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映画「ロラックスおじさんの秘密の種」感想

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映画「ロラックスおじさんの秘密の種」観に行ってきました。
児童文学作家ドクター・スースが著した1971年の児童書「The Lorax」を原作とする、イルミネーション・エンターテイメント社制作の3DCGアニメ作品。
今作は3D版も同時上映されていますが、私が観賞したのは2Dの日本語吹替版になります。
今作の日本語吹替版は、ロラックスおじさんを「あの」志村けんが演じているということで話題になっていたりします。
というより、今作最大の売りは、この「志村けんが声優をやっている」という一事に尽きるのではないのかと(苦笑)。

物語の舞台は、全ての建造物はもちろんのこと、元来は自然のものであるはずの植物に至るまで全てが人工物でできている街。
その街は、オヘアという名の資産家が営む同名の大企業によって整備され、空気もきれいで環境も清潔に保たれていたものの、一歩街の外に出れば、よどんだ空気に不毛な大地がひたすら世界が広がっています。
オヘアは街を取り囲む巨大な外壁を作り、街の外に人が出ていくことのないよう、常に監視の目を光らせていました。
その街に住む今作の主人公である少年テッドは、オードリーというやや年上?の女の子が好きで、彼女の家に足しげく通う日々を送っていました。
ある日、ラジコン飛行機が家の中に落ちたという口実でオードリーの家を訪ねたテッドは、オードリーに自然の木が林立している絵を見せられます。
そしてオードリーは、「本物の木が見たい、それを見せてくれたらキスしてあげる」とまで言い切るのでした。
このオードリーの言葉に心を動かされたテッドは、テッド以上に変わり者の家族に本物の木のことについて尋ねます。
すると、テッドのおばあちゃんがそれに応え、街の外に住んでいるワンスラーという名の人物が本物の木のことについて知っていると教えてくれます。
翌日、テッドは街の外壁を越え、不毛の荒野と化している外の世界へバイク?を飛ばし、ワンスラーの元へと向かうのでした。
ワンスラーは前衛芸術のごとき建物に住んでいて、最初はテッドのことを邪険に追い払おうとします。
しかし、テッドの熱意に半ば負ける形で、やがて彼はかつて緑豊かだった昔の話を始めるのでした……。

映画「ロラックスおじさんの秘密の種」は、上映時間が86分と短い上、主人公のテッドがほとんど関わることのない、ワンスラーの昔話のエピソードが前半から中盤頃までのストーリーのほとんどを占めています。
ワンスラーの昔話から、何故今の完全人工物な街が出来上がったのかが分かるようになっているわけです。
しかしその代償は決して小さなものではなく、肝心のテッドが作中で活躍するのが物語も後半に入ってからのことになってしまっており、普通の映画と比較してもかなり薄味なストーリー感が否めないところなんですよね。
実質的なプロローグ部分が映画全体の半分近くも占めている、というのは正直どうなのかと。
また、今作のタイトルにもなっているロラックスおじさんは、ラストでワンスラーの元でちょっとだけ登場した以外は、全てワンスラーの昔話の中にしか存在しておらず、今作の主人公であるはずのテッドとは何の接触も関わりもなかったりします。
登場頻度もテッドが表に出てくるようになってからはラスト以外出番なしでしたし、もう少し主役級の活躍をするとばかり思っていたのですけどねぇ、ロラックスおじさんは。

ところで作中の物語は、街を牛耳る大企業のボスであるオヘアを諸悪の根源のごとく見立てて、それを打倒するという単純明快な勧善懲悪の形を取ってストーリーを進行させているのですが、ワンスラーの昔話を見る限り、そもそもこの構成自体に疑問を抱かざるをえないところですね。
そもそも、例の完全人工物の街ができ、かつその外の世界が不毛の大地と化してしまった最大の原因は、スニードという商品を売るために見境なく木を切り倒させまくったワンスラー自身が全ての元凶です。
彼はロラックスおじさんの警告を無視してまで森林伐採を続けていたのですし。
しかも、スニードの原料となる木が根こそぎなくなってしまったらスニードが製造できなくなってしまうことくらい、木を伐りつくす前に簡単に予測できそうなものなのですが。
ワンスラーは目先の利益にこだわるあまり、継続的に利益を上げ続けるという企業経営者としての視点が皆無と言って良く、その点では無能のそしりを免れないでしょう。
むしろ、森林が復活したら自社の空気販売ビジネスが成り立たなくなってしまうという危機感を抱いていたオヘアの方が、企業経営者としてははるかにマトモです。
せめて、スニード製造用の木がなくなる前に植林をするとか、木を切り倒さずにスニードの原料を効率良く集められる技術を開発するとか、そういったことを考えることすらできなかったのですかね、ワンスラーは。
そうすれば、ロラックスおじさんの要求とスニードの製造の双方を満たすことも可能だったというのに。
ラストのワンスラーとロラックスおじさんとの再度の(作品的には)感動的に描いているはずの邂逅も、不毛の大地を生み出し自然の動植物に多大なダメージを与えたワンスラーの責任を不問にしていますし、到底納得のいくものではなかったですね。
ロラックスおじさんはワンスラーに対して「よくやった」などと声をかけていますが、当のワンスラーはテッドに種をやっただけであり、街の真ん中に種を植えるという偉業を成し遂げたのはテッドではありませんか。
「ロラックスおじさんの秘密の種」はあくまでもテッドが主人公かつ彼の物語なのであり、間違ってもワンスラーの物語などではありえないのですが。
物語構成における主人公の配分を間違っているのではないかとすら、考えずにはいられなかったですね。

あと、ワンスラーの昔話に登場していたワンスラーの家族、特に母親はワンスラーのことをひたすらバカにしていたのですが、ワンスラーはその家族に対して終始全く頭が上がらない態度を取っているんですよね。
あの家族はワンスラーのことを寸毫たりとも愛してなどおらず、のみならずワンスラーのことを利用するだけ利用して最後は投げ捨てるかのごとく夜逃げをしていったのですが、ワンスラーもこんな家族のことなんて気にかけなければ良かったのに、とはついつい考えずにいられなかったですね。
むしろ、ある程度財を築いた時点で、財力に物を言わせて追い詰めるなり、暗殺者を雇うなりして、あの家族をこの世から社会的・物理的に抹殺すらしても良かったくらいだったのではないのかと。
人手不足だからって別に家族など呼ばなくても、スニード製造がカネになることは最初から分かり切っているのですから、現地住民をカネで雇うなり、あるいは最初はロラックスおじさんと森の動物達に手伝ってもらうところから始めるなりした方が、却って森林を保全したまま事業を拡大するというやり方も可能だったのではないのかと。
視野が狭く自分のことしか考えない利己主義な家族を切り捨てることができなかったことも、ワンスラーの致命的な誤りのひとつだったと断定しえるでしょう。

映画「ロラックスおじさんの秘密の種」は、上映時間が短いこと、特に後半の展開が単純明快な図式であることから、完全に低年齢層を対象とした映画ですね。
子供だけで行くか、あるいは親子連れで楽しむための作品と言えそうです。

映画「ツナグ」感想

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映画「ツナグ」観に行ってきました。
辻村深月の同名小説を原作とする、人の死と死後の再会をテーマとするファンタジー要素を含有した人間ドラマ作品。

その街には、ひとつの都市伝説が存在しました。
生涯でたった一度かつひとりだけ、死んだ人と再会させてくれる仲介人「ツナグ」という名の存在。
多くの人が一種のヨタ話として信じない中で、「ツナグ」は実在し仲介活動を行い続けていました。
その噂話や存在の話を知る人が、その存在を信じ、さらに「ツナグ」と何らかの形で連絡が取ることができ、そして何よりも「死者が生者と会うことを承諾する」ことによって初めて実現する、ツナグを介した死者と生者との邂逅。
そこには、死者と生者、そして「ツナグ」の3者を取り巻く複数のルールが存在します。

1.死者が「生者に会いたい」と「ツナグ」に依頼をすることはできない。
2.死者・生者共に「死」の壁を越えて会えるのはひとり1回だけ(ひとりの生者が「ツナグ」に複数回依頼することができないのはもちろんのこと、複数の生者がひとりの死者相手にそれぞれ1回ずつ会うこともできない)。
3.死者と生者が会えるのは月が出る夜、日没から夜明けまでの限られた時間のみ。それが過ぎると死者は消滅する。
4.「ツナグ」自身は1回たりとも死者に会うことを望むことはできない(ただし、「ツナグ」を引退したり「ツナグ」になる前であれば別)。
5.「ツナグ」になるためにはとある鏡の所有者になることが必須条件。その鏡を使うと、特定の死者と会話をすることができる。
6.「ツナグ」以外の者が鏡の鏡面部分を直接見た場合、その鏡を見た者と「ツナグ」の双方が死ぬ。

なお、作中で「ツナグ」の仕事に従事していた渋谷一家は、「ツナグ」の仲介で依頼者からカネを取るといった行為は一切行っていませんでした。
「ツナグ」の仕事でカネを取ってはいけない、というルールは特になかったようなのですが。
作中でも言われていたように、人生に立ち会うという重い仕事を担うことになる「ツナグ」が無報酬というのは、正直割に合わない感が否めないところではあるのですけどね。

作中における「ツナグ」を担う人間は、今作の主人公・渋谷歩美(こんな名前なのに男性だったりします(^^;;))の父方の祖母である渋谷アイ子。
渋谷アイ子の生家は、先祖代々「ツナグ」の仕事を担い続けてきた秋山家という家で、現在は渋谷アイ子の兄である秋山定之がひとりで家を維持しているようです。
秋山定之もかつては「ツナグ」として死者と生者の仲介を行った過去があったものの、渋谷アイ子にその地位を譲ったのだとか。
渋谷歩美は、渋谷アイ子から「ツナグ」の話を聞かされ、半信半疑ながらもその見習いを自主的に引き受けていたのでした。
その彼が作中で直面することになる「ツナグ」見習いとしての仕事は、以下の3人の人物からの仲介依頼となります。

1.ガンで亡くなった母親がどこかにしまってそれっきりとなっている土地の権利書を聞き出すことを目的としている、個人経営の木材精製所?の社長・畠田靖彦。
2.演劇部の主役を巡り、自分を差し置いて主役に抜擢された親友・御園奈津に殺意を抱き、その直後に事故死してしまったことに罪悪感と恐怖心を抱いている嵐美沙。
3.7年前に突如失踪して行方どころか生死すら不明の恋人・日向キラリを想い続けるサラリーマンの土谷功一。

この3つの依頼に基づく「死者と生者の仲介」を通じて、渋谷歩美は「ツナグ」の仕事とその心得について実地で学んでいくことになります。
また渋谷歩美は両親が既に他界しているのですが、その両親の死には疑惑が付きまとっており、その疑惑についても彼は向き合っていくことになります。
その結末と真相は、一体どのようなものとなるのでしょうか?

映画「ツナグ」では、主人公である渋谷歩美役を松坂桃李が主演として担っています。
私が彼の存在を初めて知ったのは、2010年に銀英伝舞台版で彼がラインハルト役を担当することが公式サイドから発表された時だったのですが、その頃と比べても彼が映画界その他でメキメキと頭角を現しているのが分かりますね。
その後、私が観賞したことのある映画に限定しても「アントキノイノチ」「麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜」などに出演暦がありますし、「ドットハック セカイの向こうに」でも登場人物のひとりの声優を担当していたりします。
Wikipediaを参照してみると、実際にはさらにそれ以外の映画やテレビドラマ、さらにその他色々な分野でも活躍しているみたいですし。
芸能・スポーツ分野には人並以上に疎く、初めて名前を知った頃に「誰だこいつは?」とすら考えていたほどの私がこれだけ名前を見かける覚えていることができるというのは、俳優としては結構成功している部類に入るのではないかなぁ、と(苦笑)。
また、今作で渋谷歩美の依頼者のひとりとなっていた嵐美沙役の橋本愛も、私が観賞している映画の中では「HOME 愛しの座敷わらし」「スープ ~生まれ変わりの物語~」「アナザー/Another」に続き今年4作目。
こちらも現在人気上昇中といったところのようですね。
ただ、今作では序盤から意味ありげに出演していたことから、ひょっとすると主人公と恋愛関係にでもなるのかと考えていたら、作中ではあくまでも依頼者のひとりという立場のみで終わっていたので、その辺は少々肩すかしを食らったところではあったのですが。

3人の依頼者による死者との対面は、そのいずれもが少なからず印象に残るものではあったのですが、個人的にも最も強烈だったのは、橋本愛が演じた2人目の依頼者である嵐美沙のものでした。
残り2者が動機や過程がどうであれ「死者に会いたい」という願いそのものは本物だったのに対して、彼女だけは親友の御園奈津に対して「自分が殺してしまった」という負い目と「そのことが他者にバレたら…」という恐怖心を抱いていて、どちらかと言えば「親友に会いたい」よりも「自分の負い目と恐怖心を払拭するため」という思惑の方が強かったわけなのですから。
御園奈津は御園奈津で、嵐美沙の思惑や自身への殺意を知っていたようでしたし、「ツナグ」見習いの渋谷歩美を介して、嵐美沙を試していたかのようなスタンスを最終的に披露したりしていました。
あそこまで嵐美沙のやっていたことを知っていたのならその心情を理解することもできたでしょうに、御園奈津も残酷なことをするよなぁ、とあの場面ではつくづく考えずにはいられなかったですね(T_T)。
あのやり取りのせいで、嵐美沙は間違いなく一生ものの後悔を背負うことになってしまったのではないかと思えてならないのですが。
御園奈津にしてみれば、長年親友関係をやっていた嵐美沙との友情を疑いたくなかった、という心情も働いてはいたのでしょうけど、どうせ今後の御園奈津と嵐美沙は、嵐美沙が死ぬまで二度と会うことはないわけですし、真相を自分の胸にしまったまま嵐美沙の負い目と罪悪感を当人の希望通りに払拭してやっても良かったのではなかったかと。
ただ、嵐美沙が懸念していたであろう「御園奈津を殺そうとしていたことが御園奈津の口から他者にバレたら……」という問題については、「ツナグ」を介して自分が御園奈津と出会った時点で雲散霧消してしまってはいたのですけどね。
「ツナグ」のルール上、今後の御園奈津が「ツナグ」を介して他者と出会うことはできなくなったわけですし、その点ではひとつの目的は達成していると言えるのではないでしょうか。

あと、映画「ツナグ」における「仲介者としてのツナグの存在とその小道具」は、もし実在するならば政府機関やマフィア、および彼らに派遣されるであろう暗殺者や刺客などに付け狙われる要素となりえるでしょうね。
何しろ「ツナグ」がいる限り、「口封じで暗殺」という手法は一切通用しなくなってしまうのですから。
「ツナグ」がいれば、口封じで殺されたしまった被害者から、事件の真相や加害者の正体などを聞き出すことも可能となるのです。
加害者側にしてみれば、「ツナグ」から口封じの被害者が生者と対面し真相を暴露するような事態は何としてでも防がなくてはなりませんし、逆に被害者側にとっての「ツナグ」の存在は、加害者に一矢報いるための必勝必殺の武器となりえます。
「ツナグ」を巡っての政争や争いが起こっても何ら不思議なことではありませんし、これがアメリカであれば、CIAやFBIに大統領直属のシークレットサービスなども絡んだ一大スパイアクション映画的な作品にでも変貌していたのではないかと(笑)。
そこまでスケールのデカい話でなくても、たとえば迷宮入りした殺人事件などで、死者に直接犯人を尋ねたり真相を語らせたりすることもできるでしょうし、個人的な用途以外にも使い道はかなりのものがありそうなのですけどねぇ。
実際、作中でも「母親から土地の権利書について聞きだす」だの「殺意の真相が他者にバレたらどうしよう」などといった、「ツナグ」依頼者達の事情が描写されていたりしているのですから。
「死者から直接情報を引き出せる」というのは、そこまで大きな価値が伴うことなのですが。

他にも、「ツナグ」になるために必須となる鏡の存在も、本来の用途とは全く異なるものでありながら極めて有効な使い方がありますね。
「ツナグ」のルールにもあるように、あの鏡は「ツナグ」以外の者が鏡面部分を見ると当人および「ツナグ」が死ぬようになっています。
ということは、あの鏡の鏡面部分を他者に見せることで、その他者を死に至らしめることも可能、ということになります。
つまりあの鏡は、メドゥーサの首のごとく「人を殺すための武器」としても活用することができる、ということになるわけですね。
渋谷歩美の両親の死の原因がまさにそれだった(当時「ツナグ」だった父親の鏡を母親が見てしまった)わけですが、当時の警察での調べでは「母親が父親に殺され、直後に父親も自殺した」とされていました。
これから分かるのは、鏡を使った殺害では、その凶器ばかりか死因の真相すらも満足に暴くことができない、という事実です。
あの鏡は、やり方次第では「完全犯罪」をも可能にする凶器となりえるわけですよ。
歴代の「ツナグ」がそんな鏡の使い方をしなかったのは、何と言っても「ツナグ」自身の生命に関わる事項である以上当然と言えば当然なのですが、逆に言えば自分が「ツナグ」にさえならなければ、他者「だけ」を殺すことも可能となるわけでしょう。
「ツナグ」の件を抜きにして考えても、あの鏡を欲しがる人は欲しがるのではないかと思えてならなかったですねぇ(^^;;)。
……「ツナグ」とは全くの対極をなすであろう、どこか「デスノート」を髣髴とさせる「ルールを逆用したゲーム」のごとき使用方法ではあるのですが(苦笑)。

ストーリー的には「死者と生者との対面」を巡る死者と生者それぞれの葛藤や本音のぶつかり合いが面白く、充分に楽しめる仕上がりになっています。
「映画はアクションシーンや迫力ある映像が全てだ!」という嗜好の人でなければ、多くの方にオススメの作品ではないかと思います。

映画「最強のふたり」感想

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映画「最強のふたり」観に行ってきました。
頸髄損傷による首から下の全身麻痺のために不自由な生活を余儀なくされている大富豪が、スラム街の黒人青年を介護士として雇ったことから始まる、フランスのヒューマンコメディドラマ作品。
今作は本来、日本では2012年9月1日から全国公開されているのですが、熊本ではどういうわけか10月6日が解禁日となっており、実に1ヶ月以上遅れての映画観賞となりました。
2012年9月は、他ならぬ私自身が1ヶ月フリーパスポートを使ったほどに映画館での上映開始作品が特に集中していたので、上映のためのスクリーンが埋め尽くされていたことによる皺寄せでもきていたのでしょうが、こんなところにも地域間格差というものはあるのかと、改めて思い知らされた気分です(T_T)。
しかも、この映画はPG-12指定されているのですが、作中の最初から最後まで見ても、直截的なバイオレンス&セックス描写といったものがこれといって特に見られなかったんですよね。
おそらくは、「障害者の性生活の実態」という生々しい下ネタ話が作中に出ていたことから規制に引っ掛かった、といったところなのでしょうが、映画「Black & White/ブラック&ホワイト」などのように、作中に下ネタ話がいくら出てもPG-12指定されなかった作品も過去にはあったりしたのですけどねぇ。
この手の規制って、一体何を基準にしているのだろうなぁと。

物語は、黒い高級車を乗り回す2人の男が、スピード違反をやらかし警察に追われるところから始まります。
高級車は警察から逃げ続けますが、1台のパトカーに前方へ回り込まれ、前後から挟み撃ちの形であえなく御用に。
しかし、運転手に乗っていた黒人男性がとっさに機転をきかし、助手席に乗っていた男性が警官達に対し「障害者で一刻を争うから病院に向かっていた」と証言します。
高級車の後部に車椅子が乗っていること、そして何よりも助手席の男が発作を起こしている様相を見せることで、警官達もさすがに緊急を要すると判断せざるをえなくなります。
そして2人に対し、自分達が病院まで先導するとまで申し出てきたのでした。
実は助手席の男の発作は演技もいいところで、警察の車に先導されていた間、2人は音楽を車内で音楽をならして歌っていたりするのですが(笑)。
そして、警察の先導で病院に到着し、警察車両が去っていくのを見計らった上で、2人は病院のスタッフが駆け寄るのを尻目にさっさと車をどこかへ発進させてしまうのでした。

ここで場面は切り替わり、いよいよ2人の関係について描かれることになります。
物語冒頭で高級車を運転していた黒人男性の名はドリス。
彼は、同じ高級車の助手席に乗っていた、頸髄損傷で首から下の感覚が完全に麻痺してしまっている大富豪のフィリップの介護士となるための面接に臨んでいました。
給与も期待できるであろう大富豪の介護士ということもあり、フィリップの元にはドリスを含め多くの介護士志望者が面接に訪れていました。
彼らは口々に自分の介護の資格や実績・経験などを語り、表面的には文句のつけようもない美辞麗句の数々で自分をアピールしていました。
ところがドリスはというと、彼は別に介護士になるつもりなど最初からさらさらなく、不採用の証明書にサインをもらうことで失業手当をゲットすることが目的という、何とも下心丸出しの動機から面接を申し込んでいたのでした。
そして、面接の場で当のフィリップと面接官と相対した際も、そのことを隠しもせずに自分の目的を最初から堂々と開陳して「不採用証明書へのサイン」を迫るドリス。
かくのごとくふてぶてしい態度を披露するドリスに対し、面接官は当然のごとく呆れ顔でしたが、介護される立場のフィリップはしかし、ドリスに興味を持ったかのように自ら話しかけ始めます。
他の志望者達に対しては自ら発言することなく、終始面接官に対応を任せ切っていたフィリップが、です。
そして一方、ドリスが要求している「不採用証明書へのサイン」については「すぐには決められないので、明日の9時にもう一度来てくれ」と返答を返します。
言質を取ったことで、ドリスはさっさとフィリップの元を辞してしまいます。
しかしその夜、久しぶりに実家へ戻ったドリスを、家の主である(これは後で判明するのですが)伯母が勘当を言い渡し、彼は実家から追い出されてしまうのでした。
翌日、早朝から出てきたドリスに対し、フィリップは2週間の試用期間を設けて雇うことをドリスに告げるのでした。
実家を勘当されてしまったこともあり、ドリスはフィリップの屋敷で住み込みで働くことを承諾するのですが……。

映画「最強のふたり」では、大富豪のフィリップとスラム街出身のドリスが、互いに良きコンビとなっていく様子が描かれています。
ドリスは「雇い主かつ障害者」という、ある意味非常に逆らい難い無敵の組み合わせであるはずのフィリップに対して全く遠慮というものがなく、ズケズケと本音を語り情け容赦もない言動に終始しています。
しかし、それが他者から同情されることにウンザリしていたフィリップにとっては最高の対応でもあったわけなのですから、その点では何とも皮肉な話ではありますね。
物語後半でドリスは一度クビになり、後任の介護士が新たに雇い入れられるのですが、その人物は明らかにフィリップに遠慮があり、腫物でも触るかのような対応ばかりするありさまでしたし。
フィリップに雇われた介護士達は、ドリスが来るまでは1週間持たずに辞めているケースがほとんどだったそうですが、なるほど、アレではさもありなんと納得せざるをえないところです。
一方で、秘書のマガリや家政婦?のイヴォンヌなどといったフィリップの周囲の女性達がフィリップとそれなりに上手くやっていたらしいことを考えると、フィリップの介護にはドリス以外だと男性ではなく女性でも雇った方が却って良かったのではないか、これまたついつい考えずにはいられなかったですね。
自分に遠慮する介護士達に厳しく当たっていたフィリップも、女性が相手の場合だとさすがにそういう態度に出るのも難しくなるでしょうし。
まあ、着替えやシモの世話などに至るまで介護しなければならないという条件下では、素直に雇われてくれる女性は少ないかもしれませんが、病院の女性看護師とかであればそういう仕事も日常茶飯事でしょうし、高給で釣ればその点も何とかなったのではないかと思えてならなかったのですが。
フィリップも別に、ドリスが来るまでは「介護士と友人になりたい」という動機から男性介護士を雇っていたわけではなかったのでしょうから、男性にこだわらなければならない理由なんて特になかったのではないのかと。

この作品で意外に興味深かったのは、「障害者の性処理問題」についても言及されていたことですね。
フィリップは首から下の感覚が完全に麻痺してしまっていることから、健康体の男性が通常行っている性処理を行うことができません。
では彼は何を以て性処理を行っていたかというと、耳を性感帯にして「感じる」ことで代替手段としていたというんですよね。
ドリスの質問に対して、フィリップ本人がそのように回答していて、実際、2人でその手の施設に行ってフィリップが耳たぶを女性のマッサージ師?に触られている描写が作中で描かれていたりします。
「障害者の性処理問題」というのは意外に重要なテーマでありながら、巷ではほとんど言及されることがない事項だったりするので、それについて正面から向かい合っているこの作品は新鮮ではありましたね。
ドリスの性格もそうですが、この手の「全く飾り立てることのない本音の吐露」が今作最大の魅力である、と言えるでしょうか。

熊本のような上映開始が遅れている地方以外だと、もうとっくに上映終了しているであろう今作ではありますが、人間ドラマとして見る分には、さすが2011年度のフランスで最大の観客動員数を記録しただけの出来ではあります。
その手のドラマ好きな方にはオススメの映画と評価できるのではないかと。

新車プリウスの購入と乗車の感想

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2012年9月に、実に6年半ぶりとなる新車の買い替えを行いました。
新しい車は、トヨタ製ハイブリット車のプリウス。
ハイブリット車の導入は今回が初めてとなるのですが、さすが色々と話題になるだけあって、これまでのクルマとは一味違った機能と乗り心地を堪能しています。
今回はそんなクルマの話を少し。

私は地方在住ということもあり、クルマは元々生活必需品のひとつでもあります。
東京のような充実した鉄道網など地方には期待のしようもないのですし、ましてや私が住んでいる熊本県は、人口の割に鉄道網の整備が著しく遅れている地域なのですから、そうなるのも当然のことではあるのですが。
そんなわけで「日常生活の足」として必要不可欠なクルマなのですが、私の場合は「せっかくの足なのだから可能な限りよいクルマを」ということで、だいたい平均4~5年のスパンでクルマを買い替えるよう努めていたりします。
過去に私が購入したクルマは以下の通り(横の年代は所有していた時期)↓

スズキ カルタス(1995年~1999年)
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トヨタ カローラワゴン(1999年~2001年)
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トヨタ オーパ(2001年~2006年)
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トヨタ アイシス(2006年~2012年)
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クルマに慣れるための練習用として最初から割り切って買った最初のカルタス以外は、何故か全てトヨタ製のクルマだったりします(苦笑)。
今回も含めてその時々の買い替えの際には、一応ホンダや日産のクルマなども候補には入っていたのですが、結果的には「当て馬」にしかなっていなかった感じですね。
ちなみに今回の場合、「今度買う車は燃費の良いハイブリット車にしよう」ということが最初から決まっていたのですが、当初はプリウスではなく、トヨタのハイブリット車アクアとホンダのハイブリット車フィットシャトルが、買い替え候補として挙がっていました。

トヨタ アクア
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ホンダ フィットシャトル
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しかし、アクアは車体の全長があまりにも短すぎる(4mに満たず、アイシスと比較すると70㎝以上も短くなる)上、カーナビなどのオプションを色々とつけていたらプリウスに迫る購入価格にまでなってしまい(見積価格を比較したら20万弱程度しか差がなかった)、「それならば最初からプリウスにした方が良い」ということになって、あっさりとプリウスに取って代わられてしまいました(苦笑)。
そしてフィットシャトルの方は、車体や装備的にはまずまずのものがあったのですが、いざ試乗してみたら、どうにもその「パワーのなさ」が妙に引っかかってならなかったんですよね。
フィットシャトルは排気量1300ccで、元々アクアよりも排気量が少ないクルマではあったのですが、車体が大きいのに排気量や馬力が少ないという弊害がここにきて違和感として現れた感じでしたね。
結局、この違和感が決定打となってしまい、フィットシャトルも買い替え候補車から脱落することに。
そんな流れで、今回めでたくプリウスが買い替え対象車として選定されることになったわけです。

ちなみにプリウスの購入が決定した際、「どうせプリウスを買うのならプリウスαの方が良いのではないか?」という考えも当然ありました。
以前にも述べたことがあるのですが、私は元々ステーションワゴンやミニバン系のクルマが好きで、かつプリウスαの車体はその用途を充分に満たしているように見えたのですから。

トヨタ プリウスα
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しかし、実際にネッツトヨタの店で実物の確認を行ったところ、プリウスαは後部座席と荷物置き場が完全フラットにならないことが分かったんですよね。
後部座席を倒して後ろを広くすること自体はできたのですが、後部座席と荷物置き場との間で段差が生じてしまうのです。
それに対し、プリウスの方は車体の全長がプリウスαよりも短いものの、後部座席を倒すことで「段差のないフラット空間」を作ることが可能でした。
私がステーションワゴンやミニバンを好む最大の理由は、後ろを段差のない完全フラット状態にできることにあったわけですから、その点ではプリウスαよりもプリウスの方が要望に叶っていたわけです。
プリウスαの車体自体はプリウスよりも好みであっただけに、この決定的な格差だけは実に惜しいものがありましたねぇ(T_T)。

さて、そんな紆余曲折あって購入した新車プリウスですが、確かに燃費については巷で高く評価されるだけのことはありますね。
公式サイトや宣伝などに書かれている「30~35㎞/L」という燃費はあくまでも「カタログスペック」でしかなく、実際にはそこまで行かないということではあったのですが、それでも近場を走っているだけで平均17~18㎞/L、遠出をすれば22~26㎞/Lまで伸ばすことが可能です。
これまでのクルマでは、近場をうろつくだけだと7~8㎞/L、遠出をしても10~12㎞/Lの燃費しかなかったのですから、それを鑑みれば実に倍以上燃費が向上していることになります。
さらにプリウスには、電気だけをエネルギーとして動く「EVモード」と呼ばれる機能が搭載されています。
これは、あらかじめバッテリーに電気が充電されている時に、エンジンを起動することなくバッテリーからクルマを動かすことができるという優れもので、特に駐車場などでの短距離・低速走行を行う際には非常に便利なシロモノです。
クルマが最も燃料を食うのはクルマの発進時であるため、これを上手く活用すれば更なる燃費の節約も可能となるわけです。
また、「EVモード」で動いている際のプリウスはエンジン音がないため、「本当に稼働しているのか?」という疑問すら浮かんでしまうほどの静粛性を誇っています。
プリウスの静粛性は燃費と並んで結構話題になってはいましたが、実際に見るとまさに想像以上の静粛性ですね。
往年のアメリカTVドラマ「ナイトライダー」シリーズに登場するドリームカー・ナイト2000こと「KITT」の基本性能の中に、エンジン音を消してクルマを静かに走行させる「サイレントモード」と呼ばれるものがあったのですが、プリウスはそれをリアルで実装しているわけです。
カーナビ・TV電話に続き、またひとつ「ナイトライダー」の世界が近づいたわけで、技術の進歩は凄いなぁと改めて感動してしまったものでした。

燃費や性能的には文句のつけようのないプリウスですが、その長所を生かしきれるか否かは私の今後の運用次第といったところですね。
あまり長距離を走ることがなければ、せっかくの長所も宝の持ち腐れとなってしまうのですが、果たしてどうなることやら。

相変わらず「自分に甘く他人に厳しい」民主党

法務大臣の田中慶秋が外国人経営の企業から献金を受け取っていた問題で、民主党の政調会長である細野豪志が法相の辞任に否定的な見解をのたまったそうです。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121005/stt12100509170004-n1.htm
>  民主党の細野豪志政調会長は5日午前、TBSの番組で、田中慶秋法相が外国人経営の企業から献金を受け取っていた問題について、「外国人から献金をもらった一事をもって、すぐ政治家が入れ替わるのはよくない。説明を尽くした場合には次のチャンスもしっかり与える、という見方をしていただきたい」と述べ、田中氏の辞任には否定的な考えを示した。

かつての自民党政権時代には、法的に何の問題もなかった事務所費問題や「額に絆創膏を貼っていた」程度のことで、声高に大臣の辞任を要求していた民主党がそれではねぇ…。
そもそも民主党政権に限定しても、かつて同じような外国人献金問題で大臣を辞任した前原某の事例が立派に存在するでしょうに。
もはや命脈も尽き、いつ瓦解するのかのみに国民からの注目が向けられているのが実情だというのに、この及んでも相変わらず「自分に甘く他人に厳しい」を繰り返すのですね、民主党は。
せめて自分にも厳しければ、賛否は別にしても言っていることにそれなりに一貫性はあるとして評価可能な要素も出てくるかもしれないのに。
まさに野党自民党の言うがごとく、民主党政権が1日でも長く続くことそれ自体が日本の国益および国民生活を損なうと言っても過言ではないですね↓

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121004/stt12100415250009-n1.htm
>  自民党の麻生太郎元首相は4日の派閥の例会で、衆院解散・総選挙の時期について「近いうち、というのから遠いうちにだいぶ変わってきたような気がする。(野田佳彦首相は解散を)逃げよう逃げようという感じだが、この内閣が一日続けば一日続くほど国益を損なうと確信する」と述べた。
>
>  野田首相が谷垣禎一前総裁との党首会談で「近いうちに信を問う」と表明したにもかかわらず早期解散を先送りを図ろうとしていることを批判、自民党は攻勢を強めるべきだとの考えを示唆したものだ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121005/stt12100507300003-n1.htm
>  自民党の安倍晋三総裁と公明党の山口那津男代表は5日午前、国会内で会談する。野田佳彦首相が呼び掛けている民主、自民、公明3党首会談で、8月の首相と谷垣禎一前総裁、山口氏の会談で「近いうちに信を問う」とした合意履行を連携して求め、解散時期の明示を迫る考えで一致。首相が解散時期への言及を避けた場合は厳しく対峙する方針も確認する。両党は、他党に呼び掛けて来週にも野党党首会談を開き、臨時国会召集などで首相への圧力を一層強める構えだ。
>
>  自公党首会談には石破茂、井上義久両幹事長らも同席。次期臨時国会で焦点となる2012年度予算執行に不可欠な公債発行特例法案や定数削減を含めた衆院の「1票の格差」是正のための選挙制度改革関連法案など重要法案への対応も協議する。

安倍新総裁による新しい自民党の体制が出来上がった今となっては、再度の政権交代に慎重でなければならない理由など、世界中どこを探してもありはしません。
民主党はとっとと衆議院を解散させ、党もろともこの世から消滅すべきなのです。

Facebookユーザー数10億人突破と今後のSNSの動向

世界大手のSNSサイト「Facebook」のユーザー数が10億人を突破したと、FacebookのCEOマーク・ザッカーバーグより発表されました。

http://megalodon.jp/2012-1004-2134-27/sankei.jp.msn.com/world/news/121004/amr12100421090008-n1.htm
>  交流サイト最大手の米フェイスブックの利用者が10億人を超えたと、同社のマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)が4日、明らかにした。欧米メディアが報じた。
>
>  フェイスブックは2004年、米ハーバード大に在学中のザッカーバーグ氏らが設立。今年5月に鳴り物入りで米市場に上場したが、収益への懸念が広がり最近の株価は低迷している。3月末に利用者が9億人を超えていた。(共同)

昨今のFacebookは「アメリカ本国のFacebook離れ」や株価の低迷など、あまり良い話題がなかったのですが、それでもユーザー数自体は全世界を相手に相変わらず増え続けていたようで。
最近よく見る傾向としては、個人よりも組織や企業や有名人などが、広告媒体や情報発信のためのツールとして利用するケースが多くなっているようで、その点ではTwitterよりも活用の度合いが多くなっているみたいですね。
最近でも、自民党の安倍新総裁のFacebook公式ページで、マスコミの偏向報道について反論していることが話題になったりしていますし。

安倍晋三氏のFacebook公式ページ
http://www.facebook.com/abeshinzo
総裁選の際の3500円カツカレー報道の件で反論
http://www.facebook.com/photo.php?fbid=248648245258626&set=a.132334373556681.21871.100003403570846&type=1

手軽に短文がアップできるがために失言や暴言の類が後を絶たないことをから「バカ発見器」などと揶揄されているTwitterよりも、最初から実名公開が明言されているFacebookの方が「失言防止」的な観点からは有用、ということになるのでしょうか。
企業や有名人であれば、Facebookの実名公開主義もさしたる問題にはならないですし。
そう考えると、今後のSNSでは、個人・匿名利用のTwitterと法人・有名人御用達のFacebookという形で、一種の「棲み分け」が進んでいくかもしれませんね。

版権の出版社移転事情に見る田中芳樹の欺瞞な実態

久々に「らいとすたっふ」社長氏のツイートから。

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251804630747582465
<(1/5)ずいぶん前のことになるけど、田中さんがとある出版社から自作をすべて引き上げたことがある。理由は、その出版社のトップが「今後は新人発掘、育成よりも、現在活躍している作家に作品を書いてもらい、それを大々的に売ることで収益を上げていきたい」と言ったから。>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251804744203501568
<(2/5)田中さんいわく、「自分はデビュー当時、まったく売れなかった。でも、そのとき売れていたほかの作家さんの収益があったおかげで、出版社も自分の作品を出し続けてくれた。幸い、いま自分の作品は売れている。ならば、なぜ自分の作品であがった収益で、新人の作品を出してくれないのだ」と。>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251804781478281217
<(3/5)ふだんは超のんびりの田中さんだけど、このときの行動は早かった。秘書の私に版権引き上げの通達文を作らせ、自ら作品の移籍先を探してきた。出版社を変えるのは作家側のわがままだけど、そのせいで入手困難な作品を出してしまっては読者に申し訳ない、ということだった。>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251804821915566080
<(4/5)なにが言いたいかというと、出版社は「売れていない作品を切る」だけが能じゃないでしょ。と思うのだ。雑誌、編集部、事業部、全社。どこまで範囲を広げるかは、さまざまなケースがあると思うけど、トータルで黒字ならいいじゃない。というくらいの懐の広さが欲しい、ということ。

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251805140368117760
<(5/5)ちなみに、うちの会社は作家のマネージメントをやっているけど、管理料率は破格に安い(はず)。それも田中さんの「新人さんのために使う金は、田中作品の運用で得られた金で賄って良い」という考えによる。遅筆だし、外見ださいし、偏屈親父だけど、うちの親分は本当にかっこいいと思う。>

文章だけを読めば、いかにも立派なことをのたまっているようなエピソードであるかのごとく見えます。
しかし、その「新人さんのために使う金は、田中作品の運用で得られた金で賄って良い」の実態が、己の作品の再販乱発を繰り返したり、パチンコに己の作品を売り渡したりといった惨状を呈しているのは正直どうなのかと。
他の新人作家達のために【自ら積極的に新刊を執筆し売上を獲得していく】、というのであれば完全無欠の美談でしたし、せめて政治家や企業の金儲け至上主義的な考え方をあれほどまでにボロクソに論うことなく「カネ儲けに手段を選ぶ必要はない、何事かを成し遂げるためにはまずはカネだ!」的な主張でも開陳するのであれば、すくなくとも主義主張の一貫性くらいは認めることができたはずなのですが……。
田中芳樹が散々なまでに罵倒しまくっている企業や政治家や官僚にしたところで、自分以外の他者のために、なりふり構わぬ金儲けや老後の天下り確保などに走っているという側面は、多かれ少なかれ確実にあるのですけどね。
「自分の家族を養うため」から「社員や同僚の生活を守るため」といったものまで、その手の目的は色々とあるでしょうし。
新人作家を1人前にするためならば、片手間の再販乱発で読者からカネを巻き上げたり、自身で批判していたはずのパチンコに己の作品を売りとばしたりしても良いというのでしょうかね。
それでは結局、すくなくとも合法的な範囲内で金儲けや天下りに精を出している政治家や官僚・企業などを批判することはできないのではないかと思うのですが。

それに田中芳樹にソデにされた出版社は出版社で、自社の経営を維持したり社員を食べさせたりしていかなくてはならない、という事情もあるでしょう。
そりゃ出版社だって、できることならば新人をベストセラー作家レベルまで育成して、長期的な利益が確保したいでしょう。
しかし、バブル崩壊後の長きにわたる不況に出版業界特有の問題から来る「本が売れない」問題は、そういった「経済的・心理的な余裕」を出版社から根こそぎ奪ってしまっています。
出版社に限らず、昨今の企業にとっては「明日の不確実な利益」よりも「目先の確実な利益」の方が、自分達の生き残り戦略から見ても重要なのです。
もちろん、そのような目先の利益に固執したやり方は、短期的には何とかなっても長期的には確実に行き詰る手法でしかないのですが、彼らとて背に腹は代えられないのです。
会社が潰れてしまえば、新人作家の育成どころか、下手すれば自分達自身が路頭に迷うことにすらもなりかねないのですから。
だからこそ、企業は熟練社員の給与カットやクビ切り、さらには新人社員の雇用抑制などといったリストラ策を延々と実行していかざるをえない問題もあったりするわけで。
田中芳樹は、「自分の信念」という名のワガママによって出版社の減収をもたらし、さらには出版社の社員や、今後新人作家を育成していくべき立場にあったであろう編集者達を窮地に追い込んでいたかもしれないのですが、その辺りのことは考えたことはないのでしょうかね?
前述の再販乱発&パチンコの件と併せ、どうにも中途半端かつ青臭い動機と結果になっている感が否めないところなのですが……。

ただ一方で、田中芳樹や社長氏らの言うがごとく、「売れないからと言って無条件に切るべきではない」という考えも分からなくはありません。
新人作家にも生活があるのですし、また経済的な余裕をもって作品を執筆することでベストセラーを生み出す可能性も否定はできないのですから。
一種の「教育費」となるであろう新人作家の育成にかかる手間と費用をケチり、既存の「完成品」のみを使って売上至上主義的な商売をする出版社に対し、「何て奴らだ」「文化を育成するという視点はないのか」と憤るのは、まああの面々の思想的傾向から考えても当然と言えば当然なわけで。
しかし、田中芳樹はかつて薬師寺シリーズでこんなことを述べていたりしていたはずなんですよね↓

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P60上段~P61下段
<「西太平洋」ということばで、私は思わず涼子の顔を見た。涼子がみじかく説明する。
「石油開発公団から融資を受けてる会社よ」
「石油開発公団から資金を借りるのは、いくつかの石油探査会社なんだけど、この会社そのものが、公団からの出資でつくられたものなの。社長以下、役員すべてが天下リ」
 そうつけくわえたのはジャッキーさんだ。女ことばそのままだが、きびきびした説明ぶりが、何とも奇妙な感じだった。
「しかも、石油が出なかったら、公団から借りた資金は一円も返さなくていいのよ」
「……まさか」
「あら、ほんとよ。
何千億円借りていようと、石油が出なかったら一円も返さなくていいの。法律でもちゃんとそうなってるの」
 ジャッキーさんは、むずかしい表情になり、トルコ石らしい指輪をはめた太い指で書類をめくった。
「この西太平洋石油開発とかいう会社は、公団から四〇〇〇億円ほど借りてるのね。でもって、石油は一滴も出てないから、もちろん一円も返さなくていい。まじめに働いて石油が出たら借金を返さなくちゃならないんだから、何もしないで遊んでいるほうが得なわけよね。よくもつごうのいいこと考えたもんね」
「何にいくら費ったと思う?」
「さあね、でも、仮に半分しか本来の目的――油田を発見するために費っていないとすれば、二〇〇〇億円がどこかヤミに消えたってことだわね」
 これが先進国のできごとだろうか。私は頭痛がしてきた。
国民が支払う税を、役人が好きかってに浪費して、罰せられることがない。そういう国を後進国というのではないだろうか。

石油の採掘だって、新人作家の育成と共通する部分は結構あったりするのですけどね。
新人作家を養い得るだけのベストセラー作家が出てくる確率が1%あるかどうかの新人作家の育成と、莫大なカネと手間を費やす中で商業ベース運用しえるものがこれまた1%あるかどうかの石油採掘は、どちらも「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」の論理にならざるをえないのですし、「投資」するカネと手間の多くが【無駄】になることを前提としているものなのですから。
新人作家の育成にしても、愚劣な編集者が経費を私的に流用したり着服したりするケースもゼロではありえないでしょうし、また真面目にやっていても教え方が下手だったりモノにならなかったりで徒労だけで終わるケースだっていくらでもあるものでしょう。
教育や投資というのは、どちらも「少なからぬ無駄金と手間」が発生し、かつその多くがモノにならないことが少なくなく、しかしたったひとつの成功が全ての赤字をひっくり返すだけの価値を持つものなのです。
しかも石油採掘の場合は、単なる利益だけでなくエネルギー安全保障や国民生活にも関わってくるものなのですから、究極的には「国民にエネルギーが供給され社会活動と国民生活が潤うのであれば、石油採掘自体が赤字でも【トータルで黒字】になる」というところまで行くのです。
だからこそ、「石油採掘に失敗しても国にカネを返さなくても良い」というルールだって出てくるのですけどね。
桁外れの費用と99%の失敗を前提とする石油採掘は、元々「利潤」を重視しなければならない民間企業では不向きなのですし。
ところが田中芳樹は、新人作家の育成については「新人という【無駄】があってもいいじゃないか、その育成もせず利益に走るとは何と狭量な」と出版社と決別しておきながら、それと似た性質を持つ石油採掘に関しては、「そんなものは無駄だからやめろ」とまさに自分が批判してやまない出版社と全く同じことを主張しているわけです(苦笑)。
それとも、田中芳樹がこだわる「新人作家の育成」という行為は、件の石油採掘と同じく「後進国」の所業だったりするのでしょうかねぇ(爆)。
まあ、再販乱発とパチンコ売り飛ばしが「後進国」の所業でしかないのは確実なのですが(笑)。

如何にも「美談」風に語られている件のエピソードは、しかしその意図に反して田中芳樹の狭量とダブスタぶりを露呈してしまっただけなのではないですかね?
自身の作品を自分で愚弄する行為の数々を披露したり、作品内における政治・社会批判をくっちゃべったりさえしていなければ、そういう惨状を呈することもなかったのに、とはつくづく思わざるをえないですね(T_T)。

映画「ボーン・レガシー」感想

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映画「ボーン・レガシー」観に行ってきました。
マッド・デイモンが演じるジェイソン・ボーンが活躍する「ボーン」シリーズ3部作の裏で同時進行していた、CIAの計画を巡る戦いを描いた作品。
今作ではジェイソン・ボーンは顔写真と名前のみの登場となっており、代わりにジェレミー・レナーが扮するアーロン・クロスが主人公を担っています。
なお、今作は映画「エージェント・マロリー」との2本立てで同日観賞しています。

物語の冒頭では、酷寒のアラスカの山岳地帯で過酷な訓練に従事しているアーロン・クロスの姿が映し出されています。
彼は定期的にブルーとグリーンの薬らしきものを服用しながら、川潜りや登山に精を出しています。
一方その頃、CIAは、組織の極秘プログラムである「トレッドストーン計画」および「ブラックブライアー計画」を暴露する記事をイギリスの新聞に掲載しようとしていたサイモン・ロスという記者の抹殺に動き出します。
そして、狙撃手の遠隔狙撃でサイモン・ロスを即死させてしまうCIA。
このサイモン・ロスの死は「ボーン」シリーズ3作目の「ボーン・アルティメイタム」でも描写されており、ここから「ボーン」シリーズと同時進行していることが判明するわけですね。
さらにCIAは、これ以上自分達の極秘プログラムの情報が外部へ流出するのを防ぐべく、暴露された2計画と並行して推進されていた「アウトカム計画」を抹消することを決定します。
「アウトカム計画」とは、薬を使って人間の肉体強化と人格改造を行う一方、相手を薬漬けにすることで裏切りを抑止する兵士だか暗殺者だかを作り出すという内容の極秘プログラムです。
CIA本部は、「アウトカム計画」に関わった全ての人間を抹殺することで、「アウトカム計画」の存在そのものを闇に葬り去ることを画策するのでした。
抹殺の対象は、「アウトカム計画」で肉体強化を施された数人の被験者と、「アウトカム計画」に必要なブルーとグリーンの薬を製造している薬品会社の研究員達。
そして、冒頭に登場していたアーロン・クロスもまた、「アウトカム計画」によって肉体強化が施された、コードナンバー5と呼ばれる存在なのでした……。

アラスカの雪山で登山を続けていたアーロン・クロスは、「アウトカム計画」の要となるブルーとグリーンの薬を密かに隠蔽しつつ、自分の同じ雪山で小屋を構えていたアウトカム計画のコードナンバー3と接触し、薬を分けてもらおうとします。
ところが、既に2人はCIA本部によって抹殺の対象とされていたのでした。
雪山の小屋には無人航空機MQ-9リーパーが派遣され、そのミサイル攻撃によってコードナンバー3は小屋諸共に爆砕されてしまいます。
たまたま運良く難を逃れることができたアーロン・クロスは森の中へと逃れ、MQ-9リーパーを狙撃銃で撃墜。
さらに、自分の腹の中に埋められていたカプセル型の超小型発信機をナイフで取り出し、森の中に自分に襲い掛かってきたオオカミの口の中へ放り込みます。
最初の機体の撃墜を受けて新たに派遣されてきた2機面のMQ-9リーパーは、発信機を抱えているオオカミに照準を合わせてミサイルを発射し、CIA本部ではその発信音が途絶えたことでターゲット殺害に成功したと確信するのでした。
MQ-9リーパーの脅威から脱することに成功したアーロン・クロスは、薬を調達すべく、「アウトカム計画」に必要な薬を製造した薬品会社の関係者の元へと向かうことになるのですが……。

映画「ボーン・レガシー」は、これまでの「ボーン」シリーズ三部作を全て観賞していることを前提とした作品であり、作品単独では意味が分からない用語も少なからず登場します。
冒頭にも出ていた「トレッドストーン計画」および「ブラックブライアー計画」は、「ボーン」シリーズの2作目と3作目でその存在が明らかとなっており、その詳細もそちらで説明されているのですが、今作の中ではただ存在が明示されているだけで復習的な内容の解説もなし。
もちろん、「ボーン」シリーズで主役を張ってきたジェイソン・ボーンについても同様です。
これから考えると、今作は既存の「ボーン」シリーズ三作品「ボーン・アイデンティティー」「ボーン・スプレマシー」「ボーン・アルティメイタム」を全て観賞し、その内容を完全に把握していることが前提の作品であると言えます。
サイモン・ロスの件と併せて考えても、今作がまさに「ボーン」シリーズ本編と同時並行して進行していることが明示されていますし。
「ボーン・レガシー」を観賞するのであれば、過去作を復習してから臨むことをまずはオススメしておきます。

今作のストーリーは、どことなく「ボーン」シリーズ1作目「ボーン・アイデンティティー」に近いものが結構ありましたね。
主人公が逃避行の中で出会った、薬品会社の女性研究員マルタ・シェアリングがヒロインで、かつ2人一緒に戦いつつ恋仲になっていき、最後はアメリカ国外の町(フィリピンの漁村?)でひっそりと生活を始めるという流れは、「ボーン・アイデンティティー」のジェイソン・ボーンとヒロインであるマリー・クルーツの関係を髣髴とさせるものがあります。
また、アーロン・クロスは元々イラク戦争で戦死したことになっていたアメリカ軍兵士で、CIAによって新たな身分が与えられたという設定も、ジェイソン・ボーンのそれとカブるものがありました。
もっとも、こちらはCIAの計画自体が似たり寄ったりなシロモノばかりだったという事情も影響しているでしょうし、アーロン・クロスの場合はジェイソン・ボーンと違って「過去の記憶」まで失われてはいなかったのですが。
ちなみに「ボーン・アイデンティティー」のマリー・クルーツは、2作目の「ボーン・スプレマシー」の序盤であっさりと殺害されてしまうのですが、それから考えると、今作のヒロインであろうマルタ・シェアリングも、次回作早々に死んでしまうことになったりするのでしょうかねぇ。
「ボーン」シリーズはまだまだ続きがあるみたいですし、今後ジェイソン・ボーンが再登板する可能性もどうやらあるようですので。

今作のアクションシーンについては、さすが「ボーン」シリーズと言えるだけのものはあり、シリーズお馴染みの奇抜なアクションが作中の随所で繰り広げられています。
特にラストのオートバイを使ったアクションシーンは、これだけでも必見の価値があります。
アーロン・クロスとマルタ・シェアリングが、結果的に2人で共同戦線を張ってCIAの刺客を倒すという構図も良かったですし。
実際、今作におけるラスボスとなったCIAからの凄腕暗殺者を最終的に倒したのも、暗殺者からの銃撃を受けて負傷してしまったアーロン・クロスではなく、マルタ・シェアリングの蹴りだったりしますからねぇ。
この辺りは、昨今流行の「戦うヒロイン」の面目躍如ではなかったかと。

アクション映画好きと「ボーン」シリーズのファンの方にはオススメな映画と言えますね。

映画「エージェント・マロリー」感想

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映画「エージェント・マロリー」観に行ってきました。
アメリカ女子総合格闘技界の人気者で、スタントを一切使わずに本作に挑んだジーナ・カラーノが主演を担う、スティーヴン・ソダーバーグ監督のアクション作品。

民間のスパイ業界でも凄腕の実力を誇る、元海兵隊出身でフリーの女性スパイであるマロリー・ケイン。
物語の冒頭、彼女はアメリカ・ニューヨーク北部にある田舎町ダイナーのレストラン?で、誰かと会うために席に座っていました。
しかし、やがてレストランに姿を現した人物を見て、マロリーは舌打ちします。
それは彼女が待っていた人物ではなく、彼女の同業者のアーロンだったのです。
アーロンはマロリーと話し合うフリをして突如彼女に対し奇襲攻撃を仕掛け、両者は格闘戦を演じることになります。
この際、たまたまレストランで食事をしていたスコットという地元の若者が、先に攻撃されたマロリーを助けるべく、マロリーを羽交い絞めにしていたアーロンに後ろからのしかかります。
スコットの攻撃そのものは相手に全くダメージらしきものは与えられなかったものの、アーロンがスコットに対処した隙を突いてマロリーは窮地を脱し、アーロンを返り討ちにすることに成功。
マロリーはそのままスコットを促して車を出させ、その場を後にするのでした。
マロリーの運転で車でどこかへ向かう途上、当然スコットは、何故マロリーがあの場で襲われたのかについて説明を求めます。
それに対し、マロリーは回想を交えつつ、何故あの場面に至ったのかについての経緯を解説していくのでした……。

事の始まりは1週間前のスペイン・バルセロナ。
マロリーは、アメリカ政府とスペイン政府の関係者による共同依頼に基づき、3人の男性工作員と共に、とあるアパートに監禁&人質にされていた、ジャンという東洋系ジャーナリストの救出の任務に当たっていました。
紆余曲折あったものの、無事に任務を遂行することに成功してサンティエゴの自宅へ戻ってきたマロリーは、その直後に今度はかつての恋人で現在は民間軍事企業のトップとなっているケネスに「バカンスのような楽な仕事」としてアイルランドのダブリンへ飛び、男性同業者のポールと共に偽装夫婦を演じてほしいと依頼されます。
言われた通りに偽装夫婦の妻役を演じていたマロリーでしたが、ミッションの内容に不審を抱いたマロリーは、ポールの隙を突いてモバイル端末から情報を盗み出し、またポールと共に参加したパーティの会場を抜け出して周辺の建物を探索したりします。
その結果、彼女はつい数日前に自身がバルセロナで救出した東洋人ジャーナリストのジャンが、眉間を打ち抜かれて死んでいる姿を発見。
しかも殺されたジャンの手には、マロリーが身に着けていたブローチが握られていたのでした。
直後にマロリーは、偽装夫婦の夫役を演じていたポールに襲撃され、かろうじてこれを撃退。
しかし、ジャン殺しの罪を着せられ、追われる身となってしまったマロリーは、自身に追われる身となりながら逃避行を続けつつ、仕事を依頼してきたケネスとの接触を図り、冒頭の田舎町へと向かったのでした……。

映画「エージェント・マロリー」は、一応スパイアクション物というカテゴリーに属する作品なのですが、作中で展開されるアクションは、基本的に殴ったり蹴ったり羽交い絞めにしたりの格闘戦が大部分を占めていますね。
銃撃シーンやカーチェイスも全くないわけではないのですが、時間的にも短く作中における扱いもあっさりしすぎな感が否めないところで。
今作で主人公マロリー・ケインを演じたジーナ・カラーノは、アメリカ女子総合格闘技界の人気者で、スタントを一切使わず、作中のアクションシーンを全て自身で演じていたのだそうで、その辺りの事情が何か関係してはいるのでしょうけど。
銃を携行して散歩していたケネスを相手にしたラスト対決では、相手もマロリー自身も銃を用意できる立場にあったにもかかわらず、それでも銃を一切使うことなく格闘戦に終始していたので、さすがに苦笑するしかなかったのですが。
そこまで格闘戦にこだわるのか、と。

しかし、今作は「結果が出てからそこに至るまでの過程を説明する」という描写を二度にわたって繰り広げているのですが、正直そのためにストーリーの流れが今ひとつ掴みづらい構図になっている感が多々ありますね。
名探偵が事件の推理を披露した後で真相を明らかにするミステリーの手法でも採用していたのでしょうが、別に名探偵がいるわけでもなく、主人公による推理が繰り広げられるわけでもないストーリー展開で、格闘戦で相手を圧倒した後で真相を公開する、という形にする意味なんて果たしてあったのかと。
序盤で観客を惹きつけるためにそういう手法を取るのはまだしも、全ての真相が明らかになる終盤でも相変わらず同じようなことを繰り返すのも、二番煎じかつ話の流れを阻害しているようにしか思えませんでしたし。
元々映画の上映時間自体が93分しかないのですし、変に真相を凝ったものにするよりも単純にアクションを楽しむだけの展開にした方が、却って観客的に分かりやすい構成になったのではないでしょうか?

今作は、ストーリーを理解しようとするよりも、ジーナ・カラーノの格闘アクションを見せるための映画、と単純に割り切った方が素直に楽しめるかもしれないですね。

映画「ハンガー・ゲーム」感想

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映画「ハンガー・ゲーム」観に行ってきました。
アメリカで大ベストセラーとなった、スーザン・コリンズの同名小説を原作とするサバイバル・スリラー作品。
今作ではストーリー構成上、血みどろの殺し合いや死体の描写が少なくないことから、PG-12指定されいます。

現在のアメリカ合衆国?の崩壊後に誕生したらしい、近未来の独裁国家パネム。
パネムは首都であるキャピトル、および周囲を取り巻く複数の地区によって成立しており、キャピトルに居住する少数の富裕層が、周囲の地区の労働者達を奴隷同然に酷使するという支配体制を築き上げていました。
そんな不平等な支配体制を、支配される側であるキャピトル周囲の地区が不満に思わないわけもなく、彼らはキャピトルおよび中央政府に対してしばしば暴動や反乱が引き起こされていました。
中でも、75年以上前に勃発した13地区の一斉蜂起は、第13地区の完全崩壊および多数の犠牲者を出すという結果にまで至っていました。
この反乱の鎮圧後、パネムの中央政府は、壊滅した第13地区以外の12の地区に対する懲罰的な措置と、自分達自身の娯楽を満たすことを目的とする「ハンガー・ゲーム」という名のビッグイベントを開催することを思いつきます。
「ハンガー・ゲーム」とは、件の反乱に参加していた残り12の地区から、12~18歳までの若い男女2人ずつを選出させ、総計24名の男女を最後のひとりになるまで戦わせるという、一種のサバイバルゲームです。
生存確率は24分の1、ただし勝者には一生遊んで暮らせるだけの富貴と名誉が与えられる「ハンガー・ゲーム」は、以後、年1回のペースで実に73年にわたって開催され続けてきました。
そして映画の冒頭では、新たに開催される予定の第74回「ハンガー・ゲーム」に向けての男女選出が行われようとしている渦中にありました……。

炭鉱が盛んな第12地区で貧しい生活を営んでいる、今作の主人公カットニス・エバディーン。
炭鉱夫だった父親を亡くした過去を持つ彼女は、幼い妹のプリムローズ・エバディーンを何かと気にかけつつ、生計の足しにすべく弓矢を使って狩猟をする生活を送っていました。
しかし、第74回「ハンガー・ゲーム」は、そんなささやかな生活を送っていたカットニスの人生をも一変させてしまうことになります。
第12地区における第74回「ハンガー・ゲーム」のくじ引き選考で、彼女の妹であるプリムローズがゲームの女性出場者として選出されてしまったのです。
問答無用で連れ去られようとしたプリムローズを助けるべく、カットニスは無我夢中で自分が第74回「ハンガー・ゲーム」に出場すると宣言します。
何でも「ハンガー・ゲーム」への出場に自分から志願するケースは、すくなくとも第12地区では初めてだったらしく、カットニスの志願はあっさりと受け入れられます。
一方、第12地区における第74回「ハンガー・ゲーム」の男性出場者は、カットニスの級友で、かつてカットニスが生活苦で飢えていた際にパンを恵んでくれたピータ・メラークが選出されました。
母親および妹に「必ず帰ってくる」と告げ、カットニスは第74回「ハンガー・ゲーム」に参加すべく、ピータと共にパネムの取得キャピトルへと向かうことになるのですが……。

映画「ハンガー・ゲーム」の原作小説は、その設定の相似性から日本の小説「バトル・ロワイアル」との関連が以前から指摘されています。
何しろ両作品には、

1.舞台が近未来の独裁国家で、強権的な支配体制が構築されている。
2.ある程度まとまった数の10代男女の未成年者達が、最後のひとりになるまで殺し合いに狂奔するサバイバルゲームを主軸にしている。
3.ゲームフィールドは広大だが限定された空間で、かつゲーム主催者による監視が常にありとあらゆる手段を駆使して行われている。

などといった共通項があるのですから。
かくいう私自身、映画の予告編を見た際には「これってアメリカ版バトル・ロワイアル?」という感想を抱いたくらいですし(^^;;)。
もっとも、原作者であるスーザン・コリンズ自身は「原作のハンガー・ゲームを出版するまで、バトル・ロワイアルの存在自体知らなかった」と述べてはいるのですが。
ただこういうのって、実際には参考にしていたとしても「これは俺のオリジナルだ!」と言い張ることが珍しくもないですし、作中の設定やストーリー展開に少なからぬ共通点や類似性が多いことからも、やはり何らかの関連性は疑わざるをえないものがあります。
まあ真実は原作者のみ知るところではあるのですが、果たして真相は如何なるものなのやら。

かくのごとく「バトル・ロワイアル」が何かと引き合いに出される映画「ハンガー・ゲーム」なのですが、ただ実際に映画を観る限りでは「確かに設定面における共通項は少なくないが、ストーリー展開では明確な違いも存在する」というのが正直なところではありましたね。
たとえば、「バトル・ロワイアル」で生徒達に支給されていた武器には銃火器や爆弾の類も少なくなく、アクション映画ばりの銃撃戦が行われることすらあったのに対し、「ハンガー・ゲーム」のゲームフィールドで提供される武器はナイフや弓矢など原始的なものばかりです。
作中の「ハンガー・ゲーム」では地雷は登場していたのですが、銃火器はとうとう一度も出てくることはなく、各出場者達は最後までナイフや弓矢などの武器を使った戦いに終始していました。
また、「バトル・ロワイアル」と比べてゲームの開催期間が長く、単純な戦闘能力だけでなく原始的な生活能力までもが試される場となっており、出場者同士による戦いだけでなく、猛毒の木の実などを食べて出場者が死んだりするケースなども披露されていたりします。
「バトル・ロワイアル」では時間が経つにつれて、入ったら即首輪が爆発して死ぬ「侵入禁止エリア」が増えていき、行動範囲が狭められていくというルールがあったのですが、「ハンガー・ゲーム」にそのようなルールは特にありません。
ただその代わりとして、安全圏に居座ろうとする出場者を、ゲーム主催者側が仮想空間のゲームフィールドをいじって強引に叩き出すという行為を行ってはいましたが。
何よりも一番違うところは、「バトル・ロワイアル」の参加者達がある日突然、それも必要最小限の説明だけで問答無用でさっさと戦場に放り込まれるのに対し、「ハンガー・ゲーム」の出場者達は充分な準備期間を置いてゲームが始められる、という点ですね。
「バトル・ロワイアル」では「今自分達がどのような状況に置かれているのか」ということすら理解しえずに殺されていった参加者達が、特に序盤では少なくなかったですし、理解しても甘い認識のまま殺される参加者が後を絶たなかったものでしたが、「ハンガー・ゲーム」にはそのような出場者は最初からおらず、ゲーム開始直後から誰もが覚悟を決めて殺し合いなり逃亡なりを初めていましたから。

個人的には、「ハンガー・ゲーム」よりも「バトル・ロワイアル」の方が、生死を争うサバイバルゲームとしては合理的に出来ているように見えましたね。
「バトル・ロワイアル」はゲームシステム的に参加者同士による殺し合いが自動的に発生せざるをえないようになっているのに対し、「ハンガー・ゲーム」はゲーム主催者が事あるごとにいちいち介入しないと、参加者同士の遭遇および戦闘がなかなか発生しないルールになってしまっているのですから。
そもそも、原則非公開の「バトル・ロワイアル」と違い、「ハンガー・ゲーム」は全国民に生中継される一種の「国民的イベント」でもあるのですから、ゲーム主催者による介入が常に目に見える形で行われるというのは、エンターテイメント的な観点で見てさえもマイナスにしかならないのではないかと思うのですけどね。
作中では自分達の都合から、「勝者はひとりのみ」というルールそれ自体を勝手に変更したり、かと思えば撤回したりまた復活させたりと、二転三転なルール改竄が平気で横行していましたし。
あのシステムでは、「ゲーム主催者による八百長」が疑われても仕方のない要素が少なくありませんし、エンターテイメントや掛け試合としても成立し難い一面が否定できないのではないかと。

あと、ゲームの勝者として生き残れる者は一人しかいないにも関わらず、勝つために徒党を組む者達の間で心理的な駆け引きがないなど、やや不自然な設定が少なくないですね。
生き残る確率を上げるために、さし当たっては徒党を組んで多数で少数を圧倒する、という行為自体は、「バトル・ロワイアル」でも「ハンガー・ゲーム」でも共通して見られた現象です。
しかし、ゲームのルール上「勝者(生存できる者)はひとり」でしかない以上、徒党を組んだ者達の間では、「自分はいずれ裏切られるのではないか?」「ならば先手を打ってこちらから裏切るべきではないのか?」といった深刻な不信感が芽生えてもおかしくはないんですよね。
徒党を組んだメンバーで他の勢力を圧倒した後は、徒党を組んだメンバー同士で戦いが始まるのは誰の目にも最初から明らかなのですから。
「勝者(生存できる者)はひとり」というルールの中で徒党を組むという行為は、戦闘力で他者を圧倒しえる反面、自分がいつ寝首をかかれるか、逆に自分が仲間達を殺す機会を常に伺うなどという二律背反的な状況およびそれに伴う葛藤を招くことになるわけです。
しかし「ハンガー・ゲーム」では、その手の葛藤が全くと言って良いほど描かれていなかったりするんですよね。
「ハンガー・ゲーム」で徒党を組んでいた面々は、ただその戦闘力に物を言わせて殺戮を楽しんでいただけでしたし、仲間達を疑うようなピリピリした雰囲気すら全くないありさま。
それは主人公であるカットニスにも言えることで、成り行きで彼女が第11地区出身の少女ルーと手を組んだ際、彼女もルーも「2人が最終的に生き残ったら2人で殺し合いをしなければならない」という可能性を全く考慮していないとしか思えない言動に終始していました。
ルーと同じく第11地区出身の黒人男性などは、殺されたルーの仇を討ち、あまつさえ「ルーが世話になったから一度だけだ」とカットニスをわざわざ逃がす行動に走ってさえいましたし。
参加者全員が顔見知りである「バトル・ロワイアル」と違い、「ハンガー・ゲーム」で顔見知りと言えるのは、よほどの偶然でもない限りは同じ地区の出場者だけなのですから、もう少し感情を排した打算的な殺し合いが展開される方が、むしろストーリー展開としては却って自然なのではないかと思えてならなかったのですが。
この点においても、「バトル・ロワイアル」の方が「ハンガー・ゲーム」よりも構成が上手いのではないかと。
ただ、あまりにもエグい描写や設定が目白押しの「バトル・ロワイアル」をある意味【ぬるく】したような「ハンガー・ゲーム」は、それ故に一般受けしやすいものにはなっていると思います。
かくいう私も、途中からは結構「安心して観賞できた」クチでしたし(^^;;)。

映画「ハンガー・ゲーム」は、既に続編の製作と日本公開が決定しているとの情報が、映画のエンドロール直前にて披露されています。
その点から言えば、今作は「シリーズ1作目」として観賞するのも良いかもしれません。

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