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私の創竜伝考察39
創竜伝13  噴火列島


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No. 4669-4671
私の創竜伝考察39
冒険風ライダー 2003/10/18 21:24
 一連の創竜伝13巻の論評を書きながらふと疑問に思ったことなのですけど、田中芳樹は今回の創竜伝13巻の執筆をいつ頃から開始し、どのくらいの期間で全体の作品構成を完成させたのでしょうか?
 前々回の創竜伝考察でも提示した通り、創竜伝13巻の初版発行は2003年6月6日となっているわけですが、13巻の作中には、そのわずか3ヶ月前に大きな話題となったイラク戦争関連の社会評論が複数箇所にわたって存在しており、しかもそれらの記述は作品の後半部分だけでなく前半部分にまで散りばめられています。巻末の作者あとがきや創竜伝恒例の座談会などが初版発行日の直前に書かれるという事例は別に珍しくもない話でしょうが、初版発行日から遡る事わずか3ヶ月前の時事問題が、それも創竜伝のストーリー全体に「まんべんなく」散りばめられているという事実は、見方によっては「作者が最初からイラク戦争関連の時事問題を語ることを前提に創竜伝を執筆していた」という状況証拠にもなりえるため、創竜伝の執筆開始時期と執筆期間、および田中芳樹の執筆姿勢について疑問の目を向けずにはいられません。
 もちろん、作者自身がかなり以前から予め作成していたストーリープロットに、イラク戦争関連のネタを新規に上書きしていた可能性もあるでしょうが、そうであったらそうであったで、今度は「ストーリーとは何の関係もなく、読者も全く望んでいないイラク戦争関連のネタを散りばめるために、作品のクオリティを落としたばかりか、小説の発売時期をも延期させていたのではないか?」という疑惑が生じてしまいます。このケースでも結局、田中芳樹の執筆姿勢が問題視されることに変わりはありません。
 まあ事の真相は田中芳樹の心中にのみ存在するのでしょうが、いずれにせよ、過去に様々な放言・食言を乱発した前科とも併せ、このような「作家としての職業倫理」から疑わざるをえないような疑惑が出てくること自体、「小説執筆でメシを食っているプロの職業作家」としては大いに問題があると言わざるをえないのではないでしょうか。
 さて、前置きが少し重い話になってしまいましたが、今回も創竜伝13巻の記述検証を始めることに致しましょう。




P125下段〜P126上段
<「もともと二〇世紀は日本が超大国幻想にとりつかれた熱病の時代だった」
 太平洋とアジア大陸にはさまれた小さな島国で、多少の例外をのぞけば近隣諸国にそれほど迷惑をかけることもなく、外国から輸入した文化を適当に消化しながらのんびり暮らしていたのだ。それが一九〇五年、ロシアとの戦争に勝ってから(正確には、負けずにすんでから)、すっかりのぼせあがり、全アジアを軍事力で支配しようとして、みじめな失敗をとげた。
 その後は平和的に経済力で世界一になろうとしたが、政治家・官僚・財界人三位一体の腐敗堕落でこれも失敗。二一世紀にはいると富士山大噴火という天災まで加わり、どこまで落ちていくか知れない。>

 田中センセイ、これも今更な話でしょうけど、現実世界の日本を罵倒したいがために、かつて自分自身で構築したはずの創竜伝の作中設定すら完全に無視した論を展開するのはいかがなものでしょうか? 「富士山大噴火という天災」なるものが創竜伝世界で発生したのは「二一世紀」ではなく「二〇世紀の終わりを数年後にひかえた年」でしたし、前にも述べたように、すくなくとも創竜伝8巻辺りまでは「日本の経済力と技術力は世界一」という前提に立脚した日本批判系社会評論が、地の文・キャラクター言動を問わずあちこちで展開されていたのですけど(笑)。アンタがそんなテイタラクだから、創竜伝13巻における作中キャラクターのほとんど全員が「アルツハイマー型老人性痴呆症を患っている」などという阿呆な診断と評価を一方的に下されることになるのですよ(爆)。
 それにしても、田中芳樹は日露戦争に何か深刻な恨みでもあるのですかね? 「ロシアとの戦争に勝ってから」の後にわざわざ「正確には、負けずにすんでから」などと要らぬ強調文を施している辺りに相当な偏執を感じずにはいられませんし、また田中芳樹が創竜伝において、日露戦争を「日本の驕りとアジア侵略の出発点」として言及している箇所は、創竜伝4巻P168上段〜P169上段、創竜伝7巻P125上段〜下段、創竜伝9巻P210下段〜P212下段に続いてこれで4箇所目になります。ストーリーの本筋とは何ら関係もなく内容的に見てもマトモに評価する価値すらもない愚劣な社会評論を何度もしつこく同じ論調で繰り返されるのも、それによって小説の貴重なページと行数が浪費されてストーリー進行が停滞するのも、一読者としてはいいかげんウンザリせずにはいられないのですがね。
 そもそも田中芳樹は、明治期〜戦前までにおける日本が、慢心や領土的野心【だけ】のために「アジア進出」とやらを行うようになったと、未だに本気で考えてでもいるのでしょうか? 江戸時代まで「外国から輸入した文化を適当に消化しながらのんびり暮らしていた」はずの日本が、田中芳樹曰く「アジア進出」とやらを行うようになったのは、そのほとんど全てが自国の安全保障の確保を目的としていたからではありませんか。よく隣国から謂れのないイチャモンをつけられる中国と朝鮮への日本の「侵略行為」にしても、その2国の政治情勢が日本の国防を左右するにもかかわらず、2国が日本牽制のためにロシアを引き入れたり内戦に明け暮れたりするがために「進出・介入せざるをえなかった」のが実情だったのですし、第二次世界大戦時におけるアジア諸国の占領などにしても、それが「侵略」ではなく「自国の安全保障」を意図したものであったことは、以前にも述べたようにあの理不尽な東京裁判を遂行したマッカーサー自身や、日本を裁いた各国代表の判事達でさえ明言していることです。
 第一、第二次世界大戦が終わるまでの世界は、欧米列強諸国の植民地争奪&帝国主義が大手を振ってまかり通っていた弱肉強食の時代だったのですし、当時のアジア諸国で欧米列強による植民地化を免れていた独立国など数える程度も存在しなかったのですから、自分の身を守るためにはどうしても他国に対して政治的・軍事的な干渉・介入を行わざるをえなかったわけで、それを考慮せずして日本の対外進出を「侵略」だの「支配」だのという言葉で断罪することは明らかに間違っているでしょう。そして、日本の植民地経営は他国のそれとは反対にむしろ大幅な赤字を計上してすらいたほどで、むしろ「お人好し」過ぎるほど「植民地に【尽くしていた】」とすら言えるシロモノだったのです。これが、すくなくとも他の欧米列強諸国の植民地支配以上に「すっかりのぼせあが」った行為として断罪されなければならなかったものだとでも言うのですかね?
 それに元々、第二次世界大戦時において日本が「侵略」した東南アジア地域は、そのほとんど全てが「欧米列強の植民地」として「支配と搾取」を受け続けていたのですし、日本軍が戦ったのも「現地の住民」ではなく「欧米列強の植民地軍や駐留軍、およびその手下に成り下がっていた華僑勢力」が中心だったのです。彼らもまた、れっきとした「全アジアを軍事力で支配していた侵略者」だったわけで、これを攻撃したことをもって「侵略行為である」と否定的な評価を下すことは、下手をすると「欧米列強のアジア植民地支配は至極当然のものであり、アジア諸国は独立などするべきではなかった」といった「欧米列強礼賛論」ないしは「植民地至上主義」にも繋がりかねないのですけど、まさかそんなことを本気で主張しているわけではありますまい?
 さらに創竜伝世界の作品設定によれば、欧米列強によるアジア侵略は「人界支配を目論む牛種の策謀」に基づいて行われたものであり、その支配によってアジア諸国は過酷なまでの扱いを受けていたわけでしょう? ならば「牛種の手先」である欧米列強の植民地軍を蹴散らし、アジア諸国に独立のきっかけを与えた日本は「侵略者」どころか「アジア諸国の解放軍」とさえ評価されても良いことになるのではありませんか? にもかかわらず、アレほどまでに「牛種の思想&世界支配体制」とやらを、創竜伝の作中で仰々しくかつ否定的に描いている田中センセイともあろうものが、何故「牛種によるアジア侵略&支配システム」を積極肯定するような主張を展開しようとするのか、私は非常に不思議に思えてならないのですが(笑)。
 いつものことながら、小説としても評論としても一顧の価値すら存在しない、自分のバカさ加減を曝け出すだけの愚かしい駄文ばかり書き散らして、一体何が楽しいのですか田中センセイ? まあ御自身でもあちこちではっきりと仰っているように、個人的なストレス解消を目的にあんな文章を書いているのであろうということは私も十二分に理解してはいるのですけど、そのあまりにも閉鎖的かつ自慰的な楽しみ方はとても一般人がついていけるようなシロモノではないので、いいかげん「あちらの世界」から帰ってきて頂けないものでしょうかね(爆)。



P131下段〜P132上段
<「おーい、何だか変なやつがひとりまじっていたぞ」
 虹川が、ひとりの男を引きずって来た。気絶したフリをし、隙を見て逃げだそうとしたところを、虹川に発見されたのだ。三〇代半ばとおぼしい、一見、銀行員風の男だったが、服をあらためると、金色に光るバッジが内ポケットの奥から出て来た。
「ほう、公安調査庁だ」
 それは日本でもっとも存在意義のない、法務省に所属するお役所の名前であった。年間何百億円もの予算を国民の税金から出してもらいながら、やることがないので、ポルノ女優ファンクラブの電話を盗聴したり、自然食レストランの会員名簿を盗み出したりして、「国家に有害な危険人物のリスト」を作成している。>

 オウム真理教の地下鉄サリン事件やアメリカの同時多発テロ事件以降、特定の政治目的をもって実行されるテロ・破壊活動の問題が世界的にクローズアップされる中で、団体規制のための調査機関である公安調査庁を「やることがない」から「日本でもっとも存在意義のない」とまで言い切ってしまえるその視野の狭さと無知ぶりは、いつものことながら大したものです。第一、「やることがない」という前提そのものがすでに致命的なまでに間違っていますし、「日本でもっとも存在意義のない」という断定に至っては、公安調査庁の職務を忠実に遂行している方々に対して田中芳樹個人が抱いている「明確な職業差別意識の自白」にしかなっていないのですがね。
 そもそも公安調査庁とは、1952年(昭和27年)にアメリカの連邦捜査局(FBI)をモデルに設立された「団体規制のための調査機関」で、その主な業務は、破壊活動防止法および「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」に基づき、内乱・外患誘致&援助・政治目的を持った殺人・強盗などやその予備・陰謀・教唆・扇動等といった「暴力主義的破壊活動を行う危険性のある団体」の「規制に関する調査」を行うことにあります。そして調査の結果、規制の必要があると認められれば、その団体の活動制限や解散の指定などといった規制処分の請求を公安審査委員会に対して求めることになるわけです。
 つまり、公安調査庁が「暴力主義的破壊活動を行う危険性のある団体」の監視や、田中芳樹曰く「国家に有害な危険人物のリストの作成」などを行っているのは、別に「やることがないから仕方なくやっている」のではなく、まさにそれこそが「本来の業務」であるわけです。何しろ公安調査庁は、民主主義国家である日本において「団体活動の規制」を請求するという強権力を発動させることができる組織なのですから、冤罪を防止する観点から言っても、そのための調査が瑕疵の発生する余地もないほど入念かつ精緻に行われなければならないのは極めて当然のことではありませんか。
 また、テロや組織犯罪を撲滅するための第一歩として大切なことは、まず「テロや組織犯罪に手を出しそうな組織が、どこに、どのような形で存在するのか?」ということを正確に把握することが何よりも重要なことでしょう。さらに、その組織がどういう性格を持った集団なのか、何を目的にしているのか、テロや組織犯罪を行う動機は何なのか、組織の構造はどうなっているのか、他の組織との関係はどうなっているのか、資金源は一体どこにあるのか……そうした様々なことをまず知ることから、初めて具体的なテロ&組織犯罪に対する対策が出てくるのです。
 特に現代のテロ事件は、今日の科学技術の発展に伴い、生物化学兵器や核といった大量破壊兵器を使ったテロも現実的なものとなっていますし、一旦起こってしまえば大量の犠牲者が発生し、甚大な被害を及ぼすことになるのですから、必然的に「なんとしても未然に防止しなければならない」という結論にならざるをえません。世界では「テロに対する戦いは情報戦争である」とさえ言われているほどであり、その戦いに勝つためには、地道な調査活動の積み重ねによる事前情報の収集を、それもリアルタイムで行っていくことが最重要かつ絶対的に必要不可欠であるとされているのです。「下地」となる情報なくして戦争には勝てない、などという常識話を今更改めて強調する必要もないでしょう。
 そして、基本的に情報をもらうためには莫大な予算が必要となりますし、巨額の資金を緊急に融通しなければならないこともあります。そのため、どの国でも一般的に国防予算の約1割が情報のための予算であると言われていますし、近年、反テロ対策を目的に、情報収集活動に関する予算は世界中の国で大きく増額されています。情報戦争に勝つための「下地」となる情報収集活動に莫大な予算を投入すること自体は極めて当然のことであり、得られる情報の大きさからすれば、相応以上の見返りが充分に期待できるものでもあるのです。
 一体これのどこが「日本でもっとも存在意義のない」「年間何百億円もの予算を国民の税金から出してもらいながら、やることがない」ということになるのですかね?

 と思っていたら、どうも創竜伝13巻の別の箇所に、作中キャラクターが「公安調査庁に存在意義なし」の理由についてそれなりに言及している記述が存在するようですね。
 で、それは以下のようなやり取りの中で述べられているようなのですけど……↓

P233下段〜P234上段
<以下、美辞麗句をならべたて、ついに小早川奈津子を丸めこんでしまう。とはいえ、完全には征夷大将軍が釈然とはしないようすなので、蜃海は、別のイケニエを差し出すことにした。水地と虹川に指示し、つかまえておいた公安調査庁の男を引っぱり出してこさせる。小早川奈津子の甥である勝岡寛太は、いぎたなく眠りこんだままだし、夜が明けてからもうすこし有意義に利用したい。
「この者をどうしろというのかえ?」
「何とぞご成敗のほどを。だいたい、ちゃんと公安警察があるのですから、捜査権も逮捕権もない公安調査庁など百害あって一利なし。税金ドロボウの巣窟です。こんなものは廃止して、その予算はそっくりそのまま、征夷大将軍の機密費と接待費にまわすのがよいかと存じあげます」>

 いや〜、まさか「ちゃんと公安警察があるのですから、捜査権も逮捕権もない公安調査庁など百害あって一利なし」などという論法が、よりにもよって創竜伝の作中記述に出てくるとは思ってもいませんでしたよ(笑)。その「公安調査庁の廃止」と対比する形で持ち出された公安警察に対して、創竜伝ではかつて以下のごとき糞味噌な評価が下されていたはずなのですがね↓

創竜伝2巻 P88上段
<男の名は、蜂谷秋雄という。五年前まで、警察庁公安課長をつとめ、階級は警視長であった。その年、国会に議席を持つ左翼政党の幹部の家に、公安警察の手によって盗聴器がしかけられているのが発見された。公安警察の犯罪は、検察庁によって立証されたが、実行犯の公安警官たちは不起訴になった。理由が大変なものであった。
「犯罪は組織ぐるみのものであるから、個人の罪を問うことはできない」
 というのである。こうして、その年から、公安警察は、犯罪をおかしながら法律によって罰せられることのない、日本で唯一の組織となった。もはやこの組織は、日本国内において犯罪を捜査し検挙する資格などないはずである。>

創竜伝3巻 P118上段〜下段
<「日本の公安警察は、まことに特異な能力を持っている。政府高官の汚職や疑惑がおおやけになった直後、かならず外国のスパイが逮捕されたり、過激派の犯行が明らかになったりする」
 そうアメリ力の新聞が皮肉ったことがある。一九八八年にR事件とよばれる新興企業がらみのスキャンダルがおき、首相や大蔵大臣の名前が事件に出てくると、いきなり「フィリピンの日本人誘拐事件は日本の過激派のしわざだった」というニュースが発表された。一時は大さわぎになったが、その後、何の続報もなく、いつのまにやら話は立ち消えになってしまった。こんな例はいくつもあって、公安警察のやりくちはワンパターンなのだが、マスコミがまたそのつど、ほいほいとじつによく踊るのである。お隣りの国でおきた「旅客機行方不明事件」も、いつのまにか「旅客機爆破事件」になり、「美貌の女スパイ事件」になり、「拉致された日本人女性事件」になって、さて肝腎の旅客機と乗客はどうなったのやら、ろくに捜索もされぬままに、いつのまにか人々の記憶は薄れてしまったのだ。何と御しやすいマスコミであり、何と忘れっぽい国民であろう……。>

 ……他ならぬ自分自身が、かつてこれほどまでに全面否定的な評価を下していた公安警察を祭り上げることで「公安調査庁の廃止」を提言するなど、よほど羞恥心が欠如しているか、あるいはそれこそ冗談抜きで本当に重度の痴呆症なり健忘症なりを患っているとかいった要素でもなければ、恥ずかしくてとても実行に移せるものではないと思うのですけどね。ここまで支離滅裂かつ主張の一貫性も整合性も全く取れていない言動を何度も何度も堂々と繰り返すことができる田中芳樹の厚顔無恥ぶりには、もはや匙を投げるしかありません(>_<)。
 それとも、「公安警察を持ち上げた公安調査庁の廃止」は「小早川奈津子をなだめすかすための【作品構成上の演出】」の類に過ぎず、創竜伝と田中芳樹が考えている真の主張と目的は、前出3つの社会評論を全て掛け合わせた「公安警察も公安調査庁も、双方共に日本でもっとも存在意義のない行政機関であり、かつ日本国内において犯罪を捜査し検挙する資格などないはずだから、全て廃止するべきである」というシロモノだとでも言うのでしょうか? オウム真理教や革マル派・中核派などといった極左過激派団体の事例をいちいち挙げるまでもなく、そんなことをしたら日本中のいたるところでテロ活動がやりたい放題となって著しく治安が悪化し、国民生活が混乱をきたして収拾のつかない事態に陥ることになるのは目に見えています。危険な団体の危険なテロ活動を未然に防止するためにも、公安調査庁や公安警察のような組織の活動は必要不可欠であり、その存在意義は大いに認められて然るべきなのですから、もちろんそんな主張には少しも賛同することはできませんね。
 第一、公安調査庁が抱えている「捜査権も逮捕権もない」という欠陥にしても、それは「改善するべき問題」には成りえても、それ単体だけで「公安調査庁という組織そのものを廃止するべき正当な理由」になどなるわけがないでしょう。かつてオウム真理教に対して、「捜査権も逮捕権もない」公安調査庁が、しかも事実上死文化しているとすら言われている破壊活動防止法の適用をもって当たろうとした時でさえ、国民の不安を鎮め、オウム真理教がそれ以上のテロ活動を行うことを抑止する一定の効果はあったのですし、国民の多くもまた、破壊活動防止法の適用によるオウム真理教の全面的な解体を望んでいたのです。ならば公安調査庁と破壊活動防止法が抱える構造的欠陥が是正されれば、さらなる犯罪抑止力の増大と効率的な組織運営をもたらし、国民の期待に応えることができるのは明白なわけで、それを全く考慮せずして組織の廃止を訴えるのは短慮もいいところでしょう。
 また世界的に見ても、破壊活動防止法や「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」のような団体規制法と、それらの法律を執行する公安調査庁のような調査機関は、日本だけでなく、言論・思想・結社の自由を認めている民主主義国家をも含めた世界中全ての国々において、国の基本的法秩序を守るための最後の安全装置として、多かれ少なかれその存在意義はきちんと認められているのが実情なのです。アメリカは日本の公安調査庁のモデルとなった連邦捜査局(FBI)、イギリスは保安局(SS)、ドイツは憲法擁護庁(BFV)、フランスは国土監視局(DST)といった、団体規制を目的とした調査機関が存在しており、日本の公安調査庁以上に強大な権限と法的なバックアップの下、問題団体に対する調査活動が活発に行なわれています。現行の公安調査庁に法的な不備や組織運営上の問題があるのであれば、むしろ外国の調査機関の国際的標準に合わせていく方法を模索していくことこそが、国家の安全にも国民の願いにも合致した改革というものではありませんか。
 問題の本質が何であるのかを全く理解することなく、表層的に浮き出てきた事象を表層的に、それも発言の整合性や一貫性を全く考慮することなくその場凌ぎであげつらうしか能がないから、あらゆる社会評論が全て支離滅裂かつ的外れなシロモノに堕してしまうということが、田中芳樹のダイヤモンド並にガチガチな頭には永遠に理解できないのでしょうね。まあ、日露戦争における日本の勝利を「負けずにすんだ」だの「すっかりのぼせあがり」だのと否定的な評価を下したり、日本の勝利に貢献した東郷平八郎を「一局地戦の指揮官」と貶めたりする一方で、それこそ「一局地戦の指揮官」でしかなかった岳飛だの劉永福だのを絶賛している「派手好き」かつ「ダブルスタンダード」なフォーク准将のごとき御仁に、それ以上の水準の評論を期待するなど最初から無理な話ではあるのでしょうけど(笑)。



P160上段〜下段
<「まだフクロウの群れがいるよ」
 窓の外を見て、余が報告する。
「何なんだろうね。中部地方のフクロウがみんな集まったみたい」
(中略)
 茉理が考え込む表情をした。
「もしかしたら……」
 これまで一度ならず、茉理は、危険な状況を鳥によって救われたことがある。不審に思ったのはむろんだが、考えても結論が出るようなことではなかった。だが、この日、茉理は瑤姫によって正体を知らされたのだ。鳥の女神であることまでは教えられなかったが、関連を考えるのは当然のことだった。>

 あ〜あ、またやってしまいましたね。また過去のストーリーの積み重ねを完全に無視している、その場凌ぎかついいかげんな作中記述が堂々とでっち上げられていますよ(>_<)。これでまたひとり、アルツハイマー型老人性痴呆症の重症患者の誕生が確定しましたな(笑)。
 鳥羽茉理の前世である「仙界における西王母の末娘・太真王夫人」という正体を鳥羽茉理が最初に知ったのは創竜伝9巻であり、それを教えてやったのは瑤姫ではなく竜堂兄弟だったはずではありませんか。他ならぬ自分自身の正体に関する話だというのに、何故その話を誰から「最初に」聞かされたのかすらも覚えていないのですかね?

創竜伝9巻 P45下段〜P46上段
<「これまで一八年と何ヵ月か人間をやっててよ、急に、お前は実は仙界の住人なんだっていわれてもねえ。自分で信じこんでいた血液型が実はちがっていた、というのはありふれた話だけど」
 自分が神話や伝説に名高い西王母の末娘だ、と先夜知らされて、茉理はさすがに落ちつかなかった。自分の身体が自分のものでないような気がする。
「以前に茉理ちゃんはいってくれただろ、どんなことがあってもおれはおれだって。同じことじゃないか」
「うーん、わたしも偉そうなこといったものよね。自分自身のことじゃないとなると、人間、冷静になれるものだわ。反省してます」
「反省なんてする必要はないだろう」
 終に対しては毎日、反省をうながしている始だが、従妹に対してはそういった。>

 ↑この会話は一体何だったというのでしょうか? この時すでに鳥羽茉理は、明らかに自分の正体を完全に把握してしまっているではないですか。にもかかわらず、何故創竜伝13巻の時点でわざわざ「だが、この日、茉理は瑤姫によって正体を知らされたのだ」などという記述が必要になるのですかね?
 しかも「鳥の女神であること【までは】教えられなかった」という記述の存在は、「瑤姫から知らされた鳥羽茉理の正体」というのが、今までの創竜伝ストーリーの中ですでに既出となっている情報「のみ」で構成されていることをも意味します。もし「瑤姫から知らされた鳥羽茉理の正体」の中に、今までの創竜伝ストーリー中に全く出てきていない「新規の重要な設定」が含まれているのであれば、その「新規の重要な設定」は話の流れから考えても当然「鳥の女神であること」よりも上位の位置に立つ事項とならざるをえないはずなのですから、それは【までは】未満として「仙界における西王母の末娘・太真王夫人」と同列に括られることなど文章構成的に見てありえないシロモノでしょう。
 そして、件の創竜伝9巻の描写は創竜伝時間10月中旬頃のエピソードで、最大限贔屓目に見積もっても、創竜伝13巻から遡ること半月〜20日程前に起こった出来事でしかありません。しかもこれは鳥羽茉理にとっては他ならぬ自分自身の身に関わる超重大な話だというのに、それを瑤姫から改めて聞かされるまで完全に忘却してしまっていたとは……。なんかここまでくると、そもそも創竜伝世界の住人にマトモな記憶能力を期待する事自体が無理な話なのではないかという絶望的な思いすら脳裏によぎってきます(笑)。
 まあ結局のところ、創竜伝世界の作中キャラクターがここまで醜悪かつ滑稽かつ無様な醜態を晒す羽目に陥っている最大の原因は、創竜伝世界の創造神である「とうちゃん」が、今までの創竜伝のストーリー&作品設定を完全に掌握しないまま、新規のエピソードや設定をロクにチェックすることなく無造作に付け加えていることにあるのでしょうけどね。普通、この手のシリーズ作品を執筆する際には、これまで展開されてきたストーリーを何度も読み返し、流れや設定を全て把握した上で矛盾がないかどうかを逐一チェックしていきながら書き上げるものだと今まで私は考えていたのですが、どうも創竜伝では、そのような「常識」など全く顧みる価値もない唾棄すべきシロモノであるとしか見られてはいないようです(笑)。
 こういうのって、まさに「小説だからこそ許されない」ことなのではないかと思うのですがね〜。



P167上段〜下段
<日本は東海大地震で九〇〇〇人の犠牲者を出し、被害総額は三七兆円におよんだ。その後、現在までつづく富士山大噴火にいたっては、死者はすでに一万人をこし、被害総額は算定すらできない。おそらく一〇〇兆円をこすのではないか、といわれている。それでもなお、アメリカが「正義の武力行使」をおこなうときには、兆単位の軍費を負担する、と、新首相は言明した。資金を出せなくなったら、つまり利用価値がなくなったら、宗主国アメリカに捨てられるという恐怖。それとも、強大なボスに媚びへつらって、ナンバー2の地位を占めるつもりだろうか。
「トク武だな、まるでフビライ汗のモンゴル帝国だ」
 始の溜息は苦い。
「臣従し、モンゴル帝国の支配する政治的・経済的ネットワークに参加すればよし。それを拒否すれば、強大な軍事力をもって制圧する。その独善的で傲慢なありようを、後世の歴史家はトク武と呼んだ。武を汚すものだ、と、まさに現在のアメリカ帝国そのものだ」
 間違ってはいないが、場違いな議論だ。それと承知で、始は、歴史観まじりの国際政治論などをつづけている。>

 アンタが言っているのは「間違っているし、場違いな議論」でしょう、竜堂始くん。アンタがモンゴル帝国とアメリカに対して深刻な憎悪を抱いていることは別に知りたくもないのにイヤというほど理解させられましたが、当時の政治的・経済的事情や価値観について全く考慮することなく、現代の価値観だけでモンゴル帝国の「侵略行為」なるものを断罪することが「間違っていない歴史観まじりの国際政治論」であると、まさか本気で思っているわけではありますまい?
 そもそも、何故モンゴル帝国が他国への「侵略行為」なるものを繰り返し、あれほどまでに巨大な統一国家を築き上げたのかについては、竜堂始を生み出した創竜伝世界の創造神であるところの「とうちゃん」自身が、かつて別の作品で次のように記述しているはずなのですけどね↓

銀英伝3巻 P119下段〜P120上段
<経済的な要求が政治の統一をうながした例は、歴史上にいくらでも実在する。
 ジンギス汗のモンゴル帝国が巨大な統一国家を形成しえた理由のひとつは、シルク・ロードを往来する交易商人の支持があったことだ。街道にそったオアシスのひとつひとつが独立した小国家である状態では、街道全体の治安がたもたれにくい。加えて、それぞれのオアシス国家がほしいままに交易税や通行税を取りたてるのだから、商人たちにとってはたまったものではなかった。
 彼らは一時、ホラズム帝国に期待したが、その皇帝が無能なうえに貪欲だったので失望し、宗教的な寛容、強大な軍事力、東西交易の重要性を理解する能力、以上のみっつを備えたジンギス汗を支持することにしたのである。彼らはジンギス汗に資金、情報、武器とその製造技術、食糧、通訳、徴税のノウハウなど多くのものを提供し、その征服活動に協力した。純軍事行動を除外しては、彼ら交易商人の功績あってこそ、モンゴル帝国が誕生しえたのだといえる。それら交易商人のうちでも、ウイグル人の協力は特記すべきものであり、彼らはモンゴル帝国の財政・経済面を支配して、事実上、帝国そのものを運営していた。表面はモンゴル帝国であっても裏面はウイグル帝国――そう評される所以である。>

 上記で語られているように、モンゴル帝国は主に内陸アジアを中心に活動していた交易商人の支持と支援を受けることによって、あのような空前の世界帝国を築き上げることに成功したわけです。モンゴル帝国とそれを支持する交易商人達の置かれていた当時の政治的・経済的事情では、巨大帝国による広大な交易圏の確保は絶対的な要請だったのですし、それを邪魔する国との間に話し合いなど成立するわけもなく、自らの欲求を実現したいのであれば相手を武力によって滅ぼさなければならないのもまた、当時の価値観では至極当然のことだった、ただそれだけの話ではありませんか。
 そしてモンゴル帝国が竜堂始の主張する「トク武」なるものを繰り返し実行し、駅伝制を整備して東西通商路の安全確保に努めた結果、シルクロードを往来する交易商人の数は著しく増加し、東洋と西洋の活発な交流が行われるようになった結果、飛躍的な経済の繁栄と文化の活況、それに国境や民族・宗教といった枠組みにとらわれない、人類史上最大規模の平和共存の時代がアジア・ヨーロッパ・北アフリカ世界にもたらされることになったのです。
 もちろんこの潮流は、田中芳樹と竜堂始が身心を捧げてまで愛する偉大なる中国サマも決して例外ではなく、経済的には海上貿易の発展に伴って杭州(臨安)・泉州・広州などの港市が繁栄しましたし、また中央アジア・西アジア・ヨーロッパから多くの商人・宣教師・旅行家などが中国を訪れたり、元曲や小説といった庶民文化が発達したりして文化的にも大いに潤っています。
 これらモンゴル帝国の侵略動機とそれがもたらした政治的・経済的功績、そして何よりも「世界をひとつにした」と言われる巨大な歴史的意義は決して無視できるものではないでしょう。当然、田中芳樹も竜堂始もこれらの話を知らないはずがないのですから、本当に「歴史観まじりの国際政治論」とやらを語りたいのであれば、侵略と歴史的意義の全てを含めたモンゴル帝国の総体を評価しなければならないはずなのですけどね。

 それなのに何故、竜堂始が意固地になって「トク武」などというわけの分からない概念などを振り回しているのかというと、たとえモンゴル帝国にどれほどまでの巨大な功績や歴史的意義が「客観的な事実として」存在したとしても、モンゴル帝国によって滅ぼされた国と、それに何らかの個人的な思い入れを抱いている人間の「個人的な主観的価値観」から見れば「侵略者」「疫病神」でしかありえない、というただそれだけのことでしかないのです。
 その竜堂始個人のモンゴル帝国に対する異常なまでの「恨み」と、モンゴル帝国の「侵略」によって滅ぼされた国に対する過剰なまでの思い入れが無意識のうちに滲み出ていることを象徴しているのが、「フビライ汗のモンゴル帝国」という竜堂始自身の言動です。少し考えれば誰でも簡単に分かることなのですけど、モンゴル帝国が他国への侵攻、竜堂始の言葉を借りれば「トク武」を世界的規模で大々的に行うようになったのが「チンギス・ハン」の時代からであったことは、中学校の歴史教科書にすら載っているような歴史的事実です。そりゃフビライ・ハンだって「交易圏の拡大」を目的に、南宋や日本といった周辺諸国に対して「侵略行為」を行ってはいたでしょうが、竜堂始曰く「モンゴル帝国のトク武」自体は、別にフビライ・ハンだけが単独で行っていたわけではありません。
 にもかかわらず、「チンギス・ハン以降のモンゴル帝国」、あるいは単純に「モンゴル帝国」とは言わずに、わざわざ「フビライ汗のモンゴル帝国」などという無為無用かつ余計な限定を加えてしまう。この辺りに「トク武」や「国際政治論」云々とは全く無関係な「竜堂始の個人的感情」が、見るも無惨なくらい露骨に表れているわけです。
 何しろ、竜堂始が「病的な中華思想」「右翼的な愛国心」を抱いてまで心底愛していた南宋帝国は、1276年〜79年にかけてフビライ・ハン率いるモンゴル帝国(正確には「元」ですが)に完膚なきまでに葬り去られてしまいましたからね〜。そりゃ狂ったように「フビライ汗のモンゴル帝国」を罵りたくもなりますわな(笑)。まあ竜堂始にしてみれば、偉大なる中華民族の帝国であった南宋の滅亡は、たとえて言うならば恋人が目の前で強姦された挙句、残酷極まりない方法で惨殺されたも同然のショックだったのでしょうから、ただでさえ痴呆症気味の頭に血が上ってつい「右翼の民族至上主義ないしは愛国主義的な本音」を曝け出してしまったとしても無理からぬことではあるでしょう(笑)。「語るに落ちた」とはまさにこのことなのでしょうがね(爆)。
 竜堂始が語っているのは「歴史観まじりの国際政治論」という御大層なシロモノなどではなく、竜堂始個人の単なる「私怨」でしかないのです。まあ竜堂始が自分個人の主観的価値観に基づく歴史観から「フビライ汗のモンゴル帝国」を憎むこと自体は思想の自由というものでしょうが、そんな偏狭な視点に基づいた愚劣な感情論などを「歴史観まじりの国際政治論」などと偽るのは一種の「詐欺行為」というものですし、先にも述べたように、当時の政治的・経済的事情や価値観について全く考慮することなく、現代の価値観だけを無理矢理当てはめてモンゴル帝国の「侵略行為」なるものを一方的に断罪したところで、そんなシロモノに有意義な価値が認められることなどありはしないのですよ、竜堂始くん。



P167下段〜P168下段
<「モンゴル帝国は『神の鞭』と自称していた。その傲慢さ、神国意識もアメリカそっくりだ。だが、モンゴルでもやらなかったことがあるな」
「それは何?」
「低次元にも、食物にやつあたりすることさ」
 第二次湾岸戦争のとき、あくまでも開戦に反対するフランスの態度に逆上したアメリカ連邦下院議会は、「敵対国に対する制裁」に乗り出した。議会レストランのメニューから「フランス風の名」を全て消し去り、「フレンチフライ」を「自由(フリーダム)フライ」、「フレンチトースト」を「自由(フリーダム)トースト」と改名したのである。
「全面的に服従しない者は敵だ」という、知性と度量を欠いた態度は、「おとなげない」と各国の冷笑を買った。もちろん国内からも批判が出て、ある新聞は、
「レストランという言葉自体、もとはフランス語だ。イーティングルームと変えるべきだろう」
 と、からかったものである。
 健全な批判能力を持つ人々が毅然として存在することこそ、アメリカの強みである。だが彼らの冷静な声を無視して、狂気の車輪は驀進し、「自由と正義」の旗をひるがえしつつ、何百万人もの死体をひきつぶして、全世界の石油を手中におさめるだろう。>

 全体的な文章構成が非常に支離滅裂ですね。前半部分で「アメリカの傲慢さ・神国意識はモンゴル帝国以上で、【低次元にも、食物にやつあたりする】くらいひどい」とのたまったかと思えば、結論部分では「健全な批判能力を持つ人々が毅然として存在することこそ、アメリカの強みである」などという「【非常に健全である】と解釈されかねない『余計な注意書き』」を付加してしまうのですから。すくなくともモンゴル帝国内では、田中芳樹曰く「健全な批判能力を持つ人々」が「毅然として存在する」ことなど到底許されることはなかったはずなのですけど、アメリカはモンゴル帝国よりも傲慢なのか健全なのか、一体どちらだというのでしょうか(笑)。
 そもそも、この「フレンチ→フリーダム」の名称変更は、元々アメリカ南部ノースカロライナ州ビューフォートでハンバーガーショップを経営しているニール・ローランドという人が、反戦の立場をとっているフランスに対する抗議と制裁の意味を込めて始めたのが好評を博してマスコミに取り上げられ、全米各地に飛び火して広まったものです。つまり、田中芳樹曰く「『全面的に服従しない者は敵だ』という、知性と度量を欠いた【おとなげない】態度」とやらは、大多数のアメリカ国民にはむしろ「好意的に」受け止められていたのですけどね(爆)。
 この手のフランスに対するいささか子供じみたアメリカ国民の拒絶反応や悪口雑言は、当時様々な形で噴出しており、たとえばラスベガスでは、地元放送局の主催でフランスパンやシャンペンなどを大型の米国車で踏み潰す催しが開かれていますし、アメリカの大衆紙「ニューヨーク・ポスト」などは、安保理の円卓に座るフランス・ドイツ両国外相の顔を「イタチ」の写真に取り替えた記事を掲載したりしています。
 こういったことが公然かつ大々的に行われたくらいですから、当然フランス製品の売上やフランス観光業界なども大きなダメージを受けることになりました。当時フランスレストランの売上は20〜30%減少、フランス製ワインの売上も10〜20%落ち込み、さらにはイブサンローランやシャネルの香水・エビアンの水・ミシュランのタイヤなどといったフランス製製品も軒並み売上が激減してしまったのです。観光も同様で、フランス政府観光局によると、観光局への問い合わせ数は、前年(2002年)比で2月には21%、3月には43%も減少しており、フランス自慢のコンコルド旅客機のパリ−ニューヨーク便は空席だらけとなり、かつてはドル箱と言われたフランスへのツアー客はエジプトへのそれよりも減ってしまったのだとか。これらのエピソードは、当事者達にとっては決して笑って済ませられるようなことではないのですけどね。
 このような「フランスバッシング」とでも言うべき行為が行われるようになった背景には、フランスに対する悪感情が国民レベルで広範に浸透しているという事情があり、国民主権の民主主義制度の下では、そのような国民の声が政治家にとって無視できないものであるからこそ、それに半ば押される形でアメリカ連邦下院議会が件の決断を下した、というのが「フレンチ→フリーダム」の名称変更に象徴される「フランスバッシング」の実態なのです。
 さらに、アメリカにおける「フランスバッシング」のような話は別に今に始まったことではありません。たとえば第一次世界大戦当時、反ドイツ感情が高まりを見せていたアメリカでは、ドイツ由来の食べ物であるザワークラウトやハンバーガーが、一時期「リバティーキャベジ(自由のキャベツ)」「リバティーステイク(自由のステーキ)」と呼称されていたことがありますし、1980〜90年代に日米貿易摩擦の問題がクローズアップされていた頃に、日本製製品をハンマーなどで打ち壊す「ジャパンバッシング」が公然と行われていたのは有名な話です。また、アメリカ人がコーヒーをよく飲むようになったのも、イギリス植民地時代にイギリス本国から紅茶税をかけられたことに対する反発がきっかけだったそうですから、「フランスバッシング」のような話は、アメリカでは建国以前の昔から何度も繰り返し行われている「伝統行事」でしかないわけです。
 田中芳樹曰く「『全面的に服従しない者は敵だ』という、知性と度量を欠いた【おとなげない】態度」とやらは、そのような政策を是とするアメリカ国民の総意ないしは世論の土壌から発したものであるわけです。そのような事情を無視して、全ての責任をアメリカ連邦下院議会のみに負わせるのはいささか酷ではないかと思うのですけどね。

 そして田中芳樹は、上記の事情を何らわきまえることなくアメリカ連邦下院議会を一方的にこき下ろす傍ら、大多数のアメリカ国民に対しては「健全な批判能力を持つ人々が毅然として存在することこそ、アメリカの強みである」などという礼賛論を繰り出しているわけなのですが、イラク戦争当時、果たしてそんなシロモノが「田中芳樹の期待に沿う形で」本当に機能していたと言えるのでしょうか?
 実のところ、アメリカで田中芳樹が主張する意味での「健全な批判能力を持つ人々が【毅然として存在する】」というのが実現していたのは、せいぜいベトナム戦争時代辺りまでの話で、それ以降のアメリカにおける戦争報道では、「軍による情報統制」が多かれ少なかれメディア側にかけられていたというのが実情なのです。この当時のアメリカメディアは、確かに「健全な批判能力を持つ人々が毅然として存在」して反戦を訴えることでアメリカの国内世論を動かし、政府に戦争を止めさせることに成功しました。これはベトナム戦争自体が泥沼化し、国民の不満が高まっていたことも大きく働いてはいたでしょうが、とにもかくにもこの時代は、アメリカ全体にとっては「暗黒時代」であっても、アメリカメディアにとっては「黄金時代」として歴史に刻まれているわけです。
 ところがこの「黄金時代」は、1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻によって翳りが生じます。この時、アメリカの報道陣は軍の統制によって現地に一切立ち入ることができなかったのです。これに対してメディア側の不満が噴出し、軍とメディアの関係は著しく悪化します。そして両者の関係改善が様々な形で検討される中、1991年に湾岸戦争が勃発するのです。
 この湾岸戦争でアメリカ軍がメディアに対する妥協の産物として提示されたのが、いわゆる「プール制」と呼ばれる日本の記者クラブのような代表取材制です。湾岸戦争当時の取材に際しては、世界から2000人を超えるジャーナリストがサウジアラビアのダーランやリアドに集まっていたのですが、アメリカ軍はその中からわずか125人前後のジャーナリストを選抜し、軍のエスコートで戦場取材を認めただけで、残りのジャーナリスト達を報道から全て締め出してしまったのです。
 しかも「プール制」では大手メディアが優先されていただけではなく、戦場取材といっても集団バス旅行のようなもので自主的に活動できる自由はほとんどなく、将校による記事の検閲すら存在しました。それでも軍に選抜された代表取材メディアはまだマシな方で、「プール制」の枠からあぶれた大多数のジャーナリストは戦場における現場取材の権利すら与えてもらえず、フラストレーションを募らせながらアメリカの公式記者会見を聞いて記事を書いているありさまでした。しかもこの報道体制の中で、CNNによる「油まみれの水鳥」の誤報が生まれ、それをアメリカ政府がフセイン政権を糾弾する宣伝工作に利用するという事態すら発生したのです。そのため、この湾岸戦争はアメリカメディアの間で「アメリカ現代史の中で、最も正当に報じられなかった戦争」とすら言われているほどで、「プレスの自由」を謳ったアメリカ合衆国憲法修正第一条に違反するという連邦訴訟まで発生する始末です。
 この時点で、すでにアメリカメディアの戦争報道が「軍による情報統制」を受けていたことがお分かり頂けるでしょう。しかもこの統制された報道によって、当時のアメリカ世論はその約90%近くが大統領を支持していました。湾岸戦争当時のアメリカでさえ、田中芳樹曰く「健全な批判能力を持つ人々」が「毅然として存在する」ことは難しい状況に陥っていたのです。

 それでは問題となっているイラク戦争当時はどうだったのか? 実のところ、「反戦」だの「政府批判」だのといった観点から見れば、イラク戦争時におけるアメリカメディアの報道ほど、「健全な批判能力を持つ人々」が「毅然として存在する」という謳い文句から程遠いシロモノもそうそうあるものではなかったのですけどね。
 イラク戦争の戦場報道では、湾岸戦争で悪評高かった「プール制」に代わり、「埋め込み型(Embed)」と呼ばれる報道形態が導入されました。これはメディア側が政府に要望して実現したもので、軍事行動に記者が参加する形でアメリカ軍の部隊と寝食を共にし、部隊について移動しながら取材活動をする形式を取っています。この形態は「軍事行動の公開性はどこまで可能なのか?」という問いに対する前例のない試みともなったのです。
 ところが、この「埋め込み型」報道形態は意外な副産物をもたらしました。部隊に従軍しながらリアルタイムのライブ報道を行っている従軍記者が軍人や戦車の目線で戦場や敵を見るようになった結果、従軍している部隊との間に仲間意識や連帯感といった「戦友」感覚が生まれていったのです。アメリカやアメリカ軍が嫌いだと公言していた記者でさえ、「埋め込み型」で兵士達と寝食を共にする間に「親・米兵」になってしまったと語っているほどで、その結果、従軍記者達は、自分達が従軍している部隊に感情移入してその活躍を「熱狂的に」報道し、アメリカ軍の戦争システムの中に自ら組み込まれていったのです。これがアメリカ軍にとっていかに大きなものであったかは、2003年5月2日(日本時間)にブッシュ大統領がイラク戦争の戦闘終結宣言を出した後、当時のマイヤーズ統合参謀本部議長が「今回の戦争ではメディアと軍との一体感が形成された」という喜びの表明を行ったという事例ひとつを見ただけでも一目瞭然でしょう。そのためイラク戦争は「メディアに対する勝利を勝ち取った戦争」とさえ言われているのです。
 この傾向にさらに拍車をかけていたのが、オーストラリア出身のメディア王ルパート・マードック率いるニューズコープ社の傘下にある「FOXテレビ」や「FOXニュース」の報道スタンスです。ニューズコープ社の会長であるルパート・マードックは、アメリカ同時多発テロ事件以降、アメリカ擁護・ブッシュ政権支持の方針を鮮明に打ち出しており、その傘下にあるテレビ局「FOXテレビ」やニュース専門ケーブル局「FOXニュース」も、とにかく強烈な「愛国報道」を行うことで知られています。
 この「FOXテレビ」と「FOXニュース」は、その過激な愛国報道や、分かりやすくノリの良い番組構成などによってここ数年急速に台頭し、特に「FOXニュース」は、2003年にはそれまでアメリカメディアの頂点に立っていたCNNを、契約者数でも一日平均視聴率でも大幅に追い抜いてしまうほどの急成長を遂げています。そして、このFOX系メディアの大成功は、中立・客観報道のスタンスを維持しようとするCNNやアメリカ3大ネットワーク(ABC・CBS・NBC)、さらにそれ以外のテレビ局にも大きな影響を与え、結果としてアメリカメディア全体の報道スタンスそのものを扇情的・愛国的なものへと変えた「FOX効果」と呼ばれる現象を生じさせたのです。
 この「FOX効果」は、当然アメリカ国内における反戦報道にも大きな影を落とすことになりました。イラク戦争当時の2003年3月31日、アメリカ3大ネットワークのひとつ・NBCは、ベトナム戦争や湾岸戦争の報道で活躍したピュリッツァー賞ジャーナリストのピーター・アーネット記者を、イラク国営テレビに出演してアメリカの軍事作戦やブッシュ大統領に批判的な発言を繰り返したという理由で解任しています。NBCは当初、「彼は命を賭けてバグダッドから報道している」とアーネット記者を擁護していたのですが、抗議のメールや電話が大量に殺到してしまい、いわば「世論に圧されて」アーネット記者を解雇せざるをえなくなったのです。その後、当のアーネット記者は「イラク国営テレビに出たのは間違いだった」としてNBCとアメリカ国民に謝罪の意を表明しましたが、これはまさにアメリカのジャーナリズムの自由度が大きく減じていることを象徴した事件であると言えるでしょう。
 こういった惨状のどこをどう見ると、「健全な批判能力を持つ人々が毅然として存在することこそ、アメリカの強みである」などというタワゴトが出てくるのでしょうか? すくなくとも田中芳樹曰く「健全な批判能力を持つ人々」とやらは、湾岸戦争やイラク戦争当時、「毅然として存在する」ことができなくなっていたとしか思えないのですけど(笑)。

 で、こういったアメリカ国内の諸事情を鑑みてひとつ疑問に思ったことがあるのですけど、何故田中芳樹は「民主主義国家」であるアメリカの政府や軍を批判しておきながら、一方でアメリカ国民全体については不自然なくらい寛大な姿勢を示そうとするのでしょうか? かつて件のアメリカと似たようなことを行っていた戦前の日本を田中芳樹が批判した際には、「健全な批判能力を持つ人々」の存在などすっ飛ばして、いきなり日本人断罪論にまで話を一気に飛躍させるのが通例だったはずなのですがね〜。
 どうも以下のような文章を読んでいくと、今回田中センセイが開陳していらっしゃるアメリカ批判はずいぶん手ぬるいシロモノであると判断せざるをえないのですけど↓

創竜伝7巻 P125上段〜下段
<一九〇四年から五年までの日露戦争で、日本軍は「規律正しく、よく国際法を守るりっぱな軍隊だ」と諸外国から賞賛された。それからわずか三、四〇年で、日本軍は、野獣の群れにまで堕ちてしまった。日本軍だけでなく、おそらく大多数の日本人が変わってしまったのだ。一九三〇年代の人気作家が書いた文章を読んでみると、「あの薄よごれた中国人どもと、高貴な日本民族とが、同じ平等な人間であるはずがない」とか「日本が幸福になるために他の国が犠牲になるのは当然だ」とか書いてある。この作家はたぶん正直だったのだろう。だがその正直さは、高貴さとは何の関係もない。
「……狂気というやつは個人をとらえることもあるが、時代をとらえることもある。そして、その方がはるかに始末が悪い。日本人もドイツ人も、本来、取り立てて残酷な人々ではないはずだが、自分たちは優秀な民族だと思いあがったとたんに、狂気にとりつかれてしまったのじゃろう」>

創竜伝8巻 P183下段〜P184上段
<「人種間に優劣の差があるというのは、自分たちは優秀だと思いこんでいる民族にとって、もっとも甘美なファンタジーだものね。そんな妄想を信じこんで、ようやく醒めたら、焦土のなかに立ちすくんでいることに気づくのよ。一九四五年のドイツ人や日本人みたいにね」
 第二次大戦のころ、ある日本人女性が中国服を着て船に乗ろうとした。「お前は日本人ではないから、あとまわしだ」と、警官にいわれ、「私は日本人です」と抗議したところ、「一等国民の誇りを忘れ、三等国民の服を着るとは何事だ。恥を知れ」とどなられ、なぐりたおされたという。「一等国民」というのは当時の流行語だったが、その正体は、このように後世の日本人が恥ずかしくなるようなものだった。>

 そして創竜伝13巻でも、↑これらの作中記述と全く同じようなことをつい40ページほど前でも田中センセイは得意気になって披露していましたよね? 曰く「もともと二〇世紀は日本が超大国幻想にとりつかれた熱病の時代だった」「一九〇五年、ロシアとの戦争に勝ってから(正確には、負けずにすんでから)、すっかりのぼせあがり、全アジアを軍事力で支配しようとして、みじめな失敗をとげた」と。その田中芳樹の論法で例の一件を考えれば、イラク戦争を遂行するアメリカの議会&政府およびそれを支持するアメリカ国民もまた「超大国幻想にとりつかれ」て「すっかりのぼせあがり」、全世界を「軍事力で支配しようと」画策した挙句、「『全面的に服従しない者は敵だ』という、知性と度量を欠いた【おとなげない】態度」を晒している、ということになるはずでしょう(爆)。
 しかも田中芳樹が今回非難している一件は、前述のように元々アメリカ国民の間で広まったものがアメリカ連邦下院議会にも波及したというのが実態なのですし、そのアメリカ連邦下院議会を選出・支持しているのもまたアメリカ国民自身です。さらに「政府の暴走」を批判すべき肝心要のアメリカメディアは、政府や軍から情報統制を受けていた上、その本分を忘れ果てて愛国報道に血道を上げている始末だったのです。ならば田中芳樹曰く「『全面的に服従しない者は敵だ』という、知性と度量を欠いた【おとなげない】態度」とやらがアメリカ連邦下院議会に出現した責任は、そのような「醜態」を晒したアメリカ連邦下院議会を選出・支持しているアメリカ国民全てが負うべきものであるという結論が当然導き出されるはずであり、そうである以上、アメリカ国民の全てをひとり残らず一切合財まとめて徹底的に断罪しなければ、田中芳樹と竜堂始が信奉する「民主主義真理教」の教理から考えても筋が通らないではないですか(笑)。
 さあ今こそ、田中センセイがこれまで日本国民を十把一絡げに断罪してきた舌鋒鋭い批判手法で、「トク武」に訴えるアメリカ政府を支持する「独善的」で「傲慢」な【アメリカ国民全て】の「神国意識」とやらを徹底的に叩き潰す千載一遇の好機ではありませんか(笑)。私としては是非とも田中センセイに、「アメリカ軍は、野獣の群れにまで堕ちてしまった」「アメリカ政府だけでなく、おそらく大多数のアメリカ人が変わってしまったのだ」「これらのアメリカ人はたぶん正直だったのだろう。だがその正直さは、高貴さとは何の関係もない」「『フリーダムフライ』『フリーダムトースト』というのは当時の流行語だったが、その正体は、このように後世のアメリカ人が恥ずかしくなるようなものだった」といった論法で、【アメリカ国民全て】を【無差別かつ徹底的に】こき下ろして頂きたいものなのですけどね(爆)。
 結局のところ、あくまで田中芳樹が自分の主張する「健全な批判能力を持つ人々が毅然として存在することこそ、アメリカの強みである」という言説の正当性を主張するのであれば、かつて日本国民全てをロクでもない論法で十把一絡げに断罪してしまった過去の駄文を全て撤回するか、両者の整合性をつける新たな言説を展開するか、あるいはいっそのことダブルスタンダードを認めてしまうか、いずれにせよ、過去に自分が得意気になって小説中で展開していた愚劣な社会評論との間に発生した矛盾のツケを、何らかの形で田中芳樹は支払わなければならないわけです。「因果応報」とはまさにこういう事態を指す言葉なのではないですかね。



P189上段〜下段
<「愛想が悪いな、竜堂家の次男坊。それが犬に伝染ったと見える」
「くりかえしますが、あなたは誰です?」
「名乗るほどのものではない」
「もったいぶってますね」
「おれの名前などより、もっとたいせつなものが世のなかにはあるだろう」
「そりゃあるでしょうけど、たとえばどんな?」
「二一世紀になって、パンドラの匣があいたのだよ」
 男は教師めいた口調になった。
「あけたのは、二一世紀最初のアメリカ合衆国大統領だ。彼が偉大なる前例をつくった。超大国であれば、国連の承認もなく、先制攻撃によって他国の政権を転覆させてもかまわない、という前例をだ。そのドクトリンに、四〇以上の国が賛同した」
「世界には二〇〇以上の国があるんですよ。のこりの一六〇ヵ国には良心と理性が残っていたようで、けっこうなことですね」
「良心という言葉には抵抗があるな」
「だったら、正気といいかえましょう。すくなくとも、戦争以外に国際紛争を解決する手段があると知ってるから、たいしたものです」>

 だからさあ、創竜伝世界における本来の時間設定はあくまでも「二〇世紀の終わりを数年後にひかえた年」であって「二一世紀」ではないのですし、その創竜伝世界に「二一世紀最初のアメリカ合衆国大統領」とやらは原理的に存在しえないはずなのですけど、何故今までのストーリー&作品設定の積み重ねを無視した「二一世紀」という違和感だらけの時間設定に何の疑問も抱こうとしないのですかね、キミ達は? そんなことを何度も繰り返すから、「アメリカおよびアメリカに賛同する四〇以上の国の良心と理性と正気」以前に、キミ達の頭の具合が読者から真っ先に疑われるのだという冷厳な事実を、いいかげんに理解して頂きたいものなのですが(笑)。
 ところで、「アメリカに反対する一六〇ヵ国の良心と理性と正気」とやらをやたらと誉めちぎっている竜堂続くんに一言質問したいことがあるのですけど、アンタの「アメリカおよびアメリカに賛同する四〇以上の国」に対する物の言いようは、つい20ページほど前で「とうちゃん」自ら中身がスカスカな評論で断罪しまくっていた「『全面的に服従しない者は敵だ』という、知性と度量を欠いた【おとなげない】態度」そのものなのではありませんかね? 「アメリカおよびアメリカに賛同する四〇以上の国」も「アメリカに反対する一六〇ヵ国」も、それぞれ自国の国益追求と利害打算に基づいてそれぞれの道を選択しただけですし、それは「客観的かつ普遍的にどちらが正しく、どちらが間違っているか」という尺度で計れるシロモノなどではないでしょうに。前にも述べたことがありますけど、国際政治の世界は小学校における学級民主主義の論理で動いているわけではないのですから、「数が多いから客観的かつ普遍的に正しい」という論理は成り立たないのですよ。
 それに、これまで「暴力以外で紛争を解決する手段」なるものを完全に否定してきた竜堂兄弟が、「暴力に訴える無法なアメリカ」なるものを非難しても笑止な限りでしかないのですけどね。創竜伝2巻で、最初は穏健な話し合いでもって提携を申し出てきた四人姉妹の幹部との交渉を、ロクでもない理由で一方的に決裂させて自分達の可能性を閉ざしてしまったのはどこのどなたでしたっけ? また四人姉妹の「染血の夢」計画を阻止する際、ロクなプランもアンチテーゼもなしに「暴力と脅しによる解決」を目指した挙句、「後のことは俺達の知ったことではない」とまで開き直っていたのは誰でしたかねぇ? そういえば、これまたロクでもない理論と愚劣な動機から「京都幕府」なる非合法かつ非民主主義的な暴力組織をでっち上げ、日本を混乱に陥れようと画策している白痴レベルのバカもいましたな。こんなことを画策・実行している連中は、「剥き出しの暴力やテロ行為以外に紛争や政治問題を解決する手段がある」とは考えなかったのでしょうか(笑)。
 竜堂兄弟の立場で下手に「安っぽいヒューマニズムに満ち溢れた善人」をきどった評論など展開しても、論理自体が破綻するか、批判内容が自分自身に跳ね返るかのどちらか、もしくは双方まとめてひっくるめた結果くらいしかもたらされることはないのですけどね。すでに数十回以上も同じ失態を演じているというのに、それでもなお同じことを何度も繰り返すとは、創竜伝世界における竜種というのは、そんなに過去から何も学ぶことがない頭の悪いバカな種族なのでしょうか(爆)。



P189下段〜P190下段
<「すると君は、この世に正義の戦争が存在することを認めないのかね」
「春秋に義戦なし」
 続の声はひややかである。
「兄に教わったんですよ。孟子の言葉です。この世に正義の戦争なんて存在しない」
「ふん」
「孟子は紀元前三〇〇年ごろの人ですからね。正義の戦争を呼号するアメリカの大統領や、それを賛美する日本の一部マスコミは、孟子より精神の発達が二三〇〇年ぐらい遅れてるんでしょう」
「君はそういう論法を好むようだな」
 男は高く低く、あざけりの声を出した。
「だが、孟子が何だ。やつは世界を征服できなかった。世界を征服するのに必要なのは、倫理でも人道でもない」
「力だというんでしょう」
「圧倒的な力。だが、それだけではない。力に正義という厚化粧をほどこして、そのことにまったく恥ずかしさを感じずにいられる神経の強靭さだ。それにしても、君はアメリカにさからう独裁者どもを擁護するのかね?」
「非道な独裁者の末路がどうなろうと、同情なんかしませんよ。でも、あなたがたに、独裁者を採点する資格なんかないでしょう。だいたいパナマでもイラクでもアフガンでも、独裁者やテロリストを育成して利用してきたのはアメリカでしょう」
「よい独裁者は、我々の役に立つやつだけさ。我々はやつらを育成し、評価し、選択し、処罰する」
 男は月を振りあおいだ。
「いずれにせよ、パンドラの匣は開かれた。ようやく我々の理想とする時代が来る。偽善的な国際法とやらを、実力が圧倒する時代がな」
「あなたに実力とやらがあるんですか」
 続は鋭く指摘した。攻撃してもよかったのだが。男には微妙に隙がない。
「国際法を無視し、国連憲章を踏みにじり、他国の領土に無差別爆撃を加えて、誰にも処罰されないですむだけの力はあるさ」>

 あの〜、すいませんが御二方、前段の引用文もそうでしたけど、御二方は「国連」というものを著しく過大評価し過ぎなのではありませんかね? 「偽善的な国際法とやらを、実力が圧倒する時代」なんてシロモノは、国際連合が成立する以前も以後もほとんど変わることなく続いていますし、別に「超大国」でなくても「国連の承認もなく、先制攻撃によって他国の政権を転覆させてもかまわない、という前例」など数え切れないほど存在するのが「世界の常識」なのですがね。
 そもそも、日本で「国際連合」と訳されている組織は、英語では「The United Nations」と書かれており、本当に直訳すれば「連合国」という言葉にしかならないことからも分かる通り、その実態は「第二次世界大戦の戦勝国クラブ」でしかありません。だから最初から「国際法的な」普遍性には大きく欠けているところがあるのです。もちろん、時代が下ると共に、日本やドイツをはじめ、世界のあらゆる国が国連に加盟するようになり、その性格も大きく変わってきてはいるものの、成立以来の基本的な理念や根本的な欠陥は未だ改善されておりません。
 その象徴とも言えるのが、常任理事国のみが行使できる「拒否権」であり、また第二次世界大戦の敗戦国である日本・ドイツ・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・フィンランドなどの旧枢軸国(イタリアは途中で枢軸国から脱退し、連合国側に立って日本・ドイツに宣戦したので除外)に対して、他国が国連や安保理の決議の必要なく軍事力を行使することを認めている「敵国条項」(国連憲章53条・107条)の存在です。これらの欠陥が是正されない限り、国連は今でも「悪の枢軸と戦う連合国」のままなのであり、常任理事国であるアメリカ・イギリス・フランス・中国・ロシアの都合によって好き勝手に運営されている組織でしかありえないのです。そんなシロモノで普遍的な平和活動に基づいた国際平和が実現する、などと考える方がどうかしているでしょう。
 実際、第二次世界大戦後の米ソ冷戦時代、国連や安保理の承認決議をバックに行われた戦争は、朝鮮戦争と湾岸戦争の2つしかないのです。朝鮮戦争では、たまたまソ連が欠席していたから安保理で2回決議することができただけで、その後ソ連はひたすら安保理に出席して拒否権発動を連発していましたし、湾岸戦争の時はソ連自体が崩壊寸前で安保理に賛成せざるをえず、そうなると中国も反対できないがために、結果として安保理決議が成立しただけです。
 さすがにソ連崩壊後は、ようやくポツポツながらも国連や安保理の承認決議が行われるようになってはきたものの、2003年現在、その総数は朝鮮戦争と湾岸戦争を含めても未だ10回目に到達しているかどうかというのが現状なのです。ちなみに、第二次世界大戦後に勃発した戦争の数は優に150以上存在すると言われているのですから、歴史的に見ても、国連は大規模な戦争はおろか、小規模な地域紛争すらもロクに回避・沈静化することができていないのが一目瞭然ではありませんか。
 かくのごとき無様な惨状を呈している国連を、しかしイラク戦争時のアメリカは可能な限り尊重するよう努めていたように思うのですけどね。イラクは1990年から2002年までの過去12年間にわたり、実に17回もの国連安保理決議に違反してきているのですし、1998年には、アメリカとイギリスが国連安保理決議678と687に基づいてイラク空爆を行っています。そして2002年には、イラクが国連安保理決議687に違反し続けていることを認めた国連安保理決議1441が全会一致で可決され、これに基づいてアメリカはイラク攻撃に踏み切ったわけです。すくなくとも法的に見れば、イラクは何度も国連安保理決議に違反しているのですし、1998年の事例から考えても、アメリカの行動は一応合法であるとは言えるでしょう。
 上記のような国際情勢を何ら踏まえることなく、約2300年も前の「孟子の言葉」とやらを持ち出して「この世に正義の戦争なんて存在しない」などと見当外れなタワゴトをほざいたり、何も変わっていない政治の論理を指して「ようやく我々の理想とする時代が来る」とのたまったりするような連中は、20世紀に大脳を置き忘れてでもいるのではないですかね?

 それにしても、こういう会話を読んでいると、竜堂兄弟と牛種って「双子の兄弟」と錯覚すらしてしまうほどの「似た者同士」なのだなあとつくづく思わずにはいられませんね。お互い発想法も行動原理もそっくりだからこそ、却って近親憎悪的に憎み合い、対立するわけで、それを無視していくら表面的に異なる意見を戦わせたところで、傍目には滑稽にしか映ることはないのですけど。
 たとえば、牛種の男は上記引用の会話の中で「圧倒的な力」とか「力に正義という厚化粧をほどこして、そのことにまったく恥ずかしさを感じずにいられる神経の強靭さ」とかいったものを信奉していることを告白しているわけですが、これって実のところ、竜堂兄弟の行動原理を支える要素のひとつでもあるんですよね。いくら口先で絶対的正義や勧善懲悪を否定しようが、連中が自分達の「正義」を絶対視しており、かつそれに基づいて「圧倒的な力」を他者に対して行使することに「まったく恥ずかしさを感じずにいられる神経の強靭さ」をも持ち合わせていることを証明する事例は、社会評論にもストーリー&作品設定の中にも数え切れないほど無数に存在しますし、つい前段の会話でも、他ならぬ竜堂続自身が「アメリカおよびアメリカに賛同する四〇以上の国」を「自分個人の主観的価値観」という「正義」でもって「良心も理性も正気も失われている」とこき下ろしたばかりです。
 また、牛種の男は「偽善的な国際法とやらを、実力が圧倒する時代」を「我々の理想」と定義し、「国際法を無視し、国連憲章を踏みにじり、他国の領土に無差別爆撃を加えて、誰にも処罰されないですむだけの力」とやらを大いに誇示しているわけですが、竜堂兄弟もまた、自分達の圧倒的な実力をもって法律を踏みにじり、権力に抵抗することを肯定する発言や行動を、創竜伝のそこかしこで何度も繰り返し行っています。もちろん竜堂兄弟は、自分達が蹂躙する法律や権力がいかに「民主主義的」かつ「理想を謳ったもの」であろうが、そんなものよりも自分達の安全や生命や正義、そして物理的・精神的な欲求などの方がはるかに優先されるべきであると考えているわけです。
 さらに牛種の男は「よい独裁者は、我々の役に立つやつだけさ。我々はやつらを育成し、評価し、選択し、処罰する」とも述べていますが、竜堂兄弟もまた、かつてこれと非常によく似た主旨のセリフを四人姉妹の幹部に向かって明言しています↓

創竜伝10巻 P127上段〜下段
<「四人姉妹とはな、近代における人類社会を効率的に管理する最良のシステムだったのだ。お前たちはそれをこわした。こわしておいて、えらそうなことをいうな!」
 全身全霊を使って老ダニエルは咆えた。
「この償いはさせてやるぞ。お前たちに安住の地はないのだ。眠れぬ夜をすごすがいい!」
 涼しくひびく声で、白皙美貌の若者が笑った。
「四人姉妹の総支配人というから、どれほどすごい人かと思ったら、何のことはない、責任転嫁と自己正当化だけ。日本の完了と同レベルの卑劣漢でしたか」
「聞くところによると、我々は三〇〇〇年間眠っていたそうだ」
 始は静かにいう。
「だとしたら、これから三〇〇〇年間は起きているべきかもしれない。起きている間に、蚊が血を吸おうとしたり、狂犬が噛みつこうとしたら、当然の権利として打ち払う」
 始が口を閉ざすと、老ダニエルは嘲笑しようとして失敗した。苦しげに息を吐き出す。蒼ざめた額に小さな汗の粒が浮かんでいた。
「以上だ。宣告しておくぞ。四人姉妹にあらたな大君があらわれて、組織的におれたちを害し、おれたちの親しい人々を苦しめようとしたら、そいつを倒す。そいつの後継者が前車の轍を踏もうとしたら引っくりかえす。何度でもな。おれたちに時間はいくらでもあるし、けんかはきらいじゃないんだ」
 老ダニエルの返事を待たず、始は踵を返した。>

 これって結局のところ、「よい四人姉妹は、我々の主観的価値観に合致したやつだけさ。我々はやつらを育成はしないが、評価し、選択し、処罰する」と言っているも同然なのではないですかね? しかも連中は自分達の管理と責任の下で「育成」するのではなく、ただ「反対のための反対」で行動するしか能がないときているのですから、「無責任」「無定見」という点では四人姉妹や牛種よりも輪をかけて劣悪であると言わざるをえないのですけど。
 竜堂兄弟も、もう少し自分に正直になってみた方が良いのではないですかね? キミ達は「圧倒的な力」を行使して法律を蹂躙したり、権力を叩き潰したりすることを完全肯定し、「力に正義という厚化粧をほどこして、そのことにまったく恥ずかしさを感じずにいられる神経の強靭さ」を持ち合わせているという点において、四人姉妹や牛種と何ら異なるところがないのですよ。だから竜堂兄弟の発言や行動は、四人姉妹や牛種と同じかそれ以上に「傲慢」かつ「独善的」なものとならざるをえないわけで、本当に連中が四人姉妹や牛種の発想法や行動原理を否定したいのであれば、まずはこの「同じ穴の狢」的な構造を自覚するところから始めなければならないのではないかと思うのですけどね。
 まああの連中にそういった「自己客観視」や「自省」といったシロモノを期待するのは、もしかすると田中芳樹&田中作品に対して「優れた理系的発想と完璧な科学考証に立脚した記述や描写に努めよ」といった類の見当違いな要求をするのと同じくらいに、無意味かつ不毛なことであるのかもしれないのですが(笑)。


No. 4685
田中芳樹、貴方は知っているはずだと思うよ・・・
新Q太郎 2003/10/20 22:11
> P189下段〜P190下段
> <「すると君は、この世に正義の戦争が存在することを認めないのかね」
> 「春秋に義戦なし」
>  続の声はひややかである。
> 「兄に教わったんですよ。孟子の言葉です。この世に正義の戦争なんて存在しない」
> 「ふん」
> 「孟子は紀元前三〇〇年ごろの人ですからね。正義の戦争を呼号するアメリカの大統領や、それを賛美する日本の一部マスコミは、孟子より精神の発達が二三〇〇年ぐらい遅れてるんでしょう」

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斉宣王が「殷の湯王は夏の桀王を追放し、周の武王は殷の紂王を討伐したという。家臣の身でありながら、自分の主君をあやめてもよいものだろうか」と尋ねた。孟子は「もちろん、よいことはありません。いったい、仁をそこなうものは賊といい、義をそこなうものは残といいます。残賊の人はもはや主君ではなく、ただの人でしかありません。だから紂という一人の男が武王に殺されたことは聞いていますが、家臣がその主君をあやめたということは聞いたことがありません」と答えた。



斉は燕の内乱に乗じて、燕を討ち、大いに破った。宣王は「万乗の国を攻めて、わずか50日で攻め取るとは、天のたまものではないだろうか。もしこれを取らねば天意に逆らうというもの、いっそ取ってはどうだろうか」と尋ねた。孟子は「もし燕の人民が悦ぶようでしたら、お取なさいませ。古人にもその例があります。しかしもし前よりも虐政が一層ひどくなれば、民心は他国へ移るでしょう」と答えた



公孫丑章句下
【一章】
孟子は「およそ戦争をするには、天の時、地の利、人の和と3つの大切な条件があるが、天の時はどんなによくても地の利には及ばないし、地の利はどんなによくても人の和には及ばない。
正しい道にかなった人には自然と味方が多く、天下の人々が皆なつき従う。だから、有徳の君子は戦わないことを尊ぶが、やむなく戦うときには必ず勝つのである」と言った。

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まあ、そのフォローもそれなりにはしてるが、基本的に孟子は正義の戦争は『アリ』だと思ってるというべきでは。

「春秋に義戦なし」とはむしろ「春秋”には”義戦なし」と読むべきで、「あー、王様はやるべき義戦をやっておらんじゃないか。ちゃんと修行して、やるならちゃんと義戦するように」のはずだ。

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少し離れるけど、始さんはそもそも「フランス革命もロシア革命も民衆から出てきたからオッケー」といってたはず。しかしこれらも「内戦」なわけで、銃弾が飛び交い剣がきらめき、罪なき人の血が大地に流れることは同様なはず。
正義の革命は存在するのかしらん。
あ、孟子はもちろん認めてますが(笑)

「もし諸侯が社禝を危うくするときは、改めてふさわしい人物を立てよ。」


No. 4686
その他2題
新Q太郎 2003/10/20 23:03
>議会レストランのメニューから「フランス風の名」を全て消し去り、「フレンチフライ」を「自由(フリーダム)フライ」、「フレンチトースト」を「自由(フリーダム)トースト」と改名したのである。「全面的に服従しない者は敵だ」という、知性と度量を欠いた態度は、「おとなげない」と各国の冷笑を買った。もちろん国内からも批判が出て、ある新聞は、「レストランという言葉自体、もとはフランス語だ。イーティングルームと変えるべきだろう」と、からかったものである。

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そもそもその名称変更自体にも「からかい」「ジョーク」の面があったともいわれるがそれは置く。
ただ、これがアホらしい(その通りだが)として、思い出したのは「ラストエンペラー」の最後のシーン。
赤信号を以って「赤で止まれなんて、反革命的だ!!」と逆転させ赤で進めとしたのだな。しかしフレンチフライでは死者は出ないだろうが、こちらはグロオバルスタンダアドの反対なもんだから事故が続出した(笑)。
おお、毛主席の評価は「今後50年かかる」なんて言ってる場合じゃねえぜ。


No. 8269
「私の創竜伝考察39」他を読んで思いついた
イクジス 2009/11/22 15:16
「すると君は、この世に正義の戦争が存在することを認めないのかね」
「春秋に義戦なし」
 続の声はひややかである。
「兄に教わったんですよ。孟子の言葉です。この世に正義の戦争なんて存在しない」
「ふん」
「孟子は紀元前三〇〇年ごろの人ですからね。正義の戦争を呼号するアメリカの大統領や、それを賛美する日本の一部マスコミは、孟子より精神の発達が二三〇〇年ぐらい遅れてるんでしょう」
「君はそういう論法を好むようだな」
 男は高く低く、あざけりの声を出した。
「それではお聞かせ願いたいが、孟子は殷周革命についてどう思っているのだろうかね」
「あなたは何をおっしゃっているのですか。否定的な意見を持っているに決っているでしょう」
 続の人を侮蔑しきった顔を見て、男は怒りよりも先に憐れみを覚えた。
「君はもう少し本を読んだ方がいい。孟子は当時の彼のパトロンの斉の宣王に、紂という一人の男が武王に殺されたことは聞いていますが、家臣がその主君をあやめたということは聞いたことがありません、と答えたのだよ」
「そ、そんなことが孟子七巻のどこに書かれているというのですか」
「卷第二、梁惠王章句下」
 よどみなく答えられ、続はあてが外れた顔で絶句した。難癖をつけようにもうまい切り返しの文句が頭に浮ばない。
 男はつづける。
「ついでに言えば燕という国の政変に斉が派兵することについても孟子は是認している。現代的な観点からすればあきらかに侵略なのにな。
 要するに春秋に義戦なし、とは正確には、春秋には義戦なし、と解釈すべきものなのだ。周初以前には正義の戦争があったのに春秋時代には一つもなかった、といっているのだな」
「それがどうしたと言うんです。正義の戦争は存在しない、これは絶対の真理なんです」
 続の声に熱がこもった。あきらかに暴力を背景にした物言いであったが、男はそれに気づかなかった。
「君はどうやらチャイナの思想家がお好きなようだな。それでは君に孔子の言葉を贈ろう。“道に聴いて途に説くは、徳をこれ棄つるなり”だ。聞きかじりの知識を人に受け売りするのは馬鹿のやることだ、というくらいの意味だな。
 孔子は紀元前五〇〇年ごろの人だ。君の論法をかりれば、君は孔子より精神の発達が二五〇〇年ぐらい遅れているわけだごらばや!」
 快速列車に正面衝突したような衝撃を男は感じた。一瞬、意識が白濁した。やがて男は地べたに叩き伏せられている自分を発見した。鉛を詰めこまれたように重い頭を上げた。竜堂家の長男が傲然と見おろし、次男が冷酷な笑みを浮べ、三男が快活そうに笑い、末っ子が天使のように笑っているのが見えた。
「渇しても盗泉の水を飲まず、と孔子は言った。四姉妹の汚れた水を飲むような奴はおれたちの制裁を受けて当然だ」
「ぼくに意見できるのは始兄さんだけだということを知らなかったのがあなたの罪です」
「ま、悪者に人権はないってことさ」
「二人がなにを言っていたのかよく分からなかったけど、続兄さんに口答えする人は死ねばいいと思うよ」
 盗泉の水うんぬんは陸機の言葉だ、と男は言いかけてやめた。返答として理不尽な暴力がかえって来るのが目に見えていたからだ。男は力尽きて頭を地につけた。竜堂家の者たちのあざけるような笑い声が呪いのように男の頭にひびく。うすれゆく意識の中、竜堂家の長男と次男が口喧嘩無敗を誇っているのは彼らの弁舌が冴えているからではなく彼らの暴力が恐ろしいからであることを男は悟った。


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