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銀英伝舞台版の公式Twitterページ開設

銀英伝舞台版の公式Twitterページが開設されました。
URLはこちら↓

http://twitter.com/#!/gineiden_stage

公式Twitterページは、銀英伝舞台版の情報配信と同時に、2011年11月に公演が予定されている舞台「オーベルシュタイン編」絡みの宣伝広報も兼ねているのでしょう。
ただ、既に2回も舞台公演を行っている中でのページ開設は、正直「今更」な感も拭えないですね。
開設するならば、去年の4月頃の公式サイト開設と同時にやるのがベストで、それがダメでも舞台版の記者会見を行った直後くらいがベターだったのではないかと。
本編第一章の続きとなるであろう第二章「自由惑星同盟編」も未だに何の続報もありませんし、「何故このタイミングで?」というのが率直な感想ですね。

銀英伝舞台版公式と言えば、かつて己のサイトでカウントダウンオープンに失敗するわ、「○月×日に情報を配信する」と宣言していながら、その日が終わっても何の情報も配信されずじまいになるわと、公式なのになかなか笑える対応ばかりやらかしていたことが、個人的には結構印象に残っていますねぇ(苦笑)。
まあ、9月頃にサイトのレイアウトが全面リニューアルしてからは、そういう不祥事もなりをひそめるようになりましたが。
公式Twitterページでは一体どんな情報を配信されていくことになるのか、注目ですね。

映画「エクスペンダブルズ」の続編に「あの2人」が出演決定

映画「エクスペンダブルズ」の続編に、前作でカメオ出演していたブルース・ウィリスとアーノルド・シュワルツェネッガーの再登板が正式に決定しました。
わずか2~3分程度の出演だった前作と異なり、続編ではストーリーに絡む大役を務めることになるとのこと。

http://megalodon.jp/2011-0907-2109-39/www.cinematoday.jp/page/N0035160

前作でも、2~3分程度の会話ながら皮肉たっぷりの会話を披露していましたからねぇ、あの2人は。
ああいう依頼のシーンというのは本来地味な描写になるはずなのですが、映画「エクスペンダブルズ」ではそこが一番のハイライトになっていましたし。
特にカリフォルニア州知事になってからのアーノルド・シュワルツェネッガーは(当然のことながら)ほとんど映画に出演しなくなってしまいましたし、とにもかくにも映画に出演していたという彼を一目見るために作品を観たという人も多いのではないかと。
「エクスペンダブルズ」以外だと、映画「ターミネーター4」のCG出演くらいですからねぇ、州知事就任以降にアーノルド・シュワルツェネッガーが出てきた作品は。

とにかく豪華メンバーを集めることで一躍有名になった映画「エクスペンダブルズ」。
前作で出演した主要人物達もほぼそのまま出演する可能性も高いとのことですし、他にも有名なハリウッドスター達が新規に登場する可能性もあります。
続編の劇場公開はまだまだ先の話になるでしょうが、どんなストーリーになるのか今から楽しみですね。

映画「ライフ -いのちをつなぐ物語-」感想

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映画「ライフ -いのちをつなぐ物語-」観に行ってきました。
イギリスのBBCが製作したドキュメンタリー映画作品。

この映画は、世界各国で生息している様々な動物の変わった生態を、案内人によるナレーションでひたすら紹介していく形式で進んでいきます。
ストーリー性は皆無と言って良く、代わりに「生命の強さ」というものが作品の根幹を支えるテーマとなっています。
紹介される動物は以下の通り↓

南極       ウェッデルアザラシ
日本       ニホンザル
ケニア      アフリカゾウ
コスタリカ    イチゴヤドクガエル
コンゴ      ニシローランドゴリラ
アルゼンチン   ハキリアリ
ブラジル     フサオマキザル
ケニア      ハネジネズミ
イスラエル    アイベックス
エチオピア    ヒゲワシ
ベリーズ     バシリスク
ベネズエラ    オリオフリネラ
アメリカ     ハエジゴク
マダガスカル   カメレオン
インドネシア   コモドオオトカゲ
ケニア      チーター
アメリカ     バンドウイルカ
メキシコ沖    トビウオ
メキシコ沖    バショウカジキ
リトル・ドバゴ島 アカハシネッタイチョウ
アメリカ     カイツブリ
チリ       チリクワガタ
カナダ      ミズダコ
トンガ      ザトウクジラ

紹介内容は動物によって様々。
天敵はいないが苛酷な環境で動物を産み育てる動物。
独特のやり方で獲物を捕らえたり餌を調達したりする動物。
逆に天敵から身を守るために特殊な技能を発揮する動物。
いずれも方法は千差万別ですが、「生きる」ために様々な進化を経ていった動物達が観察できます。
個人的には、高度な農耕社会モドキな社会システムを構築していたハキリアリと、断崖絶壁を巧みに駆け上がったり下りたりしていたアイベックスが印象的でした。
それ以外の動物達も「一体これどうやって撮ったの?」と言いたくなるほど、まさに「動物目線」な映像でしたね。

世界18ヶ国24箇所で70人以上ものカメラマンが3000日以上かけて撮影を行ったというだけあって、映像はなかなか綺麗で、ドキュメンタリーとしては充分に見応えのある出来です。
動物もののドキュメンタリーが好きという方には必見でしょうか。

野田佳彦首相の外国人献金問題

菅直人ことカンガンスの後釜として首相に就いたばかりの野田佳彦が、在日本大韓民国民団(民団)関係者から総計30万円の献金を受け取っていたことで、早くもスキャンダルを誘発させています。

http://megalodon.jp/2011-0903-1242-09/sankei.jp.msn.com/affairs/news/110903/crm11090302000001-n1.htm
http://megalodon.jp/2011-0903-1243-11/sankei.jp.msn.com/affairs/news/110903/crm11090302000001-n2.htm

献金が行われたのは、1996年~1997年、2001年~2003年にかけてのことで、いずれも3年の公訴時効は既に経過していますから、これで訴追されるということはありません。
しかし、外国人からの献金が違法行為であることには変わりないのですし、仮にも長年政治家として活動してきた野田佳彦が、まさかそのことを知らなかったわけではありますまい。
前政権でも、外国人からの献金を「相手が外国人であると承知で」受け取っていた前原誠司が外務大臣を辞任していますし、カンガンスも少なからぬ外国人献金を受け取っていたことが問題になっていたのですから。
外国人から献金をもらい、見返りとしてその外国人の意向に沿った政治が行われるようになったら、最終的には日本の政治が外国の意向によって左右される、という事態にもなりかねないでしょう。
政治家でありながら、その危険性に気づいていなかったというのであれば無能もいいところですし、知っていて確信犯的に献金を受け取っていたのであれば大変悪質です。
カンガンスという稀代の暗愚がようやく首相の座を去って一息つく間もなくこれでは、野田政権にも期待すべきものは全く見出しようがありませんね。
元々野田佳彦は、震災復興のために増税をするなどという経済オンチ丸出しな政策構想を公言していたこともあり、「こいつはこいつでマズいのではないか?」と言わざるをえないところがあったのですが……。

ところで、民主党政権はルーピー鳩山にカンガンスと、既に2人連続で日本の歴史上最悪の政治家を輩出してしまっているんですよね。
これのどこが凄いのかというと、現実世界の民主党政権が、フィクションの存在であるはずの銀英伝のゴールデンバウム王朝を越えてしまっているという点です。
ゴールデンバウム王朝は、すくなくとも2代続けて暴君が出てくるようなことはなく、暴君の愚行は次代の名君によって是正されるという特徴を持っていました。
ところが民主党は、まさに2代続けて最悪の人間が首相を担った挙句、その次も相変わらず中韓朝に媚を売り、国民を顧みない政策を掲げる人間だったりするわけです。
これから考えれば、民主党政権は「あの」ゴールデンバウム王朝以上に劣悪な政治団体、と評することすらできるのではないでしょうか。
民主党における人材不足の惨状や反日思想ぶりを見る限り、今後民主党から誰が首相になっても引き続き「暴君」が出てくる可能性も充分にありえる話なのですし。
しかもこんな連中が、かつての自民党時代には(すくなくとも当時は違法ではなかった)事務所費問題や、カップラーメンの値段・漢字間違いなどといったことを糾弾していたというのですから、「恥知らずというのは最強なんだなぁ」としか言いようがないですね。
この民主党の存在自体が政権与党どころかこの世からいなくなることこそが何よりの震災復興や景気対策、いやそれどころか日本におけるありとあらゆる問題の解消に繋がるようにすら思えてならないのですが。

最後まで「無能な働き者」を地で行くカンガンス

菅直人ことカンガンスが、2011年8月27日の夜に、チェルノブイリ周辺の現実を捉えたドキュメンタリー映画「チェルノブイリ・ハート」を観賞したのだそうです。

http://www.cinematoday.jp/page/N0035019

映画観賞後におけるカンガンスの感想は「重い映画だった」とのことですが、「政権延命目的のその場凌ぎな思いつき」の類から視察を強行した挙句、結果的に福島第1原発の事態を著しく悪化させたカンガンスがそれを言っても空しい限りでしかないでしょう。
己の地位になりふり構わず固執したその態度、原発問題および震災復興を停滞させた元凶だという自覚が欠片も見出せませんし、まるで他人事のような感想、としか評しようがないのですが。
カンガンスの「脱原発」スローガンに何の実体もないことなど、既に誰もが理解せざるをえないところなのですが、まだ当の本人「だけ」は国民を騙せているとでも考えているのでしょうか?

それにしても、史上最悪の日本国首相として歴史に名が残るであろうカンガンスもようやく年貢の納め時となったわけですが、こいつが史上最悪の日本国首相として歴史に名が残るであろうことは確実ですね。
己の自己保身だけのために悪戯に国政を掻き回した以外のことを何もしていませんし、典型的な「無能な働き者」でしかありません。
ようやく辞めるという段になってさえも、最後っ屁とばかりに朝鮮学校の授業料無償化手続きを指示する始末ですし↓

http://megalodon.jp/2011-0829-2154-18/sankei.jp.msn.com/politics/news/110829/plc11082912150006-n1.htm

こんな朝鮮贔屓の阿呆な対応ばかりやからすから、カンガンスだのカンチョクトだのといった仇名をつけられる羽目になるのですけどねぇ、アレは。
もっとも、他国、特に何かと日本を敵視している国からすれば、これほどまでに頼りになる首相もいないわけですが。
正面の有能な敵以上に無能な味方は厄介な存在なのだなぁ、とつくづく実感させてくれる存在ですね、カンガンスのみならず民主党という存在自体が。

映画「日輪の遺産」感想

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映画「日輪の遺産」観に行ってきました。
浅田次郎原作の同名小説を映画化した作品。
この映画、私の地元熊本では熊本市中心部にある熊本シネプレックスでしか上映されていなかったため、そこまで出向いての映画観賞になりました。

この映画のメイン舞台は1945年8月なのですが、物語冒頭は2011年3月から始まります。
まずはアメリカの別荘らしき家でインタビューを受ける日系アメリカ人がクローズアップされますが、彼はその後の物語に繋がるいくつかのキーワードを並べただけでその場ではすぐに出番が終了します。
次に舞台は、同時期の森脇女子学園中等部で行われようとしている卒業式に移ります。
森脇女子学園には、戦前に空襲の犠牲となり死亡したとされる当時の女学生19人と教師1人の名が刻まれた追悼のための石碑がありました。
そこへ、車椅子に乗った老人と年の離れた奥さん、そして彼らの義理の息子(婿養子だったらしい)で構成されている3人がやってきます。
彼らは森脇女子学園に毎年多額の寄付を行うことと引き換えに中等部の卒業式に出席しており、また森脇女子学園で教師職に就いている孫娘と、その孫娘と結婚を前提として付き合っているらしい彼氏に会うことも兼ねて、今回森脇女子学園に足を踏み入れていたようでした。
しかし中等部の卒業式が厳かに執り行なわれていた最中、老人が突然発作を訴えて倒れてしまい、高齢ということもあってかそのまま帰らぬ人となってしまいます。
そして、故人の遺言で密葬が執り行なわれる中、未亡人となった奥さんは、一家の人間と孫娘の彼氏を呼び集め、森脇女子学園の石碑について「あれには本来私の名前も入るはずだった」と前置きした上で、物語の本編となる戦前の話について語り始めるのです。

1945年8月。
日本にとっては敗戦間際の絶望的な状況の中、語り部の奥さんこと金原久枝は、森脇女子学園の前身である森脇女学校の女生徒20名のひとりとして、教師・野口孝吉の指導の下、当時行われていた学徒勤労動員に従事していました。
そんな中、憲兵達が野口孝吉を治安維持法違反で逮捕・連行するという事件が発生します。
1週間後に野口孝吉は無事釈放され女生徒達のところへ戻ってくるのですが、これが伏線となって彼女達の運命が決定づけられます。
一方、日本の帝国陸軍近衛第一師団に所属している真柴司郎少佐は、東部軍経理部所属の小泉重雄主計中尉と共に軍首脳から直々に呼び出され、ある重大な密命を帯びることとなります。
その密命の内容とは、山下奉文によってもたらされたらしい、当時の金額で900億円(現在の金額換算で200兆円)にも及ぶマッカーサーの隠し財産を隠蔽するというもの。
そして、その財産を隠蔽するための勤労要員として、あの森脇女学校の女生徒20名と教師・野口孝吉に白羽の矢が立つことになるわけです。
隠し財産であることは彼女達にも秘密なので、表面的には本土決戦の際の秘密兵器を隠蔽するという口実で作業は進行されていきました。
しかし、4日間におよぶ作業の末、ようやく極秘任務完了の目処が立ってきた頃、軍上層部は真柴司郎少佐に対し、森脇女学校の女生徒と教師に対する内容の命令が送られてきます。
それは、任務の内容が外部に漏れないようにするため、隠蔽作業に従事した森脇女学校の女生徒と教師に死を与えよ、というものだったのです。

映画「日輪の遺産」は、そもそも話の前提条件自体に大きな疑問があります。
一番致命的なのは、そもそも日本側がマッカーサーの隠し財産を隠蔽する必要など、実のところ全くなかったという点です。
マッカーサーの隠し財産を接収した日本政府にしてみれば、その隠し財産をそっくりそのまま戦利品として「公式に」接収し日本の国家予算の一部に組み込み、使い切ってしまえば、何もあんな手の込んだことをしなくてもマッカーサーからの追跡の手を逃れることは簡単に行えてしまいます。
カネはいくらあってもあり過ぎということはないわけですし、戦争にせよ戦後復興にせよ、使用すべき用途はいくらでもあったはずでしょう。
むしろ、死蔵しているも同然の財産を下手に隠蔽し続けることの方が「いつ奪い取られるのか」という不安が常に付き纏う上、隠蔽している間は何の用途にも使えないという点で非合理もいいところです。
一方、マッカーサー側にしてみれば、もしマッカーサーに「自分の命令=国家の意向」レベルの無尽蔵な権力が存在する場合は、奪われた財産の額に相当する賠償金を日本政府に要求してカネを作るという手法を使ってしまえば、わざわざ自分で財産を探す必要それ自体がなくなってしまいます。
マッカーサーは労せずして自分が失った財産をいとも簡単に取り戻すことができるのですし、賠償金を要求された日本政府は、要求されたカネが払えなければ結局自分達の手で隠蔽した隠し財産を自ら掘り起こし、マッカーサーに献上せざるをえなくなるのですから。

そしてここが重要なのですが、実はGHQ時代におけるマッカーサーはそこまでの権力など持ってはいませんでしたし、そもそもあの隠し財産には「アメリカが公式に保有する公のものではない」という大きな弱みがあるのです。
マッカーサーの隠し財産はあくまでも「マッカーサー個人」のものでしかなく、しかも作中におけるマッカーサーの言動を見る限り、マッカーサーはその存在を公にすることすらなく秘密裏に探索を進めています。
アメリカ本国にしてみれば、たかだかマッカーサー個人の隠し財産を補填するだけのために日本政府にカネの要求をするなどという不毛な行為などやりたくもなかったでしょうし、またマッカーサー側からしても、下手にアメリカ本国の公的な意向を背景にしてしまうと、個人的な隠し財産をそっくりそのままアメリカ本国に接収されてしまう危険性があります。
それどころか、隠し財産の半端じゃない金額から考えると何らかの不正が行われている可能性もあるため、下手をすればアメリカ本国から脱税や公金横領等の罪に問われ、財産没収どころか政治生命すら終焉を迎えてしまうリスクもあったりしますよね。
マッカーサーが赴任していた当時のフィリピンは完全な独立国ではなく、マッカーサー本人もアメリカの軍人なのですから。
国家的な背景のない個人的な隠し財産、そこにマッカーサーの致命的な弱みがあるわけです。

また、マッカーサーは物語終盤で偶然にも日本側が隠匿した自身の隠し財産を見つけることに成功します。
ところが、その隠し財産に寄り添うように並んで転がっていた女学生19人の白骨死体と「七生報国」の鉢巻を見てヒステリックに叫びまくった挙句、隠し財産を全く回収することなく「ここは永遠に閉鎖しろ」と部下達に命じてその場を立ち去ってしまうんですよね。
私は何故マッカーサーがそんなことをしなければならないのが、疑問に思えて仕方がありませんでした。
マッカーサー的には、日本人が「簡単に自決する」ことに恐怖を感じてもいたのでしょうが、そういった事例自体を目にするのは別にその時が初めてだったというわけではないでしょう。
作中でも、隠し財産の場所を教えることと引き換えに経済政策についての提言書を受け入れるようマッカーサーに迫った小泉重雄元主計中尉が、拒否の返答を聞くやマッカーサーの眼前でピストル自殺していますし、それ以前にマッカーサーの立場であれば、日本軍の強さや特攻の実態などについて何度も目の当たりにしていたはずです。
それらのことに比べれば、たかだか女学生19人が集団自殺していた程度のことなど「路傍の石ころ」「既に周知の事実」程度の事象に過ぎないわけで、ああまでヒステリックになった挙句、900億円相当の隠し財産を放棄すらしなければならないようなことだったのかと言わざるをえないんですよね。
むしろマッカーサー的には、白骨死体を踏みつけて「バカなジャップ共が意味不明な理由で勝手に死んでくれてせいせいした」とでもふんぞり返り、隠し財産が見つけられたことに素直に欣喜雀躍しても良かったところだったでしょうに。
当時の欧米諸国が当然のように抱いていた人種差別的思想から考えても、マッカーサー個人もかなりの人種差別主義者だったことから言っても、そのように反応する方がはるかに自然だったのではないかと。
たかがあの程度のことであそこまでヒステリックになってしまう(作中の)マッカーサーって、実は軍人や政治家としての適性が著しく欠落しているのではないか、という疑念すら抱いてしまったくらいなのですけどね、私は。

とまあ、政治的な視点で見れば結構色々なツッコミどころがありますが、普通に悲劇物として観賞する分には何の問題もない作品です。
戦時下の絶望的な状況下でアレだけ明るく振る舞い&助け合い、戦争自体に批判的な声すらも上げていた女学生達が、自分達に対する軍からの命令を知った後に自ら率先して集団自決という道を選ぶ結末には驚くべきものがありましたが。
自分達に死を命じる軍の理不尽な命令なんて聞く必要はないし、何も自殺することはなかろうに……とはやはり現代人の考えなのであって、当時の風潮と、何よりも彼女達自身の「純粋さ」からは、あのような結末が導き出されてしまう必然性もあったのでしょうね。
賛否いずれにせよ、色々と考えさせてくれる作品であろうと思います。

映画「神様のカルテ」感想

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映画「神様のカルテ」観に行ってきました。
医師でもある夏川草介原作の同名小説をベースとした、地方医療における現実と患者の心の問題を描いたヒューマンドラマ系の作品。

物語の舞台は長野県松本市。
ここにあるそこそこ大きな総合病院である本庄病院で多くの患者を診る勤続5年の若き医師・栗原一止が主人公となります。
序盤の栗原一止は、表情というものがほとんどなく、目は虚ろで勤務中にしばしば独り言を呟き、さらには患者に対して淡々と事務的に対応しているかのような人物として描かれています。
重度のガン患者のひとりが危篤状態に陥った際も、その対応は事務的かつ淡々としたもので、その態度を新人の女性看護師・水無陽子に罵られていたりしています。
また、女性看護師が昼食に誘ったりする際も、「私には妻がいるから女性からの誘いには乗らないようにしているんだ」などという理由で断ったりするような「現実離れした堅物」的な一面も持ち合わせています。
その妻である栗原榛名は、作中でも長野の山々を撮影しているボランティア?の山岳写真家。
非常に良く出来た奥さんで、医師稼業で多忙を極めている夫を陰に日向に支える妻として描かれています。
趣味的には全く噛み合いそうにない上にお互い積極的でもなく、しかも恐ろしく堅物そうなあの2人が一体どうやって出会い、結婚にまで至ったのか、正直興味をそそられるところではありましたねぇ。
作中ではそのあたりの事情については全く語られませんでしたし。
まあWikipediaによれば、2人は結婚前も現在も居住している御嶽荘の住人同士という共通項があったそうなので、その縁から始まった夫婦関係ではあるのでしょうけど。

そんなある日、栗原一止にひとつの転機が訪れます。
本庄病院の消化器内科部長で栗原一止の上司でもある医師・貫田誠太郎が、信濃医科大学の研修に参加するよう栗原一止に勧めてきたのです。
勧められるがままに信濃医科大学の研修に参加した栗原一止は、大学の教授でその道の権威として知られる高山秀一郎にその医療技術を見込まれ、大学病院で勤務してみないかと誘われることになります。
より高度な最先端の医療技術を研究することが可能となる、万全の医療体制でより多くの患者を救うことも出来、もちろん自身の立身出世の道も開かれると、まさに良いことずくめの誘いであり、同僚で栗原一止の先輩である砂山次郎もまた誘いに乗るよう強く勧めてきます。
しかし、研修の最中に診断したひとりの女性の存在が、栗原一止のその後の動向に大きな影響を与えることになります。
安曇雪乃というその女性は、大学の研修では既に手の施しようがない末期ガン患者という方向で話がまとまっていきます。
そして、大学での研修を終え、再び本庄病院での勤務に勤しむ栗原一止の元に、如何なる理由でか栗原一止を探していた安曇雪乃が訪れるのです。
信濃医科大学病院で余命半年の末期ガンであると宣告された上に「その間に自分がやりたいことをやりなさい」と見捨てられたことを語る彼女に、栗原一止は「次の外来はいつにしましょうか?」と優しく語りかけるのでした。
それ以降、栗原一止は治癒の見込みがない安曇雪乃を本庄病院に受け入れるのですが……。

映画「神様のカルテ」では、患者の心の問題に医者がどのように接していくべきかについて、主人公が思い悩む姿が描かれます。
高度な技術力と的確かつ冷徹な判断力・決断力のみならず、患者の心の問題についても向き合っていくためのスキルを要求される上、医療関係者が最善の限りを尽くしても手の施しようがなく死んでしまう患者だって当然いるわけですから、医師という職種はなかなか難しいものがあります。
それだけでなく、診療しなければならない患者の許容量がオーバーしてしまい、重症患者を「たらい回し」しなければならない事態が発生することもありますし、そんな状況で患者が死んだ場合でさえ、遺族から罵倒どころか訴訟を持ち込まれることすらあるのです。
作中でも急患が受け入れられないと栗原一止が決断したり電話で話したりする場面がありましたし、「35時間連続労働」などという労働基準法を盛大に違反しているような問題を、現場の医師達がごく普通のことであるかのように話している場面があったりします。
主人公が医療現場の現実に悩み苦しむのも当然といえば当然ですね。

ただ、本当に医療問題の救いようがないところは、そういった多大な問題を抱え込んでいる日本の医療事情でさえ、世界的に見れば実は世界最高水準を誇っているという点なのですけどね。
大金持ちしかマトモな診療が受けられないアメリカ(1日の入院費用が数千ドル単位、個人破産の理由第一位が医療費等)や、診療までに恐ろしく時間がかかるイギリス(救急病院の待ち時間でさえ数時間以上はザラ、重症患者の入院・手術などは半年以上待ちが当たり前等)などの医療崩壊の実態は日本の比ではありませんし。
アメリカやイギリスにしてみれば、「神様のカルテ」で描かれている医療現場など「大多数の患者にとってありえない非現実的な理想郷」でしかないでしょうね。
日本以外の他国の人間がこの映画を観たらどんな感想を抱くのか、是非とも知りたいところではあります。

作中の描写の問題点としては、栗原夫妻が居住している御嶽荘の面々が突然のように現れるため、彼らの人間関係を理解するのに最初は苦労することが挙げられるでしょうか。
話が進むにしたがい、栗原夫妻と彼らが長年の親しい関係にあるらしいことは分かってくるのですが、原作を知らない私としては「この人達って誰?」「何故同じ屋根の下で一緒に暮らしているの?」と疑問符ばかり出ていました。
御嶽荘という住居自体、最初は「奥さんが経営している旅館か?」とすら考えていたくらいでしたし。
ただでさえ医療現場の描写に重点が置かれている中でこれらの事情をも一緒に説明するのは難しかったのでしょうし、それが学士との別れのシーンの感動を薄めるものではないのですが、その辺についてのフォローがもう少しあれば世界観の理解もしやすかったのではないかと。

ストーリーの路線としては、映画「星守る犬」のような「悲劇を伴うが未来に希望が抱ける感動ドラマ」に近いものがありますね。
作中に犬は全く出てきませんが(^^;;)。
そういう作品が好きという方であればオススメです。

映画「シャンハイ」感想

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映画「シャンハイ」観に行ってきました。
1941年10月~12月の大東亜戦争(太平洋戦争)勃発前夜の上海(シャンハイ)を舞台に繰り広げられる、アメリカ・中国合作のサスペンス作品。
ハリウッド映画でしばしば登場する日本人俳優・渡辺謙が主演している映画でもあります。
渡辺謙が出演している映画を私が観るのは、映画「インセプション」以来になりますね。

物語の冒頭は、何故か拷問を受けている主人公の描写から始まります。
拷問を受けた主人公が部屋に呼び出され、女の所在を尋ねる日本軍情報部の軍人であるタナカ大佐の描写が、観客には何のことか分からぬまま映し出されます。
そしてその直後に物語は2ヶ月前の始まりのシーンまで巻き戻されることになります。
この辺りの構成は、実は冒頭の描写が終盤のそれと繋がることになる映画「インセプション」と全く同じ構図だったりするんですよね。
やはり同じ渡辺謙出演作品ということで意識されでもしたのでしょうか?

冒頭の描写に繋がる事件の発端は、1941年10月頃に、主人公ポール・ソームズが上海のアメリカ諜報員として赴任してきたことから始まります。
ポールは、同じ諜報員にして親友でもあるコナーと、カジノで落ち合う約束をしていました。
ところが肝心のコナーは、スミコという女性を逃がすための車に乗り込もうとした際に何者かによって殺害されてしまい、当然のごとくカジノに来ることはできなかったのです。
代わりにポールの元に現れたのは、ひとりの中国人女性。
ポールはその女性とポーカー勝負を行うことになるのですが、ポールの掛け金がコイン50枚だったのに対し、女性は10倍の500枚を提示します。
それを挑発と受け取り、持ち金全部を掛け金にしたポールはスリーカードの9で勝負をするのですが、女性の持ち札はスリーカードのクィーン、結局見事に惨敗してしまいます。
しかし女性はその1勝負をしただけであっさりと席を立ち、その場を去っていくのでした。
その後、アメリカ領事館からの迎えでポールは海軍諜報部へと向かうことになるのですが、そこで待っていたのは殺された友人コナーの変わり果てた姿でした。
上司であるリチャード・アスター大佐から、コナーは上海の日本租界で殺害されたこと、そしてコナーが上海三合会のボスであるアンソニー・ランティンの調査をしていたこと、そしてアンソニー・ランティンが日本軍と深い関係にあることを知らされるポール。
上海ヘラルドという新聞の記者としての偽りの身分を得、ポールはアンソニー・ランティンが出席するドイツ領事館のパーティに潜入することになります。
そして首尾良くアンソニー・ランティンと直接会話する機会を得ることに成功したポールは、アンソニー・ランティンから2人の人物を紹介されます。
ひとりはアンソニー・ランティンの友人である日本軍情報部のタナカ大佐。
そしてもうひとりはアンソニー・ランティンの妻で、何よりもカジノでポールとポーカー勝負を行い敗北させたアンナ。
この4人を中心に、以後の物語は動いていくことになります。

映画「シャンハイ」は、舞台がちょうど大東亜戦争(太平洋戦争)勃発前夜ということもあり、「あの」真珠湾攻撃絡みのネタも出てきます。
作中では、殺害されたアメリカ諜報員であるコナーが、上海の港に停泊していた空母「加賀」についても調べており、またポールが上海沖にいる日本艦隊の様子を観察し、「加賀」をはじめとする9隻の船がいなくなっているという事実を確認するシーンもあります。
空母「加賀」は1941年12月の真珠湾攻撃に参加しており、この攻撃の準備のために上海沖から秘密裏に姿を消していた、という筋書きに作中ではなっているわけですね。
ただ、これにはひとつ問題があって、実はポールが「加賀」がいないことを確認した際、同時に空母「赤城」がいることも一緒に確認しているんですよね。
実は「赤城」も「加賀」と同じく真珠湾攻撃に参加しているので、真珠湾攻撃が目的だったのであれば、上海から「加賀」だけがいなくなって「赤城」は健在、ということは本来ありえないのです。
何故こんなチグハグなことが起こっているのか、という方がむしろ私的には疑問でしたね。
もっとも、ポールが上海沖の日本艦隊を確認した時、艦隊の周囲には濃い霧がかかっていましたし、遠目からの観察とならざるをえなかったことから艦種を間違っていた、また日本側も偽装工作として遠目からは艦隊に見えるような工作を施していた、という可能性もなくはないのですが……。

映画「シャンハイ」を観ていて思ったのは「作中の男性達は皆女性に恵まれてないなぁ」でしたね。
主人公ポールは奥さんと別れた経歴を持っていますし、タナカ大佐も上海赴任直前に奥さんが男を作った挙句に駆け落ちで逃げられたと告白するシーンがあります。
そして、妻帯者であるはずのアンソニー・ランティンは、妻アンナのことを(少々ストーカーじみたところはあったにせよ)熱烈に愛し、かつそのために何でもするような献身的な人物であったにもかかわらず、肝心の妻には全く愛されておらず、それどころかポールと抱擁するシーンが披露されたりする始末。
妻の安全を優先するあまり、それまで良好な関係を築いてきたはずの日本軍に牙を向いたりしていたのに、そこまでやってもアンナの愛はアンソニーに向けられることはなかったのですから、正直哀れみを誘うものがありましたねぇ。
アンナにとって、アンソニーは自分の安全と利害を守るための道具でしかなかったと言わんばかりでしたし。
アンソニーはアンナに愛されていないという自覚は当然あったでしょうし、だからこそ「(アンナに)近づく男は殺す」みたいなことをやっていたのでしょうね。
カネもあれば愛人だって囲っていたりしているのに、アンソニーはアンナのどこがそんなに気に入っていたのでしょうか?

サスペンスがメインストーリーということもあってか、アクションシーンは控えめの映画ですね。
内容はかなり複雑で政治的要素も濃いので、良くも悪くも大人向けの作品と言えるでしょうね。

映画「ランボー」シリーズ第5弾始動

シルヴェスター・スタローン主演の映画「ランボー」シリーズの5作目が始動したみたいですね。
正式タイトル名は「ランボー:ラスト・スタンド」だそうで↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0034776

ストーリーは「ランボー」シリーズの1作目に近い内容になるとのこと。
「ランボー」シリーズの1作目は、「ベトナム戦争から帰還したものの、アメリカ社会から白眼視され社会的に孤立する兵士」という政治的なテーマが描かれており、当時はベトナム戦争に対する反発も手伝い、アクション映画ながらも大ヒットとまではいかなかったそうです。
そのため、2作目からはアクション色を強め、結果的に大成功を収めたのだとか(世界的に知られるようになったのも2作目からですし)。
4作目「ランボー/最後の戦場」のラストで、ランボーはアメリカの実家?とおぼしき場所に帰っているので、再びアメリカが舞台になっても問題ないんですよね。
まあ「アメリカで平和に暮らしていたランボーが誰かの依頼で再び他所の戦場へ……」というシナリオもないことはないでしょうが。

それにしても、4作目のタイトルが「ランボー/最後の戦場」などと銘打っていたので、てっきり4作目が最後の作品だとばかり思っていたのですが、次こそが最後となるのでしょうか?
スタローンも作中のランボーもかなり年食っているわけですし、シリーズを続けるにもいいかげん限界があるのではないかと。

観賞自体が困難な映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」

ファイル 421-1.jpg

「ツリー・オブ・ライフ」などという近年稀に見る駄作を観賞した縁から、今回は未だ紹介していない他の駄作映画について少し。

実は私、映画については作中のストーリーや設定について疑問を呈することはあっても、映画そのものをクソミソに酷評するということは滅多にないんですよね。
「ツリー・オブ・ライフ」レベルまで酷評した作品というのは、私の長い映画観賞歴を振り返っても、これまでに2つしかありません。
ひとつは、1995年公開映画「きけ、わだつみの声 Last Friends」
そしてもうひとつが、今回紹介する2008年公開映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」です。

映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」のストーリーは、ニューヨークで突如謎の巨大怪獣が暴れる様子を、一市民の視点からリアルタイム的に描くというもの。
作中は全て撮影者が持つ「カムコーダ」というハンディタイプのビデオカメラから見た視点で描かれています。
疑問の余地なくそのせいなのですが、作中における映像は、撮影者が歩いたり走ったりするのに応じて上下左右に激しく揺れるというスバラシイ特徴があり、しかもそれがエンドロールを除く上映時間の全てにわたって展開されます。
人によっては「車酔い」のような症状に襲われることもあり、実際、海外の劇場では酔いに注意するよう観客に注意を促すところもあったのだとか。
私も酔いこそしませんでしたが、長時間にわたるブレブレの映像を見せられたこともあって最後の方では不快な気分にさせられましたね。
普通に映画を観賞することにすら多大な支障をきたす、という時点ですでにダメダメです。

そして作品を構成するストーリーもとにかく「暗い」の一言に尽きます。
PG-12指定ということもあってか、作中では無為無用に残虐描写が盛り込まれている上、最後は謎の巨大生物に主要な登場人物が全員殺されて終了というバッドエンドな展開で終わってしまいます。
作中で展開された様々な謎(たとえば「怪物が何故出てきたのか?」等)も作中のストーリーでは全く解明されていませんし、ラストが全員死亡という結末では一体何が言いたかったのかも理解不能としか言いようがありません。
ただでさえ上下左右ブレブレの見辛い映像を85分も観賞されられた挙句がこれではねぇ…。

何とか映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」を観終わった際の感想は、
「最初から最後まで評価できるところは全くなし」
「時間とカネを無駄にした」
以外は出てきようもありませんでした。
当時「きけ、わだつみの声 Last Friends」しかなかった駄作認定作品のリストにこれを追加することにも何ら躊躇はなかったですね。
「ツリー・オブ・ライフ」もそうなのですが、駄作認定的な評価を叩きつけたくなるような映画には、できればあまり出会いたくないものではあるのですけどねぇ…。

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