私の創竜伝考察29

創竜伝9 妖世紀のドラゴン

WEBRANKING テキストサイト部門 サイトランキング 文学・小説・童話部門 mixiチェック

このエントリーをはてなブックマークに追加

コンテンツの総収録投稿数4件の内、1〜4件目の投稿を掲載

収録投稿1件目
board2 - No.751

私の創竜伝考察29

投稿者:冒険風ライダー
2000年03月27日(月) 02時20分

 今回の投稿より、今まで使用していたメールアドレスを変更する事に致しました。新たなメールアドレスは、
frontier@wonder.ocn.ne.jp
です。これまでのメールアドレスは今後一切使用できなくなりますのでご注意下さい。まあ私にメールを送ってくるような人は今までほとんどいませんでしたけど(笑)。
 それでは批評の続きです。今回は法律関係の話題が多くなっています。

P150下段〜P151下段
<「申しわけございませんが、私どもではお役に立てません」
 冴子の言葉を、南村警視正は、なさけない思いで受けとめた。
「警察を信用してはいただけんのでしょうか」
「信用したいのは山々です。でも、特に公安警察を信用する気にはなれません。法律を破り、裁判を侮辱するような組織が権力を持っていることに恐怖と困惑を感じます」
 冴子がいったのは神奈川県警がおこした有名な盗聴事件のことだ。裁判所の出頭命令を警察は拒否し、ついに裁判所に姿を見せなかった。ようやく出廷した警察OBは判事の指示をことごとく拒絶して書類に名前も書かなかった。法律と裁判所に対して、あからさまに挑戦したのである。
 警察の仕事は何か。市民に法律を守らせることである。だが公安警察が組織ぐるみで法律を破り、裁判を侮辱しているという事実が明らかになったいま、警察はどうやって市民に法律を守らせるつもりだろうか。公安警察の無法きわまる暴走で、もっとも迷惑をこうむっているのは、他の部局のまじめな警察官である。南村はそう思うのだが、他の部局でもこのところ失敗や不祥事があいついで、批判の的になっている。警察を市民が信頼しないのは、市民が疑い深いからではない。警察が市民の信頼を裏切ったからだ。
 有名な盗聴事件で、警察側はいっさいの反省と謝罪を拒否した。これからも態度を変えないことまで明言した。有言実行というわけで、今後も違法行為をつづけるつもりであろう。南村は絶望的な心情になっていた。街のおまわりさん、田舎の駐在さん、それこそが警察の原点だ、と彼は思っている。それを忘れ、スパイまがいの盗聴などにうつつをぬかしていてどうするのか。>

 「神奈川県警がおこした有名な盗聴事件」というのは共産党宅盗聴事件の事でしょうけど、確かにこの事件で警察側は盗聴の事実を一切認めず、曖昧な態度を貫き通しています。ですから、この事件で裁判所や政府が盗聴の事実を認めているにもかかわらず、それを無視しつづけている警察側の態度は批判されて然るべきでしょう。しかしこの問題、田中芳樹が主張するような「警察の組織ぐるみの犯罪行為」であるといえるのでしょうか?
 実はこの問題を詳しく検証してみると、「警察の組織ぐるみの犯罪行為」などというシロモノよりもはるかに深刻な問題が浮かび上がってきます。それは警察のみに限定できるものではない「日本の官僚機構の無謬性の問題」です。
 これは日露戦争辺りからすでに見られた傾向ですけど、日本の官僚機構は決して間違いを認めず、必至で取り繕おうとし、それでもごまかせない時には隠蔽してまで「間違い」を隠そうとします。その傾向の最も有名なものが、自国の敗北を徹底的に隠蔽して勝利報道を行いつづけた戦前の「大本営発表」です。なぜこんな事が行われたかと言うと、戦前の日本軍が「絶対に間違いを犯さない」という建前があったからです。その「絶対に間違いを犯さない」はずの日本軍が間違いを犯してしまったらどうなるか? 当然国民からの非難が殺到し、その「間違いを犯した」責任者がつるし上げをくらう事はほぼ間違いないでしょう。「絶対に間違わない」という建前に反して少しでも間違いを犯し、それを認めてしまったら責任問題に発展し、つるし上げをくらってしまう。これが日本の官僚機構を取りまく「無謬性の問題」です。
 実はかの共産党宅盗聴事件でも同じ事が言えるのでして、警察側が「盗聴の事実」を認めたくても認める事ができない「無謬性の問題」があるわけです。認めてしまったが最後、責任者が一言の弁明も認められずにつるし上げをくらう事は目に見えています。「警察による盗聴行為」がすくなくとも当時の法制下では違法であった事は間違いないでしょうけど、この問題で本来国民が要求すべき事は、少数の責任者にただひたすら過重なまでの厳罰を与える事ではなく、なぜそのような違法行為に走らなければならなかったのかを問い、違法行為の原因を解明し、その原因の状況考慮の上で相応の責任を問う事であるはずです。
 違法行為はあくまでも違法行為として考えるとしても、その違法行為を行った背景には、犯罪捜査に必要不可欠な何か重大な理由があるのかもしれないのです。場合によっては、その行為を違法行為として妨げている現行法の方が間違っているという事すらあるのかもしれません。そのような背景を全く無視して責任者のみを厳罰に処分するだけでは、警察現場の士気を著しく減殺してしまう上に、いつかまた同じような事件が発生してしまう事は目に見えているではありませんか。そのような事態をさけるためにも、原因追及は徹底的に行い、状況改善に努めなければならないはずです。それこそが政治というものでしょう。
 実際、オウム事件などのような組織犯罪に警察が対応する必要性に迫られ、1998年に「組織犯罪対策三法」が国会に提出されましたが、その中に「通信傍受法」も入っているのです。「組織犯罪対策三法」が国会を通れば、犯罪捜査の際に「盗聴」を行う事が条件つきながら合法化されるわけです。これもやはり現行法制下では組織犯罪が横行する現状に警察が対応できないがゆえの法律制定でしょう。
 このような事情を全く無視して警察の責任のみをあげつらってみせた所で、それは批判としては全く無為無力であり、状況改善には何ら寄与しないという事ぐらい、すこしは考えた上で社会評論を展開してくださいよ、田中センセイ。

 それから田中芳樹が法治主義云々について何やら知ったかぶりなことを主張しているようですので、そちらの方も徹底的に破砕しておく事にしましょうか(笑)。
 田中芳樹は警察の仕事を「市民に法律を守らせること」と無邪気に規定しているようですが、実は「市民に法律を守らせること=市民の生活を守る」とは限りません。それどころか、法律次第では「市民に法律を守らせること」がむしろ「市民の生活を害する」などという事態になってしまう事もありえますし、その逆も充分に起こりえる事なのです。
 たとえば治安維持法下で動いていた特高警察などは、田中芳樹の規定によれば当然ながら「市民に法律を守らせる」仕事に極めて忠実であったと言えますが、そのために治安維持法の本来の補足対象であった共産主義者だけでなく、自由主義者や反戦主義者など様々な思想犯が投獄されました。
 また最近のオウム騒動では、オウムがやってきた街や村などで地元住民のオウム追放運動が展開されていますが、オウムは合法的な手続きによって街や村に居座っているのであって、それを追放しようというのは立派な法律違反です。田中芳樹の論法では、オウム追放運動は非合法的な行為なのですから、警察は地元住民のオウム追放運動をやめさせるべきであるという事になります。
 さらに言えば、世間一般的に見れば誰が見ても明白な犯罪行為であると断定できるにもかかわらず、法律にそのことが明記されていないために法的には完全なる無罪になってしまうという事だってありえます(罪刑法定主義)。以前に会社のコンピュータのデータが盗まれたという事件がありましたが、コンピュータのデータは物ではないので窃盗罪が適用できず、仕方ないので「データをコピーする際にその会社の紙を盗んだ」などという、極めてバカバカしい微罪によって警察はデータを盗んだ犯人を逮捕したという、全く笑えない話がありました。
 このように、いくら法律を守ろうとしても肝心の法律そのものに不備があれば、法律をひたすら忠実に守る事が却って国民の生活を阻害し、捕まえるべき犯罪者を逃してしまったり、逆に無実の人間を逮捕してしまうという事もありえるわけです。これほどまでに危険極まりない「法治主義」を「市民の生活を守るための法治主義」として機能させるには、常に法律のチェックと現状に合わせた法律の撤廃・改正が必要不可欠であるのであって、それを無視して現行法を神聖視し、ただ闇雲に「法治主義万歳」を唱えていた所で、現実の問題に対処できるわけがないでしょう。田中芳樹は法治主義の一断面、それも極めて危ない一面を無邪気に礼賛しているにすぎず、法治主義に対する理解があるとはとても言えたものではありません。
 それにしても法治主義の難しさに比べたら、自分達の法律違反行為を「悪法は法ではない」などと自己正当化できる竜堂兄弟や、自らが制定したはずの法をすら自分達の都合でいともたやすく破る事ができる「仙界の連中」の考え方の、何と能天気かつ御都合主義である事か(笑)。いくら何でも、このような連中に「法治主義」を云々されなければならないほど、日本の警察は堕ちてはいないと思いますけどね〜。

P160上段〜下段
<安楽椅子に身を沈めた男が笑った。小森と同年輩で、銀髪に黒縁眼鏡をかけ、りっぱな顔だちをしている。だがその立派な顔が身体に較べて大きすぎるので、全体のバランスはとれていなかった。彼は発行部数一〇〇〇万部を誇る国民新聞の社長で、稲垣という名だった。国民テレビの会長でもあり、プロ野球とプロサッカーのチームを持ち、「マスコミの帝王」とか「プロ・スポーツ界の首領」とか呼ばれている。保守党の政治家や巨大な宗教団体の教祖などと親しく、つねに超タカ派の論陣を張り、保守党の宣伝機関をつとめていた。汚職政治家が無罪になって、他の新聞社が判決を批判したときも、国民新聞だけは無罪判決を支持したのだ。
(中略)
 国民新聞はいまや公然と憲法改正を主張し、日本を「軍事貢献をすすんでおこなう大国」の方向に引きずっていこうとしていた。
(中略)
 稲垣社長たちの努力で日本もめでたく「普通の国」になれそうである。野心的な官僚、無責任なマスコミ、不定見な政治家がトリオを組んで、兵士達を死地へ送りこむ「普通の国」に。>

 おいおい田中芳樹よ。アンタかつて自分が主張していた社会評論まで忘れてしまったのですか? 下の社会評論はかつて自分自身で主張していた事ではありませんか↓

創竜伝5 P128下段
<いろいろ批判はあるにせよ、複数のジャーナリズムが存在していることはそれ自体いいことだ。ジャーナリズムが単一でしか存在しないと、情報は権力者によって独占され、統制されてしまう。北京の天安門事件で軍隊による虐殺事件が発生したとき、外国人はそれを知ることができたのに、中国の地方在住の人々は何も知らされなかった、というようなことがおきるのだ。>

 この考えからいくと、国民新聞こと読売新聞(以下読売新聞に統一)が「新聞社の中でただ1社だけ無罪判決を支持」したり「公然と憲法改正を主張」したりする事は、民主主義の複数のマスメディアにおける意見のひとつとして許容されなければならないはずではありませんか。全ての新聞社がひとつの意見に統一されるなど、それこそ田中芳樹が批判しているはずのファシズムの第一歩でしょう。ゲッペルス宣伝大臣が泣いて喜ぶような話ですね(笑)。それに読売新聞が主張している事ってそれほどまでに暴論なのですか?
 まず裁判の方からいきますけど、そもそも田中芳樹は近代国家における裁判の機能それ自体が全く分かっていないとしか思えませんね。近代国家における刑事裁判は被告を裁くことが目的なのではありません。むしろ全く逆で、行政権力である検事から被告の権利を守る事が目的であり、裁かれるのは検事の方なのです。
 これはどういう事かというと、刑事裁判における検事は被告を有罪に持っていくために、様々な証拠を持ち出して被告が有罪である事を立証しなければなりませんが、検事が裁判に持ち出す証拠は、ただ単に「被告の犯罪を立証する証拠」でありさえすればよいというわけではありません。刑事裁判では、検察側の出すその「証拠」が合法的に得られたものであるか否かがまず問われる事になり、もしも非合法的な手段で証拠を得ていた場合は「証拠」として採用される事はありません。たとえば検察側が被告の殺人容疑を完璧に立証できる証拠(例:殺人に使用した指紋つきの凶器など)を裁判で提出したとしても、その証拠が拷問による自白などの非合法的手段によって得られたものであった場合は、刑事裁判において「被告の犯罪を立証する証拠」として認められる事は絶対にないのです。つまり、近代国家における刑事裁判というのは、検事が提出していく証拠をチェックし、得られた証拠全てが合法的に得られたものであると証明され、しかもそれらの証拠によって被告の有罪を完全に立証できた時に始めて被告に有罪が下るものなのであり、もしも検事が提出した証拠にほんの少しでも不明な点があれば、被告を無罪放免にしなければなりません。これが「刑事裁判において裁かれるのは検事である」という事です。
 それに司法裁判においては、被告が有罪であるか無罪であるかなどという「結果」など実はどうでもよいのです。近代国家における裁判では「適法な手続き」こそが重要なのであって、結果によって正義が実現するか否かなど裁判の関知するところではありません。この点、「結果が全てである」政治責任とは全く正反対です。「裁判は過程こそが全て」とでもいえば分かりやすいでしょうか。
 これを適用すると、上記の社会評論において汚職政治家とやらに無罪判決が下ったのは別に裁判官のせいでも被告のせいでもなく、被告の有罪を立証できなかった検察側に責任があるのです。それを無視して「無罪判決」を批判しても仕方がないでしょうに。これから考えると、ただ1社の新聞社の無罪判決支持は実に正しいものであったと言えるでしょう。
 そして後半の「公然と憲法改正を主張」と「普通の国」云々は、もうあまりにもバカバカしくてまともに論評する気にもなれませんね(笑)。憲法の方はすでにその条文が時代に対応できなくなっているから改正を主張しているのですし(世論調査でも憲法改正賛成が7割近くあります)、「普通の国」云々に至っては「田中芳樹の誇大妄想」で簡単に片づけられてしまうものですね。以前に私が軍事関連特集で検証したような様々な諸問題を抱え込んでいる自衛隊を使って、日本を「軍事貢献をすすんでおこなう大国」にまで発展させていく事ができる具体的な方法があるというのならば、ぜひともそれを教えてもらいたいくらいなのですが(笑)。
 読売新聞を誇大妄想的に過大評価する前に、もう少し小説のストーリーのバランスと現実とのギャップを埋めた上で説得力のある評論を展開してほしいものなのですけどね。まあ無理だと思いますけど(笑)。

P182上段〜P183上段
<「合法的な献金などありえません。企業の政治献金はすべて違法なんです」
「何だと」
「もし企業の経営者が、政治家や官僚からの見返りを期待して献金すれば、むろんこれは完全な賄賂です。また、もし見返りを期待せずに献金したら、企業の経費を企業の利益にならないことに費うことになり、背任行為ということになります」
 中熊はうめいた。続はさらにいう。
「個人献金ならかまいませんが、企業献金はすべて禁止されるべきです。それがクリーンな政治の第一歩ですよ」
「ふん、クリーンな政治か」
 中熊は努力してせせら笑った。
「クリーンなだけの政治家に何ができるものか。ダーティーでも有能な政治家こそが、今の日本には必要なんだ」
 続も笑ったが、これは相手の見識の低さに対する憫笑である。
「あなたとか汚職政治家にこびへつらう御用文化人とかは、すぐにそういいますね。クリーンな政治家は無能で、ダーティーな政治家こそが有能なのだ、と。でもそれは程度の低いごまかしです。そもそも、ダーティーだと人に知られること自体、無能の証明なんですよ」
「な、何だと」
「だってそうでしょう。ダーティーだと人に知られれば、失脚してしまうんですからね。隠すのが当然です。それなのにダーティーだということが知られてしまうのは、そのていどのことも隠しきれないほど無能だ、という証拠じゃありませんか」
 中熊はむなしく口を開閉させた。反論できなかったのである。冷然として、続は追いうちをかけた。
「汚職がなぜ悪いかというと、国家や政治に対する信頼を失わせるからです。二五〇〇年も往古に孔子がいってますよ。『信なくば立たず』とね。民衆の信頼が失われれば国は成り立たない、という意味です。いまごろ汚職を正当化するような人たちは、精神の発達が孔子より二五〇〇年ばかり遅れているんですよ」>

 この竜堂続のタワゴト、どこかで聞いた事があるなと思ったら、何と戦前の右翼の青年将校や日本陸軍の右翼社会主義者たちと全く同じ主張ではありませんか。企業の政治献金を非難するところといい、「クリーンな政治」とやらを推奨するところといい、両者は思想的な双生児かと思ってしまったほどにそっくりです。右翼をアレほどまでに批判している連中が右翼と全く同じ主張を展開してどうする(笑)。
 だいたい竜堂続は、民主主義国家における選挙と政治がいかにカネがかかるものであるのか、少しは考えてみた事があるのでしょうか? 選挙に当選するには多くの有権者の票が必要ですが、様々な考え方を持つ多くの有権者を自分支持に回らせるには大規模な選挙キャンペーンを行わなければならず、それには多額の資金を必要とします。また政治を行い、自分が考えた様々な政策や法案を国会で可決させようとするならば、当然ながら色々な思惑を持つ他の政治家の協力や支持も得なければなりませんが、他人の政策提言に無償奉仕で協力しようなどと考える「お人好し」などまずいませんから、その際にも懐柔や買収などをおこなうために、やはり多額の資金が必要になります。その「多額の資金」を手に入れるためには、企業からの大口献金に頼らざるをえないわけです。個人献金では明らかに限界があるのですから。
 さて、上記のような選挙と政治の実状を全く無視して竜堂続と全く同じ主張を展開した戦前の日本陸軍の右翼社会主義者たちは一体どういう代案を考えたのか? 選挙の際に推薦を受けた立候補者には選挙資金を交付するということを考えついたのですが(翼賛選挙)、その選挙資金とは一体どこから出てくるものだったかというと、その全てが陸軍の機密資金(臨時軍事費)からばらまかれたものだったのです。この結果、政治家が選挙民や財閥などの顔色を気にする必要はなくなり、「政治家の汚職」も完全に消えてしまいましたが、その代わり「陸軍の言う事なら何でも聞く」という議員が大量に発生してしまったのです。こうなってしまえば議会制民主主義は消滅したも同然です。その後の日本の歴史的経緯は今更説明するまでもないでしょう。
 民主主義を維持する事は相当にカネがかかるものなのです。それを完全に無視して「政治献金はダーティーである」などと言っても全く意味がありません。それともまさか竜堂続は、戦前の軍部支配のような「クリーンな政治形態」が理想であるとでも言うのでしょうか?

 ところでそれとは別に、引用している竜堂続の問答には文章自体にも大きな矛盾が存在します。竜堂続は中熊とやらいう悪役との問答で、
「合法的な献金などありえません。企業の政治献金はすべて違法なんです」
と明言しておきながら、さらに次の問答で、
「個人献金ならかまいませんが、企業献金はすべて禁止されるべきです。それがクリーンな政治の第一歩ですよ」
などと支離滅裂な事をのたまっています。仮に竜堂続が言うように「企業の政治献金はすべて違法」であるということは、別に今更竜堂続などが提言せずとも、すでに法によって明確に「企業の政治献金はすべて禁止され」ているはずではありませんか。法律で「禁止」されている行為を行う事を「違法」というのです。竜堂続は「違法」という言葉の意味が全然分かっていませんね。全く、政治献金について偉そうな事を言う前に、少しは中学生の使う国語辞典ぐらいは開いてみたらどうなのでしょうか(爆)。
 それに、私は「企業の政治献金はすべて違法」なんて事自体全く聞いた事すらないのですけどね。政治献金をある程度規制する法律として「政治献金規正法」というものがありますが、この中ですら「企業の政治献金はすべて違法」などとは全く書かれておりません。「政治献金規正法」は年々内容が厳しくなってきているのですが、それでも政党に対する企業献金は完全なる「合法」として認められているのです。したがって、竜堂続の主張である「企業の政治献金はすべて違法」というのは全くのウソです。竜堂続は法に関する知識が致命的なまでに欠如しているのではないでしょうか。まあ法律違反の常習犯である竜堂続に「法に関する知識」を要求をするのは酷であるのかもしれませんが(笑)。
 孔子からロクでもない引用をする前に、もう少し自分の文章構成と文章内容に矛盾がないのかどうかを少しは考えてからものを言ってはいかがです? 竜堂続くん。

P193上段
<国連における核軍縮の決議で、一五〇カ国が賛成し、アメリカ一国だけが反対したことがある。このとき日本は世界唯一の被爆国でありながらアメリカに気を使い、ただ一国だけ棄権した。日本が常任理事国になってもアメリカに反対などできるはずもない。「何でアメリカだけが二票持てるんだ」という意地悪な意見が、おそらく正しいだろう。主体的な行動もとれないくせに、外務省の役人が大国の代表面したいばかりに国民の負担を増やし、兵士たちを危険地帯に送りこもうとしているのである。そしてそれを無責任なマスコミがあおりたてる。反対する者は「一国平和主義者」とののしられ、非国民あつかいされるのだ。PKOで兵士たちが死んでも、超タカ派のマスコミや文化人たちはいっこうにかまわない。かえって、「武器を持たせないから悪いのだ、重武装させるべきだ」と騒ぎたて、海外派兵をどんどん拡大させていくつもりなのだから。>

 ↑ここまで非現実的な社会評論を堂々と語れるというのは、もうある意味天才的な才能とすら言えるのかもしれません。政治と軍事に関する無知と現実感覚のなさが露呈しています。全く、恥を知っていればここまでマヌケな事は書けないでしょうに(笑)。
 だいたい小学校の学級会じゃあるまいし、国連のような国際政治の世界で「多数=善」「少数=悪」などという論理が通用するわけがないでしょう。核軍縮に反対した150ヶ国の国々も、それに唯一反対したアメリカも、そして「アメリカに気を使い、ただ一国だけ棄権した」日本も、それぞれが自国の国益を考えて行動したという程度の事くらい、政治を語る際の基礎中の基礎ではありませんか。150ヶ国の国々が核軍縮に賛成した理由はただひとつ、アメリカの軍事力を縮小させる事が自国の利益になるからなのであり、それにアメリカが反対するのはむしろ当然です。そして日本がただ1国だけ棄権したのは、そのアメリカに配慮して恩を売り、日米同盟を強化してアメリカに自国を守ってもらう事が日本の国益にかなう事であったからでしょう。国益を追求する国家がひしめく国際社会において「150ヶ国」という数的優勢があるからといって、その主張が「普遍的に正しい」などということがあるわけないではありませんか。
 それにPKO(国連平和維持活動)問題でも言っている事がメチャクチャですね。田中芳樹曰く「無責任なマスコミ」とやらの大半は自衛隊のPKF(国連平和維持軍)参加に「賛成」どころか「反対」していたのですし、賛成する人間に「右翼」だの「軍国主義者」だのといったレッテルを貼っていたのです。そしてPKF参加中に死傷者が出た時に「それ見ろ、無用な自衛隊派遣をするから死傷者が出てしまったではないか」と騒ぎ立てたのもまた、朝日新聞をはじめとする「無責任なマスコミ」でした(笑)。言っている事が現実と全く逆ではありませんか。
 さらに言えば、そもそもPKOが展開される地域には、様々な兵器で重武装されたゲリラや武装集団などがおり、そんなところに銃1丁だけを持たせて自衛隊を派遣するなど、派遣される自衛隊員に「死んでこい」と言っているに等しいのです。自衛隊を死なせたくないのであれば、自己防衛のためにもむしろ徹底的に自衛隊に重武装させなければならないはずです。こんな事はちょっと考えればすぐにわかることではありませんか。
 政治と軍事を語りたいのであれば、その杜撰すぎるほどにひどい政治認識と軍事知識のレベルを、もう少し上げてからにした方が良いのではないですかね? 田中センセイ。

P193下段〜P194上段
<一九五〇年代の末に日本の首相をつとめた人物は、かつて「満州国」で日本人官僚群のボスとして権力をふるい、多数の中国人を強制労働させて「A級戦争犯罪者」に指定された。それが日本で復活して首相になると、「共産主義者と戦うためには資金が必要だ」と称して、アメリカ中央情報局から巨額の金銭をもらっていた。これは当時の駐日アメリカ大使やCIA幹部が証言したことである。いっぽう左翼政党のほうはソ連政府に資金援助を求めていたといわれる。
 ソ連はともかく、CIAの資金とは四人姉妹の工作資金であるから、結局、日本国政府は四人姉妹からおこづかいをもらって「共産主義者と戦」ってきたわけだ。>

 ほう、1950年代の日本政府がCIAから資金をもらっていた事は「四人姉妹からおこづかいをもらって」とまでこき下ろすのに、野党側のソ連からの資金援助の方は「ソ連はともかく」でお終いなのですか? どちらも全く同じことをやっているというのに、どうしてそんなに対応が違うのでしょうね〜。
 日本は当時から今に至るまでアメリカと軍事同盟を結んでおり、互いに協力し合う関係であるのに対して、当時のソ連は日本やアメリカと敵対していた国です。一応味方である国から資金提供を受ける事と、敵国から資金提供を受ける事と、どちらがより国益に反する行為であるかは一目瞭然ではありませんか。それに当時の日本の政治状況も全く考慮せずに当時の日本政府の行為を非難されては困りますね。
 1950年〜60年代といえば、国会による55年体制がスタートしてまもなかった頃ですが、その頃国会では社会党の方が優勢でしたし、共産党や左翼団体による反政府運動が国内各地で盛んに行われていました。日本がソ連のような社会主義国家になってしまう可能性が全くなかったとは言えなかった時代です。この状況下で野党を制して自民党が国会の主導権を握るためには手段など選んではいられなかったのです。
 しかも日本の野党は単にソ連から資金提供を受けていただけでなく、ソ連や中国の忠実なエージェントとして活動していたのです。冷戦時代、彼らは常に反米援ソの立場からものを言っていましたし、共産党に至ってはその元々の名前が「コミンテルン日本支部日本共産党」であったくらいに戦前からソ連盲従で、その名の通りソ連のコミンテルンから送られてくる「テーゼ」という名の指令書を受け取って反政府活動を展開していました。戦前の日本で治安維持法が制定されたのも、本来は共産党の動きを封じこめるのが目的だったくらいです。そのような彼らが政権を主導したら、ソ連よりの政策を行い、アメリカと断交する事は目に見えていました。それを避けるためにもアメリカの援助が必要だったわけです。
 もしこの時日本政府が野党の台頭を放置し、「四人姉妹からおこづかいをもらって共産主義者と戦」わなかったら、日本の内部から共産革命が起こり、ソ連のような社会主義国家が成立していたかもしれません。日本が社会主義国家になってしまっていたら、当然今のような経済的繁栄はなかったでしょうし、田中芳樹の大好きな「言論の自由」も大幅に制限されていた事でしょう。まさか田中芳樹はそういう国家を望んでいたとでも言うのでしょうか?
 まあこの社会評論の真意は、単に日本がアメリカの属国である事を強調したかっただけでしょうけど、いくら何でもソ連の方は全く無視してアメリカの方「だけ」を非難するというのは、少しおかしいのではないでしょうかね。

収録投稿2件目
board2 - No.795

Re: 私の創竜伝考察29

投稿者:かっつ
2000年04月03日(月) 03時08分

 かっつです。冒険ライダーさん、いつも緻密な検証、とても楽しみに読ませて貰っています。創竜伝考察29について、いくつか述べさせて下さい。

>  警察の仕事は何か。市民に法律を守らせることである。だが公安警察が組織ぐるみで法律を破り、裁判を侮辱しているという事実が明らかになったいま、警察はどうやって市民に法律を守らせるつもりだろうか。公安警察の無法きわまる暴走で、もっとも迷惑をこうむっているのは、他の部局のまじめな警察官である。南村はそう思うのだが、他の部局でもこのところ失敗や不祥事があいついで、批判の的になっている。警察を市民が信頼しないのは、市民が疑い深いからではない。警察が市民の信頼を裏切ったからだ。
>  有名な盗聴事件で、警察側はいっさいの反省と謝罪を拒否した。これからも態度を変えないことまで明言した。有言実行というわけで、今後も違法行為をつづけるつもりであろう。南村は絶望的な心情になっていた。街のおまわりさん、田舎の駐在さん、それこそが警察の原点だ、と彼は思っている。それを忘れ、スパイまがいの盗聴などにうつつをぬかしていてどうするのか。>
>  「神奈川県警がおこした有名な盗聴事件」というのは共産党宅盗聴事件の事でしょうけど、確かにこの事件で警察側は盗聴の事実を一切認めず、曖昧な態度を貫き通しています。ですから、この事件で裁判所や政府が盗聴の事実を認めているにもかかわらず、それを無視しつづけている警察側の態度は批判されて然るべきでしょう。しかしこの問題、田中芳樹が主張するような「警察の組織ぐるみの犯罪行為」であるといえるのでしょうか?
>  実はこの問題を詳しく検証してみると、「警察の組織ぐるみの犯罪行為」などというシロモノよりもはるかに深刻な問題が浮かび上がってきます。それは警察のみに限定できるものではない「日本の官僚機構の無謬性の問題」です。
>  これは日露戦争辺りからすでに見られた傾向ですけど、日本の官僚機構は決して間違いを認めず、必至で取り繕おうとし、それでもごまかせない時には隠蔽してまで「間違い」を隠そうとします。その傾向の最も有名なものが、自国の敗北を徹底的に隠蔽して勝利報道を行いつづけた戦前の「大本営発表」です。なぜこんな事が行われたかと言うと、戦前の日本軍が「絶対に間違いを犯さない」という建前があったからです。その「絶対に間違いを犯さない」はずの日本軍が間違いを犯してしまったらどうなるか? 当然国民からの非難が殺到し、その「間違いを犯した」責任者がつるし上げをくらう事はほぼ間違いないでしょう。「絶対に間違わない」という建前に反して少しでも間違いを犯し、それを認めてしまったら責任問題に発展し、つるし上げをくらってしまう。これが日本の官僚機構を取りまく「無謬性の問題」です。
>  実はかの共産党宅盗聴事件でも同じ事が言えるのでして、警察側が「盗聴の事実」を認めたくても認める事ができない「無謬性の問題」があるわけです。認めてしまったが最後、責任者が一言の弁明も認められずにつるし上げをくらう事は目に見えています。「警察による盗聴行為」がすくなくとも当時の法制下では違法であった事は間違いないでしょうけど、この問題で本来国民が要求すべき事は、少数の責任者にただひたすら過重なまでの厳罰を与える事ではなく、なぜそのような違法行為に走らなければならなかったのかを問い、違法行為の原因を解明し、その原因の状況考慮の上で相応の責任を問う事であるはずです。
>  違法行為はあくまでも違法行為として考えるとしても、その違法行為を行った背景には、犯罪捜査に必要不可欠な何か重大な理由があるのかもしれないのです。場合によっては、その行為を違法行為として妨げている現行法の方が間違っているという事すらあるのかもしれません。そのような背景を全く無視して責任者のみを厳罰に処分するだけでは、警察現場の士気を著しく減殺してしまう上に、いつかまた同じような事件が発生してしまう事は目に見えているではありませんか。そのような事態をさけるためにも、原因追及は徹底的に行い、状況改善に努めなければならないはずです。それこそが政治というものでしょう。

……確かに、冒険ライダーさんが仰るとおり、それこそが政治と言うものだと思います。この事件に対する警察の対応の背後に《無謬性》の問題が潜んでいることは、間違いないでしょう。ただ、日本の政治の現実は、そのような深い原因究明、状況改善を結局成し得なかったのです。やはり、「あのような行為は悪いことだったのだ」ということが、公に確定しなければ、事件の背後にある根本的な問題点を究明、解決することも不可能ではないのでしょうか。そういう視点から、表面に出た盗聴事件のような問題点を批判していくことは、出発点として大事なことだと思うし、その範囲では田中氏の記述には、問題は無いと考えます。

>  実際、オウム事件などのような組織犯罪に警察が対応する必要性に迫られ、1998年に「組織犯罪対策三法」が国会に提出されましたが、その中に「通信傍受法」も入っているのです。「組織犯罪対策三法」が国会を通れば、犯罪捜査の際に「盗聴」を行う事が条件つきながら合法化されるわけです。これもやはり現行法制下では組織犯罪が横行する現状に警察が対応できないがゆえの法律制定でしょう。

……今回成立した通信傍受法でも、あの盗聴事件は違法でしょう。対象が、凶悪犯罪、組織犯罪というわけではないのですから。

>  それから田中芳樹が法治主義云々について何やら知ったかぶりなことを主張しているようですので、そちらの方も徹底的に破砕しておく事にしましょうか(笑)。
>  田中芳樹は警察の仕事を「市民に法律を守らせること」と無邪気に規定しているようですが、実は「市民に法律を守らせること=市民の生活を守る」とは限りません。それどころか、法律次第では「市民に法律を守らせること」がむしろ「市民の生活を害する」などという事態になってしまう事もありえますし、その逆も充分に起こりえる事なのです。
>  たとえば治安維持法下で動いていた特高警察などは、田中芳樹の規定によれば当然ながら「市民に法律を守らせる」仕事に極めて忠実であったと言えますが、そのために治安維持法の本来の補足対象であった共産主義者だけでなく、自由主義者や反戦主義者など様々な思想犯が投獄されました。
>  また最近のオウム騒動では、オウムがやってきた街や村などで地元住民のオウム追放運動が展開されていますが、オウムは合法的な手続きによって街や村に居座っているのであって、それを追放しようというのは立派な法律違反です。田中芳樹の論法では、オウム追放運動は非合法的な行為なのですから、警察は地元住民のオウム追放運動をやめさせるべきであるという事になります。
>  さらに言えば、世間一般的に見れば誰が見ても明白な犯罪行為であると断定できるにもかかわらず、法律にそのことが明記されていないために法的には完全なる無罪になってしまうという事だってありえます(罪刑法定主義)。以前に会社のコンピュータのデータが盗まれたという事件がありましたが、コンピュータのデータは物ではないので窃盗罪が適用できず、仕方ないので「データをコピーする際にその会社の紙を盗んだ」などという、極めてバカバカしい微罪によって警察はデータを盗んだ犯人を逮捕したという、全く笑えない話がありました。
>  このように、いくら法律を守ろうとしても肝心の法律そのものに不備があれば、法律をひたすら忠実に守る事が却って国民の生活を阻害し、捕まえるべき犯罪者を逃してしまったり、逆に無実の人間を逮捕してしまうという事もありえるわけです。これほどまでに危険極まりない「法治主義」を「市民の生活を守るための法治主義」として機能させるには、常に法律のチェックと現状に合わせた法律の撤廃・改正が必要不可欠であるのであって、それを無視して現行法を神聖視し、ただ闇雲に「法治主義万歳」を唱えていた所で、現実の問題に対処できるわけがないでしょう。田中芳樹は法治主義の一断面、それも極めて危ない一面を無邪気に礼賛しているにすぎず、法治主義に対する理解があるとはとても言えたものではありません。
>  それにしても法治主義の難しさに比べたら、自分達の法律違反行為を「悪法は法ではない」などと自己正当化できる竜堂兄弟や、自らが制定したはずの法をすら自分達の都合でいともたやすく破る事ができる「仙界の連中」の考え方の、何と能天気かつ御都合主義である事か(笑)。いくら何でも、このような連中に「法治主義」を云々されなければならないほど、日本の警察は堕ちてはいないと思いますけどね〜。

……法治主義に現実の必要性と衝突する問題点があることは、確かです。そして、《「法治主義」を「市民の生活を守るための法治主義」として機能させるには、常に法律のチェックと現状に合わせた法律の撤廃・改正が必要不可欠である》という意見には、全く賛成です。
 ただ、近代の立憲民主制においては、「法」の内容は、国民の意思であり、正義の基準であると、擬制されています。そして、警察や裁判などの強制的な紛争解決制度は、近代法が自力救済を禁止した代償として、正義を実現するものとして制度化されているのです。
 そのような前提がある以上、当然警察や裁判所のような強制的紛争解決制度は、法を忠実に執行するのを原則とします。もちろん「法=正義」というのは、厳密には擬制ですから、現実と衝突することは十分あり得ます。ただ、法が認めていない行為を警察のような強制機関が行う、つまり、「現実の必要」を理由にして、「厳密な法治主義の執行」の例外を認める、これは、極力避けるべきなのです。なぜなら、「現実の必要」などというものは、主観的に判断されるものです。厳密な基準がない、つまり警察が恣意的に判断して、法を踏みにじることも可能になってしまうということです。
 もちろん、「法の内容」と対立する「現実の必要」が生じることもあり得ます。ただ、それはあくまで例外として抑制的に扱うべきなのです。世論が明らかに必要と認めている、緊急性が強く、法内容を改正するには時間が足りないなどの場合に絞って認めるべきです(オウムの場合などはそうでしたね)。田中氏が採り上げた公安盗聴事件は、このような抑制がカケラも見られません。国会さえも、必要性を認めていない事例です。批判的に扱うのは、ある程度の妥当性があります。従って、田中氏の該当記述は、確かに言葉足らずですが、誤ってはいないと思います(勿論、この部分でこの評論が必要か、という問題は残りますが)。

> P182上段〜P183上段
> <「合法的な献金などありえません。企業の政治献金はすべて違法なんです」
> 「何だと」
> 「もし企業の経営者が、政治家や官僚からの見返りを期待して献金すれば、むろんこれは完全な賄賂です。また、もし見返りを期待せずに献金したら、企業の経費を企業の利益にならないことに費うことになり、背任行為ということになります」
>  中熊はうめいた。続はさらにいう。
> 「個人献金ならかまいませんが、企業献金はすべて禁止されるべきです。それがクリーンな政治の第一歩ですよ」
> 「ふん、クリーンな政治か」
>  中熊は努力してせせら笑った。
> 「クリーンなだけの政治家に何ができるものか。ダーティーでも有能な政治家こそが、今の日本には必要なんだ」
>  続も笑ったが、これは相手の見識の低さに対する憫笑である。
> 「あなたとか汚職政治家にこびへつらう御用文化人とかは、すぐにそういいますね。クリーンな政治家は無能で、ダーティーな政治家こそが有能なのだ、と。でもそれは程度の低いごまかしです。そもそも、ダーティーだと人に知られること自体、無能の証明なんですよ」
> 「な、何だと」
> 「だってそうでしょう。ダーティーだと人に知られれば、失脚してしまうんですからね。隠すのが当然です。それなのにダーティーだということが知られてしまうのは、そのていどのことも隠しきれないほど無能だ、という証拠じゃありませんか」
>  中熊はむなしく口を開閉させた。反論できなかったのである。冷然として、続は追いうちをかけた。
> 「汚職がなぜ悪いかというと、国家や政治に対する信頼を失わせるからです。二五〇〇年も往古に孔子がいってますよ。『信なくば立たず』とね。民衆の信頼が失われれば国は成り立たない、という意味です。いまごろ汚職を正当化するような人たちは、精神の発達が孔子より二五〇〇年ばかり遅れているんですよ」>

>  ところでそれとは別に、引用している竜堂続の問答には文章自体にも大きな矛盾が存在します。竜堂続は中熊とやらいう悪役との問答で、
> 「合法的な献金などありえません。企業の政治献金はすべて違法なんです」
> と明言しておきながら、さらに次の問答で、
> 「個人献金ならかまいませんが、企業献金はすべて禁止されるべきです。それがクリーンな政治の第一歩ですよ」
> などと支離滅裂な事をのたまっています。仮に竜堂続が言うように  「企業の政治献金はすべて違法」であるということは、別に今更竜堂続などが提言せずとも、すでに法によって明確に「企業の政治献金はすべて禁止され」ているはずではありませんか。法律で「禁止」されている行為を行う事を「違法」というのです。

……確かにそうですが、法律には、「解釈」というものがあります。基本的には、「法」というのは、「一般的な規範」ですから、条文は抽象的に記述されている場合が多いのです。ですから、明確に法文で記載されていなくても、違法であるケースというのは、十分あり得ます。

>  それに、私は「企業の政治献金はすべて違法」なんて事自体全く聞いた事すらないのですけどね。政治献金をある程度規制する法律として「政治献金規正法」というものがありますが、この中ですら「企業の政治献金はすべて違法」などとは全く書かれておりません。「政治献金規正法」は年々内容が厳しくなってきているのですが、それでも政党に対する企業献金は完全なる「合法」として認められているのです。したがって、竜堂続の主張である「企業の政治献金はすべて違法」というのは全くのウソです。

……確かに、受け手側(ex. 政治家)を規制する法律としては、「政治資金規制法」があり、企業献金は合法です。ただ、献金の出し手を規制する刑法や商法の解釈では、続氏が主張する《もし見返りを期待せずに献金したら、企業の経費を企業の利益にならないことに費うことになり、背任行為ということになります》という解釈は成り立ちうると思います(かなり苦しい解釈ですが)。だから、荒唐無稽と言うほどではないのではないでしょうか。

 上記に触れていない他の論点については、田中氏の立場に立っても、弁護論が思いつきません。大変もっともだと思います。

収録投稿3件目
board2 - No.797

Re795:評論の意義と法治主義の問題

投稿者:冒険風ライダー
2000年04月03日(月) 21時27分

 かっつさん、はじめまして。私の拙文を読んでくださり、ありがとうございます。
 では、ひとつひとつ解答していきましょうか。

<確かに、冒険ライダーさんが仰るとおり、それこそが政治と言うものだと思います。この事件に対する警察の対応の背後に《無謬性》の問題が潜んでいることは、間違いないでしょう。ただ、日本の政治の現実は、そのような深い原因究明、状況改善を結局成し得なかったのです。やはり、「あのような行為は悪いことだったのだ」ということが、公に確定しなければ、事件の背後にある根本的な問題点を究明、解決することも不可能ではないのでしょうか。そういう視点から、表面に出た盗聴事件のような問題点を批判していくことは、出発点として大事なことだと思うし、その範囲では田中氏の記述には、問題は無いと考えます。>

 もちろん、「あのような行為は悪いことだったのだ」と世間一般に認識させていく事も必要ではあるでしょうが、しかしただそのような表層的な認定を行うだけでは、どんな事件や不祥事でも、この種の事件にそれほど関心のない一般人にとっては、ただ「あのような行為は悪いことだったのだ」というイメージを与えるだけで終ってしまうのですよ。余程の物好きでもない限り、その背後関係を真剣に調べようと考える人はまずいないでしょう。
 このような事件の際には、事件それ自体の批判と同時に、背後関係や原因究明も合わせて行わなければ、ステレオタイプな「悪」のイメージが定着してしまうだけで、再犯防止の役に立たないばかりか、下手をするとそのステレオタイプなイメージによって改革が妨害されてしまうなどという本末転倒な事態すら発生してしまうかもしれないのです。昨今の通信傍受法に対する感情的な反発などはその典型でしょう。
 社会批判を論じる時は、その社会問題の重要性を指摘すると同時に、その原因追及を行い、自分なりの状況改善案なども提出した上で、他者に対して問題を提起していかなければ「本当の批判」にはなりえません。そして他者が問題の重要性に気づいていないのであれば気づかせるべきです。それが全くない田中芳樹の評論は、ただ「批判対象を糾弾するために糾弾している」だけのシロモノでしかなく、社会批判などとはとても呼べたものではありません。
 小説のストーリーを破壊してまで評論を行うと言うのであれば、せめて評論の基礎ぐらいはきちんとすべきであると考えるのですが。

<今回成立した通信傍受法でも、あの盗聴事件は違法でしょう。対象が、凶悪犯罪、組織犯罪というわけではないのですから。>

 まああの盗聴事件当時は通信傍受法など成立していませんでしたから違法といえば違法なんですけど、あの事件の正式名称は「共産党宅盗聴事件」で、この名前が示す通り、あの当時の警察の捜査対象は共産党だったのです。これは充分に組織でしょう。
 そして共産党は過去に様々な組織犯罪を犯しており、戦前の治安維持法や、オウムに適用するかしないかで話題になった破壊活動防止法(破防法)が、本来共産党を対象として制定されたというくらいに、共産党は問題のある政党なのです。だからこそ共産党はオウムに破防法が適用される事に反対したわけです。彼らにとっては他人事ではありませんでしたから。
 だからあの当時の捜査対象は凶悪犯罪・組織犯罪であったとは言えるわけです。もちろん、それと違法の問題とは全く別ですが。

ところで法治主義の問題についてですけど、

<法治主義に現実の必要性と衝突する問題点があることは、確かです。そして、《「法治主義」を「市民の生活を守るための法治主義」として機能させるには、常に法律のチェックと現状に合わせた法律の撤廃・改正が必要不可欠である》という意見には、全く賛成です。
 ただ、近代の立憲民主制においては、「法」の内容は、国民の意思であり、正義の基準であると、擬制されています。そして、警察や裁判などの強制的な紛争解決制度は、近代法が自力救済を禁止した代償として、正義を実現するものとして制度化されているのです。
 そのような前提がある以上、当然警察や裁判所のような強制的紛争解決制度は、法を忠実に執行するのを原則とします。もちろん「法=正義」というのは、厳密には擬制ですから、現実と衝突することは十分あり得ます。ただ、法が認めていない行為を警察のような強制機関が行う、つまり、「現実の必要」を理由にして、「厳密な法治主義の執行」の例外を認める、これは、極力避けるべきなのです。なぜなら、「現実の必要」などというものは、主観的に判断されるものです。厳密な基準がない、つまり警察が恣意的に判断して、法を踏みにじることも可能になってしまうということです。>

 ここまでは同意しますし、私も批評本文に書いているのですけど、

<もちろん、「法の内容」と対立する「現実の必要」が生じることもあり得ます。ただ、それはあくまで例外として抑制的に扱うべきなのです。世論が明らかに必要と認めている、緊急性が強く、法内容を改正するには時間が足りないなどの場合に絞って認めるべきです(オウムの場合などはそうでしたね)。>

 ここには異論がありますね。
 法治主義を本当に厳格に執行しようとするのならば、たとえ世間がどれほどまでに要求しようが、そんなものに一切耳をかさず、あくまでも法律通りに事態を処理する事こそが「本当の法治主義」というものでしょう。そうでなければ、民衆の要求によっていつでも法が引っくり返される前例ができてしまいます。
 たとえば戦前の5・15事件の際、当時の軍法に照らせば間違いなく死刑であったはずの青年将校達を、世間からあまりにも同情的に見られたために、当時の軍法会議が法をねじ曲げて減刑にしてしまうという行為を行いましたが、この処分がさらに2・26事件を引き起こし、軍部の専横を許してしまう原因のひとつになったことは有名な話です。これは法を世論に迎合してねじ曲げてしまった典型例です。
 また逆もあります。明治24年に、訪日したロシア皇太子を警官・津田三蔵が斬りかかって重傷をおわせたという事件がありました。この当時の日本とロシアの国力差や国際情勢を考慮すれば、政治的発想としては津田三蔵を死刑にしてロシアのご機嫌を取らなければならず、当然政府は当時の最高裁判官にあたる大審院長・児島惟謙に対して死刑判決を求めたのですが、彼は「ロシア皇太子は重傷を負っただけであるから既存の法律では死刑にはできない」として、死刑要求をはねつけ、法律にしたがって謀殺未遂罪による無期刑の判決を下しました。これこそまさに「法治主義」の真髄でしょう。
 法治主義を貫徹しようとするのならば、たとえ国民の要求がどのようなものであろうと既製の法を頑迷すぎるほどに守らなければならず、だからこそ現状に合わせた法律の制定・改正・撤廃は必要不可欠であると私は主張するのです。法の例外適用など「法治主義」の観点から言えば論外ですね。それを事前に食い止める事こそが「政治」なのですから。

<田中氏が採り上げた公安盗聴事件は、このような抑制がカケラも見られません。国会さえも、必要性を認めていない事例です。批判的に扱うのは、ある程度の妥当性があります。従って、田中氏の該当記述は、確かに言葉足らずですが、誤ってはいないと思います(勿論、この部分でこの評論が必要か、という問題は残りますが)。>

 私も例の盗聴事件が違法であると言う点については全く異論はないのです。私の主張は、上でも書いたように、
「違法は違法として処分するとしても、社会評論を展開するものがそれに対する原因究明を全く行わなくてどうする」
というものでして、批評本文でもそのように書いております。
 それと仮にここでの田中芳樹の非難が全面的に正しいのならば、なぜ田中芳樹はオウム騒動の際の警察の対応や、阪神大震災の際の自衛隊の行動を全く非難しようとしないのでしょうか? あれらだって「違法行為」の塊ですよ? 法治主義の観点から言えば、いくら必要に迫られたと言っても法を破る事は論外です。当然ながら盗聴事件と同じような批判があっても良いはずなのですが、私は田中芳樹が両者の件に関して警察と自衛隊を「無法集団」と批判した個所を全く見た事がありません。それどころか礼賛しているような個所すらあります。
 盗聴事件の時にはアレほどまでに警察を「無法集団」呼ばわりするくせに、オウムや阪神大震災の際には警察や自衛隊の違法行為を黙認するというダブルスタンダードを平気で犯してしまうような人の評論など信用できるものではないでしょう。いつ自説を何の前触れもなしに変更するか分からないのでは、言論の責任も何もあったものではありません。
 せめてオウムや阪神大震災の際にも同じような批判を展開してくれたならば、すくなくとも「主張の一貫性」に対する敬意ぐらいは払ったかもしれないのですが。

<法律には、「解釈」というものがあります。基本的には、「法」というのは、「一般的な規範」ですから、条文は抽象的に記述されている場合が多いのです。ですから、明確に法文で記載されていなくても、違法であるケースというのは、十分あり得ます。>

 ↑この文章、ちょっと意味がよく分からないのですが、具体的に例を挙げて説明していただけないでしょうか?

<確かに、受け手側(ex. 政治家)を規制する法律としては、「政治資金規制法」があり、企業献金は合法です。ただ、献金の出し手を規制する刑法や商法の解釈では、続氏が主張する《もし見返りを期待せずに献金したら、企業の経費を企業の利益にならないことに費うことになり、背任行為ということになります》という解釈は成り立ちうると思います(かなり苦しい解釈ですが)。だから、荒唐無稽と言うほどではないのではないでしょうか。>

 それは思いっきり苦しい解釈だと思いますけど(^^;;)。
 政治献金について規定している「政治資金規正法」自体が「企業の政治献金は合法」であると認めているのですし、法の運用の際には、刑法や商法などの「一般法」よりも「政治資金規正法」という「特別法」の方が優先されるのは当然でしょう。政治献金が刑法や商法などでは運用できない特殊なものであるからこそ「政治資金規正法」が制定されたのですから。
 それとも竜堂続は「一般法」と「特別法」の優先順位も理解できていなかったというのでしょうか? まあ充分にありえる話ではありますが(笑)。

※  あとは訂正です。
×「政治献金規正法」―→○「政治資金規正法」
 お詫びして訂正いたします。m(__)m

収録投稿4件目
board2 - No.805

Re: Re795:評論の意義と法治主義の問題

投稿者:かっつ
2000年04月05日(水) 01時27分

冒険ライダーさん、かっつです。

冒険風ライダーさんは書きました
>  かっつさん、はじめまして。私の拙文を読んでくださり、ありがとうございます。

…いつも大変勉強になってます。

>  では、ひとつひとつ解答していきましょうか。

…いやー、リターンが速い上に、論旨が的確で、反論しにくいなー。でもちょっと悔しいので、もうちょっと勉強してから、反論させて下さい。

私の創竜伝考察シリーズの関連リンク一覧

WEBRANKING テキストサイト部門 サイトランキング 文学・小説・童話部門 mixiチェック

このエントリーをはてなブックマークに追加