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私の創竜伝考察1
創竜伝1  超能力四兄弟


創竜伝考察1−Aへ

No. 892
私の創竜伝考察
投稿者:冒険風ライダー 1999/3/16 17:32:53
 今回から「私の創竜伝考察シリーズ」と題しまして、私が創竜伝を読んで感じた田中芳樹の独善的・左翼偏向的な社会評論やストーリー上の矛盾点などを1巻から順に全て取り上げ、それらを徹底的に叩くという、田中芳樹ファンにとっては激怒ものの批評を展開していきたいと思います。現実に立脚したバカ正直な批判ですので(相手はフィクション小説なのにね)、「なんだこれは!?」と思う方はたわごとと聞き流してくれても結構です。
 なお、こればかりではつまらないので、このシリーズは別の話題と並行しながら、ゆっくりと進んでいくと思います。批判ばかりじゃ不公平ですし、異常に長いですからね。
 それでは始めましょう。

創竜伝1 「超能力四兄弟」
1987年8月5日 初版発行

P22下段
<古田重平というその男は、保守党に所属する代議士で、右翼団体や暴力団との関係が深く、極端に国家主義的な主張と暴力的な言動は、党内からさえうとんじられていた。第2次世界大戦の終結によって死滅したはずの、粗大で独善的で反理性的な価値観を体内にかかえこみ、暴力によって外交問題を解決できない日本の現状を悔しがっている。背はそれほど高くないが、全身の肉づきが厚く、巨大な顔は脂ぎって肉食獣めいていた。>

 いきなりこの記述です。「古田重平というその男」は思いっきり悪党として書かれていますし、現にそうふるまっていますが、「保守党に所属」とかいて自民党にこのような政治家がいると間接的に攻撃しています。「第2次世界大戦の終結によって死滅したはずの、粗大で独善的で反理性的な価値観」というのは、いくらなんでも戦前の時代を侮辱しすぎていませんか? この言葉はそっくりそのまま田中芳樹に当てはまりますね。それから「暴力によって外交問題を解決できない日本の現状を悔しがっている」などと考える思考能力が超低レベルな政治家など当時も今も日本にはいませんよ。そもそも「暴力」ってなんです? 最初から悪い事として扱い、読者に悪いイメージを植え付けようとしているのが見え見えです。容姿まで非常に悪く書いているし。

P44下段
<始は、世界史の教師としては――あるいは、しても――型破りだった。試験前にどういう問題が出るか、生徒に教えるのである。全部、記述式の問題で、自筆のノートを持参してもいいのだ。>

 竜堂始氏は高校の先生でしょ? 大学じゃあるまいし、こんな教え方をしてどうするのでしょうか。一番下の生徒の水準に合わせて授業をしていますね。これでは生徒の学習能力は育ちませんし、テストの結果がみんな同じようになってしまうではありませんか。私だったらこんな教師に得意な歴史を教わりたくありませんね。

P53上段
<「私利私欲のために悪事をはたらく人間なんていないさ。ヒットラーがユダヤ人やスラブ人を4000万人も殺したのは、ゲルマン民族の千年王国を地上に建設するためだ。世の中に悪人なんてひとりもいない。正義の味方で満ちあふれているから、こういう素晴らしい世界ができあがったのさ。余を誘拐しようとしていた連中も、多分、正義感に燃えているんだろうぜ」
 始は目に見えない敵にむかって毒づいてみせた。>

 正論ですね。そして自分達に対してもあてはまる事に気づいていませんね、この主張は。後、ヒットラーがユダヤ人を600万人ほど虐殺した事は知っていますが、スラブ人を(4000万−600万=)3400万人も殺害したとは聞いた事がありませんね。それってソ連の犯行なのでは? 誰かこの辺の事実について知っている人はいませんか?

P93上段〜P94下段
<日本の政治ジャーナリズムは、収賄の事実を知っていても書かないことを自慢しているほど腐敗しているが、例外だってあるし、(中略)>

 戦後一貫したマスコミの過剰な政治批判や政治家への責任追及から見ると、これはウソ八百もいいところですね。いつも朝日新聞が「批判材料」をいろいろ見つけてきては政府を叩き、政治家の汚職を見つけては激しく罵倒していたという「功績」を彼は知らないのではないでしょうか。ところでこの創竜伝を見ていて気づいたのですが、この創竜伝世界には朝日新聞という存在がありません。ある意味では幸せな世界ですね。

P151下段
<「わし同様、きみも日本に生まれ育ったはずだ。厳しさを加える世界情勢のなかで、日本が滅びないよう最大限の努力をするのは当然だと思うのだが」
「人類が滅びるのは一大事だが、日本が滅びるのは世界にとってたいした損失でもないでしょうよ」
辛辣きわまる始のことばだった。>

 始は何を世迷言を言っているのでしょうか。「人類が滅びるのは一大事だが、日本が滅びるのは世界にとってたいした損失でもないでしょうよ」という論法を使うなら、中国やアメリカが、いや全ての国が滅んでも、人類が残っていたら「世界にとってたいした損失でもないでしょうよ」と主張できるではありませんか。だいたいなんで「世界の損失」などという非常に抽象的なもので国家を論じるのです? 世界的な環境問題を論じるというのならまだ分かりますが。これは、世界がひとつであるという空想的な統一世界政府的発想が根にあるとしか思えません。この問答では船津忠厳の方が正論を主張しているのではないでしょうか。

P154下段
<「そりゃ日本は世界に冠たる先進民主国家ですからね。身寄りのない老人の年金から税金をとりたてて、一度のパーティーで何十億も集める政治家の政治資金は一円も課税しない、公平な社会を実現してる。あなたが半世紀にわたって努力なさった結果だ」
 老人は動じなかった。
「若さゆえに、そうも皮肉を言いたくもなるのだろうが、これほど富みかつ栄えた国が歴史上にまれであることは疑えんことだ」
 始はゆっくりと首をふってみせた。>

 始さん、論争で負けたからといって逃げてはいけませんよ(笑)。竜堂始氏は日本より貧しく、しかもより腐敗に満ちた国がこの当時存在していたという事実を知らないのでしょうか。それに比べれば日本はまだましではありませんか。船津忠厳の言っている「これほど富みかつ栄えた国が歴史上にまれであること」はまず間違いありませんから、少しはプラス面も評価したらどうですか?

 あ〜、長い! 疲れた〜。朝日社説批判と違ってコピー&貼り付けで引用できないんだもんな〜。今日はこの辺で終わりにしますね。次は創竜伝の大悪党、船津忠厳について論じてみようと思います。


No. 899
冒険風ライダーさんへの感想
投稿者:石井由助 1999/3/17 17:56:26
>P22下段

まあ、この程度なら「小説だったら許される」とは思います。『「暴力によって外交問題を解決できない日本の現状を悔しがっている」などと考える思考能力が超低レベルな政治家など当時も今も日本には』いないからこそ架空のキャラクターとして許されるのですし(逆にモデルがいるキャラクターのほうがたちが悪い)。


>P44下段

 この問題はザ・ベストにも収録してありますね。好き嫌いが分かれる方法であるとは思います。


>P53上段

 これは指摘されるまで気付きませんでした。また、お得意の正義説教かましてるなくらいにしか思ってなかったので。
 確かに、その通りですね。たしかに、ナチスのスラブ系捕虜に対する仕打ちは酷いものだったようですが、この数字は確かに疑問を感じますね。


>P93上段〜P94下段

 朝日新聞だけじゃないですよ。保守の産経だって、「国民新聞」(苦笑)の読売だって、政治批判は毎日(掛詞)のように行われていますからね。
 いや、それどころか「こんな首相の言説を批判もしないで垂れ流す大マスコミ・TVの無責任ぶり」の定型句といえば「ゲンダイ」と連想ゲームで使えるほど、エロ記事満載のスポーツ競馬新聞だって政治批判をしている国ですからね。
 まあ、こんなふうに現実が歪んで見えているということには、オウムもビックリです。余談ですが、サリン事件の時の「これは警察の陰謀でマスコミは警察の情報を垂れ流しているのです」というオウムの論理が田中芳樹の論理とオーバーラップしたのは私だけでしょうか。


>P151下段

どこまで始の真意があるのかという問題はありますが、確かにこういう言葉を「辛辣きわまる」と規定できる思想神のあり方はスバラシイです。この論理で行けば、南京虐殺の30万人の犠牲者たちも世界にとってたいした損失でもないでしょうね。


>P154下段

>身寄りのない老人の年金から税金をとりたてて、一度のパーティーで何十億も集める政治家の政治資金は一円も課税しない

 つねづね思うのですが、これ、どこまで本当なんでしょうね。



「そりゃ日本は世界に冠たる先進民主国家ですからね。真面目に書いている新進作家の売れ行きなどは雀の涙なのに、一度のノベルズで何十億も集める作家の小説は手抜きのクソ小説だという、公平な社会を実現してる。あなたが半世紀にわたって努力なさった結果だ」
 某作家は動じなかった。
「若さゆえに、そうも皮肉を言いたくもなるのだろうが、これほど富みかつ売れた作家が出版界にまれであることは疑えんことだ」

 

No. 259
私の創竜伝考察を読んで
古代蓮 2001/06/17 07:27
P22下段
<古田重平というその男は、保守党に所属する代議士で、右翼団体や暴力団との関係が深く、極端に国家主義的な主張と暴力的な言動は、党内からさえうとんじられていた。第2次世界大戦の終結によって死滅したはずの、粗大で独善的で反理性的な価値観を体内にかかえこみ、暴力によって外交問題を解決できない日本の現状を悔しがっている。背はそれほど高くないが、全身の肉づきが厚く、巨大な顔は脂ぎって肉食獣めいていた。>

>いきなりこの記述です。「古田重平というその男」は思いっきり悪党として書かれていますし、現にそうふるまっていますが、「保守党に所属」とかいて自民党にこのような政治家がいると間接的に攻撃しています。「第2次世界大戦の終結によって死滅したはずの、粗大で独善的で反理性的な価値観」というのは、いくらなんでも戦前の時代を侮辱しすぎていませんか? この言葉はそっくりそのまま田中芳樹に当てはまりますね。それから「暴力によって外交問題を解決できない日本の現状を悔しがっている」などと考える思考能力が超低レベルな政治家など当時も今も日本にはいませんよ。そもそも「暴力」ってなんです? 最初から悪い事として扱い、読者に悪いイメージを植え付けようとしているのが見え見えです。容姿まで非常に悪く書いているし。

 冒険風ライダーさんは、古田重平が「悪党として書かれている」という解釈をしていますね。その通りだと思います。
 まずはじめに断っておきたいのが、自分も自分なりの解釈で話をすすめるということ。それだと価値観が違う、という意見がでてくるが、それについては仕方のないことだと思ってあきらめてくれ。

 暴力とは「乱暴な力」であり「無法な力」のこと。どの国も他国が戦争を仕掛けてくるのをよしとしてない以上は、戦争は暴力だ。
 さて、外交問題ではないが、経済問題を暴力(戦争)で解決しようとした政治家はいた。征韓論なんてその典型だ。だとすると、外交問題を暴力で解決しようと考えていた政治家がいたとしてもおかしくない。実際のところはわからんが。

 あと、悪役はたいてい醜くかかれるものだ。これは創竜伝や田中芳樹に限ったことではない。悪を最初は正義のように書いたり、悪役の方が主人公より魅力的では、小説として問題があるからだ。「悪としてみせたいこと」は最初から悪いこととして書く必要がある。

P44下段
<始は、世界史の教師としては――あるいは、しても――型破りだった。試験前にどういう問題が出るか、生徒に教えるのである。全部、記述式の問題で、自筆のノートを持参してもいいのだ。>

>竜堂始氏は高校の先生でしょ? 大学じゃあるまいし、こんな教え方をしてどうするのでしょうか。一番下の生徒の水準に合わせて授業をしていますね。これでは生徒の学習能力は育ちませんし、テストの結果がみんな同じようになってしまうではありませんか。私だったらこんな教師に得意な歴史を教わりたくありませんね。

 一番下にあわせていない。これは既存の暗記式より、そうとう難しい問題だ。
 例えば、「なぜ江戸幕府は倒れたか?」という問題に、満点の答えがだせるか。少なくとも教科書を読んだだけではだせまい。教科書をよく読んだ上で、起きた事象を自分なりに解釈し、検証しなくては答えは出ない。

P53上段
<「私利私欲のために悪事をはたらく人間なんていないさ。ヒットラーがユダヤ人やスラブ人を4000万人も殺したのは、ゲルマン民族の千年王国を地上に建設するためだ。世の中に悪人なんてひとりもいない。正義の味方で満ちあふれているから、こういう素晴らしい世界ができあがったのさ。余を誘拐しようとしていた連中も、多分、正義感に燃えているんだろうぜ」
 始は目に見えない敵にむかって毒づいてみせた。>

>正論ですね。そして自分達に対してもあてはまる事に気づいていませんね、この主張は。後、ヒットラーがユダヤ人を600万人ほど虐殺した事は知っていますが、スラブ人を(4000万−600万=)3400万人も殺害したとは聞いた事がありませんね。それってソ連の犯行なのでは? 誰かこの辺の事実について知っている人はいませんか?

 ということは、竜堂兄弟は正義感に燃えていると。もしくは正義の味方だと自分たちを思っているということになる。その解釈の根拠となる部分は? 彼らは自分たちを「正義の味方」だとは思っていないのではなかったのか。

P93上段〜P94下段
<日本の政治ジャーナリズムは、収賄の事実を知っていても書かないことを自慢しているほど腐敗しているが、例外だってあるし、(中略)>

 戦後一貫したマスコミの過剰な政治批判や政治家への責任追及から見ると、これはウソ八百もいいところですね。いつも朝日新聞が「批判材料」をいろいろ見つけてきては政府を叩き、政治家の汚職を見つけては激しく罵倒していたという「功績」を彼は知らないのではないでしょうか。ところでこの創竜伝を見ていて気づいたのですが、この創竜伝世界には朝日新聞という存在がありません。ある意味では幸せな世界ですね。

 本多勝一の著書によれば、マスコミは腐っているらしい。としか言いようがない。どの政治家が贈賄し、その情報を新聞社が握り潰しているかはわからないからだ。
 これはないだろうという例えだが、マスコミは上納金をおさめない政治家を叩いているだけかもしれない。この業界に詳しい人でないと真相はわからない。わからないのに嘘八百ときめつけているのは問題だろう。

P151下段
<「わし同様、きみも日本に生まれ育ったはずだ。厳しさを加える世界情勢のなかで、日本が滅びないよう最大限の努力をするのは当然だと思うのだが」
「人類が滅びるのは一大事だが、日本が滅びるのは世界にとってたいした損失でもないでしょうよ」
辛辣きわまる始のことばだった。>

>始は何を世迷言を言っているのでしょうか。「人類が滅びるのは一大事だが、日本が滅びるのは世界にとってたいした損失でもないでしょうよ」という論法を使うなら、中国やアメリカが、いや全ての国が滅んでも、人類が残っていたら「世界にとってたいした損失でもないでしょうよ」と主張できるではありませんか。だいたいなんで「世界の損失」などという非常に抽象的なもので国家を論じるのです? 世界的な環境問題を論じるというのならまだ分かりますが。これは、世界がひとつであるという空想的な統一世界政府的発想が根にあるとしか思えません。この問答では船津忠厳の方が正論を主張しているのではないでしょうか。

 これについては解釈の仕方の違いだろう。
 始は「日本がアメリカになってもいいし、中国になってしまってもいい」という意味で言ったと考えられないだろうか。つまり「日本という国にはとらわれない」という宣言ではないだろうか。

P154下段
<「そりゃ日本は世界に冠たる先進民主国家ですからね。身寄りのない老人の年金から税金をとりたてて、一度のパーティーで何十億も集める政治家の政治資金は一円も課税しない、公平な社会を実現してる。あなたが半世紀にわたって努力なさった結果だ」
 老人は動じなかった。
「若さゆえに、そうも皮肉を言いたくもなるのだろうが、これほど富みかつ栄えた国が歴史上にまれであることは疑えんことだ」
 始はゆっくりと首をふってみせた。>

>始さん、論争で負けたからといって逃げてはいけませんよ(笑)。竜堂始氏は日本より貧しく、しかもより腐敗に満ちた国がこの当時存在していたという事実を知らないのでしょうか。それに比べれば日本はまだましではありませんか。船津忠厳の言っている「これほど富みかつ栄えた国が歴史上にまれであること」はまず間違いありませんから、少しはプラス面も評価したらどうですか?

 日本より腐敗に満ちた国があるからといって、始の台詞の持つ意味はかわらない。日本も腐っていることにはかわらないのだから。
 そして、この国がどんなに富んで栄えても、やはり始の台詞の持つ意味はかわらない。身よりのない老人は、決して富んでいないのだから。

 始が言いたいことは「貧乏人からも税金を巻き上げるのに、金持ちの政治家には課税しない。これのどこが〈公平な社会〉だ」であるから、「〈日本は富み栄えた国〉だ。これも我々の努力のおかげだ」というような意味の船津忠厳の言葉は見当違いもいところだ。

それと、石井由助さんのレスが、その下についているのでこれも。

>>P154下段

>>身寄りのない老人の年金から税金をとりたてて、一度のパーティーで何十億も集める政治家の政治資金は一円も課税しない

>つねづね思うのですが、これ、どこまで本当なんでしょうね。

政治資金に税金がかからないことは事実だ。
だが、何十億も集めているパーティーがあるかどうかは疑問だ。これは田中芳樹氏が誇張したものではないかと思っている。

>「そりゃ日本は世界に冠たる先進民主国家ですからね。真面目に書いている新進作家の売れ行きなどは雀の涙なのに、一度のノベルズで何十億も集める作家の小説は手抜きのクソ小説だという、公平な社会を実現してる。あなたが半世紀にわたって努力なさった結果だ」
>某作家は動じなかった。
>「若さゆえに、そうも皮肉を言いたくもなるのだろうが、これほど富みかつ売れた作家が出版界にまれであることは疑えんことだ」

 これは、見当違いの批判だ。
 政治資金に税金がかかっていないのは事実だが、某小説家が手抜きかどうかは事実ではないし、クソ小説かどうかは個人の価値観によるからだ。

 疲れるから考察1だけ。


No. 260
Re:私の創竜伝考察を読んで
S.K 2001/06/17 13:19
>  まずはじめに断っておきたいのが、自分も自分なりの解釈で話をすすめるということ。それだと価値観が違う、という意見がでてくるが、それについては仕方のないことだと思ってあきらめてくれ。
>
古代さん、失礼します。
 いずれ冒険風ライダーさんからのレスがあるでしょうが、それまで
の間少々ご意見への「価値観の相違」では納得いかない疑問点にお付き
合い下されば幸いです。

>
>  さて、外交問題ではないが、経済問題を暴力(戦争)で解決しようとした政治家はいた。征韓論なんてその典型だ。
>

 史実の理解としてこれは如何なものでしょう。
「征韓論」問題は明治政府設立後の、「士族的価値観感から脱却出来なかった元勲」と「先を見据え近代国家設立を目指す政治家」との通過
儀礼的抗争の一面があります。
 この折の「士族的価値観から脱却できなかった元勲」の主張、言動
で「政治家」を語るのは間違いでしょう。
 彼らはついに「政治家」になれず政府を辞去、後に政府に反旗を翻し
「士族」として果てるのですから。

> 悪を最初は正義のように書いたり、悪役の方が主人公より魅力的では、小説として問題があるからだ。
>

 この文の前段のご主張はともかく、この部分は明確に間違いです。
 素晴らしい理想を持ちたゆまぬ努力を続けながら、あるいは現実の
汚さに負け、あるいは己の狂気や激情に負けて暗黒面に屈服する元正義
の悪などいくらでもいます。
 例えばとおっしゃるなら「スターウォーズ・サーガ」全9本を1編の
作品として見た時のアナキン・スカイウォーカー君や「ベルゼルグ」の
グリフィスなどですか。
「それは小説ではあるまい」と反論されるなら、ちと屁理屈がすぎない
かと思いつつ次回にご紹介しますよ。
 今少々度忘れしてるだけで実在に事欠かいておりませんから。
 さらに、「主人公より魅力的な悪役」に何の問題があるものですか。
 そういう敵に一敗地にまみれ、それでも挫ける事無く努力し前進し
2度3度と負けを重ねつつ遂に勝つ。
 これぞ「王道」という物でしょう、何を持って「王道」に問題ありと
おっしゃるのですか。

>
>  本多勝一の著書によれば、マスコミは腐っているらしい。としか言いようがない。どの政治家が贈賄し、その情報を新聞社が握り潰しているかはわからないからだ。
>  これはないだろうという例えだが、マスコミは上納金をおさめない政治家を叩いているだけかもしれない。この業界に詳しい人でないと真相はわからない。わからないのに嘘八百ときめつけているのは問題だろう。
>
 これについては事によると「価値観の相違」で済ませざるを得ないのですが、「マスコミは腐っているらしい」の判断元とお見受けする本の著者本多勝一氏について、いくつかの著書で虐殺・粛清(文化大革命、クメール・ルージュの暴虐)に目をつぶった中華人民共和国礼賛やポル・ポト礼賛を行い、後日これらの事実が明らかになっても自著の問題部分を増刷分より一言の訂正もなく削除、頬かむりしてやり過ごしたとの話も存在します。
 これを事実とした場合、嘘ではないにせよかなり御自分(本多氏)に
都合のいい話として改変されている危険性はありませんか。

>  これは、見当違いの批判だ。
>  政治資金に税金がかかっていないのは事実だが、某小説家が手抜きかどうかは事実ではないし、クソ小説かどうかは個人の価値観によるからだ。
>
「価値観の相違」とのお言葉により後段は一つのご意見としてうかがい
ますが、逆に前段「これは、見当違いの批判だ」はご自身でおっしゃられた「価値観の相違」を裏切っておられませんか?
 最悪の解釈をすると「自分の意見は“人それぞれ”なんだから言わせといてもらおう。だが、お前の意見は明確な間違いだ」などと言う他人
を誹謗しておいて自分だけは安全圏に逃れて反論さえ許さないという、
最低の議論姿勢に見えてしまいます。
 言葉一つの事ですので問題の前段部分だけ「自分の見解は違う」などに訂正される事をお勧めします。
 誤解されるのはつまらない事ですよ。
 では、失礼します。


No. 261
Re:私の創竜伝考察を読んで
古代蓮 2001/06/17 18:24
> 古代さん、失礼します。
>  いずれ冒険風ライダーさんからのレスがあるでしょうが、それまで
> の間少々ご意見への「価値観の相違」では納得いかない疑問点にお付き
> 合い下されば幸いです。
>
>  史実の理解としてこれは如何なものでしょう。
> 「征韓論」問題は明治政府設立後の、「士族的価値観感から脱却出来なかった元勲」と「先を見据え近代国家設立を目指す政治家」との通過
> 儀礼的抗争の一面があります。
>  この折の「士族的価値観から脱却できなかった元勲」の主張、言動
> で「政治家」を語るのは間違いでしょう。
>  彼らはついに「政治家」になれず政府を辞去、後に政府に反旗を翻し
> 「士族」として果てるのですから。

 ここで語っているのは、あくまでも「問題を暴力で解決しようとした政治家」という部分だけです。彼らが征韓論を語ったときは政治家だったのに違いはない。

>  この文の前段のご主張はともかく、この部分は明確に間違いです。
>  素晴らしい理想を持ちたゆまぬ努力を続けながら、あるいは現実の
> 汚さに負け、あるいは己の狂気や激情に負けて暗黒面に屈服する元正義
> の悪などいくらでもいます。
>  例えばとおっしゃるなら「スターウォーズ・サーガ」全9本を1編の
> 作品として見た時のアナキン・スカイウォーカー君や「ベルゼルグ」の
> グリフィスなどですか。
> 「それは小説ではあるまい」と反論されるなら、ちと屁理屈がすぎない
> かと思いつつ次回にご紹介しますよ。
>  今少々度忘れしてるだけで実在に事欠かいておりませんから。
>  さらに、「主人公より魅力的な悪役」に何の問題があるものですか。
>  そういう敵に一敗地にまみれ、それでも挫ける事無く努力し前進し
> 2度3度と負けを重ねつつ遂に勝つ。
>  これぞ「王道」という物でしょう、何を持って「王道」に問題ありと
> おっしゃるのですか。
>

 ああ、そう意味ではない。言葉足らずですまなかった。
 ここで言いたかったことは。最初のうち万引きを悪ではないといいながら、途中から盗みはいけないよ、なんて語る小説はおかしくないか?ということです。
 最初に正義として定義しておきながら、後でそれは悪だと定義しては、読者も混乱するでしょ? キャラクターではなく、その世界での善悪の価値基準のことです。

 悪役が魅力的ではいけない。これは悪のボスではなく、小悪党(ストーリーを通しての敵ではなく、その場限りの敵)のことです。
 こちらも小説ではない例えだが、仮面ライダーブラックのシャドームーンは魅力的だった。だが、ただの怪人たちは仮面ライダーブラックよりも魅力的ではいけない。そう思いませんか?

>  これについては事によると「価値観の相違」で済ませざるを得ないのですが、「マスコミは腐っているらしい」の判断元とお見受けする本の著者本多勝一氏について、いくつかの著書で虐殺・粛清(文化大革命、クメール・ルージュの暴虐)に目をつぶった中華人民共和国礼賛やポル・ポト礼賛を行い、後日これらの事実が明らかになっても自著の問題部分を増刷分より一言の訂正もなく削除、頬かむりしてやり過ごしたとの話も存在します。
>  これを事実とした場合、嘘ではないにせよかなり御自分(本多氏)に
> 都合のいい話として改変されている危険性はありませんか。

 まあ、当時ポル・ポトを支持していたのは日本のマスコミも同様ですからね。信用できないと言えば、どこもあまり大差ない気がしますが。
 どこを信じて良いのかわからない。

> 「価値観の相違」とのお言葉により後段は一つのご意見としてうかがい
> ますが、逆に前段「これは、見当違いの批判だ」はご自身でおっしゃられた「価値観の相違」を裏切っておられませんか?
>  最悪の解釈をすると「自分の意見は“人それぞれ”なんだから言わせといてもらおう。だが、お前の意見は明確な間違いだ」などと言う他人
> を誹謗しておいて自分だけは安全圏に逃れて反論さえ許さないという、
> 最低の議論姿勢に見えてしまいます。
>  言葉一つの事ですので問題の前段部分だけ「自分の見解は違う」などに訂正される事をお勧めします。
>  誤解されるのはつまらない事ですよ。
>  では、失礼します。

 あ、違うんだ。これまた拙い書き方で失礼した。
 田中芳樹氏のやりかたをまねて、批判している文にたいして、そのやりかたはおかしい、と言っているのだ。

 田中芳樹氏は、事実に基づいて書いたのだ。
 それに対して、石井由助さんの批判は事実に基づいていない。感情にまかせて書いている(「手抜き」とか「クソ小説」というのは個人の感情によるものでしかない)。
 その「感情にまかせて書いている」批判の仕方が、見当違いということであって、「某作家が手抜きではない」とか「クソ小説じゃない」という意味での見当違いではない。


No. 267
Re259:返答
冒険風ライダー 2001/06/18 20:59
<暴力とは「乱暴な力」であり「無法な力」のこと。どの国も他国が戦争を仕掛けてくるのをよしとしてない以上は、戦争は暴力だ。
 さて、外交問題ではないが、経済問題を暴力(戦争)で解決しようとした政治家はいた。征韓論なんてその典型だ。だとすると、外交問題を暴力で解決しようと考えていた政治家がいたとしてもおかしくない。実際のところはわからんが。>

 戦前ならばともかく、戦後日本ではそんな政治家は存在しえないでしょう。ちょっとでもそのようなことを匂わせる、もしくは解釈できるような言動を行っただけでも、マスコミからの集中砲火を浴び、政治生命を断たれてしまうような日本では、そのような政治家の存在を世論やマスコミが許容しませんので。
 国会で下品な暴言を吐いたり、舌禍事件を起こすような「素行不良な政治家」ならば過去にもいたでしょうし、現在もいますけどね。


P44下段
<始は、世界史の教師としては――あるいは、しても――型破りだった。試験前にどういう問題が出るか、生徒に教えるのである。全部、記述式の問題で、自筆のノートを持参してもいいのだ。>
<一番下にあわせていない。これは既存の暗記式より、そうとう難しい問題だ。
 例えば、「なぜ江戸幕府は倒れたか?」という問題に、満点の答えがだせるか。少なくとも教科書を読んだだけではだせまい。教科書をよく読んだ上で、起きた事象を自分なりに解釈し、検証しなくては答えは出ない。>

 始の教育法をもっとしっかり読んでみてくれません? 始は「試験前にどういう問題が出るか、生徒に教える」上に「自筆のノートを持参してもいい」と言っているんですよね? 私にはこの教育法が「カンニング容認論」にしか見えないのですが(笑)。
 もし私が竜堂始が受け持つクラスの生徒であったら、竜堂始から「試験前にどういう問題が出るか」を教えてもらった後、誰か歴史が得意な人間を尋ね、試験に出題される辺りが詳細に書かれているノートを「自筆」でそっくりそのままコピーし、試験の際にその「自筆のノート」にコピーした内容をそのまま答案用紙に書き写しますね。これで「歴史が苦手」という人間でも、100点満点中最低でも80点以上は容易に取ることが可能です。試験後に回収した答案用紙には、全く同じ記述解答が判で押したかのようにずらっと並んでいる光景が出現したことでしょう。
 こんな生徒にとって楽でかつバカな教育法では、最初から歴史が好きな一部の生徒を除いて、歴史に興味を持つ人間などいるわけがないでしょう。自分から自発的に努力することなく、その場凌ぎで外面だけ写してきたものが自分の身につくわけがありません。だからこそ私はこんなバカ教師からは歴史を習いたくなどないと言ったのですよ。
 カンニングなどで教育が身につくのであれば苦労しないのですけどね〜。


P53上段
<「私利私欲のために悪事をはたらく人間なんていないさ。ヒットラーがユダヤ人やスラブ人を4000万人も殺したのは、ゲルマン民族の千年王国を地上に建設するためだ。世の中に悪人なんてひとりもいない。正義の味方で満ちあふれているから、こういう素晴らしい世界ができあがったのさ。余を誘拐しようとしていた連中も、多分、正義感に燃えているんだろうぜ」
 始は目に見えない敵にむかって毒づいてみせた。>
<ということは、竜堂兄弟は正義感に燃えていると。もしくは正義の味方だと自分たちを思っているということになる。その解釈の根拠となる部分は? 彼らは自分たちを「正義の味方」だとは思っていないのではなかったのか。>

 思ってなどいませんよ。上記の引用でも明言している通り、連中は「正義」を完全否定しているくらいですし。
 考察シリーズで何度も私は言及していますけど、連中は「その場その場で衝動的に蠢く自己感情」だけを行動原理としています。連中がその「感情」に基づいて「自分達に襲い掛かってきた者」もしくは「自分が不快と判断した者」を一方的にいたぶる時に「自分達の感情が果たして正当なものであるのか」「自分達が行っていることがどれほどまでに相手を傷つけるものであるか」を少しも顧みようとしないその態度が、連中が蔑視しているであろう「正義感に燃えているヒットラー」と全く同じだと私は言っているんですよ。連中は正義感に燃えてなどいませんが、自らの感情を抑止するということを知らない一種の狂人でしてね(笑)。
 「竜堂兄弟が正義感に燃えている」なんて私は一言半句も述べていませんけど?


<本多勝一の著書によれば、マスコミは腐っているらしい。としか言いようがない。どの政治家が贈賄し、その情報を新聞社が握り潰しているかはわからないからだ。
 これはないだろうという例えだが、マスコミは上納金をおさめない政治家を叩いているだけかもしれない。この業界に詳しい人でないと真相はわからない。わからないのに嘘八百ときめつけているのは問題だろう。>

 そこまで深く掘り下げたマスコミ業界の裏事情など知る必要はありません。マスコミが政治・政治家批判(それも政権与党の批判ばかり)を行っている風景は、新聞の政治欄やテレビのニュース番組を見ていれば必ず遭遇するものですから(笑)。
 そもそも創竜伝の社会評論によると、マスコミは政権与党にべったりの体質を持ち、決して政治批判を自ら進んで行うことはなく、芸能人のワイドショーネタばかりを追いかけている存在なのだそうです。これがいかに間違っているかは今更言うまでもないでしょう。


P151下段
<「わし同様、きみも日本に生まれ育ったはずだ。厳しさを加える世界情勢のなかで、日本が滅びないよう最大限の努力をするのは当然だと思うのだが」
「人類が滅びるのは一大事だが、日本が滅びるのは世界にとってたいした損失でもないでしょうよ」
辛辣きわまる始のことばだった。>
<これについては解釈の仕方の違いだろう。
 始は「日本がアメリカになってもいいし、中国になってしまってもいい」という意味で言ったと考えられないだろうか。つまり「日本という国にはとらわれない」という宣言ではないだろうか。>

 もしここで竜堂始が、
「だからと言って、自分達に危害を加えようとしたアンタ(船津忠義)に協力する義理はない」
ぐらいのセリフで船津忠義に返すのであれば、ストーリー的に妥当なやり取りとして充分に成立するんですけどね〜。なぜここで竜堂兄弟に危害を加えたわけでもない「日本という国」が滅びてもかまわないとまで言われなければならないのか、私には理解できないのですけど。


P154下段
<「そりゃ日本は世界に冠たる先進民主国家ですからね。身寄りのない老人の年金から税金をとりたてて、一度のパーティーで何十億も集める政治家の政治資金は一円も課税しない、公平な社会を実現してる。あなたが半世紀にわたって努力なさった結果だ」
 老人は動じなかった。
「若さゆえに、そうも皮肉を言いたくもなるのだろうが、これほど富みかつ栄えた国が歴史上にまれであることは疑えんことだ」
 始はゆっくりと首をふってみせた。>
<日本より腐敗に満ちた国があるからといって、始の台詞の持つ意味はかわらない。日本も腐っていることにはかわらないのだから。
 そして、この国がどんなに富んで栄えても、やはり始の台詞の持つ意味はかわらない。身よりのない老人は、決して富んでいないのだから。
 始が言いたいことは「貧乏人からも税金を巻き上げるのに、金持ちの政治家には課税しない。これのどこが〈公平な社会〉だ」であるから、「〈日本は富み栄えた国〉だ。これも我々の努力のおかげだ」というような意味の船津忠厳の言葉は見当違いもいところだ。>

 実は日本の老人って、下手な資産家よりも結構カネを持っているものでしてね。日本の貯蓄の3分の2を60歳以上の老人が保有しているとか、日本の老人が死期を迎える頃には平均2500万ほどの貯蓄を持っているとかいった統計が実際に出ています。
 それに日本の税制では、日本の高齢者もしくは高齢者を扶養している親族に対する様々な税額控除の制度が存在しますから、実際には高齢者に対する課税はそれほど苛烈であるわけではないのです。課税の不公平を嘆くのであれば、むしろサラリーマンの源泉徴収や、所得税・相続税の累進課税制度の方がよほど問題でしょう。
 さらに日本の政治献金に関しては、不正な政治献金を防止するための「政治資金規正法」という法律が存在しますし、政治家で裕福な暮らしをしている人など日本では数えるほどしか存在しません。ためしに日本とアメリカの政治家の邸宅でも比べてみたらいかがです? 敷地面積も邸宅も比べものになりませんから。
 かくのごとく一般市民と政治家との資産格差が小さいのは、世界広しといえども日本ぐらいしかないでしょう。日本は非常に「公平で豊かな社会」であると思いませんか?


No. 268
Re:私の創竜伝考察を読んで
2001/06/18 23:34
どうも初めまして槍と言うモノです。
>
>  悪役が魅力的ではいけない。これは悪のボスではなく、小悪党(ストーリーを通しての敵ではなく、その場限りの敵)のことです。
>  こちらも小説ではない例えだが、仮面ライダーブラックのシャドームーンは魅力的だった。だが、ただの怪人たちは仮面ライダーブラックよりも魅力的ではいけない。そう思いませんか?


とりあえずコレについてにのみ一言言わせていただきます。

私は魅力的な小悪党が居ても良いと思います。
その典型例が秘密戦隊ゴレンジャーです。
コレに出てくる怪人たちなんていい味だしてましたよ。
ただのヤラレ役ではなくちゃんとしたキャラだし、時には主人公のゴレンジャーをキャラ的にを喰ってしまった怪人も居ました。
だからと言って違和感なんてなかったですし。
再放送を見ていた時なんて次はどんな怪人が出るのか楽しみにしていました。

ウルトラシリーズの宇宙人や怪獣たちだってその場限り敵でも魅力的な敵がたくさんいました。
むしろそっちの方が面白かった。
(ただウルトラシリーズは単純に勧善懲悪モノとは言えませんが)
別に魅力的なその場限りの敵を出したってそれを倒すヒーローの凄さの証明となる訳だからそれはそれでで良いと思うのですが。


No. 270
Re:267
2001/06/19 04:52
はじめまして。横から失礼します。枝葉の事で恐縮なのですが、267での冒険風ライダー氏の御発言に関して意見を述べさせていただきたいと思います。

P44下段
<始は、世界史の教師としては――あるいは、しても――型破りだった。試験前にどういう問題が出るか、生徒に教えるのである。全部、記述式の問題で、自筆のノートを持参してもいいのだ。>
<一番下にあわせていない。これは既存の暗記式より、そうとう難しい問題だ。
 例えば、「なぜ江戸幕府は倒れたか?」という問題に、満点の答えがだせるか。少なくとも教科書を読んだだけではだせまい。教科書をよく読んだ上で、起きた事象を自分なりに解釈し、検証しなくては答えは出ない。>

> 始の教育法をもっとしっかり読んでみてくれません? 始は「試験前にどういう問題が出るか、生徒に教える」上に「自筆のノートを持参してもいい」と言っているんですよね? 私にはこの教育法が「カンニング容認論」にしか見えないのですが(笑)。

当然賛否あるでしょうけど、これもひとつの見識ではありませんか? 過去ログでも似たようなことを言われた方がおられたような気もしますけど、始がこの時教鞭を振るっていた共和学園(でしたっけ?)は私学だったはずですから、このような形式での授業というのもあってよいのではないでしょうか。

> もし私が竜堂始が受け持つクラスの生徒であったら、竜堂始から「試験前にどういう問題が出るか」を教えてもらった後、誰か歴史が得意な人間を尋ね、試験に出題される辺りが詳細に書かれているノートを「自筆」でそっくりそのままコピーし、試験の際にその「自筆のノート」にコピーした内容をそのまま答案用紙に書き写しますね。これで「歴史が苦手」という人間でも、100点満点中最低でも80点以上は容易に取ることが可能です。試験後に回収した答案用紙には、全く同じ記述解答が判で押したかのようにずらっと並んでいる光景が出現したことでしょう。
 こんな生徒にとって楽でかつバカな教育法では、最初から歴史が好きな一部の生徒を除いて、歴史に興味を持つ人間などいるわけがないでしょう。自分から自発的に努力することなく、その場凌ぎで外面だけ写してきたものが自分の身につくわけがありません。だからこそ私はこんなバカ教師からは歴史を習いたくなどないと言ったのですよ。
 カンニングなどで教育が身につくのであれば苦労しないのですけどね〜。

 やるでしょうね。いみじくも古代蓮氏がおっしゃったように、記述式の問題はただの暗記方式よりも高度な問題です。ならばこそ歴史に興味などない人間にしてみれば、「そっくりそのままコピー」に走る事は当然あり得るでしょう。しかし、それをもってこの教育方針が「バカな教育方針」と断じるのはいかがなものでしょうか。
 「カンニングなどで教育が身につく」わけがないとは私も思いますが、それは結局個人の責任です。この場合は厳密にはカンニングというわけではありませんが、カンニングをしてしまったのはカンニングが許される環境だったからだと教師をなじるのは筋違いですし、ましてやそれで実力が身につかなかったと歎くとしたら私には言うべき言葉がありません。「その場凌ぎで外面だけ写してきたものが自分の身につくわけが」なくても、それは自分で選んだ事なのですから誰を責める事もできないでしょう。
 このような試験に臨んで人の文章を丸写しするような人は(別にそれが悪いと言っているわけではありませんが)、おそらく一般的な形式のテストでそれに応じた勉強をしても特には歴史に興味を持たないように思われますし、教師も(この場合は始ですが)それならそれで良いと思っているのではないでしょうか。教育というのは、基本的に受けるものであっても、与えるものではないでしょうから。
 もちろん私はここで始が行なったような形式が理想のものであると言っているわけではありません。このような方法だと、やる気のある人間とない人間がかなりはっきりと分かれるでしょう。ですが、生徒にとって楽であるかどうかは、授業に臨む態度によって異なるでしょうし、またそれはどのような場合でも多かれ少なかれ言える事ではないでしょうか。「歴史が苦手」とか「興味がない」と言うのであれば、丸写しでも何でもして試験をパスすればよろしいでしょう。高校生にもなっていれば、学校で何を学ぶか、あるいは学ばないかを選ぶ事ができるようになっていてもいいはずです。
 ところで、始の授業は選択科目だったのではありませんでしたっけ? 今手元に「創竜伝」が見当たらないんで確認しておりませんが、終が「みんな自分が兄の授業を取るものだと思っている」と言う趣旨のぼやきをもらしていた場所があったような気がします。だとすると、その他の科目と比較して世界史の方が好きだ、得意だ、と言う人が授業を取るのではないでしょうか? まあ、あの教師の授業は試験を通りやすい、という理由で選択する生徒が出る可能性もあるでしょうけど。
 ちなみに、付記しておくなら、私は他の場面での始の発言との整合性も視野にいれて発言しているわけではありません。あくまで、このような授業のやり方もひとつの見識ではないか、ということを言いたいだけですのであしからず。
 長々と失礼いたしました。


No. 281
Re270:教育者としての責任意識
冒険風ライダー 2001/06/19 21:34
<「カンニングなどで教育が身につく」わけがないとは私も思いますが、それは結局個人の責任です。この場合は厳密にはカンニングというわけではありませんが、カンニングをしてしまったのはカンニングが許される環境だったからだと教師をなじるのは筋違いですし、ましてやそれで実力が身につかなかったと歎くとしたら私には言うべき言葉がありません。「その場凌ぎで外面だけ写してきたものが自分の身につくわけが」なくても、それは自分で選んだ事なのですから誰を責める事もできないでしょう。
 このような試験に臨んで人の文章を丸写しするような人は(別にそれが悪いと言っているわけではありませんが)、おそらく一般的な形式のテストでそれに応じた勉強をしても特には歴史に興味を持たないように思われますし、教師も(この場合は始ですが)それならそれで良いと思っているのではないでしょうか。教育というのは、基本的に受けるものであっても、与えるものではないでしょうから。>

 あのですね、「カンニングの横行」という問題が「生徒個人の責任」だけで簡単に片づけられてしまう問題なのですか? 試験の際にカンニングが横行するようなクラスの存在は学校として問題があると言わざるをえませんし、ましてやそれを容認するかのような教育方針を取る教師は懲戒免職にされても文句は言えません。
 しかもそのような不正なカンニング手段が容認され、それによって好成績が取れてしまう環境下では、いくら真面目に歴史勉強をやっても意味がなくなるため、竜堂始が理想としているであろう「歴史に関心のある若者を増やす」にすら反して、却って本当に歴史知識の高い生徒や歴史に関心を持つ生徒のやる気を削いでしまう危険性もあるのです(非常に笑ってしまうことに、竜堂始が共和学院の講師を辞めさせられるきっかけとなったのが、この教育方針に対する成績優秀者の抗議です)。さらにこの状況が長く続き、カンニング容認の環境が常態化すると、生徒間による競争原理や向上意識が全く働かなくなってきますから、クラス全体の学力も確実に低下します。私立学校(特に進学校)で「カンニングの横行」と「学力の低下」などという評判が立ったらマズイでしょう。
 カンニングの問題は、生徒個人の責任だけでなく、学校の社会責任や教師の教育責任も問われるものなのです。自分が行っている教育方針の致命的欠陥に気づかず、カンニングが行われやすい試験環境を容認している竜堂始は、自らの教師としての社会的責任と教育責任を全く自覚していないと言わざるをえません。


<ところで、始の授業は選択科目だったのではありませんでしたっけ? 今手元に「創竜伝」が見当たらないんで確認しておりませんが、終が「みんな自分が兄の授業を取るものだと思っている」と言う趣旨のぼやきをもらしていた場所があったような気がします。だとすると、その他の科目と比較して世界史の方が好きだ、得意だ、と言う人が授業を取るのではないでしょうか? まあ、あの教師の授業は試験を通りやすい、という理由で選択する生徒が出る可能性もあるでしょうけど。>

 竜堂始が共和学院の講師をしていた頃の担当科目は世界史です。また選択科目というのもその通りです。
 選択科目を選ぶ際の生徒の動機は様々なものがあるでしょう。もちろん、世界史が好きないしは得意という人間もいるでしょうが、「なんとなく選択した」というのもあれば「他の科目が苦手」という消極的な理由もあるでしょうし、ひょっとすると「○○先生の授業が聞ける」とか「好きな子と一緒にいられる」とかいった、勉強とは何ら関係のない理由だってあるかもしれません。
 しかし、動機は何にせよ、結果として自分のところに集まってきた生徒達に対して向学心を持たせ、学力を上げていくことこそが、教育者としての義務であり、また権利でもあるわけでしょう。それをカンニングが横行するような教育方針を取って反対の結果を招来させてしまうのでは教師失格です。


No. 287
Re:Re270:教育者としての責任意識
2001/06/20 03:21
> あのですね、「カンニングの横行」という問題が「生徒個人の責任」だけで簡単に片づけられてしまう問題なのですか? 試験の際にカンニングが横行するようなクラスの存在は学校として問題があると言わざるをえませんし、ましてやそれを容認するかのような教育方針を取る教師は懲戒免職にされても文句は言えません。

 なるほど、私は「戸締りをしていなかったから泥棒に入ったのだと居直る泥棒」的な捉え方をしてしまい、そのことに反論したのですが、たしかにカンニングが横行するような環境を作り上げてしまうという管理者側の責任問題に言及するなら、それは大きな問題ですね。ただ、「カンニングの横行」とおっしゃいますが、事前の問題の提示とノートの持込可というのが前提条件となっている以上、それはカンニングにはあたらないと思います。試験前のノート丸写しなどは、賞揚される行為ではありえませんが、不正行為とも言えないと思いますが。

> しかもそのような不正なカンニング手段が容認され、それによって好成績が取れてしまう環境下では、いくら真面目に歴史勉強をやっても意味がなくなるため、竜堂始が理想としているであろう「歴史に関心のある若者を増やす」にすら反して、却って本当に歴史知識の高い生徒や歴史に関心を持つ生徒のやる気を削いでしまう危険性もあるのです(非常に笑ってしまうことに、竜堂始が共和学院の講師を辞めさせられるきっかけとなったのが、この教育方針に対する成績優秀者の抗議です)。

 これは納得しました。最初の冒険風ライダー氏の発言からこの部分が汲み取れなかったのですが、このように説明されると確かにその通りだと思います。自力でコツコツと努力してきた人間よりも、ただ単に要領が良かった者の方が成績が良いと言う事態が起これば(現実にもままある事だと思いますが)、それは面白くないでしょう。個人的には真面目に歴史勉強にいそしめば、それなりの意味はあるのではないかとも考えますし、そもそも高成績をあげる事を勉強の目的とする人間ばかりとも限らないとは思いますが、問題点は理解しました。しかしそれだと、うっかりレポートの提出もさせられませんね。
 ところで、成績優秀者の抗議が始の辞職の原因の一つだったとは、すっかり忘れてました。

1巻・P100・下段
「竜堂講師、君の授業のやりかたに対して、このごろ不満が表面化している。年代もおぼえないし、他大学を受験する成績優秀な生徒から抗議がきておるんだよ」

 というところですね。成績優秀な生徒さんは大学の受験勉強を自力でやるくらいの考え方をしてもいいような気もしますが、受験指導も学校の責任の一環という事でしょうか。

> しかし、動機は何にせよ、結果として自分のところに集まってきた生徒達に対して向学心を持たせ、学力を上げていくことこそが、教育者としての義務であり、また権利でもあるわけでしょう。それをカンニングが横行するような教育方針を取って反対の結果を招来させてしまうのでは教師失格です。

 始の試験方法について不備があるという指摘は否めないということは納得しました。この方法だと、生徒側のある一定以上の倫理的規範が前提になければ成り立たないかもしれません。入学時の選抜を厳しくする事によって、ある程度はカバーできると思いますが根本的な解決ではありませんね。ただし、この件を持って直ちに「バカな教育方」とはやはり断じられないと思います。その実行において不備があっても方針それ自体が全否定されるたぐいのものではないように思えます。
 教育者としての義務・権利、という事に関しては、知識とその使い方の伝達、質問への適切な返答が行なわれれば基本的にはそれでいいと思いますが。
 「反対の結果」云々のあたりに関しては、始がどのような形式で授業を行なっているのか、また全体的な生徒達の反応はどうなのかなどの描写がないので(あったらごめんなさい)、実のところどうなのかは何とも言えませんが。
 あと、私はここまでの発言で、現実的な問題としてはどうなのか、という事と、創竜伝という作品の中での問題としてはどうなのか、という事を、どうもごっちゃにしてしまっているきらいがある事に気付きまして、どうもあまりいい質問ではなかったなと反省しております。にもかかわらず丁寧な返答をくれた冒険風ライダー氏のに感謝します。


No. 293
Re287:「機会の不平等」の問題
冒険風ライダー 2001/06/20 21:30
<ただ、「カンニングの横行」とおっしゃいますが、事前の問題の提示とノートの持込可というのが前提条件となっている以上、それはカンニングにはあたらないと思います。試験前のノート丸写しなどは、賞揚される行為ではありえませんが、不正行為とも言えないと思いますが。>

 あの〜、竜堂始が取っている教育方針は、その「事前の問題の提示とノートの持込可という前提条件」が、いかに「試験前のノート丸写し」のような不正行為を構造的に容易なものにしてしまうかが問題なのではないのですか? しかもそのような不正行為が「教育方針」の名の元にカンニングとして認定されないとしたら、法的な制約がなくなって不正行為がやりたい放題になるわけですから、竜堂始の教育方針はそれこそ「カンニング容認論」以外の何物でもないということになってしまうではありませんか。
 それに竜堂始が選択科目のひとつとして担当している世界史だけでこのような不正行為が横行するというのは、他の選択科目のバランスという観点から見ても問題なのではありませんか?
 大学入試センター試験などでも毎年問題になるのが、社会科の選択科目間の総合平均点数格差です。センター試験などでは日本史も世界史も地理も同じ「社会科」として扱われ、異なる選択科目で同じ点数争いが行われるのですが、選択科目によって難易度に差があったり、4択問題のような選択問題の数が選択科目によって異なったりすると、例えば日本史と世界史との間で20点近くも点数格差が開いたりする事があるのです。つまり、試験に不利な選択科目を選んだ人は、その科目を選択する時点で大きなハンディキャップを背負わなければならないという「機会の不平等」が存在するわけです。
 竜堂始の教育方針はこの選択科目間のバランスを大きく突き崩す要素を多分に孕んでいます。あのカンニング行為が横行することになれば、世界史だけが異常なまでに総合平均点が上昇し、他の選択科目との間に大きな平均点数格差(最低20〜30点以上)が生じる事はまず間違いありません。しかもこれが実力の結果ならばまだしも、世界史選択者の大半が、他の選択科目を選んだ生徒達には決して許されることのないカンニング行為によってバブル的にのし上がるだけでしかないのですから、世界史以外を選択した生徒達にとってこれほどまでに不当極まりない話もないでしょう。
 これでは世界史以外の選択科目を選んだ生徒達の不満を蓄積させ、彼らの勉強意欲をも削いでしまう結果を生じさせてしまうのではありませんか?


<始の試験方法について不備があるという指摘は否めないということは納得しました。この方法だと、生徒側のある一定以上の倫理的規範が前提になければ成り立たないかもしれません。入学時の選抜を厳しくする事によって、ある程度はカバーできると思いますが根本的な解決ではありませんね。ただし、この件を持って直ちに「バカな教育方」とはやはり断じられないと思います。その実行において不備があっても方針それ自体が全否定されるたぐいのものではないように思えます。>

 まああの御仁が主張している「歴史が好きになる生徒をひとりでも多く作る」という主張に関しては私も賛同する点もあるのですが、いかんせんその手法があのような穴だらけの試験方式というのではねえ……。まあ竜堂始の教育方針から「事前の問題の提示とノートの持込可」を抜いてしまったら、今度は成績優秀者以外誰もついてこれないような高難易度の試験方式になってしまうのでしょうが。
 本当に「歴史が好きになる生徒をひとりでも多く作」りたいのであれば、試験方法ではなく教え方をこそ工夫すべきだと思うのですけどね。例えば授業時間の一部を割いて、歴史授業とは関係のない歴史的人物の話や歴史上における有名なエピソード話を披露してみるとか。
 まあ東郷平八郎を指して「一局地戦の指揮官」などと平気でほざくような奴に、そのような芸当を期待するのは無理というものですが(笑)。


No. 6268
「自筆ノート持ち込み可」について
黒崎 2005/02/21 13:35
 はじめまして、何年も前に終わった議論であり、皆さんには今更でしょうが、思うところを述べさせてください。

 私は竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」というのは、従来の試験方式よりは、生徒の力を育てる可能性が大きいと考えます。

 確かに、この試験方式の場合、世界史に意欲を持てていない生徒は、誰か歴史の得意な人、あるいは生真面目な性分の人のノートを写して試験に臨み、似通った答案が多く出現するでしょう。
 しかしこの「人のノートを書き写す」という行為、少なからぬ時間と労力を要します。出題される4〜5問にからむ事項に限ったとしても、その出題の仕方は「古代ギリシアの都市国家について述べよ」などといった、広範な知識・情報を求めるものになりますから、必要な部分を選び、抜書きする行為は、歴史の勉強法の基本的なあり方に他なりません。
 また、母体となるノートが同じだとしても、その整理の仕方、選び方には個性も現れるでしょう。差が出ないとおっしゃいますが、意欲を持って望んでいる生徒であれば、個々の事項の結び付け方も一夜漬け組みとは差が出るでしょうし、関連する「余分な」知識や情報による味付けで、その生徒ならではという解答も生まれる余地があると思われます、また、限られた解答欄に、どの事項をピックアップして論述するかは、個々の興味や志向が反映され、多くの可能性を持っていると思います。

 歴史の勉強に対して意欲を持てず、単位さえ取得できればいいという生徒の場合、通常の試験形態であったならば、どのような勉強をするでしょうか?やはり生真面目にノートをとる友人に頼み込んでノートを借り、コピーをとり、授業で強調されたであろう下線部分や色つき部分を重点的に暗記して(おそらく前日の夜の数時間だけで)試験に臨み、赤点さえ免れればいい、という勉強になるでしょう。これはそれこそ不毛な暗記ですよね。
 これに対して、自筆ノートを作る場合、誰かさんのノートコピーし、それを読み、重要と思われる部分を選び取り、書き写す、そして時間が許せば出題に対してどのように解答欄を埋めるか、彼なりに一生懸命考え、まとめ、(丸写しだとばれないように化粧を施して)当日に望み、用意した解答を読み、書き写す、、、実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです。「他人の努力を土台にしている」という問題は依然としてありますが、一夜漬けの丸暗記より、よほど頭を使わせ、努力させます。授業のその時は睡魔に負けても、人のノートを読んでいるうちになにか関心を引かれることが見つかるかもしれません(多分に希望ですが)。

 もちろん、試験の方式で歴史への興味がわくということはまずないでしょう。この方式は、教師にも大きな負担を求めます。
 平素の授業において、生徒の意欲や関心を刺激し、生かすようにつとめなければなりませんし、生徒をよく観察して、どのようなグループ化、つながりがあるのか把握しなければなりません。
 また、文献から丸写ししてきたら、その出典が何なのかわからなければいけないでしょうし、その生徒が彼なりに内容を消化しているかどうか、洞察できるかどうかも重要です。
 端的に言えば、明らかに丸写しの場合、誰のノートがどのようなルートで回されたのか推察できるくらい、生徒個々を把握していることが望ましいでしょう。
 また、採点基準を明確にし、努力と手抜きを的確に見抜けなければ、十分に機能はしないでしょう。(論述問題の採点はそこが難しい)
 このように、教師にも多くの努力と研鑽が必要とされ、手抜きを許さないのが、自筆ノート可方式だと思います。

 科目間バランスを崩すとの指摘ですが、これはあまり意味がないでしょう。センター試験において、竜堂方式を世界史だけ適用・・・というようなことになれば、確かに不公平でしょうが、共和学院の世界史と日本史の間で平均点の格差があっても、単純な得点加算で足を切るセンター試験ではないのですから、評定は教科内における相対的位置でしょうから、日本史は日本史、世界史は世界史でしょう。日本史で評定8を取ることと、世界史で評定8を取ること、その為に必要なクラスにおける順位などがおよそ同じになるようにすればいい・・・これはまた教師の工夫や力量になると思いますが。

 自分で努力してノートを作った生徒と、それを写して平素の努力を省略した生徒を同列に置くことになることを、カンニングとして嫌悪されてるのだと思います。が、これはこれで、試験後などにノートを回収してチェックするなどすれば、かなり掴めるのではないでしょうか?教師がまめに図書館などに足を運ぶことも、実態把握に役立つでしょう。
 平素の努力と工夫で、少しでも多くの生徒に意欲を持たせ、歴史の面白さを伝えることとあわせ、教師に多くの負担がかかるやり方ではありますが、調べ、考え、まとめ、論述する力を養う上で、とても有効な試験方法だと、考えます。

 そもそも、入学選抜のための試験ではなく、学習内容やその習熟度の確認が学内定期試験の主旨であり、振り落とすためのものでなく、拾い上げるためのものです。試験を機に、学んで欲しい事項やテーマを頭に入れてもらうこと、調べたり、考えたり、書いたりさせることが目的ですから。
 他人のノートを写しただけの生徒には、その目的である単位取得に必要な及第点を、意欲を持ち、自分なりの工夫や努力をした生徒には、その点を加味した高い評価を与えられるように設定すればいいのではないでしょうか。

 竜堂始のやり方に苦情を申し立てた「優等生」、他大学を受験する成績優秀な・・・ろくに年号を覚えさせない・・・というところから、始の授業内容が受験対策に向かないということへの苦情であることを容易に想像させます。不正行為の横行を告げ口したのであれば、高等科長はそれこそ鬼の首を取ったように高圧的に解任したでしょう。しかしそれは同時に、始が平素の授業において、生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫し、丸暗記や受験対策から外れて、「脱線」が多いことを思わせます。

 私は始の「自筆ノート持ち込み方式」が、従来の方式よりも、意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求めるという点で、優れていると考えます。いかに関心を惹き、意欲を喚起するか、また、まじめに取り組んだ生徒と横着をした生徒をどう見抜くか、教師自身の努力と工夫を大きく要求しますが、その前提において、望ましい試験方法であると考えます。

 乱文失礼いたしました。読んでくださった方に感謝いたします。


No. 6275
Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点
冒険風ライダー 2005/02/26 22:50
 少し遅くなりましたが、レスです。


<歴史の勉強に対して意欲を持てず、単位さえ取得できればいいという生徒の場合、通常の試験形態であったならば、どのような勉強をするでしょうか?やはり生真面目にノートをとる友人に頼み込んでノートを借り、コピーをとり、授業で強調されたであろう下線部分や色つき部分を重点的に暗記して(おそらく前日の夜の数時間だけで)試験に臨み、赤点さえ免れればいい、という勉強になるでしょう。これはそれこそ不毛な暗記ですよね。
 これに対して、自筆ノートを作る場合、誰かさんのノートコピーし、それを読み、重要と思われる部分を選び取り、書き写す、そして時間が許せば出題に対してどのように解答欄を埋めるか、彼なりに一生懸命考え、まとめ、(丸写しだとばれないように化粧を施して)当日に望み、用意した解答を読み、書き写す、、、実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです。>

 すいませんが、「これはそれこそ不毛な暗記ですよね」と「実に多くのステップを要しています」との間にいかなる格差が存在しているのか、私にはさっぱり理解できないのですけど。
 まず、「生真面目にノートをとる友人に頼み込んでノートを借り、コピーをとり……」というステップまでは両者共に同じなんですよね? で、そこから「授業で強調されたであろう下線部分や色つき部分を重点的に暗記して(おそらく前日の夜の数時間だけで)」と「それを読み、重要と思われる部分を選び取り、書き写す」に分かれるわけですが、そもそも「ノートを書き写す」こと自体、「おそらく前日の夜の数時間だけで」簡単にできる程度のことなのではないのですか? そして一方、一夜漬けの丸暗記でも「そして時間が許せば出題に対してどのように解答欄を埋めるか、彼なりに一生懸命考え、まとめ、当日に望み、用意した解答を読み、書き写す」という行為をやる人はやるのではありませんか? これでは、どちらも「思考し、書き取ることが必要とされる」ことに変わりはない、ということになりますよね。
 第一、このような論法を使えば、カンニングという行為だって「実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです」ということになってしまうのではありませんか? すくなくともカンニングで点数を稼ごうとする人は、「単位さえ取得できればいいという生徒」よりは、盗み見るであろう解答集を作成する手間を惜しまないでしょうし、カンニング行為がばれないような知恵を必死になって「思考」することでしょうからね(竜堂始の「あの」教育理論ではこの対策さえも無用なわけですが)。
 そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。それこそ「古代ギリシアの都市国家について述べよ」というような「広範な知識・情報を求めるもの」であっても、たった一行か二行、下手すれば10〜15文字程度で終わらせてしまうような解答集を作って配布すれば、多くの生徒はそれをただひたすら「何も考えず機械的に」丸写しさえすれば良く、あなたの言う「実に多くのステップを要して……」という過程すらすっ飛ばすことができてしまいます。これでは「一夜漬けの丸暗記」などよりもはるかに、生徒の学習意欲を殺がれてしまうことにもなりかねないでしょうね。
 竜堂始の理想主義的な教育理論など、不正行為の抜け穴だらけにして無効化させてしまう方法はいくらでもあります。他ならぬ自分自身の成績に関わることなのに、それに全く気づかないほど中高生は愚鈍ではないと思いますけどね〜。


<科目間バランスを崩すとの指摘ですが、これはあまり意味がないでしょう。センター試験において、竜堂方式を世界史だけ適用・・・というようなことになれば、確かに不公平でしょうが、共和学院の世界史と日本史の間で平均点の格差があっても、単純な得点加算で足を切るセンター試験ではないのですから、評定は教科内における相対的位置でしょうから、日本史は日本史、世界史は世界史でしょう。日本史で評定8を取ることと、世界史で評定8を取ること、その為に必要なクラスにおける順位などがおよそ同じになるようにすればいい・・・これはまた教師の工夫や力量になると思いますが。>

 あの〜、センター試験もそうですけど、基本的に「選択科目」というのは「社会科(日本史・世界史・地理など)」や「理科(物理・科学・生物など)」といったように「選択科目全てひとくくりで」他の必須科目と並べられ、総合評価が出されるものではないのですか? センター試験だけでなく、全国模試でも、学校内・学年内・クラス内の総合成績でも、そうやって生徒の順位は決定されていくのですから、必然的に「選択科目間の平均格差」は生徒にとっての死活問題とならざるをえないわけで、「評定は教科内における相対的位置」などというシロモノはせいぜい「選択科目内での赤点判定」くらいにしか役には立ちませんよ。
 第一、あなた自身も「日本史で評定8を取ることと、世界史で評定8を取ること、その為に必要なクラスにおける順位などがおよそ同じになるようにすればいい」などという論法でもって、「選択科目間で格差があってはマズイ」ということを暗に認めているではありませんか。「科目間バランスを崩す」ことが「あまり意味がないでしょう」というのであれば、そもそもそんなことをする必要などあるはずがないのでは?


<自分で努力してノートを作った生徒と、それを写して平素の努力を省略した生徒を同列に置くことになることを、カンニングとして嫌悪されてるのだと思います。が、これはこれで、試験後などにノートを回収してチェックするなどすれば、かなり掴めるのではないでしょうか?教師がまめに図書館などに足を運ぶことも、実態把握に役立つでしょう。>

 それで仮にノート丸写しの実態が明るみに出たとして、では教師側は一体どういう理由でもって生徒に処罰を与えるのですか? 「自筆ノート持ち込み可」を認証しているのは他ならぬ教師側ですから「カンニング行為だからダメ」という論法は当然使えませんし、記述式だから同一の解答が複数個出たらダメ、ではあまりにも横暴というものです。
 第一、あなたの言によれば、「自筆ノート持ち込み可」は「実に多くのステップを要」し、「思考し、書き取ることが必要とされる」「調べ、考え、まとめ、論述する力を養う上で、とても有効な試験方法」であるはずなのでしょう? その丸写しした生徒達は、当然その「とても有効な試験方法」に基づき、自分達自身の手でノートを作成していることにもなるわけですが、その「努力」は評価しなくて良いのですかね?


<竜堂始のやり方に苦情を申し立てた「優等生」、他大学を受験する成績優秀な・・・ろくに年号を覚えさせない・・・というところから、始の授業内容が受験対策に向かないということへの苦情であることを容易に想像させます。不正行為の横行を告げ口したのであれば、高等科長はそれこそ鬼の首を取ったように高圧的に解任したでしょう。しかしそれは同時に、始が平素の授業において、生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫し、丸暗記や受験対策から外れて、「脱線」が多いことを思わせます。>

 「生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫」さえすれば「授業内容が受験対策に向かないということへの苦情」を無視し、かつ「不正行為の横行」を許しても良い、ということにはもちろんなりませんよね。それが答えなのではありませんか?


No. 6279
Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点
黒崎 2005/02/28 04:52
冒険風ライダーさん、レスいただいてありがとうございます。


>いかなる格差が存在しているのか、私にはさっぱり理解できないのですけど。

歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるものですよね?この点は「歴史授業とは関係のない人物の話や、歴史上におけるエピソードを挿入してみる」ことが、教え方の工夫として望ましいと仰っておられたので、共通認識になるかと思うのですが、その点を踏まえれば、同じ一夜漬けにしても、触れる内容がただの暗記であるのと、多少でも教科書に書かれているような事実だけでなく、それに肉付けし幅を持たせた内容を、考えさせたり書かせたりするのとでは、違いがでると、私は考えます。

 以下は余談ですが、冒険風ライダーさんは人のノートを丸写ししたことがおありでしょうか?不正行為を相当に憎まれているご様子ですから、おそらくないのでは?と推察しておりますが、機械のように一心不乱に写すだけならば、数時間かもしれませんが、いくら試験前とはいっても、通常はそうはいきません、おそらく読みにくい他人の字、興味のない分野ですからなおさらです。退屈で苦痛ですから、集中するのは簡単ではないでしょう。思うより手間隙を食う作業ですよ。病気などで休んだ授業の分を写させてもらうだけでも、結構な手間ですから。また、ばれないような工夫というのは、それこそ無駄な方向の努力ですから、省いてしまって問題はない。
 そもそも、個人的には試験で高い点を取ることなど、本質的にはたいして意味がないことだと思います。
 設定されたテーマについて考えたり、調べたり、意見を発表したり、人物やエピソードについて興味を持ったり、「おもしろいな」と感じたりすることにこそ意味があるので、そういう経験こそが後の財産になるわけです。
 ですから、「もし」不正行為に無頓着な教師で、学級にカンニングが横行したとしても、その教師が平素いい授業をしていれば、それまで歴史に興味を持っていなかった生徒にも、歴史の面白さを伝えられる可能性をもっていると言えます。それは受験技術を生徒に叩き込むエキスパートで、カンニングを見抜く天才的なセンスを持ち、絶対に不正を許さない教師より、遥に価値と可能性をもっているといえます。
 そもそも、不正行為が横行すると学習意欲を削ぐと仰いますが、歴史の勉強、ひいては歴史の試験をクリアするための勉強がつまらないからこそ、多くの生徒が歴史を嫌いになるのです。面白いと思わせることさえできれば、きっかけさえ巧く提供できれば、試験などなくても、いろんな本を読み、調べ、出かけていくようになるものでしょう?試験で高い得点を取ったから歴史を得意である・・・という人はいるでしょうが、高い得点を取れたから歴史が好きで面白いと思う・・・というのは違います。極論を申しますが、試験勉強の意欲など削がれてもかまわないのです。
 その分野に対して興味を持ち、面白いと感じ、調べたり考えたりしたことは、直接的でなくてもその人の中に根付き、財産になりますが、試験のためのテクニックは試験が終わればクリアされてしまうだけのものでしかありません。
 先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。


>  第一、このような論法を使えば、カンニングという行為だって「実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです」ということになってしまうのではありませんか? すくなくともカンニングで点数を稼ごうとする人は、「単位さえ取得できればいいという生徒」よりは、盗み見るであろう解答集を作成する手間を惜しまないでしょうし、カンニング行為がばれないような知恵を必死になって「思考」することでしょうからね。

 その通りです、私はカンニングをした生徒と、そうでない生徒では評価の仕方を変えるべきだと思っていますが、カンニングしようとすることは、相応の努力を要し、ある程度の学習効果があると考えます。


>  そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。それこそ「古代ギリシアの都市国家について述べよ」というような「広範な知識・情報を求めるもの」であっても、たった一行か二行、下手すれば10〜15文字程度で終わらせてしまうような解答集を作って配布すれば、多くの生徒はそれをただひたすら「何も考えず機械的に」丸写しさえすれば良く、あなたの言う「実に多くのステップを要して……」という過程すらすっ飛ばすことができてしまいます。これでは「一夜漬けの丸暗記」などよりもはるかに、生徒の学習意欲を殺がれてしまうことにもなりかねないでしょうね。

 確かにそういう手段でクリアしようとする生徒も現れるでしょう、しかし、10〜15文字(?)最低限で終わらせられたものと、解答欄一杯に多くの言葉と努力、情熱を費やされたものとでは、明らかに得点(評価)に差をつけることができます。マルかバツかではない、論述問題なのですから。 最低限の内容しか書かれていなければ、最低限の評価しかしない、努力が得点に反映されるということは、興味を持ち頑張った生徒をがっかりさせることにはならないでしょう。
 確かに始のやり方は理想主義的であり、高校生は知恵が回ります。が、多感で、きっかけひとつで考え方が変わったり、成長したり、関心を持ってくれたりする時期でもあります。受験をクリアするための技術訓練より、受験には求められないさまざまな「余分な」知識や経験が、より重要であると思います。
 選択科目の評価は「社会科」でなく、科目名が空欄で、そこに選択した分野が書かれる(社会科であれば世界史・日本史・地理・政経)、だと思います。少なくとも私の通った都立高校はそうでした。
 ここで全国模試を引き合いに出す意味がわかりません。ここでの歴史教育の目的は全国模試の順位を争うことではないですよね。学内での順位を争うことでもない。そして、推薦を狙うというのでなければ、落第でもしないかぎり学内考査の得点や学期末ごとの評価は殆ど問題になりません。
 また、私が「およそ同じになるようにすればいい」と申し上げたのは、バランスを重視するのであれば、やりようはある、という主旨であって、別の教師がそれぞれの科目について評価をくだす以上、まったくの公平はありえません、また、点数の稼ぎ易さについても、人によっては日本史(従来の試験方法)の方がやりやすいでしょう。私自身は、それぞれの教師が個々の判断基準で評価を決定すればいいと思っております。
 もちろん、合計得点で切り捨てられるセンター試験などでは、極力科目間の格差がなくなるようにバランスに気を使う必要があります。しかしここで取り上げているのは学内の定期考査ですから、まったく重要な問題ではないと考えます。


>  それで仮にノート丸写しの実態が明るみに出たとして、では教師側は一体どういう理由でもって生徒に処罰を与えるのですか? 「自筆ノート持ち込み可」を認証しているのは他ならぬ教師側ですから「カンニング行為だからダメ」という論法は当然使えませんし、記述式だから同一の解答が複数個出たらダメ、ではあまりにも横暴というものです。

 丸写しだからといって、処罰を与えようなどとは申しておりません。純粋に自力の生徒と差をつければよいと申し上げてます。
 丸写しの生徒には、単位をとるための最低限の努力は認め、及第点を与える。意欲・興味を持ち、努力したことがうかがえる生徒には、そのことを高く評価する。それぞれの「努力」に対してふさわしい評価をする、端的にはそういうことです。


>「生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫」さえすれば「授業内容が受験対策に向かないということへの苦情」を無視し、かつ「不正行為の横行」を許しても良い、ということにはもちろんなりませんよね。それが答えなのではありませんか?

 教え方をこそ工夫すべきである、と仰っておられたので、「優等生からの不満」というだけで始の努力を無視してらっしゃるのかと思い、このように申し上げました。また、受験対策に向かないという授業内容ですが、歴史の面白さを教えたいと思い、それを重視して構成すれば、それは絶対に犠牲になるものです。論述に慣れることで2次試験ではプラスになるかもしれませんけども。また、本来、高校というのは大学受験のための訓練機関ではありませんし、「センター試験世界史」という題目ではありません、従って、授業内容は担当する教師が決定してよいと考えます。受験対策に向かないという非難の方が筋違いです。受験のために特化した指導は、その専門職である予備校や塾に任せておけばよろしいと考えます。
 他大学を受験しようとしている優秀な生徒さん、おそらく世間的に一流と評価されている学校を目指されているのでしょう、そのような生徒が、学校の授業をあてにしているとは、現実的に考えにくく、文句のための文句という印象を禁じえないのですけどね。

 従来一般的な教育ならびに受験技術訓練と、理想主義的教育と、どちら寄りに教師が立っても、手を抜こうとする生徒は精一杯手を抜きますし、要領よく(ずるく)切り抜ける生徒は現れるでしょう。仰っておられたように、高校生は愚鈍ではありませんから。「歴史の面白さ」を伝えたいという立場に立てば、どちらがベターであるか、私は後者だと考えています。
「他人のノートを写し、それによって解答を構築する」ことが不正行為であると断罪なさるのであれば、それはどちらの教育・試験方法であっても、発生すること自体は変わりません。単語と数字を一時的に頭につめこんで、忘れないうちに試験に臨むのと、ノートを持ち込んで論述を書き写すことの差でしかありません。 その二つを比較した場合、どちらが「よりまし」であるか、これもやはり後者だと考えます。数字や単語を一時的に覚えることよりも、要点をまとめられた文章を書き写すことの方が、勉強になると思うからです。試験でなくレポートにしたところで、人のを写す生徒は写すでしょうし、文献を丸写しするだけの生徒だっているでしょう。どのような方法で評価を試みても、ずるいことをする生徒はあらわれるものです。
 重要なことは、そうして「ずるく」立ち回った生徒と、意欲・興味を持って取り組んだ生徒とを見分け、「可」と「優」の差をつけることで、私は、これは教師の力量と努力によって可能である、と考えます。
 他人のノートを丸写しし、それを元に解答を作成しても、オリジナルの作者の解答に似ることはあっても、及ぶことは稀、越えることはまずないでしょう。なぜなら、オリジナルの作者には、ノートに文章化されていない「余分な」知識が、教師の話を聞いたり、討論を取り入れた授業であれば実際に聞いた他の生徒の発言、または文献をあたる過程から身についていくからです。
 カンニングを根絶することよりも、教師自身が面白いと思っていること、受験に求められないような行間の群像、さまざまな人間の願い、思い、エピソードを授業に取り入れることの方が、遥かに重要なのです。
 よって、始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持します。


No. 6283
Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点
蜃気楼 2005/02/28 23:51
黒崎さん始めまして気になった点を3つ。


> 先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。

 この調査は、かなりシビアです。
 正確に国の位置を示さないと不正解扱いですから。
 韓国と北朝鮮の区別が付かないのは、問題だと思いますが(さすがにそんなアホは1割程度)、
 イランとイラクの区別が(地理的に)つかなくても問題ないと個人的には考えます。
 一般人は中東とだけ分かっていれば充分。


> 調査にあたった日本地理学会の地理教育専門委員会委員長の滝沢由美子・帝京大教授(地理学)は「ほとんどの主要国で地理は必修だ。正しい世界認識を育み、国際感覚を身につけるためには最低限の地理的素養が必要で、高校での地理学習を拡充してほしい」と話している。

 何のために行われた調査だったかはこれだけで明白でしょう。
 地理を必修にするためです。学生が必要な知識を持っているかどうかを調査するためではありません。
 (この先生方にとってはケニアの正確な位置も「必要な知識」なんでしょうけど。)

 それはさておき、世間の地理教師が「竜堂式教育法」を導入したら正解率は上がるんでしょうか?
 私は下がると思います。
 何故なら、「国名とその位置」なんて「英単語」や「年表」と同じ「暗記系」ですから、「竜堂式教育法」がもっとも苦手とする部分です。


>  丸写しだからといって、処罰を与えようなどとは申しておりません。純粋に自力の生徒と差をつければよいと申し上げてます。
>  丸写しの生徒には、単位をとるための最低限の努力は認め、及第点を与える。意欲・興味を持ち、努力したことがうかがえる生徒には、そのことを高く評価する。それぞれの「努力」に対してふさわしい評価をする、端的にはそういうことです。

 試験とは「努力」の程度を測る制度ではありません。
 あくまでも「学力」を測る制度です。
 努力に努力を重ねて書いた原稿用紙数十枚に及ぶ答案が適当にでっち上げた1行に及ばないこともあります。
 それでいいのです。
 「努力点」を与えてもかまいませんがあくまでもそれはお情け程度にとどめるべきです。
 さらに言えば試験とは「答案がすべて」であるべきです。
 オリジナルもコピーも同じ点数が与えられるべきです。


> 他大学を受験しようとしている優秀な生徒さん、おそらく世間的に一流と評価されている学校を目指されているのでしょう、そのような生徒が、学校の授業をあてにしているとは、現実的に考えにくく、文句のための文句という印象を禁じえないのですけどね。

 えーと、進学校出身なんでよく分かりませんが、(学校の授業がすべてでした。)学校の授業を当てにしてないといっても、復習の役にくらいは立ってくれないと困ると思いますが?
 さらに、始の場合試験でまともな点数を取ろうとすれば、受験の役に立たない労力を大量に使わされるのは目に見えています。
 こんな、有害無益教師に文句を言うのは当然だと思います。


No. 6284
「竜堂始の教育法」の問題点
パンツァー 2005/03/01 00:55
> 歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるものですよね?この点は「歴史授業とは関係のない人物の話や、歴史上におけるエピソードを挿入してみる」ことが、教え方の工夫として望ましいと仰っておられたので、共通認識になるかと思うのですが、その点を踏まえれば、同じ一夜漬けにしても、触れる内容がただの暗記であるのと、多少でも教科書に書かれているような事実だけでなく、それに肉付けし幅を持たせた内容を、考えさせたり書かせたりするのとでは、違いがでると、私は考えます。

「歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるもの」
これは、ある前提条件の下では、正しいでしょうね。
どのような前提条件かと言えば、
「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
という前提条件です。

なんでもそうなのですが、面白い、という段階に達するまでには、
それに必要な知識と言うものを習得しておく必要があるのです。
野球を楽しむにしたところで、そのルールを知っているという前提条件があって初めて可能なのであって、
ヒットやホームランを打てばダイヤモンド上を走ってよく、ホームベースに到達すれば1点が入る、といった基礎知識すらなければ、まったく意味不明のイベントに過ぎません。
歴史の勉強であれば、ある程度、個々の出来事を機械的にでも学んだ後(記憶した後)でなければ、個々の出来事を有機的な関連などの面白み、を味わうことなどできないでしょう。

テストが、人のノートの丸写しで対応できるのであれば、生徒たちは、そもそも基礎知識の習得に励むこともなく、その基礎知識を前提とする「歴史の面白み」を味わう段階に、まずもって到達しそうにありませんね。

> >  そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。> >  そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。

欧米の大学等では、試験時に、教材一式の持ち込みが可、とされることが多いらしいですが、これは、あくまで、基礎知識の記憶の確かさを問うことが目的なのではなく、基礎知識を前提とした思考力、想像力を問うことが目的とされるからです。

単純に比較すれば、
竜堂始の教育法:「自筆ノート持ち込み可」+「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」ですが、
欧米の大学等の教育法:「自筆ノート持ち込み可」
といったところです。
ここで、「竜堂始の教育法」のように、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」をセットにすると、どういうことになるでしょうか。
これでは、丸写し用ノートを作成する最初の一人に関しては、思考力、想像力を必要とする努力をすることになるでしょうが、丸写し用ノートを丸写しする他の生徒たちは、なんら、思考力、想像力を必要とする作業を行いません。
これが、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」はなく、「自筆ノート持ち込み可」のみ程度であれば、どのようなノートを生徒が持ち込むにせよ、試験場で、与えられた問題に対して、生徒たちは頭を捻らざるを得ず、教育の目的が達成されることになるでしょう。もちろん、このような試験を受けるにふさわしい生徒たちは、基礎知識の習得が、ある程度は終了していることが前提です。

>  先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。

理数科目に関しても、ひどい結果でしたね。
これは、ひとえに、それまでの「詰め込み教育」に対する対抗案としての、ここ10年くらい前より行われてきた「ゆとり教育」の失敗に過ぎないでしょう。
結局、「ゆとり教育」という名の下で、以前よりも基礎知識の習得をおろそかとされた生徒たちは、より一層、学力を低下させることになったのです。
上にも述べたように、ゲームのルールにしたところで、最低限覚えないといけないことがあるように、勉強の類の場合は特に、ある程度の知識は、詰め込みであろうがなんであろうが、覚えこんでしまわないと、面白いなどという段階に到達できないことが、往々にしてあるのです。
逆にアメリカなどは、パパブッシュ、クリントン大統領の時代に、ハイスクール以下において、「詰め込み教育」を導入する方針を打ち立てましたが、現在のところ、その成果が上がってきている、という現実があります。

>  確かに始のやり方は理想主義的であり、高校生は知恵が回ります。が、多感で、きっかけひとつで考え方が変わったり、成長したり、関心を持ってくれたりする時期でもあります。受験をクリアするための技術訓練より、受験には求められないさまざまな「余分な」知識や経験が、より重要であると思います。

これなんですけど、これだけ生涯教育が叫ばれ、試験、資格の類が、世の中に溢れる時代となった今、「受験をクリアするための技術訓練」、これはかなり重要です。
いかに要領よく本質を押さえるか、これは、学校教育の段階でぜひ、習得しておくべき能力であるに違いありません。
「勉強の仕方」、これを教えてもらえたら、将来、何を勉強するにせよ、大いに役に立つことでしょう。

>  ここで全国模試を引き合いに出す意味がわかりません。ここでの歴史教育の目的は全国模試の順位を争うことではないですよね。学内での順位を争うことでもない。そして、推薦を狙うというのでなければ、落第でもしないかぎり学内考査の得点や学期末ごとの評価は殆ど問題になりません。

センター試験のような全国模試だけでなく、学内の試験であっても、総合順位を出すには、各学科の点数を合計して総得点を算出し、その総得点の大小で決定するものではないでしょうか。
そうすれば、総得点を出す上で、各教科の格差が大きくなるほど、総得点に基づく総合順位が怪しくなってくることになるでしょう。総合順位が高いにもかかわらず学力は低いなど言った状況を、生徒が誤解する恐れもあります。さらには、教科選択において、「歴史」が順位上有利、となれば、生徒がその有利点のみを参考にして「歴史」を選択するなど、より生徒の興味や適性に基づく教科選択から外れる結果を招く恐れもあるでしょう。

>  カンニングを根絶することよりも、教師自身が面白いと思っていること、受験に求められないような行間の群像、さまざまな人間の願い、思い、エピソードを授業に取り入れることの方が、遥かに重要なのです。
>  よって、始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持します。

授業を面白くするのは、教師の力の見せ所でしょう。
授業自体に関しては、必ずしも、基礎知識の暗記の場、である必要などありません。
しかし、問題になっているのは、
竜堂始の教育法:「自筆ノート持ち込み可」+「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」
では、なかったでしょうか?

上にも述べたように、
「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」と言うこと自体、
ごく一部の生徒(ノートを作成する生徒)を除いて、生徒の思考力や想像力を全然殺す作用を及ぼすために、望ましくないことです。
また、「自筆ノート持ち込み可」は、
高校以下のような基礎知識の習得段階においては、その習得を妨げる作用の方が大きく、一般的に望ましくないことでしょう。黙っていても、基礎知識を勝手に習得してくれるような優秀な生徒たちの集団において、なら別でしょうが。
したがって、
「始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持」
することは難しいですね。


No. 6285
Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点
黒崎 2005/03/01 01:51
 はじめまして^^
 地理学会の方であれば、近年学校教育において地理や歴史は冷遇されてきました(時間削減など)から、そのように(地理の時間増や必修化)主張されるのは理解できます。私の頃はまだ地理も必修だったのです^^;
 それはともかく、私としては、従来の教育方法は歴史や地理への興味を削ぎ、よって知識も身についていない、社会情勢、社会現象としてあれほど騒がれても、その国や地域がどこにあるのかわからない・・・という主旨で申し上げたのですが、確かに始のような指導をし、それがうまくいったとしても、正答率があがるというものではないかもしれませんね。
 しかし、下がるという推論も確かではないと思います。その理由は、関心を持たせることに成功すれば、自分で調べたり、知ろうとしたりします。そうして知ったことは、試験のための暗記で覚えこんだことよりも、身につき、残るからです。
 アフリカの人々の暮らしや文化に興味をもって学んだ人にとっては、ケニアの地勢や主要な都市名、民族、言語、そういったことは「暗記」ではなくなっているでしょう。


>  試験とは「努力」の程度を測る制度ではありません。
>  あくまでも「学力」を測る制度です。
>  努力に努力を重ねて書いた原稿用紙数十枚に及ぶ答案が適当にでっち上げた1行に及ばないこともあります。
>  それでいいのです。
>  「努力点」を与えてもかまいませんがあくまでもそれはお情け程度にとどめるべきです。
>  さらに言えば試験とは「答案がすべて」であるべきです。
>  オリジナルもコピーも同じ点数が与えられるべきです。

 入学選抜試験や資格認定試験ということであれば、私も、答案が全て、ということでよろしいかと思います。
 しかしながら、学内の定期考査ということですので、私は努力点に高い評価を与える方針を是とします。
 模試のように順位付けを目的としたものではなく、その学期、期間で、その生徒がどの程度学んだか、どんなことを身に付けたか、といった確認が主目的です。
 また、先にも述べましたが、基準に達しないものを振り落とすために行う試験ではないのです。救うための試験なのです。
 試験をクリアすることで単位として認定される、そのことを動機づけとして、学んだことを再確認したり、あぴーるしたりする機会です。
 そして、指導方針が「歴史の面白さを伝える・一人でも多くの生徒に意欲・興味を持ってもらう」ということですから、適当にでっち上げた一行が、一生懸命さがひしひしと伝わってくる原稿用紙数十枚の答案に優ることはありません。

 では文句を言ったのは蜃気楼さんのような方だったかもしれませんね。
 高等学校の役割を、大学へ進学するための準備・訓練としか捉えないのであれば、「有害無益」ということになるのでしょう。
 そのことを前面に打ち出した「進学校」、そして「そのために」その学校を選んだ人にとっては、無駄な労力でしかないのかもしれません。
 しかしながら、本来、高等学校は大学進学のための予備校ではありません。大学へ進めば選んだ専門以外はなかなか学べません、教養科目も一応はありますが、講師は多くが「研究者」としては優秀でも、「教育」の訓練を受けていない人が殆どです(大学の講師になるのに教員免許はいりません)し、内容はその講師の専門に偏ります、総合的に学ぶことの出来る最後の場と言うことができると思います。
 また、作中の共和学院の理念?からしても、受験技術を訓練するだけの授業の方こそ、否定されるものです。
 受験の役に立たない→有害無益、としか思われないことは、とても残念なことだと思います。

 それでも、そうした目的しか持てない生徒にも、始のやり方ならば逃げ道があるわけです。歴史が好きな、或は生真面目な人に渡りをつけ、ノートを確保し、最低限の解答を構築しておけば、単位は出ます。通常の試験より「楽に」「余分な科目」をクリアできるわけです。
 もちろんそれを推奨したりはできませんし、教師としてはとても残念なことですが。
 試験とは答案が全てだ、とし、努力ではなく結果だ、ということならば、教師の印象や主観に左右される推薦枠などあてにしないでしょうから、予備校にいくなり、夏期・冬期講習を受けるなり、予備校の人気講師が出している参考書を学ぶなり、いくらでも受験に特化した訓練は出来るでしょう。
 また、一クラス50人いれば、それぞれの志望があるわけで、その皆に効果的な受験勉強を、少ない時間で行おう(選択世界史に与えられる時間などたかがしれていますから)というのは土台無理な話です。
 これが予備校のように「センター試験世界史」「関関同立コース」「国公立A・B」などのように、志望別、学力別に編成したクラスであれば、また事情は異なるわけですけれど。
 受験の役立たないから無駄だ、というのは現代の教育の失敗、悪い側面だと私は思っておりますので、文句をいうのが当然だ、学内の試験でも答案が全てであるべきだ、という意見には同意できません。


No. 6287
Re6279:不正行為の横行を許す教育の弊害
冒険風ライダー 2005/03/01 03:20
<そもそも、個人的には試験で高い点を取ることなど、本質的にはたいして意味がないことだと思います。
 設定されたテーマについて考えたり、調べたり、意見を発表したり、人物やエピソードについて興味を持ったり、「おもしろいな」と感じたりすることにこそ意味があるので、そういう経験こそが後の財産になるわけです。
 ですから、「もし」不正行為に無頓着な教師で、学級にカンニングが横行したとしても、その教師が平素いい授業をしていれば、それまで歴史に興味を持っていなかった生徒にも、歴史の面白さを伝えられる可能性をもっていると言えます。それは受験技術を生徒に叩き込むエキスパートで、カンニングを見抜く天才的なセンスを持ち、絶対に不正を許さない教師より、遥に価値と可能性をもっているといえます。>

 「学級にカンニングが横行」するのを許すような「不正行為に無頓着な教師」という時点で、「その教師が平素いい授業を」行うなど到底不可能であるとしか言いようがありませんね。学校内外からの社会的評価が下がるというだけでなく、そんなバカ教師に対して一体誰が真面目に教えを乞うというのです? 不正行為の腕のみ極めて安楽と堕落を貪る生徒と、教師を軽蔑と侮蔑の目で冷淡に無視する生徒の二分極化によって、それこそ学級崩壊に陥る危険性すら、ないとは言い切れないでしょう。
 「最低の歌手が最低の人間であることはないが、最低の教師は最低の人間だ」というのは創竜伝の作中で謳われていることですが、この言に従うのであれば、「不正行為に無頓着な教師」というのは「最低の人間」もいいところなのではないですかね?


<その通りです、私はカンニングをした生徒と、そうでない生徒では評価の仕方を変えるべきだと思っていますが、カンニングしようとすることは、相応の努力を要し、ある程度の学習効果があると考えます。>

 あなたの考えだと、たとえばスポーツでも「そこそこの成績で良い」と適当に妥協するやり方より「ドーピング行為に手を染めてでも一位を取りたい」という考え方の方が「相応の努力を要し、ある程度の学習効果がある」からスバラシイのでしょうね。もちろん、スポーツ界で実際にそんなことをする人間が社会からどのような評価を受けるかについては今更言うまでもないでしょうが。
 そもそも、あなたはカンニングという行為が何故「不正行為」呼ばわりされるのかということが全くと言って良いほど分かっていないのではないですか? 上で挙げたスポーツにおけるドーピングもそうですが、試験の際にカンニングが何故いけないかというと、それが本当に真面目に勉強している他の生徒との間で著しい不公正を招くからです。真面目な人間がバカを見るような不公正を招く「不正行為の横行」を許す教師は、その存在自体が学校にとっても保護者にとっても、そして何より生徒にとっても極めて有害なシロモノでしかありません。
 にもかかわらず、「カンニングしようとすることは、相応の努力を要し、ある程度の学習効果があると考えます」などという主張を本気かつ大真面目に行う人がいたのには驚きましたよ。非常に失礼ですけど、そんな主張はギャグと笑いの世界にしか存在しないと今まで思っていましたのでね、私は。


<ここで全国模試を引き合いに出す意味がわかりません。ここでの歴史教育の目的は全国模試の順位を争うことではないですよね。学内での順位を争うことでもない。そして、推薦を狙うというのでなければ、落第でもしないかぎり学内考査の得点や学期末ごとの評価は殆ど問題になりません。>

 何で問題にならないのです? そして何故「歴史教育の目的」から「全国模試の順位を争うこと」「学内での順位を争うこと」が勝手に捨てられてしまうのですか?
 学校の授業というのは、私立や有名進学校であればあるほど、センター試験や全国模試を意識したものにならざるをえません。そこで好成績を獲得すれば、学校としての株も上がりますし、より優秀な生徒を集めやすくなるわけですから、これは当然のことです。そして、学校が全国で争うその手の試験を勝ち抜こうとするのならば、「学校内の試験」をレベルの高いものに設定し、生徒の頭と知識を常日頃から鍛えておく必要があるのは自明の理というものでしょう。学内考査というのはいわば、全国模試やセンター試験に備えるための「事前演習」とでもいうべきものなのであり、決しておろそかにして良いものではないのです。
 確かに竜堂始の教育法は「歴史に興味を持つ生徒を増やす」ことに重点が置かれていることでしょう。しかしそれは所詮「指向しうる目的のひとつ」でしかなく、他の目的を無視してでも通さなくてはならないものではありませんし、ましてや「不正行為の横行」という副作用を受け容れてまで推進すべきものでもないのです。


<丸写しだからといって、処罰を与えようなどとは申しておりません。純粋に自力の生徒と差をつければよいと申し上げてます。
 丸写しの生徒には、単位をとるための最低限の努力は認め、及第点を与える。意欲・興味を持ち、努力したことがうかがえる生徒には、そのことを高く評価する。それぞれの「努力」に対してふさわしい評価をする、端的にはそういうことです。>

 究極的なまでに恐ろしい教育理論ですね。これって要は「教師の主観に基づいて生徒を点数で評価する」ということではありませんか。これでは、教師が生徒の価値観をも支配しかねない構造的な独裁体制を許すことにもなりかねませんよ。
 何しろ、この教育手法の拠りどころは「教師の主観」だけしかないのですからね。事実がどうであろうが、教師側がこうと決めてしまえば、黒が白になってしまう可能性がありますし、その逆もありえます。たとえば、本当は生真面目かつ自力で模範解答を出したはずの生徒が、教師の主観によって「丸写し」と誤って評価されたり、教師の個人的な好悪の感情によって生徒のえこひいきが行われたりする危険性が存在するわけです。
 竜堂始の例で考えれば、たとえば「南京大虐殺と従軍慰安婦の問題について述べよ」という問題に対して「そんなものは第二次世界大戦における戦勝国のプロパガンダと、マゾヒズムに駆られた反日的日本人がでっち上げた虚構の産物である」などという「解答」を「生徒が自力で調べて」出した場合、本来ならばその「努力したことがうかがえる生徒」を「高く評価」しなければならないところを、主張内容が自らの思想と相容れないという理由で0点をつけた挙句、放課後にその生徒を呼びつけて支離滅裂なお説教を垂れて悦に入る、といったことが行われるわけですね(笑)。実際、これと似たようなエピソードは、論述式の試験を受験者や生徒に課している大学でしばしば発生し、大きな問題になっています。
 こんな教育手法のどこが理想的なのですか?


<他大学を受験しようとしている優秀な生徒さん、おそらく世間的に一流と評価されている学校を目指されているのでしょう、そのような生徒が、学校の授業をあてにしているとは、現実的に考えにくく、文句のための文句という印象を禁じえないのですけどね。>

 ひとつの可能性という条件付で彼の心境を述べてあげましょうか? 彼は、真面目に勉強することで好成績を維持しているはずの自分に、カンニングやりたい放題などという不正行為でもって対等に並んでいる劣等生の存在自体と、それを許している教師の姿勢に反発しているのですよ。不正行為によって自らの優越性が保てなくなる不公正と不条理に対する怒り、これは充分に正当なものであると言えるのではないですか?
 まあ上記の文はひとつの仮定でしかないにしても、蜃気楼さんも仰るように、卒業後どこに行くにせよ、学校の授業が全く何の役にも立たないというのは、教師としてだけでなく、学校としても大いに問題があるのではありませんか?


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