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議論における出典提示の是非問題(2)

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コンテンツの総収録投稿数37件の内、9〜24件目の投稿を掲載

収録投稿9件目
board4 - No.5097

チキン!

投稿者:國臣
2004年01月24日(土) 02時11分

司馬遼太郎の「関ヶ原」を読み返していてちょっと思い出したので、かなり古い話ですが田中氏の「関ヶ原評」について。

田中氏は「中国武将列伝」のあとがきだったかで、「関ヶ原」について触れています。
そこで田中氏は「『関ヶ原』の中で描かれる石田三成、直江兼続、島左近の姿は虚像だ。三成は今で言えば『風紀委員』みたいな嫌な奴で、他の二人も結局戦局に何の影響も与えなかった。つまり全然たいしたことない奴だが、小説というのは虚像を作るのが目的だからそれはそれでいいんだ」(現物が手元にないので語句は不正確かもしれません。)という意味のことを書いていました。
歴史上の人物の評価というのは一面的にはいかないもので、田中氏が彼らを低く評価するのはもちろん自由です。
また小説が虚像を作るものだ、というのもその通りでしょう。
ただこれを読んだ時、わたしは強い不快感を感じました。
というのも、田中氏の書きぶりがまるで、「三成や兼続がたいした人物でもなく魅力的でもない、というのは歴史的に定まった事実だ。司馬氏ももちろんそれを知っているが、小説を面白くする為に『敢えて』彼らを魅力的に書いたのだ」と言っているふうにしか読めないからです。
しかし果たしてそうでしょうか?
司馬遼太郎は松本清張との「関ヶ原の戦い」をテーマにした対談で「政治的なところがない石田三成が好きだ」とはっきり断言しています。
そもそも司馬遼太郎の小説を読んだことのある人なら、彼の小説が彼自身の歴史観と非常に密接な関係を持ち、どこまでがフィクションでどこまでがノンフィクションか分からなくなるような一種独特の緊張感が大きな魅力となっていることはすぐ分かるはずです。(それは欠点にもなりうるのでしょうが。)
田中氏自身も、「秦檜を忠臣として描くことが出来るか検討してみたが
駄目だった」ということを尊敬する陳舜臣先生に言っていたはず。つまり小説とはいえ自分の歴史観と全く無縁にキャラクターを構築するというのは不可能だ、ということを自ら認めているわけで、であるならば「関ヶ原」の三成、兼続、左近のキャラクター造詣にも司馬の歴史観が色濃く投影されている、というのは気づいていたはずです。
ではなぜ、正面きって司馬の歴史観を批判するのではなく、まわりくどい方法でそれを否定するような文章を書くのか?
わたしは間違いなく、彼が大作家司馬遼太郎を批判するだけの度胸がないからだ、と思っています。
それはまあ、分からないでもありません。なんてったって相手は「国民作家」ですから。
でもそれならば、最初から「関ヶ原」のことになんか触れなければいいのです。
正面から責任をとる覚悟もないくせに、いちゃもんだけはつけたがる。
「創竜伝」でいやというほど思い知らされた田中氏の腰抜け&卑怯者ぶりはこんなところでも十分に発揮されているなあ、とつくづく思ったものでした。

収録投稿10件目
board4 - No.5148

Re:チキン!

投稿者:ゲルミル
2004年01月31日(土) 18時43分

このスレの論争が気になったので、ちょっとだけ口をはさみます。
元々、國臣氏の主張は
「田中芳樹は司馬遼にけんかを売る度胸の無い卑怯者だ」
という事にすぎないのに、なぜ両作家の比較論にまで進んでしまうのでしょうか?
ましてや、石田三成の歴史的評価に至っては蛇足にしか思えません。
(それはそれで、興味深い議論ですが)

そもそも、國臣氏の最初の論説もおかしい。
自身の記憶が曖昧な文章をもって、田中氏を批判している。
はたして、司馬遼に対するいちゃもんであったのかどうか。
少なくとも、大元の文章を確認してから批判するのが、こういった場におけるマナーだと思いますが、いかがなものでしょうか?

それに(國臣氏の引用が正しいと仮定して)これをもって田中氏がチキンであると決め付けるのはいささか早急です。
例えば、こんな事例もあります。
アイザック・アシモフの「ファウンデーションの誕生」にて、田中氏は解説を書いているのですが、そこでは「ファウンデーションシリーズ」に対する批判を行っています。
批判内容の賛否は置くとして、熱狂なアシモフファンであれば必ず読むであろう解説で、このような批判を行っている。
この一時をもって、田中氏はファンからの批判を恐れずに、自分の意見を貫ける男気のある人物と捉える事もできるわけです。
(私はそうは思いませんが)

どうも國臣氏は、自分の嫌いな田中芳樹ごときに、自分の敬愛する司馬遼太郎をけなされたという事で、感情的になっているのでないでしょうか?
倉本氏とのやり取りを見ていると、そう思えてなりません。

ついでにやけにこだわっている三成への歴史的評価についてですが。
田中芳樹の批判サイトではなく、歴史サイトや2ちゃんねるの日本史板などで主張される事をおすすめします。

収録投稿11件目
board4 - No.5149

Re:チキン!

投稿者:國臣
2004年01月31日(土) 21時38分

こんにちは、ゲルミルさん。

司馬遼太郎と田中芳樹の比較論は議論の中で派生したもので、もともとの主題と違うことは認めますが、特に掲示板の趣旨に反しているわけではないので不都合ではないと思います。
スレッドの中で別の議論が発生するのは特に珍しいことではないと思いますが、いかがでしょうか。
石田三成の評価については、「否定する見方だけではない。こういう議論もありうる」という意味で肯定論の例を挙げてみただけです。とくにこだわっているつもりはありません。
引用の不正確さについては、おっしゃるとおりで、申し訳ありません。
ただ、文章の主旨は間違っていないと思います。その上で、具体的な誤りのご指摘があれば、お願いします。

さて、ある作家を批判できたことが、他の作家に対する批判に腰が引けていない、という証拠になるのでしょうか。
アシモフと司馬では社会的な評価も立場も全く違います。
ありていに言えば、文春から朝日まで、大手の出版社のほとんどから重宝され、否定されるにせよ肯定されるにせよおそらく松本清張とならんで戦後最大の国民作家である司馬遼太郎と、いくらSFの大家とはいえ、海外の、それも過去の作家になりつつあるアシモフとでは、批判する時に要る覚悟が違うということです。

感情的になっているとのご指摘ですが、はい、その通りです(笑)
ただ、感情に任せて「司馬先生を否定するような文章を書きやがって田中のヤロー許せん!!」というような主張はしていないつもりですが。
できればもう少し、わたしの文章の具体的部分にそって批判していただけると助かります。

ちなみにわたしは2chには興味がありませんので、せっかくのお勧めですがお断りします。

収録投稿12件目
board4 - No.5154

Re:チキン!

投稿者:ゲルミル
2004年02月01日(日) 03時35分

ええと、國臣氏はこう主張しているのでしょうか?
自分が田中氏を批判する時はあやふやな引用でもOKだが、自らが批判をうける時は「文章の具体的部分にそって」くれないと困る、と。
まあ、本題から外れますのでこれ以上は言いませんが。

で、それはともかく、司馬遼太郎に関して。
今までの國臣氏の文章から察するに、あなたは司馬遼太郎を崇拝しているように見えますが、いかがでしょうか。
具体的に指摘すれば、
「大作家司馬遼太郎」
「(司馬は)戦後最大の国民作家」
「優れた小説やエッセイを多く残した」
「イデオロギーというものに終生懐疑的だった」
などなど。
これで崇拝していないというのは、逆におかしいくらいです。

さらに余談をゆるして頂きたい。
私に対するレスの中の、
「アシモフと司馬では社会的な評価も立場も全く違います」
から始まる一文に、私は失笑を隠せませんでした。
アシモフが過去の作家!
いまだに生前の小説が映画化され、新開発のロボットには氏のキャラクター「ダニール」の名が名付けられ、さらには「トリビアの泉」の冒頭で紹介される(笑)など、死んでなお名声に衰えの見えない氏に対して「過去の作家」などと言い放てるとは。どこの無知蒙昧な輩なのか!!
このような誹謗が許されるのであれば、司馬遼太郎に関してもこのような評価が下せます。
「いくら歴史小説の大家とはいえ、日本だけの、それも過去の作家になりつつある司馬遼太郎」
もっとも、これは私の本心ではありませんし、そもそも、そのような評価などだれも納得しないでしょう。
しかしそれは、アシモフに対しても同じです。
司馬とアシモフ。両者の比較は無意味ではありませんが、優劣など誰も付けられないでしょう。
むしろ、付けようとする人間の品性が問われるくらいです。

余談が過ぎました。
要するに私は、アシモフと司馬遼太郎のどちらを批判するにしても、覚悟にそう違いは無いと言いたいわけです。
むしろ、SF界ミステリ界出身の田中芳樹にとって、少々畑違いの司馬遼太郎に対する批判よりもデメリットが大きかったかも知れません。
実際、「ファウンデーションの誕生」の解説に対しての批判は、このサイトでもありました。
しかし、司馬遼太郎に対する批判に対する批判は、國臣氏がはじめてです。

うがちすぎかも知れませんが、國臣氏は司馬遼太郎崇拝のために、田中芳樹批判を利用しているようにも見えます。
それが行きすぎて、アシモフに対する低レベルな誹謗にまで至ってしまった。
これは、私がアシモフの話題を出したのも悪いのでしょうが。

とりあえず提案ですが、しばらく司馬遼太郎の話題から離れてみてはいかがでしょうか。
それか、司馬と芳樹の比較論に関する新たなツリーを立てるとか。
(実は、こういう優劣をつけない比較論は大好きだったりします)
國臣氏が司馬遼を崇拝しているにせよ、していないにせよ、このままでは噛み合わない議論が続くだけだと思います。

【参照】アシモフ作品の田中芳樹書評(1)
http://tanautsu.duu.jp/the-best03_03_08_aa.html

収録投稿13件目
board4 - No.5157

Re:チキン!

投稿者:國臣
2004年02月01日(日) 14時27分

んーと、わたしは「文章の語句」の部分で引用が不正確なことは認めましたが、引用文の主旨は間違っていない、と言っています。
で、あなたの場合、わたしの文章の「どこが」感情的なのか、わからないんですよね。「そういう印象を受けました」と言われても、困るわけです。だから「あなたの文章のこの部分が感情的であり、論理的でない」と言ってくれないと議論にならない、と言っているのです。

わたしが司馬を崇拝していると仮定して、そのことと、わたしの論考が感情的で間違っているということの間にいかなる関係があるのでしょうか?
繰り返しますがわたしは田中氏が司馬遼太郎にいちゃもんをつけたことに対して批判しているわけではないのです。そのことは前にも何度も書きました。またわたしの司馬遼太郎観が崇拝の結果の間違ったものであるというならば、具体的に反論してください。

>私は失笑を隠せませんでした。
いやーこちらこそ憫笑させていただきました。
もしかしたらこういう風に反発するかな?と予想した通りなんですから(笑)
わたしがいつ、どこで「作家としての司馬とアシモフの優劣論」など書きましたか?
あなたは社会的な影響力というものが全く理解できないようですね。
残念ながらSFファン以外はあなたのいうようなアシモフ情報には関心がないのが一般的なんです。(しかし「トリビアの泉」って・・・(笑))
司馬遼太郎の場合、現在もある種のイデオロギーと結びつき(それは決して司馬の望んだことではないと思いますが)批判をすればいろいろわずらわしいことが起こることが当然予想されます。
また出版社との問題や、司馬の親友であった陳瞬臣氏との関係など、田中氏が批判に腰が引ける要素はいくらでも思いつきます。
一方アイザック・アシモフの批判をしたって反発するのはSF関係者と熱心なファンだけです。しかも田中氏は近年SF的なモノからは離れ、歴史小説の世界に重心を移しています。
わたしがいう「覚悟の違い」とはそういうことです。おわかりですか?

だいたい「司馬遼太郎を離れて」と言うのはどういう意味でしょうか。
わたしが論じたのは「田中芳樹の司馬遼太郎の小説に対する評価に対する批判」です。司馬を離れた議論などありえません。わたしの文章きちんと読んでます?
「かみ合わない」とあなたが判断されることはご自由ですが、わたしがそれに付き合う必要はありませんし、スレッドの乱立は他の掲示板参加者のご迷惑にもなりますからお断りします。あなたとではそれだけの価値のある議論になるとも思えませんしね。

収録投稿14件目
board4 - No.5167

閑話休題

投稿者:ゲルミル
2004年02月02日(月) 00時27分

私の反応を予想していたと言う割には、非常に取り乱した文章ですね。
司馬遼太郎をけなされたと勘違いしたのかもしれませんが、どうか冷静になってくださいまし。

以下余談ですが。
時々、議論の場において、
「俺はおまえの反応を予想していた」
なんて言い放つ人間がいますけど、何の意味が有るのでしょうか。
そんなものは、結果がでてから公開する予言と同じで何の意味も持たないはずなのに。
言われた方は、その真偽を確かめる術はありませんし、見え見えな後だしジャンケンだけに、付き合う必要もない。
よしんばその予想が本当だったとしても、それを議論の途中で公開するのは、自らの手の内を明かすようなもので、愚劣な無意味な行動です。
自らの優位性を誇りたいからか、相手を挑発したいだけなのか。どちらにしても幼稚な行動だと思いますが。

余談続く。
そもその、文章などというものは、自らの真意を100%伝える事など出来ません。
どんなに優れた文筆家でも、しばしば相手に真意が伝わらない文章を書いてしまうものです。
ところが、一部の人間はその事実を認めようとしない。
よほど自分の文章に自信が有るからか、相手に読解力を要求しすぎるのか、しばしば読者に対し誤読していると非難します。
「私はそのような事を言っていない」
「あなたは文章をよく読んでいない」
「あなたには理解力が無い」
「細部ではなく主旨を理解してほしい」
「私が言いたいのはこういう事ではない」
etc.etc.....
こういうタイプは、自分の文章に誤解を与える表現があったことなど想像もできないようで、しばしば読者を激しく糾弾します。
今回の國臣氏の文章がそうですね。
(いつもの國臣氏がそういうタイプと言いたい訳ではない。
おそらく今回は、氏の崇拝する司馬遼太郎がからんでいるからでしょう。
今までの彼の文章から、彼個人の司馬評を世間一般の絶対的な評価と混同している所などが特に)

>わたしがいつ、どこで「作家としての司馬とアシモフの優劣論」など書きましたか?

以下の文章は、彼の頭の中では優劣論ではなかったらしい。

>ありていに言えば、文春から朝日まで、大手の出版社のほとんどから重宝され、否定されるにせよ肯定されるにせよおそらく松本清張とならんで戦後最大の国民作家である司馬遼太郎と、いくらSFの大家とはいえ、海外の、それも過去の作家になりつつあるアシモフとでは、批判する時に要る覚悟が違うということです。

まあ、優劣論と表現した私にも問題がありますが、司馬遼太郎を持ち上げてアシモフを貶める文章には間違いがないでしょう。
少なくともこの文章から「社会的な影響力」などを読み取れる読者は、エスパーか何かでしょう。そこまで超人的な読解力を求められても困ります。

一方で、國臣氏は私の文章を誤読しています。
私はしゃれのつもりで言った「トリビアの泉」の件に対して、レベルの低い嘲笑をあびせています。
でも私は文句を言いません。
これはわかる人にだけわかれば良いギャグだったからです。(できればセンスよく返してほしかったけど)

それはともかく、今の國臣氏は頭に血が昇っている状態のようですので、しばらく反論は見合わせたいと思います。
ご了承ください。

収録投稿15件目
board4 - No.5169

Re:閑話休題

投稿者:國臣
2004年02月02日(月) 01時33分

頭に血が昇っていることは全くないんですがね。
わたしが逆上するのは「崇拝する」司馬氏にけちをつけられたときだけでして(笑)
まあ反論はしないとおっしゃるので、後だしじゃんけんのような真似は控えます。
それでは。お疲れ様でした。

収録投稿16件目
board4 - No.5177

二ヶ所だけ口出し

投稿者:よりこ
2004年02月03日(火) 17時38分

 はじめまして、國臣さん。よりこと申します。
 下記の二ヶ所についてのみ、口出しさせていただきます。

< 司馬遼太郎と田中芳樹の比較論は議論の中で派生したもので、もともとの主題と違うことは認めますが、特に掲示板の趣旨に反しているわけではないので不都合ではないと思います。
 スレッドの中で別の議論が発生するのは特に珍しいことではないと思いますが、いかがでしょうか。 >

 「スレッドの中で別の議論が発生するのは特に珍しいことではない」と、國臣さんはおっしゃいますが、これは議論行為における大きな問題点の一つだと私は思います。
 なぜなら、主旨から横道に逸れた話題を持ち出しての応酬は、「ずるずる長引くだけの泥沼化した議論になるケースも多い」からです。
 別の議論(田中芳樹氏と司馬遼太郎氏の比較論)に移るのは、主旨となる議論(ご自分の田中芳樹氏批判)を確実に終わらせてからになさった方が良いのでは?
 「スレッドの中で別の議論が発生するのは特に珍しいことではない」という状況と、「議論として良質か」とは全く別物です。
 「他によく見られることだから自分もやる」なんて、ご自分の行為を正当化させる理由として、とてもみっともないと思います。

< 引用の不正確さについては、おっしゃるとおりで、申し訳ありません。
ただ、文章の主旨は間違っていないと思います。その上で、具体的な誤りのご指摘があれば、お願いします。 >

 「引用の不正確さについて」も、『根拠の明示』という意味で大いに問題あるのではないでしょうか。
 「根拠」とは、『データ』+『理由』で成り立つものです。
 『データ』とは、誰の何の意見に対する反論・批判や、何の著作・場面・発言を基盤にして意見を言っているのかなどの『主張または結論を導く時の証拠となる具体的な事柄』です。
 『理由』は、『データからどのようにして主張または結論が導かれるのかについての理論』そして『データと主張または結論を結び付ける役割を果たすもの』です。
# 上記の『データ』と『理由』の概念の出展は、イギリスの分析哲学者ステファン・E・トゥールミンの著書「The Uses of Argument (議論の効用、の意)」Stephen E Toulmin [ London : Cambridge University Press 1958 発行・邦訳無し]に記述されている「Data(データ)」と「Warrant(正当な理由)」からきています。

 國臣さんが「中国武将列伝」のあとがきというだけで、何の文章を基盤にして田中芳樹氏を批判しているのかの『データ』も開示されないものを、私も含めた他者には妥当か否かの判断すらできません。
 この「田中芳樹を撃つ!」のサイトの閲覧者が皆、國臣さんの批判の基盤となる『データ』(「中国武将列伝」のあとがき)に通曉しているわけでもありません。
 仮に通曉していたとしても、慎重で良識のある人なら「國臣さんの批判はこの文章が基盤だろう」と勝手な思い込みの上で賛同なり反論なりなどまずしません。
 それとも「國臣さんの批判はこの文章が基盤なのですか?」と確認してから言え、とでもおっしゃるのでしょうか?
 批判をされるのであれば、確実に『データ』を開示してからなさってください。
 今回の國臣さんの批判は、議論サイトにおける発言として大いに問題ある、と私は評価しています。

 「文章の主旨は間違っていないと思います。その上で、具体的な誤りのご指摘があれば、お願いします」についても言わせていただきます。
 上記でも申しましたように、國臣さんのご自分の田中芳樹氏批判が「何のデータに基づいておっしゃってるのか」が、私には全く解りません。
 自分は不正確な引用しか出せないくせに、他人には「具体的な誤りのご指摘をお願いします」とは、一体どういう了見をなさってるのでしょうか?

 取り敢えず今回はこの辺で失礼します。

収録投稿17件目
board4 - No.5178

ジェシカ・エドワーズごっこ

投稿者:ななえ
2004年02月07日(土) 00時09分

 國臣さん。
 私はななえと申します。
 5177番のよりこさんとは14年来の友人同士(腐れ縁)で、現在私は彼女の家でこのログを書き込んでおります。
 私はただ、國臣さんにひとつ質問を聞いていただきたくて書き込んだのです。

「あなたはなぜ< 文章の主旨は間違っていないと思います >と言い切れるのです?」

 …銀河英雄伝説・黎明編・第四章・第一三艦隊誕生のジェシカ・エドワーズがトリューニヒトを詰問したセリフをパロって申し上げましたけど、真面目な話なぜ國臣さんは< 文章の主旨は間違っていないと思います >と言い切れるのでしょうか?

 國臣さんが「5097番の田中芳樹氏批判が妥当である」と、よりこさんや私を始めとする他者に納得させたいならば、まず納得するに足る『根拠(データ+理由)』を明らかにしないとお話にならないと思いますけどね。

 さて、これ以後は法律学的観点の話になりますが、ちゃんと國臣さんの田中芳樹氏批判につながりますからご容赦願います。
 根拠(データ+理由)のデータ(主張または結論を導く時の証拠となる具体的な事柄)を、法律学では『物的証拠』と呼称します。
 データ・物的証拠が無くとも他者にすぐ納得してもらえるケースももちろんあります。
 そのケースとは「わざわざ提示した上で証明しなくても、誰にとっても(田中芳樹を撃つ!の閲覧者ならば)明白な事実である場合」です。(このような事実を『公知の事実』といいます。以後こう呼称)
 ですが、よりこさんがこう書き込んだように↓

< この「田中芳樹を撃つ!」のサイトの閲覧者が皆、國臣さんの批判の基盤となる『データ』(「中国武将列伝」のあとがき)に通曉しているわけでもありません。 >

 「中国武将列伝」のあとがきは、公知の事実には全く該当しません。
 なぜなら、田中芳樹を撃つ!の閲覧者が皆必ず國臣さんと同様に「中国武将列伝」のあとがきを読んでいる、あるいは「中国武将列伝」のあとがきについて記憶しているとは限らないのですから。
 「分かる人だけ分かれば良い」とでも國臣さんはおっしゃいますか?
 ですが、他者を納得させたいが公知の事実が無い場合には、物的証拠すなわち「中国武将列伝」のあとがきの文章というデータを開示する方が話が早いし確実なのですけどね。
 5097番の國臣さんの田中芳樹氏批判のように、公知の事実でも無く物的証拠も無く自分の意見・批判を他者に納得させるにはどうするのか?
 答は簡単ですね。
 國臣さんによる『供述』しかありません──つまり「國臣さんが“中国武将列伝”のあとがきを読んで数ヶ月なり数年なりの時間が経過した後に司馬遼太郎氏の“関ヶ原”を読んでいて思い出した事柄に基づいて田中芳樹氏批判を書き込む」という。
 データを『物的証拠』と呼ぶのに対して、上記の状況を経て書き込まれた5097番の國臣さんのログのような文章を『供述証拠』と呼称します。
 ですが、供述証拠には物的証拠に比べて大きな弱点があるんです。
 弱点とは「供述者である國臣さんが嘘をついている訳では無くとも、國臣さんの供述自体が誤っている可能性がある」ということです。
 5097番の國臣さんのログのような供述証拠が生まれる過程には人間の精神的作業が幾重にもあるんです。 「國臣さんが“中国武将列伝”のあとがきを読んで数ヶ月なり数年なりの時間が経過した後に司馬遼太郎氏の“関ヶ原”を読んでいて思い出した事柄に基づいて田中芳樹氏批判を書き込む」といった一見簡単な話の背景にも、下記のプロセスのような國臣さんの精神作用が働いています。

1.國臣さんが“中国武将列伝”のあとがきの文章を読んで『認識』した上で『記憶』する。
     ↓
2.國臣さんが“関ヶ原”を読んでいて、数ヶ月なり数年なり前に読んだ“中国武将列伝”のあとがきについての『記憶』が『再生』される。
     ↓
3.國臣さんは“中国武将列伝”のあとがきについて『再生』された事柄に基づいて『供述』する。

 …いかがですか? そして上記の3つのプロセスには、それぞれについて次の「3つの誤った供述証拠を生み出す可能性」が含まれています。
第一に、國臣さんは“中国武将列伝”のあとがきの文章を誤読しているかもしれない──『認識上の誤りの可能性』
第二に、國臣さんは“中国武将列伝”のあとがきの文章を的確に読解したが、数ヶ月なり数年なりの時間が経過した間に記憶が変質したかもしれない──『記憶あるいは再生上の誤りの可能性』
第三に、最も重大な点として、『供述上の誤りの可能性』──供述者である國臣さんが嘘をついている訳では無くとも、國臣さんの文章表現は國臣さんが認識した事実を適切に書き切れていないかもしれない。
 そう、5169番でゲルミルさんがおっしゃったように。

< そもその、文章などというものは、自らの真意を100%伝える事など出来ません。
どんなに優れた文筆家でも、しばしば相手に真意が伝わらない文章を書いてしまうものです。
ところが、一部の人間はその事実を認めようとしない。
よほど自分の文章に自信が有るからか、相手に読解力を要求しすぎるのか、しばしば読者に対し誤読していると非難します。
「私はそのような事を言っていない」
「あなたは文章をよく読んでいない」
「あなたには理解力が無い」
「細部ではなく主旨を理解してほしい」
「私が言いたいのはこういう事ではない」
etc.etc.....
こういうタイプは、自分の文章に誤解を与える表現があったことなど想像もできないようで、しばしば読者を激しく糾弾します。
今回の國臣氏の文章がそうですね。 >

 と、こういった次第で、よりこさんや私も含めた「他者には供述証拠の信頼性にには常に疑いを挟む余地がどうしても残る」ということを國臣さんにも知って欲しいんです。
 さて、上記の事情を踏まえて國臣さんにもう一度質問します。

「あなたはなぜ< 文章の主旨は間違っていないと思います >と言い切れるのです?」

 他については大方よりこさんと同じなので、以下省略。
 ただ、どうにも解せませんね。
 5100番で國臣さんは倉本さんに対して…

< さて、わたしはここで、田中氏や司馬氏の歴史観自体を問題にしているのではありません。
  巧妙に議論の次元を変えることで責任を回避している田中氏の姿勢を問題としているのです。 >

…と明言していながら、なぜ主題である國臣さんの田中芳樹氏批判について言及している5177番のよりこさんのログに対しては、3日以上応答がないのかが。
 それまで倉本さんやゲルミルさんに対しては、あれほど素早くかつ雄弁というか長文のログを書き込んでいらしたのに。(主題から逸脱した議論にまで積極的にレスをしておられる)

 最後に蛇足ながら「発言責任を果たす」ということについて。
 自らの発言の責任を果たすとは──
1.自説に対する疑問や否定的意見に対して説明を行う。
2.自分の発言の中に不適切な表現や誤謬があった場合には正す。
3.必要に応じて自説に修正を行う。
4.自らの発言についての議論が終わるまで面倒を見続ける。
──以上の4点
 (掲示板734番 クロイツェルさんのログを参照に箇条書きしたものです)
 私も上記のクロイツェルさんのご意見に積極的に同意します。
 『國臣さんが上記4点を踏まえたご自分の発言責任が取れる』方だと私は期待しておりますから。

 そして、5097番でこう書き込まれた…

< 正面から責任を取る覚悟もないくせに、いちゃもんだけはつけたがる。
 「創竜伝」でいやというほど思い知らされた田中氏の腰抜け&卑怯者ぶりはこんなところでも十分に発揮されてるなあ、とつくづく思ったものでした。 >

…以上の言葉が國臣さん自身に跳ね返らないことも祈っております。

 なお、私は7日と8日はよりこさん宅に転がり込んでますからレスをしやすいのですけど、9日以降は厳しいので予めご了承くださいませ。
 まあ、私に対してより先にまず彼女に応答してやってくださいな。
 「國臣さんのレスがない〜!」と、ぶーぶーうるさいくて…

 それではごきげんよう。

収録投稿18件目
board4 - No.5202

Re:二ヶ所だけ口出し

投稿者:IK
2004年02月09日(月) 20時56分

おそらく、よりこさんがお嫌いであろう、「本論からずれた議論」になるやも知れませんが、引用の是非について少々疑問に思うところがありましたので、お相手いただければ幸いです。

確実に引用をするというのはどこからどこまでをすればいいのでしょう。ある文だけを抜き出しても、その文がどういう文脈、経緯で書かれているかによってかなり意味が違ってくるでしょうし、厳密に言うならば文章まるごと、本一冊引用しないといけないなんてことも理屈としては成り立つのではないでしょうか。

今回、「中国武将列伝」という田中氏の著作でもマイナーな著作であったがために、引用の是非が問題として浮かび上がりましたが、「銀河英雄伝説」や「創竜伝」といったメジャー作品について厳密な引用がなされないこともしばしばであり、それについては、これまでのところ問題にされた、という記憶がありません(あるのかも知れませんが、引用のなさ、不正確さに対してその指摘がいちぢるしく少ないとは言えるのではないでしょうか)。
それは「銀河英雄伝説」や「創竜伝」の内容が、そもそも議論の前提知識として期待されているからであり、「田中芳樹作品」について論じるというサイトの性格を考えれば、それを期待するのはさほど不当ではないだろうと私などは考えますが、いかがでしょうか。
「中国武将列伝」は先の二作品に比較すれば部数的にもマイナーでしょうが、田中芳樹氏の著作であるのは間違いないのであり、議論の前提として、それを読んでいる、手元にあり確認することを期待することがそれほど不当だと言い切れるでしょうか?

もちろん、よりこさんがおっしゃるように、引用を挙げて議論した方が正確でもあり、なによりもまず親切ではありますが、「そうした方がいい」ことと「そうでなければならない」ということにはかなりの距離があるように私には思えます。

前提知識を期待すること自体が不当だと言うのであれば、その不当さは、「銀河英雄伝説」「創竜伝」にもあてはまるのではないでしょうか。
「銀河英雄伝説」「創竜伝」を未読、かつ所有していない参加者にとっては、「文脈も踏まえてきっちりと引用して貰わないと議論に参加できずそもそも正否の判断をつけようがない」という状況は、今回の件における「中国武将列伝」未読の人と大差ないと思われます。

>  「根拠」とは、『データ』+『理由』で成り立つものです。
>  『データ』とは、誰の何の意見に対する反論・批判や、何の著作・場面・発言を基盤にして意見を言っているのかなどの『主張または結論を導く時の証拠となる具体的な事柄』です。
>  『理由』は、『データからどのようにして主張または結論が導かれるのかについての理論』そして『データと主張または結論を結び付ける役割を果たすもの』です。
> # 上記の『データ』と『理由』の概念の出展は、イギリスの分析哲学者ステファン・E・トゥールミンの著書「The Uses of Argument (議論の効用、の意)」Stephen E Toulmin [ London : Cambridge University Press 1958 発行・邦訳無し]に記述されている「Data(データ)」と「Warrant
> (正当な理由)」からきています。

邦訳のない、一般的とも言えない英文の著作を「根拠」として挙げられて、とまどいます。
この、スティーヴン・E・トゥールミン氏の著作の部分を根拠として挙げられるならば、まず引用されたうえで、さらにどうしてそれが根拠となり得るのかを検証していただかないといけないのではないでしょうか?
「田中芳樹作品」を論じる場で田中芳樹作品を前提知識として期待するのは必ずしも不当とは言えない私は考えますが、哲学プロパーの議論場とは言えないであろうこの場で、トゥールミン氏の著作を前提知識として期待するのは不当ではないでしょうか。

よりこさんが提示された問題は今後「田中芳樹を撃つ!」で議論がなされていくうえで、極めて重要だと考えましたので、敢えて疑義を提出いたしました。
お返事お待ちしております。

収録投稿19件目
board4 - No.5204

横レス

投稿者:観察者
2004年02月10日(火) 10時30分

ステファン、もしくはスティーブン・E・トゥールミン
ディベートの教科書に登場するような著名な人のようです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~ron-zemi/activity/activity.htm

実際50年近く昔の人で、その名は知られておらずとも、トーマス・クーンの「パラダイム」と同じように、
その議論に対する論証モデルはほぼ公知のものとして広く使われているようです。

http://homepage3.nifty.com/sugiuramasa/toulmin.htm

論証に関する漸くとしては上記URLのものが簡明で要を得ていると思います。
つまりそういうやり方が輸入された時(われわれの大半が生まれる前)からこの人の論証モデルは使われており、われわれはディベート形式や、ものごとを突き詰めて討論する時に、知らずにこの人のモデルを使っているという事のようです。
というよりも、データのみを示して意見の理由付けを述べなかったり、意見の裏づけとなるデータを示さないか、それを恣意的に編集するようなやり方を避けるべきというのは、
原典となるデータが確実にある(田中氏の著作)この掲示板の過去の論考でも示されており、
(例えば、冒険風ライダー氏などの論考では、引用した文献や出典が、田中氏の著作以外でもかなりはっきりと明示されていますが)
今回の突っ込みもそうした性格に類するものではないかと思われます。
田中氏の著作のあとがきと、名こそ知られてはいないものの方法論は暗黙知や、そもそも討論の方法の下敷きとして広く伝わっているらしき哲学者と、どちらのデータが公知でない方に属するのかは微妙な問題ですが。

収録投稿20件目
board4 - No.5206

Re:IKさんへ

投稿者:よりこ
2004年02月11日(水) 09時20分

 IKさんこんにちは、はじめまして。よろしくお願いします。
 そして、レスが遅くなってしまい申し訳ありませんでした。

< おそらく、よりこさんがお嫌いであろう、「本論からずれた議論」になるやも知れませんが、引用の是非について少々疑問に思うところがありましたので、お相手いただければ幸いです。 >

 いいえ、「本論からずれた」とかいうことではなく、IKさんの今回のご意見は私の主張に対するご自分の疑問について問い質しをなさっているのだと思いますし、また自らの発言責任を果たすためにも、私もできうる限り回答するべきだと思いますから。

< 確実に引用をするというのはどこからどこまでをすればいいのでしょう。
  ある文だけを抜き出しても、その文がどういう文脈、経緯で書かれているかによってかなり意味が違ってくるでしょうし、厳密に言うならば文章まるごと、本一冊引用しないといけないなんてことも理屈としては成り立つのではないでしょうか。 >

 引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは『自分の主張の基盤となるニュースソースに該当するもの』と私は考えており、『最初に自分が意見・批判を主張する際に選択・判断・決定することである』と思います。
 引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは、その意見・批判の種類や性質、あるいは意見・批判を述べる人物によっても千差万別だとも思いますし、一概には言えません。
 それを読む他者で「最初に開示されたデータでは不十分だ」と思う人は改めて尋ねれば良いだけでは。
 そして、「その文がどういう文脈、経緯で書かれているか」については、元々の意見・批判の文章に対する他者のレスに対してさらに説明なり反論なりを行う際に、必要に応じて新たに述べれば良いことではないのでしょうか?
(…と、いうより「議論でのやりとり、って結局そういうことではないのか?」と私は思うんですけど…)

< 今回、「中国武将列伝」という田中氏の著作でもマイナーな著作であったがために、引用の是非が問題として浮かび上がりましたが、「銀河英雄伝説」や「創竜伝」といったメジャー作品について厳密な引用がなされないこともしばしばであり、それについては、これまでのところ問題にされた、という記憶がありません(あるのかも知れませんが、引用のなさ、不正確さに対してその指摘がいちぢるしく少ないとは言えるのではないでしょうか)。 >

 ちょっと待ってください。
 < 今回、「中国武将列伝」という田中氏の著作でもマイナーな著作であったがために、引用の是非が問題として浮かび上がりました >と、IKさんはおっしゃいますけど、5097の國臣さんの田中芳樹氏批判から始まったスレッドのどこで何の箇所から、そしてどうしてIKさんはそう解釈なさったのでしょうか? 全く思いもよらない話題を持ち出されて私はひどく困惑しております。
 少なくとも5177での私も5178でのななえさんも、そんな事柄を問題視はした覚えは一切ありませんし、話の論点が全く違うとも私は考えますけど。
 今回私が國臣さんに対して申し上げたのは「ロクなデータも挙げない批判行為の妥当性」と「自分自身は“中国武将列伝”の文章を具体的に挙げた上で指摘しない・できないくせに、他人(ゲルミルさん)に対しては< 具体的な誤りのご指摘があれば、お願いします >と、いけしゃあしゃあと臆面も無く要求する発言」、そして5178のななえさんが國臣さんに対して言ったのは「國臣さんいわく“かなり前”の記憶にしか基づかない批判内容の確実性と他者から視た信頼性」を問うたものであり、これらのテーマとマイナーな著作・メジャーな著作での引用云々とは完全に無関係な話だと私は思います。
 「そんなことはない。マイナーな著作・メジャーな著作での引用と関係ある話だ」とおっしゃるならば、どう「ロクなデータも挙げない批判行為の妥当性」あるいは「自分自身は文章を具体的に挙げた上で指摘しない・できないくせに、他人に対しては具体的な指摘を要求する発言」または「記憶にしか基づかない批判内容の確実性と他者から視た信頼性」と関わるのかについて、お手間を取らせて申し訳ありませんがご説明をお願いします。 オツムが足りない私には全く解りませんので。
 と、いう訳で申し訳ありませんが、IKさんのどう関わるのかについてのご説明に私自身が納得できない限り、「マイナーな著作・メジャーな著作での引用」関連の話題は“私の大嫌いな横道に逸れた議論”に該当すると見なしますから今後はパスさせていただきますので、悪しからずご了承をお願いします。m(_ _)m

< 前提知識を期待すること自体が不当だと言うのであれば、その不当さは、「銀河英雄伝説」「創竜伝」にもあてはまるのではないでしょうか。
 「銀河英雄伝説」「創竜伝」を未読、かつ所有していない参加者にとっては、「文脈も踏まえてきっちりと引用して貰わないと議論に参加できずそもそも正否の判断をつけようがない」という状況は、今回の件における「中国武将列伝」未読の人と大差ないと思われます。 >

 では逆にIKさんにお尋ねしたいのですけど、田中芳樹を撃つ!の閲覧者は、「銀河英雄伝説」「創竜伝」を既読で所有しているであろうと思しき方々が多いと考えられるにも関わらず、「管理人の本論」における管理人さんや、「私の創竜伝考察」その他での冒険風ライダーさんは、なぜ一々小説の文章というデータを記載なさるのでしょうか?

 < 前提知識を期待すること自体が不当だと言うのであれば、その不当さは、「銀河英雄伝説」「創竜伝」にもあてはまるのではないでしょうか >については、私は「全くそのとおり!」と回答します。
 田中芳樹氏批判にしろ、田中芳樹を撃つ!批判にしろ、その他の意見にしろ、自分の意見・批判についての基盤となるデータに関する「前提知識」を、見も知らぬ他者に期待するなんて甘ったれるのも大概にしろ、とも私は思っています。

 今回の5097での國臣さんの田中芳樹氏批判を例に挙げるなら、私ならばこのようにデータを開示します。
 ちょっと長いのですけど、ご辛抱ください。

例文
(「中国武将列伝 おわりに」より抜粋)
< 今年は司馬遼太郎さんが亡くなられて、歴史小説界はそれだけで話題持ちきりという感じでした。司馬さんの──さっきから、非常になれなれしいいい方を、しているんですが、ちょっと他にいいようがないので、これで失礼させていただきます。でもって、司馬さんの傑作のひとつでぼくも好きな作品に『関ヶ原』というのがあります。
(中略)
 『関ヶ原』がなぜ傑作であるかという、ぼくなりの意見を述べさせていただきますと、石田三成、直江兼次、島左近という三人について、非常に魅力的な虚像をつくりあげたという点にあると思います。
  歴史小説の使命というのは、実像を暴くことでありませんね。ときどき実像を暴く小説なんて出版広告があって、どうもこれは矛盾があるんじゃないかと思うのです。実像を暴くのは学問やノンフィクションの仕事であって、歴史小説の使命──というのもおおげさですが、存在意義というのは、魅力的な虚像をつくるということにあるんじゃないかと、ぼくはずっと思ってました。ですから、その意味で『三国志演義』などは大傑作というしかありません。ただあくまでもフィクションですから、読者のほうが史実との区別をつけながら読んだ方がいいということです。
(中略)
  話をもどしますと、石田三成というのは、そうとうに嫌なやつなんですね。どう嫌なやつかというと、校長先生お気に入りの風紀委員長といえは、現に委員をやってる人には失礼ですが、やっていない人たちにはかなりよくわかっていただけるかと思います。もっと嫌ないい方をすると、虎の威を借る狐ですね。バックに強大な権力を持った人がいて、その人のバックアップを得て初めて能力を発揮できるというようなタイプです。石田三成はたとえば千利休切腹事件とか豊臣秀次一族の皆殺し事件なんかにもかなり主体的に関わっておりまして、正義感だけで行動しているような人ではありません。
  有名な話ですが、あるとき三成が杖を落とします。ちょうど通りかかった徳川家康が自ら杖をひろいあげて三成に差し出すと、三成はは無言でそれを引ったくって、そのまま行ってしまいました。三成びいきの人に言わせると、たった十九万石の三成が二百五十万石の家康にへつらわなかった、三成は偉い、ということになるのですが、これは単に三成が非常識で礼儀知らずだったというだけというだけのことでしょう。落とし物を人に拾ってもらっておいて礼もいわないんですから。そもそも三成は独立した十九万石の小諸候というわけでなくて、バックに秀吉の強大な権力があるのです。だから家康の家臣たちも、歯ぎしりしながら三成に手が出せなかった。そういう三成が司馬さんの筆にかかると、非常に不器用なほどに正義感の強い、清潔な人間像という形で浮かびあがってくるのです。
(中略) *注意 直江兼次と島左近に関する著述は、國臣さんの5097の批判にも概略程度にしか記載されていない故に省略しています。
  というわけでこの三人、実際にははっきりいって全然たいしたことないんですけども、それが司馬さんの筆にかかると、家康に匹敵するような才能と魅力を持った人物として造形されるわけです。ぼくたちは関ヶ原の戦いの後に、家康が豊臣家を滅ぼすためにいかに悪辣な手段をとったかということを知っていますから、もう関ヶ原の時点から家康は悪いやつだという先入観を持ってしまうんですけど、あの当時の人にそんなことはわかりませんね。とにかく豊臣秀吉というのは、日本人として一番人気があるといっていいキャラクターですけども、天下統一後の豊臣政権というのは、日本史上最悪の政権だといっていいと思います。ひとつには無意味な外征をする。ひとつには重税ですね。これは江戸時代よりはるかに重い税を農民に負担させています。それを計画立案したのが長束正家で、実行したのは石田三成ですね。それから三番目には弾圧粛清。豊臣秀次の一家、お妾だけで何十人もいたというんですが、それから小さな子供にいたるまで皆殺しにしている。普通、戦をやっても、小さな子供、特に女の子なんかは命を助けるものです。大阪の陣の後、家康は秀頼の子供のうち男の子は殺していますが、女の子は尼さんにして命を助けていますね。戦でもそうなのに、平時にそういうことをやった権力者というのは、ほかにいません。そして最後に、無益な大土木工事。以上の四つを同時並行してやってのけたのは、日本史上、豊臣政権だけです。秀吉というのは、おそらく日本史上ただひとり、隋の煬帝のような中国的暴君になる資質を持った人だったのです。
  それで秀吉の死後に──そのころはもう前提として秀頼の跡取りというのはあったわけですね。ですから幼少の秀頼のを補佐する重臣を誰にするかということで、家康と三成のどちらをとるかということになります。まあ三成をとったんでは、結局のところ今までの政策が推進されるだけですから、これじゃたまらんと思っている人は、家康につかざるを得ないわけですね。関ヶ原の戦いというのは、もちろん徳川対豊臣という意味の戦いではありません。実のところ、家康派と三成派の戦いですらないんです。アンチ三成派とアンチ家康派の戦いなんですよね。つまり、東軍についた諸将、福島正則なんかはべつに家康に天下をとってもらおうなんて思っていなかった。三成に天下をとられてたまるかと思ったから東軍になったし、西軍の宇喜多秀家だって、べつに三成に天下をとってほしいなんて思っていない。家康にとらせてたまるかというので戦ったわけです。
  特に東軍に参加した諸将の場合、動機に「恐怖」があったと思います。石田三成が天下をとったらどうなるかという恐怖です。たとえば細川忠興などは、千利休の弟子で、関白秀次の友人でした。秀次が一家皆殺しにされたとき、忠興も三成によって粛清されそうになり、家康を頼ってようやく助かるわけです。ですから三成が天下をとるというのは忠興にとっては悪夢というしかない。生きるために家康について必死に三成と戦うしかないわけで、勝って大諸候になったというのは結果でしかありません。
  これを、「三成をはじめとする西軍は豊臣家のため戦った正義派だ。東軍の諸将は豊臣家の恩を忘れ、利をむさぼるために家康についた」と決めつけるのは、ずいぶんと粗雑な意見だと思います。そもそも天下は豊臣家の私有物ではありません。むろんこの逆に、家康が正義の味方ということでもありませんけど。
  それにしてもやはり関ヶ原の戦いというのは、やっぱり日本史上最大の──不謹慎ないい方をすれば──イベントで、そこに焦点をあてて関ヶ原ものというジャンルをつくっただけでも、あの作品はやっぱり記念碑的な傑作だと思うわけです。 >

 …このようにデータを提示したら、次に行うのは理由の説明──「データからどのようにして主張または結論が導かれるのかについての理論の提示」と「データと主張または結論を結び付ける役割の立証」──になります。

 ここからの話は、先程も書き込みました「引用をする“データ”というのはどこからどこまで出せばいいのかは『自分の主張の基盤となるニュースソースに該当するもの』と私は考えており、『最初に自分が意見・批判を主張する際に選択・判断・決定することである』に関することです。
 つまり、自分の主張や結論の裏付けとなる情報の要るものは取り不要なものは捨てる、すなわちデータを『取捨選択』した上で開示します。
 上記の文章に(中略)というのが三箇所ありますよね?
 これは、不要と判断して捨てた箇所が(中略)という意味です。
 それはおかしい、とIKさんはお感じになりますか?
 では、新聞やテレビ・ラジオのニュースはどうでしょうか? 取材その他の手段で入手した情報を全く『取捨選択』もせず垂れ流すように報道しているのでしょうか?
 あと、冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察」はどうですか? 冒険風ライダーさんはご自分が読まれた「創竜伝」の文章というデータを全く『取捨選択』もせずに開示なさってるのでしょうか?

 結論を言えば「新聞やテレビ・ラジオのニュース報道におけるデータの開示とは、送り手が取捨選択した情報を受け手に伝わること狙ったもの」であるのに対し、「議論におけるデータの開示とは、書き手と読み手の双方が共通認識を持ってスムーズで確実な話ができるように書き手が取捨選択したもの」だと私は考えます。

[余談]
 なお、釘を刺させていただきますが、今回私が「中国武将列伝 おわりに」の文章を書き込んだのは、あくまで『私が國臣さんならばこのようにデータを開示する、という例文』であって、この「中国武将列伝 おわりに」の内容に関する議論に参加する気は一切ありませんので、予めご了承ください。

< # 上記の『データ』と『理由』の概念の出展は、イギリスの分析哲学者ステファン・E・トゥールミンの著書
(中略)
からきています。 >

< 邦訳のない、一般的とも言えない英文の著作を「根拠」として挙げられて、とまどいます。 >

 確かに、トゥールミンの「The Uses of Argument」とという書物そのものは現在邦訳されてはいませんが、「根拠=データ(Data)+理由(Warrant)」という、通称「トゥールミンモデル」と呼ばれる概念についての解説が記載された日本語の書物は存在します。
 「トゥールミンモデル」についての解説がある日本語の書物とは下記の二冊です。(ただ私の知る限りの物ですので探せば他にもっとあるかも知れません)
『議論のレッスン』福澤一吉著 NHK出版・生活人新書刊
 議論行為についてとルールの説明を主眼においた初心者向けの解説本です。
 この掲示板で議論に参加されるのであれば一読を薦めます。

『議論の論理=民主主義と議論=』足立幸男著 木鐸社刊
 副題が「民主主義と議論」とあるように、政治学・政治哲学の話題を主軸にして、議論の種類と構造について述べた理論書です。
 こちらは政治問題に興味と関心をお持ちの上で、議論についてより深くお知りになりたい方向けです。
[余談]
 「議論のレッスン」は税抜¥680で書店にて購入できますが、「議論の論理」は現在絶版で再版予定も無いとのこと。
 「議論の論理」を読まれるなら図書館を利用されると良いと思います。
 私も大阪府立図書館で借りて読みましたから。

< この、スティーヴン・E・トゥールミン氏の著作の部分を根拠として挙げられるならば、まず引用されたうえで、さらにどうしてそれが根拠となり得るのかを検証していただかないといけないのではないでしょうか? >

 このご意見に対する回答には、お時間をいただけませんでしょうか。(具体的にどのぐらい時間が掛かるかまでは算出できないんですけど…)
 難問なのと作業(翻訳・調査・推敲その他)に手間が掛かると見てますので、かなり手こずると思います。
 申し訳ありません。

< 「田中芳樹作品」を論じる場で田中芳樹作品を前提知識として期待するのは必ずしも不当とは言えない私は考えますが、哲学プロパーの議論場とは言えないであろうこの場で、トゥールミン氏の著作を前提知識として期待するのは不当ではないでしょうか。 >

 申し訳ありませんけど、これはかなり見当違いなおっしゃりようではないでしょうか。
 私の5177の「根拠」に関する文章は、「根拠とは、データと理由で成り立つものであり、それぞれこういう意味である」という主張がメインであり、トゥールミンの名前や書名を出したのは「私が主張した“データと理由の概念”の出展はこれであり、私自身の思い付きではない」というだけの余談、言わばオマケ、トリビア(笑)にしか過ぎません。(他の文章と区別がつくようにと思い文頭に「#」とわざと付けたのですけど解り辛かったようですね…これからは「余談」と書くようにいたします)
 そして、トゥールミンに関する諸々が、この田中芳樹を撃つ!というサイトの閲覧者の方々に「前提知識として期待する」のはお門違いもはなはだしいことぐらいは私も最初から承知していますし、今後も「前提知識として期待する」気などさらさらございません。
 根拠に関することで私がまた、この掲示板に書き込む時には、田中芳樹を撃つ!の閲覧者の方々には元々「前提知識が無いもの」と見なして新たに記入します。
 …これで、回答になっておりますでしょうか?

< よりこさんが提示された問題は今後「田中芳樹を撃つ!」で議論がなされていくうえで、極めて重要だと考えましたので、敢えて疑義を提出いたしました。 >

 ありがとうございます。
 國臣さんへの激怒から来た私のログに対して、そのように過大な評価をしていただけるなんて思ってもみませんでしたので、とても恐縮です。

 取り敢えず今回はここで失礼します。

収録投稿21件目
board4 - No.5207

Re:観察者さんに感謝します

投稿者:よりこ
2004年02月11日(水) 10時15分

 はじめまして、観察者さん。
 このたびは適切にフォローをしてくださりありがとうございました。

< ステファン、もしくはスティーブン・E・トゥールミンディベートの教科書に登場するような著名な人のようです。 >

 私は「ステファン」の方が「スティーブン」より響きが綺麗でいいな、というミーハーな理由で「ステファン」で呼ぶ&書いております。
 確かに、ステファン・E・トゥールミンの名は日本ではあまり知られてはいませんけど、欧米の議論関連の書物などで彼の議論モデルと一緒によく紹介されています。
 教えてくださった2つのサイトも早速見に行ってきました。
 特に後者のサイトに、しばらくは何度も見に行くでしょう。
 情報のご提供に感謝いたします。

< 実際50年近く昔の人で、その名は知られておらずとも、トーマス・クーンの「パラダイム」と同じように、その議論に対する論証モデルはほぼ公知のものとして広く使われているようです。
 つまりそういうやり方が輸入された時(われわれの大半が生まれる前)からこの人の論証モデルは使われており、われわれはディベート形式や、ものごとを突き詰めて討論する時に、知らずにこの人のモデルを使っているという事のようです。
 というよりも、データのみを示して意見の理由付けを述べなかったり、意見の裏づけとなるデータを示さないか、それを恣意的に編集するようなやり方を避けるべきというのは、原典となるデータが確実にある(田中氏の著作)この掲示板の過去の論考でも示されており、(例えば、冒険風ライダー氏などの論考では、引用した文献や出典が、田中氏の著作以外でもかなりはっきりと明示されていますが)
 今回の突っ込みもそうした性格に類するものではないかと思われます。 >

 お…大当たりです(笑) 今回のケースは、國臣さんがどれくらい前に読んでどの程度確実に言えるのかもはなはだ怪しい記憶に基づいた田中芳樹氏批判を、データの開示どころか原著を読み直して確認すらせず臆面も無く振りかざすログ&スレッドを読んでいるうちに、私の堪忍袋の緒がブチ切れた故のツッコミでした…
 私ですら5177の書き込みをする前に「中国武将列伝」の下巻(ついでに上巻も)と「関ヶ原」をわざわざ図書館に行って借りて目を通して國臣さんとの丁々発止に対して備えてたのに、批判する当の本人が原著を読み直しもしないとは…

 もう一度お礼を申し上げます。
 観察者さんありがとうございましたm(_ _)m

収録投稿22件目
board4 - No.5208

Re:IKさんへ

投稿者:IK
2004年02月11日(水) 12時58分

>  IKさんこんにちは、はじめまして。よろしくお願いします。
>  そして、レスが遅くなってしまい申し訳ありませんでした。

いいえ、多分にまとはずれであるかも知れない私の書き込みにかくも早いレスポンスに感謝いたします。

>  引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは『自分の主張の基盤となるニュースソースに該当するもの』と私は考えており、『最初に自分が意見・批判を主張する際に選択・判断・決定することである』と思います。
>  引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは、その意見・批判の種類や性質、あるいは意見・批判を述べる人物によっても千差万別だとも思いますし、一概には言えません。
>  それを読む他者で「最初に開示されたデータでは不十分だ」と思う人は改めて尋ねれば良いだけでは。
>  そして、「その文がどういう文脈、経緯で書かれているか」については、元々の意見・批判の文章に対する他者のレスに対してさらに説明なり反論なりを行う際に、必要に応じて新たに述べれば良いことではないのでしょうか?
> (…と、いうより「議論でのやりとり、って結局そういうことではないのか?」と私は思うんですけど…)

常識としてよりこさんのおっしゃることはもっともだと思いますし、常識としては私も支持しますが、私はいささか極端な場合を考えているのです。
データの引用の範囲の正当性が主観的にならざるを得ないのだとしたら、あらゆる言葉、概念に厳密な定義を要求し、引用の拡大を求め、議論の霍乱、端的に言えば「嫌がらせ」をすることも、手続きとしてはまったく「正当」な手順を踏みながら可能になるのではないでしょうか。
これは確かに本題からずれているかも知れませんが、よりこさんのおっしゃる常識的には至極もっともな議論態度を「そうでなければならない」とした時に発生するであろう実際的な懸念です。
現実に意図してかどうかまでは判別できませんがそうした型の論者もいるようですし、そうした「ずれた議論」を正当化する根拠を結果として、「議論の前提としてきっちりと定義・引用をしなければならない」というまっとうな態度が与えてしまうこともあるのではないでしょうか。
私はディベート論には疎いのですが、トゥールミン・モデルではこのあたり、どう解決しているのでしょうか。

>  ちょっと待ってください。
>  < 今回、「中国武将列伝」という田中氏の著作でもマイナーな著作であったがために、引用の是非が問題として浮かび上がりました >と、IKさんはおっしゃいますけど、5097の國臣さんの田中芳樹氏批判から始まったスレッドのどこで何の箇所から、そしてどうしてIKさんはそう解釈なさったのでしょうか? 全く思いもよらない話題を持ち出されて私はひどく困惑しております。

ここは確かに私の解釈が入っていたようでした。そもそもの論点はよりこさんのおっしゃる通りであり、それに対して、上記のような疑義を私は提出したのですが、「銀河英雄伝説」などでは見過ごされがちな同様の現象が今回特に浮かび上がったのは、「中国武将列伝」という作品ゆえなのかな、と考えて先走ったようです。
ただし「マイナー・メジャー論」とは実際的には無関係な話ではないとは思いますが、それについては以下の段で取り上げていらっしゃいますのでそこで論じましょう。

なお、「オツムが足りない私には全く解りませんので。」ということですが、私にはよりこさんがオツムが足りない方だとはまったく思えません。聡明なよりこさんには充分にご理解いただけるかと思いますが、こうした表現は「皮肉」ととられる恐れがあり、議論を無駄に刺々しいものにする効果がありますので、出来れば避けられた方がいいでしょう。國臣さんに対する「いけしゃあしゃあと臆面も無く」という表現も同様ですね。
こうした刺々しい表現のみを抜き出して「このような方と議論をすることは出来ない」と相手側に道徳的正当性を与えかねませんので。
これは老婆心(男ですけど)ゆえのお節介なので、お聞き辛ければ
聞き流してください(同じことは2度は申しません)。私もそう偉そうなことを言えた身分でもないんですけどね。

>  では逆にIKさんにお尋ねしたいのですけど、田中芳樹を撃つ!の閲覧者は、「銀河英雄伝説」「創竜伝」を既読で所有しているであろうと思しき方々が多いと考えられるにも関わらず、「管理人の本論」における管理人さんや、「私の創竜伝考察」その他での冒険風ライダーさんは、なぜ一々小説の文章というデータを記載なさるのでしょうか?

これについて返答できるのは、管理人さんや冒険風ライダーさんはさすがに議論の常道を弁えていらっしゃるということです。
データ(根拠)を示して論をたてるというトゥールミン・モデルそのものは、「常道」としては適切なものだと思いますし、それについては前の書き込みでもその意は表明したと思います。
私が強調しているのは、「そうした方がいい」ことと「そうでなければならない」の違いです。
「そうでなければならない」とした時に、前記のような弊害が考えられる以上、この「常道」の採否は個々人に委ねるしかないと私は考えています。
もちろんそこから発生する議論の程度を、他人に評価されるのもこれもまた当然のことです。

< 前提知識を期待すること自体が不当だと言うのであれば、その不当さは、「銀河英雄伝説」「創竜伝」にもあてはまるのではないでしょうか >については、私は「全くそのとおり!」と回答します。
>  田中芳樹氏批判にしろ、田中芳樹を撃つ!批判にしろ、その他の意見にしろ、自分の意見・批判についての基盤となるデータに関する「前提知識」を、見も知らぬ他者に期待するなんて甘ったれるのも大概にしろ、とも私は思っています。

ここについては異見があります。この場はあくまで、「田中芳樹作品」について論じるというくくりがあります。もともとそういう閉鎖的な、主題が特化した場なのです。
「田中芳樹作品」に通じているのは参加者の資格として要求されてしかるべきではないでしょうか。たまたま通じていない場合はその議論に参加しなければいいだけのことです。
極端な話、学会などでの公開議論で、まったくそのジャンルに通じていない第三者が参加して、用語や概念の説明をいちいち求めることが適当でしょうか?
専門家の間では公知の文章などの引用を求めることが、適切でしょうか。
それに応えないと、専門家は「甘ったれ」だと指弾されてしかるべきなのでしょうか?

「田中芳樹を撃つ!」について具体的な場面を考えれば、例えば「ラインハルトは美貌である」という書き込みについても、いちいち出典を明記して論じなければならないという非効率を生むことにもなりかねません。
これがかなり極端な想定であるというのは承知していますが、「そうでなければならない」とした時に想定しておくべき状況ではないかと思いますが、いかがでしょうか。

>  今回の5097での國臣さんの田中芳樹氏批判を例に挙げるなら、私ならばこのようにデータを開示します。
>  ちょっと長いのですけど、ご辛抱ください。

この長い引用をされるのにどれだけ手間がかかったことでしょう。感謝と敬意の念を表明しておきます。
ただしこの手間をあらゆる人に要求するのは実際的ではない、と私は考えます。
例えば銀河英雄伝説であれば「ノヴェルズ版第何巻の何ページ」と典拠を示すだけで充分ではないかと思いますが。求められれば要約するくらいのことはした方がいいと思いますが。

>  上記の文章に(中略)というのが三箇所ありますよね?
>  これは、不要と判断して捨てた箇所が(中略)という意味です。
>  それはおかしい、とIKさんはお感じになりますか?
>  では、新聞やテレビ・ラジオのニュースはどうでしょうか? 取材その他の手段で入手した情報を全く『取捨選択』もせず垂れ流すように報道しているのでしょうか?
>  あと、冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察」はどうですか? 冒険風ライダーさんはご自分が読まれた「創竜伝」の文章というデータを全く『取捨選択』もせずに開示なさってるのでしょうか?

いずれにせよ個人を透過したうえで、「取捨選択」をするという限界があるわけですよね。その捨てられた部分こそ論を積み上げていく上で重要であるという人も当然いるでしょう。
そうして示されたデータが絶対のものとは言えないと私が考えるゆえんですし、絶対というものが可能かどうかも分かりませんが、この絶対に拘ったならば、議論はそもそも成立し得るのでしょうか?

[余談]
 なお、釘を刺させていただきますが、今回私が「中国武将列伝 おわりに」の文章を書き込んだのは、あくまで『私が國臣さんならばこのようにデータを開示する、という例文』であって、この「中国武将列伝 おわりに」の内容に関する議論に参加する気は一切ありませんので、予めご了承ください。

ということですが、このスレッドの本論はあくまで、「中国武将列伝 おわりに」の内容に関する議論なのですから、データの提示方法に関する議論は「脇道にそれたもの」なのではないでしょうか。私は脇道にそれること自体は否定しませんし、よりこさんが提示された問題もこうして論じるに足るものであるとは思いますが、これも議論がきっちりと本論と脇道に分離できない、ひとつの現われではないかと考えています。

>  議論行為についてとルールの説明を主眼においた初心者向けの解説本です。
>  この掲示板で議論に参加されるのであれば一読を薦めます。

この掲示板における議論のルールはトゥールミン・モデルに依拠しなければならないという規定でもあるのでしょうか?

> < 「田中芳樹作品」を論じる場で田中芳樹作品を前提知識として期待するのは必ずしも不当とは言えない私は考えますが、哲学プロパーの議論場とは言えないであろうこの場で、トゥールミン氏の著作を前提知識として期待するのは不当ではないでしょうか。 >
>
>  申し訳ありませんけど、これはかなり見当違いなおっしゃりようではないでしょうか。
>  私の5177の「根拠」に関する文章は、「根拠とは、データと理由で成り立つものであり、それぞれこういう意味である」という主張がメインであり、トゥールミンの名前や書名を出したのは「私が主張した“データと理由の概念”の出展はこれであり、私自身の思い付きではない」というだけの余談、言わばオマケ、トリビア(笑)にしか過ぎません。(他の文章と区別がつくようにと思い文頭に「#」とわざと付けたのですけど解り辛かったようですね…これからは「余談」と書くようにいたします)

残念ながら、と申し上げますが、これが見当違いとは思えません。ここの参加者の大半にはおそらくなじみが薄いであろう、トゥールミン・モデルなるものを「根拠」として、國臣さんの書き込みを批判された訳ですから、トゥールミン・モデルの是非はよりこさんの主張の根幹をなされる、重要なポイントになると思われます。
トゥールミン・モデルの大枠の説明はなされましたが、あらゆる状況を想定された上での、検証はされてはいないですよね。
それを欠いた上での「トゥールミン・モデルから外れているから駄目だ」とおっさるのは、トゥールミン・モデルなるものが、ここの参加者にとって公知である、前提知識であると想定されているからだとしか私には考えられません。
現状では、トゥールミンがそう言っているからそれは正しいという単なる権威主義にしか見えません。

もっとも、この点、次回以降、検証されるということですから、この書き込みで提出した私の疑問も踏まえて、ご説明いただけると随分、歩み寄れるのではないだろうかと期待しております。

収録投稿23件目
board4 - No.5221

これにて撤退します。

投稿者:よりこ
2004年02月15日(日) 00時16分

 IKさんこんにちは。レスが大変遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
 さて、IKさんの5208のログに対して、私はどのように対応すべきかをずっと考えていました。
 考えた結果、あまりにもIKさんのおっしゃりようは極端で常識レベルの話とはかけ離れているため私には到底つき合い切れない、このままやり取りをしても「労ばかり多くて、私にとって何の益も無い」とも判断しました。
 そして、件名にも書きましたように「これを最後に撤退する」ことを私は決心したのです。

< なお、「オツムが足りない私には全く解りませんので。」ということですが、私にはよりこさんがオツムが足りない方だとはまったく思えません。聡明なよりこさんには充分にご理解いただけるかと思いますが、こうした表現は「皮肉」ととられる恐れがあり、議論を無駄に刺々しいものにする効果がありますので、出来れば避けられた方がいいでしょう。國臣さんに対する「いけしゃあしゃあと臆面も無く」という表現も同様ですね。
  こうした刺々しい表現のみを抜き出して「このような方と議論をすることは出来ない」と相手側に道徳的正当性を与えかねませんので。
  これは老婆心(男ですけど)ゆえのお節介なので、お聞き辛ければ聞き流してください(同じことは2度は申しません)。 >

 < こうした表現は「皮肉」ととられる恐れがあり、議論を無駄に刺々しいものにする効果がありますので、出来れば避けられた方がいいでしょう >とのご意見は、IKさんのおっしゃる通りだと思いました。
 ご忠告ありがとうございます。
 以後気をつけますので。

 それ以外の話題について。

< 引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは『自分の主張の基盤となるニュースソースに該当するもの』と私は考えており、『最初に自分が意見・批判を主張する際に選択・判断・決定することである』と思います。
 引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは、その意見・批判の種類や性質、あるいは意見・批判を述べる人物によっても千差万別だとも思いますし、一概には言えません。 >

< 常識としてよりこさんのおっしゃることはもっともだと思いますし、常識としては私も支持しますが、私はいささか極端な場合を考えているのです。 >

 私は元々(5117のログ)からIKさんいわくの< 常識として >の話をしていました。
 「議論において根拠を述べること」は至って当たり前の常識に基づく行為ではないのか? と。
 そしてIKさんいわくの< 極端な場合 >についての話までは正直つき合い切れないのです。
 < 常識としては私も支持します >とも、IKさんもおっしゃってくださいましたので、私はそれでもう充分です。
 というわけで、私の方はこれにてお開きにさせていただきます。
 悪しからずご了承ください。

< では逆にIKさんにお尋ねしたいのですけど、田中芳樹を撃つ!の閲覧者は、「銀河英雄伝説」「創竜伝」を既読で所有しているであろうと思しき方々が多いと考えられるにも関わらず、「管理人の本論」における管理人さんや、「私の創竜伝考察」その他での冒険風ライダーさんは、なぜ一々小説の文章というデータを記載なさるのでしょうか? >
< これについて返答できるのは、管理人さんや冒険風ライダーさんはさすがに議論の常道を弁えていらっしゃるということです。 >

 私の質問の仕方が悪かったみたいですね。
 私がIKさんにお尋ねしたのは、「なぜ“管理人の本論”における管理人さんや、“私の創竜伝考察”その他での冒険風ライダーさんは、一々小説の文章というデータを記載なさるのか?という『理由』であって、その行為についてのIKさんの「評価」を伺ったのではありませんでした。
 そしてIKさんいわくの「常道」の話を、5117からずぅ〜っと私はしてるんです。
 5117で國臣さんに対して申し上げたのは要するに「議論の常道を弁えてくれ」って話であって、それ以上でもそれ以外でもありません。

< データ(根拠)を示して論をたてるというトゥールミン・モデルそのものは、「常道」としては適切なものだと思いますし、それについては前の書き込みでもその意は表明したと思います。 >

 この件についても了解しました。
 そのお返事をいただけましたら私は充分です。

< 議論行為についてとルールの説明を主眼においた初心者向けの解説本です。
  この掲示板で議論に参加されるのであれば一読を薦めます。 >

< この掲示板における議論のルールはトゥールミン・モデルに依拠しなければならないという規定でもあるのでしょうか? >

 全然違います。
 私が「議論のレッスン」という本を薦めた理由は、議論行為についてとルールの説明が簡単明瞭で分かりやすい──少なくとも私には──だからです。
 トゥールミンモデルの解説「も」記載されている、というだけの話であって他意はありません。
 < この掲示板における議論のルールはトゥールミン・モデルに依拠しなければならないという規定でもあるのでしょうか? >についてですけど、私は言い掛かりをつけられているのでしょうか?

 今回のIKさんのログを拝読しての感想は、なぜそんなに一般的とか普遍的とかからかけ離れた話ばかりなさるのか? そして、徒らに話を拡大させたがるのか? 上記のような、まるで言い掛かりをつけられているようなおっしゃりよう etc...に正直な話、凄く苦痛に感じてしまいました。
 私が5117でも5206でも申し上げたのは、あくまでIKさんいわくの< 常識として >であり、< 議論の常道を弁えて >の話です。
 そして、IKさんの下記のログに対して…
< この、スティーヴン・E・トゥールミン氏の著作の部分を根拠として挙げられるならば、まず引用されたうえで、さらにどうしてそれが根拠となり得るのかを検証していただかないといけないのではないでしょうか? >
 私は下記のように書き込みましたが…
< このご意見に対する回答には、お時間をいただけませんでしょうか。(具体的にどのぐらい時間が掛かるかまでは算出できないんですけど…)
 難問なのと作業(翻訳・調査・推敲その他)に手間が掛かると見てますので、かなり手こずると思います。
 申し訳ありません。 >

 IKさんの5208のログを読んでいるうちに、激しく後悔してしまいました。(「安請け合いはするな」と今後の教訓として生かします)
 自分で言い出しておいてそれを破るのも情けない話ですけど、完全に私自身やる気を失い、かつIKさんとのやり取りを続ける意義も見いだせなくなってしまいましたので、上記の約束は撤回させていただきます。
 約束を破ることに関しては、どのような非難も甘んじて受けますし心からお詫びします。m(_ _)m

 あとは前回の書き込みと何も変わりませんので割愛します。
 もうこれ以上、IKさんに対して私に言うことは何もありません。
 戦争の勝利とは「戦略目標の達成」であるのと同様に、議論での勝利も「自分の戦略目標の達成」であると私は思いますし、私の目標である「ごく常識の話である、ということでIKさんのご理解とご支持を獲得する」という自分の戦略目標は達成しましたので、これで撤収いたします。

 では、これにて私は失礼します。
 IKさんもお疲れさまでした。

収録投稿24件目
board4 - No.5224

Re:これにて撤退します。

投稿者:IK
2004年02月15日(日) 21時51分

>  IKさんこんにちは。レスが大変遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
>  さて、IKさんの5208のログに対して、私はどのように対応すべきかをずっと考えていました。
>  考えた結果、あまりにもIKさんのおっしゃりようは極端で常識レベルの話とはかけ離れているため私には到底つき合い切れない、このままやり取りをしても「労ばかり多くて、私にとって何の益も無い」とも判断しました。

ごもっともです。私が要求したことは「常識」を大きく外れていて、過大というか、ほとんど不可能なものだったのですから。
ただし、それが常識外れであると客観的に証明できるでしょうか。これは更に、議論は常識の上にのっとっていなければならないという是非を客観的に証明されたうえで、なお必要なことです。
私がそもそもよりこさんに提出した疑問のひとつは「そういうことが本当に可能なのですか」ということだったのですが、今回こうして撤収宣言をされたことによって、結果として「それは不可能である」との答えを頂いたと思っております。

モデルというものはそもそも限定的な条件においてのみ成立し得るものです。トゥルーミン・モデルにしても、「データを指し示す」という前提そのものに疑義を挟まないで初めて、成り立つものだろうと私は考えております。
それは本当にデータと言えるのか、何を以ってしてデータと言えるのか、そのデータが充分であるとどうやって証明するのか、などと疑義を持ち出せば、なかなか成立しにくいのは今回、よりこさんご自身、痛感されたのではないでしょうか。
そもそも國臣さんにしても、少なくともデータの所在については「中国武将列伝」のあとがき、という形で示されていたのですよ。それが充分ではない、とよりこさんは主張されたわけですが、それが充分でないということをどう証明されますか、という私の問いかけは「いちゃもん」と思われたわけですよね。
まあ、正直、いちゃもんと言われても仕方がないようなやり方ではありましたが、これがいちゃもんでなく、正真正銘の私の疑問であれば、どうしますか?
トゥールミン・モデルで「なければならない」、とした時に、データの信頼性を証明するのはデータ提出者の「義務」になるのではないでしょうか?
だから、せいぜいが「そうした方がいい」くらいのことしか言えないんじゃないでしょうか、と私は言ったのですが。

常識とおっしゃいますが、月並みですが、人によって常識は違います。どこからが「正当な疑問」でどこからが「いちゃもん」であるか、客観的に証明出来ないのであれば、データを指し示すことを議論の提議者に絶対の義務として課した時、ありとあらゆる「いちゃもん」に提議者は応えなければならない、しかも「いちゃもん」の種は永遠に尽きることはないのです。
限定的な条件が成立しないような場所でトゥルーミン・モデルを絶対視した時に、起こりえる事態ではないでしょうか?

よりこさんは議論において、そうした「いちゃもん」をつけられたことのない幸福な方なのかも知れません。ただし、単なる勝ち負けを追及する型のディベートではこうした「いちゃもん」をつける、話を反らすやり方は珍しいことではありませんし、あくまで私から見てですが、常識外れな方もしばしばこの掲示板を訪れます。最近もひとりいらっしゃったようですが。
よりこさんの主張は善意から出たものとは言え、結果的にそうした人たちに「いちゃもん」をつける余地を与えることになるのです。

>  「議論において根拠を述べること」は至って当たり前の常識に基づく行為ではないのか? と。
>  そしてIKさんいわくの< 極端な場合 >についての話までは正直つき合い切れないのです。
>  < 常識としては私も支持します >とも、IKさんもおっしゃってくださいましたので、私はそれでもう充分です。
>  というわけで、私の方はこれにてお開きにさせていただきます。
>  悪しからずご了承ください。

はい、了解しましたが、「そうでなければならない」とした時には「極端な場合」を想定しないといけないのではないでしょうか。

> < では逆にIKさんにお尋ねしたいのですけど、田中芳樹を撃つ!の閲覧者は、「銀河英雄伝説」「創竜伝」を既読で所有しているであろうと思しき方々が多いと考えられるにも関わらず、「管理人の本論」における管理人さんや、「私の創竜伝考察」その他での冒険風ライダーさんは、なぜ一々小説の文章というデータを記載なさるのでしょうか? >
> < これについて返答できるのは、管理人さんや冒険風ライダーさんはさすがに議論の常道を弁えていらっしゃるということです。 >
>
>  私の質問の仕方が悪かったみたいですね。
>  私がIKさんにお尋ねしたのは、「なぜ“管理人の本論”における管理人さんや、“私の創竜伝考察”その他での冒険風ライダーさんは、一々小説の文章というデータを記載なさるのか?という『理由』であって、その行為についてのIKさんの「評価」を伺ったのではありませんでした。
>  そしてIKさんいわくの「常道」の話を、5117からずぅ〜っと私はしてるんです。
>  5117で國臣さんに対して申し上げたのは要するに「議論の常道を弁えてくれ」って話であって、それ以上でもそれ以外でもありません。

これは私の方こそが言葉が足りなかったようです。理由についてはよりこさんがおっしゃっている通りだと思いますよ。
私がこの点で特に要求しているのは、その理由が「そうでなければならない」とする客観的な根拠、及びその証明です。
お分かりいただけると思いますが、トゥールミンや、管理人さんや、冒険風ライダーさんがそうされているからと言って、余人が尽くそれに倣わなければならないという御説の証明には何らなり得ていません。
その方々がそのような記述形式を自らに課しているということから言えるのは、「その方々がそのような記述形式を自らに課しているということ」だけです。
リンカーンも、FDRも、ケネディも朝食はトーストとスクランブルエッグだった、だから朝食はトーストとスクランブルエッグで「なければならない」という主張が、妥当と証明されないのと同じことです。

> < 議論行為についてとルールの説明を主眼においた初心者向けの解説本です。
>   この掲示板で議論に参加されるのであれば一読を薦めます。 >

> < この掲示板における議論のルールはトゥールミン・モデルに依拠しなければならないという規定でもあるのでしょうか? >
>
>  全然違います。
>  私が「議論のレッスン」という本を薦めた理由は、議論行為についてとルールの説明が簡単明瞭で分かりやすい──少なくとも私には──だからです。
>  トゥールミンモデルの解説「も」記載されている、というだけの話であって他意はありません。
>  < この掲示板における議論のルールはトゥールミン・モデルに依拠しなければならないという規定でもあるのでしょうか? >についてですけど、私は言い掛かりをつけられているのでしょうか?

言いがかりでしょうか? よりこさんがおっしゃったのは、それを勧めるというだけではなく、「この掲示板で議論に参加されるのであれば」という前提が提示されております。
これは、それを読んでいないと「この掲示板で議論に参加する資格がない」というように読めますが、これは「うがちすぎ」ということになるのでしょうね。
正直、「この掲示板で議論に参加されるのであれば一読を薦めます」とおっしゃりようには驚きました。
それで、「そういう規定でもあるのですか?」と伺った次第です。

>  今回のIKさんのログを拝読しての感想は、なぜそんなに一般的とか普遍的とかからかけ離れた話ばかりなさるのか? そして、徒らに話を拡大させたがるのか? 上記のような、まるで言い掛かりをつけられているようなおっしゃりよう etc...に正直な話、凄く苦痛に感じてしまいました。

それは確かに苦痛でいらっしゃったのでしょう。その苦痛を与えた当人が言うのもなんですが、同情申し上げます。
すこぶる健全な、極めて常識的とも言えるよりこさんのご意見にこうして異論をぶつけたのは、よりこさんが主張する「そうでなければならない」と言うご意見がこの掲示板の常識として通った時に、よりこさんが今回味わわれた苦痛を私もまたいつか味わうことになる可能性が強かったからです。

ともあれ、お付き合い下さり有り難うございました。非常に厄介な男に思われたかも知れませんが、またいつか別の議題で、お相手いただけたら嬉しく思います。
では。

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