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映画「顔のないスパイ」感想

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映画「顔のないスパイ」観に行ってきました。
旧ソ連時代の凄腕スパイ「カシウス」の行方を巡って繰り広げられる、リチャード・ギア主演のスパイ・アクション作品。
「顔のないスパイ」は邦題タイトルで、映画の原題は「The Double」。
元々今回は、3月1日が映画「ヒューゴの不思議な発明」の公開初日&ファーストディ(映画の日)ということもあり、当初はそちらを観賞する予定でした。
ところが「ヒューゴの不思議な発明」は、全く思いもよらなかった試写会当選のおかげで予定よりも早く、しかも無料での観賞が可能となったことから、結果的に3月1日の予定が空いてしまったんですよね。
しかし、せっかくのファーストディなのだからこの日に映画を観ないと損だということで、本来は2月26日の日曜日に観賞する予定だった今作をこちらに持ってきた、というわけです。
映画を安く観賞できるという特典がある日を、逃がすわけにはいかないですからねぇ(^_^;;)。

物語は、ロシアと密接な関係を持っていた上院議員が暗殺される事件が勃発するところから始まります。
上院議員が殺される光景は監視カメラにも捕らえられていたのですが、犯人の顔は識別不可。
しかし、殺しの手口が細いワイヤーを使って首を切り裂くという手法で、かつ切り裂きの手法が、旧ソ連時代に活躍したと言われる往年の凄腕スパイ「カシウス」が多用していたものと同一であったことから、「カシウス」が復活したのではないかと囁かれました。
事態を重く見たCIAは、かつて「カシウス」を半生にわたって追い続け、今では引退している元CIAエージェントのポール・ジェファーソン(今作の主人公)を呼び戻し、FBIの若手捜査官ベン・ギアリーと共に「カシウス」の捜査に当たらせます。
ベンは「カシウス」を題材にした修士論文を書いたほどに「カシウス」に精通している人物で、今回の事件が「カシウス」の仕業だと最初に主張したのも彼でした。
これに対し、ポールは「カシウスは既に死んでおり、今回の事件は模倣犯の仕業である」と主張、2人の意見は対立します。
それでも2人は、「カシウス」がリーダーを務めていたとされる暗殺組織「カシウス7」の生き残りメンバーで現在は獄中にいる人物から、情報を引き出すべく面会に臨みます。
そこで2人は、獄中の男にラジオ?を渡すのと引き換えに、「カシウス」が暗殺者の掟を破ったことで罰を受けたという新事実を知ることになります。
その後、獄中の男はラジオ?の中にあった電池を飲み込み、体調不良を訴えて自身を病院に運ばせると共に、医療スタッフ達の隙を突いて脱走することに成功します。
しかし、脱走した男が逃げた先で待ちかまえていたのは、何と先ほど男と面会していた2人のうちのひとり、ポールだったのです。
脱走男との対峙の中で、自分が「カシウス」であることを告白し、愛用の武器である腕時計仕込みのワイヤーで脱走男を惨殺してしまうポール。
ポールはその直後に、「カシウス」こと自分自身にいずれ辿り着くかもしれないベンを今のうちに殺そうと、彼の家でその機会を伺うのですが、庭にひとり出ていたベンを奥さんが家から出てきて話しかける光景を見て思い直したのか、結局何もすることなくその場を後にするのでした。

その後、ポールが惨殺した脱走男が発見され、現場検証が行われるのですが、全ての真相を知っているポールも知らぬ顔で現場検証に参加しています。
そればかりか、相棒のベンに野次馬のひとりを指し「あいつが来ている服はロシア製だ」などと指摘して追跡劇を演じ、捜査を悪戯にかき回したりする始末。
ただ、これがひとつのきっかけになって互いに打ち解けたのか、ベンはポールを自宅に招いて食事を共にしたりもするようにもなったのですが。
一方、捜査が進んでいく過程で、「カシウス」と同じ時期に姿を消した、元KGB特殊部隊(スペツナズ)所属のボズロスキーという男が浮上してきます。
CIAは、ポールの正体について何ら疑問を抱かぬまま、ボズロスキーを「カシウス」と見て追跡調査を進めていくことになるのですが……。

映画「顔のないスパイ」を観賞していく中で私がまず連想したのは、1997年(日本では1998年)公開の映画「ジャッカル」でしたね。
映画「ジャッカル」は、今作と同じくリチャード・ギアが主演で、かつブルース・ウィリスが悪役というタッグの実現で当時話題を呼び、これまた今作と同じくスパイ同士の駆け引きとアクションをメインとしたストーリーが展開されていた異色の作品です。
主演が全く同じということに加え、スパイ・アクションという映画のジャンルも同一、さらには作中の主人公の設定にも「身内を殺されたことから復讐に走る」という共通項があるとくれば、やはり「ジャッカル」を想起せずにはいられなかったところでして(^^;;)。
ただ、「ジャッカル」と今作では14年以上もの開きがあるためか、リチャード・ギアの外見がすっかり様変わりしていたのが結構印象に残ったものでした。
「ジャッカル」の時はブルース・ウィリスよりも若く見えていたリチャード・ギアでしたが、今作では役柄にふさわしい容貌になっていましたし。
物語の中盤頃までは主人公の復讐の設定が出てこなかったこともあり、「『ジャッカル』におけるブルース・ウィリスの役柄をリチャード・ギアが担っている」とまで考えていたくらいでした(^^;;)。

今作で少し疑問に思ったのは、「カシウス」が関わったとされる全ての事件の写真にポールが写っていたことから、ベンが「カシウス=ポール」の図式に気づくところですね。
ポールはCIA現役時代に「カシウス」を長年にわたって追いかけている、という設定が最初から明示されているのですから、「カシウス」絡みの事件全てでポールが映し出されていること自体は何ら不自然なことではありません。
ボズロスキーを単身追いかけていたポールの行き先で例の「カシウス」の犯行以外の何物でもない手法で殺されていた遺体をベンが目撃する描写がありましたから、この時点で「カシウス=ポール」の疑いが出てきたという事情もあった(この時点で「カシウス」候補は、未知の第三者を除外すればボズロスキーとポールの2人に絞られる)のでしょうが、それにしてもアレではまだ決定打とは言えないよなぁ、と。

また、物語終盤で「実はベンもまたポールと同じくロシアのスパイだった」という事実が明かされます。
何でも彼は、ロシアを裏切った「カシウス」ことポールを抹殺するために10歳の頃にロシアから派遣され潜伏していたスパイだったのだそうで、上院議員殺しも彼が「カシウス」を炙り出すために行った犯行なのだとか。
どことなく映画「ソルト」を髣髴とさせるようなエピソードではありますね。
ただ、作中には目に見えてそれと分かる伏線や説明が全くなく、いかにも唐突に出てきた感は否めませんでした。
後から物語全体を俯瞰して考えると、冒頭の上院議員殺しと「修士論文まで書くレベルのカシウスマニア」というベンの設定に関連性があったことが分かり「ああ、なるほど」と納得もできた(「カシウス」の手法を熟知しているからこそ「カシウスの犯行」をも再現できた)のですが、作中ではこれといった説明もないですし、普通はまず気づかないのではないですかね、これって。

それにしても「ソルト」といい今作といい、映画の世界におけるアメリカってとことんスパイに弱い体質をしていますね(苦笑)。
安全保障上の問題が浮上してもおかしくないほどに、スパイに浸透され放題ではありませんか。
まあ「アメリカの場合は」エンターテイメントならではお約束ではあるのでしょうし、また今作の場合は「The Double」という映画の原題にも関わってくる(二重スパイが2人)ので、落としどころは上手いとは思いましたが。
これがスパイ防止法すらも成立していない日本だと、現実自体が「映画の世界のアメリカ」よりもさらに悲惨な惨状を呈しているために、笑いすらも出てこないのが何とも言えないところで(T_T)。

アクションよりもスパイならではの葛藤や人間ドラマに重きをおいているストーリー構成ですが、リチャード・ギアのファンの方なら観て損はしない映画なのではないかと。

第84回アカデミー賞&第32回ラジー賞についての雑感

2011年にアメリカで公開された映画の中で最高の作品と俳優を決定する、第84回アカデミー賞の授賞式が、日本時間2月27日に行われました。
そのうち、作品賞の受賞とノミネート作品については以下の通り↓

作品賞授賞
 「アーティスト」(日本では2012年4月7日公開予定)
ノミネート作品一覧
 「ファミリー・ツリー」(日本では2012年5月18日公開予定)
 「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
 「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」(日本では2012年3月31日公開予定)
 「ヒューゴの不思議な発明」(日本では2012年3月1日公開予定)
 「ミッドナイト・イン・パリ」(日本では2012年5月26日公開予定)
 「マネーボール」
 「ツリー・オブ・ライフ」
 「戦火の馬」(日本では2012年3月2日公開予定)

しかし、受賞作品および賞にノミネートされた作品リストを見ると、この手の賞というのは映画の「面白さ」ではなく「芸術性」を評価する作品なのだなぁ、とつくづく痛感せずにはいられないですね。
受賞作品である「アーティスト」なんて、その全編がサイレント&モノクロ映像で成り立っているという、まさに文字通りの「芸術作品」ですし、爽快感や迫力ある映像などといった「面白さ」を求めている観客層には、そのコンセプトだけで既に論外としか言いようのない映画です。
また、ストーリーの本筋と如何なる関係があるのかすらも不明な映像を長々と垂れ流し、映画の途中なのに席を立ってスクリーンから去っていく人が続出するなど、史上稀に見る駄作要素が満載の「ツリー・オブ・ライフ」なんて、「面白さ」で評価するならアカデミー賞どころか、むしろ正反対のゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)にこそノミネートされるべき作品でしょう(苦笑)。
今回に限らず、アカデミー賞の選考評価基準というのは、一般的な大衆映画評とは大きく乖離しているのではないでしょうか?
日本では興行的に成功してなかったり知名度が低かったりする作品、さらに酷い場合は「ツリー・オブ・ライフ」のごとく駄作認定すらされている映画も少なくないのですから。
しかし、世間一般で映画が宣伝される際には、アカデミー賞やカンヌなどでノミネート&受賞されたという事実が、集客のネタとして大々的に喧伝されることが多かったりするんですよね(-_-;;)。
「芸術性を評価している」映画の賞は、必ずしも「映画の品質や面白さ」を保証するものではないのに、「賞を取った&ノミネートされた=面白い良い映画」という図式で映画の宣伝・集客が行われるのは、「面白さ」を求めている観客にとっては悪質なミスリード以外の何物でもないのですが。

また、アカデミー賞授与式に先立ち、2011年の駄作映画を決定するラジー賞こと第32回ゴールデンラズベリー賞のノミネート作品も発表されています(授賞式は2012年4月1日予定)。
その中の最低作品賞におけるノミネート作品は以下の通り↓

ノミネート作品一覧
 「Bucky Larson: Born to Be a Star」(日本公開未定)
 「ジャックとジル」
 「ニューイヤーズ・イブ」
 「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」
 「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part1」

で、ラジー賞はラジー賞で、やはりアカデミー賞と同様に一般的な映画評価からの著しく大きな乖離を感じずにいられないんですよね。
しかも、アカデミー賞の場合は選考評価基準がまだある程度明確なのに対し、ラジー賞は一体何をベースに作品を評価しているのかすらも意味不明です。
ラインナップされている作品群を見ても、「とりあえず大衆娯楽作品を適当に集めてバッシングしてみました」的な雰囲気が漂いまくっていますし、そのくせ正真正銘の駄作である「ツリー・オブ・ライフ」はノミネートすらもされていませんし。
特にラジー賞が信用ならない最たる理由は、映画に出演している有名俳優を基準に駄作認定を行っている部分も多々あることです。
「ラジー賞の常連」などと言われているシルヴェスター・スタローンなんてまさにその典型で、作品の内容がどうこうではなく「スタローンが関与している」というだけでラジー賞にノミネートされることすら珍しくないのですからねぇ(-_-;;)。
この恣意的としか評しようのない作品評価基準が、私がラジー賞を「アメリカ版『と学会』」などと酷評する最大の理由でもあったりします。
ラジー賞というのは元々ユーモアやジョークを意図しているものでもあるらしく、ラジー賞で駄作認定された作品が必ずしも本当の駄作というわけではない、とは賞の主催者側も承知の上ではあるようなのですが、ただ一般的には「ラジー賞授与=駄作認定」という評価が確立していることもまた事実ではありますからねぇ。
まあ、ラジー賞の受賞者自らがわざわざ授与式に登場し、ラジー賞のトロフィーを受け取った上にスピーチまで披露したという事例もありますし、その辺りの「懐の深さ」については、トンデモ認定した論者を罵倒しまくり一方的に遠ざけ、そのくせ身内には大甘な「と学会」とは比べるべくもないのですけどね(苦笑)。

映画についての評価や感想は人の数だけ千差万別で存在するでしょうし、それを承知の上で良作&駄作映画を選考する賞というのも必要ではあるでしょう。
アカデミー賞が「映画の面白さではなく芸術性を評価する賞」であっても、その「芸術性」もまた映画の良し悪しを評価するひとつの基準になりうることはまず間違いないわけですし。
ただ、それが一般的な映画評価から大きく乖離し、かつ映画の宣伝などで「面白さをアピールし集客するための道具」として多用されている現状は、映画ファンとしては正直歯痒く思うところではあります。
アカデミー賞やラジー賞に限らず、映画の賞というのは一般的にも少なからぬ知名度を誇っているにもかかわらず、大多数の一般人とは全く無縁な映画をただ紹介するだけの賞と化してしまっている一面が多々あったりしますからねぇ。
ただ「客寄せをするための道具」としてではなく、また一部の映画マニアだけが楽しむものでもなく、本当に作品の品質や面白さを評価し、大多数の一般人が納得も共感もできるような映画の賞ができれば、映画業界自体の活性化にも繋がるのではないかと思えてならないのですけどね。

映画「デビルクエスト」感想(DVD観賞)

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映画「デビルクエスト」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年に公開されたアメリカ映画で、14世紀の十字軍時代を舞台に繰り広げられるニコラス・ケイジ主演のアクション・アドベンチャー作品。
去年、シネマトゥディで映画の存在を知り、出演者と内容から面白そうだと思ってチェックしてみたら、熊本では上映予定が全くなく、しかたなく観賞を諦めていた作品です。
都会と地方の格差というのは、こういうところにも現れるんですよねぇ(T_T)。

物語のプロローグでは、本編に先立つこと100年前の1235年、当時は神聖ローマ帝国領だったオーストリアのフィラッハの町で、魔女狩りが行われているシーンが展開されます。
捕らえられた3人の女性が一方的に魔女と断定された挙句、橋から縛り首にされた上、川に下され溺死までさせられてしまいます。
それだけならば当時の魔女狩りの一風景でしかなかったのですが、この映画ではここからが異なりました。
司祭が復活を阻止すべく、川に下した遺体を縛り首にしたロープで引き上げ、書物を片手に祈祷を始めると、死んだはずの遺体が突如震え出し、ただならぬうめき声を上げ始めます。
しかし祈祷が進むとそれもやがて収まり、司祭は次の遺体を最初の遺体と同様に川から引き上げようとします。
ところが今度は司祭が逆に引っ張られ川に転落してしまいます。
川に引きずり込もうとする何者かの手を必死になって逃れ、司祭は川に引っ張られた際に橋の上に落とした書物を取り上げ、再度祈祷を始めようとします。
しかし、死んだはずの遺体が川から跳躍し、司祭の目の前に立ちはだかります。
そして、遺体が手を振りかざすと、書物は燃え上がり、司祭もあっさり殺されてしまうのでした。

時は流れ1332年。
1096年から聖地奪回を目指し、ローマ教皇によって数次にわたって提唱された、後世で言われるところの十字軍は、1291年のアッコン陥落によって幕を閉じましたが、その後も個々の国や領主などによる小規模の十字軍遠征がしばしば展開されていました。
ニコラス・ケイジが扮する今作の主人公ベイメンと、彼の親友であるフェルソンは、14世紀に当時存在したキプロス王国によって主導されていた十字軍に従軍していました。
ベイメンとフェルソンは、その年に行われた現在のトルコ領エドレミット湾の戦いで十字軍騎士としての初陣を飾り、以後、1334年のトリポリ包囲戦、1337年のインブロスの戦い、1339年のアルタハの戦いと、実に10年近くにわたって十字軍の戦いで活躍していきます。
彼らの名前と武勇は、十字軍の中でも伝説的なものとして語られるようになっていきました。
しかし、1344年に行われたスミルナの戦いが、彼らの運命を一変させます。
スミルナとは現在のトルコ領イズミルで、昔から海の拠点のひとつとして栄えてきた都市です。
このスミルナを、キプロス王国主導の十字軍は力攻めの末陥落させることに成功します。
スミルナの城門を突破することに成功した十字軍と共に、ベイメンもまた城内に侵入し敵の殲滅に当たろうとするのですが、その最中、彼は逃げ惑うひとりの女性を刺し殺してしまいます。
それまで彼が戦ってきたのは武器を持った戦場の兵士達であり、非戦闘員を殺したのはこれが最初でした。
愕然としたベイメンが周囲を見渡してみると、そこでは味方の十字軍が情け容赦なく虐殺を繰り広げる光景と、彼らによって殺された女子供の死体の山。
ベイメンとフェルソンは、虐殺を主導した十字軍の総司令官に怒りをぶつけますが、十字軍の総司令官は「神の声」と教会の権威を盾に全く取り合おうとせず、逆にベイメンを「悪魔にでも取り憑かれたか」などと中傷までする始末。
これで完全にキレてしまったベイメンとフェルソンは、その場で十字軍からの離脱を宣言、脱走兵として追われる身となって旅をすることになります。

それから1ヵ月後。
ベイメンとフェルソンは、スティリア(現在のオーストリア領シュタイアーマルク州の英語読み)の沿岸部を歩いていました。
内陸国であるはずのオーストリアのスティリアに海岸線が存在するのかは非常に疑問ではあるのですが、それはさておき、彼らは、羊が放置されている1軒の民家を発見します。
食糧を求めていたベイメンとフェルソンが家屋に入ると、住人と思しき人間がベットの中で変わり果てた異形の姿で死んでいる姿が。
民家を燃やしてその場を後にした2人は、ようやくひとつの町に辿り着きます。
脱走兵として指名手配されているものの、一方では食糧の補給と馬の交換を行う必要もあり、正体を隠して町に入った2人が見たものは、黒死病(ペスト)の蔓延で苦しんでいる住人達でした。
馬を調達することには成功したベイメンでしたが、そこで十字軍に所属していた証である剣を見られてしまい、自分達の正体が露見してしまいます。
結果、彼らは官憲に捕まり、引っ立てられることとなってしまいます。
しかし彼らは、現地の教会から、脱走罪を免除してもらうことを条件に、ひとりの魔女をセヴラック修道院まで護送するよう依頼をされ、紆余曲折の末にこれを引き受けることになるのでした。
かくして彼らは、セヴラック修道院を目指し、600リーグもの距離を進むこととなるのですが……。

映画「デビルクエスト」の真骨頂は、脱走罪の免罪を条件にベイメンが護送することになった魔女を巡る駆け引きですね。
幼い面影すら残す少女を「魔女」として断罪し、魔女裁判にかけることに執念を燃やす司祭デベルザックに対し、ベイメンは「こんな少女が魔女であるとは思えない」と懐疑的であり、2人はしばしば対立します。
現代世界の常識であればベイメンに軍配が上がるところですが、作中の世界は冒頭のシーンでもあったように不可解な超常現象が実際に起こっている世界です。
また実際問題として、少女は大人をも遥かに凌駕する膂力を発揮したり、意味ありげな言動を披露したりしています。
その点ではミステリーのごとく、話の先が読めない世界でもあるわけです。
少女の正体は一体何なのか? またその目的は何で、言動にはどのような意味があるのか?
それらは全て物語終盤で明らかとなるのですが、謎が明らかになってスッキリする過程はまさにミステリー的な醍醐味がありました。

ただ個人的には、せっかく十字軍を出して大軍同士の激突を描いているのですから、もう少しそちらを前面に出しても良かったのではないか、とは思いましたね。
十字軍の戦いは、主人公の戦闘能力を表現する道具に終始していただけで、別に十字軍でなく英仏百年戦争やドイツ三十年戦争、さらにその他の戦争や内乱などでも充分に代替ができるものでしかありませんでしたからねぇ。
まあ、製作者側の意図としては、あくまでもRPG的な冒険物がメインであり、軍隊同士の激突の類を描くつもりはあまりなかったのでしょうけど。
「魔女」の護送に当たっていた人物達は、思惑も出自も性格も能力も見事なまでにバラバラで、要所要所で少しずつ離脱を余儀なくされながらも、最後は一丸となってラスボスと戦うという、ある意味RPGの王道路線を地で行くものでしたし。

大作感はないものの、普通に楽しむことができる作品なのではないかと。

薬師寺シリーズ9巻の2012年2月時点の執筆状況

https://twitter.com/adachi_hiro/status/172828831130980352
<出社~。今日は田中さんが編集さんに「薬師寺…」の新作の原稿を(途中までだけど)渡す日。これで半分は越えたのかな……。

https://twitter.com/wrightstaff/status/172873076076322818
<田中芳樹最新情報です。『薬師寺涼子の怪奇事件簿』新作ですが、半分まで受け渡しが終わりました。ペースがつかめてきたようです。>

2011年5月下旬頃から執筆が開始されてから9ヶ月も経過してやっと半分とは、相も変わらず、その遅筆ぶりは健在のようで(-_-;;)。
この調子では、薬師寺シリーズの新刊が出るかどうか【だけ】で今年1年が終わってしまいそうですね(T_T)。
これから執筆速度を加速させ原稿執筆を早期に終わらせたとしても、今度は出版社がそれを本にして刊行するまでに3~4ヶ月前後もかかってしまうわけですし。
一体いつまでストレス解消をするつもりなのでしょうかねぇ、田中芳樹は。

しかし、田中芳樹が遅筆なのはいつものことですが、原稿を受け取った出版社の対応までもが遅くなっているというのはどうにも解せないところではあるんですよね。
実は、出版社が田中芳樹サイドより原稿を受け取ってから本を刊行するまでの時間がこれほどまでに増大したのは、ここ最近の話だったりします。
たとえば、2005年に刊行されたアルスラーン戦記11巻の場合、「らいとすたっふ」公式による脱稿宣言が行われ編集者に最終原稿が手渡されたのが8月15日だったのに対し、刊行が9月25日となっています。
また、現時点で最新刊となっている2007年刊行の薬師寺シリーズ8巻も、「らいとすたっふ」社長氏のブログを読む限りでは同年10月中旬~下旬頃に脱稿して12月14日に刊行されています。
この時期までは、脱稿から刊行までだいたい1ヶ月~1ヶ月半、遅くても2ヶ月程度の時間で進行できていたわけですね。
ところが2008年になると、アルスラーン戦記13巻の脱稿が7月10日なのに対し、著書が刊行されたのは10月10日と3ヶ月もかかるようになり、2009年刊行の「蘭陵王」に至っては、5月8日脱稿の9月26日刊行で4ヶ月以上もの時間が必要となっているのです。
脱稿5月6日で著書発売10月31日だった2011年刊行の「髑髏城の花嫁」などは、田中芳樹本人が銀英伝舞台版のニコファーレ会談で直接ネタにしていたくらいですし↓

http://www.gineiden.jp/doumei/special01f.html
司会者:
1500万部、それだけの方たちに届いていて、その中に河村隆一さんもいらっしゃったということですよね。先生、親子2代で読みましたとか、こちらこそありがとうとか、先生に対するコメントもいっぱいリアルタイムで届いていますが、なかなか小説のお仕事ではないことですよね。いかがですか?この会場(ニコファーレ・ニコニコ生放送)の感想は。
田中:
いやぁ、圧倒されまして、何かたいへんな事をしてしまったような感じが(笑)。本当にありがとうございます。ただそれしかいえません。それと、もうひとつ、画面をチラチラ見ているとあの作品はどうなったとか、あの続きはどうしたというコメントがあって、だんだんと、肩の位置が下がってくるんですけれど、
小説というのは生き物でして、これは誓っていいますが、遅らせようと思って遅らせたことは一度もございません。作品のほうが、どうしても遅れるのです(笑)。で、いま書いているのは、9月に出るはずだったのが、これはもう強調しますが、出版社の都合で10月になりました(笑)。もし店頭で見かけましたら、手にとって見ていただければ幸いです。最後までずうずうしくも申し訳ありませんでしたが、本当に改めてありがとうございました。

ここ数年の間に出版社側で何かがあったとしか思えないのですが、一体如何なる「大人の事情」でもってこれほどまでに対応が遅れるようになってしまったのか、気になるところではあります。
出版業界も「出版不況」で売上が下がっているとはよく聞くところですが、リストラをやり過ぎて熟練の編集者が減り、対応に支障が生じるようにでもなってしまったのでしょうかねぇ(-_-;;)。

出版社側の対応まで遅くなってしまうと、ただでさえ自分の遅筆を開き直ったり笑いのネタにしたりしている田中芳樹が、ここぞとばかりに「悪いのは全て出版社」と責任転嫁な自己正当化行為を展開しかねないんですよね。
実際、先述のニコファーレ会談でもそういう言動を披露していたわけですし。
田中芳樹にそんな口実を与えないようにするためにも、出版社側にも迅速な対応をしてもらいたいところではあるのですが……。

男女間の賃金格差縮小は誰の利益になるのか?

厚生労働省が発表した、2011年の賃金構造基本統計調査(全国)によると、男女間の賃金格差が過去最小になったとのことです。

http://megalodon.jp/2012-0226-2234-58/www.j-cast.com/2012/02/23123151.html
>   2011年のパートを除く一般労働者の平均賃金で、男女間の賃金格差が過去最小となったことが、厚生労働省が2012年2月22日に発表した賃金構造基本統計調査(全国)でわかった。
>
>  
11年の男性の賃金は前年と同じ32万8300円だったが、女性は前年比1.9%増の23万1900円。女性の賃金は2000年以降もおおむね増え続けており、賃金格差は縮まっている。女性の賃金は、20年前は男性の6割にとどまっていたが、10年前は65%程度、昨年は70.64%になった。
>
>  医療・福祉分野に勤める女性の賃金が大きく伸びた。産業別でみると、教育・学習支援業が前年比2.6%増の30万7400円、医療・福祉は同1.5%増の24万7000円で、成長分野のサービス業で働く女性が増えていることが賃金の伸びにつながっている。
>
>  なお、全体の賃金も前年比0.2%増の29万6800円で2年連続のプラス。ただ、リーマン・ショック前の07年より5000円程度低い。
>
>  調査は10人以上の常用労働者を雇う約6万2000の事業所が対象。11年6月分の所定内給与を調べた。

しかし、これを「男女平等が推進された」「女性の社会的地位が向上した」などと評価するのは短絡過ぎるというものでしょう。
記事の赤文字部分をよく読むと分かるのですが、女性の賃金が伸びている一方で、男性の賃金が全く伸びていないんですよね。
そもそも、給与所得者全体で見た平均賃金からして、10年以上の長きにわたって横ばいか減少が続いている始末なのですし↓

平成22年分民間給与実態統計調査結果について(国税庁)
http://www.nta.go.jp/kohyo/press/press/2011/minkan/index.htm

さらには、こんな調査結果まで出ている始末ですし↓

http://megalodon.jp/2012-0227-0005-15/www.j-cast.com/2012/02/23123111.html
>   「貯蓄がない」と答えた世帯の割合は2011年は28.6%で、調査開始の1963年から最も高くなったと、日銀が事務局の金融広報中央委員会が12年2月22日に調査結果を明らかにした。
>
>  それによると、貯蓄の平均は1150万円で、前年より19万円減となった。貯蓄残高が1年前より減ったと答えたのは、40.5%にも達した。減った理由は複数回答で「収入が減ったので取り崩した」が43.3%と最も多く、不況の影響が出ているとみられている。

これから考えても、男女間の給与格差の縮小は、女性の社会的地位が向上し男女平等が推進されたからもたらされたのではなく、単に男性の給与水準が低迷を続けているだけのことでしかないわけです。
かつて「男性は外で働き、女性は家で家事を一手に担う」が当たり前だった時代は、当然男女間の賃金格差どころか労働人口比率でさえも圧倒的な開きがあったわけですが、一方では「男性が働いてさえいれば女性は外で働く必要がない」という恩恵もありました。
ところが、男女平等が推進され男女間の賃金格差が下がったはずの現代では、男性が働くだけでは一家の家計を支えることができず、女性も外へ働きに「行かざるをえない」家庭が激増しているわけです。
これって共産主義と同じ「一番下に合わせた経済的平等」「皆で不幸になりましょう」的なシロモノでしかないのではないかと。
しかも、この構図で一番利益を得ているのが女性ではなく、労働力を安く買い叩くことが可能となった企業だというのですから、資本主義の一番悪い部分まで取り入れてしまっているわけで。

結果的に男性のみならず大多数の女性でさえも不幸になっているだけでしかないのに、そこまでして「男女平等」なるものは推進しなければならないものなのか、ついつい考えたくもなってしまいますね。
今現在推進されている「男女平等」の基本理念も、「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求めるシロモノにまで堕してしまっていますし、いいかげん抜本的な見直しが必要な時期に来ているのではないかと思えてならないのですけどね。

映画「アンダーワールド 覚醒」感想

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映画「アンダーワールド 覚醒」観に行ってきました。
吸血鬼(ヴァンパイア)と狼男(ライカン)との長きにわたる戦いを描いた、人気アクションホラー作品「アンダーワールド」シリーズの第4弾。
上映時間が88分とかなり短いためか、最初から最後までアクションシーンが目白押しですが、その過程でやたらと流血シーンが続くことからR-15指定されています。

今作のストーリーは、これまでのシリーズ作品の流れをそのまま受け継いだものであり、過去のシリーズ作品を予め観賞していることが前提となっています。
そのため、シリーズ作品について何も知らないまま今作を観賞しても、作品の世界観も登場人物達の相互関係や設定なども、理解するのにかなりの苦労を強いられることになるのではないでしょうか。
これまでのシリーズ作品におけるストーリーの流れとしては、以下のようなものとなっています。

ヴァンパイア VS ライカンの抗争の始まりを描いた
アンダーワールド ビギンズ(シリーズ3作目)

主人公セリーンの活躍によって両陣営の親玉が倒れた
アンダーワールド(シリーズ1作目)

セリーンの逃避行とヴァンパイア&ライカンの誕生秘話が語られる
アンダーワールド エボリューション(シリーズ2作目)

さらにヴァンパイア&ライカンの双方を殲滅せんとする人間が戦いに加わる
アンダーワールド 覚醒(シリーズ4作目にして今作)

そして今作は、人間達による魔女狩りのごときヴァンパイア&ライカンの殲滅作戦に巻き込まれた主人公セリーンが、共に逃げようとして彼女の恋人であるヴァンパイアとライカンの混血種であるマイケルと離れ離れになり、囚われの身となるところから始まることになります。

人間達の追撃から逃れるために、重症を負ったマイケルと共に海に飛び込んだものの、手榴弾?によってマイケルから強引に引き離され意識を失ってしまったセリーン。
そして次に彼女が意識を取り戻す直前、意味ありげな物音と騒ぎ声が聞こえてきます。
セリーンは間低温冷凍化されて「被検体2」としてアンティジェンという会社で実験台にされていたのですが、何者かの手によって覚醒させられることになるのでした。
アンティジェン社側も直ちに異変に気づき、セリーンを制圧しようとするのですが、覚醒したばかりのセリーンによってたちまちのうちに返り討ちにされてしまいます。
そしてセリーンがビルの窓を割って外へと逃走する寸前、「被検体1と合流するだろうから泳がせろ」と社員に指示する人間の声が聞こえてきます。
逃走後、セリーンは最初に襲撃された埠頭へと向かうのですが、そこにいた警備員?の人から、自分とマイケルが人間に襲撃されたあの日から実に12年もの歳月が経過していることが判明します。
セリーンは、脱出の際に聞こえた指示にあった「被検体1」がマイケルのことなのではないかと考え、件の人物を探し出して締め上げ「被検体1」についての情報を引き出そうとしますが、結局分かったのは「被検体1」がアンティジェン社から逃げたという事実だけ。
そんな中、セリーンの視界に突然、自分以外の何者かの視点による幻覚的な光景が映し出されるという現象が発生します。
その幻覚を自分に見せた者がマイケルなのではないかと考えたセリーンは、幻覚で見えていたのと同じ場所へと赴き、幻覚の情報に基づいて地下へと向かいます。
そこでセリーンは、ライカン族とおぼしき人狼から逃走していたヴァンパイアのデビッドと出会います。
そこでさらにセリーンは、先ほどと同じ幻覚現象に再び襲われ、幻覚の主がライカン族に追われている事実を知ることになります。
当然のごとく幻覚の情報に基づき、ライカン族を片っ端から殲滅にかかるセリーン。
そして、あらかたライカン族を片付けたところでセリーンが見つけ出したのは、しかしマイケルではなくひとりの少女なのでした……。

今作でちょっと残念だったのは、「ヴァンパイアとライカンの抗争に人間が加わった」というせっかくのコンセプトが充分に生かしきれていないという点ですね。
確かに序盤はアンティジェン社の人間がセリーンの敵として立ちはだかるのですが、実は物語の後半で、アンティジェン社の主要幹部達が「人間になりすましたライカン族」であることが判明するんですよね。
彼らは「ライカン族は殲滅された」という偽りの報告を政府機関などに対して行い、ライカン族の仲間達を陰から助けていた一方、自分達の弱点である銀を克服し、従来のライカンをはるかに強力にする薬品の研究開発を行っていたのでした。
ところがこの設定があるために、作中の人間達は「三つ巴の争いを繰り広げる三勢力の一翼」ではなく「ライカン族に利用されているだけの主体性なき勢力」でしかなくなってしまっており、結局これまでのシリーズ作品と同じ「ヴァンパイア VS ライカン」という構図が形を変えて繰り返されているだけでしかないんですよね。
映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉」におけるイギリス軍・スペイン軍・海賊が繰り広げていたような「三つ巴の争い」を楽しみにしていた私としては、少々期待外れな感が否めなかったところです。
まあ今作は「マイケルの行方」などいくつかの謎を残したまま終わっていますし、続編があることを前提に「今後の戦いのプロローグ」的な位置付けで製作されていることが結末部分を見ると一目瞭然ですから、今後の続編で本当の「三つ巴の争い」が展開されることを期待したいところではあります。
主人公セリーンのアクションシーンはカッコ良く見所もあり、88分の上映作品としては比較的まとまってはいましたけどね。

ハリウッド映画定番のアクションシーンが好きな方には垂涎の作品ではありますが、過去作について知らない方は、予めそちらを先に観賞してから今作に臨むことを強くオススメしておきます。

映画「ヒューゴの不思議な発明(3D版)」感想

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映画「ヒューゴの不思議な発明」観に行ってきました。
ブライアン・ セルズニックの小説「ユゴーの不思議な発明」を原作とする、マーティン・スコセッシ監督の冒険ファンタジー作品。
「ヒューゴ」は「ユゴー」の英語読みで、今作の主人公ヒューゴ・カブレのフランス読みでの正式名はユゴー・キャブレなのだとか。

今作は本来、2012年3月1日に日本で封切られるはずの映画で、当初は映画料金1000円のファーストディ(映画の日)でもあるその日を狙って観賞する予定でした。
ところが今回、以前にたまたま気まぐれで応募していた試写会に当選するという幸運に恵まれ、予定よりも早い観賞となったのです。
正直、過去にTV局が主催していた試写会に何度か応募した際には全く音沙汰がなかったこともあり、今回まさか当選するとは思ってもいなかっただけに、全く望外の幸運でした(^^)。
今回は3D日本語吹替版での観賞となりましたが、試写会当選ということで3D料金も当然無料化されており、お得感はさらにひとしお(^^)。
しかも今作の3D版は、昨今の3D映画としては非常に珍しいことに、物語全般を通して立体感のある映像が展開されており、3D料金そのものの問題を除外すれば、ひとまず観ても損はしない程度の出来には仕上がっております。
3D映像の撮影では、2009年公開映画「アバター」と同じ3D-フュージョン・カメラ・システムを採用しているとのことで、それだけに3D映像的には、その「アバター」以来のヒットとすら言えるものなのではないかと。
……まあこんな評価をしなければならないこと自体、「詐欺同然のボッタクリ商売」とすら評しても言い過ぎではない昨今の3D映画の惨状を物語ってはいるのですけどね(-_-;;)。

物語の舞台は、1930年代のフランス。
首都パリのリヨン駅にある時計台でただひとり隠れて暮らしている主人公ヒューゴ・カブレは、駅の各所にある時計のネジを巻きながら、駅で売られている商品を盗むことで生活を成り立たせている少年。
ある日、ヒューゴは駅内にあるおもちゃ屋で、ネジを巻くと走行するネズミ型のオモチャに目をつけます。
店番の老人が眠っているのを確認し、隙を見計らってネズミ型オモチャを奪取……できるはずだったのですが、老人は眠っているフリをしていただけで、ネズミ型オモチャに手を伸ばしたヒューゴの腕をあっさり掴んでしまいます。
盗みの現行犯を捕らえた老人は、ここぞとばかりに他に余罪がないかを確認すべく、ヒューゴの所持品検査を始めます。
「鉄道公安官を呼ぶぞ」と脅しつつ、ヒューゴのポケットから次々に所持品を出させて確認していく老人でしたが、ヒューゴが所持していた手帳の中身を確認したところで顔色が変わります。
ヒューゴはヒューゴで、他の物品には大した関心も持たなかったのに、その手帳だけは執拗に「返してくれ」と老人に迫ります。
ところが老人は、「この手帳はもう私の物だから私がどうしようと勝手だ、家に帰って燃やす」とヒューゴを追い払い、そのまま自宅への帰途についてしまいます。
手帳を諦められないヒューゴは老人を自宅まで追跡し、老人の同行を監視するのですが、そこでヒューゴは老人の関係者とおぼしきひとりの少女と出会います。
老人のことを「パパ・ジョルジュ」と呼ぶその少女は、手帳に執着するヒューゴを見て「パパ・ジョルジュと正面から粘り強く交渉すれば手帳は返してくれるはず」と忠告し、その場は「手帳は燃やされないように私が見張っておくから」とヒューゴを退散させるのでした。

ヒューゴがパパ・ジョルジュに奪われた手帳に固執するのには理由がありました。
件の手帳は、かつて時計店を営んでいたヒューゴの亡き父親が、とある博物館から手に入れた機械人形と共にヒューゴに残した形見だったのです。
ヒューゴの父親は、仕事をしていた博物館で火事に巻き込まれ帰らぬ人となり、その後ヒューゴは、親戚に当たるクロードおじさんに、自分に代わってリヨン駅の時計を管理するよう命じられ、現在に至るのでした。
そのクロードおじさんも今では行方知れずとなり、今や身よりもなく天涯孤独の身となってしまったヒューゴ。
そんなヒューゴにとって、父親が残してくれた機械人形と手帳は、父親の形見であると同時に心の拠りどころでもあるのでした。
手帳には、ヒューゴの父親が残した機械人形のことについて記されており、それがなくては機械人形の修理や起動に支障をきたしてしまうのです。
とはいっても起動については、手帳とは別にハート型の鍵が必要であることが既に判明していたりするのですが。
ともあれ翌日、ヒューゴは再びパパ・ジョルジュの店に姿を現し、手帳を返すよう再度頼み込むことになります。
ところがそれに対してパパ・ジョルジュがヒューゴに提示したのは、ハンカチに包まれた一握りの灰でした。
手帳が燃やされたと考えたヒューゴは、絶望のあまりその場から走り出してしまいます。
しかし、曲がり角を曲がろうとしたところでヒューゴは、昨日出会った少女と再び遭遇することになります。
少女は手帳が燃やされていないことをヒューゴに告げると、彼を図書館へと連れて行きます。
以後、ヒューゴはパパ・ジョルジュの養女でイザベルと名乗るその少女と共に、機械人形の謎と、手帳の奪取に奔走することとなるのですが……。

映画「ヒューゴの不思議な発明」は、内容的には「大人よりも子供向けに製作された作品」というイメージが強いですね。
主人公が10代前半の少年少女ということもさることながら、ストーリー的にも残虐描写などが一切なく、常に子供視点で描かれ、かつ童話的な雰囲気に溢れた世界観が披露されていましたし。
作品そのものの方向性としては、去年観賞した映画「SUPER 8/スーパーエイト」をさらに低年齢向けにした感じ、といったところでしょうか。
もっとも、作中の設定や謎には特にSF的・オカルト的な要素が存在するわけではなく、作中で展開されるアクション的かつ派手な描写も、鉄道公安官とヒューゴの追いかけっこと、就寝しているヒューゴの脳裏で展開されている悪夢くらいなものなのですが。
親子連れなどで観賞するには最適の作品と言えるかもしれませんが、正直「大人だけで観に行く」という主旨にはあまり向いていない映画なのではないかと。

物語の序盤でヒューゴから手帳を奪い対立した「パパ・ジョルジュ」と呼ばれている老人には実は別に本名があったりします。
ヒューゴの父親が残した機械人形とイザベルの証言から分かるのですが、老人の本名はジョルジュ・メリエス。
実はこのジョルジュ・メリエスというのは架空の存在ではなく、かつて本当に実在していた人物で、映画の創世記に「世界最初の職業映画監督」として活躍した人物だったりするんですよね。
機械人形が作中で描いていた「月の右目に弾丸が直撃している絵」も、ジョルジュ・メリエスが製作した映画の代表作「月世界旅行」の有名な描写だったりしますし。
作中では、これらの事実からジョルジュ・メリエスの「挫折した過去の記憶」が披露され、そこから立ち直る過程が描かれることになります。
ただ、今作が予告編などで紹介されていた際、「世界を修理する」といった類の宣伝文句を何度も聞かされていたこともあって、「その謎の真相がこれなの?」と少々肩透かしを食らった気分にはさせられました。
あの宣伝内容を聞く限りでは、件の機械人形には文字通りの世界の趨勢に何らかの影響を与えるかのような巨大な秘密が隠されており、最終的にはとてつもなくスケールの大きな物語にまで発展していくのではないか、と期待させるものがありましたからねぇ(-_-;;)。
確かに、ジョルジュ・メリエスやヒューゴ、および彼ら2人の周囲の人間にとっては極めて重要な「世界」であり、かつ自分達の心の傷を「修復」していくものではあったのでしょうが、同時に映画を観賞している観客的には「だから何?」としか言いようのない「世界」でもあったりしてしまうわけで。
過去のショックや心の傷から立ち直っていく、という主旨ならば、この間観賞した映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の方が、演出も構成もはるかに上手く共感もしやすかったですし。
正直、映画の宣伝があまりにも明後日の方向を向いた誇大広告に過ぎたのではないかとすら、ついつい考えざるをえなかったところです。

冒頭でも述べたように、3D映像は近来稀に見る秀逸な出来ですし、ストーリーも余計な先入観を抜きにして観賞するならば普通に見れるものではあるでしょう。
ただ、「映像が綺麗で良く出来ている」ことと「映画が面白い」というのは本質的に全く別のカテゴリーに属する話なのだなぁ、とは、この映画を観るとつくづく痛感せざるをえなかったところですね(T_T)。

冠婚葬祭を避けたがる人達の本音

結婚しても結婚式を挙げないカップルが年々増えているのだそうです。
全国の主要8都市における結婚式の数は、2000年で9万件だったのに対し、2011年では5万件余にまで減っているのだとか。

http://megalodon.jp/2012-0223-2108-39/www.j-cast.com/2012/02/20121949.html?p=all
>  結婚しても結婚式を挙げないカップルが、年々増えている。その背景には、社会や経済の大きな変化があるようだ。
>
>  「結婚式・披露宴ってやらないと後悔しますか?」「結婚式を挙げないのは非常識ですか?」…
>
>  「お金をかける価値を感じない」
>
>  ネット上のQ&Aサイトでは、こんな質問が次々にアップされ、ちょっとした議論になっている。
>
>  それを反映するように、統計上でも、結婚式をしないカップルの割合が増えてきた。
>
>  経産省の特定サービス産業動態統計調査によると、
全国の主要8都市について、結婚式の件数は、調査を始めた2000年は、約9万件だった。それが、11年には、5万件余と半分近くになっている。結婚した数は、厚労省の人口動態統計によると、2000年の80万組から11年の67万組へと2割弱しか減っていないため、結婚しても式を挙げないカップルの割合が高くなっていることが分かる。
>
>  全国における動向は、最新の2005年をみると、結婚が71万組あったのに対して結婚式は35万件と、半分に留まっている。最近は、さらにこの率が低下している可能性が高いようだ。
>
>  こうした「結婚式離れ」が起きているのは、一体なぜなのか。
>
>  結婚情報サイト「エン・ウエディング」が11年4月に未婚の女性約900人に聞いたアンケート調査によると、
式を挙げない理由について、「お金をかける価値を感じない」「あまり目立ったことをしたくないので」という答えが複数回答可で最も多い6割を占めた。そのほかは、「主賓という立場が気恥ずかしい」(4割)「いわゆる結婚式・披露宴が好きではないので」(3割)などの順だった。

実は私も、結婚については「婚姻届は必要だが、結婚式をする必要はない」というタイプの人間だったりします(^^;;)。
結婚式はとにかくカネがかかる上、主賓としても招かれる側としても人付き合い&儀式が面倒でならないし、そこまで多大な労力を「浪費」してまで結婚式などやることに一体何の意義があるのか、とは何度も自問せざるをえなかったところで。
また最近では、結婚だけでなく葬式についても「葬儀はカネがかかる」「儀式や準備が面倒」などの理由から、身内のみ集まり火葬だけを行う「直葬」という形態が多くなっています。
遺体の埋火葬は法律で義務づけられていますが、葬式は別に「何が何でも行わなければならない」と法文化されているわけではないのですからね。
結婚式や葬式におけるこのような傾向は、昔と比べて人付き合いが薄くなってきた世相を象徴する光景ではあるのでしょうが、案外、「余計な冠婚葬祭をしなくても良くなった」と喜んでいる人は多いのかもしれませんね。
冠婚葬祭は、当事者ではなく参加者のためにある儀式である、とはよく言われていることですし。

日本に比べて宗教の力が強い欧米その他の国々では、この手の冠婚葬祭についてどのような本音を抱いているのでしょうかね?
こちらも日本と同様に「そんなことをして何になる」と考える人自体は少なからずいるとは思うのですが……。

銀英伝舞台版の製作メンバーが企画したらしい謎のツアー旅行

銀英伝舞台版公式サイトで「スペシャルツアー」と称する石川県ツアー旅行の参加者募集のページが公開されています。
期間は2012年3月24日~25日の一泊二日で、旅行中は銀英伝舞台版第一章「銀河帝国編」のDVD観賞が行われる他、総計5つの特典付とのこと。

銀英伝舞台版公式サイト
http://www.gineiden.jp/
第二章 自由惑星同盟編 トップページ
http://www.gineiden.jp/doumei/
銀河英雄伝説 スペシャルツアー2日間 募集
http://www.gineiden.jp/doumei/special02.html
銀河英雄伝説 スペシャルツアー スケジュール詳細(阪急交通社)
http://www.hankyu-travel.com/tour/detail_d.php?p_course_id=47900&p_hei=10

件のツアー旅行では、石川県能登半島のコスモアイル羽咋に訪問後、能登ロイヤルホテルに宿泊し、翌日は輪島朝市および輪島塗漆器工房に立ち寄りショッピング等を楽しんだ後、東京へ帰還する予定なのだとか。
しかし何故銀英伝関連のツアー旅行として石川県が選定されるのでしょうか?
「コスモアイル羽咋」というのは地元の宇宙科学博物館とのことなのですが、「宇宙」繋がりというだけで銀英伝と関連付けられるというのも少々乱暴な論理なのではないかと。
宮殿の名称絡みでドイツの「サンスーシ宮殿」への見学、というコンセプトの方が、まだ銀英伝との関連性が見出せるのですが。
ちなみにこの企画は、下のツイートを見る限りでは「らいとすたっふ」も全く関与してはいないようで↓

https://twitter.com/adachi_hiro/status/172580510151884800
<舞台「銀河英雄伝説」、同盟篇のチケットも付いた北陸スペシャルツアーが企画されたとのこと。UFOの街、羽咋にある施設で舞台「銀英伝」第一章の上映もするらしい。凄い。どこへ行くんだ、舞台「銀英伝」は……。

https://twitter.com/adachi_hiro/status/172614975012089857
<@key_sasaki それが私もよく知らないのですよ。制作委員会のメンバーのなかに、企画力に富んだ人がたくさんいて、楽しい企画をどんどん考えてくれるんです。北陸ツアーなんて、ふつう思いつかないですよねえ(笑)。誕生日イベントも、きっと楽しいモノになりますよ!>

一体誰が、どんな理由ときっかけからこんなことを思いついたのでしょうかねぇ(苦笑)。
全くもって謎だらけの企画です。
まあ、「出発地点が東京」という時点で、熊本暮らしの私とは接点すらも見出しようのない企画ではあるのですが。

九州新幹線における熊本駅の利用状況

JR九州が発表した、九州新幹線鹿児島ルートにおける2011年4月~12月の各駅利用状況によると、熊本駅・新玉名駅・新八代駅・新水俣駅の熊本県内の駅全てで、1日当たり平均の利用者目標数に到達したのだそうです。
九州新幹線全線開業から、もうまもなく1年になるのですねぇ↓

http://megalodon.jp/2012-0222-2150-24/kumanichi.com/news/local/main/20120221005.shtml
>  JR九州(福岡市)は21日、九州新幹線鹿児島ルートの昨年4~12月の各駅利用状況を発表した。熊本駅は1日平均1万3550人と目標を450人上回り、好調さを維持。新玉名、新八代、新水俣の3駅も目標数を達成した。同社はてこ入れ策として昨年6月に導入した熊本~博多の「ビックリつばめ2枚きっぷ」を4月以降も1年間継続する。
>
>  熊本県内では、熊本のほか、新玉名も950人と目標を50人上回った。新八代と新水俣はそれぞれ目標通りの1950人、1000人。4~6月は熊本と新八代が目標を下回ったが、7月以降は関西や中国地方からの観光客が順調に増えたとみている。
>
>  鹿児島県では、鹿児島中央が1万4150人と目標を2500人上回ったほか、出水、川内も好調さを維持。半面、博多に近い筑後船小屋と新大牟田は目標を大きく下回った。
>
>  一方、
昨年3月12日~ことし2月19日の新幹線の累計利用者は前年の在来線特急比で熊本~鹿児島中央の66%増に対し、博多~熊本は38%増と目標の40%をやや下回った。
>
>  会見した唐池恒二社長は「博多~熊本は開業当初の不調が影響したが、その後盛り返しており、ほぼ想定したペースだ」と述べた。
>
>  同社は4月から、「ビックリつばめ2枚きっぷ」に付帯している1500円分の利用券の使い道として、現在のアミュプラザ博多に駅レンタカー九州熊本駅営業所を追加。博多発熊本行きの利用増を図る。
>
>  併せて、新たに博多~新玉名の日帰り2枚きっぷを4900円で発売。福岡市内~光の森の2枚きっぷ(7300円)も新設して割安感を打ち出す。(井村知章)

準備万端に整えていながら、 開業前日に東日本大震災に見舞われ「自粛」を余儀なくされてしまうという、これ以上ないほどに不幸なタイミングでスタートを切る羽目になった九州新幹線全線開業ですが、まずは最初の1年の課題突破は達成できたと言っても良いのではないでしょうか。
スタートダッシュで盛大にコケた挙句、その後も延々と客足が遠のく状態が続く、などという最悪のシナリオもありえたわけですし。
ただ、最初の1年は九州新幹線それ自体に物珍しさと観光スポットとしての魅力があり、それが集客を推進する原動力のひとつにもなったわけですが、これまでに開業した多くの新幹線路線がそうだったように、今後はその魅力も「そこにあるのが当たり前」という認識の浸透と共に少しずつ減少していくことになります。
もちろん、それは新幹線のみならず、公共交通機関としての本来あるべき正しい姿ではあるのですが。
全線開業して九州南北および本州を結んだ九州新幹線の真価が試されるのは、むしろこれからとなるでしょうね。

ところで、九州新幹線における熊本駅の1日平均利用者数が1万3550人とのことなのですが、これってここ数年の熊本駅の状況から考えると実は凄い快挙だったりするんですよね。
何しろ、九州新幹線全線開業前の熊本駅における1日平均乗車人数は1万人前後をウロウロしており、2009年には1万人を割り込んでしまうという惨状を呈していました。
それが九州新幹線だけでそれまでと同等以上の利用者数を獲得したということは、熊本駅全体の1日平均乗車人数が一挙に2倍以上に跳ね上がったことを意味するわけです。
それに加えて、九州新幹線から降りて既存の路線を利用したり、逆に既存の路線を使って熊本駅まで行き、九州新幹線を利用したりする人も当然いるわけですから、熊本駅の利用者数がさらに上乗せされることになるのは確実です。
これで、九州第3の都市であるにもかかわらず、九州内におけるターミナル駅としてはブービー賞、駅の寂れ具合では事実上の九州ワーストという歪な構図もようやく改善されることにはなりそうで、地元民としては何よりですね。

あと、熊本~鹿児島中央間の利用状況が大きく伸びているのに対して、博多~熊本間はやはり伸び悩み気味ではあるみたいですね。
まあこれは充分に予想できたことで、博多~熊本間が片道35分の所要時間しかかからないといっても、現実問題として「熊本駅に行くまで」がやたらと時間がかかるという事情がありますからねぇ。
熊本から福岡までだと、新幹線よりも高速道路を使った方が、熊本駅までの移動時間も含めて考えると逆に早いくらいですし、そのくせ料金も高めですし。
まあ熊本・福岡両市いずれかの中心街にオフィスを構えている会社や、熊本や福岡に出張するビジネスマンなどの場合はまた話も違ってくるのでしょうが、観光その他の用途で使う「足」としては、博多~熊本間はあまり使えない路線なのではないかと。
料金的にも時間的にも、競合関係にある高速バスを博多~熊本間で上回るのはかなり難しいのではないかと、今でも思えてならないのですが……。

九州新幹線および熊本駅には、今後も是非発展し続けてもらいたいものですね。

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