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タイタニック2号?の建造計画発表

映画「タイタニック(3D版)」の上映にあやかってのものなのか、今年がタイタニック沈没からちょうど100年目の節目に当たるからなのかは知りませんが、何と「タイタニック2号」の建造計画が進められているみたいですね。
何かの冗談かとしか思えないところなのですが↓

http://www.afpbb.com/article/economy/2875417/8877814
> 【5月1日 AFP】オーストラリアの大富豪クライブ・パーマー(Clive Palmer)氏が4月30日、100年前に沈没した英豪華客船タイタニック(Titanic)号の21世紀版、「タイタニックⅡ(Titanic II)」を中国で建造する計画を発表した。初航海は初代の足跡をたどり、2016年末に英国からニューヨークへの航路を予定している。
>
>  鉱業で成功した実業家のパーマー氏は、すでに中国国営造船会社の長航重工金陵船廠(CSC Jinling Shipyard)に、初代タイタニック号とまったく同じ仕様でタイタニックⅡの建造を依頼したと語った。声明では「オリジナルのタイタニック号と隅々まで豪華さは同じで、しかし、もちろん21世紀の最先端のテクノロジーや最新のナビゲーション・システム、安全システムなどを搭載する」と述べている。また初航海の護衛役に中国海軍を招いたとも述べた。
>
>  豪華客船タイタニック号が北大西洋上で氷山に衝突し沈没したのは、100年前の1912年4月15日。当時、世界最大だった客船は、初航海で英サウサンプトン(Southampton)を出航し、米ニューヨークへ向かう途上だった。事故では1514人の命が失われた。
>
>  パーマー氏は今回、タイタニックⅡの建造にあたり自らの船会社を創設。タイタニック号を所有していた英海運企業ホワイトスターライン(White Star Line)にちなみ、「ブルースターライン(Blue Star Line)」と社名をつけた。
>
>  タイタニックⅡの仕様は、初代タイタニック号と同じく全長270メートル、高さ53メートル、重量4万トン。客室840室と9か所のデッキを備え、時代検証チームとの共同作業でデザインワークを進めている。図書館や高級レストランとともに、現代版ならではのスポーツジムやプールも設ける。また初代では石炭ボイラー室だった場所は、パーマー氏の地元、豪クイーンズランド(Queensland)州を紹介する展示室となる。
>
>  パーマー氏はオーストラリアで5番目の資産家とされ、その資産価値は50億豪ドル(約4120億円)以上と推計される。クイーンズランド州やウエスタンオーストラリア(Western Australia)州に広大な炭鉱や鉱山を所有しているほか、最近では観光業にも進出し、サンシャインコースト(Sunshine Coast)に高級リゾートを所有し、メディア産業への参入にも関心を示している。
>
>  金陵船廠はパーマー氏の他の客船も手がける予定。今回、パーマー氏がタイタニックⅡの建造を中国企業に依頼した背景には、自らが所有する鉱山から産出される石炭や鉄鉱石の主要な買い手である中国との関係を強化するとみられる。パーマー氏は
「中国は貨物船やコンテナ船の建造では定評があるが、豪華船では欧州が75%を占めているのに対し、中国は2~3%。中国の造船業はわれわれの支援を得て、客船の市場でも世界の上位に立つことを目指している」と語っている。(c)

空前の海難事故を引き起こした船の名前をそのまま採用することも驚きならば、処女航海で全く同じ航路を取る予定も、船の建造を中国で行うという発表も驚愕の一言に尽きます。
建造する前から沈没させる気満々なようにしか思えないのですが(苦笑)。
しかも、当の中国からすらこんな声が出てくる始末ですし↓

http://jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012050300765
>  【上海時事】オーストラリアの資産家クライブ・パーマー氏が先月30日、中国の造船会社に発注したと発表した豪華客船「タイタニック2号」に対し、中国国内で実現性を疑問視する見方が浮上している。世界一の造船大国になったとはいえ、中国の造船会社が豪華客船を建造した実績はなく、技術もないことを業界も認めているためだ。
>  3日付の中国紙・毎日経済新聞によると、造船業界団体、中国船舶工業協会の張広欽会長はこのほど、「豪華客船建造に求められる技術はとても高く、わが国にはまだ能力がない。大手企業でも技術を蓄積している段階だ」と明言した。(2012/05/03-18:24)

ただでさえ中国の製品には「安かろう悪かろう」のイメージが付き纏っているというのに、さらに肝心の造船実績と技術がこれではねぇ……。
中国では以前、進水式でいきなり沈没した船が笑いのネタになっていたこともありましたし↓

本当に「タイタニック2号」を造船する気なのか、完成したとして客はちゃんと乗るのか、そもそも安全性は大丈夫なのか、様々な理由で不安な部分が多々ある企画ではありますね。
何でもかんでも爆発する「チャイナボカンシリーズ」が勇名を轟かせている中国製だと、氷山が無くても洋上で突然爆発するとか、乗客満載の救命ボートが全て吹き飛ぶとか、身体を張ったお笑いネタが出てきそうなところが何とも言えないところで(笑)。

銀英伝に続き「カルパチア綺想曲」も電子書籍化

銀英伝に続き、「カルパチア綺想曲」も「らいとすたっふ文庫」で電子書籍化されるそうです↓

http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2012/05/post-a856.html
>  電子書籍版『銀河英雄伝説』をリリースしてから、「ほかの田中作品は電子化されないのですか」というお問い合わせを数多く頂きました。
>  そこで、
いま書店ではなかなか手に入らない作品を中心に、電子書籍化していくことにしました。
>  まずは『カルパチア綺想曲』。
>  昨日から、appleのiTunesStoreで販売が開始されています。(リンクはこちら)

そういう既存著書の電子書籍化をやっている傍らでは、アルスラーン戦記の光文社文庫版での再販戦略が推進されていますし、出版社的にはともかく、読者的にはもはや何の意味があるのかも理解不能な展開としか言いようがありませんね。
いずれはアルスラーン戦記もまた電子書籍化されるであろうことは、現時点で既に目に見えているのですし。
これが、あれだけ己の作品および評論本などで大企業や金持ちなどに対する社会批判を披露しまくっていた作家の実態であることを考えると、呆れるのを通り越して笑いすら出てくるところですらあるのですが(-_-;;)。
自分のやっていることが結果的に「自分に甘く他人に厳しい」醜悪なダブルスタンダードな行為にまで堕ちていると、果たして田中芳樹は実感できているのでしょうかねぇ(苦笑)。

男性の育児休暇に見られる「男女平等」の歪み

男性が育児休暇を取得することについて消極的な企業が多いそうです。
以下の事例のように、「そんなことは断じて認められないし、それが嫌なら辞めて結構」とまで言い放つ企業経営者もいるのだとか↓

http://megalodon.jp/2012-0425-0800-23/www.j-cast.com/kaisha/2012/04/20129658.html?p=all
>  夫の稼ぎだけで専業主婦の妻と子どもを養っていたのは、昔の上流家庭か高度経済成長期の話。いまはフルタイムで働いても、生活が苦しいという独身者が少なくない。結婚すれば、共稼ぎは当然の選択肢となるだろう。
>
>  ある会社では、
産休中の妻に協力して家事や育児をしようとする男性社員に対し、オーナー社長が「仕事をおろそかにするな」と発言し、社員から猛反発を買っているという。
>
> 同情してくれる同僚もいる。何とか対抗したい
>
> ――従業員90人の中堅製造業の営業で働いています。入社5年目です。今月、待望の長男が産まれ、喜びつつ新しい生活に戸惑っております。妻が産休から早めに復職しないといけない事情もあり、家事や育児に積極的に参加するつもりです。
>
>  最初は育児休業の取得を考えましたが、職場はそんなことを許す雰囲気ではありません。しかし
これまでと同じ働き方では、家庭がおかしくなってしまいます。
>
>  そこで上司に、しばらく終業時刻の1時間前に退社させてほしいと相談しました。上司はしぶしぶ人事に相談したようですが、その途中でオーナー社長の耳に入ってしまいました。
>
>  翌週の朝礼で社長は、全社員を前にこう言い放ちました。
>
>
「最近、仕事をおろそかにして男も育児をしたいと言い出すやつがいるそうだが、うちの会社ではそういうことは絶対に認めない。男は仕事を通じて、家計に貢献するのが一番大事だ。それが嫌なら、辞めてもらって結構だ!」
>
>  実名をあげませんでしたが明らかに私のことと分かり、めまいがしました。何人かの同僚は「社長ってあんな考えだったんだ」「本当にひどいよな」と声をかけてくれました。
>
>  社長は言い出したら聞かない人ですが、こんな筋の通らないことを認めさせるわけにはいきません。いま独身の人を含め、よくない慣習に苦しめられるきっかけになるのも耐えられません。何とか対抗したいのですが、よい方法はないものでしょうか――

企業にしてみれば、せっかくカネを払って雇っている社員のマンパワーを、育児などという直接的利益に全く結びつかないシロモノなどに奪われてしまうのは、到底我慢のできないことなのでしょう。
元々、企業が男女平等を受け入れたのだって、表面的なお題目とは裏腹に、安価で大量供給される労働力を見込んでのことだったのですし。
また実際問題として、乳幼児期の育児に男性が参加しても、むしろ足手纏いになるパターンが多かったりするんですよね。
育児休暇を取って家にいても実際はやることもなくゴロゴロしているだけで、却って育児に追われる女性の負担になっているという事例が少なくなく、そればかりか「育児」を口実に全く関係のない休日を取得したりするケースも少なくないとか。
いくら男女平等が叫ばれる世の中であっても、「男は仕事、女は家庭」という人間の行動原理は、最低でも数千年、下手すれば数万年単位で刻まれていますので、そうそう簡単に変えられるものではありません。
女性の大部分が重労働に向かず、事務などの軽労働を望むのと同様に、男性の大部分は子育て、特に乳幼児の育児には全く向かないのです。
生まれたばかりの乳幼児にとって最も重要なのは「母親との結びつき」であって、父親の役割が生きてくるのはもう少し先のことなのですし。
母親が何らかの理由でいないケースでは男性の育児休暇も必要になってくるかもしれませんが、それ以外で役に立つ制度とは、正直言い難いものがあるのではないかと。
男性と女性の身体的・脳構造的な違いを無視して「男女平等」なるものを推進しようとした結果の、これは小さからざる歪みのひとつなのでしょうね。

そもそも、男性の育児休暇なるものが求められるようになった最大の理由は、まさに女性が家庭の外に出て働くようになったことと無関係ではありえません。
家庭内器具の技術の発達により、家事の負担は昔に比べると大幅に減った感がありますが、子育ての負担だけは昔と全く変わっていません。
乳幼児や幼児は特に「母親との結びつき」を必要不可欠としており、技術の発展ではそれをカバーすることができないためです。
それが男女平等のお題目のひとつである「女性の社会進出」にとって邪魔だったからこそ、その「邪魔な育児」を男性にも担ってもらおう、という動機から始まったのが「男性の育児休暇」だったわけです。
しかし、企業は働き手を失うことを嫌がるし、そもそも男性側も企業の期待に応えざるをえない上に育児に向かないことを承知せざるをえないしで、男性の育児休暇取得は実態に適ったものになっていないんですよね。
その点では、上記記事における「男は仕事を通じて、家計に貢献するのが一番大事」という社長の話にも実は一理あると言えます。
ただ一方では、そもそも男性に育児休暇を取らせざるをえない状況に追い込んだのもまた企業であったりするわけで、部下達にしてみれば「どのツラ下げて…」とは言いたくなる部分も当然あるでしょう。
男性または女性のいずれかが働くだけで家計を維持できる、そういう「昔の社会形態」が再び実現することこそが、この問題を解決する最良の方法ではあるのでしょうが……。

昨今の「男女平等」というスローガンは、かつての共産圏の「平等」と同じく、男女問わず全ての人間を不幸にしているだけでしかないように思えてなりませんね。
「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求めてしまっているところも、共産圏の「平等」と全く同じですし。
昨今の歪んだ状況を改善するためには、「そもそも男女平等というのは本当に正しいのか?」と一度疑ってかかる必要があると言えるのではないでしょうか?

映画「HOME 愛しの座敷わらし」感想

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映画「HOME 愛しの座敷わらし」観に行ってきました。
荻原浩の同名小説を原作とした、劇場版「相棒」シリーズの和泉聖治監督と水谷豊主演で送る、家族の再生物語。

物語のメイン舞台となるのは東北地方の岩手県。
その片田舎にある一軒の民家に、一組の家族が東京から引っ越してきました。
TOYOTAのミニバン「NOAH」に乗ってやってきたその家族・高橋家一同の前に姿を現した民家は、何と築200年を数えるという、「和製ログハウス」という名の今時珍しい藁葺き家でした。
トイレは水洗ではなくポットン便所ですし、風呂もガスではなく薪をくべて湯を沸かす五右衛門風呂というありさま。
あまりにも古めかし過ぎる家に、家を選んだ主人以外の家族は当然のごとく不満タラタラです。
しかし、一家5人が暮らすには充分なだけの広さがあり、また支払う家賃が3分の1で済むとの主人の説明で、その場は皆渋々ながらも納得せざるをえなかったのでした。

引っ越してきた高橋家は、両親に長女(姉)と長男(弟)、それに祖母の5人家族。
この5人は、それぞれ少なからぬ問題を抱え込んでいました。
勤め先の会社である「日栄フーズ」で、東京本社から岩手の盛岡支社への転勤を命じられた、一家の主人にして今作の主人公でもある、水谷豊演じる高橋晃一。
東京生まれの東京育ちなことから、主人の地方転勤に戸惑いを隠せず、一家を支えつつ慣れない近所付き合いに悪戦苦闘を強いられる、専業主婦の高橋史子。
中学3年生の長女で、父親に反感を抱き、前の学校で少なからぬ人間関係で苦しめられていた高橋梓美。
小学5年生の長男で、喘息の持病を持つために母親からスポーツを止められている高橋智也。
そして最近、認知症の症状が出始めつつある祖母の高橋澄代。
それぞれがそれぞれに問題を抱えているところに今回の引っ越しが重なったこともあり、新住居での新生活も最初は当然のことながら全く上手くいきません。
それに加えて、新生活を始めた直後から、誰もいないのに囲炉裏の自在鉤が勝手に動いたり物音が聞こえたりするポルターガイストや、掃除機のコンセントが勝手に抜けるなどの現象が確認されるようになりました。
さらには、後ろには誰もいないのに手鏡を見ると何故か映っている謎の幼女。
最初は気のせいだと思っていた個々の家族達も、主人を除く全員で同じ現象を確認し合ったことから、一家共通で取り組むべき問題であると認識するに至ります。
そして彼らは、近所の人達からの証言で、自分達が住んでいる藁葺き家に「座敷わらし」が住んでいるのではないかという結論に到達するのですが……。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」は、ストーリー構成が全体的にほのぼの感で溢れていて安心して観賞することができますね。
「家族の絆」を扱っているという点では、同日に公開されている映画「わが母の記」も同じですが、今作はあちらに比べるとまだストーリーに起伏がありますし、起承転結の流れも比較的分かりやすい構成となっています。
あちらがシニア層・主婦層向けだとすると、今作は親子や一家揃っての観賞に適した作品、と言えるでしょうか。
少年からお年寄りまで、老若男女の層全てを取り入れていますし。
主演の水谷豊は、やはり「相棒」シリーズのイメージが強いのですが、今作では「普段は家族にあまり強く出れないが、いざという時には自己主張をしっかりやる父親像」を違和感なく演じていました。
物語前半では「どこか頼りない父親」だったものが、後半では見違えるかのごとく頼もしい存在になっていましたし、ラストで高橋晃一が再度東京に呼び戻されることになった際、高橋晃一だけ単身赴任で行くのではなく、全員一致で一緒に行くことを決定した過程と光景は、最初の頃からは想像もつかないものだったでしょう。
それと、地元の祭りを楽しんでいる最中に祖母が認知症を本格的に発症してしまったことが判明した際の高橋晃一こと水谷豊の男泣きぶりは、やはり「わが母の記」における役所広司のそれと比較せずにいられませんでした。
「わが母の記」と同じく、あの描写も今作のハイライトのひとつではあるでしょうね。

ただ、日栄フーズの本社で最初に東京勤務に戻れることを示唆された際に、反発した高橋晃一が行った「愛」云々の演説は、何の伏線もなく唐突に出てきたこともあり、観客的には今ひとつその思いが伝わり難いものがありました。
あれだと、突然意味不明な理由をでっち上げてワガママをこねている、とすら解釈されてしまいかねないですし。
高橋晃一がそう思うようになった背景などについてもある程度描写した方が、あの演説により説得力が与えられたのではないでしょうか?

あと、今回出てきた「和製ログハウス」こと藁葺き家は、高橋一家が居住する前にフォスターという名の外国人(一家?)が住んでいたらしいのですが、居住して1年程経った頃に突然引っ越ししてしまったとのこと。
藁葺き家の台所が現代風に改造されていたり、家のところどころに魔除けが貼ってあったりするのはその名残なのだそうです。
作中では「昔のエピソード」として登場人物の口で紹介されていただけでしたが、この個人だか一家だかのフォスターさんが一体どういう過程を経て引っ越しをすることとなったのか、そこは少しばかり興味が出てくるところです。
家に魔除けが貼ってあってしかもそのまま放置されていたところから考えると、彼(ら?)は「座敷わらし」のことが理解できず、最後まで「排除すべき化け物」とでも解釈していた可能性が高いように思えるんですよね。
あんな「和製ログハウス」にわざわざ住むくらいですから、日本文化について相当なまでの理解はあったのでしょうが、それでも「座敷わらし」のことまで理解できるのかというとかなり微妙なところですし。
あの手の妖怪を尊重し、共に共生する文化って、外国にはほとんどないものですからねぇ(-_-;;)。
「突然引っ越ししてしまった」という辺り、近所の人間にも何も告げずに出て行ったことは確実ですし、ノイローゼでも患って逃げるように藁葺き家から去ってしまったのではないかと、ついつい考えてしまったものでした。
高橋一家の面々でさえ、最初は「座敷わらし」の悪戯について「私って何か(精神的に)おかしいんじゃないの?」と疑っていたくらいなのですし。
もちろん、高橋一家と同じく幸福になった上で転勤を命じられた等の理由で再引っ越しした可能性もありますし、「座敷わらし」の動向とは全く何の関係もなく「郷里の親族に何か突然の不幸があって……」などの事情があった可能性もありえるわけではあるのですが。
作中では結局、具体的な理由や事情について何も言及されていないために色々な想像ができてしまうのですが、できれば個人だか一家だかのフォスターさんも幸せな人生なり家庭環境なりを構築していることを願いたいものです。

今作は、「GWで一家揃って映画を観る」という需要に応えた映画と言えるのではないかなぁ、と。

映画「テルマエ・ロマエ」感想

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映画「テルマエ・ロマエ」観に行ってきました。
月刊雑誌「コミックビーム」で連載されているヤマザキマリの同名漫画を原作とした、古代ローマ帝国の公衆浴場「テルマエ」を設計する技師が現代の日本へタイムスリップすることから始まる、阿部寛・上戸彩が主演のコメディ作品。
一応古代ローマ帝国も舞台になっているのに、主要登場人物の俳優が全て日本人だけで構成されているという、なかなかに斬新な手法が用いられている映画です。
なお、今作で私の2012年映画観賞本数はちょうど30本目となります。

物語の始まりは西暦128年の古代ローマ帝国。
ローマ帝国のこの時代は、後に五賢帝の3人目に数えられることとなる第14代皇帝ハドリアヌスの御世であり、当時のローマ帝国は、異民族の度重なる侵入に手を焼きつつも、全体的には「パックス・ロマーナ」の恩恵を存分に享受していました。
ハドリアヌス帝は、即位当初に自身の政策に反対した4人の元老院を殺害するなどの強硬策から元老院の受けが悪く対立していたものの、「テルマエ」と呼ばれる公衆浴場を整備することで一般大衆の支持を得ていました。
阿部寛が演じる今作の主人公ルシウス・モデストゥスは、そんな「テルマエ」を設計する技師のひとり。
ところが彼は、革新的かつ豪華な建造物が次々と誕生していく世相の中、その生真面目過ぎる上に頑固な性格から時代に合わない古風な「テルマエ」を設計し続けたことが災いし、仕事を斡旋してくれていた依頼主と喧嘩別れをすることとなってしまいます。
自身の考え方が受け入れられないことに憮然とならざるをえなかった彼は、親友であるマルクス・ピエトラスに連れられ、ローマの「テルマエ」に一緒に入ることとなります。
しかし、あまりの喧騒と、自分の理想から著しくかけ離れた「テルマエ」の様相にさらに落胆したルシウスは、喧騒を避けるため浴槽の湯中にひとり潜りこむことに。
そこでルシウスは、浴槽の壁の一部に穴が開いており、そこから水が排水されている光景を発見します。
ルシウスが確かめてみようと近づくと、突如ルシウスは水流に足を取られ、壁の穴に吸い込まれてしまうのでした。

ルシウスは無我夢中で出口を求め、ようやく水から顔を出すことに成功します。
しかし、そこは自分がいたローマの「テルマエ」ではなく、何と現代日本の銭湯だったのです。
どう見てもローマ人の顔つきとは異なる日本人と、見たこともない浴場の様相に戸惑いを覚えるルシウス。
そんなことなど知る由も無い彼は、そこがあくまでもローマの属州であり、かつ入浴している日本人達もローマの奴隷であると思い込み、彼らを「平たい顔族」として下に見るのでした。
基本的に好奇心旺盛かつ学習意欲満々のルシウスは、浴場、ひいては現代日本の文明水準にいちいち大真面目なリアクションで驚愕することを繰り返しまくりつつも、それが自分が理想とする浴場のあり方と合致していることから、日本の浴場文化をローマの「テルマエ」に取り入れていくことを考えつきます。
素っ裸のまま浴場・脱衣所を経て一度外に出たルシウスは、今度は女湯の方へと足を踏み入れてしまい、悲鳴と共に体重計?を投げつけられ気絶してしまうのでした。
そんなルシウスを女湯から引き摺り戻し、フルーツ牛乳を渡す「平たい顔族」の老人達。
それを飲んだルシウスが味に感動していると、次第に視界が霞んでいき、次に気づいた時には元いたローマの「テルマエ」に戻ってきていたのでした。
ローマに戻ってきたルシウスは、現代日本で得た知識を元に、当時のローマにはなかった斬新な「テルマエ」を次々と作り出し、それまでとは一変して人気を博するようになっていくのですが……。

映画「テルマエ・ロマエ」は、阿部寛が演じる主人公ルシウスの驚愕なリアクションが序盤の見所のひとつですね。
洗面器やシャンプーハットなどについて、いちいち仰天の表情と詳細なモノローグを交えて、その驚きぶりを表現してくれます(苦笑)。
そのカルチャーショックは浴場だけにとどまらず、トイレのフタの自動オープン機能やお尻ウォッシャーなどにも及び、電気のことを知らないルシウスは「これは奴隷が隠れてやっているに違いない」と間違った解釈をしていたりします。
ただそれにしても、お尻ウォッシャーに感動して涙まで流すのはさすがにどうかとは思うのですが(爆)。
しかし一方で、そうやって見聞した現代日本の文化を自分なりに解釈し、その結果をローマの「テルマエ」に反映させてしまう辺り、ルシウスの仕事に対する情熱とやる気は並々ならぬものがあります。
ルシウスにとっての「テルマエ設計技師」という仕事は、生計の術であるのと同時に、現代日本の「オタク」「マニア」と似たようなものでもあるのでしょうね。
ただ、その仕事一筋な性格が災いして、奥さんに不倫された挙句に逃げられてしまったのは何とも気の毒な話ではありましたが(T_T)。
また、この手の作品では、異世界にジャンプする際に何故か自分と相手との言語の問題が自動的にクリアされていて普通に意思疎通が可能だったりするのが一般的なパターンなのですが、今作ではルシウスは当時のローマで使われていたラテン語で、日本人は普通の日本語をしゃべっているという設定となっていました。
日本に来た際のルシウスはラテン語をしゃべっていましたし、物語中盤までは「平たい顔族」との意志の疎通自体が困難を極めるありさまでした。
普通にありえる話なのに、巷のエンターテイメント作品では意外と見かけない設定であり、却って斬新な感がありましたねぇ。

ルシウスのタイムトラベルには、ルシウス本人が身に纏っている物や手に持っている物も一緒に移動させることが出来るという特性があります。
序盤でも牛乳瓶などを持ち帰っていたり、バナナの皮と種を入手して「テルマエ」の建造に利用したりしているのですが、何と人間まで持ち帰ることも可能という恐るべき仕様も。
さらには、ルシウスが現代日本からローマへとタイムリープする際、その場には一定時間の間、タイムホール?のようなものが出来るらしく、他の人間達もその穴を伝ってローマ時代にタイムトラベルすることも可能なようです。
結果、物語後半では、逆にルシウスのいるローマの時代に複数の現代日本人がタイムトラベルしてくるという事態に。
しかもその際、ルシウスに連れられる形でローマにやって来た山越真実は、自身がケイオニウス(後のルキウス・アエリウス・カエサル)の愛人にされかけるところをアントニウスに助けられることで、世界の歴史が変わりかねない事態を招くこととなってしまう始末。
何と、史実ではハドリアヌス帝の後を継いで第15代ローマ皇帝に即位するはずのアントニウスが、本来ケイオニウスが赴任しそこで死去するはずのパンノニア属州の総督に任命されることとなってしまうのですね。
歴史の流れを修正するため、山越真実はルシウスと共に奔走することとなるのですが、この辺りが今作の映画オリジナル要素と言えるところなのでしょうか?

ただ、その歴史を修正する過程で2人が提示した改善策だと、ケイオニウスとアントニウス絡みの歴史は修正されても、その他の部分で歴史が大幅に変わるような気はしなくもないのですけどね。
戦いの兵士達の傷を癒す「テルマエ」を作った結果、ローマ辺境蛮族との戦いに勝ってしまったら、それは充分に歴史を変える行為になってしまうのではないかと思うのですが(^^;;)。
あの蛮族との戦い、作中ではモロにローマ側の敗色濃厚な状態でしたし。
ハドリアヌス帝は、本来負けるはずの戦いに勝ってしまったのかもしれませんし、その戦いで死ぬはずだった人間が生き残り、またその逆も充分に発生しえる事態なのですから、歴史に与える影響が少なかろうはずもありません。
下手をすれば、遠い未来にどこかの国の王族を誕生させることになるはずの遠い祖先が、その戦いで死んでしまった、などという事態もないとは言い切れないわけですし。
これって本当に大丈夫なのだろうか、とは、正直野暮だろうと思いつつも考えずにはいられなかったですね(苦笑)。

ちなみに、今作のオリジナルキャラクターでもあるらしい山越真実は、明らかに原作者自身をモデルにしたキャラクターですね。
元々、名前からしてそっくりで「漫画家志望」という設定な上、物語の最後にどこかの出版社?で今回の事件をモデルに書いたらしい、そのものズバリ「テルマエ・ロマエ」の漫画原稿を提出していたのですから(笑)。
ここは繋げ方が上手いなぁ、と少し感心したところです。

出演俳優とコメディ映画の好きな方にはイチオシの作品、と言えるでしょうか。

タイタニア完結巻数&薬師寺シリーズ新刊のタイトルについて

https://twitter.com/adachi_hiro/status/195300619974746113
<いえ、タイタニアは5巻で完結の予定です。 RT @livemaster: @adachi_hiro @mage_jp え、って事はタイタニアは次巻で完結なんですか?(苦笑>

https://twitter.com/adachi_hiro/status/195306879868612608
<@sako0321 @mage_jp 『創竜伝』も大事な作品なのですが、まずは田中さんが「書きたい」気分になっている『タイタニア』を書いて貰おうかと。あと2冊で完結なんだし、2冊連続で書いて欲しいと思ったりもするのですが、さすがにそれは難しいかな。>

タイタニアが5巻完結予定とは初めて聞きましたよ。
元々銀英伝10巻および「夢幻都市」のあとがきでも「次回は比較的コンパクトなものになります」的なことを述べていましたから、それよりは最初から少ない巻数の予定ではあったのでしょうけど。
まあ、5巻完結だろうが10巻完結だろうが、続巻が刊行されなければ全く意味がないのですが(苦笑)。
2012年4月下旬現在の田中芳樹は、何やら短編を書いているとのことで、それが済んだらいよいよタイタニア4巻の執筆に取りかかる予定なのだとか。

https://twitter.com/adachi_hiro/status/195285472598167552
<田中さんの今後の予定ですが、5月から6月にかけて、短篇をひとつ書く予定です。すでに構想も固まっているので、さほど時間は掛からないんじゃないかな。>

短編の内容が何なのかまでは分かりませんが。
タイタニア続巻については、もう3年も前から告知されニュースにまでなってしまっているのですから、よほどの厚顔無恥かやむをえない事情でもない限りはもう今更引き返すこともできないわけですが、とっとと執筆にかかって欲しいものです。

それと、どうやら薬師寺シリーズ9巻のタイトルも決定したようですね↓

http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2012/04/post-9600.html
>  先日、『薬師寺涼子の怪奇事件簿』の新作原稿を書き上げ、編集さんに渡した田中さん。
>  垣野内成美さんから、表紙カバー絵のラフも届きました。
6月初旬の発売日に向けて、着々と準備が進んでいます。
>  
タイトルも『魔境の女王陛下』と決まりました。
>
>  どうやら、すでに絶滅した大型肉食ほ乳類が出てくる話のようです。
>  あと1ヶ月、発売まで楽しみにお待ち下さい。

読む前から相当なまでの駄作臭が漂いまくっているのですが、また「既に作中世界でも当たり前になっているはずのオカルト絡みの超常現象を、主人公達以外の一般人がありえない物でも見るような対応に終始する」みたいな描写が出てきたりするのですかねぇ(苦笑)。
あれだけ衆人環視どころか全国・全世界レベルのTV放映でオカルト現象が周知されていれば、一般人レベルでもある程度の耐性が出来ているのがむしろ当然なのではないかとすら思うのですが(笑)。
あと、「すでに絶滅した大型肉食ほ乳類」というのはサーベルタイガーのことのようですね。
以前にも、「(薬師寺シリーズの)新刊の資料」として田中芳樹がサーベルタイガーの人形を持ってきていたという話がありましたし。

ただ、タナウツ的には創竜伝よりも評判が悪い(というより無関心な人が多い)薬師寺シリーズですが、巷では新刊の予約がそこそこある程度の人気はあるようで↓

https://twitter.com/adachi_hiro/status/195282511432122368
<田中さんの新刊、『魔境の女王陛下 薬師寺涼子の怪奇事件簿』、Amazonで見たら、講談社ノベルスで予約で2位になってる。ありがたいなあ。>

まあ、主人公2人の掛け合い漫才&コテコテのラブコメ描写「だけ」を観る分には、それでもそれなりに楽しめるのかもしれませんが……。
個人的にも薬師寺シリーズ考察を始めてから初となる新刊となるわけですが、作者サイドおよび一般的なファンとはまるで異なる意味で内容が楽しみな限りですね(笑)。

銀英伝2次創作「亡命編」におけるエーリッヒ・ヴァレンシュタイン考察8

久しぶりにタナウツ本家の常連である不沈戦艦さんのサイトに掲載されている「悪ふざけ架空戦記」を読んでいたところ、主人公の図茂艦長があまりにもエーリッヒ・ヴァレンシュタインそっくりに見えて思わず笑ってしまいました。
「悪ふざけ架空戦記」について知らない方向けに簡単に説明しますと、これは過去に存在した(現在は消滅している)保守系サイト「日本ちゃちゃちゃクラブ」およびその界隈の議論系サイトの掲示板に投稿していた投稿者およびその言動を元ネタに作られたパロディ小説です。

悪ふざけ架空戦記 戦艦「百舌鳥」大作戦!
http://www.geocities.jp/hangineiden/warufuzake1.html
悪ふざけ架空戦記2 暦新島上陸作戦
http://www.geocities.jp/hangineiden/warufuzake2.html

左派系の投稿者達が集った国である酉国と、保守系論者で構成されているちゃちゃちゃ国の戦争を描きつつ、タイトル通りのお笑いギャグやパロディネタを大量に織り交ぜてストーリーが進行していきます。
そして、この作品の主人公である酉国艦隊所属の図茂艦長は、元々は金融業界系の人間だったのに、ただ「フネがマトモに操縦できるから」というしょうもない理由で軍に徴用&いきなり艦長に任命されたことから、周囲に被害者意識ばかり抱く上に罵倒ばかり繰り返すという、まさにどこぞのキチガイ狂人を彷彿とさせるような性格設定がなされているんですよね。
あまりにも性格や言動が生き写しと言って良いほどにそっくりなため、「ヴァレンシュタインってもしかして図茂艦長をモデルにして作られたキャラクターなのか?」とすら考えてしまったほどです(苦笑)。
「悪ふざけ架空戦記」が置かれているサイトには、皮肉にもヴァレンシュタインと同じファーストネームを持つエーリッヒ・フォン・タンネンベルク(こちらはヴァレンシュタインの1億倍以上はマトモな性格のキャラクターですが)を主人公とする銀英伝二次創作小説「反銀英伝 大逆転!リップシュタット戦役」もあるわけですし、作者氏があのサイトをある程度参考にしていた可能性は高そうではあるのですが。

反銀英伝 大逆転!リップシュタット戦役
http://www.geocities.jp/hangineiden/

ただ「悪ふざけ架空戦記」の場合、最初からパロディを意図したツッコミ役兼ギャグキャラクターとして図茂艦長が造形されており、かつ周囲もわざとパロディキャラばかりで固めストーリー自体も笑いを取ることを目的としているからこそ、周囲のトンデモキャラのトンデモ言動に囲まれて苦労している図茂艦長に笑いと共に同情・共感できる部分も出てくるのであって、本質的に真面目路線一辺倒で作られているはずの「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝」で、図茂艦長と似たりよったりなギャグキャラクター同然の人物が主人公というのはミスマッチもいいところでしかないんですよね。
ヴァレンシュタインは銀英伝の二次創作小説などではなく、ボケ役だらけのギャグ小説におけるツッコミ担当の主人公として本来活躍すべきキャラクターであるべきだったのではないのかと、ついつい考えてしまった次第です。
まあもっとも、ヴァレンシュタインの偉大さを示すために周囲の人間を軒並み禁治産者レベルの無能者集団に仕立て上げるという荒業が駆使されまくっているために、「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝」自体が「悪ふざけ架空戦記」、もっと悪く言えば創竜伝や薬師寺シリーズの形態にどんどん近づいてはいるのですが(爆)。
それでは今回も引き続き、第6次イゼルローン要塞攻防戦におけるヴァレンシュタインの言動について検証を進めていきたいと思います。
なお、「亡命編」のストーリーおよび過去の考察については以下のリンク先を参照↓

亡命編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
http://ncode.syosetu.com/n5722ba/
銀英伝2次創作「亡命編」におけるエーリッヒ・ヴァレンシュタイン考察
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-570.html(その1)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-571.html(その2)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-577.html(その3)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-585.html(その4)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-592.html(その5)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-604.html(その6)
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-608.html(その7)

第6次イゼルローン要塞攻防戦では、原作でも同盟軍の癌細胞とすら言って良い「無能な働き者」ぶりを披露していたロボス&フォークを、ヴァレンシュタインが排除するというコンセプトがメインで展開されていきます。
原作知識を持っている人間からすれば、ロボス&フォークを排除することが同盟にとってプラスになることは一目瞭然なのであり、その点でヴァレンシュタインの選択自体は妥当なものであるとは言えるのですが、問題なのは肝心のヴァレンシュタインが、例によって例のごとくあまりにも幼稚&自己中心的過ぎる点にあります。
それが最も悪い形で出ているのが、作中で披露されている以下のような会話ですね↓

http://ncode.syosetu.com/n5722ba/23/
> 三日前だがロボスと廊下でばったり会った。腹を突き出し気味に歩いていたが、あれはメタボだな。お供にアンドリュー・フォーク中佐を連れていたが俺を見ると顔を露骨に顰めた。上等じゃないか、そっちがそう出るなら俺にも考えがある、必殺微笑返しで対応してやった。ザマーミロ、参ったか!
>
> フォークがすれ違いザマに“仕事が無いと暇でしょう、羨ましい事です、ヴァレンシュタイン大佐”と言ってきた。仕事なんか有ったってお前らのためになんか働くか、このボケ。
>
>
“貴官は仕事をしないと給料を貰えないようですが私は仕事をしなくとも給料が貰えるんです。頑張ってください”と言ってやった。顔を引き攣らせていたな。ロボスが“中佐、行くぞ、我々は忙しいのだ”なんて言ってたが、忙しくしていれば要塞を落とせるわけでもないだろう。無駄な努力だ。
>
> 余程に頭に来ていたらしい、早速嫌がらせの報復が来た。クッキーを作るのは禁止だそうだ。
“軍人はその職務に誇りを持つべし”、その職務って何だ?人殺しか? 誇りを持て? 馬鹿じゃないのか、と言うより馬鹿なんだろう、こいつらは。

再春館製薬所が販売するドモホルンリンクルのCMで一昔前に喧伝されていた「365日間、何もしないことが仕事になる、そんな仕事があります」のキャッチフレーズじゃあるまいし、「仕事をしなくとも給料が貰える」などという状態が自慢できるシロモノなどであるわけがないでしょうに(笑)。
軍隊だけでなく一般企業でも「仕事をしなくとも給料が貰える」というのは、上司が部下に仕事を任せきりにしているパターンでなければ、窓際族として干されていたり、仕事がなくて自身が左遷・免職される、最悪は組織自体が瓦解する直前の状態にあったりするなどといった状態を意味するのですが(爆)。
ドモホルンリンクルのCMにしても、アレは本当に何もしていないのではなく、長い時間をかけて抽出されるエキスを1滴1滴チェックしていくという、単調かつ気の抜けないキツイ仕事を表現するものだったりするのですし。
またそれ以前の問題として、他人があくせく仕事をしている中で、ひとりだけ楽をしている(ように見える)人間がいたら、文句や嫌味のひとつも言いたくなるのが普通一般的な人情というものでしょう。
そもそもヴァレンシュタイン自身、バグダッシュやヤンに対して「お前のような暇で気楽な人間と違って俺は忙しいんだ、ウザいから失せろ」みたいな罵倒を平気で吐き散らしているではありませんか(爆)。
全く同じ発言を自分がやるのはOKだが、他人がするのはNGだとでも言うのでしょうか?
いくら相手がロボスやフォークであっても、いやむしろあんな連中【だからこそ】、相手に対する罵倒内容がそっくりそのまま自分自身に跳ね返ってくるような発言は、いかに外面が良くても内実は醜悪かつ無様そのものでしかないのです。
その問題をクリアできない限り、自分がロボスやフォークと同類でしかないという自覚が、ヴァレンシュタインには絶対に必要なのではないかと思うのですが。

そしてもうひとつ、軍人という職業を「人殺し」「誇りなんてない」と断言して憚ることのないヴァレンシュタインは、そもそも何故自分が蔑んでやまない軍隊などという「卑しい職種」に、それも自ら選んで就いていたりするのでしょうか?
元々ヴァレンシュタインは、実の祖父だったらしいリメス男爵から20万帝国マルクもの金が入ったカードを譲り受けており、すくなくとも当面の間は金銭的な心配をする必要が全くない立場にありました。
しかも、同盟に亡命して以降も「帝国への逆亡命計画」なるものを構想しており、同盟に永住するつもりも最初から更々なかったのです。
となれば、ヴァレンシュタインには別に同盟内で職を得る必然性自体が全くありませんし、仮に「手に職をつける」ために就職を考えていたとしても、その先が同盟軍でなければならない理由もありません。
むしろ、考察1でも述べていたように、下手に同盟軍内に入ってしまうと、同盟から抜け出すことが至難を極めるようになってしまい、「帝国への逆亡命計画」に重大な支障を来たす恐れすらあったのです。
元々軍人になることを嫌がっていたヤンの場合は、それでも「カネがなかったから」「タダで歴史を学びたかったから」などといった「止むに止まれぬ」金銭的な事情がまだあったのですが、ヴァレンシュタインにはそんな切迫した事情もなく、それどころか自身の計画に弊害すら発生しえるであろうことが最初から分かりきっていたわけです。
そこに来てのこの軍人差別発言は、わざわざ同盟軍に入ったヴァレンシュタインの選択に、ますます大きな矛盾と疑問を突きつけることになってしまうではありませんか。
ヴァレンシュタインは資格を取って弁護士稼業をやりたかったとのことですが、そのために軍隊に入らなければならない理由もないでしょうに。
そもそも、同盟で獲得した国家資格が帝国でも通用するという保証自体が実のところ全くありませんし、帝国に亡命したら同盟で得られた資格は全て無効化する可能性も多々ある(というか普通は確実にそうなる)のではないかと思うのですけどねぇ(苦笑)。
勉強すること自体には意味があるにしても、資格を得てから帝国に逆亡命するまで5年あるかどうかも不明な「同盟における」資格の取得などに、果たして意味などありえるのかと。
繰り返しますが、ヴァレンシュタインは何故、さしたる緊急性もない状況下で、自分にとって何の利益もないどころが弊害すら予測され、自身でも蔑んでやまない「同盟の」軍隊などに、それも自ら志願して入ったりしたのでしょうか?
こういうのって普通、「考えなしなバカの自殺行為な所業」とでも評すべきシロモノなのではないのですかねぇ(爆)。

そもそも、この一連のヴァレンシュタインのタワゴトって、実はヴァレンシュタインのオリジナルですら全くなかったりするんですよね。
何と、銀英伝6巻で全く同じ主張がヤンによって繰り広げられているのです↓

銀英伝6巻 P60上段
「仕事をせずに金銭をもらうと思えば忸怩たるものがある。しかし、もはや人殺しをせずに金銭がもらえると考えれば、むしろ人間としての正しいあり方を回復しえたと言うべきで、あるいはけっこうめでたいことかもしれぬ」
 などと
厚かましく記したメモを、この当時ヤンは残しているが、これはヤンを神聖視する一部の歴史家には、故意に無視される類のものである。>

もちろん、原作知識を持っているなどと称するヴァレンシュタインともあろう者が、この記述のことを知らないはずもないわけで。
原作でさえ「厚かましい」「故意に無視される類のもの」などと酷評され、ヤンの怠け根性とユーモアセンスを披露する程度のシロモノとしてしか扱われていなかった「内輪向けな本音」などを、その意味すらも全く理解せず何の疑問も抱くことなくパクった挙句に、他人に叩きつける罵倒文句として活用しまくっているヴァレンシュタイン。
何しろヴァレンシュタインは、これと全く同じ主張を、この後で繰り広げられることになる軍法会議でさえも堂々と披露しているわけですからね(38話)。
アレって、当のヤンですら人目を憚って私的に書いただけの「ネタ」の類でしかなかったはずなのですけどねぇ(爆)。
「釣り」とか「ネタ」とか「炎上マーケティング」とかいった概念を永遠に理解することすらできない、悪い意味での「大真面目」な性格をしているみたいですね、狂人ヴァレンシュタインは(苦笑)。
今更心配する意味があるとも思えないのですが、頭大丈夫なのですかね、ヴァレンシュタインは(笑)。

ただでさえ原作知識からロボスとフォークに全く好意的ではない上、同族嫌悪・近親憎悪の観点からも対立せざるをえないヴァレンシュタインは、自らの感情の赴くがままに公の場でロボスとフォークを吊るし上げることとなります。
フォークを原作同様に転換性ヒステリー症に追い込み、ロボスに対しても侮蔑交じりの嘲弄を繰り広げ始めたのです。
しかしこれ、実はヴァンフリート星域会戦後の自爆発言に続く、ヴァレンシュタイン2度目の最大の危機に【本来ならば】なりえたはずなのですけどねぇ……↓

http://ncode.syosetu.com/n5722ba/25/
> 「小官は注意していただきたいと言ったのです。利敵行為と断言……」
> 「利敵行為というのがどういうものか、中佐に教えてあげますよ」
> 「……」
> ヴァレンシュタインは笑うのを止めない。嘲笑でも冷笑でもない、心底可笑しそうに笑っている。
>
>
「基地を守るという作戦目的を忘れ、艦隊決戦に血眼になる。戦場を理解せず繞回運動等という馬鹿げた戦術行動を執る。おまけに迷子になって艦隊決戦に間に合わない……。総司令部が迷子? 前代未聞の利敵行為ですよ」
>
> フォークの顔が強張った。ロボス元帥の顔が真っ赤になっている。そして会議室の人間は皆凍り付いていた。聞こえるのはヴァレンシュタインの笑い声だけだ。
目の前でここまで愚弄された総司令官などまさに前代未聞だろう。
>

(中略)
>
> 困惑する中、笑い声が聞こえた。ヴァレンシュタインが可笑しそうに笑っている。
> 「何が可笑しいのだ、貴官は人の不幸がそんなに可笑しいのか!」
> 唸るような口調と刺すような視線でロボス元帥が非難した。
>
>
「チョコレートを欲しがって泣き喚く幼児と同じ程度のメンタリティしかもたない人物が総司令官の信頼厚い作戦参謀とは……。ジョークなら笑えませんが現実なら笑うしかありませんね」
>
>
露骨なまでの侮蔑だった。ロボス元帥の顔が小刻みに震えている。視線で人を殺せるならヴァレンシュタインは瞬殺されていただろう。
> 「本当に笑えますよ、彼を満足させるために一体どれだけの人間が死ななければならないのかと思うと。本当に不幸なのはその人達ではありませんか?」
>
> ヴァレンシュタインが笑いながらロボス元帥を見た。ロボス元帥は憤怒の形相で
ヴァレンシュタインは明らかに侮蔑の表情を浮かべている。
>
> ロボス元帥が机を叩くと席を立った。
> 「会議はこれで終了とする。ご苦労だった」
> 吐き捨てるように言うとロボス元帥は足早に会議室を出て行った。皆が困惑する中ヴァレンシュタインの笑い声だけが会議室に流れた……。

原作や「亡命編」におけるロボスやフォークが無能であるにしても、ヴァレンシュタインにそれを誹謗する資格があるとは到底言えたものではないでしょう。
自分の穴だらけの言動について「自分だけは何が何でも正しく、悪いのは全て他人」と頑なに信じ込んで反省もせず、まさに「チョコレートを欲しがって泣き喚く幼児と同じ程度のメンタリティ」なるシロモノを散々発揮しまくって、被害妄想と共に周囲に当たり散らしてきたのはどこのどなたでしたっけ?
ヴァレンシュタインがあの2人と異なるのは、原作知識があることと、「神(作者)の介入」による超展開と御都合主義の乱発によるものでしかありません。
何しろ、ヴァンフリート星域会戦後における自爆発言をやらかしてさえ、周囲の人間はヴァレンシュタインを罪に問うどころか、その問題点に気づきすらもしなかったというのですから。
この件に関して、当のヴァレンシュタイン自身は全く何もしていない上に、原作知識とやらも少しも発動されてなどいなかったのですから、この「奇跡」が「神(作者)の介入」によるものであることは疑いの余地がありますまい。
原作のフォークに原作知識と神(作者)の祝福を与えた上で大量の興奮剤とサイオキシン麻薬でも投与すれば、それでヴァレンシュタインが出来上がるわけなのですから、ずいぶんと安普請な話ではあるのですが(苦笑)。
「目くそ鼻くそを笑う」とは、まさに上記にあるがごときヴァレンシュタインの態度を指す格言なのではないですかねぇ(笑)。

さて、原作知識の恩恵をすらはるかに凌ぐ、ヴァレンシュタインの最強無敵にして本当の切り札である「神(作者)の介入」は、実はこのロボス&フォークとのやり取りの中でも如何なく発揮されています。
何しろ、ここでヴァレンシュタインが自らの身の危険について全く考慮する必要すらなく好き勝手に暴れられるという事実そのものが、「神(作者)の介入」の恩恵によるものでしかないのですから。
実は一般的な軍事組織では、ヴァレンシュタインのような人間の出現を未然に阻止するために、いわゆる「軍法」というものが整備されています。
「軍法」は、一般的な民法や刑法などのような「個人の権利を守る」ためのものではなく、「軍の秩序を維持・安定させる」ために存在するものです。
そして、ヴァレンシュタインのごとき人間に対処するための対処法としては、「上官侮辱罪」の適用が最も有効かつ効果的なものとなります。
軍法における「上官侮辱罪」の構成要素は、「直接面と向かって上官を罵倒する」「公衆の面前で公然と上官を罵倒する」というものであり、ヴァレンシュタインの言動はこの2つ共に充分過ぎるほど該当します。
つまり、ヴァレンシュタインに罵倒されたロボスは、ただ「上官侮辱罪」をヴァレンシュタインの眼前に突きつけるだけで、ヴァレンシュタインを力づくで黙らせるどころか、逮捕拘禁にまで至らしめ軍法会議にかけることすらも【本来ならば】充分に可能だったのです。
そして、すくなくとも原作「銀英伝」および「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝」の世界には、疑問の余地なく「上官侮辱罪」が存在します。
銀英伝10巻では、オーベルシュタインの発言に激怒したビッテンフェルトが、オーベルシュタインに掴みかかったことから謹慎処分を受けていますし、「本編」には以下のごときそのものズバリな単語が存在するのです↓

http://ncode.syosetu.com/n4887n/49/
> 「オッペンハイマー中将は命令違反、上官侮辱罪、さらに皇位継承の有資格者の身を危険にさらした事、反逆を煽った事、それらの罪で逮捕しました」

これらは全て帝国の事例ではありますが、帝国にあるのに同盟側にだけ「上官侮辱罪」がないとは到底考えられません。
ましてや「亡命編」における同盟には、この後に登場する、軍の司令官の首を挿げ替えることを可能にする「自由惑星同盟軍規定第214条」の存在がありますので、そのバランスと兼ね合いからなおのこと「上官侮辱罪」は必要とされます。
本来、「上官侮辱罪」なるものが作られた最大の理由は、上官個人の権利や名誉を守るなどという瑣末な事象のためなどではなく、上官をトップとする軍としての指揮系統や団結・秩序を維持するためという目的こそが大きいのです。
司令官の意向と権威を無視して皆が好き勝手に振舞っていたら、軍という組織そのものが成り立たなくなってしまいます。
それを未然に抑止すると共に、全ての将兵を各部署毎の上官に従わせ、その上官達全てをまとめ上げる最高司令官の意思ひとつで軍内が統一され軍としての機能を最大限に発揮させる、それこそが「上官侮辱罪」が持つ本来の立法趣旨なのです。
そのため「上官侮辱罪」では、上官に対する罵倒の内容が正当なものであるのか否かなど、実は罪の構成要素を論じるに際しては何の争点にもなりはしません。
内容が正当であろうがなかろうが、上官に対する罵倒によって軍が混乱し秩序が乱れることには変わりがなく、またいちいち内容によって適用の度合いを判断などしていたら、そこにつけ込んで上官侮辱を乱発されてしまうことにもなりかねないのですから。
罵倒の内容などは、「上官侮辱罪」が成立すると見做された後に、せいぜい情状酌量の余地として弁護側が主張できることもあるかもしれない程度の意義くらいしかありえませんね。

ヴァレンシュタインに罵倒されたロボスおよび周辺の人間達は、ヴァレンシュタインの発言内容に対してではなく、ヴァレンシュタインの「行為」そのものを「軍の秩序を乱し混乱を招くもの」として糾弾し、「上官侮辱罪」として告発すれば良い、というよりもむしろ「そうしなければならなかった」のです。
ヴァレンシュタインがいくら「自身の発言の正当性」について述べたところで、そんなものは「上官侮辱罪」の構成要件をむしろ強化する結果にしかならないのですし、この当時のヴァレンシュタインには、相手を黙らせたり自らの不祥事をもみ消すことができたりするだけの権力的なバックアップが存在していたわけでもありませんでした。
ヴァレンシュタインが本格的かつ公然とシトレやトリューニヒトのバックアップが得られるようになったのは、この第6次イゼルローン要塞攻防戦が終わって以降のことだったのですし。
また、ヴァレンシュタインから直接罵倒されたロボスなどは、立場的にも軍法的にも心情的にも、ヴァレンシュタインに対して容赦などしなければならない理由は全くなかったはずです。
しかも「上官侮辱罪」というシロモノは、むしろ上層部が無能だったり不正行為の類に手を染めていたりする事実があればあるほど、「口封じの道具」などというその立法趣旨に反したやり方で濫用されることが珍しくない法律なのですからなおのこと。
にもかかわらず、この場でもそれ以降でも「上官侮辱罪」は全く発動されなかったのですから、これはもう「神(作者)の介入」によるもの以外の何物でもないでしょう。
狂人ヴァレンシュタインを偉く見せるため、またその立場を死守するため、神(作者)による「奇跡の行使」がまたしても振舞われたわけですね(苦笑)。
こんな神(作者)の祝福があるのであれば、そりゃどんなに愚劣な言動を繰り出しても、ヴァレンシュタインは永久に無敵でいられるに決まっています。
自分の足で立つことなく、神(作者)が押す乳母車にふてぶてしく鎮座し、誰も逆らえない神(作者)の力に守られながら周囲に威張り散らして他者を罵り倒すヴァレンシュタイン。
その光景の、何と愚劣で醜悪で滑稽なことなのでしょうか。

第6次イゼルローン要塞攻防戦の考察はまだまだ続きます。

映画「わが母の記」感想

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映画「わが母の記」観に行ってきました。
作家・井上靖の同名小説を原作に役所広司・樹木希林・宮崎あおいが主演を演じる、高度成長期の古き良き昭和の時代を舞台とした人間ドラマ作品。
今作は本来、2012年4月28日公開予定の映画なのですが、今回もたまたま試写会に当選することとなり、公開予定日に先行しての観賞となりました。
まあ、今回はほんの数日程度の違いでしかなかったですけどね(^^;;)。

土砂降りの雨が降る中、幼い妹2人と共に雨宿りをする母親を、少し離れたところでただひとり見つめる自分――。
1959年、役所広司が演じる今作の主人公にして小説家の伊上洪作は、老齢で身体の容態が思わしくない父親の隼人を見舞うべく他の家族と共に訪問していた、現在の静岡県伊豆市湯ヶ島にある郷里の実家で、昔見た母親の八重の光景について回想していました。
洪作は、5歳の頃に2人の妹を連れて当時は日本領だった台北へと行ってしまい、以後13歳になるまで自分のことを放置していた母親に対する恨みとわだかまりをずっと抱き続けていました。
母親は自分だけを捨てていった、と洪作は考えたわけですね。
八重がそうするに至った本当の理由については物語後半で明らかとなるのですが、今作はこの「母子関係の葛藤と心情」が大きなテーマのひとつとなっていきます。
さて、もう長くないであろうことが確実な父親と半ば「最後の別れ」的な対面をした洪作は、ついさっき自分に言った発言を二度も繰り返す母親に「困ったものだ」的な苦笑いを浮かべていました。
実はこの頃からすでに、八重の老人ボケは既に進行しつつあったのですが。
洪作は東京ではそれなりに売れている小説家で、その東京の家では、まもなく売り出す予定の洪作の新刊に、洪作の家族が一家総出で検印を押し続けていました。
……ただし、洪作の三女である琴子を除いて。
湯ヶ島から帰ってきて、家族に加えて編集者も共にした夕食会でも全く姿を見せようとしない琴子に怒りを覚えた洪作は、琴子の部屋へ直接怒鳴り込みに行く亭主関白ぶりを見せつけます。
琴子は琴子で、父親に対する反抗心丸出しな様子を隠そうともしませんし。
ところがその日の深夜、昼に見舞いに行った父親・隼人の容態が急変し、そのまま逝去したとの連絡が伊上家にもたらされます。
ささやかながらも一族総出の葬儀が行われる中、父親に対する反発も手伝ってか、琴子は八重に話しかけ、洪作絡みの話題にしばしの時を費やすのでした。

以後、1960年、1963年、1966年……と時間が過ぎていき、1973年に八重が亡くなるまで物語は続いていくことになります。
時が進むにしたがって八重の老人ボケの症状はますます酷さを増していきます。
1966年頃になると、もう現在の息子の顔すらも忘れ、ただひたすら昔の思い出を途切れ途切れかつ脈絡もなく思い出しながら、たちの悪い放浪癖で家族をハラハラさせるような状態にまで至ってしまいます。
洪作も琴子もその他の家族の面々も、それぞれの人生を歩みつつ、そんな八重の様子を時には気にかけ、時には激怒しつつ見守っていくのですが……。

映画「わが母の記」は、認知症の実態を描いているという点においては、映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」に近いものがあります。
ただ、あの作品が「マーガレット・サッチャーの現状と本人の視点」に重点を置きすぎて観客の期待からは大きく外れた形で終始していたのに対し、今回は最初から「母親の認知症」を前面に出し、かつ母親周辺の人々にスポットを当てている点が、違うと言えば違うところですが。
今作では「認知症を患っている母親本人の視点」というものは一切登場せず、あくまでも「認知症の母親を見る周囲の視点」だけでストーリーが進んでいきます。
認知症患者の物忘れや奇行ぶりに振り回され悩まされ続ける家族の様子もよく描かれており、その点では地に足のついた現実味のある物語に仕上がっています。
ただ、全体的に淡々と進みすぎた感があり、特に1973年に八重が死ぬことになるラストを飾る「八重とのお別れ」の描写は「あれ? これで終わり?」的なあっけなさがありましたね。
あまりにあっけなさ過ぎてエンドロール後に何かあるのかと期待していたら、結局そちらでも何もなかったですし。
まあ正直、あの段階だと洪作と八重絡みのしがらみも終わってしまっていますし、あれ以外に締めようもなかったというのが実情ではあったのでしょうが、あそこはもう少し何かを感じさせる終わり方でも良かったのではないかと。

物語のハイライトは、やはり何といっても1969年の2つのシーンですね。
ひとつは、「洪作が少年時代に自作したものの本人ですら忘れていた詩の内容を八重が全て諳んじて、洪作が号泣するシーン」。
琴子との会話で出てきた少年時代の詩のエピソードがああいう形で繋がる点も見事の一言に尽きましたし、また洪作の「男泣き」も役所広司ならではの安定した上手い演技でした。
ふたつ目は、予告編でもある程度明示されていた「海辺で洪作が八重をおんぶするシーン」。
こちらは、終盤で徘徊していた八重が、人の良いトラックの運ちゃんに乗せられて海に向かったという情報が出た時点で「ああ、あのシーンが来るな」と簡単に予想はついたのですが、琴子に連れられた八重が洪作に背負われ、2人で一緒に海を歩くシーンは確かに充分絵になる描写でした。
映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」ほどのサプライズ感はさすがになかったものの、家族愛を表現する描写としては邦画の中でもトップクラスに入るものなのではないでしょうか。

ただこの映画、アクションシーンのような派手な描写は全くないですし、人間ドラマとしても全体的に起伏が少な過ぎる感が否めないので、正直言って「観る人を選ぶ」作品ではありますね。
出演俳優は豪華ですし演技も上手いので、俳優のファンの方々には一見の価値があるでしょうけど、果たして一般向けなのかと言われると……。
内容から考えるとシニア層&主婦層向けの作品、ということになりますかねぇ、やっぱり。

アメリカでは本当に3D映画が受け入れられているのか?

アメリカでは映画ファンの70%以上が2Dよりも3Dの映画を好む、という調査結果が発表されました↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0041556
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 大作・話題作が軒並み3D公開されている現在、アメリカでは映画ファンの70パーセント以上が2Dよりも3D映画を好むという調査結果が発表された。
>
>  
今や3D公開されているのは当たり前であり、今年夏に公開される映画『ダークナイト ライジング』に至っては3D上映を行わないことがニュースになるほどだった。それは裏を返せば、3D映画がいかに観客に浸透しているかという証だろう。
>
>  それをデータとして裏付けるのが、インターナショナル3Dソサエティーと市場調査会社ORCインターナショナルが合同で発表した調査結果。
調査は18歳以上のアメリカ人1,011名を対象に行われ、内52パーセントが過去3年間に3D映画を観たことがあると回答。さらに、その内の71パーセントが2Dよりも3D映画を好むと回答した。
>
>  もともとは2Dカメラで撮影された映像を変換したものも多いため、3D作品に対する不満もよく聞かれる。だが、『アバター』を筆頭に、『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』など、3Dカメラで撮影された作品はやはり3D作品でしか味わえない魅力がある。
一定数の観客が3D映画の方を好むと証明された以上、今後も3D映画は製作され続けるに違いない。(編集部・福田麗)

この調査結果は、一見すると確かに3D映画が大衆に受け入れられているかに見える内容ではあります。
しかしこれ、よく読んでみると「映画ファンに3D映画が受け入れられている」とはとても言えない内容が多分に含まれていることが見えてくるんですよね。
まず、この調査結果では、そもそも3D映画を観賞したことのある人自体が全調査対象者数の半分程度しかいないことが分かります。
そして、3D映画が2Dよりも好みであるという人は、その半分程度の観賞経験者のさらに7割程度しかいないという結果が出ているわけです。
つまり、調査対象者1011名の中で、実際に3D映画を2Dよりも好むという人の数は、

1011×0.52×0.71=373.2612

しかいないことになり、全体から見た割合は36.92%となるのです。
3分の1弱しか支持されていないのに、「3D映画が大衆に受け入れられつつある」などと言えるのでしょうか?

それに、3D映画の観賞経験だけをもって「映画ファン」と定義するのもいかがなものかと。
そもそも「2Dか3Dか」というのは必ずしも自分で選択できるものではなく、映画によっては3D以外の選択肢がないことも珍しくありません。
特に、普段は映画を観ない人がごく稀に映画を観るようなケースでは、選択の余地がない3D映画をほとんど自動的に観賞させられる事例も少なくないでしょう。
そうなると、映画は年に1本観に行くかどうかという人でも、件の調査の定義では「この人は映画ファンである」ということにされてしまうわけです。
また逆に、年に何回も映画を観ているものの、料金問題を嫌う等の理由から3D映画を避けている人は、何本映画を観ても「映画ファン」と換算されることがないのです。
これでは「映画ファン」の定義自体がおかしいと言わざるをえませんし、また映画館で映画をあまり観ない観客を多分に含んでいるであろう中で、確たる根拠と論理でもって「2Dよりも3Dの方が良い」と言える人が果たしてどれだけいるというのか、はなはだ疑問と評さざるをえないでしょう。
件の調査結果は、むしろ逆に3D映画があまり受け入れられていない事実を示すものである、とすら言えてしまうのではないでしょうか?

以前から何度も述べていますが、3D映画は料金問題ひとつ取っても敬遠されるに充分なものがあるはずなんですよね。
3D映画を選択するだけで2Dよりも高い料金が取られるとなれば、ただそれだけでも敬遠されない方が変というものです。
ましてや、3D映画自体の粗製乱造の結果、「どこに2Dとの違いがあるのか理解に苦しむ」的な3D映像がしばしば提供される事実まであるのですからなおのこと。
カネを払うメリットが少ないのにリスクが大き過ぎる、それが今の3D映画の実情なんですよね。

また、これは最近になって私も知ったことなのですが、3D映像というと「=飛び出す」というイメージ【だけ】で語られることが多いのも問題です。
そのイメージが3D映像の良さを宣伝するのに一番インパクトがあり客に理解させやすい、という事情もあるのでしょうが、それが結果として3D映像について誤解をばら撒くことにも繋がっています。
かく言う私自身、つい最近まで「何故ほとんど飛び出すことのない映像などのために余計なカネを払ったり専用メガネをかけたりしなければならないんだ!」と憤っていたクチでしたし(^^;;)。
最近の3D映像は「奥行き感」や「立体感」を重視しているのだそうで、そりゃ「スクリーンから飛び出す」というイメージと実態がまるで違ってくるのも当然です。
しかし、「では奥行き感や立体感というのは、通常の2D映像と比べてどこがどのように異なるのか?」と問われると、その説明は至難を極めるというのが実情だったりするわけで(-_-;;)。
2Dと3Dのスクリーンを両方置いてリアルタイムで直接見比べてさえも、両者の違いは理解しにくいものがあるのではないでしょうか?
TVがアナログから地上波デジタルへ移行する際によく喧伝されていた「画像が綺麗になる」でさえ、その違いが一般的に理解しにくいものがあった上に「何故そんなことのために…」という声が少なくなかったくらいなのですから。
「3D映像=飛び出す」という安易な宣伝を止めると共に、それに代わる宣伝文句&マーケティング戦略を新たに作りだす。
3D映画を一過性の流行で終わらせないようにするためには、その課題を避けて通ることはできないのではないでしょうか?

おかしな調査結果を使って実体のない詐欺のような宣伝などを行うことよりも、料金体系と宣伝戦略の抜本的な見直しに着手する方が、3D映画にとっても有益になると思うのですけどね。

人里に出現したヒグマの射殺に苦情殺到

北海道札幌市で北海道猟友会が射殺したヒグマがニュースで報じられた結果、札幌市役所に「何故ヒグマを殺した!」という苦情電話が相次いだのだそうです。
これを受けて札幌市では、これからはヒグマを殺さず、山に追い返す方法を模索するとのこと↓

http://megalodon.jp/2012-0424-2314-46/www.j-cast.com/2012/04/23130005.html?p=all
>  札幌市の民家近くに2、3歳と思われるオスのヒグマが一頭出現し、北海道猟友会のハンターが猟銃で駆除した。この様子がテレビのニュースで流れたことがきっかけで、札幌市役所には100件を超える電話が入り、その大半は「なぜ殺した!」という苦情だった。
>
>  札幌市役所では、本州に生息するツキノワグマに比べてヒグマは比較にならないほど巨大で凶暴なため駆除してきたが、これからは山に追い返すなど別の対策を検討しなくてはいけない、と頭を抱えている。
>
>  泣きながら訴える女性など100件以上の電話
>
>  駆除されたヒグマは体長が135センチ、体重が120キロほどだった。
2012年4月19日、里に降りてきたことが確認され、翌20日の午前6時ごろには民家から約20メートル離れた林の中にいた。人を怖がる様子はなく、このままでは住宅街に進入する心配があると判断し射殺した。この日、近隣の小学校では子供に親が付き添って登校させる姿が目立った。
>
>  ヒグマが射殺される様子を20日に複数のニュース番組が放送したところ、直後から札幌市役所の電話が鳴り続けた。環境局みどりの推進課だけでこの日60件近くあり、これまでに100件を超えているという。メディアからの問い合わせを除くと全てが苦情で、
>
> 「なんで殺したんだ!」「山に返せばいいだけなのに」
>
> といったものに加え、
>
> 「何も悪いことをしていない若いクマなのに・・・」
>
> と電話口で泣く女性もいたという。
全ての内容を細かく調べてはいないが、苦情は札幌市内からのものではなかったようだ、とみどりの推進課では話している。
>
> 北海道でヒグマを前年度785頭駆除
>
>  みどりの推進課によれば、ヒグマは大きいものになると体長が3メートル、500キロもあり非常に凶暴だ。小熊であったとしても人を恐れない場合はやがて大きな被害をもたらす可能性があるため射殺してきた、という。しかし、
今回のニュース映像がショッキングに受け止められ、苦情が多数寄せられた。これからはすぐに殺したりはせず、山に追い返すにはどうしたらいいのかなどの検討を始めているという。
>
>  北海道警察の調べによれば、2011年度の北海道でのヒグマの捕獲数は785頭で、調査を始めた55年度以降3番目に多い数字となった。目撃数は1240頭だった。
>
>  里に降りてきたクマの捕獲については、ニュースが流れるたびにネットで論争が起こる。以前は「可愛いから熊を殺さないでほしい」という意見も多かったが、今回の札幌に関しては「やむをえない」がネットでは主流になっている。

街中にヒグマが現れ、人に害を及ぼすかもしれないという状況では、ヒグマの射殺もやむをえない正当な行為としか評しようがないでしょう。
北海道は、ヒグマの獣害のために無人となった開拓民達の集落があるほどに、昔からヒグマの害が少なくない地域なのです。
行政側にしてみれば、市民の安全を守る義務があるのですし、ヒグマを放置して万が一にも人に害が及んだとなれば、謝罪だの賠償だのと責任を追及されるのは確実なのですから。
またヒグマは、そこに美味しい獲物や食料があると分かれば、何度追い払ってもまたすぐに同じ場所に繰り返しやってくるという習性を持っていますので、「山に追い返す」という対策は、その場その場の応急措置以上の効果を持ちえないのです。
さらに、何度も同じヒグマの対処を強いられるのでは、そのための手間と費用もかなりのものとならざるをえませんし、それは全て行政側が負担しなければならないのです。
獣害をまき散らす可能性の高いヒグマに対する対処法としては、やはり「その場で撃ち殺す」に勝る選択肢はないわけです。

にもかかわらず、そのヒグマの射殺を「可哀想」「殺すなんて」と非難する人達は、ペットと同じ感覚でヒグマを見ていたりするのでしょうかね?
犬や猫だって、人間側に経済的・社会的な余裕があるからこそ飼っていられるのであって、数が増えすぎたり凶暴化したりして人間に害を及ぼすとなれば、やはり「殺すのもやむなし」という結論に辿りつかざるをえないのですが。
動物愛護の精神も結構なことですが、それもまずは人間の安全と余裕があってこそのものです。
今回の問題は、動物愛護の精神が酷く歪んだ形で噴出したものであると言えるのではないでしょうか。
まあ、苦情を言っている人たちの中には、グリーンピースやシーシェパードのような、環境問題や動物保護問題を「パフォーマンス&金儲けのビジネス」程度にしか考えていない自称環境保護団体のテロ集団に属する輩もいたりはするのでしょうけどね。

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