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映画「アジャストメント」感想

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映画「アジャストメント」観に行ってきました。
フィリップ・K・ディックの短編小説「調整班(Adjustment Team)」を原作とする、マット・デイモン主演のSF恋愛サスペンス作品。
2011年に入ってから観賞したマット・デイモン主演の映画は、「ヒアアフター」「トゥルー・グリット」に続きこれで3作目になります。

物語は、元バスケットボール選手でアメリカ上院議員候補として選挙を戦っていたデヴィッド・ノリス(マット・デイモン)が、選挙戦を有利に進めていながら、本番となる選挙の直前に酒場で下半身露出というスキャンダルをやらかし、結果落選の憂き目を見る羽目になるところから始まります。
敗北に直面したデヴィッド・ノリスは、敗北宣言を行う際の演説の内容をひとりで考えるため、男子トイレに入ります。
「誰か入っていますか?」という確認に返答がなかったのでしばらく演説のシミュレーションを展開するデヴィッド・ノリスですが、イマイチながらも一通り考えがまとまりかけたところで、トイレの中から突然女性の声がかけられます。
その女性エリースとの会話から何らかの天啓でも受けたのか、デヴィッド・ノリスは敗北宣言で当初考えていた演説の内容を変更し、結果として民衆に好印象を与える演説を行うことに成功します。
しかし、実はこの2人の出会いは、作中にチラチラ登場するシルクハット帽子をかぶった謎の男達によって意図的に演出されたものだったのです。
そして、彼らの当初の考えでは、2人はここで二度と会うことはなかったはずでした。

選挙の敗北宣言後、デヴィッド・ノリスは、彼の幼馴染で選挙参謀でもあったチャーリーが勤務しているとあるベンチャー企業に役員として招かれ就任します。
役員就任後のある日の朝、デヴィッド・ノリスはチャーリーからの電話で、太陽光発電などの環境系に資金援助を行うよう提言しますが、チャーリーはコストがかかることを理由に難色を示します。
適当なところで電話を切り、朝起きた際に入れたコーヒーを片手に持ったまま、デヴィッド・ノリスは会社に出社します。
ここで再び登場する謎の男2人。
そのひとりリチャードソンは、もうひとりの男ハリーに対し、デヴィッド・ノリスが片手に持っていたコーヒーを、7時5分にこぼすよう指示します。
ハリーは公園で待ち伏せして指示を実行するつもりだったのですが、デヴィッド・ノリスを待っている間にうたた寝してしまったハリーは、予定の7時5分になっても起きることがなく、デヴィッド・ノリスは予定時刻にコーヒーをこぼすことなくバスに乗り込んでしまいます。
このハリーのミスが全ての元凶となり、事態は思わぬ方向へ進展することになります。
まず、本来二度と出会うはずがなかったデヴィッド・ノリスとエリースが、乗り合わせたバスの中で再会してしまいます。
バスを必死になって追いかけるハリーは、遠隔操作のような能力を駆使してバスの中にいるデヴィッド・ノリスのコーヒーを何とかこぼしますが、既に手遅れでまるで意味のない行動でした。
そしてさらに、謎の男達の予定よりも早く会社に到着したデヴィッド・ノリスは、そこで時が止められたような状態で固まっている会社員達と、正体不明の機器を使って彼らをなで繰りまわしている謎の男達の集団を目撃することになります。
異様な雰囲気に驚いたデヴィッド・ノリスはただちにその場から逃走を図りますが、何故か行く先々で謎の男達にことごとく先回りされてしまい、デヴィッド・ノリスは多勢に無勢で押さえつけられ眠らされてしまいます。

次にデヴィッド・ノリスが目覚めると、そこはだだっ広い倉庫だか駐車場のような場所。
彼を拉致し、周囲を取り囲んでいる謎の男達は、自分達のことを「運命調整局(アジャストメント・ビューロー)」と名乗り、超常的な能力を披露します。
そしてデヴィッド・ノリスに対し、自分達のことを一言半句も他人にしゃべらないこと、そしてエリースに二度と会わないよう強要します。
「何故彼女に会ってはいけないのだ?」というデヴィッド・ノリスの質問にも「秘密だ」以外の回答が返ってくることはなく、バスで出会った際にもらった、デヴィッド・ノリスとエリースの唯一の繋がりだった彼女の電話番号が記されたメモも燃やされてしまいます。
しかも解放された後に行われた会社の会議では、朝の電話の会話で太陽光発電の投資を渋っていたはずのチャーリーが、全く正反対の賛成の立場に転じており、「調整(アジャストメント)」の恐ろしさがデヴィッド・ノリスの眼前で展開されるのです。
これでデヴィッド・ノリスとエリースの恋も終わったかに思われたのですが、しかしデヴィッド・ノリスは想像以上にしぶとい人間でした。
彼は何と3年以上もかけて同じバスに乗って通勤し続けることで、ついに彼女を探し当て、3度目の再開を果たすことに成功するのです。
この異常事態を当然のごとく察知して2人の仲を引き裂かんとアレコレ工作を始める「運命調整局」の面々。
かくして、デヴィッド・ノリスの運命を巡る「運命調整局」との戦いが繰り広げられることになるのです。

映画「アジャストメント」は、今作と同じくマット・デイモンが主人公(のひとり)を演じている映画「ヒアアフター」と同様、哲学的な要素が極めて強い作品です。
「ヒアアフター」のテーマが「死後の世界」ならば、「アジャストメント」のそれは「運命の重み」「運命に逆らうことの難しさ」といったところでしょうか。
面白いのは、他人の運命を左右する「運命調整局」の面々は、決して悪意からデヴィッド・ノリスに干渉しているのではないという点です。
むしろ彼らは「人類にとって最悪の未来を回避すること」を目的に、つまりある種の「善意」に基づいて他者の「運命」を調整しているわけです。
作中でも、「ハンマー」の異名を持つ「運命調整局」所属のトンプソンなる存在が、人間の運命を人間自身に委ねるとロクでも事態が起こるということを、ヨーロッパ中世の暗黒時代と2度の世界大戦&冷戦を例にデヴィッド・ノリスに説明している描写があります。
彼の説明によれば、デヴィッド・ノリスは将来、上院議員四選の末にアメリカ大統領までのし上がる「運命」の人物であり、それが「最悪」を回避できるものであるが故に彼に干渉しているのだとのこと。
個人の我欲で動いているわけではないが故に、「運命」の重みというものが感じられる描写でしたね。

主演のマット・デイモンも、かつては「ボーン・アイデンティティー」「ボーン・スプレマシー」「ボーン・アルティメイタム」の3部作シリーズや「オーシャンズ11~13」シリーズなどといった「アクション物」をメインにこなしていたので、アクション俳優としての印象が強かったのですが、最近の作品はどちらかと言えばアクションシーンが控えめですね。
「ヒアアフター」は完全にアクションがありませんでしたし、「アジャストメント」も全体的にはアクションが少なく、ストーリー性や作品テーマで勝負しているような感じです。
まあ過去作自体、ボーンシリーズや「グリーン・ゾーン」などのように「アメリカの暗部」を炙り出しているようなところがありますから、ストーリー&作品テーマ重視の方針は昔から一環していたのかもしれませんが。
マット・デイモン的にはそういう作品の方がやはり好みなのでしょうかね?

あと、作中に出てくる「運命調整局」のアイテムや異能がこれまた面白いですね。
機械の設計図のような幾何学模様の中を、FXチャートのような軌跡を残しながら走り続ける青い光点と、明らかにヤバそうな雰囲気をかもし出している赤い光点が描かれ続ける「運命の書」。
光点が一体何を意味するのか、その原理は作中で全く何にも説明されておらず、「接触点」云々の専門用語まで出てくるのに、雰囲気自体は何となく分かるというシロモノ。
ラストで幾何学模様が消えていった真っ白な右半分を青い光点が走っていくシーンは、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」の終盤近くのシーンを想起させるものがありました。

ドアを開けると何故か全く別の場所に繋がる「どこでもドア」的な能力。
こちらもやっぱり原理は何も説明されないものの(帽子があれば誰でも使えるらしいのですが)、映画の中における描写としては上手いものがありましたね。
特に物語終盤は、「ただドアを開けていくだけ」のシーンをアレだけテンポ良くかつ格好良く描いているわけですから。
ああいう観せ方もあるのか、とここは結構感心したところだったりします。

全体的な構成としては、「哲学的な要素を大量に盛り込んだ恋愛映画」といったところになるでしょうか。
アレだけ主人公に(表面的に見れば)ソデにされまくり、最初はそのことに怒りまくるのに、それでも最終的には主人公についていく女性エリース・セラスには「何とも忍耐強い女性だなぁ」という感想を抱かずにはいられませんでしたが(苦笑)。
まあその部分も「運命的な結びつきの強さ」というものを表現するためのものではあるのでしょうけどね。

2011年5月の田中芳樹近況

http://twitter.com/adachi_hiro/status/73672482674061312
<うん。アルスラーン。つい先日、執筆に着手した「薬師寺…」の次の次。RT @unmotored: @dameosan @adachi_hiro アルスラーンw

となると、今後の執筆スケジュールは

薬師寺シリーズ → タイタニア → アルスラーン戦記

となるわけですね。
片手間でできるであろう薬師寺シリーズはともかく、タイタニアは「髑髏城の花嫁」ばりに時間がかかりそうではあるので、アルスラーン戦記の執筆開始は下手すれば来年すら難しいかもしれませんが。
一方、他のシリーズはというと……。

http://twitter.com/adachi_hiro/status/73672992177135616
<あれは、もう本人のなかでは終わった話になってるみたい。私は好きな話なんですけどね。RT @Raemiel: @adachi_hiro 七都市は…

いや、田中芳樹は「田中芳樹読本」でこんなことをのたまっていたではありませんか↓

田中芳樹読本 P80
七都市物語は、オリンポス・システムが終わるまで続く話です。キャラクター達の運命もこのまま中途半端にしておくわけにはいきません。次をどうするか、現在困惑しつつ考えております。できれば気長にお待ちいただければ幸いです」

こんなことを言っていながら「もう本人のなかでは終わった話になってるみたい」はないでしょう。
終わった話にするならするで、過去の発言を総括するなり改めて中断・終了宣言を発表するなりするのが、自分の作品に対する作家としての責任というものでしょうに。
少しは自分の発言というものに責任を持ってはどうなのですかね、田中芳樹は。

http://twitter.com/adachi_hiro/status/73673557976158208
<『創竜伝』も、ずいぶんご無沙汰ですよね。私が最初に読み始めたのは、まだ続さんよりも若かったハズなんだけどなあ。RT @tmmiyako: @unmotored @dameosan @adachi_hiro 創竜伝…

創竜伝も、最新刊である13巻が刊行されてから2011年6月6日でついに8年目突入ですが、こちらもこちらで、一体いつ14巻が執筆されるのか、それとも中断されるのか、先行きが全く見えないグダグダな様相を呈していますね。
まあストレス解消の道具としては薬師寺シリーズがすでにあるわけですし、ストーリーも作品設定もボロボロな惨状を露呈している上に読者からの反発も少なくないであろう創竜伝に対する執筆意欲がなくなるのは、ある意味当然なのかもしれませんが。
私が田中芳樹の立場にあったとしても、とても「続きを書きたい」とは思えないですね、今の創竜伝は(苦笑)。
だからこそ、こちらについても断筆宣言をするのが「今の田中芳樹にとっては」最良の責任の取り方だと思えてならないのですけどね。

高橋名人がハドソンを退社

かつて16連射を携え、ゲーム業界で一世を風靡した高橋名人が、2011年5月末をもってハドソンを退社することになったのだそうです。

http://blog.hudson.co.jp/16shot/archives/2011/05/post_1848.html

ハドソンは、今年の1月にコナミの完全子会社化してから大規模なリストラを推進していたとのことで、その煽りを食らった形のようです。
かつてはゲーム業界大手としてその名を轟かせてきたハドソンも、凄まじいまでの凋落ぶりとしか言いようがないですね(T_T)。

高橋名人は、私がシューティングゲーム好きになるきっかけとなった人物で、小学生の頃は憧れの対象ですらありました。
ハドソン主催のシューティングゲーム全国キャラバンにも何度か参加していましたし、その際に間近で高橋名人の姿を確認して感激したこともあったくらいです。
アレだけ「会社の顔」として活動し知名度も少なからずある高橋名人がハドソンを退社とは、これも時代の流れと言うものなのでしょうかねぇ……。

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉」感想

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映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉」観に行ってきました。
ジョニー・デップが演じるキャプテン・ジャック・スパロウを主人公とする海賊冒険作品。
実はこのシリーズの作品、過去の3部作は映画館どころかテレビでさえも一度も観たことがなく、4作目となる今作が初めてのシリーズ観賞ということになりました(^^;;)。
この映画は3D版でも公開されていますが、私が観に行ったのは2D版となります。
3Dっていちいち専用の赤青メガネをかけなければならないし、作品によっては2Dとほとんど見た目が変わらないこともあり、カネが余計にかかるだけでどの辺りに魅力があるのかイマイチ分からないんですよね。

物語の始まりは、スペインのとある漁師達が引き上げたゾンビが、「生命の泉」のことが記されている200年前の伝説の海賊であるポンセ・デ・レオンの航海日誌を手に入れ、スペインが国として「生命の泉」探索を決定することが発端となります。
一方その頃、イギリスのロンドンでは、牢獄に囚われの身となっていたキャプテン・ジャック・スパロウの公開処刑が行われようとしていました。
ところが、いざ裁判の場に連行され、顔を隠していた覆面が外された時、そこにいたのはジャック・スパロウではなく、彼の相棒だったギブス。
「俺はジャック・スパロウではない!」と主張するギブスの前に現れたのは、何と裁判長に擬態したジャック・スパロウその人でした。
裁判長ジャック・スパロウは、いかにも投げやりに裁判過程をすっ飛ばした挙句、「ジャック・スパロウ」扱いされているギブスに対し終身刑を言い渡、娯楽としての公開処刑を望む民衆からの罵倒を受けつつとっととその場を後にします。
その後ジャック・スパロウは、再び牢獄に連行されていくギブスの馬車に一緒に搭乗。
馬車を引く御者をも買収し、ギブスと一緒にロンドンから逃亡する算段を立てていました。
その際ジャック・スパロウは、自分の名を騙る人間が「生命の泉」を目指すために船の乗組員を募集しているという噂話をギブスから聞かされます。
どこで手に入れたのか「生命の泉」にまつわる地図を所持していたジャック・スパロウは、その話に怪訝な顔をするのですが、その最中、予定よりも早く馬車が停止します。
しかし馬車を降りたジャック・スパロウを待っていたのは、バッキンガム宮殿の広場のど真ん中で自分達に銃剣を突きつける衛兵達。
再び囚われの身となってしまったジャック・スパロウは、時のイギリス国王ジョージ2世の前に引き据えられ、「生命の泉」に関する情報を出せと迫られます。
処刑をも示唆されて脅迫されたジャック・スパロウは、ここから一大脱出劇を敢行。
ここからしばらく、17~18世紀当時のロンドンの街を舞台にしたアクションシーンが繰り広げられます。

紆余曲折の末、からくも衛兵達の追撃から逃れたジャック・スパロウは、たまたまそこで偽物の自分が乗組員募集を行っているという酒場に鉢合わせします。
そこで自分の名を騙っていたのは、かつて修道院?でジャック・スパロウが愛の告白をした女海賊アンジェリカ。
彼女はジャック・スパロウに対し「生命の泉」を一緒に探そうと誘いをかけるのですが、「生命の泉」にあまり興味がないジャック・スパロウは当然のごとく拒否。
ここでもすったもんだのゴタゴタの末、結局ジャック・スパロウはアンジェリカの部下に眠らされた挙句、彼女の船に強制連行され、その後「父親」である黒ひげの脅迫もあって「生命の泉」探索に無理矢理協力させられることになってしまいます。
一方、ジャック・スパロウに逃げられたイギリス側では、海賊なのにイギリス海軍に取り入った、過去3部作におけるジャック・スパロウの宿敵バルボッサ。
彼は「生命の泉」に興味を持ち、かつライバル国でもあるスペインに対抗する気満々のジョージ2世からの命で、イギリス海軍の船1隻を率いて「生命の泉」探索へと向かうことになります。
かくして、永遠の生命が与えられるとされる「生命の泉」を巡り、イギリス軍・スペイン軍・海賊達の三つ巴の戦いが展開されるわけです。

今作を観てまず驚いたのは、やはり何と言ってもジョニー・デップの好演ですね。
コメディタッチな演技とアクションシーンは、私が初めて観賞したジョニー・デップ主演映画「ツーリスト」からは到底想像もつかない高レベルなものでした。
もちろん、ジョニー・デップおよび彼のファン的には「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズにおけるアクション演技が本来の姿であり、「ツーリスト」のあのショボ過ぎるアクションシーンの方が論外なシロモノだったのでしょう。
しかし、「ツーリスト」で初めてジョニー・デップを観た私としては、そちらの印象が強かったこともあって驚かざるをえなかったわけです。
こんなことなら過去作もきちんと観ておけば良かったか、とつくづく思わずにはいられませんでしたね。

また、作中では微妙に影が薄いスペイン軍の目的が「国としては」およそ支離滅裂に満ち満ちたシロモノだったのも個人的にはかなり衝撃的でしたね。
せっかく「生命の泉」を手に入れる好都合なチャンスが自分のところに巡ってきたにも関わらず、彼らがやったことはと言えば「永遠とは神に対する信仰によってのみもたらされるべきものである」という理由から「生命の泉」を破壊するというものでした。
「生命の泉」を破壊するためだけのために軍艦3隻と多くの兵士達を派遣するスペインは、今回の遠征に一体どんな国益や見返りを求めていたのか、はなはだ理解に苦しむものがあります。
「生命の泉」がもたらす利益を求めたイギリス国王ジョージ2世や、「生命の泉」の領土宣言を行おうとしてスペイン軍に撃ち殺されたイギリス軍将兵の方が、国の方針としてははるかにマトモに見えます。
海賊であるバルボッサを利用して「生命の泉」を探させたのも、イギリス的には自国の国益のための一環であったわけですし。
スペインの目的は「生命の泉」がもたらす利益や国益を目指したものではなく「国を挙げての十字軍的な狂信」に基づいたシロモノでしかなかったわけで、こういうのは個人としてはともかく「国としては」絶対にやってはいけないことだったのではないかと思えてならないのですけどね。
略奪による利益すらも全く上げられなかったわけですから、現場のスペイン軍にとっても「骨折り損のくたびれ儲け」以外の何物でもなかったでしょうに。
3つ巴の構図自体は結構面白かったのですが、スペイン軍については「一体何しにやってきたんだよ」とツッコミを入れずにはいられなかった次第です。

物語の最後は明らかに続編が作られるような終わり方をしており、またスタッフロールが終わった後にも、アンジェリカがある「強力な武器」を手に入れるエピソードが挿入されています。
実際にあと2本続編が作られることも既に決まっているのだそうで、今後も期待されるであろうシリーズ作品と言えるでしょうね。

九州キャンピングカーショー2011に行ってきました

2011年5月21日~22日にグランメッセ熊本で開催されている、九州キャンピングカーショー2011に行ってきました。

http://www.grandmesse.jp/event-syosai.html?eid=10770&year=2011&month=5
http://www.k-campingcar.jp/

個人的にキャンピングカーは昔から好きな部類に入る車種ですね。
クルマの中で普段の生活を満喫しながら旅行をする、というシチュエーションに昔から憧れていましたし、その影響もあって今でもステーションワゴンやミニバンといったタイプの「荷台が大きい&7~8人乗りのクルマ」を愛用していたりします。
ステーションワゴンやミニバンは、後ろをフラットにすることで寝床を即席で作ることができる、という利点があって「旅行の際などに簡易寝床として利用できるのではないか?」と考えた結果がそういう好みに繋がったわけです。
もっとも、自分のクルマでそんな使い方をしたことは実のところ今まで一度もなかったりするのですけどね(T_T)。
いつかは実現したいと考えてはいるのですが。

キャンピングカーといえば、以前にタナウツ掲示板で最大級の物議を醸した銀英伝考察3の移動要塞論も、元々はキャンピングカー好きが高じて思いついた発想だったりします。
完全自給自足でどこへでも手軽に移動可能なシステムというのは、キャンピングカー究極の完成形でもあるわけですからね。
実際のキャンピングカーは、電源や水の確保などの手間が必要だったり、大きいクルマの場合は小回りが効かず、小さいクルマでは積載量に限界があったりするなど、色々と課題も多いのですが、外部補給不要の自給自足能力を持つ移動要塞にそんなものはないわけですし。
「何て便利な物を持っているんだ、そして何故その便利さに作中の誰も気づかないんだ!」というのが、私の移動要塞論の出発点でしたからねぇ。

グランメッセ熊本の会場では、牽引トレーラータイプやハイエース等の大型車ベース、さらには軽自動車を改造した小型なものまで、様々なキャンピングカーが展示されていました。
一昔前のキャンピングカーは、必ずMT車でしかも燃料が軽油でパワーが弱くスピードが出ないなどの問題点もあったのですが、最近はAT車が当たり前でガソリン車も普通に出てきているようです。
運転席周囲もカーナビが標準装備できる最新式の仕様になっており、普通車を運転する感覚で運転できるようになっているのが良いですね。
特にバックモニターなどは、後ろがふさがっていることも少なくないキャンピングカーには絶対必須の装備なわけですし。
驚いたのは、クルマのエンジンと連動しているバッテリーとは別に、独自のバッテリーを使い稼動するエアコンを搭載していたキャンピングカーが複数台あったこと。
これはエンジンを切っていても動作するわけで、大容量のバッテリーを搭載していれば、丸1日エンジンを切っていてもエアコンを動かすことができるのだとか。
エアコン以外にも、テレビやノートパソコンに電子レンジ・冷蔵庫など、キャンピングカーで使用するであろう電気製品は意外とたくさんあるので、エンジンから独立したバッテリーとそのサポートを行う発電機は、これからのキャンピングカーには必需品となっていくでしょうね。
水の確保はともかく、バッテリーと発電機はこれからの技術革新でまだまだ伸びていく分野でしょうし。

他にも、軽自動車の内装を改造してキャンピングカーに仕立て上げていたスペースや、キャンピングカーについての説明会なども開かれており、キャンピングカー好きには一見の価値があるイベントでしたね。
熊本在住の方でキャンピングカー好きという方は観に行かれてはいかがでしょうか?

九州大学が「女性枠」の導入を中止決定

九州大学が、理学部数学科の2012年度一般入試から導入予定だった「女性枠」を中止すると発表しました。
実力に拠らず「女性」という理由だけで合格判定を出すのは「法の下の平等に反する」「男性差別である」との意見が複数寄せられたためだそうです↓

http://megalodon.jp/2011-0520-1951-27/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110518-00000009-maiall-soci

特定の職種で「女性が少ないから」といって「女性枠」を設け、一種の数合わせ的に「男女平等」を実現しようとするのは、本当に実力のある男性を不当に差別することになるだけでなく、当の女性達に対してさえも良い結果をもたらすとは言えません。
欧米でも「アファーマティブ・アクション」という名の少数民族や被差別者に対する優遇措置が行われてきましたが、その結果発生したのは「あいつはアファーマティブ・アクションで採用された奴だから信用ならない」という更なる差別の拡大でした。
本来試験に通らなかったはずの黒人が「アファーマティブ・アクション」で採用されたものの、周囲の優秀な人達の水準についていけず落ちこぼれるといった事例や、本当に優秀なはずの黒人が「お前は優遇されたからいいよなぁ」とあらぬ目で見られたりするわけです。
数合わせの「男女平等」は、当の昔に滅んだはずの共産圏が唱えまくっていた「結果の平等」以外の何物でもなく、実力によらない一種の「特権階級」とそれに対する反発を生むだけでしかないのです。

今回の九州大学の「女性枠」中止決定は、男女平等=女性優遇の図式に一石を投じる形になりましたね。
元々男性と女性は、身体的のみならず脳の構造からして根本的に異なっており、男性は空間能力に長け、一点集中と論理的思考を得意とするのに対し、女性は言語能力が優れ、広い視野を持つという特性の違いがあります。
これは男性ホルモンと女性ホルモンの働きによるもので、男性は胎児の頃にテストステロンという男性ホルモンを大量に浴びて男性としての脳を形成していくのに対し、女性はエストロゲンという女性ホルモンを分泌して女性的な脳を構築していきます。
このホルモン分泌の有無、働きの大小によって千差万別の脳というものが生まれるのですが、一般的な男女の脳は幼少の頃から違いが生まれるわけです。
これから考えれば、理工系というジャンル自体が女性には基本的に不向きな分野とすら言えるわけですから、その事実を無視して単なる数合わせ的な「男女平等」を実現したところで無意味も良いところなのですけどね。

聖闘士星矢がミュージカル化

聖闘士星矢がミュージカル化されるそうです。
元となる作品は1987年公開映画「聖闘士星矢 邪神エリス」であることも併せて発表され、7月28日~31日に全労済ホール/スペース・ゼロにて上演されるとのことです。

http://www.cinematoday.jp/page/N0032329

聖闘士星矢は、以前にも海王ポセイドン編をベースにSMAPによって舞台化されたことがあります。
SMAPにとっては黒歴史も良いところだったようですが(苦笑)。
ミュージカル版の出来は果たしてどんなものになるのでしょうか?

「邪神エリス」に限らず、聖闘士星矢の映画版は、ファンならば誰もが知る黄金聖闘士12宮の戦いや冥王ハーデス編などに比べると、知名度という点ではかなりマイナーなイメージが否めませんね。
原作とアニメ版はともかく、映画版はほとんど観ていないこともあって「どんな話なのか?」ということすら分からない始末ですし。
私も聖闘士星矢は昔からファンだったクチで、最近まで週刊少年チャンピオンで連載していた「聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話」と、同雑誌で車田正美本人が連載している「聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話」なども、単行本を全部揃えていたりします。
ただ、「聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話」の方は、休載が長すぎるため(一度の休載で3~4ヶ月以上話が止まる)、連載物としては正直どうかと言わざるをえないレベルなのですが。

東京の劇場で公演されるのでは私が観に行くことはまずありませんが、ミュージカル版は是非成功して欲しいものですね。

九州電力玄海原発2・3号機の「再開は問題ない」という見解

定期検査で停止中の九州電力玄海原発2・3号機の運転再開問題で、経済産業省原子力安全保安院は、佐賀県玄海町町議会の原子力対策特別委員会に対し「再開は問題ない」との見解を伝えました。

http://megalodon.jp/2011-0516-1941-18/www.nishinippon.co.jp/nnp/item/242277

カンガンスの単なる政治パフォーマンス以外の何物でもない浜岡原発の停止が全国各地の原発再稼動に多大な悪影響を与えている中、電力不足と電力料金値上げを防ぐためにも、一刻も早い原発再開が待たれるところです。
以前にも述べたことなのですけど、原発の廃止というのは、原発に代わる代替の発電システムの商用実用化を達成して初めて検討すべきものなのであって、一時の感情から原発を止めたところで、電力不足と電気料金値上げに翻弄された挙句、結局原発を再稼動する羽目になるのは最初から目に見えています。
原発に賛成している人達も、それによって電気料金が値上げされ、結果として自分達の生活が困窮しても構わない、などと考える人は極少数派でしょう。
突然ドラスティックな代替エネルギーが商用実用化された、などという夢物語的なことでも起きない限り、当面の間は代替エネルギーの開発に全力を注ぎつつ、地震および津波の対策を強化しながら原発を使っていく以外にはないと思うのですけどね。

その場凌ぎの感情に訴えるだけの人気取りしか能のない民主党などのために、何故国民が不便な生活を強いられなければならないのでしょうか?
カンガンスの浜岡原発全面停止の決定は、決して賞賛されるべきものなどではないのです。

「大阪維新の会」が国歌斉唱で起立を義務づける条例案を提出方針

大阪府の橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」の府議団が、府立学校の入学式や卒業式などで国歌を斉唱する際、教職員に起立を義務づける条例案を、2011年5月の定例府議会に提出する方針を固めたとのことです。

http://megalodon.jp/2011-0514-1856-38/sankei.jp.msn.com/life/news/110514/edc11051411270004-n1.htm

国旗国歌を全否定し続けてきた日教組や朝日新聞等はどのような反応を示すのでしょうか?
そして何よりも、銀英伝でヤンに「起立したくない自由」を行使させ、創竜伝でも国旗国歌の強制を推進する「右翼」の文部官僚達を罵り倒してきた田中芳樹がこのことについてどう考えるのか、何とも興味深いところではあります。
過去にはこんなことをのたまった事例もあるわけですし↓

創竜伝7巻 P78下段
<プロ野球を記事などは苦笑してすませることができるが、文部省も教科書に対して同じようなことをやっている。「日の丸・君が代は法律でさだめられた国旗・国歌ではない」と事実を明記した教科書が、文章の削除を命じられた。言論を統制し、国民を洗脳するやりくちは、ナチス・ドイツも日本国文部省も同じである。一方で積極的な嘘をつきながら、もう一方ではつごうの悪い事実を隠すのである。

創竜伝7巻当時は確かに日本の国旗・国歌について定めた法律は存在しませんでしたが、日の丸・君が代は慣習に基づいて国内でも諸外国でも事実上の国旗・国歌扱いされてきたのですから、国旗・国歌として認めるのはむしろ当然のことなのですけどね。
むしろ、成文法がないからと散々ゴネまくり、ついには自殺者まで出すに至った日教組の方が異常だったわけで。
イギリスの国旗「ユニオンジャック」と国歌である「God Save the Queen」も、成文法ではなく慣習に基づいて国旗・国歌として定義され、かつ世界中の国がそのことを認めているのですが、それで何か問題があるわけではないのですし、田中芳樹もつくづくバカなタワゴトをほざいているものだなぁ、と思わずにはいられませんね。
イギリスをアレだけ礼賛している田中芳樹ともあろうものが、まさかイギリスの国旗・国歌の歴史を知らないはずもないでしょうに(苦笑)。
全く「一方で積極的な嘘をつきながら、もう一方ではつごうの悪い事実を隠すのである」とは、田中芳樹自身に返すべき言葉であると言えますね(爆)。

田中芳樹のサヨク思想と怠惰思想

http://twitter.com/adachi_hiro/status/68804117979594752
田中芳樹さんが左翼思想って時々聞くけど、本人をよく知る身としては、そんなこと言うと左翼の人に怒られるぞ、と心配になってしまう。RT @shachi RT @kanose: 『銀英伝』で政治に目覚めるという中二病あるあるネタがあったけど、今なら佐藤大輔左の田中芳樹、右の佐藤大輔

http://twitter.com/adachi_hiro/status/68805786008162305
<田中さんは、単におちょくる相手は弱いモノより、政府とか国家とか、強いモノにしたほうが面白いだろ、っていうだけだからなあ。>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/68812841091727361
<@kyosuke_mori 作品に作家個人の思想が反映されるのは当然だとは思いますし、作品から読者が何を読み取るかは自由だと思うのですが、エンターテインメント作品なんだから、もっと気楽に楽しんでくれれば良いのになあ、という気もしますねえ。>

作品設定やストーリー的には何の関係もないはずの「南京大虐殺」だの「従軍慰安婦強制連行」だのといった「左なヨタ話」を作中に堂々と書き綴ったりしている時点で「左翼(サヨク)」のレッテルを貼られても文句は言えないのではないですかねぇ(苦笑)。
創竜伝でしばしば展開されている愛国心や国旗国歌の問題なども、日教組辺りが掲げているスローガンそのまんまだったりしますし、創竜伝13巻で掲げていた政策提言の内容も今のサヨクな民主党政権のそれと全く同じシロモノなのですが。
対談本「イギリス病のすすめ」やコラム本「書物の森でつまずいて…」などでも同種の主張が垣間見られますし、田中芳樹が「どちらかと言えば左」な思想の持ち主であることはまず間違いありますまい。
そしてそれ以上に問題なのは、それこそ「エンターテインメント作品」の中に、しかもストーリーの必然性もなく、作中の設定にすらも反する形でそれらの思想が挿入されることです。
アレらの愚劣な社会評論の挿入で、創竜伝や薬師寺シリーズが「エンターテインメント作品」としてどれほどまでのダメージを被ったのか、まさか知らないわけではないでしょうに。
「エンターテインメント作品なんだから、もっと気楽に楽しんでくれれば良いのになあ」というのであれば、「エンターテイメントに徹した作品」をちゃんと書いて欲しいものなのですが。

http://twitter.com/adachi_hiro/status/68854863286640641
<いや。そんな立派なものじゃない。RT @mikaponta: 三年寝太郎思想? RT @adachi_hiro: 怠惰思想だね。RT @Keitakamikita: 無欲思想家だと思う。 RT @adachi_hiro: 田中さんが左翼思想?そんなこと言うと左翼の人に怒られるぞ>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/68855013241393153
誰かが書いてくれるなら、自分が書く必要はないなあ。早く誰か書いてくれないかなあ。って、いつも言ってる。RT @kp_pu239: @adachi_hiro @Keitakamikita 怠惰って思想なのか?

ならば「キング・コング」のリメイク小説を書くに当たって、田中芳樹が一体どう考えていたのか、是非とも知りたいところではありますね。
「キング・コング」のリメイク小説なんて、原作の知識がありさえすれば田中芳樹以外の作家や翻訳家でも書くことは充分に可能でしょう。
実際、集英社から刊行された田中小説版以外にも「キング・コング」のリメイク小説が、2005年12月のリメイク映画公開に合わせる形で複数種類刊行されていますし。

角川文庫版
http://www.amazon.co.jp/dp/4042808026
創元推理文庫版
http://www.amazon.co.jp/dp/4488569013
偕成社版
http://www.amazon.co.jp/dp/4037906503
ハヤカワ文庫NV版
http://www.amazon.co.jp/dp/4150410984

田中芳樹が「キング・コング」の小説版を書くなどと言い出した時、私は相当な違和感を覚えていましたし、読んだ後の感想も「何故こんな駄作を書いたんだよ」と言いたくなったくらいだったのですが。
「キング・コング」のリメイク小説なんて「誰かが書いてくれるなら、自分が書く必要はない」典型的な作品だったのではなかったのですかね、田中センセイ。

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