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初代管理人の本論2
田中芳樹は中国を本当に知っているか?


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初代管理人の本論2
田中芳樹は中国を本当に知っているか?


 なにやら、知らぬ間に田中芳樹が中国文学の代表者の一人のような事になっている。
 たびだび中国モノの小説を書いたり、隋唐演義の翻訳(?)を行っているからだろうか。最近おたく系の間で妙に中国系の物語が流行しているのも、その源流は田中芳樹であるようだ。
 しかし、田中芳樹は本当に中国を知っているのだろうか? 確かに、中国モノの小説を書いてはいる。創竜伝などにも、たびたびそのような知識が出てきたりしている。しかし、それをもって本当に中国を知っているといえるのか。
 田中芳樹の作品に、「地球儀の秘密」というシリーズがある。社会評論の気持ち悪さでは、創竜伝にもひけを取らない作品だ。この『地球儀の秘密』なる話、かなり圧縮して要約すると、元遇刊誌記者の白川周一郎は骨董屋で買った地球儀を巡って起こる様々な事件・現象に、姪の多夢と共に巻き込まれていく、というものだ。
 田中芳樹が書く現代物に多く見られる、「作者が色濃く投影された主人公(当然、美化されている)と、それに付き随う副主人公である中学生前後の少女」のパ夕ーンである。
 どうしてかなぁ? なぜかなぁ? 作者が投影される主人公だと一緒にいるのがいつも中学生の少女なのは? 実に不思議だ。
 しかし、まあ、今回話題にしたいのはこんなことではない。こんな謎の答えは誰にでも分かることだから。
 この物語の主人公、白川周一郎は、いわゆる読書型の知識人である。これは、田中芳樹が現代物で一貫してとっているス夕ンスだ。「高次元の正論家」(「地球儀の秘密」本文より引用)なのも一貫している。
 田中芳樹が中国古典(特に老荘思想)を溺愛しているのは周知の事実であるが、例にもれなく、この白川周一郎も事あるごとに中国格言を引用する。


「やれやれ、気の毒に。狡兎死せざるに既にして走狗は煮られたり、か…」
(自転地球儀世界シリーズ1「地球儀の秘密」 P64)



 何の脈絡もなく格言を垂れるのはともかくとして、確かに中国通らしくアレンジまでしているが、基本的には間違いはない。


「ぼくは孔子ってあんまり好きじゃないけど、たったひとつ感心している名言があるんです。いわく、渇しても盗泉の水を飲まず…」
(同上)



 !?
 孔子は、歴史上そんなことを言ったことなどただの一回も無い。これは晋の陸機の言葉である。陸機の意味でとれば、確かに不正をしないと言う意味になる。しかし、一般的な意味でとれば、困っているときでも紛らわしいことはしない、という意味になるのだ。彼が引用しているのは孔子であって陸機ではない。そして、孔子はそんなことを言っていない。だとしたら、これは何が言いたいのか意味がよくわからない。孔子好きでなくても、中国の格言を垂れるような人間なら、これくらいは常議だろう。
 どうしてかなぁ? なぜかなぁ? 中国通を自他ともに認める田中芳樹が、高次元の正論家がこんなまちがいをするのは。やはり、不思議だ。
 というわけで、これから分かる事実は二つある。まず、田中芳樹の中国好きはうわべだけのインチキであること。そして、田中芳樹は論語はおろか孔子解説本すらも読んだこともないということ!
 これが、中国好きの田中芳樹が書いた、高次元の正論家の正体である。

「ぼくは孔子ってあんまり好きじゃないけど、たったひとつ感心している名言があるんです」

 よくもまあ…読んでもいないのに「あんまり好きじゃない」だとか「たったひとつ」とか言うものだ。そもそも人類屈指の思想家を捕まえて「たったひとつ」しか学ぶことがないとは、よく言った!
 白川周一郎、つまり田中芳樹の思考回路は簡単である。

「自分は老子荘子が好き → 孔子の儒教は老荘の対極 → 孔子はくだらない」

という小学生以下の諭理なのだ。「儒教は身分制度を肯定している」「儒教は体制順応型の人間を造り出す」という俗流本の論語解釈を、何かの拍子に田中芳樹は見た。あるいは聞いた。「おお、そのとおりだ。儒教は民主主義に反しているし、老荘思想の敵である。よし、おれもいっちょ気取って批判してみよう、だけど余裕を見せて一応ほめておいてやろう」という、随分とまあ汚らしい俗物心が沸き上がってきたというわけだ。
 余談になるが、儒教の本質は、禅譲・革命を肯定した体制にとっての危険思想でもある。


『公山不擾が費の町を拠点にして武装蜂起した。公山は執政官として孔子先生を招いた。孔子先生は招きに応じ、公山の下に参じようとされた。
すると、生真面目な弟子の子路が
「おいでになることはないでしょう。どうして、公山の叛乱軍の下になど行かれるのですか」
と不愉快そうに止めた。孔子先生は書われた。
「私を招いているのだ。何の理由もないばずがあろうか。私を用いようとする者があれぱ、たとえ叛乱軍であっても、私は彼らと共に理想社会を作り上げよう」』(陽貨篇)



 論語にこんな反体制的な一章があることを、中国通の田中芳樹さんや高次元の正論家の白川周一郎さんは知っておられるだろうか。知るどころか考えも付かないだろうけど。毒を薬に変えようとした者だけが、毒はあくまでも毒であることを知る。嫌いだから読まない田中芳樹には、儒教の本当の毒性も分からない。
 田中芳樹は孟子や老荘思想が好きだと言っている。だから、孔子はあんまり詳しくないのだ、という反論があるかも知れない。しかし、孟子を読むのだったらそれこそ論語は欠かせないし、孔子も無視できないはずだ。老荘にしても、現実には対極思想である儒教とも密接に絡まりあっているし、それどころか仏教の禅とも関わって、複雑な様相を呈しているのだ。そもそも、古代中国人の考え方や社会制度を語るのに、儒教は絶対に外せない。キリスト教を知らないで、ヨーロッパ史を語れないのと同様だ。
 つまり、どう考えても田中芳樹はインチキなのである。そのくせ、創竜伝では性悪説を「人間は本質が悪だから、悪いことをしてもいいんだ」という誤用をした主人公の叔父をあげつらって喜ぶ名シーンがある。相手の無知をあげつらうすぐ足元で、こけおどしの権威主義のバカさかげんが露呈している。
 よく知りもしない哲学者や思想家の片言隻句を名言集のたぐいから引用して説教を垂れているだけなんじゃないの? 結局は。


 田中芳樹に贈る孔子の言葉

 「子曰わく、郷原は徳の賊なり」(陽貨篇)
《俗耳に入りやすい評論や批判を口にするものは、社会を堕落させる徳の賊である》




補記
掲示板にて、とっちゃんぼうや氏より、
「渇しても盗泉の水を飲まず」とは、陸機が*孔子の故事を踏まえて*「不正で得られる利益を受け取らない」の意味で言った。水経注によれば、孔子には泉の盗という(ただの地名)を憎んで、その地には滞在せず、水をも飲もうとしなかった故事があり、これを孔子の故事にちなんだ格言とするのはあっている
という趣旨のご指摘をいただいた。
また、ジント.リン 氏にも、
盗泉というのは盗っ人の泉という意味の名前であるのでそんな名前の所には近寄らないという、名前だけであっても係らないようにすると言う精神の現れだったと思った
というご指摘をいただいた。
しかしながら、あくまでも孔子の用法では「困っているときでも紛らわしいことはしない」であり、本文での私見を変更する必要はないと判断した。(詳細は下記の「初代管理人の本論2 関連議論集2」参照)




田中芳樹を撃つ!初代管理人 石井由助







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