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初代管理人の本論9
田中芳樹の認識 日本人論


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初代管理人の本論9
田中芳樹の認識 日本人論


 ここでは、田中芳樹の認識から、日本人論に関するものを中心に取り上げてみたいと思う。

 まず、ジャブから。


現代の日本人は、どんな兇悪な犯罪でも、悲惨な事故でも、イべントやショーにしてしまう。子供を誘拐されて殺された親に、TVレボーターと称する感受性の欠落した男女が、「いまのお気持は?」とマイクをつきつけ、それを視聴者は喜んでながめている。
(創竜伝2巻 P30)



 保革左右を問わず、出来の悪い日本人論がいかがわしいのは、それが学術的な裏付けのない、感情的な俗論だからである。確かに、現代の日本人に以上のような面があることは事実でもあろう。しかし、これを日本人の性質に結びつけたいが為に、田中芳樹はここで思考停止をしてしまっている。
 『兇悪な犯罪でも、悲惨な事故でも、イべントやショーにしてしまう』というのはどういうことかということを原理的に考えると、行き着くところは日本人の性質などではない。たどり着くところは、ジャーナリズムの存在意義そのものである。別に、人間は『兇悪な犯罪』や『悲惨な事故』のニュースなど見なくても生きていける。それなのに、何故これらは放送されるのか? それらを放送するジャーナリズムが存在するのか? さしもの田中芳樹も、ジャーナリズムは政治家の汚職暴きだけ放送していれば良いとは思うまい。 ちなみに、『何故これらは放送されるのか?』 それが、報道の原点だからである。庶民の野次馬根性を満たすというのは、紛れもなくジャーナリズムの本質の一つなのである。


日本人は、平和なときはアイスクリーム屋の前に無用な行列をつくって不平も言わないが、いちど平和が失われると、容易にパニックにおちいる。奴隷的な従順さと、興奮剤を飲まされた牛のような暴走ぶりと、その両極端をゆれ動いて、中間値というものがないようであった。
(創竜伝2巻 P31)



 これも、一見もっともそうであるが、その実、何の根拠もない。ただ、単に田中芳樹の目に日本人がこのように映っていると告白しているに過ぎない。
 日本人の性質を調べるために、日夜真面目に研究している民俗学者がいる一方で、思いつきの日本人論をノベルス屈指の発行部数で開陳している作家がいる。なるほど、田中芳樹が作中でよく繰り返しているとおりだ。日本の社会は、どこかおかしい(ただ、田中芳樹のフォローではないが、このような思いつきの日本人論で何万部も稼いでいるのは彼だけではない。そして、真面目な民俗学者の研究が何万部も売れるなど、私は寡聞にして知らない)。


「学問とはそういうものじゃないよ。ことに人間の思想とか哲学とか、そういうものを一方的に善悪に区別するのはむりだ。せいぜい自分はどちらの説に与するのか、それはどういう理由からか、自分で考えて、そしてそれを他人に押しつけないことだね」
 不完全ではあるが、そう始は説明して授業をつづけた。
(創竜伝5巻 P47)



 その言や良し。その通りだ。絶対的正義ほど危険なものはない。一切の反論を封じるからだ。しかし、このように語った同じ筆で、田中芳樹は信じられないような事を書く。


阿諛したのは御用文化人の毒岡である。元首相のブレーンとして、憲法改悪・軍備拡張・核武装・徴兵制度・国家機密法制定・海外派兵を主張し、「若者よ、自由のために血を流せ、雄々しく戦場で死ね!」とTVや雑誌で咆えたてている。むろん彼自身は戦場へなど行ったこともないし、今後もけっして行く気はない。他人の血は彼にとって一円の価値もない、というだけである。
(創竜伝7巻 P30)



 この毒島は、タカ派の俗物として敢えて卑俗に書かれている。卑俗に表現されているだけあって、私も毒島は俗物だと思う。問題は、そういう創作上の意図を超えたところにある。
 憲法改悪・軍備拡張・核武装・徴兵制度・国家機密法制定・海外派兵… もちろん、これらは統一性がある事項として列挙されている。さて、先頭の「憲法改悪」…凄い言葉である。「改悪」…「悪」である。「改悪」といったら、現状をマイナスにする事以外の意味はない。誰が、好きこのんで「改悪」などするだろうか。
 毒島の他の主張からすれば、この「憲法改悪」が九条「改正」であることは明らかだ。人によって善の基準はいろいろあるだろう。九条を変えるのに、賛成の立場も、反対の立場もあって良い。だが、相手の意見が自分の意見と違うからといって、「悪」と決めつけるのは、とても始にあのような発言をさせた者の態度とは思えない。


たとえば、一九五○年代のアメリカ合衆国では、「アメリカの社会を害する本とその著者を、社会から追放しよう」という一大運動がまきおこった。
その結果、まず犠牲になったのが、「ロビン・フッドの冒険」である。義賊ロビン・フッドは金持ちから金を奪って貧しい民衆に分け与える。これは共産主義思想を宣伝する悪い本だ、というわけである。
つぎに「トム・ソーヤーの冒険」と「ハックルベリ・フィンの冒険」が槍玉にあげられた。トム・ソーヤーは学校や教会に行くのをさぼる。ハックルべリ・フィンは父親から逃げ出して各地を放浪する。だから、これは健全な家庭のありかたや学校教育制度を否定する、無政府主義の本だ、というわけだ。こんな本を読んではならない!
「ロビンソン・クルーソー」や「十五少年漂流記」も読んではならない。無人島に漂流して自分たちだけで勝手な生活を送るなど、国家制度を否定する思想である。このような悪書は焼きすてるべきである。
 ……信じられないほどばかばかしい話だが、「マッカーシズムの時代」として知られる歴史上の事実である。世の中には、狂犬のような人たちがいて、そういう人たちが権力をにぎると、自分が気に入らない本はすべて悪書と決めつけ、その著者を社会的に抹殺しようとするのだ。民主主義の総本山といわれるアメリ力でさえそうなのだ。もともと日本のように少数派を排除する傾向のつよい社会で、始たちが疎外されるようになるのは当然かもしれない。他人と同じことさえやっていればいい、他人とちがうことをすれば村八分されるような社会だから。「一億一心」・「挙国一致」がこの国の社会正義なのだから。
(創竜伝3巻 P162〜P163)


『世の中には、狂犬のような人たちがいて、そういう人たちが権力をにぎると、自分が気に入らない本はすべて悪書と決めつけ、その著者を社会的に抹殺しようとするのだ。』
 …『自分が気に入らない本はすべて「悪」書と決めつけ…』

 そのとおり! そして、その通りであるだけ、全く笑止である。

 もうひとつ。


余にとって理解できないのは、そういう連中が、けっして自分たち自身の醜悪さを自覚しようとしないことである。大勢でただひとりを虐めることのあさましさに、彼らは気づかないのか。もし自分がそういう目にあわされたらどれほど辛いか、そう考えてみるだけの想像力がないのだろうか。
「頭が悪いというのは、知能指数が低いとか偏差値が低いとか学歴がないとか、そういうことじゃない。頭が悪いというのは、想像力がないということだ」長兄の始がそういったことがある。大勢でひとりを虐めるとか、気に入らない相手に匿名で剃刀入りの手紙を送りつけるとか、幼い子供を誘拐して暴行を加えるとか、さまざまなレべルで人として恥ずべき行為をおこなうことができるのは、「自分がそういうことをされたらどれほど傷つくか」という想像力がまったくないからではないのだろうか。想像力がないからこそ、自分の行為を恥ずかしいとも思わないし、自制心も働かない。
(創竜伝5巻 P66〜P67)



 罪悪感や道徳がこのような素朴な体験論に還元できるかどうかはともかくとして、とにかく、言っていることは正論である。相手の立場に立って考えれば、不必要に相手を貶める誹謗中傷の類は出来るはずがない。だが…


一九九四年、日本の首相がマレーシアを訪問し、第二次大戦中の日本軍の侵略行為について謝罪した。するとマレーシア首相は「なぜ日本が五○年も昔のことを謝罪するのか理解できない」といった。日本のマスコミは騒ぎ、 一部の新聞や雑誌は「それ見ろ、謝罪などする必要はないのだ」と放言した。
 だが、このマレーシア首相は、「国家に害を与える」という理由で、平和的な街頭デモでさえ禁止し、野党や新聞社への弾圧をつづける非民主的な権力者である。為政者がテロを禁止するのは当然だが、平和的なデモまで禁じるというのは、民意を代表していない証拠であろう。そして、マレーシアの野党や新聞、台湾やフイリビンや香港などの、マレーシア首相発言を批判する声は、日本ではほとんど報道されなかった。そもそも、その発言の直後、マレーシア副首相が日本を訪れ、「首相の発言の真意は、日本の罪を赦すものでも認めるものでもない。日本の指導者と国民が、侵略を受けたアジア人民に心から謝罪し、過ちを認めれば、日本の首相は外遊のたびに謝罪しなくてもすむはずだ」という発言をした。副首相の発言は、アジア各国では広く報道されたが、日本の新聞はこれをまったく無視して、 一行の報道もしなかった。そのことをシンガボールの学者が指摘している。日本の新聞の体質がよくあらわれた話だ。まともで常識的な意見は無視し、特異な意見だけ取りあげて大さわぎするのだ。
(創竜伝9巻 P135〜P136)



「なぜ日本が昔のことを謝罪し続けるのか理解できない」と発言したマレーシアの首相を「平和的なデモを弾圧する反民主的な権力者」という、発言と関係ない一点でもって、その発言の内容を批判している。
 いや、それはそれでいい。「平和的なデモを弾圧する反民主的な権力者」の言はいかなる事でも論ずるに値しないという態度を貫くのなら、それはそれで否定しがたいスタンスである。だが、田中芳樹は、一方で以下のようなことを書いている。


インドネシアの大統領は、日本の防衛庁長官に、「軍事力で勝つような時代ではない」と忠告した。
(創竜伝3巻 P140)



 このインドネシアの大統領って、この間の「民主的」な政変で失脚したあの人でしょう? 先のマレーシア首相の論法で言うのなら、このインドネシアの大統領の発言は「民意」なるものを代表していないはずである。しかし、田中芳樹の態度はそうではない。自分の都合の良い発言をしてくれれば、独裁者の言であろうが金言として扱うのだ。
 絶対的正義ほど恐ろしいものはないが、それに輪をかけて恐ろしいのが、恣意的な正義である。そして、田中芳樹の論は、おぞましいほどに恣意的なのだ。



田中芳樹を撃つ!初代管理人 石井由助




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