薬師寺シリーズ考察8

薬師寺シリーズ7巻 霧の訪問者

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薬師寺シリーズ考察8

投稿者:冒険風ライダー(管理人)
2009年07月30日(木) 00時05分

 ところで、薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」のストーリーは軽井沢を舞台に展開されているのですが、実はこの軽井沢という土地は、作家である田中芳樹の避暑地にして夏の仕事場でもあるんですよね。
 田中芳樹が夏の間軽井沢で執筆活動に励んでいることについては「らいとすたっふ」社長氏のブログでしばしば言及されていますし、「とっぴんぱらりのぷぅ 田中芳樹のブックガイド」には、軽井沢に在住している久美沙織女史と田中芳樹の対談が「夢の軽井沢ご近所対談」と銘打たれて収録されています。何でも田中芳樹は夏に弱い以上に冷房に弱いので、避暑地である軽井沢で仕事をするようになったのだとか。
 その影響もあってか、薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」では、作中のあちこちで軽井沢にまつわるウンチク話が披露されています。作中で繰り返し熱唱されている大音量の反米交響曲シリーズに比べれば、その内容は比較無難なものですし、作中における軽井沢という舞台の説明という形でストーリーや作品設定ともある程度の関わりを持つものではあるのですが、あまりの文章量の多さとその他社会評論の大量頻出ぶりに、私はこれについても「ページ稼ぎ目的でこれ書いているのか?」「軽井沢についてこんなに書くことがあるのならば、ボランティアで軽井沢観光ガイドブックでも書けば良いんじゃないの?」といった感想をついつい抱かざるをえませんでしたね。作中の世界設定にこだわる田中芳樹の執筆スタンス自体は、個人的にはむしろ好きな方なのですが。
 それでは前回に引き続き、薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」についての論評を行いたいと思います。

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P114下段〜P115上段
<メイドたちの報告で、侵入者の全員がかたづいたことがわかった。私は念のため建物の周囲をまわり、四人のアメリカ人と八人の日本人の倒れた姿を確認した。アメリカ人のひとりの胸で銀色にかがやくものがある。英語の文章をきざんだバッジだった。
「神のもとにひとつの世界(ワン・ワールド・アンダー・ゴッド)」
 慄然とした。
「神のもとにひとつの国家(ワン・ネーション・アンダー・ゴッド)」
 というのはアメリカ建国のフレーズで、いいかえれば「神国アメリカ」ということである。たいていの日本人はアメリカを自由で民主的な近代国家だと信じこんでいるが、実は古いヨーロッパの国々よりはるかに宗教色の強い神権国家で、自由も民主主義も神あってのものなのだ。大統領は就任するとき、聖書を手に置き、神に対して宣誓する。無神論者や仏教徒が大統領になることは絶対にありえない。>

 アメリカが神権国家であることを立証する事例として大統領就任式の宣誓を挙げるのは不適切も良いところでしょう。いつものごとく、物事の表層的な部分しか見ていない表層的な社会評論としか評しようがありませんね。
 アメリカの大統領就任式の宣誓は、アメリカ合衆国憲法第二条第一節の8にある「大統領は、その職務の遂行を開始する前に、次のような宣誓又は確約をしなければならない。『私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う(OR確約する)』」という規定に基づき行われているのですが、この「宣誓又は確約をしなければならない」対象が「キリスト教の神でなければならない」とは全く書かれておりません。「宣誓又は確約」自体は憲法に書かれている以上当然行わなければならないのですが、その「宣誓又は確約」の際には何が何でも聖書を使用しなければならず、他の物は一切用いてはいけない、ということはないのです。
 たとえば、アメリカ第6代大統領であるジョン・クインシー・アダムズは、1825年の大統領就任式の際、聖書ではなく法律書を使って宣誓を行っていますし、第26代大統領のセオドア・ルーズベルトも、聖書を使わずに大統領就任の宣誓を行っています。聖書を使った大統領就任式の宣誓は、初代大統領ジョージ・ワシントンが行っていたものを慣習的に受け継いでいるものであって、アメリカ大統領就任式における「聖書を使わない宣誓」自体は法的にも宗教的にも充分に可能なのです。
 また、アメリカでは大統領のみならず、上下議員および各州議会の議員、そして行政官や司法官についても、アメリカ合衆国憲法第六条の3で「宣誓又は確約」を行わなければならないと定められていますが、同条には同時に「しかし、合衆国のいかなる官職又は信任による公職についても、その資格として宗教上の審査を課せられることはない」とも規定されています。そして実際、この条文に則り、アメリカ史上初のイスラム教徒議員としてミネソタ州の選挙で当選を果たしたキース・エリソン下院議員という人が、2007年1月4日の就任式で聖書ではなくイスラム教のコーランを使って宣誓を行っている事例まで存在します。すくなくとも、法的および宗教的な理由で、キリスト教以外のアメリカ国民がアメリカの(大統領職を含む)公職に就けない、ということはありえないのです。
 さらに言えば、聖書やコーランを使った宣誓は、アメリカでは政教分離に反したものではないとされています。実はアメリカは世界で始めて憲法の条文に「政教分離」を明記した国でもあるのですが、その「政教分離」を規定するアメリカ合衆国憲法修正第一条には「連邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない。また、言論若しくは出版の自由、又は人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない」と記載されています。
 これはイギリスにおけるイギリス国教会のような「国家自身による国教・教会樹立」の禁止や、特定の宗教組織と国家が結びつくことを禁止する「国家と教会の分離」を定めたものであって、政治に宗教を持ち込むことを禁止する「政治と宗教の分離」を規定したものではないのです。そして一方では「信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない」となっているわけですから、大統領と言えども「信教上の自由な行為」としての聖書を使った宣誓は当然認められるわけです。
 アメリカ式の政教分離を日本に当てはめて説明すると、たとえば創価学会や統一教会やオウム真理教などの「特定の宗教組織」が政党を作り、議会で第一党となって国政を壟断したり、首相を輩出して国家と一体化したり、己の宗教を国教として定めたりすることは禁止する一方、首相その他の政治家が靖国参拝を行ったり、宗教的な祭典に出席したりするといった「政治の場で宗教的行為を行うこと」については容認する、というものです。現実にはこの真逆を地で行っている日本の愚劣な「政教分離」の惨状に比べれば、アメリカの方がはるかに健全な「政教分離」のあり方を実現しているとすら言えるのですけどね。
 アメリカ原産の「政教分離」を支離滅裂な解釈を駆使して誤用した挙句、「宗教的寛容」を併せ持つアメリカ合衆国憲法の存在について一言半句も言及することなく、大統領就任式などという見当ハズレなシロモノを持ち出してアメリカを「神権国家」と罵倒する泉田準一郎(=田中芳樹)は、アメリカの歴史や法学について小学生レベルから根本的に学び直す必要があるのではないでしょうか。まあ日本の法律についてすら無知な泉田準一郎や、かつて創竜伝12巻で森元総理の「神の国」発言を取り上げた際、その内容について少しも吟味することなく「悪魔の国」なる妄言をでっち上げた挙句、明後日なタワゴトを竜堂兄弟にしゃべらせていた田中芳樹に、そういうことを期待するのは無理な話なのかもしれませんが(笑)。

 ただ、そうは言っても実際問題として、アメリカでヨーロッパ諸国以上にキリスト教が重んじられ、その考え方が国民生活の端々にまで浸透していることは確かです。しかし、「何故そうなったのか?」という疑問をもって少し調べてみれば、そこにも必然的な事情があることが分かるのです。
 アメリカが他の国以上にキリスト教および神を重んじる最大の理由は、その国家形態と建国事情にあります。イギリスから独立する以前のアメリカは、その歴史的経緯から、伝統的な世襲の階級や地位や組織といったものが確立せず、住民構成も先住民であるインディアンやアフリカから連れてきた黒人奴隷、ヨーロッパ諸国からの白人移民などが混在しており、地域をひとつにまとめる中核的な存在がありませんでした。
 イギリスの統治下に置かれていた時代は、イギリス政府が上位に立つことでアメリカの住民はとりあえずまとまることができていたのですが、植民地課税問題やボストン茶会事件などの紆余曲折を経てそのイギリスから独立することになった際、「何をもってイギリス政府の代替とし、国としてひとつにまとまるのか?」ということが大きな問題となりました。当時のアメリカには、イギリスの植民地支配を支持する「王党派」と呼ばれるグループもおりましたし、独立戦争開始当初、イギリスからの独立を望む勢力はむしろ少数派だったのです。
 アメリカ独立の敵として立ちはだかるイギリス軍は強大無比な存在なのですから、アメリカの住民が国を掲げてひとつにまとまり、一丸となって立ち向かえる体制を整えなければ、アメリカは100パーセント必敗確実です。そこで、アメリカの住民の世論を反イギリス・アメリカ独立の方向へ誘導するために最初に使われたのが、トマス・ペインが発行した「コモン・センス」という冊子です。
 「コモン・センス」は、敵方であるイギリス政府の不正を糾弾した上で世襲君主制を否定し、不正を続けるイギリス政府に反抗しても神の意思に背くものではないこと、またイギリス政府から独立して独自の政府を作るためにアメリカの住民は決起すべきである、というメッセージが綴られています。この冊子は当時12万部以上も売られたと言われており、アメリカ住民の世論を独立に傾けるのに大きな役割を果たすことになりました。
 そして1776年7月4日、当時のアメリカ植民地の集会である大陸会議でアメリカ独立宣言が採択され、イギリスからの独立と共に「人間は生まれながらにして自由かつ平等な権利をもっている」という自然権も同時に掲げられ、民主主義の基本原理とされるものがここで確立されることとなったのです。これがアメリカ建国の理論的根拠にして起源となっていることは今更言うまでもないでしょう。
 ここで問題となるのが、「コモン・センス」がイギリスに反抗することを正当化したのも、アメリカ独立宣言がイギリスからの独立と自然権を掲げたのも、全て「キリスト教の唯一絶対の神」を根拠にしていたことです。前述のように独立前のアメリカには伝統的な世襲の階級や地位や組織といったものがなく、アメリカの住民をひとつにまとめ上げ、イギリスから独立を勝ち取る大義名分を確立するために必要となる理論的支柱が「キリスト教の唯一絶対の神」くらいしかなかったので、必然的にそれに頼らざるをえなかったわけです。
 国の始まりとなる建国神話の根本から「キリスト教の唯一絶対の神」の概念が使用されているのですから、その建国神話を維持・正当化し、またアメリカ建国の理論的支柱となってくれているキリスト教の神に対する感謝と自分達の不退転な決意を示すためにも、アメリカで他の国以上にキリスト教に対する依存が強くなるのは当然のことなのです。そして、そのキリスト教的価値観・倫理観で運営されてきたアメリカでは、それが国民生活にも根づいた伝統・慣習にもなっているのであり、他の国が自国の古い伝統・慣習を守るのと同じ感覚で、アメリカもまた伝統・慣習となっているキリスト教的価値観および教えを守っているわけです。
 普段宗教とは縁遠い日本人的な価値観で「宗教」を見るから、キリスト教を(日本人の目から見て)異様に重んじるアメリカが「自分達とはとても相容れない異常な存在」に見えるのであって、「それがアメリカにとっての伝統・慣習なのだ」という視点から考えれば、仰ぐものが違うだけで、アメリカ人の本質もまた、日本人をも含めた他国のそれと何ら異なることはない、という実態が見えてくるのですけどね。まあこの辺り、他ならぬ泉田準一郎(=田中芳樹)自身が前回の考察で取り上げたナルニア国物語の評価にて言及していた「日本は宗教に対して、よくいえば鷹揚だし、悪くいえば鈍感」の呪縛から、泉田準一郎(=田中芳樹)もまた自由ではありえなかった、ということになるのでしょうけど(苦笑)。

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P115下段〜P117下段
<アメリカの歴史上、暗殺された大統領は、リンカーン、ガーフィールド、マッキンリー、ケネディの四人だが、一九二一年に就任したハーディングにも暗殺された可能性がある。
 ハーディング大統領は善良で親切な紳士だったが、政治家としては無能だった。もともと共和党の大ボスたちが、あやつり人形として選び出したのだ。彼は親しい友人や知人を政治の要職につけたが、これがいずれもろくでもない連中で、大統領の信頼をうらぎり、汚職や巨額の公金横領や不正人事、不正入札、情報漏洩など悪事のかぎりをつくした。大統領官邸は犯罪者の巣窟と呼ばれ、ハーディング政権はアメリカ史上最悪の腐敗集団と称されるようになる。
 一九二三年にはいって、事件の関係者がつぎからつぎへと変死しはじめた。まず、容疑者のひとりが入浴中に何者かに射殺された。つぎに司法省の幹部で汚れた金を受け取った人物が、これまた射殺された。
 三人目の死者は、ハーディング大統領自身である。「友人は私を裏切った。おかげで夜も眠れない」と嘆いていたハーディングは、アラスカへ視察に出発したが、途中で体調を崩し、サンフランシスコで急死した。臨終のとき、大統領の病室にいたのは夫人だけだった。死因について、侍医のソーヤーは食中毒を主張したが、他の医師は承服せず、遺体の解剖を求めた。大統領夫人は頑として解剖を拒否し、正確な死因はついに判明しないままだ。
 副大統領のクーリッジが昇格して、あたらしい大統領となったが、その直後、ソーヤー医師が自宅で急死。ついでハーディング前大統領夫人も急死した。どういう事情でか、夫の死後、彼女はソーヤー医師と同居していたのだ。
 さらに、「事件についてすべて話す」と新聞記者に語った弁護士が、記者会見の直前にアルコール中毒で急死。議会での証言を予定されていた上院議員が急死。逮捕寸前の司法省高官が急死。逮捕され起訴されていた内務省高官は秘書に殺害され、その秘書は自殺。
 これでようやく変死のパレードは終わったが、一年あまりの間に一〇人がなぞの死をとげ、しかもそのなかに大統領夫妻がふくまれていたのだから、アメリカは大騒ぎになった。だがいくら大騒ぎになっても、クーリッジの新政権は真相解明のために何もせず、すべては闇に葬られた。
 それから四〇年後、アメリカの悪夢は再現される。前回の悪夢が白黒だとすれば、今回は天然色だった。ちがいはというと、ハーディング大統領が暗殺されたのは密室の可能性にとどまるが、ケネディ大統領が暗殺されたのは白昼、何万人もが目撃した事実だったことである。そして、まったくおなじだったのは、事件の関係者がつぎからつぎへと怪死、変死をとげていったことだ。
 どんな国家にも暗黒面はある。元首が暗殺されて真相が解明されないのは、アメリカだけのことではないだろう。ただ、自由だの正義だの人権だの繁栄だの世界平和だの神の国だのという宣伝がごりっぱなほど、かえって闇は濃くなるものだという気がする。ハーディングの事件を私が知ったのは、一九二〇年代を舞台にしたアメリカの探偵小説を読み返して、時代背景に興味を持ったからだ。>

 「どんな国家にも暗黒面はある」「アメリカだけのことではないだろう」ということが分かっているのであれば、「ごりっぱな宣伝」とやらをやっている国家もまた「アメリカだけのことではないだろう」ということくらい、少し考えただけで簡単に理解できそうなものでしょうに(笑)。アメリカ同時多発テロ事件でイカれた田中芳樹の脳味噌が反米を主張したがっている、という以外に、ここでことさらアメリカ「のみ」を重要視しなければならない理由がどこにも見当たらないのですが(>_<)。
 それにしても、いくらアメリカ同時多発テロ事件以降の田中芳樹が頭のイカれた反米至上主義者だからといって、作品のストーリーと何ら絡んでこない、しかも過去の作品で使用済みの反米エピソードを何度も使い回すのは止めて頂けないものですかね? 田中作品でハーディング大統領ネタが取り上げられたのは、私が知っているだけでも創竜伝5巻P83下段〜P84上段、田中小説版キング・コング集英社文庫版P31〜P32に次いで通算3回目。
 ケネディ大統領暗殺ネタも創竜伝のあちこちで出てきていますし、こうまで同じネタを、しかもストーリーの前後の流れや設定とも全く無関係な形で突拍子もなく使い回した挙句、その完全無欠な手抜き行為を「ハーディングの事件を私が知ったのは、一九二〇年代を舞台にしたアメリカの探偵小説を読み返して、時代背景に興味を持ったからだ」などという泉田準一郎の回想と独白で正当化しようとする「恥の上塗り」的なやり口は、評論内容云々以前にプロの小説家としていかがなものでしょうか。薬師寺シリーズに限らず、田中作品に登場する作中のキャラクター達は、間違っても田中芳樹の3流プロパガンダ社会評論をダベらせるための道具などではないはずなのですけどねぇ〜(>_<)。
 そしてこれだけでは飽き足らないのか、田中芳樹はさらに泉田準一郎という名の小道具を使い、ハーディング大統領暗殺陰謀説を開陳していくのですが……。

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P161上段
<私はハーディング大統領怪死事件のことを思い出した。事件の関係者のひとりがアルコール中毒で急死しているが、一九二〇年代のアメリカではいわゆる「禁酒法」が施行されていたはずなのだ。>

 「事件の関係者のひとりがアルコール中毒で急死」していることを陰謀であると推測するための根拠に、よりによって「禁酒法」など持ち出してどうするのですかね? 他ならぬ田中芳樹自身が、田中小説版キング・コングでこんなことを述べていたというのに↓

キング・コング集英社文庫版 P25
<とてつもない歓楽の時代に見えたが、じつは一九二〇年にいわゆる「禁酒法」が実施されている。酒を飲むのは犯罪になったのだ。合衆国民をアルコールの害毒から救い、ついでに、何かと政治に影響をおよぼす酒造業者の力を削ぐのが目的だった。
 しかしながら、この「禁酒法」は、みごとに失敗した。世の中には、生命がけで酒を飲む人間もいれば、禁じられたからこそやりたくなる人間もいる。「地獄は善意から生まれる」ということわざを立証する結果となった。
 「禁酒法」以前に、ニューヨークの酒場の総数は約一五〇〇軒だった。「禁酒法」以後、ニューヨークの「違法酒場」の数は約三万になった。二〇倍に増えたのだ。また、「禁酒法」以前に較べて、飲酒運転で逮捕された人間の数は、年間で五・七倍にふくれあがった。>

 他ならぬ作者自身がこのように書いている「禁酒法」下のアメリカならば、アルコール中毒による死亡者が出ても逆に何の不思議もないでしょうに(笑)。田中小説版キング・コングが刊行されたのは、薬師寺シリーズ7巻の初版発行から遡ること9ヶ月ほど前の話でしかないはずなのですが、それほど昔でもない時期に自分が書いた内容でさえ、田中芳樹は完全に忘却し去っていたとでもいうのでしょうか(爆)。
 反米を声高に叫びたいがあまり、自分でさえ否定している支離滅裂な論拠でもってトンデモ陰謀論を唱える行為は感心できませんね。まあ作中で件のタワゴトをほざいている【ことになっている】あの泉田準一郎に限定して言えば、奴は現職の警察官でありながら不法入国が犯罪であるという常識の持ち合わせもないほどに法律知識皆無な人間であることが作中で明示されているわけですから、そこから「禁酒法」の知識も全く皆無であったという一種の「シャーロキアン的解釈」をひねり出しても、キャラクター設定的には辻褄が合わないこともないのですが(苦笑)。

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P189上段〜P190上段
<マイラは両腕を前に突き出し、掌を上に向ける動作をした。人命に関心を持たない狂信者の儀式だった。
「で、あんたがアイダホ州に用意している王国の領地って、どのていどの広さ?」
「五〇万エーカーよ」
 一エーカーはたしか四〇四七平方メートルだ。五〇万エーカーといえば、ざっと二〇二三平方キロ……東京都全体と、ほぼおなじ広さになる。日本ではとうていありえない広大さに、私は唖然としたが、涼子はいっこうに感銘を受けたようすもなかった。
「何平方キロよ」
「平方……キロ?」
「メートル法に換算していってごらん」
「メートル法って……」
 あまりに意表を衝かれたので、マイラは必要以上に困惑した。涼子が高笑いする。
「わー、あきれた、二一世紀にもなってメートル法を施行していない唯一の国。遅れてるー。アメリカって後進国なのね」
 唯一かどうかはわからないが、たしかにアメリカは二一世紀になってもメートル法を施行していない。重さはポンド、長さはインチやフィート、距離はヤードやマイルで測る。温度も摂氏(C)ではなく華氏(F)だ。世界標準であるメートル法を拒絶し、自分の国でしか通用しない単位に固執しているのだ。
 アジアやアフリカの小国がそんなことをしていれば、日本人は冷笑するだろうが、相手がアメリカだから、むしろありがたがっている。アメリカの小説が日本語に翻訳されるとき、インチやエーカーについてまったく註をつけない不親切な例も多い。読者が自分で調べろ、ということか。
「やーいやーい、メートル法も知らない野蛮人! イナカ者! あんたたちが月になんかいけっこないわよ。どうせトリック撮影で世界をだましたんでしょ」
 敵を挑発するにもさまざまな方法があるのだろうが、これほどレベルが低いのははじめてである。>

 確かに救いようがないくらいにレベルが低いどころか地中に潜っている感すらある挑発ですね。何しろ、「二一世紀にもなってメートル法を施行していない唯一の国」などという前提そのものが致命的なまでに間違っているのですから(爆)。
 事実はというと、アメリカは1875年に度量衡の国際的な統一を目的として締結されたメートル条約に加盟していますし、1975年にメートル転換法が施行されて以降は、メートル法が公式の単位系として認定されています。また、1992年9月以降はアメリカ政府による物資調達や証明行為、および通商業務等でメートル法を使用することが義務づけられ、政府主導によるメートル法普及キャンペーンなども行われるようになっています。メートル法の施行および普及にすくなくともアメリカ政府はきちんと前向きに対処しているのであって、この点については薬師寺涼子や泉田準一郎の明確な冤罪行為であると言わざるをえません。
 では何故アメリカではメートル法が普及していないと言われるのか? それはアメリカ政府がメートル転換法を施行する際、アメリカで元来使用されていたヤード・ポンド法の使用を禁止しなかったからです。度量衡の新単位と旧単位が並立し、かつ旧単位の使用が禁止されていなければ、これまでの使い勝手の良さから旧単位を使用する人間の方が多いのは至極当然のことで、その結果、メートル法を積極的に導入しなければならない必要性が乏しい中小企業系や一般国民生活の場では、面倒なことは避けたいという意識も働いて、相変わらずヤード・ポンド法が主流な状況にあるわけです。
 アメリカと同じことは、ヤード・ポンド法発祥の地であるイギリスでも発生しています。イギリスは歴史的な敵国であるフランスでメートル法が創設されたという経緯からメートル法の導入に消極的だったのですが、すでにメートル法を導入しているEU諸国と歩調を合わせる必要性から、1995年になってようやくメートル法が公式の単位として認定され、2000年にはメートル法以外の単位の使用を禁止する法律が制定されました。しかしこちらも、アメリカと同様の事情から中小企業系や一般国民生活の場では相変わらずヤード・ポンド法が使用されており、またメートル法導入に対する反対運動まで起こっている状態です。メートル法をネタにアメリカをあそこまで罵りまくるあの連中は、同様の状況にあるイギリスについて言及しようとは考えなかったのでしょうか(苦笑)。
 そもそも、これまで使っていた度量衡を変えるというのは決して容易なことではありません。まず、ソフトウェア的にはこれまでの旧単位に関する知識は全て「なかったこと」にした上で、新しく新単位についての勉強をしなければなりませんし、ハードウェア的なものについて見ても、旧単位で計る測定機器などを全て破棄した上で新単位の測定機器を新たに調達しなければならないのです。プログラムに組み込まれたものなどであっても、旧単位から新単位への移行にかかる時間と手間と費用は膨大なものになりますし、あらゆる面で多大な負担を強いられるとなれば、新単位への移行に躊躇するのは人間の心理として当然とは言わないまでも理解できることではあるでしょう。
 日本の場合を見ても、1885年にメートル条約に加盟してから、メートル法を唯一の公式単位とし他の単位の使用を禁止する1951年制定の計量法が実施される1966年まで、実に81年もの歳月を必要としています。それまでの期間はメートル法、尺貫法、ヤード・ポンド法と3つもの単位系が、すくなくとも使用が禁止されることなく並立していた状態で、公式単位をメートル法に一本化しようとする法整備の動きはあったものの、やはり反対論が多く出て並立状態が続いていたわけです。
 そしてさらに問題をややこしくするのが、メートル法ではなくヤード・ポンド法が標準単位になっている産業やスポーツなどが未だに現存している、という事実です。たとえば日本で使用されているテレビの「32型」「40型」といった「型」という単位はヤード・ポンド法の単位である「インチ」を言い換えたものですし、コンピュータ関連機器でも「3.5【インチ】HDD(ハードディスクドライブ)」だの「17【インチ】ディスプレイ」だのといった表記でヤード・ポンド法が使われています。航空・宇宙業界ではヤード・ポンド法の単位である「フィート」や「マイル」が公式単位となっていますし、ゴルフの飛距離は「ヤード」、ボウリングのボールの質量は「ポンド」で測定するのが標準形態です。そうなると、新単位への移行がこの手の方面で多大な混乱を招く恐れも考えられるわけで、ますますもって「このままでいいや」という結論に落ち着く、ということになってしまうわけです。
 そういう事実関係や背景事情を寸土たりとも確認しようとすらもせずに、「アメリカは二一世紀になってもメートル法を施行していない」「世界標準であるメートル法を拒絶し、自分の国でしか通用しない単位に固執しているのだ」などという、事実に反する頭の悪いバカ丸出しの恥ずかしいタワゴトを繰り出して超低レベルの挑発を敵に対して行っている薬師寺涼子と泉田準一郎は、一体どこの世界のアメリカについて言及しているというのでしょうか(笑)。

 さてここから、薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」のラスボスについての解説を行いたいと思います。7巻「霧の訪問者」は、ストーリーの結末部分がこれまでの薬師寺シリーズのテンプレートパターンとは少し違ったものになっていますし、何よりもこのラスボスに対する薬師寺涼子の言動が、薬師寺涼子、ひいては薬師寺シリーズが抱える最凶最悪の問題点を浮き彫りにしていますので。
 薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」で終始薬師寺涼子一派の敵として登場するのは、アメリカ有数の大富豪ロートリッジ家の女性当主であるマイラ・ロートリッジ、およびロートリッジ家の主治医にして彼女の側近的な地位にあるモッシャー博士という人物です。そして、マイラ・ロートリッジにはアーテミシア・ロートリッジという娘がおり、この母と娘の対立が、7巻「霧の訪問者」のストーリーのメインテーマのひとつとなっています。
 マイラ・ロートリッジはキリスト教の狂信者で、自分の娘に自分の脳を移植し、永遠の若さと美しさを獲得するという一種の誇大妄想を側近であるモッシャー博士によって吹き込まれ、その実現の道具として娘に接していました。娘のアーテミシア・ロートリッジも母親の意図を知っており、当然母親に反発。そしてどのようなきっかけから思い立ったのか、作中のストーリー半ばで自ら焼身自殺を敢行し、母親の道具でしかない自分の立場に終止符を打とうとします。
 アーテミシア・ロートリッジの焼身自殺後、薬師寺涼子と泉田準一郎はアーテミシアの母親であるマイラ・ロートリッジについて調べ上げ、マイラ・ロートリッジの悪行および野望の全容と、彼女が娘に対して行ってきた虐待の実態を知ることになります。そしてその際、何か逆鱗に触れることでもあったのか、薬師寺涼子が突然ヒステリックなアジテーションを披露し始めるに至ります。

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P163下段〜P165上段
<「マイラ・ロートリッジは、もうこの別荘にはいないみたいね」
 メイドたちの報告を受けて、涼子がそう確認すると、ヘザーは蒼ざめた顔でうなずいた。
「昨夜はずっと何かを待っていたらしいんですけど、何もなかったので、朝になって出ていきました。モッシャー博士とか、アメリカからつれてきた部下も全員。どこへいったかは知りません」
 昨夜は涼子がマイラに空振りをくわせ、今日は逆になった。一勝一敗というわけだ。
「どこへいったかは、この別荘の持ち主に尋くわ。で、アーテミシアは、具体的にどんなことをいわれてたの?」
 ヘザーが簡略に述べたところによると、毎日マイラが娘にいっていたのは、「アーテミシア、お前自身には一セントの価値もない。お前はわたしのもので、わたしの役に立つために生かされているのだ。わたしがあたえた生命と恩をわたしに返すのが、お前の人生の意義だ。わたしが存在しないかぎり、お前の存在もゼロなんだ」ということらしい。ヘザーには、完全には意味がわからなかったそうだが。
 室町由紀子がつぶやいた。
「ひどいわね……」
「お由紀は甘いわね。わたしはドラ娘に同情なんかしないわよ」
 そう断言すると、涼子は、むしろ怒りさえこもった口調で言葉をつづけた。
「大学にだっていっていたんだし、ロートリッジ家から逃げ出す機会は、いくらだってあったはず。自力では逃げられない、だれかに救い出してほしいというのなら、きちんと事情を説明して協力してもらえばいい。UFAの企業犯罪を追及している人たちだって、あちこちにいるわけだから。なのに、どうしてそうしなかったの、あのドラ娘は!」
 頬が紅潮し、両眼は流星のようにきらめいている。室町由紀子や葛西敬吾までが、思わず涼子の姿を見つめた。ふたりのメイドは最初から敬慕の瞳でミレディを見つめている。
「泉田クンはあきれたオヒトヨシなんだから、被害者のくせして加害者に同情する。もしアーテミシアが最初からはっきり救いを求めてたら、泉田クンは生命がけで彼女を助けたでしょ。アーテミシアはそうしなかった。つまり、男を見る目がなくて、男に全力をつくさせることもできなかった。ミス・ヒンガムには悪いけど、彼女のお兄さんも、頼りになる人じゃなかったでしょうよ」
 ヘザー・ビリンガムが眼を伏せた。涼子の容赦ない指摘は正確だったらしい。
「だからアーテミシアには同情に値しない! 目的は勝つこと。勝つために戦う。戦力をたくわえ、時機を待ち、戦略を立て、戦術を練る。泣くヒマがあったら、計略をめぐらせろ。自己憐憫にひたる時間があるなら、敵の弱点をさぐれ。母親や主治医におぞまじい秘密があるなら、それをネタに脅迫して、自分の自由と尊厳を守るぐらいでなくてどうする!?」>

 薬師寺涼子がこうまでアーテミシア・ロートリッジに対して「あえて」罵倒の限りを尽くす理由については後述しますが、それ以前の問題として、作中のアーテミシア・ロートリッジの立場で、薬師寺涼子が主張するような「反逆」が行った場合、それは限りなく100パーセントに近い確率で失敗することになる、という事情がまずあるんですよね。
 前述のように、アーテミシア・ロートリッジの母親であるマイラ・ロートリッジは、アメリカ有数の大富豪ロートリッジ家の女性当主であると同時に、世界最大級の企業であるUFA(ユーファ)のオーナーでもあります。簡単に言えば、彼女は「アメリカ版薬師寺涼子の年増バージョン」とでも評すべき存在であり、そういう存在に一個人が対抗しえるものではないということは、他ならぬ薬師寺シリーズの作中で散々語られている通りなのですけどね(苦笑)。
 実際、マイラ・ロートリッジがオーナーとなっているUFAについても、作中にこんな記述が存在するんですよね↓

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P25下段
<ロートリッジという家名は初耳だったが、UFAという企業名は、以前、聞いたことがあった。よい印象をあたえる話ではなかったが、正確には雑誌の記事で読んだのだ。
 一〇年ほど前に、中央アメリカの小国で、先住民の村が焼かれ、八〇人の男女が殺害される事件があった。UFAが五〇〇〇ヘクタールの熱帯雨林を切り開いて、パッションフルーツの大農園とジュース工場を建設しようとしており、その計画に反対する先住民を殺害したのだ、として告発された。UFAがそれを否定するうち、その小国では政変がおこって、事件を捜査していた内務大臣が追放された。新任の内務大臣は、UFAが事件に関与していた証拠はなかった、として捜査を打ち切り、大農園と工場はめでたく建設された……。
 そういう話である。>

 つまり「中央アメリカの小国」という国家でさえ、ロートリッジ家およびUFAの権力と財力に勝てなかったという事実が作中でも明示されているわけです。
 またマイラ・ロートリッジは、実の父親インホフおよびアーテミシアの父親を、側近であるモッシャー博士の手を借りて殺害していますし(7巻「霧の訪問者」P186)、アーテミシア・ロートリッジの恋人さえも殺害しています。そしてアーテミシア自身、母親から言葉の虐待を受けていたわけですし、さらに後ろのページでは、モッシャー博士から脳移植の話を持ちかけられる前に、マイラ・ロートリッジが娘を殺そうと画策していたという話までもが披露されています(「霧の訪問者」P195)。
 そういう母親の悪行および絶対的権力者ぶりを幼少時より目の当たりにし続けさせられてきたアーテミシア・ロートリッジが母親を力でもって打倒するのは、アーテミシア・ロートリッジにとっては残酷な事実ですが、物理的にも心理的にも不可能に近いと言わざるをえないでしょう。物理的な問題は言うまでもなく、ロートリッジ家およびUFAの強大な権力と財力が後ろ盾となっており、かつ始終ボディーガードに守られているマイラ・ロートリッジを一個人で殺せるわけがないのですし、またマイラ・ロートリッジには自分の邪魔者を片っ端から殺しかつ犯罪を隠蔽してきた実績もあります。下手に他者の手を借りて叛旗を翻したところで返り討ちにされる公算が大と言わざるをえませんし、場合によってはマイラ・ロートリッジが保有する権力と財力に屈した協力者が、マイラ・ロートリッジにアーテミシアを売り飛ばす可能性すら考えられるでしょう。
 一方、心理的な要素としては、幼少時から受け続けてきた虐待が、アーテミシア・ロートリッジの人格形成に甚大かつ深刻な悪影響をおよぼしている、という問題があります。ただでさえ母親から憎悪と虐待を受け続け、殺害まで考慮されてすらいたアーテミシア・ロートリッジにしてみれば、絶対的圧制者たる母親から自分の身を守るだけでも多大な精神的負担を強いられたでしょうし、常に母親の顔色を伺いながら生活することを余儀なくされたであろうことは想像に難くありません。そういう環境では、親から自立するような精神的余裕が育まれる余地など最初から生まれようがありませんし、何よりも他人を信用すること自体ができなくなってしまうのです。いつ自分の行動が母親から睨まれ、虐待されるのか知れたものではないのですから。
 幼少時から比較的自由に振る舞い、他者を攻撃し、JACESの権力と財力を背景に好き勝手やってきた薬師寺涼子が、それとは全く異なる過酷な人間関係と生活環境の中で生きていたアーテミシア・ロートリッジに自分の価値観や世界観を無理矢理当てはめ、高みから罵倒する行為が果たして妥当なものなのか、まず私はそこに疑問を持たざるをえないのですがね。

 そして第二の問題は、そもそも母親に屈していたアーテミシア・ロートリッジを高みから説教できるほどに、薬師寺涼子は自立心溢れた強い人間なのか、という点です。
 薬師寺涼子の狂信者である泉田準一郎は、アーテミシア・ロートリッジを罵りまくる薬師寺涼子について以下のように評していますが↓

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P166上段〜下段
<「ノアの大洪水の話、もちろん知ってるわよねえ。人類を滅ぼそうというのは、神の発想なの。自分が創ったものだから皆殺しにしてどこが悪い、自分のいうことを何でもきくやつだけ生きのこればいい……」
 形のいい鼻の先で、涼子は笑った。
「ノアの大洪水の話をはじめてきいたとき、あたしは思ったわよ。神サマって何てバカなんだろうって。自分にさからうやつがいるから、世の中おもしろいんじゃないの、ねえ」
 なぜか私を見ながらそういう。私としては返答のしようがなかった。だが、正直な感慨を述べるなら、薬師寺涼子の美しさと、それをささえるものに圧倒されてしまった。
 この女は、美しさが強さであり、強さが美しさなのだ。自分より強大な敵に対して怯むことはなく、尊厳を踏みにじろうとする敵に屈することもないだろう。正面から戦うのが不利なら、どんな汚ない策を使っても、自分と自分にとってたいせつなものを守りぬく。その決意はダイヤより固いのだ。
 涼子が、アーテミシアが気にくわなかった理由はよくわかる。同時に、涼子のような強さを持つことができず自壊してしまったアーテミシアに対しても、やはり同情を禁じえなかった。アーテミシアは、自我を守るのに、たぶん温室が必要な女性だったのだ。>

 前述のように、薬師寺涼子とアーテミシア・ロートリッジとでは自分を取り巻く人間関係および生活環境の過酷さがまるで違いますし、作中記述を読む限りでは、自分を守るだけで精一杯な状態にあったと言わざるをえないアーテミシア・ロートリッジに対して「自我を守るのに、たぶん温室が必要な女性だったのだ」などという泉田準一郎の評価は的外れもいいところでしかないのですが、それ以上に明後日の方向を向いているのが薬師寺涼子に対する評価です。
 泉田準一郎の薬師寺涼子に対する評価が事実であるのならば、何故薬師寺涼子は、「自分より強大な敵」である姉の薬師寺絹子および父親である薬師寺弘毅に対して「正面から戦うのが不利なら、どんな汚ない策を使っても、自分と自分にとってたいせつなものを守りぬく」「ダイヤより固い」決意とやらを行使しようとしないのでしょうか? 「あの」薬師寺涼子ともあろうものが、姉の薬師寺絹子に対してどれほどまでに「卑屈な」態度で接していたのか、泉田準一郎自身も薬師寺シリーズハンドブック「女王陛下のえんま帳」の作中ではっきりと目の当たりにしているはずなのですが(笑)。
 薬師寺涼子は、幼少時に落葉の丘で寝ていたところを薬師寺絹子に火をつけられて火傷しそうになったことを未だ根に持っていますし、作中でも姉に対する嫌悪感と忌避感情を隠そうともしませんでした。姉の薬師寺絹子が妹に対して実際にどのような感情を抱いているかについてはともかく、すくなくとも薬師寺涼子側は姉のことを「自分に害を与える敵」と認識し、かつ「正面から戦うのが不利な」「自分より強大な敵」と評価していることは間違いありません。にもかかわらず、薬師寺涼子は姉に対しては「どんな汚ない策を使っても、自分と自分にとってたいせつなものを守りぬく」どころか、ただ親にイタズラを見つけられた子供のようにワガママをこねつつ逃げ回るだけときているのですから、せっかくの「ダイヤより固い」決意とやらが泣こうというものではありませんか(苦笑)。
 さらに薬師寺涼子は、父親である薬師寺弘毅のことを「この世の非常識を粘土にして悪意という名の水で練り、地獄の釜で焼き上げた」(1巻「魔天楼」ノベルズ版P157)「あいつのいうことを信じてるようですけど、そんなことしたら痛い目にあいますコトよ」(8巻「水妖日にご用心」P12)などというネガティブかつ非好意的な評価を行っているにもかかわらず、実際には父親に逆らうどころか、唯々諾々と命令に従っているかのような態度を取っているんですよね。薬師寺シリーズ1巻「魔天楼」では、本来自分が行く必要など全くなかったはずの警視庁主催のパーティに「父親の代理」として不平満々ながらも出席していますし、「女王陛下のえんま帳」でも、親族一同が集まる法事が実家であるから参加するようにと言われた薬師寺涼子が不機嫌になり、警察からのカナダ出張依頼を口実に「あたしは日本にいたくてもいられないの!」などと喜んで喚き立てる描写があります。
 これらの事例から、薬師寺涼子は姉と父親に対して「自分より強大な敵」と認識しているにもかかわらず、正面対決どころか「どんな汚ない策を使っても、自分と自分にとってたいせつなものを守りぬく」こと自体を避けていることが一目瞭然なわけです。その点において、実は薬師寺涼子は、母親に逆らうことができないアーテミシア・ロートリッジと全くの同類、いや両者の人間関係および生活環境の差と、仮にも母親に対する反逆的な行動に踏み切る決断ができたことを考慮すれば、アーテミシア・ロートリッジの方が薬師寺涼子よりもはるかに「ダイヤより固い」決意と強さを持っているという評価すらできるわけです。
 その視点から考えれば、薬師寺涼子がアーテミシア・ロートリッジを酷評する真の理由も分かろうというものではありませんか。薬師寺涼子はアーテミシア・ロートリッジに対して「同類であるが故の近親憎悪」を抱いていたのであり、だからこそ薬師寺涼子は「あたしはあいつとは違う!」と大声でかつヒステリックにアピールしなければならなかったのです。アーテミシア・ロートリッジは、薬師寺涼子という人物が抱え込んでいる最も「弱い」部分をグロテスクに映し出す鏡だったというわけです。
 そして物語終盤、焼身自殺を遂げたはずのアーテミシア・ロートリッジが「焼身自殺状態のまま」死にきれずに復活してしまい、モッシャー博士とマイラ・ロートリッジをその手で殺害した後、薬師寺涼子はそれまでの言動からは考えられないくらいに親身な対応でアーテミシア・ロートリッジに接し、アーテミシア・ロートリッジ自身の求めに応じて彼女に安らかな死を与えています。自分より弱い敵には居丈高に振る舞えても、自分より強大な敵である姉と父親とは対決しようとすらしない卑小で醜悪なる薬師寺涼子は、生前のアーテミシア・ロートリッジに「もうひとりの自分自身」の姿を見出し、一方で自分にできない「身内の超克」をやり遂げた焼身自殺後のアーテミシア・ロートリッジに対しては一定の感情移入と共感を抱いていたのでしょう。
 このような状況でなお薬師寺涼子の「強さ」を絶賛し、アーテミシア・ロートリッジを「自我を守るのに、たぶん温室が必要な女性だったのだ」などという、それこそ薬師寺シリーズに登場する怪物およびオカルトの存在以上に「非科学的」な評価を下している泉田準一郎は、薬師寺涼子を無条件かつ盲目的に崇め奉っているという点において、自分で批判しているキリスト教の狂信者達とどこが違うというのでしょうか。

 さて、アーテミシア・ロートリッジにまつわる薬師寺涼子と泉田準一郎の一連の発言には、さらにとんでもない問題が内包されています。それは両者が共に「敵を攻撃すること=強い」「忍耐=弱い」という単純な図式でもって「人間的な強さ」について語っていることです。
 薬師寺シリーズでは基本的に、主人公格である薬師寺涼子がワガママ放題にふるまい、敵だけでなく「薬師寺涼子が個人的に気に入らない」というだけの人間でさえも好き勝手かつ一方的に侮辱し、攻撃し、叩き潰すことが全面肯定的に描かれています。そしてそれが田中芳樹が理想とする「近代的かつ自立心に満ちた女性像」でもあることは、田中芳樹が様々なところで発言している対談やインタビュー記事の数々、および「個人的に気に入らないから(原作の設定を)改変した」と自身で公言している田中小説版キング・コングにおけるアン・ダロウの描写を見ても明らかです。この延長線上で、件の薬師寺涼子と泉田準一郎の発言も行われているわけですね。
 しかし、本来ならば、作中に書かれているレベルの虐待を生まれた時から受け続けていながら、母親に屈するどころか一矢報いるために自分の身を焼き、己の尊厳を守ろうとしたアーテミシア・ロートリッジは、その驚異的な忍耐心ただひとつのみ取っても「敵を攻撃すること」とは別種の「強さ」を兼ね備えた女性であると評価することができるはずでしょう。ましてや、アーテミシア・ロートリッジの立場で下手に母親を「直接攻撃」したところで、相手に少しのダメージも与えることなく返り討ちに遭うのがオチなのですから、母親に対して一矢報いるに当たって、「直接攻撃」よりも「野望の頓挫」を次善の策として採用するのは妥当な選択肢であったと言えますし、状況を正確に見極めてその選択肢を選ぶことができた判断力と決断力もまた「強さ」の証明たりえるでしょう。何も「敵を直接攻撃して滅ぼす」ことだけが「強さ」の証ではないのです。
 逆に、いくら薬師寺涼子が自分よりも卑小かつ小物な敵を一方的に嬲り倒そうが、そんなものは「強さ」の証でも何でもない、単なる「弱いものイジメ」以外の何物でもないことは明白でしょう。何しろ、アメリカ有数の大富豪および母親としての圧倒的優位な地位を振りかざしてアーテミシア・ロートリッジを虐待し、自分の気に入らない人間を殺しまくっていたマイラ・ロートリッジと全く同じ振る舞いを、薬師寺涼子は己の姉と父親を除く他者に対して行っているのですから。あれを「近代的かつ自立心に満ちた女性像」などとは、いくら薬師寺涼子や田中芳樹が厚顔無恥であっても評することはできますまい。
 薬師寺涼子、ひいては薬師寺シリーズが抱える最凶最悪の問題点とは、この「近代的かつ自立心に満ちた女性像」および「人間的な強さ」というものを根本的に勘違いしていることにあります。男性中心の社会を相手に女性がとにかく周囲に当り散らすことを「近代的かつ自立心に満ちた女性像」と定義し、「敵を直接攻撃して滅ぼす」ことを「人間的な強さ」として規定したところに、これまで薬師寺シリーズで発生していた諸問題の元凶があると言っても過言ではないのです。
 薬師寺シリーズ最大の構造的欠陥の元凶となっているJACESの存在などはその典型例でしょう。田中芳樹にしてみれば、未だ男尊女卑の風土がある政治家・官僚機構・会社法人などを相手に、年端もいかない一女性が好き勝手に攻撃し、場合によっては滅ぼせるだけの絶対的優位を確立するための手段としてJACESという存在を考えついたのでしょうが、それは結局のところ「基本的には薬師寺涼子が攻撃する政治家・官僚機構・会社法人などと同類のJACESという組織に、薬師寺涼子を社会的にも精神的にも依存させる」という構図を生み出してしまい、薬師寺涼子から本当の意味での「自立心」を奪っただけでなく、薬師寺涼子が権力者相手に何を言っても「お前が言うな!」と跳ね返されてしまう副作用まで作り出すことになってしまったのです。
 この薬師寺涼子が抱える一種の「JACES依存症」とでも呼ぶべき病状をさらに悪化させているのが、薬師寺涼子が苦手意識と忌避感情を持ち、かつ薬師寺涼子と同じJACESの力を行使できる立場にある姉と父親の存在です。もしここで薬師寺涼子が「JACES依存症」の状態から脱し、「近代的かつ自立心に満ちた女性像」および「人間的な強さ」を証明しようとするのであれば、自分と同様の力を行使する姉と父親をも平伏させるか殺すかして、自分ひとりの意のままに操れるようにJACESの力を完全掌握しなければならないのですが、実際の薬師寺涼子は姉と父親から逃げてばかりいるときているわけです(笑)。これでは薬師寺涼子の「JACES依存症」は軽減するどころか、「寛大で慈悲深い姉と父親からJACESの力を【乞食のように恵んでもらっている】」ということになって、ますます病状が悪化することは目に見えているではありませんか。
 しかも薬師寺涼子は、薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」および3巻「巴里・妖都変」で、互いに手を組む同盟の締結を申し出てきた敵からの誘いを「あたしに対等のパートナーなんて必要ないの」などという論法でもって拒否する言動を披露しています。それから考えればなおのこと、対等どころか自分の上に君臨し、薬師寺涼子の力の源泉であるJACESの後方支援をいつでもストップできる立場にすらある姉と父親に対して、「正面から戦うのが不利なら、どんな汚ない策を使っても、自分と自分にとってたいせつなものを守りぬく」「ダイヤより固い決意」とやらを実行しないでどうするというのでしょうか。
 また、これは創竜伝でもしばしば見られたことですが、支離滅裂な電波社会評論をいかにも正当なものであるかのごとく演出し、「敵を直接攻撃して滅ぼす」ことを何が何でも実行して薬師寺涼子の「近代的かつ自立心に満ちた女性像」および「人間的な強さ」を示さなければならないために、敵側をことさら卑小に描かなくてはならなくなったことも問題です。しかも薬師寺シリーズには薬師寺涼子が依存するJACESの存在があるために「名もない一庶民が強大な権力機構を相手に戦う」という王道的テンプレートパターンすら成立しえず、結果として創竜伝以上に敵が卑小かつ小物になってしまい、「弱いものイジメ」の構図のみが読者に強調されることになるわけです。
 さらにそれを助長するのが、作中でしばしば展開される泉田準一郎視点の地の文による薬師寺涼子礼賛です。泉田準一郎は、薬師寺涼子について「ワガママで傍若無人な女上司」「あんな上司に仕える羽目になった己の不運を嘆く」という形で酷評するスタンスを取っているかのごとき性格設定が作者から付加されており、それをベースにした「他人は知らないだろうが俺は薬師寺涼子の実態を正確に知っているんだぞ」と言わんばかりなモノローグが作中で何度も展開されていますが、薬師寺涼子の「強さ」については、薬師寺涼子の姉や父親に対する逃げ腰な態度や、卑小な敵に対する「弱い者イジメ」な現実を目の当たりしてさえ、実態から著しくかけ離れた非科学的かつ無盲目的な礼賛に終始する始末です。これが泉田準一郎自身を「非合理的な薬師寺涼子の狂信者」に仕立て上げると共に、崇拝対象たる薬師寺涼子をも「褒め殺し」の乱発で結果的に貶めることにもなってしまっているのです。
 こんな惨状で、薬師寺涼子の「近代的かつ自立心に満ちた女性像」および「人間的な強さ」を証明することなど、できるはずもないでしょうに。

 薬師寺シリーズにおける薬師寺涼子の「強さ」というのは、結局のところ田中小説版キング・コングの考察で触れたアン・ダロウ関連描写と同じように「自分自身が苦痛に耐えるのではなく、他人に苦痛を与えて平然としている変態」の姿を描いているに過ぎないんですよね。何故田中芳樹が薬師寺涼子的な「近代的かつ自立心に満ちた女性像」および「人間的な強さ」を表現することに、作品設定およびキャラクター描写的に見れば相当な無理をしてまでこだわるのか、私は以前から不思議に思えてしかたがないのですが。
 すくなくとも、以前の田中芳樹はこんな非合理的かつ一面的な「強さ」に固執するようなことはなかったはずなのですけどね。たとえばアルスラーン戦記などでは、田中芳樹はこんな「強さのあり方」を描写していますし↓

アルスラーン戦記7巻角川文庫版 P128
<「殿下、おさがりください。流れ矢にでもあたったら、ばからしゅうございます」
 アルスラーンは頬を紅潮させて拒んだ。
「いやだ、私は動かないぞ」
「危のうございますから、殿下」
 今度はエラムがいい、ジャスワントとかわるがわる後退をすすめたが、めずらしくアルスラーンは頭を振りつづけた。責任感と興奮の両方が、彼をそうさせた。軍師ナルサスは、正確に王太子の心情を察した。
 ルシタニア軍はパルス王国の敵ではあるが、アルスラーンにとって真の敵ではない。それこそがアルスラーンにおおいかぶさる運命の苛酷さであった。
 アルスラーンはその苛酷さから逃れることができぬ。誰もアルスラーンに替わってはやれぬ。周囲の者は、いくらかの手助けをしてやることもできぬ。同情はする。激励はする。だが、結局のところ、アルスラーンは孤独な戦いを孤独にやりぬくしかないのだ。
 それに比べれば、戦場で敵の攻撃を引き受けることなど容易なことであった。作戦を立てることも、大剣をふるうことも、能力の問題であって、勇気の問題ではない。>

アルスラーン戦記9巻角川文庫版 P165〜P166
<「死兵だな」
 城壁の上で、アルスラーンはつぶやいた。死を決した軍隊のおそろしさを、若い国王は承知している。まだ十八歳だが、歴戦といってよいアルスラーンであった。
「陛下には、ここをお動きになりませぬよう」
 傍にひかえるファランギースがいう。アルスラーンが血気にまかせてむやみに動くようなことがあれば、ナルサスの軍略がくずれてしまうのだ。
「わかった」
 アルスラーンがうなずくと、黄金の冑から雨水が落ちて小さな流れをつくった。彼は実戦を指揮するためではなく、戦いの結果に責任をとるために、ここにいた。ナルサスやダリューンがあえて口にしなかったことを、アルスラーンは承知していた。>

 ここまではっきりと、アルスラーンが抱える「最高権力者としての責任感および苦悩」およびそれに耐え抜く「人間的な強さ」というものが表現され、なおかつ「それに比べれば、戦場で敵の攻撃を引き受けることなど容易なことであった」とまで書かれているというのに、薬師寺シリーズでは何故か「戦場で敵の攻撃を引き受ける」程度の「容易な強さ」にひたすらこだわった挙句、あそこまでの醜態を晒しているわけです。
 一方、「近代的かつ自立心に満ちた女性像」についても、たとえば銀英伝のヒルダやフレデリカなどは、常に自分の意思を貫き通すだけの「強さ」は持ち合わせていましたし、夫にも媚び諂うことなく、対等の立場で互いに助け合い&支え合うだけの「伴侶としての地位」を自らの力で確立していましたが、こういうのも「近代的かつ自立心に満ちた女性像」と評されるべきものではないのでしょうか? また、マヴァール年代記のアデルハイドは、最終巻の戦場で敗残兵から襲撃を受けた際、敗残兵に対して堂々たる態度で接した上、逆上した敗残兵から凌辱されようとした際には、自らの懐剣を喉に突き刺して自害することでマヴァール帝国皇后としての誇りを守ったのですが、彼女もまたアーテミシア・ロートリッジのような評価をされなければならないのでしょうか?
 さらに、アルスラーン戦記のファランギースに至っては、アルスラーン戦記9巻にてファランギース自身の口から過去の回想話が語られているのですが、ここではかつてファランギースが、自分の恋人だったイグリーラスに対して物心両面から尽くしまくったにもかかわらず、結果的には何ら報われなかった挙句、冤罪を着せられた恋人を救えなかったという「恋愛&人間関係の挫折と破綻」が描かれています。そして、その話の締めがこういう形で描写されています↓

アルスラーン戦記9巻角川文庫版 P233〜P235
<追捕隊が神殿を出発した後、ファランギースは女神官長に面会を求めた。イグリーラスを救うこともできず、グルガーンを静止することもできず、あまりにも迷惑をかけたので神殿から身を引きたい、と申し出たのである。
「失敗したり悩んだりしたことのない者は、神官にはむきません。神々にすがろうとする人の心弱さを理解することができないからです。また、人の誤ちを赦すことも、誤ちを犯したことのない者にはできないでしょう。そなたはようやく神官となる資格をえたのです。人は自分で自分を救うしかありません。イグリーラスは自力で立ちなおるべきでした。そなたのせいではありませんよ」
 それが女神官長の返答だった。それほど独創的な言葉ではなかったが、口調の温かさとやさしさとが、ファランギースの目から涙をあふれさせた。一生、女神官としてミスラ神につかえようと決心したのはこのときである。
(中略)
「お耳よごしでございました、陛下」
 語り終えて、ファランギースが一礼すると、アルスラーンは大きく息をついた。人の世に超然として、悩みや苦しみと無縁に見えるファランギースにも、そのような過去があったのだ。いや、そのような過去があったからこそ、ファランギースは女神官としての修練をかさね、武芸をみがき、学問を修め、超然たる態度を養ったのではないか。ファランギースは立ちなおった。挫折から絶望と自棄に走ることなく、しなやかに立ちなおったのだ。
「話してくれてありがとう、ファランギース。悩みがあるなら何とかしてやりたいなどと考えていたが、思いあがりだった、あなたの生きかたを私も学びたい」>

 このファランギースのエピソードは、「ダメ男に報われぬ努力を続ける女」が、失敗と挫折を経て「自立心のある女性」へと成長する過程を描いたものであり、また、その話を聞かされたアルスラーンも「あなたの生きかたを私も学びたい」などという全面肯定的な態度を取っているわけです。すくなくとも、作中で一度も挫折を味わったことが無く、他者に対して「人の心弱さを理解することができない」上に電波な社会評論や罵倒を好き勝手に叩きつけ、かつ己の精神的快楽のためにのみ行動している薬師寺涼子などよりは、ファランギースの方がはるかに「近代的かつ自立心に満ちた女性像」が表現できているように見えるのですが。
 かくのごとき「多種多様な【人間的な強さ】のありかた」や「近代的かつ自立心に満ちた女性像」をかつてはきちんと描けていたはずの田中芳樹が、何故薬師寺シリーズでは「とにかく周囲に当り散らし、敵を直接攻撃して殲滅する【容易な強さ】」のみを「近代的かつ自立心に満ちた女性像」として称揚し、それ以外の「強さのあり方」を否定することに固執するのでしょうか? スレイヤーズや極楽大作戦の、それも最も表層的な部分から中途半端にパクってきた「容易な強さ」などを不自然に演出するのではなく、これまで他ならぬ自分自身が描いてきた「強さのあり方」を薬師寺涼子に組み込み、作品設定およびストーリー進行に生かしていった方が、ただ単に「目の前の敵を倒す」という以外の、それこそ本当の「近代的かつ自立心に満ちた女性像」および「人間的な強さ」というものが描けたでしょうに。

 さて、いよいよ次回は2009年7月末時点の最新刊である薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」の論評に入りたいと思います。

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