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名古屋市長河村たかしの「南京事件はなかった」発言

名古屋市長河村たかしが、中国南京市から来日した同市の共産党幹部に対し「南京事件はなかったのではないか」と発言し、「南京での討論会」の開催を呼びかけました。
実現すれば本人も参加する考えとのことですが……↓

http://megalodon.jp/2012-0221-2101-46/www.j-cast.com/2012/02/21122931.html?p=all
>  名古屋市の河村たかし市長が、中国・南京市から訪れた市共産党幹部らに対し、「南京事件はなかったのではないか」と述べた。後の記者会見でも「いわゆる南京虐殺はなかった」として、「真実を正すのは、社会的使命だ」とも語った。
>
>  河村市長はこれまでも、いわゆる南京大虐殺について、市議会で「深い疑問」を呈すなどしていた。今回は、
南京市訪問団へ「南京での討論会」の開催を呼びかけ、実現すれば本人も参加する考えを示した。
>
>
> 「社会的使命、ミッションを深く感じております」
>
>  河村市長は2012年2月20日、姉妹都市である南京市の訪問団と会談した後の会見で、「南京事件」(河村市長)について、「一般的な戦闘行為の結果、大勢の方が亡くなられた」としつつ、「一般市民(へ)のいわゆる虐殺行為はなかった」と述べた。
>
>  「南京事件を勉強してきた」結果だという。「真実を正す」ため、「社会的使命、ミッションを深く感じております」。
>
>  河村市長の父親が「南京事件の8年後の終戦時(1945年)に南京にいた」が、現地の人からとても親切にされたと指摘し、「虐殺があったところでそんなに優しくしてもらえるはずがない」と、自らの「分析」も披露した。
>
>  あくまで「日中友好を実現するため」の発言だそうで、「(中国に対して)すみません、平和、平和じゃいかんのですよ」と思いを語った。
「南京市で南京事件の討論会を開いてほしい」と訪問団に要請したことについては、「私も行きますけど」と、実現と参加に意欲を示した。
>
>  河村市長発言を受け、中国外務省の副報道局長は2月20日の会見で、「そのような見解には賛成できない」「確かな証拠がある」と反発した。

しかしまあ、いくら怒り狂ったところ、実際問題として南京事件についての議論をする気なんて欠片たりともありはしないでしょうねぇ、中国側は。
中国側にしてみれば、「南京大虐殺」なるヨタ話は単なる過去の歴史などではなく、日本に対して譲歩を迫り強気な要求を通すための強力な外交カードなのです。
たとえ当時、一般人と軍人を合わせても最大25万程度しかいなかった南京市で30万もの大虐殺が行われていようと、大虐殺が行われたはずの地に帰還する人達で逆に人口が急増していたとしても、大虐殺を行うための弾丸や大量の死体を焼くための燃料を一体どうやって調達しかつ速やかに処分してのけたのか疑問であっても、中国側としてはそれを「事実」として日本に押し付けることが国益になるのですから。
中国にとって歴史とは、過去の事実を追究・検証するためのものなどではなく、自分達の政治的な正当性を主張するための道具でしかないのです。
同じことは韓国や北朝鮮などにも言えることではあるのですが。
だからいくらでも嘘を並べ立てますし、少しでも都合の悪い事実があればいくらでも歴史を書き換え、さらにはそのことについてツッコミを受けても逆ギレしたり耳を塞いだりして嘘を頑ななまでに信じ続けたりもするわけで。
まあ国家間の駆け引きや騙し合いが当たり前の外交の世界ではむしろそれが普通なのであり、そんな場に一般人の道徳レベルの良識などを持ち出そうとする日本の方が逆に異常ではあるのですが。
政治の世界に道徳なんて持ち出しても良いことなんてないばかりかむしろ相手の思う壺でしかなく、しかも実際に何度も同じことを繰り返して損を重ね続けているというのに、何故日本の外交はいつまで経っても世界標準な外交をやろうとしないのか、つくづく疑問に思えてならないのですけどね。
まあ今の民主党政権の場合は、そんなこと百も承知の上で、確信犯で日本を貶めるためにやっているのでしょうが。

ところで「南京大虐殺」といえば、かつてこんなことを自著に書き殴っていた作家がいるのですが↓

創竜伝9巻 P135上段~下段
<始が続に話しかける口調は怒りに満ちている。
「南京大虐殺などなかった、と主張する日本人の本は何冊もあるが、その中で現地におもむいて被害者である南京市民に取材した本は一冊もない。理由はただひとつ、取材したら自分たちにつごうが悪いからだ」
「南京大虐殺の真相はいまだにわからない、と主張する新聞社や出版社もありますね」
「そういう新聞社や出版社は、
現地に調査団を派遣し、現地の人に取材して真相を明らかにすればいい。現地取材がジャーナリズムの最低条件じゃないか。真相がわからない、が聞いてあきれる。いままで五〇年以上も何をしていたんだ」
自分たちにつごうの悪い真相を隠しつづけてきたんですよ。何しろ被害者に取材せずに、事件はなかった、と強弁しているんですからね。恥を知っていればとうていできないことです」>

言論の自由がない中国では、中国政府の公式見解以外のことを述べると当局から睨まれた挙句逮捕される可能性すらある、という厳然たる事実の存在すらも全然理解できていないとしか思えないこのやり取り。
そもそも、日本側が現地で調査をしたいといっても、当の中国側がそれを拒絶しているから「やりたくてもできない」のが実情なのですし。
で、今回は日本側から「南京事件について議論をしよう」などという発言があったりするわけですが、これが中国側に拒絶されたら、この連中は一体どういう論理を展開するつもりなのでしょうかねぇ(苦笑)。
まあいずれにせよ、今回の件で名古屋市の市長は、次回の薬師寺シリーズか(今後出るならばの話ですが)創竜伝の新刊における悪役候補リストに名前が挙がったのはほぼ確実なのではないかと(笑)。
ただでさえ民主党シンパであろう田中芳樹的には、自らの思想的傾向とほど近い民主党政権を槍玉に挙げるなど思いもよらないでしょうし、良かったですねぇ、格好のネタができて(爆)。

映画「TIME/タイム」感想&疑問

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映画「TIME/タイム」観に行ってきました。
全ての人間の成長が25歳でストップし、時間が通貨として運用されている近未来の世界を舞台にしたアクション・サスペンス作品。

体内時間を通貨として運用することを可能にした「ボディ・クロック」という技術の確立により、人類社会全体が老化現象を克服することに成功した近未来。
「ボディ・クロック」は全ての人間の左腕に設置されており、自分の余命となる体内時間を常に確認することができると共に、それを通貨として他人に支払ったり、分け与えたり、奪ったりすることも可能となっています。
しかし、体内時計を通貨として運用するようになった結果、時間を持つ者と持たざる者とで経済的(?)な格差が増大することになりました。
裕福な者は数百年単位もの時間を所持し、事実上の永遠の若さと不死の状態を維持し続けられるのに対し、貧しい者の余命は平均23時間程度しか保証されず、たった数時間~1日程度の時間を得るために毎日働き続けなければなりません。
そして、時間の所持による格差は一種の身分制度的なものまで生み出し、時間を大量に所持する富裕層は「ニュー・グリニッジ(富裕ゾーン)」と呼ばれる居住区域で、貧しい者は「スラムゾーン」と言われる地区で生活するようになり、両者の間には複数の「タイムゾーン」という境界線が構築されるにまで至りました。
「タイムゾーン」を跨いだ「ニュー・グリニッジ」と「スラムゾーン」間の移動自体は禁じられていないのですが、タイムゾーンのいわゆる「通行税」は片道だけで実に1年以上という高額なものであり、その日暮らしだけで手一杯な「スラムゾーン」の人間が「ニュー・グリニッジ」へと移動するのは事実上不可能となっています。
そして今作の主人公であるウィル・サラスは、母親のレイチェル・サラスと共にその日暮らしの生活を細々と営む「スラムゾーン」の人間でした。

物語は、主人公ウィル・サラスと母親レイチェル・サラスの日常的な朝の風景から始まります。
ウィルとレイチェルは親子関係にあるのですから当然年の差は歴然たるものがあるはずなのですが、この世界の人類は全て25歳で老化が止まることから、レイチェルは実年齢に反して息子ウィルと同年齢かと見紛うかのごとき若々しさを保っています。
彼女は「ボディ・クロック」に刻一刻と刻まれ続けているウィルの体内時間を確認し、息子にランチを取らせるために自分の体内時間から30分をウィルに与えるのでした。
その後、日雇い作業員的な仕事をやっているらしいウィルが、1日の仕事を終えて日給を「通貨となる時間で」貰う場面が出てきます。
ここ最近、ウィルが在住している「スラムゾーン」では、コーヒー1杯の価格が3分から4分に値上がりするなどといった物価の上昇が発生していました。
それに伴い、ウィルが勤めていた会社も、1日当たりの作業ノルマレベルを引き上げてしまいます。
結果、それまでの1日のノルマをきちんとこなしていたにもかかわらず、満足のいかない時間しか貰うことができず不満タラタラなウィル。

それでも仕事の終わりに一杯と、ウィルは友人であるボレルと共に酒場へ立ち寄るのですが、そこで「スラムゾーン」に全く似つかわしくないひとりの男が、周囲の女性を口説いている姿を目撃することになります。
その男の「ボディ・クロック」には、何と116年以上もの時間が刻まれており、彼が「スラムゾーン」の人間でないことは誰の目にも明らかでした。
「スラムゾーン」では、たった数日~1週間程度の時間をめぐって強盗や殺し合いが発生したりすることも珍しくありません。
「ニュー・グリニッジ」からやって来たと思しきその富裕の男の身を案じたウィルは、彼に対して一刻も早く酒場から出て行くよう忠告します。
しかしその忠告の最中、富豪の噂を聞きつけた「スラムゾーン」のギャング一団を束ねるフォーティスが、富裕の男を確保するため、仲間を引き連れて酒場へと乗り込んできたのでした。
ウィルは「関わるな」というボレルの制止も振り切って富裕の男を助けにかかり、ギャング達の油断を突いて彼を逃がそうとします。
そのことに気づいたギャング達の追跡を何とか振り切り、とある廃工場の中に隠れたウィルと富裕の男。
一息ついたところで、富裕の男は自分のことについて話し始めます。
彼はヘンリー・ハミルトンという実年齢106歳の人間で、長寿を得たはずの自分の人生に絶望してしまい、半ば自殺願望的に「スラムゾーン」へやって来たということでした。
そしてウィルに対し、「100年の寿命があったら何をする?」と尋ねてきます。
それに対しウィルは「自分は決して時間を無駄にしない」と返答。
その後2人はそのまま眠ってしまうのですが、その後ウィルよりも一足早く起きたハミルトンは、ウィルに対して何か感じるものがあったのか、自分の「ボディ・クロック」に刻まれていた時間を5分だけ残し、残り全てをウィルに分け与えてしまいます。
しばらくして起きたウィルは、自身の「ボディ・クロック」に突然116年以上もの時間があることに気づいて当然のごとく驚愕。
そして窓には、まるで遺言であるかのように「俺の時間を無駄にするな」という文字が。
ハミルトンが橋に座っているのを発見したウィルはただちにハミルトンの元へと向かうのですが、時既に遅く、ハミルトンはタイムアウトで死に、そのまま橋から川へと落下してしまいます。
あとには、寿命116年以上という時間を手にしたウィルだけが残されたのでした。

思いがけず破格な時間を得たウィルは、その時間を利用して、母親レイチェルを連れて「ニュー・グリニッジ」へと向かうことを決意。
116年以上もの時間があればタイムゾーンを越えることも容易ですし、何よりこのまま「スラムゾーン」にいれば、死んだハミルトンのごとく自身の時間どころか生命まで狙われるのは必至です。
その決意を友人のボレルにのみ告げ、彼に10年の時間を分け与えた後、彼は母親がいつも仕事のために乗降しているバスの停留所で母親を待つことになります。
ところがその母親は、家のローンを支払っていざバスに乗ろうとしたところ、それまで1時間だったバスの乗車料金が2時間に跳ね上がったという事実に直面することになります。
彼女の「ボディ・クロック」に残された時間はわずか1時間30分程度しかなく、しかも仕事場から家までは歩いて2時間以上もかかる距離にあるのです。
全く思いもよらぬ形で突然死の危機に直面する羽目になった母親は、必死になって家へと向かって走り始めます。
そして一方、バス停で母親を待っていたウィルも、母親が乗車しているはずのバスに母親が乗っていないことに気づき、母親の仕事場へと一目散に走り始めます。
そして2人は互いの姿を確認することになり、互いの元へと更に全力で走り寄るのですが、僅か1秒の差で母親はタイムアウトを迎えてしまい、そのまま帰らぬ人となってしまうのでした。
母親の理不尽な死に怒りを覚えずにいられなかったウィルは、母親を殺した時間システムそのものを作った富裕層に復讐すべく、単身で「ニュー・グリニッジ」へと向かうのですが……。

映画「TIME/タイム」は、全人類の不老が常態化し、かつ時間を通貨とする斬新な設定を導入しているのですが、他ならぬ映画の製作者達自身がこの斬新な設定に不慣れなためなのか、作品設定および作中描写の各所でツッコミどころが頻発していますね。
たとえば作中では、コーヒー1杯が3分から4分に、バスの運賃が1時間から2時間に、それぞれ上昇しているという描写があります。
実はこういった作中で明示されている物価から、日本円に換算した作中世界の物価基準というのものが推測可能だったりするんですよね。
コーヒー1杯の値段を基準にして考えると、現代日本のドトールコーヒーやスターバックスで売られている一番安いコーヒーがだいたい200~300円で、マクドナルドのコーヒーになると100円で購入できたりもしますよね。
これから考えると、作中世界における時間1分は、日本円に換算するとだいたい25円~100円の間、といったところになります。
これをバスの運賃に適用すると、料金1時間の場合は1500~6000円、2時間の場合は3000~1万2000円の間となるのです。
コーヒー1杯とバスの運賃でこれほどまでの価格差が発生する、などということが果たしてありえるのでしょうか?
しかも、作中で提示されたバスの運賃はあくまでも「片道」だけのものでしかない上、母親がいつも乗降しているバス停の区間は人間の足で2時間程度の距離であることが明示されていることから、せいぜい8~10km程度しか離れていないことが分かります。
高速バスでもない普通一般のバス利用でこの料金設定って、あまりにもボッタクリ過ぎなのではないかと。
ちなみに、他に作中や公式サイトなどで明らかになっている「スラムゾーン」における料金設定としては、1ヶ月の家賃が36時間(5万4000~21万6000円)、1ヶ月の電気代が8時間(1万2000~4万8000円)、公衆電話の利用料が1分(25~100円)となっています。
作中では「物価が上がり続けている」という設定が幅を利かせていますから、その影響で全体的に費用や物価が割高になっている部分もあるのでしょうが、それを考慮してさえもバスの運賃はあまりにも突出し過ぎています。
第一、こんなにバスの利用料金が高いと、そもそも「バスを利用して移動時間を短縮する」という意味自体がなくなってしまいますし、「時間が通貨の代わりになる」という作品世界のルールを考えれば、それはなおのこと大きな問題とならざるをえないでしょう。
市内の移動レベル程度であれば、バスよりも自転車を使った方が却って時間(兼カネ)もかからない、ということにもなりかねないのですから。
母親を殺すだけのために作り出したバランスを欠いた料金設定、としか評しようがないですね、これは。

また、ハミルトンから116年以上の時間を貰ったウィルは、そのことで時間監視局(タイムキーパー)にハミルトン殺害容疑をかけられ逮捕されてしまいます。
これに対しウィルは、時間監視局員であるレオンに対し「これはハミルトンから貰ったもので、彼は自殺したがっていた」と事実に基づいた釈明をしているのですが、レオンは「そんなことあるわけないだろ」と全く信じることなく、彼から時間を奪い部下に連行するよう命じていました。
これから分かるのは、「ボディ・クロック」のタイムアウトで死んだ人間の「本当の死因」を調べる術が作中の世界では全く確立されていない、という事実です。
つまり、タイムアウトで死んだ人間は、自身の持ち時間がなくなり自然に死んだケースと、他人から時間を奪われ殺されたケースの2種類が考えられるのに、そのどちらであるのかを第三者が正確に判断するための方法がない、ということです。
これは非常に恐ろしいことで、たとえば「スラムゾーン」では、タイムアウトになって路上で死んでいる人間の描写がしばしば映し出されているのですが、作中における「スラムゾーン」の人達のそういった死は全て「自然死」扱いされていました。
しかしひょっとすると、実は彼らは自然に亡くなったのではなく「誰かに時間を奪われて殺されその辺に転がされていた」可能性だってありえるわけです。
作中でも、ギャングがひとりの人間の時間を全て奪って殺してしまった描写が展開されていましたし。
他人の時間を奪って人を殺したとしても、それが殺人事件として扱われることがない。
これでは「時間強盗&殺人やり放題」の世界が現出することにもなりかねません。
凶器を全く使うことなく殺人が可能、というだけでも一般人にとっては脅威そのものなのですし、犯罪捜査も難航を極めるのは必至というものです。
特に「スラムゾーン」なんて【平均余命23時間】が当たり前の世界な上、ギャングが大手を振ってのさばっているところや時間監視局員に対する住民の態度を見ても、一般的な警察機構すら満足に機能していないことが一目瞭然なのですから。
そして一方、116年以上もの時間を所持していたハミルトンは、真相は自殺だったにもかかわらず「殺害された」と一方的に決め付けられ、ウィルは不当逮捕される羽目になったわけです。
治安維持という観点から言えば、「ボディ・クロック」のシステムには【完全犯罪を誰でも可能にしてしまう】という致命的な欠陥があり、またタイムアウト問題に対する調査能力が皆無に等しく勝手な判断で捜査を行っている時間監視局は、役立たずどころか有害な存在ですらあると言っても過言ではありません。
この辺りの問題を改善しないと、いつタイムアウトを利用されて完全犯罪的に殺されるやら知れたものではない「ボディ・クロック」なんて、権力者や富裕層ですらも危なっかしくてとても使用できたものではないと思うのですが。

あと、「スラムゾーン」の人間と似たり寄ったりな水準の時間割り当てを、時間監視局の構成員にまで同じように適用するのは正直どうかと思わずにはいられませんでした。
一応作中では「時間を奪おうとする人間を失望させるため」と説明されていましたが、時間に余裕がない構成員達は、当然のごとく常に時間に追い立てられるような現場捜査や犯人追跡などといった苛酷な仕事を強要されることにもなりかねないのですが。
ただでさえ有害無益な上に「スラムゾーン」の住民から反感を買われている時間監視局の構成員達を、さらに崖っぷちに追いやるような待遇にして一体どうしようというのでしょうか?
いつどこでどんな事件やアクシデントに遭遇するかも分からない彼らには、むしろ常に余分に時間を持たせるようにしておかないと、作中のレオンのように「犯人を追い詰めている最中にタイムアウトで死亡」などという自爆的な結末を迎えてしまうことにもなりかねないでしょうに。
まあ同じことは主人公ウィルにも言えることで、銀行を何度も襲って時間を奪い義賊的に時間を民衆にバラ撒くのは良いとして、何故自分(とヒロインのシルビア)の残り時間にもう少し余裕を持たせないのか、とツッコミを入れずにいられなかったところです。
どんな不測の事態が起こるのか分からないのですし、「自分は1日しか時間を残しておかないんだ」などという変なプライドを固持していないで3日~1週間程度の時間を常に自分達の手元に残しておくだけでも、あれだけ切羽詰まった局面は回避できたというのに。

作品的にはアクションやSF的な描写を売りにしているのでしょうし、純粋にアクション映画として観るのであれば観客的にはそれなりに楽しめるのではないかと。
ただ、公式サイトを見た限りでは「斬新な設定」を売りにし「時間の価値」を観客に問いかけたいなどと語っているらしい映画制作者達としては、上記のような設定問題についてどう考えているのかなぁ、と。

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」感想

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映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」観に行ってきました。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で亡くなった父親が残した鍵の謎を追い、ニューヨーク中を駆け巡る息子オスカーと彼に関わる人々を描いた感動の物語。
原作は、2005年にアメリカ人作家ジョナサン・サフラン・フォアが出した小説「Extremely Loud and Incredibly Close(この日本語訳が今作のタイトル)」とのこと。

2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件。
物語は、同事件のワールド・トレード・センター(WTC)への飛行機特攻テロに巻き込まれ犠牲となった、今作の主人公オスカー・シェルの父親で宝石商だったトーマス・シェルの葬儀の場面から始まります。
WTCの倒壊により遺体の回収すらもできなかったトーマスの葬儀は、当然のことながら空の棺で行われることになったのですが、父親を尊敬し親子関係として以上に慕っていたオスカーは、そのような葬儀を行った母親リンダ・シェルに対し「そんなことをして何の意味があるんだ!」と怒りをぶつけまくります。
トーマスはオスカーの繊細で人見知りな性格を是正させることをひとつの目的に、「調査探検」と呼ばれるゲームを行わせていました。
それは、ニューヨークにかつて存在したという第6区がどこにあるのか探すというもの。
オスカーがこのゲームを遂行するためには、街の見知らぬ人達に聞き込みなどを行わなければならず、父親はそれで人見知りの性格が是正できると考えたわけです。
しかし、その「調査探検」の最中、父親は仕事の取引でたまたま居合わせていたWTCで同時多発テロ事件に巻き込まれ、帰らぬ人となってしまいます。
事件から月日が経ってもなお、父親の死を素直に受け入れられないオスカーは、ある日、テロ事件以来入ることが出来なかった父親の部屋へ入り、父親との思い出の品がないか探し始めます。
そしてクローゼットを調べていた際、クローゼットの上に置かれていた青い花瓶を落として割ってしまいます。
ところが、粉々に割れてしまった青い花瓶の中から古い封筒が出てきたのです。
封筒の中にはひとつの鍵が入っており、これは「調査探検」における父親からの何かのメッセージなのではないかとオスカーは考えます。
鍵屋で件の鍵について調べてもらったところ、鍵は貸金庫などで使われていた、20~30年近くも前のものであることが判明。
鍵の調査結果を知り、店から去ろうとするオスカーでしたが、店主はオスカーを呼び止め、封筒の左上に「black」の5文字があることを指摘します。
改めて店主に礼を述べ、今度こそ自宅へと帰ったオスカーは、「black」が人名であろうと考え、ニューヨーク市中のブラック姓の人をしらみ潰しに探し出すことを決意します。
ニューヨーク市内でブラック姓を持つ人は、総計実に472人。
オスカーはその全員と会い、父親と鍵のことについて尋ね回る計画を考え、実行に移すこととなるのですが……。

アメリカの同時多発テロ事件を扱った映画作品としては、2004年公開映画「華氏911」、2006年公開映画「ユナイテッド93」「ワールド・トレード・センター」などが挙げられます。
「華氏911」は事件における当時のブッシュ政権に対する批判的な内容で、「ユナイテッド93」はハイジャックされたユナイテッド航空93便を、「ワールド・トレード・センター」はWTCの現場における救助隊の視点で、それぞれ構成されている作品です。
この中で私が観賞した映画は「ワールド・トレード・センター」ですね。
物語序盤でWTC崩落に巻き込まれ、瓦礫の中に閉じ込められた主人公含めた救助隊員達が、一部は生命を落としつつも、終盤に助けられるまで互いに励ましあいながら苦難を乗り切るという話でしたが、ドラマ性よりもむしろそのあまりにも地味な構成で逆に印象に残った作品でした。
そして、同じ事件を扱った作品としてこれらの映画と肩を並べることになる今作「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は、テロ事件で犠牲となった被害者の家族にスポットを当てているわけです。
過去の3作品が全て実話を元に製作されたノンフィクションであるのに対し、今作は実在の事件をベースにしつつも、物語そのものはあくまでもフィクション上のエピソードで構成されています。
実話を元にしているが故に実話に束縛されざるをえなかった過去作ではなかなか取り入れられなかった「フィクションならではの人間ドラマ性」を積極的に活用しているという点では、今作がダントツのトップではあるでしょうね。

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」では、実の親として以上の尊敬の念を父親トーマスに対して抱いていた息子オスカーが、父親の残滓を追い、記憶に残すために奔走する様が描かれています。
オスカーがそのような方向へと突き進む理由としては、父親が自分に残してくれた謎なりメッセージなりを見たいという好奇心も当然あったでしょうが、それ以上に「好きだった父親のことを忘れてしまうことに対する恐怖心」があることが、オスカー自身のモノローグで語られています。
しかし物語が進んでくると、オスカー曰く「最悪の日」こと同時多発テロ勃発の日におけるオスカー自身の行動が「父親に対する原罪的な負い目」になっており、それが彼を「調査探検」にのめりこませていることが分かってきます。
あの日、オスカーの自宅には、WTCの106階にいたらしい父親から総計6回の電話がかかっており、自宅には誰もおらず5回までは自動的に留守電となってしまいます。
しかし最後の午前10時27分着信となる6回目は、テロ事件の影響で授業が全て中止となり学校から早退させられ帰宅していたオスカーが電話を取ることが充分に可能だったにもかかわらず、彼は恐怖心のためか、その電話を取ることができませんでした。
結果、父親は再び留守電に切り替わった電話に最後のメッセージを入れ、その直後にWTCが崩壊してしまったんですね。
つまり、オスカーは父親の最期の瞬間に電話越しで立ち会っていながら、父親と最期の会話を交わすチャンスを自分から永遠に捨て去ってしまったわけです。
これがただでさえ繊細な上に父親のことを誰よりも慕っていたであろう少年にとって、相当なまでの精神的ショックとなったであろうことは想像に難くありません。
オスカーが「調査探検」に必死になっていたのは、父親に対する彼なりの贖罪意識と後悔も多大にあったのではないかと。

そして一方、空の棺で父親の葬儀を行った母親リンダに対しては少なからぬ反感と隔意を抱いており、特に物語序盤では母親に当り散らしたり、母親を邪険にする態度がとにかく前面に出ていたりします。
リンダも母親として息子のことを案じてはいるのですが、オスカーはそのような母親の言動に不快感を覚え衝突するばかりで、挙句の果てには本人の目の前で「ママがあのビルの中にいれば良かったのに!」とまで言い放つ始末。
この辺りの描写は、息子がそう言いたくなった心情および言った後に後悔する心理も、そう言われた母親のショックも、どちらも目に見えて分かるようになっているだけに、どうにもやるせないものがありましたね。
しかも「間借り人」と呼ばれる謎の老人が登場して以降になると、ただでさえ無気力感に満ちている母親はますます影が薄い存在となってしまいますし。
しかし、序盤から中盤におけるこの手の母子のギスギスしたやり取りや演出は、実はラストに向けての大いなる伏線でもあったりします。
このラストにおける一種の大どんでん返しは、ただそれだけでこの作品を傑作たらしめると言っても過言ではないくらいの威力を誇っています。
現実にも充分に起こりえることで、それでいて間違いなく子供が親の愛情を感じ取ることが出来るエピソード。
これこそが、この作品が観客に声を大にして訴えたかったことなのであろう、とすらついつい考えてしまったものでした。

今作はテーマがテーマということもあり、アクション映画のような派手さや爽快感などは皆無ですが、人間ドラマとしては充分に見応えのある作品です。
主要登場人物全てに何らかの感情移入をすることが可能な構成にもなっていますし、特にラストの演出は多くの人が感動するであろう秀逸な出来に仕上がっています。
老若男女を問わず、多くの人に是非観てもらいたい映画ですね。

HTML文法的に正しいSNSボタンの設置方法 その1

2012年2月より、タナウツではSNSボタンとはてなブックマークボタンが導入されています。
2月5日のサイト更新に続いて、ブログでも先週末からサイトと同様にボタンを設置しています。
今回は、これらSNSボタンを設置する際の問題と対策について少し。

Facebookのいいね!ボタンやTwitterのツイートボタンなどに代表されるSNSボタン。
mixiやGREEなどでも、ページ情報についての記録やコメントが行えるボタンがユーザーに提供されており、これらのボタンは、大手のポータルサイトなどはもちろんのこと、個人のブログでも昨今ではよく見かけるようになりました。
この手のボタンは公式サイトで公開されているHTMLタグを貼り付けるだけで手軽に利用できますし、何よりもSNSを利用するネットユーザーが飛躍的に増えている昨今、情報拡散という観点から言っても大きな利点となります。
また最近では、ブログを設置する段階からSNSボタンの設置サービスを標準で用意してくれるところも多くなっており、HTMLについての専門的な知識が特になくても、SNSボタンがさらに手軽に設置できるようにもなってきました。
SNSの隆盛を考えれば、SNSボタンの使用用途もまた、当面の間は拡大を続けていくことになるでしょう。

ところが、実はSNSボタンを設置する際には少なからぬ問題が伴います。
公式サイトなどで公開されている設置タグは、正式なHTML文法に乗っ取って作られたものではなく、かなり特殊なタグが付加されているのです。
たとえば、Twitterの公式サイトで提供されているツイートボタンの場合、以下のようなタグで構成されています↓

<a href="http://twitter.com/share" class="twitter-share-button" data-url=" (ページのURL) " data-text="(ページのタイトル名やコメントなど)" data-count="horizontal">ツイートする</a>
<script>!function(d,s,id){var js,fjs=d.getElementsByTagName(s)[0];if(!d.getElementById(id)){js=d.createElement(s);js.id=id;js.src="//platform.twitter.com/widgets.js";fjs.parentNode.insertBefore(js,fjs);}}(document,"script","twitter-wjs");</script>

赤文字で表示している部分は、全てツイートボタンオリジナルの非正規タグです。
これを「Another HTML-lint」でチェックをかけると、以下のような高レベルのエラーメッセージが出力されてしまいます↓

6: <a> に不明な属性 `data-url` が指定されています。
6: <a> に不明な属性 `data-text` が指定されています。
6: <a> に不明な属性 `data-count` が指定されています。

左の数値がエラーのレベルなのですが、だいたい6以上のレベルのエラーが発生したら、もうその時点で100点どころか80点レベルすらも諦めざるをえなくなってきます。
他のSNSボタンも状況は似たり寄ったりで、エラーレベルが最低でも6以上、場合によっては8~9などの高レベルに到達する(ちなみに「Another HTML-lint」におけるエラーレベルの最高値は9)ことも珍しくありません。
このように、公式サイトで公開されているSNSボタンのタグをそのまま使えば、HTMLチェックでたちまちのうちに大減点になってしまうことが確実なのです。
この大減点がイヤという理由から、あえて自分のサイトやブログにSNSボタンを設置しないという人もいるくらいで、かくいう私自身、最初はHTML文法チェックの減点を避けるためにSNSボタンを敬遠していたものでした。
しかし、それでもSNSボタンの設置による利点は捨てがたいし、HTML文法チェックの大減点を回避する形で上手く設置できる良い方法は何かないものなのか?
これが、タナウツサイト本家の全面リニューアルの際、私が最も苦労した部分のひとつでもありました。

タナウツで新規に設置しているSNSボタンは、Facebookいいね!ボタン、Twitterツイートボタン、mixiチェックボタン、GREEいいね!ボタンの総計4つ。
このうち、Twitterツイートボタンとmixiチェックボタンについては、タグに若干手を加えることでHTML文法チェックの減点回避が達成できました。
Twitterのツイートボタンについてはこんな感じ↓

<a href="http://twitter.com/share?button=(ボタンの種類【none、button-1、button-2】)&count=(カウンタ数の表示方法【none:非表示、horizontal:水平方向にカウント数を表示、vertical:垂直方向にカウント数を表示】)&url=(エンコードされたURL)&text=(エンコードされたページタイトル名ORコメント)&via=(Twitterアカウント名)&lang=(言語を指定【日本語の場合は「ja」】)" class="twitter-share-button" title="このページについてツイートする" rel="nofollow">つぶやく</a>
<script type="text/javascript" src="http://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
※「script」タグはページ最下部に1つだけ設置。

最初のタグと大きく異なる点は、最初のタグが一度Twitterへ移動した後、タグ内にあるURLやタイトル名などの情報を収集し、それらの情報を含んだURLを自動生成してそこへユーザーを飛ばしているのに対し、後者のタグは「始めから生成済みのURL」を指定しているところ。
結果的にはどちらも同じページに辿り着くのですが、後者のタグはHTML文法に全く違反していないため、1点の減点すらもくらうことがありません。
この手法の問題点としては、始めからURLの中に情報を含ませなければならないため、URLやコメントを指定する際にUTF-8文字コード形式のURLエンコード変換を行わなければならないことが挙げられます。
たとえばタナウツネット雑記ブログのURLを指定する際には、以下のようなURLエンコード変換を行う必要があり↓

https://www.tanautsu.net/blog/

http%3A%2F%2Fwww.tanautsu.net%2Fblog%2F

またタイトル名やコメントなどを指定する際も同様に、

タナウツネット雑記ブログ | 田中芳樹を撃つ!

%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%83%84%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E9%9B%91%E8%A8%98%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%20%EF%BD%9C%20%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8A%B3%E6%A8%B9%E3%82%92%E6%92%83%E3%81%A4%EF%BC%81

といった変換を行わなければなりません。
こんな変換を手作業でいちいち行おうものなら、普通だったら時間がいくらあっても足りたものではありません。
しかしタナウツの場合、ブログはCGIで、サイトはMicrosoft Accessで管理していることによる利点がここで生きてくるんですよね。
ページを生成するプログラムの中に、上記のようなURLエンコード変換処理を行うためのロジックを予め入れておけば、後はプログラムが勝手に変換処理をやってくれるわけです。
一度そういったプログラムを組み込んでしまえば、あとは作成するページが何千ページあろうと、全て同じ処理を自動でやってくれるのですから楽なものです。
ちなみにmixiチェックボタンについては以下の通り↓

<a href="http://mixi.jp/share.pl?u=(エンコードされたURL)&k=(mixi識別キー)" rel="nofollow" onclick="window.open(this.href,'share',['width=632','height=456','location=no','resizable=yes','toolbar=no','menubar=no','scrollbars=no','status=no'].join(',')); return false;" onkeypress="window.open(this.href,'share',['width=632','height=456','location=no','resizable=yes','toolbar=no','menubar=no','scrollbars=no','status=no'].join(',')); return false;"><img src="(画像ファイル指定)" alt="mixiチェック" width="70" height="20"></a>

mixiチェックボタンは、mixiサイトで予め個人パートナー登録を行い、識別キーを入手しなければ使えないのですが、それ以外は一番手間もかからず簡単に設置できるボタンでしたね。
URLの指定方法についてはツイートボタンの時と同じです。

というわけで、SNSボタンのうち、Twitterのツイートボタンとmixiチェックボタンについては、リンクタグを改造するという方法でHTML文法チェックの減点回避が可能になりました。
しかし、残りのSNSボタン、Facebookいいね!ボタンとGREEいいね!ボタンについては、小手先のタグ改造程度のことではHTML文法チェックの減点を回避することができません。
この2つのボタンには一体どのような問題があり、かつどんな手法で対策を施したのか?
それについては、また後日に語ってみたいと思います。

※記事内で紹介しているHTMLタグ内における「<」「>」「&」は、全て半角から全角に変換しています。

「らいとすたっふ」が銀英伝の電子書籍化を公式発表

「あの」銀英伝が、2012年3月1日より電子書籍として販売されることが「らいとすたっふ」公式サイドより発表されました。
電子書籍の名称は「らいとすたっふ文庫」、対応機種はiPhone/iPad、Andoroid搭載の携帯端末になるとのことだそうですが…↓

http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2012/02/post-f5a4.html
>  私の会社でマネージメントをしております作家、田中さんの著作につきましては、以前より、読者の皆さまから電子書籍化の要望が数多く寄せられていました。
>  しかし、
田中さん本人が根っからのアナログ人間で、電子書籍について否定的な考えをもっていたことから、その実現は難しいとお答えしていました。
>  それに、電子書籍を取り巻く環境は、まだまだ変化が大きく、私の会社のような零細企業としては、参入には慎重にならざるを得ませんでした。
>
>  とはいえ、電子書籍には紙の本にはない多くのメリットが存在しますし、このまま紙媒体のみの流通というのも読者の皆さまの選択肢を狭めてしまうことになります。
>  この点を繰り返し、
田中さんに説明した結果、このたびついに田中作品の電子書籍版の出版が実現することとなりました。
>
>  ただ、その際の条件として「電子書籍を商売にしている会社に丸投げするのではなく、できる限り、君たちがやりなさい」と指示がありました。そのため、既存の電子書籍問屋さんとの提携ではなく、私の会社が出版元となって電子書籍の販売を行うことになりました。

正直、私は「らいとすたっふ」が田中作品の電子書籍化を推進するとは思ってもいませんでしたね。
何しろ社長氏は、2004年と2010年に、自身のブログで電子書籍に対する懸念と問題点の指摘を行っていたのですから↓

2004年
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2004/05/post_4.html
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2004/05/post_11.html

2010年
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2010/02/post-717b.html
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2010/05/post-813e.html
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2010/05/post-330d.html

どちらかと言えば「技術的な問題などに対する懸念表明」的なものではあったのですが、これらの記事を読んでも、社長氏自身も電子書籍導入に消極的であったことが伺えます。
それに加えて、社長氏自身も述べているように、他ならぬ田中芳樹自身がネットすらマトモにやらないレベルのアナログ人間で、かつ電子書籍導入に否定的であるという事情もありましたし。
さらには「らいとすたっふ」側が電子書籍を導入する動きをこれまで欠片も見せていなかったこともあり、田中作品の電子書籍導入は当面難しいものがあるだろう、というのが私の考えでもありました。
それだけに、今回の「らいとすたっふ」の公式発表は私も寝耳に水でした。
ブログ記事の内容を読む限りでは、今回の電子書籍導入は社長氏の方が熱心に推進していて、あまり乗り気でない田中芳樹を何度も説得して実現にこぎつけたみたいですね。
アレだけ電子書籍に懸念を表明していたはずの社長氏が、一体いつの間に自身の主張を180度変えたというというのでしょうか?
社長氏が懸念を表明していた問題点の数々も、ある程度の改善はされつつも、未だ完全な解決にまでは至っていないというのが実情だというのに。
まあ昨今の出版業界も、長く続いている不況で台所事情が苦しくなっているという話は私もよく聞きますし、稼ぎ頭であるはずの田中芳樹もさらに遅筆に磨きがかかる惨状を呈していますから、その煽りを受けて転向せざるをえなくなったのかもしれませんが。

今回の電子書籍化でまず真っ先に浮上しそうな問題点としては、その料金設定にあるでしょうね。
銀英伝の電子書籍は、以下のような料金設定で販売されるとのことですが↓

> ■予定価格帯
>
100円〜600円。
> 『銀河英雄伝説① 黎明篇』は、
450円でのリリースを予定しております。
>
> ※当社の電子書籍は、カバー絵や挿画のないシンプルなものになります。

これに対し、現在銀英伝の最新版を刊行している創元SF文庫の一般的な販売価格は、巻毎でややバラつきがありますが、だいたい770円~840円といったところです。
これを考えると、「らいとすたっふ」側の電子書籍の販売価格は、明らかに創元SF文庫、ひいては東京創元社の利害に直結するものにもなりかねないのではないかと。
価格だけを見れば、どう考えても「らいとすたっふ」の電子書籍版の方に軍配が上がってしまうのですからね。
東京創元社側にしてみれば、せっかく自分のところで扱っている貴重な金ヅルを奪われる、と解釈しても不思議ではなく、最悪、「らいとすたっふ」に対して何らかの報復措置(著書の宣伝を一切行わない、今後一切田中作品および「らいとすたっふ」所属の作品を扱わないようにするなど)に打って出てくる可能性すらありえます。
また東京創元社だけでなく、田中作品を多く扱っている講談社や光文社などでも「自分のところでも同じことをやられたら…」と危機感と警戒心を持つことになるかもしれません。
これまで色々と世話にもなっているわけですし、それら既存の出版社とは何らかの利害調整をしておかないと、正直マズイことにもなりかねないのではないかと思えてならないのですが……。

日本で電子書籍がなかなか広まらない理由のひとつに、既存の出版社および印刷会社による既得権益死守がある、というのはよく聞く話です。
電子書籍は紙媒体に比べて利益率が低く儲けが少ない上、印刷会社などは仕事を取られてしまうことにもなりかねません。
だから大手出版社などでは、電子書籍を全く作らないか、作っても料金設定を意図的に高くしたり、購入手続きをわざと煩雑にしたりするなどして、既得権益を侵害しない範囲内で電子書籍を普及させようとするわけですね。
正直、良い傾向であるとはとても言えたものではないのですが、彼らも自分達の生活がかかっているのですから必死にならざるをえないわけで。
その意味では、「らいとすたっふ」の今回の価格設定の試みは、やり方によってはそういった電子書籍のあり方に一石を投じるひとつの社会実験にもなりえるかもしれません。
今後一体どうなるのか、予測がつかないところではあります。

しかしまあ、大手出版社の電子書籍に対する態度にも問題があるにしても、だからといって「らいとすたっふ」サイドのやり方が褒められたものであるとは到底言えたものではないのですけどね。
銀英伝の再販ってこれで通算何回目なのでしょうか?
私が知っているだけでも、最初の徳間ノベルズから徳間文庫、徳間デュアル文庫、創元SF文庫へと移転してさらに今回の電子書籍化ときているのですけど。
特に、徳間デュアル文庫で銀英伝が再販、それも各巻を2~3冊に分割して刊行するなどというアゴキな手法が取られた際には、「ファイナルバージョン」などと銘打たれてまでいたはずでしたよねぇ(苦笑)。
今でも「アレは一体何だったのか?」と思えてならないのですが(爆)。
田中芳樹と「らいとすたっふ」のこれまでの所業を鑑みると、今回の電子書籍化もまた、一連の再販戦略の延長線上で行われているようにしか見えないところがまた何とも言えないところでして(-_-;;)。
もちろん、「らいとすたっふ」はあくまでも営利企業であり、慈善事業で作家のマネージメントをやっているわけではないのですから、「企業として金儲けのことを考えて何が悪い!」とは当然主張するでしょうし、違法行為に手を染めているのでもなければ、それが悪いことだとは私も思いません。
しかし田中芳樹は、かつて己の著書でこんなことを述べていたはずなのですけどねぇ↓

イギリス病のすすめ・文庫版 P215~P216
<土屋:
 それともう一つ、日本はイギリス病を輸入しないといけないね、イギリス病にかからないといけないんじゃないか、それは
やっぱり「美しく老いる」ことなんだよね。その渦中にあったイギリスは、美しいなんて思ってられなかったと思うけどね。覚悟はあったとしてもいきなりのイギリス病だったし。……でも、今になってみると、やっぱりああいうふうに停滞をするということ、停滞をしなくちゃいけないということ……要するに、「進歩し続けることが唯一の道」みたいな考え方を、どこかで転換させなきゃいけないんじゃないか。かといって退化しろというわけじゃないけどさ。(笑)もともとそれは無理だしね。退化するわきゃないし、退化できるわけがないけど。
田中:
 永遠に全力疾走できるわけはないのに、そう思って走ってきて、一度でも転ぶともうレースに参加できない、という感じでずっとやってきたから
……やっぱりこれは「イギリス病のすすめ」ってのがいいかもしれない。少なくとも歩くとか休むとかっていう選択ができるようにしておきたいですね。
土屋:
 だからね、
貧乏になろうよ、国を挙げて貧乏になりましょうよ、って。おれは貧乏だけどね。(笑)
田中:
 
日本全体がもともと貧乏だったんだし。(笑)ちょっときれいごとすぎるけど、「清貧」って言葉もあるくらいだから。日本人自身も、そのほうが気楽かもしれない。
土屋:
 金持ちだから世界中で悪いことやるわけで、「貧乏になりゃあいいじゃないか」ってね。>

他人様に対しては「美しく老いよう」「貧乏になりましょうよ」などというタワゴトに全面同意して一緒にお説教までしておきながら、自身は金儲けに邁進するって、それはいくら何でも自分勝手が過ぎるのではないかと。
「らいとすたっふ」のなりふり構わぬ金儲け至上主義的な企業戦略を見て、「美しく老いよう」「貧乏になりましょうよ」とはほんの少しでも思ったことがないのでしょうかねぇ、田中芳樹は(爆)。
「らいとすたっふ」は銀英伝のみならず、他の田中作品についても「電子書籍化」という名の下に金儲けの道具としてとことんまで使い倒すつもりのようですし、田中芳樹の価値観的には今の「らいとすたっふ」にこそ「イギリス病のすすめ」が必要なのではないのかなぁ、と(笑)。

Twitterにおける大量フォロワー獲得のテクニック

2012年2月15日付で、田中芳樹を撃つ!Twitter商館の総フォロワー数は10万人の大台を突破しました。
タナウツのアカウントにフォローを返して頂いた10万人の皆様方には、この場を借りて改めて感謝と御礼を申し上げますm(__)m。

さて、今回はフォロワー数10万人に到達するために私が確立したフォロワー獲得方法について少し。

Twitterでフォロワー数を増やしていく過程で、少なからぬフォロワーの人達から「一体どうしたらそこまでフォロワー数を増やせるの?」というツイートがしばしば私の元に寄せられました。
私はそのひとりひとりに全て同じ返答を返してきました。
それは「とにかく自分から他のアカウントへのフォローを【毎日大量に】行う」ということ。
数百単位のアカウントに対してフォローを自分から行い、その見返りとしてフォローを返してもらう。
それをとにかく毎日繰り返すわけです。
非常に単純かつ地味な方法ではありますが、実はこれが一番「少しずつではあっても確実に」フォロワーを増やせる最良の方法なのです。
かくいう私自身、2010年4月2日のアカウント開設以来、毎日地道にこの手法を繰り返し続けてきた結果、フォロワー10万人突破の日を迎えることになったわけです。
まさに「継続は力なり」ですね。

ただし、大量フォローについては若干の注意も必要になります。
まず、1日に1000以上のフォローはTwitterのシステム上不可能となっています。
これは、過去に数千~数万単位ものフォローを、しかも自動的に行うシステムツールなどが多用され、それが結果的にサーバに多大な過負荷を与えてTwitterそのものの動作が不安定になったことへの対策として行われるようになったもので、その名残として、今でもTwitterは自動フォローツールなどの使用を著しく嫌っています。
そのため、Twitterで大量フォローを行う場合は、手作業かつ毎日地道にコツコツとフォローを続けていくしかないわけです。
また同様の対策により、Twitterにおける最大フォロー可能回数は、フォロワー数2000までは2001回まで、それ以上はフォロワー数×1.1倍までしか許されていません。
つまり、あまりフォロワー数のいないアカウントで大量フォローを続けていくと、あっという間にフォロー回数上限にまで到達してしまい、それ以上フォローをやりたくてもできなくなってしまう、という問題が発生するわけです。
そのため、フォロワーの少ないアカウントで大量フォローをかけていく際には、同時並行して「自分をフォローしていないアカウント」の片道フォローを解除していくという作業も定期的に必要となります。

大量フォロー後に「自分をフォローしていないアカウント」のフォローを解除する際には、私は以下のサイトを多用しています。

ManageFlitter
http://manageflitter.com/
JustUnfollow
http://www.justunfollow.com/login.html

ここで重要なのは、「自分をフォローしていないアカウント」のフォローを解除する際には、必ず「フォローしてからある程度の時間が経過しているアカウント」から解除していくこと。
ある程度時間が経過してなお自分をフォローしていないアカウントは、もう自分をフォローしてくれる見込みのないアカウントと見做しても良いわけですが、フォローして間もないアカウントは、当然のことながらまだ自分をフォローしてくれる可能性を残しています。
また、何らかの理由で一定期間自分のアカウントにアクセスしない人だっているでしょう。
フォローアカウントが自分にフォローを返してくれる可能性を少しでも高めるためにも、フォロー解除は古いものから順番に行うのが理想なわけです。
上記の「JustUnfollow」では「(フォローを行った)古いアカウントが一覧の上部に表示される」仕様なので、この用途には向いています。
私はドラッグ&ドロップでフォローの一括解除が手軽に行える「ManageFlitter」の方をメインに使っているのですが、初心者の方には「ManageFlitter」よりも「JustUnfollow」の方が使いやすいと思います。

では大量フォローを行うとして、そのターゲットとなる大量のTwitterアカウントを一体どうやって探し出すのか?
一番簡単なのは、既に数万単位のフォロワーを持っているアカウントを複数探し出し、そのアカウントのフォロワーを片っ端からフォローしていくこと。
TVにも登場するような有名人だと、数万どころか数十万単位でフォロワーを抱えている人もいますから、まずはその辺りから探すのが良いでしょう。
ただ、ここで問題なのは、「いくら大量のフォロワーを持っていても【常にフォロワーを増やし続けているアカウント】でなければ意味がない」という点です。
Twitterの構造上、各アカウントのフォロワー一覧は、常に「一番最後にそのアカウントをフォローしたアカウント」から順番に表示するようになっています。
大量フォローをする場合は当然のことながら画面最上部に表示されているアカウントから順番にフォローしていくことになるわけですが、フォロワー数を増やしていないアカウントの場合、次回に大量フォローをかけようとすると、フォロー対象のアカウントを探すためにわざわざ古い履歴を遡らなければならなくなってしまいます。
それを毎日やるとなると大変な負担になってしまいますし、そもそもそんな古い履歴の中に存在するアカウントは、必ずしも現在も活動しているとは限りません。
現在も活動しているかどうかを確認する【だけ】のためにいちいちプロフィールページにアクセスして情報を確認するなど面倒極まりないですし、活動を停止しているアカウントにフォローを行ったところで無駄もいいところでしょう。
それに対し、定期的にフォロワーを増やし続けているアカウントの場合、フォロワー一覧は常に最新の状態に更新され、以前に自分がフォローを行ったアカウントが常に一覧下部へと下がって行きます。
つまり、古い履歴を漁る手間と時間をわざわざ費やすことなく、常に画面上部のアカウントからフォローを行うことができるわけです。
また、フォロワー一覧の最新アカウントは、一覧に掲載されている時点「ごくごく最近にそのアカウントにフォローを行っている」という活動履歴が明示されていることになるため、現在も一定の活動を行っていることがかなりの確率で保証されています。
それらのアカウントにフォローを行っていけば、フォローが返ってくる確率も必然的に高くなる、というわけです。

毎日大量フォローを行っていくのであれば、「大量のフォロワーを抱え、かつ常にフォロワーを増やし続けているアカウント」を10~20ほど確保してリスト化し、ローテーションで回していく、という形を取れば良いでしょう。
1回目はアカウントAのフォロワーにフォローを行い、2回目はアカウントBのフォロワーに、3回目はアカウントCの……というパターンを繰り返すのです。
そうすれば、順番が一巡する頃には、最初のアカウントAのフォロワー一覧には再び新しいフォロワーアカウントが軒を連ねている状態に戻り、また大量フォローを行うことが可能となるわけです。
わざわざ自分から大量アカウントを探す必要もないのですから、これが一番楽な方法ではあるでしょうね。

まあ上記のような方法を駆使しても、私が今回達成したフォロワー10万人の到達ともなると、さすがに相当な根気も時間も必要になります。
ただ、フォロワー5000人くらいであれば、やり方次第では1ヶ月も経たないうちに達成することも充分に可能なのではないかと。
かくいう私自身、過去には1ヶ月でフォロワー7000人以上増やした事例もありましたし、今でも1ヶ月に3000~4000人程度のペースは保っていたりします。
Twitterで不特定多数のフォロワーが欲しいと考える方は、ひとつ上記のやり方でフォロワーを増やしてみてはいかがでしょうか。

映画「ドラゴン・タトゥーの女」感想

ファイル 534-1.jpg

映画「ドラゴン・タトゥーの女」観に行ってきました。
スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによるベストセラー小説「ミレニアム」三部作のうち、同名タイトルの第一部を実写映画化したハリウッド版リメイク作品。
この映画、SM強姦やレイプにフェラチオ、アナルセックスなど、15禁どころか18禁指定すらされてもおかしくないレベルのセックス描写がしばしば登場する上、ネコの惨殺体などというグロ映像まで飛び出してくる念の入れようで、当然のことながらR-15に指定されています。
すくなくとも一般向けに公開されているはずの映画で、間接的に性行為を匂わせる濡れ場シーンならともかく、モザイクまでかけられるレベルの露骨なセックス描写なんて、私は今までお目にかかったことがなかったのですけどね。
もちろん、それらは作中のストーリーを構成する重要なパーツではあるのでしょうが、それにしても大胆な描写をしているなぁ、と(^_^;;)。
ちなみに私は、原作は全て未読で、またスウェーデンで先に実写化されたという映画も未視聴の状態で今作に臨んでいます (^^;;)。

物語は、謎の老人の元に、年1回必ず送られてくるという謎の郵送物?に対し、呪詛に満ちた呟きをこぼすところから始まります。
そこから物語は一旦中断し、今時の映画では珍しいオープニングテーマに入るのですが、予告編でも流れていたものでありながら、改めて聴いてもこの音楽はなかなか良いものでしたね。
オープニングテーマが終了した後、物語のスポットは、今作の主人公のひとりであるミカエル・ブルムクヴィストに当てられます。
彼は、月刊誌「ミレニアム」の敏腕ジャーナリスト兼発行責任者兼共同経営者で、スウェーデンの大物実業家のハンス=エリック・ヴェンネルストレムの不正を暴露する記事を書いたものの、そのことで逆に名誉毀損で訴えられた挙句、裁判で有罪判決を受けてしまい、それまでの貯蓄全てを失うレベルの賠償金の支払いまで課せられるという事態に陥っていました。
彼の敗訴と、不正を書かれたヴェンネルストレムによる報復的な圧力によって、月刊誌「
ミレニアム」は大きな危機に直面していました。
敗訴のショックもあり、また「ミレニアム」に負担をかけないようにする配慮も手伝って、雑誌の編集長であるエリカ・ベルジェに一線を引くことを告げるミカエル。
ここで2人は妙に親しげかつ肉体的な接触も含めたスキンシップ行為を行い、この2人がただならぬ関係にあることが観客に明示されます。
そんな彼の元に、冒頭に登場した老人、大財閥ヴァンゲル・グループの前会長ヘンリック・ヴァンゲルと、ヘンリックの顧問弁護士であるディルク・フルーデから、スウェーデンのヘーデスタまで来て欲しいとの連絡を受けます。
不審に思いながらもヘーデスタへとやって来たミカエルは、そこで表向きはヘンリックの評伝を書くという名分で、40年前に起こった親族のハリエット・ヴァンデルの失踪事件について調査して欲しいと依頼されることになります。
初めは嫌な顔をするミカエルですが、ヘンリックはミカエルに対し「ミレニアム」にいた当時の給与の2倍の金を毎月支給する、成功すれば4倍出すという金銭的な優遇条件を提示し、さらにミカエルを失墜させる元凶となったヴェンネルストレムの不正の証拠をも提供すると持ちかけます。
ここまで言われてはミカエルもさすがに承諾せざるを得ず、かくしてミカエルの事件捜査が始まるのでした。

一方、ヘンリックはミカエルに失踪事件の洗い直しを依頼するのに先立ち、ミカエルの身辺調査をミルトン・セキュリティーに依頼していました。
それに応じてミカエルの身辺調査を実地で行い、彼の秘密の何から何まで把握し尽した人物が、今作のもうひとりの主人公であるリスベット・サランデル。
彼女は、鼻と眉にピアスを付け、左の肩から腰にかけてドラゴンのタトゥーを彫りこんでいる非常に変わった女性で、過去の経歴が理由で責任能力が認められない精神的不適応という診断を受けた挙句に後見者をつけられていたりします。
ある日、彼女が自身につけられた後見人であるホルゲル・パルムグレンの元へ帰ってみると、彼が自宅の部屋で倒れているのを発見。
彼はすぐさま病院に収容されるのですが、脳出血で半ば廃人同然の状態となってしまい、リスベットの後見人から外されてしまいます。
そして、新しくリスベットの後見人となったニルス・エリック・ビュルマンは、リスベットを精神異常者だと決めつけ、自身の権限にものを言わせて彼女の財産を全て自分で管理すると宣言します。
これに反発するリスベットでしたが、後見人であるビュルマンに逆らうことはできません。
そしてビュルマンは、その地位とカネを餌にしてリスベットに性的な要求まで行うようになるのですが……。

映画「ドラゴン・タトゥーの女」は、ストーリーのジャンル的には一応推理系ミステリーに属するはずなのですが、原作はともかく、すくなくとも今回の実写映画版ではその部分があまりにも描かれていない感じがありますね。
物語の中核を構成しているハリエットの失踪事件には当然容疑者がおり、重要人物であるはずの彼らは序盤で一通り紹介されてはいくのですが、しかし彼らは物語全体を通じて、真犯人を除きほとんど主人公2人と接点がないんですよね。
名前だけ紹介されたものの、初登場するのがようやく物語中盤頃、という人物までいましたし。
40年前の事件を扱っていることもあり、また既に故人となっている人物もいることから、事件当時の資料漁りがメインになっているという事情もあるにせよ、ロクに描写がないために容疑者の名前をマトモに覚えることすら困難を極めるありさまでした。
物語後半で判明した真犯人ですら、正体が分かるまでほとんど印象に残っていなかったくらいでしたし。
しかも序盤から中盤にかけては、どちらかと言えば主人公2人の軌跡を追っていくストーリーがメインで展開されていた上、2人が邂逅を果たすまでかなりの時間がかかることもあって、さらに容疑者達の存在はストーリーの流れから置き去りにされてしまっています。
真犯人が判明する後半になるとさすがに事件の全体像はおぼろげながらも見えてくるのですが、あまりにも真犯人以外の容疑者達の存在感も印象もなさ過ぎるというか……。
何と言うか、原作小説を予め読んでいるのが最初から前提の上でストーリーが展開されているようにすら見えますね、この映画って。
同じ原作未読のミステリーでも、映画「白夜行」「麒麟の翼」などは、事件関係者達の存在感も相互関係も素直に理解できたものなのですけどねぇ……(-_-;;)。

一方で、主人公2人を取り巻く人間関係については、メインと言って良いくらい濃密に描かれていることもあって、かなり分かりやすい上にインパクトも多々ありますね。
中でも凶悪なまでに印象に残ったのは、リスベットに最初にカネを請求してきた際にはフェラチオを要求し、2度目はベットに縛り付けてアナルセックスまでやってのけ、当然のごとく逆襲されて惨めな敗残者にまで落ちぶれ果てたビュルマンですね。
彼は自業自得とはいえ、リスベットに強姦現場の動画をネタに脅迫された上、「私は強姦魔の豚野郎です」という刺青まで彫られてしまいましたし。
リスベットのみならず、映倫にまで挑戦状を叩きつけるかのごとき彼の「勇猛果敢な行為」は、ただそれだけで歴史に名を残せるものがあります(苦笑)。
まあリスベットの方も、ミカエル相手に騎乗位セックスを作中2度にわたって繰り広げ、しかもその内1回はモザイク付という、なかなかどうしてビュルマンと互角以上に渡り合えるだけの「戦歴」の持ち主ではあるのですが(爆)。
というかリスベットにヤられたミカエルも、エリカという別の女性と既に関係が深いのに、強引に押し倒された1回目以降も何故リスベットと肉体関係を持ち続けているのか、正直理解に苦しむところではあるのですが。
そのミカエルとエリカの関係も、世間一般では「不倫」と呼ばれる行為に該当する(エリカは既婚者で夫が生存している)わけで、この作品の登場人物は揃いも揃って、良くも悪くも倫理観という言葉とは全く無縁ですね。
今作は三部作の第一部とのことですから、当然人気と予算が許す範囲において第二部以降の続編も製作されることになるのでしょうが、この倫理観の崩壊っぷりもより強烈に反映され続けることになるのでしょうかねぇ。

R-15指定ですら裸足で逃げ出したくなるレベルのセックス&残虐描写が延々と続くので、その手の描写が嫌いな方にはとてもオススメできる作品ではないですね。
また前述のように、原作を何も知らない状態で今作を観賞する場合、特に失踪事件絡みの容疑者達の人間関係を理解するのにかなりの困難が伴います。
その点では「原作ファンのための作品」というのが妥当な評価ということになるでしょうか。

銀英伝舞台版第二章の新キャスト発表

銀英伝舞台版公式サイトで、第二章「自由惑星同盟編」で登場人物を演じるキャストが新たに発表されました。
また、既に公開済みのキャストについても、各キャラクターに扮した画像が公開されています。

銀英伝舞台版公式サイト
http://www.gineiden.jp/
第二章 自由惑星同盟編 トップページ
http://www.gineiden.jp/doumei/
第二章 自由惑星同盟編 キャストページ(既存)
http://www.gineiden.jp/doumei/cast.html
第二章 自由惑星同盟編 キャストページ(新規)
http://www.gineiden.jp/doumei/cast2.html

さらに2月10日から、舞台版の宣伝も兼ねたキャストによるリレー動画も公開されています。
第1回目はシドニー・シトレ役の西岡徳馬とのこと↓

第二章 自由惑星同盟編 リレー動画一覧
http://www.gineiden.jp/doumei/message00.html

今回新規に発表された登場人物およびキャストは以下の通りだそうで↓

ファイル 533-1.jpgファイル 533-2.jpg
ファイル 533-3.jpgファイル 533-4.jpg
ファイル 533-5.jpgファイル 533-6.jpg
ファイル 533-7.jpgファイル 533-8.jpg
ファイル 533-9.jpgファイル 533-10.jpg
ファイル 533-11.jpgファイル 533-12.jpg
ファイル 533-13.jpg

これらのうち、「ナオミ」と「ビクトルフォン・クラフト」については、原作に名前が存在しないキャラクターですね。
「サレ・アジズ・シェイクリ」はオリビエ・ポプランとイワン・コーネフとライバル関係にあるスパルタニアンの撃墜王で、「コールドウェル」はイワン・コーネフの部下という形で原作にも名前がありましたが。
2人のオリジナルキャラクター達は、多分舞台ストーリーの一部として入ってくることになるであろう、ヤンの士官学校時代や「エル・ファシルの脱出」辺りのエピソードで活躍することにでもなるのでしょうか?

あと、グリーンヒル父親とビュコック辺りは一体誰が担うことになるのでしょうか?
グリーンヒル父親は原作2巻の主要人物ですし、ビュコックも作中の重要人物ですから、出てこないことはないのでしょうけど。
どちらも結構年配のキャラクターですから、配役もある程度年配かつ貫禄のある人と無理だと思うのですが、発表されたキャストの中で該当しそうな人がいないんですよね。
名前だけしか出ていない残りの配役の人達も皆若手っぽいですし。
こちらはまだ未公表の配役でも控えているのでしょうかね?

それと、今回の公式サイトの更新に関連して、「らいとすたっふ」社長氏のブログも更新されたようですね。
で、記事によると、どうも田中芳樹がこんな世迷言をほざいているようなのですが↓

http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2012/02/post-b5c6.html
>  アニメ化のときにも、「男性声優ばっかりで、女性の声優さんの出番が少ない」と言われていたのですが、舞台になると、その「女っ気のなさ」が際だちます(笑)。
>  
田中さんも、「こんなことだったら、もう少し女性を出しておくんだったなあ」と頭をかいているのですが、これは今さら言っても仕方のないこと。舞台の関係者の皆さまにはご苦労をおかけしますが、なにとぞよろしくお願いいたします。はい。

いや、90年代以降の田中作品、特に薬師寺シリーズにおける女性描写の惨状を見る限り、田中芳樹の力量でマトモな女性が描けるようにはとても思えないのですが。
銀英伝がアレだけの大ヒットを記録したのも、むしろ逆に女性描写を抑えて「あえてテンプレートに徹した」ことが功を奏したのでしょうに。
薬師寺涼子や田中小説版キング・コングのアン・ダロウのごとき、救いようのない自己中な権力亡者の化け物でしかないバカ女を大量に登場させたところで、却って銀英伝の価値を下げるだけでしかないことが、田中芳樹にも周囲の人間にも全く理解できないのでしょうかねぇ。
「俺はちゃんとした女性を描ける作家なんだ!」というのは田中芳樹の根拠なき思い込みでしかないのですから、そんな妄想はいいかげん捨てた方が、自身も含めた万人のためにも良いのではないかと思えてならないのですけどね。

映画「逆転裁判」感想

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映画「逆転裁判」観に行ってきました。
2001年に発売されて以降シリーズを重ね、累計で400万本以上の売上を記録し、以後の法廷・弁護士ドラマにも影響を与えたと言われる、カプコンから発売された同名の法廷バトルゲームの実写化作品。
ちなみに原作ゲームは全て未プレイです(^^;;)。
Wikipediaで調べたところによると、映画のストーリーは原作ゲームの「1」をベースにしているみたいですね。

物語は何故か、霊媒師と思しき女性が、おどろおどろしく祈祷をしている場面から始まります。
自身に霊?を乗り移らせ、何かをしゃべらせようとするところで、舞台は急に切り替わり、主人公の新米弁護士・成歩堂龍一(なるほどうりゅういち)が弁護をしている法廷の場へと移ります。
成歩堂龍一は、とある殺人事件で自身の幼馴染である矢張政志(やはりまさし)にかけられた殺人容疑を晴らすべく、序審裁判で検事とのバトルを繰り広げていました。
序審裁判とは、起訴された被告が「有罪なのか無罪なのか」についてのみを、検事と弁護士による最長でも3日以内の直接対決で結審する序審と、有罪の場合のみ量刑などについての審議を行う本審に裁判過程を分ける制度を指し、原作ゲームおよび今作特有のオリジナルとなるシステムです。
何でも、増加する犯罪に対して迅速に対応できることを目的とした制度なのだとか。
その序審裁判で矢張政志の弁護を続ける成歩堂龍一は、しかし検事側の反撃で返答に窮してしまい、まさにギブアップ寸前にまで至ろうとしていました。
そこへ颯爽と登場し、被告の無罪を100%証明するだけの証拠を突きつけ、裁判の流れを逆転させたのは、成歩堂龍一の上司で良き理解者でもある綾里千尋(あやさとちひろ)でした。
結果、矢張政志は裁判官から見事に無罪を獲得することに成功します。

晴れて法廷から出てきた矢張政志は、無罪判決を獲得したお礼にと、綾里千尋に自作の「考える人」を模した時計型置物をプレゼントします。
この置物は頭の部分がスイッチになっており、スイッチを押すことで時刻を教えてくれるというシロモノでした。
困惑しながらも置物を受け取った綾里千尋はその後、どこかの資料室で資料を漁っている姿が映し出され、目的のブツらしきものを見つけて走り出しながら、「近いうちに大きな裁判をやることになるから明日の夜に来て欲しい」と成歩堂龍一に連絡します。
翌日、その呼び出しに応じて綾里千尋の事務所を訪ねた成歩堂龍一は、しかしそこで頭から血を流して死んでいる綾里千尋の撲殺体を発見することになってしまうのでした。
しばらく呆然としている中、まるでタイミングを図ったかのように事務所へやってきて成歩堂龍一に拳銃を向ける警官達。
成歩堂龍一はうろたえながらも「俺は犯人じゃない」と主張しますが、拳銃を突きつけている刑事は「お前が目的じゃない」と視線を別のところへと向けます。
そこで初めて成歩堂龍一は、遺体の近くでへたり込んでいた女性の存在に気づくのでした。
撲殺された綾里千尋は、手に持っていた紙に「マヨイ」という3文字のカタカナをダイイングメッセージとして残しており、かつへたり込んでいた女性の名前は綾里真宵(あやさとまよい)。
当然、彼女は事件の第一容疑者として警察に逮捕されてしまいます。
しかし成歩堂龍一は、無実を主張する綾里真宵の言を信じ、序審裁判での彼女の弁護を引き受けるのでした。
ところが、いざ法廷へと向かう成歩堂龍一は、自分と対決することになる検事を見て驚きの声を上げます。
それは矢張政志と同じ幼馴染で、かつては弁護士になるという将来の夢を語り合っていた御剣怜侍(みつるぎれいじ)だったのです。
御剣怜侍は、被告を有罪にするためならば手段を問わない、若いながらも敏腕検事としてその名を轟かせていました。
何故彼は、弁護士とは全くの正反対の検事になったのか?
疑問が尽きないまま、成歩堂龍一は綾里真宵の無罪を勝ち取るため、かつての幼馴染との直接対決の舞台に立つこととなるのですが……。

映画「逆転裁判」では、どう見てもギャグコメディを意図して製作されているとしか思えない演出が多々ありますね。
そもそも髪型と各主要登場人物の名前からしてギャグそのものですし(笑)。
主人公格である成歩堂(なるほどう)と矢張(やはり)以外にも、糸鋸(いとのこぎり)、大沢木(おおさわぎ)、狩魔(かるま)、生倉(なまくら)など、当て字以外の何物でもない苗字が続々と登場しますし。
髪型も静電気でも浴びているかのように横に突っ張っていたり、結い上げ過ぎて頭が伸びていたり、銀髪だったりと、とにかくあらゆる意味で特徴的なシロモノだったりします。
他にも、主人公が素っ頓狂な言動をカマしたり、それを受けて被告・検事・傍聴席の人間が一斉にズッこけるシーンがあったりと、コメディっぽい描写が満載です。
ただ、これらの描写は原作からの延長でもあるでしょうし、かつ原作では大いにウケたのでしょうけど、実写化されたものを観た限りでは、笑いよりもむしろ「寒い」と感じずにはいられなかったところですね。
笑いという点では、この間観賞した映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」の方がはるかに上手かったですし。
原作キャラクターの造形や描写を忠実に再現すること自体は悪いものではないでしょうが、映画「逆転裁判」の場合、それが実写化に合致したものだったのかはかなり微妙なところですね。

また、主人公が被告の無罪を立証するのに際し、検事から反論されると言葉に詰まったり返答に窮したりする描写が結構あるんですよね。
主人公は「新人の弁護士」という設定ですから、まだ弁護慣れしていないという事情もあるのでしょうけど、あまりにも頼りないイメージが前面に出ていました。
逆に決定的な証拠を突きつけて無罪を立証する場面では、ほとんどノリノリで弁術を繰り広げており、素晴らしく頼りになる弁護士であるかのように見えるんですよね。
この2つのギャップがなかなかに面白かったです。
しかし物語後半、検事側の反撃に窮するあまり、オウムのサユリさんを証人?として証言台に立たせた(設置した?)シーンなどは、さすがに「正気か?」と疑わざるをえないところでした。
証人どころか、そもそも「人」ですらないですし(爆)。
検事側も「証人としての適性を欠いている、というか適当すぎるだろ!」と吠えていましたが、思わず頷いてしまったものでした (^^;;)。
というか、よくオウムを証人(証鳥?)にすることを裁判官が認めましたね。
結果的には、そのオウムの囀りから事件のカギとなる意外かつ重要な事実が出てきたのですが、「結果良ければ全て良し」で片付く問題じゃないだろう、と。

ストーリー構成的に気になったところでは、作中で弁護側が被告の無罪を立証する際、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」「被告には無罪の余地がある」という段階になってもなお、必死になって無罪を立証しようとしていたことですね。
実は実際の刑事裁判では、そういった段階にまで到達できれば、それは100%の「被告&弁護士の勝利」となります。
何故なら、裁判というのは本来「被告が有罪か無罪かを判断する場」でなければ「被告を有罪にしたり量刑を考えたりする場」でもなく「被告の有罪を立証しようとしている検察を裁く場」だからです。
検察が挙げている証拠が合法的に採取されたものなのか、検察が被告を有罪とする論拠は確かなものなのか、検察が出してきた証人は果たして本当のことを述べているのか……。
裁判とは、検察側が掲げる様々な証拠や証人の数々について上記のように審議する場なのであり、検察が被告の有罪を立証するためには、自分達の主張が100%全て正しいものであることを証明しなければならないのです。
裁判では「疑わしきは被告人の利益に」という言葉もあり、すくなくとも理念上では「被告が無罪になる余地は全くない」という状況にならないと被告は有罪になりません。
たとえ、検察側の主張が99.999…%と「限りなく100%に近い確率で正しい」ものであったとしても、それは「100%そのもの」ではないので、検察の主張には0.000…1%の穴があるということになり、それでは「検察は被告が100%有罪であることを立証できない」ことになってしまうのです。
当然、被告は裁判では無罪になります。
裁判がそのようなシステムになっているのは、検事が行政に属しており、裁判官は司法の一員としてのチェックを担うことでその暴走を防ぐという三権分立の理念に基づいているためで、そのため裁判官は公正ではあるべきだが中立であってはならず、あくまでも「被告の味方」でなければならないとされています。
よって、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」という状況では、検察の主張には(無罪の余地があるだけでもダメなのに)50%もの大穴があることになり、弁護側はこの時点で被告の無罪を獲得することが可能となるのです。
この状況では、必死にならなければならないのはむしろ検事側でなければならないはずなのですが、作中ではむしろ検事側の方が余裕な態度を見せ、弁護側が追い詰められているような表情を見せているんですよね。
それは話が逆だろ、とは思わずにいられなかったのですが。

裁判で扱っている事件そのものはシリアスなもので、事件の真相もミステリー的な手法で解明されていくのですが、原作に似せようとする努力が一種のコメディっぽくなっているため、シリアス要素とコメディ要素の一体どちらを重視して映画を製作したのか、いささか判断に迷うところですね。
原作ゲームは2012年2月時点で4作目+αまで製作されているようですし、映画の興行次第では続編もありそうなのですが、果たしてどうなることやら。

映画「はやぶさ 遥かなる帰還」感想

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映画「はやぶさ 遥かなる帰還(以下「遥かなる帰還」)」観に行ってきました。
2003年5月9日に打ち上げられ、2010年6月13日にサンプルを地球に投下して消滅した、小惑星探査機「はやぶさ」とその開発・運用に関わった人々の実話を元に製作されたドラマ作品。

小惑星探査機「はやぶさ」に関する行程やトラブル発生などは、同じ「はやぶさ」をテーマに製作され、去年劇場公開された映画「はやぶさ/HAYABUSA(以下「HAYABUSA」)」とほぼ同じです。
ただ登場人物については、モデルとなった実在の人物はいるものの、「HAYABUSA」も「遥かなる帰還」も全く異なる架空の名前が使われているため、名前で登場人物の役割を照合しようとすると混乱を来たすかもしれません(^^;;)。
私も最初、「HAYABUSA」の人物設定をそのまま「遥かなる帰還」にも当てはめようとしてしまい、「アレ? こんな名前の人いたっけ?」と一瞬戸惑う羽目に(-_-;;)。
幸い、役職名の方はどちらもほぼそのままだったので、「ああ、この人物はあの役職を務めているのか」という形で、登場人物達が担っている立場や役割はすぐに頭の中に入ってきましたが。
ちなみに「HAYABUSA」および「遥かなる帰還」に共通で登場する、モデル元とおぼしき実在の人物および配役を演じたキャストは、私が調べた限りではだいたい以下のようになっているようですね↓

実在のモデル:川口淳一郎(「はやぶさ」のプロジェクトマネージャー)
HAYABUSA:川渕幸一(キャスト:佐野史郎)
遥かなる帰還:山口駿一郎(キャスト:渡辺謙)物語の主人公

実在のモデル:西山和孝(「はやぶさ」のイオンエンジン担当&運用スーパーバイザー)
HAYABUSA:平山孝行(キャスト:甲本雅裕)
遥かなる帰還:藤中仁志(キャスト:江口洋介)

実在のモデル:國中均(「はやぶさ」のイオンエンジン担当)
HAYABUSA:喜多修(キャスト:鶴見辰吾)
遥かなる帰還:藤中仁志(キャスト:江口洋介)

実在のモデル:堀内康夫(「はやぶさ」のイオンエンジン担当NEC)
遥かなる帰還:森内安夫(キャスト:吉岡秀隆)

実在のモデル:山田哲哉(「はやぶさ」のカプセル担当)
HAYABUSA:福本哲也(キャスト:マギー)
遥かなる帰還:鎌田悦也(キャスト:小澤征悦)

実在のモデル:的川秦宣(「はやぶさ」の広報担当)
HAYABUSA:的場秦弘(キャスト:西田敏行)
遥かなる帰還:丸川靖信(キャスト:藤竜也)

※取消線と青字部分は間違いとの指摘を受けましたので修正しております。

そして人間ドラマに関しては、当然のことながら「HAYABUSA」と「遥かなる帰還」でその見せ方も大きく異なっていますね。
女性平スタッフの視点および「はやぶさ君の冒険日誌」を用いることで、「子供にも理解させること」に重点を置いたストーリー進行だった「HAYABUSA」。
それに対して「遥かなる帰還」は、どちらかと言えば「大人が楽しむこと」を目的としたストーリー構成となっています。
小さな町工場を運営し、「はやぶさ」の試作品を製作した実績を持ちつつも、不況による経営悪化のために従業員が自主的に辞めていった東出機械の社長絡みのエピソードなんて、どう見ても子供向けではありませんし。
一方、人間ドラマ絡みでどちらにも共通して存在したエピソードとしては、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーが神社で「はやぶさの帰還」を祈願し、「はやぶさ」の管制室にお守りだかお札だかを祭るシーンですね。
このエピソードにある神社のモデルは岡山県の中和神社なのだそうで、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーだった川口淳一郎が2009年11月にこの神社を参拝していたことが、地元の地方紙である山陽新聞で報じられていたのだとか。
2012年3月に公開予定の、これまた「はやぶさ」をテーマとして扱っている映画「おかえり、はやぶさ」にも、このエピソードは普通に入っていそうですね(苦笑)。

今作のハイライトとしては、やはり主人公である山口駿一郎を演じた渡辺謙の演技が挙げられますね。
登場する場面の数々でやたらと貫禄がある演技を披露していましたし、「はやぶさ」が行方不明であることを理由に協力を打ち切ろうとしたアメリカのNASAに対して、流暢な英語で「貴国がそのような態度に出るならば、我が国も(はやぶさが持ち帰るであろう)サンプルの提供を拒否する」と堂々と反撃していた様は見事の一言に尽きました。
この辺りはやはり、ハリウッドでも活躍してきた渡辺謙ならではの演技だったでしょうね。
渡辺謙のファンであれば、今作を観に行く価値はあるのではないかと。

ただ個人的には、既に観賞済みだった「HAYABUSA」と「はやぶさ」絡みの描写で重複している部分が多々あったこともあり、楽しめる部分が半減していたのは惜しい部分ではありました。
「遥かなる帰還」自体が問題なのではなく、あまり期間を置かないうちに同じ主旨の映画を立て続けに観に行った私個人の事情ではあるのでしょうけど。
来月にはさらに3本目の「おかえり、はやぶさ」が出てきますし、全く同じ主旨の作品を複数、しかも立て続けに制作・公開するのは興行的にもどうかとは思わずにいられないですね。
最初からネタとして楽しむか、あえて3つ全て観賞してその違いを楽しむといった類の嗜好でも持っているのでなければ、映画を観るのは3本のうちの1本だけで充分なのではないかと。

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