して万が一にも人に害が及んだとなれば、謝罪だの賠償だのと責任を追及されるのは確実なのですから。
またヒグマは、そこに美味しい獲物や食料があると分かれば、何度追い払ってもまたすぐに同じ場所に繰り返しやってくるという習性を持っていますので、「山に追い返す」という対策は、その場その場の応急措置以上の効果を持ちえないのです。
さらに、何度も同じヒグマの対処を強いられるのでは、そのための手間と費用もかなりのものとならざるをえませんし、それは全て行政側が負担しなければならないのです。
獣害をまき散らす可能性の高いヒグマに対する対処法としては、やはり「その場で撃ち殺す」に勝る選択肢はないわけです。

にもかかわらず、そのヒグマの射殺を「可哀想」「殺すなんて」と非難する人達は、ペットと同じ感覚でヒグマを見ていたりするのでしょうかね?
犬や猫だって、人間側に経済的・社会的な余裕があるからこそ飼っていられるのであって、数が増えすぎたり凶暴化したりして人間に害を及ぼすとなれば、やはり「殺すのもやむなし」という結論に辿りつかざるをえないのですが。
動物愛護の精神も結構なことですが、それもまずは人間の安全と余裕があってこそのものです。
今回の問題は、動物愛護の精神が酷く歪んだ形で噴出したものであると言えるのではないでしょうか。
まあ、苦情を言っている人たちの中には、グリーンピースやシーシェパードのような、環境問題や動物保護問題を「パフォーマンス&金儲けのビジネス」程度にしか考えていない自称環境保護団体のテロ集団に属する輩もいたりはするのでしょうけどね。

映画「Black & White/ブラック&ホワイト」感想

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映画「Black & White/ブラック&ホワイト」観に行ってきました。
仲の良いCIAエージェントの2人が、ひとりの女性を巡ってスパイ能力とハイテク兵器の限りを駆使して恋の争いを演じるアクションコメディ作品。

物語はまず、今作の主人公となるCIAエージェントの2人、FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)・フォスターとタック・ヘンソンの仕事ぶりが披露されていきます。
2人は、カール・ハインリッヒという国際指名手配が大量破壊兵器を入手するのを阻止すると共に、彼を隠密裏に捕獲または殺害するという任務に従事していました。
大量破壊兵器の取引が行われる予定となっている香港の高層ビルに先回りして潜入し、その最上階で開催されていたパーティーの会場で女性を口説きつつ様子を伺う2人。
やがて予定通り、部下兼護衛および弟を引き連れてハインリッヒはやってくるのですが、ハインリッヒは取引相手を射殺しその場から逃走を図ります。
ここでFDRとタックは、ハインリッヒを逃がしてはならじと衆人環視の中でハインリッヒ一派に発砲を開始。
結果、ハインリッヒの部下と弟を殺すことには成功するものの、肝心のハインリッヒにはビルから飛び降りられパラシュートで逃げられてしまい、結局任務は失敗に終わってしまいます。
彼らの上司に当たる黒人女性CIA長官のコリンズは、任務に失敗したばかりか衆人環視で目立つアクションに走りマスコミの注目の的となった事実に激怒し、2人に対し謹慎処分を下すこととなります。

CIAエージェントとしての仕事が一時的にできなくなってしまった2人は、しかし良い機会だからとプライベートな生活を満喫することに。
タックは職業柄、CIAエージェントとしての自分の正体を隠し「旅行代理店の会社員」と身分を偽っているのですが、それが祟って子供も作ったはずの奥さんと離婚する羽目になった経歴を持っています。
今回の謹慎処分で時間を得た彼は、良い機会だからと、日本の柔道?を学んでいる子供の様子を観に行っていました。
しかし、父親の目の前で、相手の子供にボコボコにやられてしまうタックの息子。
タックが息子に話しかけても、息子は父親に隔意あり気な反応しか返すことがなく、そこへ息子を迎えに来た元奥さんと鉢合わせることに。
タックの元奥さんは、「これから別の男性とデートなの」とタックに言うと、息子を連れてその場から去ってしまうのでした。
自分の居場所がないことを思い知らされたタックは、FDRと相談した末、新しい恋に生きるべく、たまたまTVで宣伝されていた出会い系サイトに自分の名前を登録するのでした。

そのタックの出会い系サイトの登録に反応したのは、キッチン用の調理器具や電化製品などを取り扱う会社の重役を担っているローレン・スコット。
正確には、ローレンの女友達であるトリッシュが、ローレンに無断でローレンの名前を出会い系サイトに登録していたのがたまたまヒットしてしまい、最初はトリッシュに激怒したローレンが、タックを見て「この人カッコいい」とあっさりやる気になっただけなのですが(苦笑)。
ローレンは、かつて何もかも捨ててまで付き合っていた元カレに振られた挙句、新しい彼女まで紹介されてしまったことにショックを受け、その傷を癒している最中でした。
そこへ来てのタックの登場は、ローレンにとってもまさに「渡りに船」だったのでしょう。
彼女はすぐさまタックとデートすることを決意するに至ります。

一方、めでたくローレンと会うことになったタックは、親友のよしみでそのことをFDRに報告。
FDRはタックを支援するためにデートの様子を見張っていようかと提案しますが、さすがに「プライベートの侵害だから」とタックの方が拒否します。
その代わり、デートの現場に程近い場所でひそかに待機しておくことFDRは考えつきます。
しかし、このFDRの余計な気の回しがその後の騒動の元凶になるとは、この時一体誰が考えたでしょうか(笑)。
タックとローレンの初めてとなる出会いデート(喫茶店での会話だけ)そのものは特にトラブルもなく、むしろ互いに好感触を得るというベストな形で終了します。
しかし、タックと分かれたローレンがレンタルビデオショップに立ち寄った際、たまたまそこで張っていたFDRにナンパされてしまうのです。
ローレンは「軽薄なナンパ男」としてしかFDRを評価せず、すげなくあしらってその場を去ってしまうのですが、逆に興味を惹かれたFDRは、彼女の個人情報を調べて職場にまで押し寄せることに。
あまりにもしつこいFDRにキレかかるローレンでしたが、間の悪いことにそこへ新彼女を連れたローレンの元カレと鉢合わせしてしまいます。
変に見栄を張ろうとした彼女は、何とその場でFDRと濃厚なキスを交わしてしまい、元カレに「自分の新しい彼氏」としてFDRを紹介してしまうのでした。
そして、それがきっかけとなって、ローレンとFDRの関係も一転して良好なものとなっていきます。
しかし、互いに親友の間柄名上に共に同じ女性と仲良くなっているタックとFDRが、意中の相手がカブっている事実に気づくのにさしたる時間がかかるわけもありません。
2人はたちまちのうちに自分こそが相手を獲得すべく、CIA所属の諜報員やハイテク兵器を駆使した全面戦争に突入してしまうのでした。

映画「Black & White/ブラック&ホワイト」は、どちらかと言えばアクションよりも、下ネタ満載の会話と掛け合い漫才によるコメディタッチな部分に重点を置いている映画であると言えます。
ローレンとトリッシュの会話では、「FDRは手が小さい」「タックは英国人だから」などという、セックス的な問題を表すらしい陰語が登場しますし、トリッシュは「2人と寝て男性器の大きさや快楽の度合いを比較しろ」などとローレンを煽り立てる始末。
ローレンはローレンで、トリッシュの恋愛相談モドキな言動をいちいち真に受けて実行していたりしますし(苦笑)。
ちなみに、「手が小さい」の意味は作中でも説明されていて、「男性器(ペニス)が小さい」ということを婉曲に表現した陰語なのだとか。
一方で「英国人だから」については具体的な説明がなかったのですが、少し調べてみたらこんな記事が引っかかりました↓

イギリス人は遅漏、セックス耐久時間調査で明らかに。最短は6秒
http://digimaga.net/2009/10/british-men-have-more-stamina-in-bed
>  オランダ、ホラント州の研究者たちの調査によると、イギリス人男性はほかの国の男性と比べてセックスの耐久時間が長いことが分かりました。
>
>  この調査は5ヶ国、500人の男性に対して行われたもので、イギリス人男性は平均して10分間保てることが分かり、これが第1位。第2位はアメリカ人男性で、コチラは8分。三番手にはオランダ人男性の6分30秒が続きます。
>
>  そして4番手はスペイン人男性の4分54秒。最後はトルコ人男性で4分24秒とこれが最短でした。なお、調査に協力したユトレヒト大学では最短で6秒という結果の男性もいました。残念ながらこの男性の国籍は分かっていません。最長は52分間頑張れたそうです。
>
>  スポークスマンは、イギリスの大衆紙ザ・サンに対して「研究ではイギリス人男性が最も長いことが分かりました。コンドームの有無やサイズの大小による違いはありませんが、アルコールを飲んだ男性は通常よりも長く頑張れる傾向にあるようです」と語っています。
>
>  性医学ジャーナルで発表されたこの研究は、早漏のことを調べていました。早漏は、医学的には1分以上持続できない状態のことと定義されています。
およそ40%のイギリス人男性が早漏に苦しんでいるそうですが、この結果を見るにほかの国の男性はもっと苦しんでいることでしょう。ぜひ日本人男性も調査して欲しいところです。

この場合における「英国人」が指している意味合いというのは、FDRの件との整合性を考えると大体こんなところに落ち着くのではないかと。
念願叶って(?)FDRとセックスした際も、ローレンはわざわざトリッシュに感想を報告したりしていますし、それを受けたトリッシュはさらに煽り立てるしで、この辺りは本当に女性ならでは赤裸々かつ生々しい会話のオンパレードでしたね。
こんな少年少女の教育に悪影響を与えそうな会話が延々と繰り広げられている今作が、よくもまあPG-12指定にすらされなかったよなぁと、笑いと同時に奇妙なところで感心すらしてしまったほどです(苦笑)。

そして、それ以上に笑えたのは、FDRとタックに率いられたCIA下っ端諜報員達の活躍ですね。
たとえば作中では、絵画が趣味のひとつであるローレンを相手に、FDRが絵画のウンチク話を始めるシーンがあるのですが、そのウンチク内容はFDRの下っ端諜報員達が読み上げている文章を、FDRが通信機を介して聞き取ってしゃべると言う形で進行していました。
ところがそこで、タックに属する諜報員達が通信を乗っ取ってしまい、絵画についてデタラメな話を並べ立て始めてしまいます。
その内容がまたぶっ飛んでいて、「筆を使わず手で直接絵を描く」とか「手が塞がっている時はペニスで絵を描く」とか、ほとんど笑いを取りに行っているとしか思えないことをFDRにしゃべらせようとするんですね。
ローレンとFDRがセックス行為に及んでいる際には、その光景を興味津々で眺めていた上に(これは仕事だからですが)その全容をしっかりDVDに収めていたみたいですし。
FDRとタックは、下っ端諜報員達にローレン獲得のための作戦に従事させる際、動機と目的については「最高機密」を盾に口を濁しているのですが、下っ端諜報員達は早々に2人の対立構図に気づいていたみたいですからねぇ。
作中における下っ端諜報員達の描写を見ても、何もかも分かっていた上での確信犯で楽しんでいた感がありありでしたし。
FDRとタックの「当事者達は至って真剣なお笑い喜劇」以上に、彼らのコメディチックな活動にも笑えるものがありましたね。

今作は、過去作で言えば、映画「Mr.&Mrs.スミス」「ナイト&デイ」「キス&キル」などに相当する「コメディ重視のアクション作品」であろうと観賞前から当然のように考えていたので、その結果も案の定といったところでしたね。
全部、タイトル名に「&」がついている点も共通していますし(笑)。
逆に、恋愛やアクションメインで見ようとすると、今作は少々厳しいものがあるのではないかと。
その点では、映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」の路線に近い作品であるとも言えるのかもしれません。
全体的な評価としては、コメディ作品が好きな人にオススメ、といったところになるでしょうか。

映画「タイタンの逆襲」感想

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映画「タイタンの逆襲」観に行ってきました。
前作「タイタンの戦い」の続編で、ギリシャ神話の主神ゼウス・ポセイドン・ハデス3兄弟の父親で残虐な神クロノスとの戦いを描いた作品。
今作は2D版と3D版で同時上映されていますが、私が観たのは2D版となります。
前作の続編であるため、作中では前作を観ていないと分からない部分も少なからず出てきますが、基本的にアクション重視&単純なストーリー構成なので、前作を観ていなくてもそれなりには楽しむことができます。

前作「タイタンの戦い」で海の大怪獣クラーケンが倒されてから10年。
前作から引き続き主人公として活躍する、人間と神の間に生まれた半神半人(デミゴッド)であるペルセウスは、妻となったイオには先立たれたものの、彼女との間に生まれたひとり息子であるヘレイオスと共に、人間としての生活を営む日々を送っていました。
そんな彼の元にある日、彼の父親であるゼウスがやってきます。
何でも、前作の一件より人間が神々に祈りを捧げなくなってしまったことから、神々の力が著しく衰えてしまい、その結果、かつて冥界の奥に封印したゼウスの父親にしてタイタン族の巨神クロノスが覚醒しつつあるとのこと。
ゼウスは、クロノスが完全に復活すれば地上は地獄と化し、神々も人間も全て滅び去ってしまうため、それを阻止すべく手を貸して欲しいとペルセウスに依頼します。
しかし、ゼウスとは前作の一件で怨恨があるのに加え、息子を溺愛するペルセウスは「息子の傍を離れたくない」とこれを拒否。
しかたなくゼウスは、海神ポセイドンと、自身のもうひとりの息子である軍神アレスと共に、冥界の主であるハデスに協力を依頼すべく、地底へと向かうのでした。
ところが、既にハデスはゼウスに対する恨みからクロノスと手を組んでしまっており、そればかりかアレスまでもがゼウスを裏切りクロノスに加担する始末。
ただでさえ力が弱っていた上に奇襲的に裏切られたゼウスがこれに対抗する術はなく、ポセイドンは重傷を負わされ、ゼウスはあえなく虜囚の身となってしまうのでした。

一方、地上では、巨神クロノスが復活し始めた影響で、キメラがペルセウスのいる村を襲うという事件が発生。
息子を避難させつつ、何とかキメラを殺すことに成功したペルセウスは、そこで生命からがら地底から逃げてきたポセイドンから、地底で何が起こったのかを知らされることになります。
そしてポセイドンは、前作では王女として登場し、今では王位を継いで女王になっているらしいアンドロメダの下にいるという、ペルセウスと同じ半神半人であるポセイドンの息子と共に「堕ちた神」を探すよう告げ、自分の武器を授けた後に石化し崩れ落ちてしまうのでした。
彼は父親であるゼウスを助けるため、および人類、特に息子の破滅を回避するため、村の人達にヘレイオスのことを任せ、アンドロメダの元へと旅立つこととなるのですが……。

映画「タイタンの逆襲」は、上映時間が98分と前作106分より短めなためもあってか、ストーリー展開がとにかく早いですね。
序盤からすぐさま魔物との戦闘が始まりますし、アクションシーンも含めて目まぐるしく場面が変わります。
特に迷宮のシーンでは、迷宮自体が随時稼動し続けることも相まって、どこからどこへ移動しているのかも把握し難いものがあって、観客の視点では「気がついたら目的地に到達していた」というのが実態に近かったですし。

前作との違いで言えば、前作では煌びやかかつ力強さのあった神々の陣容が、今作では力の衰えを象徴するものなのか、全体的に弱々しい感じになっていた点が挙げられるでしょうか。
特に、聖闘士星矢の黄金聖衣を想起させる鎧を身に纏っていた前作のゼウスは、今作では終盤以外は鎧すらつけておらず、村の一般人よりはマシという程度の服装と風貌でしかありませんでしたし。
ポセイドンも序盤であっさり死んでしまいましたし、人間相手に圧倒的な強さを見せつけていたアレス以外はどうにもパッとしない感がありました。
こんなことになるのなら、前作で人間と対立なんかしなければ良かったのに、とついつい考えてしまいましたね(T_T)。

あと、今作のラスボスであるクロノスは、溶岩を纏った山よりも大きい巨大な巨人として描かれています。
しかし、一応はゼウス・ポセイドン・ハデスよりも格上の神であるにもかかわらず、作中ではただその巨大な図体にものを言わせて周囲に破壊を撒き散らすだけで、その点では前作のラスボスだったクラーケンと何ら変わるところがないんですよね。
戦場が海上&港町から荒地に変わっただけで、やっていることは全く同じでしたし。
一応は神、それも最上位に位置するであろう神なのですから、ただ溶岩を撒き散らすだけでなく、ゼウス達と同じような魔法攻撃や、神としての知性や威厳などを持ち合わせても良さそうなものなのですが。
台詞もあるにはあるのですが、その全てが「相手の名前をどことなく恨みがましく呼びかけるだけ」というシロモノでしかありませんでしたし。
作中の描写だけでは、単に図体と力がデカいだけのモンスターでしかなく、あれから何故ゼウス・ポセイドン・ハデスなどの神々が生まれたのかすらも理解に苦しむものがあります。
単なる魔物やクラーケンなどと一線を画する格別の存在であることを示すには、図体の大きさとは別の何がが、クロノスには必要だったのではないでしょうか?

ストーリー自体も単純明快ですし、あくまでも「アクションシーンを楽しむための作品」といったところでしょうか。
前作と同様に「可もなく不可もなく」な出来で、剣と魔法のファンタジー系なアクションが観たいという方であれば、とりあえず観ても損はない映画ですね。

銀英伝2次創作「亡命編」におけるエーリッヒ・ヴァレンシュタイン考察7

今の自分が置かれている現状を招いた責任のほとんど全てが自分自身にあるにもかかわらず、そこから目を逸らして他人を罵り倒し続けるエーリッヒ・ヴァレンシュタイン。
まるでそうしないと生きていられないかのごとく、自分の責任を認めることを何が何でも拒絶するヴァレンシュタインは、必死の形相で格好のスケープゴートを探し始めるのですが、それがまたさらにトンデモ発言を引き出しまくるという悪循環を呈しているんですよね。
素直に自分の非を認めた方が本人もスッキリするでしょうし周囲&読者の人物評価も上がるのに、何故そこまでして「自分は正しく他人が悪い」というスタンスに固執するのか、普通に見れば理解に苦しむものがあります。
まあそれができる人間であれば「キチガイ狂人」と呼ばれることもなく、そもそも私が一連の考察を作ること自体がなかったわけなのですが、一体どのようにすればこんな人物が出来上がるのか、非常に興味をそそられるところです。
「作者氏が意図的に仕込んだ釣りネタ&炎上マーケティング戦略」といった類の作外の「大人の事情」的な要素を除外して物語内の設定に原因を求めるならば、ヴァレンシュタインの(今世だけでなく前世も含めた)家族や育てられた環境に致命的な問題があったということになるのでしょうが、それでもここまで酷いものになるのかなぁ、と。
あるいはもっと単純に、過去に何らかの理由で頭でも強打したショックから、脳の理性や感情を司る機能が回復不能なまでにおかしくなった、という事情も考えられなくはないかもしれませんが……。
今回より、「亡命編」における第6次イゼルローン要塞攻防戦で繰り広げられたヴァレンシュタインのキチガイ言動について検証していきたいと思います。
なお、「亡命編」のストーリーおよび過去の考察については以下のリンク先を参照↓

亡命編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
http://ncode.syosetu.com/n5722ba/
銀英伝2次創作「亡命編」におけるエーリッヒ・ヴァレンシュタイン考察
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-570.html(その1)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-571.html(その2)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-577.html(その3)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-585.html(その4)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-592.html(その5)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-604.html(その6)

ヴァンフリート星域会戦後の自爆発言で、本人が全く自覚することすらなく発生していたヴァレンシュタイン最大の危機は、「神(作者)の介入」によるものなのか、それに関わった登場人物全てが原作ですらありえないレベルの桁外れな無能低能&お人好しぶりを如何なく発揮したがために、誰ひとりとしてその存在に気づくことさえもなくひっそりと終息してしまいました。
自分が致命的な失態を犯したことも、類稀な幸運で命拾いしたこともこれまた当然のごとく知ることがないまま、能天気なヴァレンシュタインは「会戦を勝利に導いた英雄」として称賛され、二階級段階昇進を果たすこととなります。
もちろん、超重度の万年被害妄想狂患者である狂人ヴァレンシュタインがその結果に感謝も満足もするはずなどなく、不平不満を並べ立てるのは当然のお約束なのですが、そのヴァレンシュタインと同様に不満を抱いたのが、ヴァンフリート星域会戦でロクに活躍することができず嘲笑の的となった宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボスです。
引き続き第6次イゼルローン要塞攻防戦を指揮することとなったロボスは、その腹いせとばかりにヴァレンシュタインとその一派を自分から引き離し隔離することとなります。
それに対するヴァレンシュタインの反応がこれ↓

http://ncode.syosetu.com/n5722ba/20/
> 頭を切り替えよう、参謀は百人は居るのだが俺が居る部屋には三人しか居ない。俺とサアヤとヤンだ。部屋が狭いわけではない、少なくともあと五十人くらいは入りそうな部屋なのだが三人……。滅入るよな。
>
> 想像はつくだろう。ロボス元帥に追っ払われたわけだ。彼はヴァンフリートで俺達に赤っ恥をかかされたと思っている。バグダッシュは相変わらず世渡り上手なんだな、上手い事ロボスの機嫌を取ったらしい、あの横着者め。グリーンヒル参謀長は俺達のことをとりなそうとしてくれたようだが無駄だった。
>
>
心の狭い男だ、ドジを踏んだのは自分だろう。それなのに他人に当たるとは……。宇宙艦隊司令長官がそれで務まるのかよ。笑って許すぐらいの器量は欲しいもんだ。
>
>
まあ、俺も他人の事は言えない。今回はヤンにかなり当り散らした。まあ分かっているんだ、ヤンは反対されると強く押し切れないタイプだって事は。でもな、あそこまで俺を警戒しておいて、それで約束したのに一時間遅れた。おまけに結果は最悪、そのくせ周囲は大勝利だと浮かれている。何処が嬉しいんだ? ぶち切れたくもなる。
>
> しかしね、
まあちょっとやりすぎたのは事実だ、反省もしている。おまけにロボスに疎まれて俺と同室なった。ヤンにしてみれば踏んだり蹴ったりだろう。悪いと思っている。

「心の狭い男だ、ドジを踏んだのは自分だろう。それなのに他人に当たるとは……」って、発言した瞬間にブーメランとなって自分自身に跳ね返っているという自覚はないのですかねぇ、ヴァレンシュタインは(笑)。
これまで検証してきたように、ヴァンフリート星域会戦でラインハルトを取り逃した最大の原因は、他ならぬヴァレンシュタイン自身がラインハルトに関する情報提供と補殺目的の提示を怠ったことにあるのですし、1時間遅れた件に関しても、ヴァレンシュタインが救援のための無線通信を乱発したことに問題がある可能性が少なくないわけでしょう。
それにヤンは、なすべきことをやらなかったヴァレンシュタインと違って、すくなくともビュコックに対して補給基地へ向かうように進言すること自体はきちんと行っていたわけですし、それに反対されるのも、ビュコックがその発言を採用するか否かを決定するのも、基本的にヤンの一作戦参謀としての権限ではどうにもならない話です。
そして、そんな場合に強気に出れないヤンの性格も、当時のヤンとビュコックの関係も知悉していながらヤンを配置するよう手配したのも、これまたヴァレンシュタイン本人なのですから、当然その責任もまたヴァレンシュタインに帰するものでしかありません。
この3つの問題がない状態でそれでも同盟軍がしくじったというという想定であれば、ヴァレンシュタインの罵倒にもある程度の正当性が見出せるのでしょうが、現実は全くそうではないのです。
責任論の観点から言えば、ヴァンフリート星域会戦の失敗の責任は、どう少なく見積もっても95%以上、実際のところは限りなく100%近い数値でヴァレンシュタインに帰するものなのですから、その事実を無視してアレだけヤンを責めたのは、ロボスがヴァレンシュタインを遠ざける理由よりもはるかに不当もいいところです。
ヴァレンシュタインが本当に反省すべきなのは「ヤンを責めすぎた」ことではなく、「不当な理由と言いがかりでヤンを責めた」ことそれ自体にあるのです。
「ヤンを責めすぎた」では、「ヤンを責めた」こと自体は正しいことだったと断定しているも同然ですし、それでは結局「本当の原因と問題から目を背けている」以外の何物でもなく、本当の反省とは到底言えたものではないでしょうに。
「ドジを踏んだのは自分だろう。それなのに他人に当たるとは……」とは、むしろ逆にヤンこそがヴァレンシュタインに対して発言すべき台詞であるとしか評しようがないのですが。

そして私がさらにウンザリせずにいられないのは、自分の責任についてここまで無自覚な上に甘過ぎるスタンスを取っているヴァレンシュタインが、他人の過ちを糾弾する際には自分の時と比較にならないほど厳格極まりない態度を示していることです。
「亡命編」ではなく「本編」の話になるのですが、ヴァレンシュタインがラインハルトに愛想を尽かして敵対することを決意した際、こんなことをのたまっていたりするんですよね↓

http://ncode.syosetu.com/n4887n/66/
> 2だが、一番いいのはこれだ。門閥貴族たちを潰せる可能性は一番高い。しかし問題は俺とラインハルトの関係が修復可能とは思えないことだ。向こうは俺にかなり不満を持っているようだし、今回の件で負い目も持っている。いずれその負い目が憎悪に変わらないという保障はどこにも無い。
>
> こっちもいい加減愛想が尽きた。
欠点があるのは判っている、人間的に未熟なのもだ。しかし結局のところ原作で得た知識でしかなかった。実際にその未熟さのせいで殺されかけた俺の身にもなって欲しい。おまけに謝罪一つ無い、いや謝罪は無くても大丈夫かの一言ぐらい有ってもいいだろう。
>
> この状態でラインハルトの部下になっても碌な事にはならんだろう。いずれ衝突するのは確実だ。門閥貴族が没落すれば退役してもいいが、そこまで持つだろうか。その前にキルヒアイスのように死なないと誰が言えるだろう?

さて、「亡命編」におけるヴァレンシュタインは、たとえその内実がピント外れ過ぎる反省ではあったにせよ、ヤンに対して「悪かった」とは思っていたわけですよね?
ならば、そのヤンに対して全く謝罪しようともせず、もちろん「大丈夫か」の一言をかけようとすらも考えないヴァレンシュタインは、「本編」における【人間的に未熟な】ラインハルトと一体何が違うというのでしょうか?
しかも実際には、ヤンに対するヴァレンシュタインの罵倒責めは冤罪レベルで不当もいいところだったのですから、本来ヴァレンシュタインは、ヤンに対して謝罪どころか土下座までして許しを請うたり慰謝料を支払ったりしても良いくらいなのです。
ヴァレンシュタインの「未熟」などという言葉では到底収まることのない、幼稚園児以下のワガママと狂人的な電波思考に基づいて、八つ当たりと責任転嫁のターゲットにされたヤンこそ、いい面の皮でしかないでしょう。
自分と他人でここまであからさまに違うダブルスタンダードな態度を、しかもそれを整合するための具体的な理由すらも全く提示することがないからこそ、ヴァレンシュタインは人格的にも全く信用ならないのですが。
原作におけるヤンやラインハルト&キルヒアイスも、すくなくとも狂人ヴァレンシュタインなどよりは、自分に対してそれなりに厳しい態度を取っていたと思うのですけどねぇ(-_-;;)。
ヴァレンシュタインが同じく罵りまくっているロボスやフォークなどは、まさに「自分には甘いくせに他人にはとてつもなく厳しい性格」な人間であるが故に周囲&読者から白眼視されているのですし、一般的に見てさえもそんな性格の人間なんて、「人間的な未熟さを露呈している」どころか「傍迷惑なキチガイ狂人」以外の何物でもないでしょうに。
この期に及んでも、とことんまでに自分自身のことを自己客観視できない人間なのですね、ヴァレンシュタインは。

ところで、これまでの考察でも何度か書いているのですが、私は以前から「ヴァレンシュタインは何故『自身が転生者である事実』を徹底的にひた隠しにするのか?」という疑問をずっと抱き続けています。
あまりにも秘密主義に徹しすぎるので、「実はこいつは元々人間不信的な精神的障害か疾患でも抱え込んでいて、自分以外の他者を誰ひとりとして信じることができない体質なのではないか?」とすら考えたくらいでしたし。
これまでは「本編」も含めてヴァレンシュタインが転生の問題を秘密にする件について語る描写が全くなかったため、その理由については推測の域を出ることがなかったのですが、「亡命編」の22話でついにヴァレンシュタインが自身の転生問題について語っている場面が登場しました。
で、その部分が以下のようなモノローグとして表現されているのですが…↓

http://ncode.syosetu.com/n5722ba/22/
> ラインハルトが皇帝になれるか、宇宙を統一できるかだが、難しいんだよな。此処での足踏みは大きい。それに次の戦いでミュッケンベルガーがコケるとさらに帝国は混乱するだろう。頭が痛いよ……。俺、何やってるんだろう……。
>
> おまけにヤンもサアヤも何かにつけて俺を胡散臭そうな眼で見る。何でそんな事を知っている? お前は何者だ? 口には出さないけどな、分かるんだよ……。
しょうがないだろう、転生者なんだから……。
>
>
せっかく教えてやっても感謝される事なんて無い。縁起の悪い事を言うやつは歓迎されない。そのうちカサンドラのようになるかもしれない。疎まれて殺されるか……。ヴァンフリートで死んでれば良かったか……。そうなればラインハルトが皇帝になって宇宙を統一した。その方がましだったな……。人類にとっても俺にとっても。
>
>
いっそ転生者だと言ってみるか……。そんな事言ったって誰も信じないよな。八方塞だ……。俺、何やってんだろう……。段々馬鹿らしくなって来た。具合悪いって言って早退するか?

……何ですか、この支離滅裂な論理は?
「本編」でも「亡命編」でも、持ち前の原作知識とやらを盛大に振る舞い、周囲から称賛と恐怖混じりの注目を浴びると共に多大な恩恵まで享受していたのは、一体どこの誰だったというのでしょうか?
ヴァレンシュタインと彼が持つ原作知識のために、「本編」および「亡命編」のラインハルト&キルヒアイスは本来被るはずもない災厄と破滅の運命を押しつけられたというのに、何とまあ被害者意識に満ちた発想であることか。
そこまで転生者としての自分の立場と原作知識が疎ましかったのであれば、そもそも原作知識など封印して何の才幹も披露することなく、また原作に関わる政治や軍事に関与することもなく、ごく普通の一般庶民としての人生を送っていれば良かったでしょうに。
ヴァレンシュタインが原作知識を駆使して原作の歴史を変えたのは、他の誰でもない自分のためでしょう。
誰に強制されたわけでもなく自分の意思で、原作知識を当然の権利であるかのごとく使い倒して(客観的に見れば)非常に恵まれた地位と立場にあるにもかかわらず、その原作知識に対してすら感謝するどころか不満さえ抱くヴァレンシュタイン。
こんな愚劣な思考で動いているのであれば、ヴァレンシュタインが同盟に亡命した際に謝意ではなく不平満々な態度を示していたのも納得ですね。
原作知識という「絶対的な世界の理」を持つ自分が他者と比べてどれだけ恵まれているのか、ヴァレンシュタインはもう少し思いを致し、その境遇に感謝すべきなのではないのかとすら思えてならないのですが。

そしてさらに問題なのは、一方では原作の歴史を変えるレベルで原作知識を使うことに躊躇がないくせに、他方では「転生者であるという事実」をありとあらゆる人間から隠すという、ヴァレンシュタインの非常に中途半端なスタンスにあります。
「本編」でも「亡命編」でも、ヴァレンシュタインは原作知識に基づいた的確な予測と判断で周囲を驚愕させ、その見識を称賛される一方、なまじ才幹があるラインハルトやキルヒアイス、ヤンなどから恐怖と警戒の目で見られるという問題を抱え込んでいました。
その恐怖の根源は、ヴァレンシュタインの神がかった(ように見える)手腕や才覚がどこから来るものであるのか理解できず、得体のしれない存在を見る目でヴァレンシュタインを評価せざるをえなかったことに尽きます。
「こいつは不気味だ」「何を考えているのか分からない」と見做される人間に恐怖と警戒心を抱くのは、動物の本能的に見ても至極当然のことなのですから。
しかし、もしヴァレンシュタインが自身の秘密を明かし、その原作知識を売り込みにかかっていれば、彼らの恐怖と警戒心を解消させると共に強固な信頼関係を獲得することも充分に可能だったのです。
もちろん、最初は当然のごとく「お前は何を言っているんだ?」という目で見られるかもしれませんが、原作知識を持つヴァレンシュタインがその存在を立証するのは極めて容易なことです。
実際、作中でもヴァレンシュタインの「預言」や「奇跡」は実地で何度も立証されているわけですしね。
そして一方、転生および原作知識の秘密は、何も全ての人間に共有させる必要もありません。
ヴァレンシュタインが自分の人生を託すべきごく限られた人間、「本編」ではラインハルト&キルヒアイス、「亡命編」ではシトレとヤン辺りにのみ、「信頼の証」「自分達だけの秘密」として教えれば良いのです。
原作知識から考えても、彼らならばヴァレンシュタインの秘密を「非科学的だ!」の一言で頭ごなしにイキナリ否定することはないでしょうし、立場的にも才覚の面で見ても、すくなくともヴァレンシュタイン単独の場合よりもはるかに有効に原作知識を活用することが可能だったでしょう。
何よりも、そういった有益な知識を供給してくれるヴァレンシュタインに、大きな利用価値を確実に見出してくれるはずですし、上手くいけばヴァレンシュタインが永遠に持つことのないであろう「恩義」というものも感じてくれたかもしれないのです。
何でもかんでも被害妄想を抱き、「恩は踏み倒すもの」「恩には仇で報いるべき」という信念でも持っているとしか思えないヴァレンシュタインには到底理解できない概念なのでしょうが、すくなくとも銀英伝世界ではヴァレンシュタインと違って「恩には感謝する」人間の方が数的には多いものでしてね(爆)。
自身の秘密をヴァレンシュタインが「限られた他者」に打ち明けるだけで、これだけの恩恵をヴァレンシュタインは得ることができたのです。

一方、そういった選択肢を取らなかったことで、ヴァレンシュタインがどれほどまでの不利益を被ってきたのかは、「本編」および「亡命編」の惨状を見れば一目瞭然でしょう。
「本編」でヴァレンシュタインがラインハルト&キルヒアイスと決別してしまったのも、「亡命編」でヴァレンシュタインが周囲、特にヤンから警戒されるようになったのも、突き詰めれば全てヴァレンシュタインの秘密主義が最大の元凶です。
そしてさらに「亡命編」では、ラインハルトの情報を同盟軍首脳部に事前に提供しなかったがために、ヴァレンシュタインが悔いても悔やみきれない「ヴァンフリート星域会戦におけるラインハルト取り逃がし」という結果を招くことになったわけでしょう。
これにしても、ヴァレンシュタインが自身の秘密とラインハルトによってもたらされる未来図を提示して殲滅を促していれば、目的が達成できた公算はかなり高いものになったはずなのですが。
「縁起の悪い事を言うやつは歓迎されない」「そんな事言ったって誰も信じない」というのは、転生という事実を目の当たりにしながら「科学教」という名の新興宗教の教義に呪縛されているヴァレンシュタインの、それこそ非合理的かつ「非科学的な」思い込みに過ぎないのです。
そもそも「非科学的」というのであれば、先のヴァンフリート星域会戦におけるヴァレンシュタインの自爆発言の数々に、作中の登場人物の誰ひとりとして何の疑問も疑念も抱かず、その重要性に気づきすらもしなかったことこそが、奇妙奇天烈な超怪奇現象以外の何物でもないのですし(笑)。
あの時点では誰も知りえない原作知識の話をあれだけ披露しても裏付けひとつ必要なく素直に信じてもらえるのであれば、「ヴァレンシュタインが転生者である」という突拍子もない秘密の告白だってすぐさま信じてもらえるでしょうよ(爆)。
正直、作中の描写から考えてもあまりにも無理のあり過ぎる論理としか評しようがなく、「転生の秘密を隠さなければならない理由」としては全く成り立っていないですね、ヴァレンシュタインの説明は。

それにしても、「転生」などという超常現象を目の当たりにしてさえ、「科学」の論理に束縛されて「非常識な【常識的判断】」をしてしまうというヴァレンシュタインの滑稽極まりない光景は、同じ田中作品である創竜伝や薬師寺シリーズで幾度も繰り返された「オカルトを否定しながらオカルトに依存する」あの構図をついつい想起してしまうものがありますね。
「科学」というのは事実を否定する学問などではないのですし、いくら科学的に説明不能な超常現象であっても、それが目の前に事実として現れた時、道を譲るべきは「科学」の方なのであって、「事実」を「科学」に合わせるなど本末転倒もはなはだしいのですが。
科学で本当に重要なのは「結論」そのものではなく「結論までに至る検証過程」なのであって、その過程を経て得られた「結論」だけを取り出し、ある種の権威として盲目的に信奉し他者を攻撃する武器として振り回すがごとき行為は、中世ヨーロッパの魔女狩りと同じシロモノでしかなく、むしろ科学を貶めるものですらあるでしょうに。
田中芳樹もそうなのでしょうが、ヴァレンシュタインもまた、その手の「科学の宗教的教義」の信奉者であると言えるのではないかと
「転生」などという一見不可解な現象を、証明の過程を経て他者を納得・信用させる、実はこれも立派な「科学」の手法なのですけどね。
まあ、科学の手法というのは相当なまでの根気と忍耐を必要とするものですから「それと全く無縁な人生を歩んできた狂人ヴァレンシュタインに果たして実践できるものなのか?」と問われると、私としては無条件で否定的な回答を返さざるをえないところではあるのですが(苦笑)。

次回も引き続き、第6次イゼルローン要塞攻防戦におけるヴァレンシュタインの言動について検証を続ける予定です。

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