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キング・コング考察
リメイク映画版との比較検証論
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No. 8154-8155
キング・コング考察 〜リメイク映画版との比較検証論〜
冒険風ライダー(管理人) 2009/03/30 20:41
 世界初の怪獣映画として大ヒットを記録し、日本の特撮映画にも大きな影響を与えた「キング・コング」。これが、今回の考察で取り上げる作品になります。
 1933年に初上映されたこの作品は、2005年にリメイク版映画が公開されたのですが、そのリメイク版映画の日本公開と同じ日に合わせて、田中芳樹もまたキング・コングの小説版を集英社より出版しているんですよね。何でも田中芳樹は、2003年秋頃にキング・コング執筆の依頼を受けたとのこと。
 ただ、「らいとすたっふ」の社長氏のブログ(http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2005/08/post_67ce.html)によれば、その2003年秋に引き受けた小説の執筆を実際に始めたのが、それから2年近くも経過した2005年8月16日以降だったようで、その辺りがいかにも田中芳樹らしいと言えばらしいところなのですが(苦笑)。
 まあそれはさておき、このキング・コングという作品は、「作品同士の比較」というテーマで論じるにはこれ以上ない格好の題材でしてね。何しろ、キング・コングのリメイク映画版も田中小説版も、当然のことながら同一作品を元に作られているのですから、両作品のストーリー進行や描写等の違いが、そのまま両作品における作者の視点やスタンスの違いをも浮き彫りにしてくれるわけです。
 そこで、今回の考察では、キング・コングのリメイク版映画と田中小説版の比較検証を中心に論を進め、その上でキング・コングのみならず、田中作品全体に通じる田中芳樹の作品執筆スタンスの問題点をも明示してみたいと思います。
 それでは始めましょう。



1.ストーリーを妨げない範囲内で?

 最初に述べたように、原作版キング・コングは1933年にアメリカで初上映された映画作品で、作品内の時代設定および世界観も当時のものが使用されています。
 そういう映画をリメイクするに当たり、田中芳樹は妙な使命感を覚えたらしく、以下のような発言を行っています↓

キング・コング集英社文庫版 P302〜P303
<編集:
 一九三三年という時代設定にこだわっていらしたのは?
田中:
 年表をちらっと見ればわかるように、一九三三年というのはすごい年なんです。ヒットラーが首相になる。日本が国際連盟を脱退する。ルーズベルトがニューディール政策を始める。大恐慌からまだ立ち直れずに失業率が25%から30%ぐらい。アル・カポネは刑務所に入ったばかり。リンドバーグ事件の犯人が捕まらないのでアメリカ中の家族が怯えている。最盛期を過ぎたベーブ・ルースがまだ活躍している。なかなか面白い時代でしょう。やっぱり一九三三年のアメリカといっても日本人にはなじみがないわけですから、どういう時代でどういう人たちがいて、というようなことはストーリーを妨げない範囲内でできるだけ書き込まないといけないな、と意識しました。
 それにオリジナルの『キング・コング』は同時代の話ですからおのずから時代色がありますけど、それを七〇年後にリメイクする人間の務めとして、この時代が歴史のなかでどういう位置を占めるかを明らかにできたら、という気持ちもありましたね。
 大恐慌以来もう世の中真っ暗で、六年後には第二次世界大戦が始まるわけですが、そんなことはまだわかるはずもない。人々は日々不安にさいなやまれながら、だからこそ不安から目をそむけてちょっとでも明るいものを見ようとしていた。そういう時代、その雰囲気を、全体として描けたらと考えたんです。>

 田中芳樹の性格やこれまでの執筆傾向から考えれば、昔の時代を舞台にした作品を執筆する際に、その当時近辺で発生した歴史的事件や歴史的人物の軌跡を作中に盛り込んでいく、というスタイルを田中芳樹が選択すること自体はごくごく自然な事象です。19世紀末〜20世紀初頭の時代を舞台にした「アップフェルラント物語」「カルパチア綺想曲」でも、作中のストーリーとは必ずしも関連のない歴史的事件や政治家・有名人の話が、語り部および作中キャラクター達の口から延々と述べられていましたし、19世紀が舞台の「ラインの虜囚」「月蝕島の魔物」でも似たような語り口が展開されています。だから田中芳樹も、これまでの作品の延長線的な感覚で「どういう時代でどういう人たちがいて、というようなこと」や「この時代が歴史のなかでどういう位置を占めるか」を明らかにする、という路線を元にしたストーリー進行を考えたのでしょう。
 しかし田中芳樹にとって、今回のキング・コングはこれまで執筆してきた作品とは全く異なる条件が存在します。それは、これまでの田中作品が全て原作・田中芳樹であったのに対して、キング・コングはそうではない、という点です。原作・田中芳樹の作品であれば、作者自身の意向ひとつでその手の歴史的事件や時代背景にストーリーの方をある程度擦り寄らせる、ということも可能なのですが、自分以外の人間による原作を最大限に尊重しなければならないリメイク作品では、当然そういうことができないわけです。
 また、田中芳樹が語りたがっている「1933年当時の時代背景および歴史的事件・歴史的人物」に関するエピソードは、それがキング・コングの作中で明確な形で明示されているもの以外は、基本的に全て「作品外から取って付けた補完設定」以外の何物でもありません。そういう条件下で、田中芳樹好みのエピソードを「ストーリーを妨げない範囲内でできるだけ書き込まないといけない」などということが果たしてできるものなのでしょうか?
 その懸念は、キング・コングという作品の主要人物であるアン・ダロウとカール・デナムの出会いの場面で早くも具現化します。この両者の出会いは、アン・ダロウがリンゴを万引きして店員に取り押さえられていたところをカール・デナムが助ける、という流れまではリメイク映画版も田中小説版も同じなのですが、田中小説版では、その後のレストランでの食事シーンで互いの自己紹介が終わった後、以下のような会話が繰り広げられています↓

キング・コング集英社文庫版 P29〜P31
<やがてアンは満足の溜息をつき、コーヒーカップを皿にもどした。
「ありがとう、生きてる実感がわいてきたわ。会社が倒産して社長が行方をくらましたのが一週間前。それ以来、食事は五回だけだったの」
「気の毒だな。君のせいじゃないのに」
「誰のせいにしたらいいのかしら」
「ひとりなら、メロンだろうな」
「メロン? 果物の?」
「いや、M・E・L・O・Nじゃなくて、M・E・L・L・O・N。Lが一文字多いんだ。この一二年間、わが合衆国を支配していた男さ」
 不審そうに、アンが確認する。
「大統領じゃなくて?」
「ふむ、大統領ね。いいかね、アン、この一二年間に、大統領は三人かわった。ハーディングにクーリッジ、そしてフーバーだ。で、この三人の共通点は?」
「三人とも共和党でしょ」
 アンの断言に、デナムがうなずく。
「そう、三人とも共和党だ。そしてもうひとつの共通点は、財務長官だ。大統領は三人かわったけど、財務長官はたったひとり。それがA・W・メロンさ」
 アンの双眸が鋭く光った。
「そいつが、私の不幸をつくり出した張本人ってわけ?」
 デナムは、かるく両手を広げた。
「合衆国の財政と経済に、大きな責任があることはたしかだね。何しろ、メロン財務長官は、大統領のことを『私の支配下にあるナンバーワン』と呼んでたんだからな」>

 そして、ここからさらに政治談議は弾みまくって、ハーディング・クーリッジ・フーバーの大統領評価からさらにリンドバーグの話にまで会話は脱線しまくり、5ページ近くもの字数を費やして当時の政治情勢についての社会評論が展開された末に、ようやくカール・デナムはアン・ダロウをスカウトすることになるわけです。
 この箇所の問題点は、まず、このやり取りがそもそも全くの初対面である男女2人が交わすものなのか、ということです。政治経済や宗教の話などは人それぞれで全く異なる主義主張を持っているのが常ですし、互いに気心が知れた知り合い同士でさえ、喧々諤々な議論や口論なども発生することが珍しくないものです。特にカール・デナム側にしてみれば、ここでアン・ダロウを自分のところにスカウトして自分の目的を達成しなければならないわけですから、わざわざこんな危険な事を自分から仕掛けなければならない理由がありません。
 また、アン・ダロウがカール・デナムをあっさりと信用してしまっているのも不可解です。前述のように、ここでの両者は全くの初対面なのですから、食事を奢ってくれた相手であることを考えても(というよりもむしろその事実があるからこそ、逆に猜疑心を持って)、アン・ダロウはカール・デナムを警戒する流れになるのが自然ではありませんか。にもかかわらず、自分とは全く意見が異なるかもしれない政治ネタをいきなり披露され、それをそっくりそのまま鵜呑みにして相手の言うことを信用してしまう。田中小説版のアン・ダロウは「人を疑う」ということをこれまでの人生から全く学んでこなかったキャラクターなのでしょうか(苦笑)。
 しかもアン・ダロウは、最終的にはカール・デナムが提示する「カネや名声が得られる」という安っぽい3流詐欺同然の誘いに対し、その実効性について何ら疑問を提示することすらなく、いともあっさりとカール・デナムにスカウトされています。ならば政治談議などという危険かつ不要な回り道などすることなく、最初からスカウト話を提示していれば、カール・デナムも余計な時間を費やす必要はなかったのではないかとすら考えられてしまうのですけどね。
 一方、この場面におけるリメイク映画版のアン・ダロウは、カール・デナムに対して警戒心剥き出しで接していて、2度も席を立ってレストランから立ち去ろうとしたアン・ダロウをカール・デナムが必死になって説得する様が描かれています。そして、カール・デナムがアン・ダロウを最終的に説得できた理由は、カネや名声ではなく「ジャック・ドリスコルが台本を書く」というセリフを言い放ったことで、これに説得力を与えるために「職を失ったアンはジャック・ドリスコル脚本作品の俳優を選定するオーディションに出ようとしていた」という設定を、リメイク映画版は序盤に提示しています。この場面の前にアン・ダロウがオーディションを行う事務所から門前払いをくらうという描写もありますので、「このままでは自分に未来はない」と考えるであろうアン・ダロウが「渡りに船」とばかりにカール・デナムの誘いに乗る、という流れになるわけです。
 何故アレで相手を説得できたの? という疑問を浮かべざるをえない田中小説版のアン・ダロウとカール・デナムのやり取りよりは、リメイク映画版の描写の方がはるかに過程もしっかりしているし、観客に対する説得力もあるのではないでしょうか。

 それと、田中小説版のカール・デナムは、世界恐慌がアンドリュー・ウィリアム・メロン財務長官によって引き起こされたものであり、その根拠を彼が12年間も財務長官の地位にあったことに求めているのですが、自分で言っていておかしいとは思わなかったのですかね? メロンが12年間も財務長官にあったということは、彼が1920〜1928年までのアメリカの経済的繁栄にも携わっていたということをも意味するわけで、そこについてはむしろ高く評価すべきところではないかと私などは思うのですけどね。
 メロンは財務長官時代、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透していく」というトリクルダウン理論と、「政府が企業や個人の経済活動に干渉しない」ことを旨とする自由放任主義(レッセフォール)を元に所得税減税や大企業優遇政策を行い、第一次世界大戦で肥大したアメリカの諸々の税率と国庫借入金を激減させた実績があります。だからこそ、ハーディング・クーリッジ・フーバーの三代の大統領から財務長官を任され、大いにその腕を振るっていたわけです。
 しかし、メロンの経済政策の原動力となったトリクルダウン理論とレッセフォールは、好況時は多大な経済効果をもたらしますが、世界恐慌勃発の際はマイナスがマイナスを呼ぶ惨状を呈することになったのです。つまり、財政赤字に陥り苦境に立たされた大企業がレッセフォールの不干渉主義によって何ら救済されることなく放任されたために企業倒産が続出し、「富める者が貧しくなったために、貧しい者はより貧しくなる」という逆トリクルダウン現象が発生することになってしまったわけです。ここで論われているメロン財務長官が世界恐慌勃発の際に批判されるべきは、世界恐慌を勃発させたことではなく、勃発した世界恐慌に対する対処法を誤ったことにあるのであって、「12年間も財務長官の地位にあった」からこいつが戦犯、などという単純な話ではないのです。
 では世界恐慌を勃発させた真犯人は誰か? それはホーリーとスムートという2人の議員がアメリカ議会に提出した、2万品目以上もの輸入品に超高率関税をかけることを目的とした「ホーリー・スムート法」と呼ばれる法律にあります。これが1929年10月に提出されたことが株価の大暴落・世界恐慌勃発につながり、さらにこの法律が翌年成立したことが世界恐慌をより一層悪化&長期化させ、さらには第二次世界大戦の原因にもなったわけです。
 何故田中芳樹は、世界恐慌勃発の原因を「ホーリー・スムート法」ではなくメロン財務長官、それも「12年間も財務長官の地位にあった」ということに求めたのか? その理由は簡単で、1920年代のメロンの経済政策が、田中芳樹が推奨する「イギリス病のすすめ」と完全に相反する政策だからです。英国病下のイギリスで展開されていた「ゆりかごから墓場まで」の社会主義政策は、メロンの経済政策の根幹を成すトリクルダウン理論&レッセフォールとは到底相容れないものですし、それでアメリカが経済的繁栄を享受したという歴史的事実もまた、田中芳樹は気に食わなかったのでしょう。
 それを裏付ける記述が、田中小説版キング・コングの作中に登場します↓

キング・コング集英社文庫版 P31〜P32
<アメリカ大統領第二九代大統領W・G・ハーディングはハンサムな紳士で、個人的には善良かつ親切だったが、政治家としての指導力や識見は低かった。彼の政権はスタート直後から贈収賄や公金横領や地位利用のスキャンダルにまみれ、「史上もっとも腐敗した政権」といわれた。おろおろするばかりのハーディングが任期途中で急死したとき、暗殺説が強くささやかれたものである。
 副大統領のJ・C・クーリッジが昇格して大統領となった。彼は「冷たい灰色の沈黙者(スフィンクス)」と呼ばれ、「すべての行動を拒否することによって国家に最悪のダメージをあたえることのできる人物」と批判された。実際、クーリッジは何もしなかった。彼は自分自身が何もしないだけでなく、政府に何もさせないために、大統領になったのである。それでも、本人には清潔なイメージがあったし、アメリカ合衆国の経済は空前の繁栄をつづけているように見えたので、クーリッジは無傷で引退できたのだ。
 貧乏クジをひいたのが、三人目の大統領H・C・フーバーである。彼は実業家としても外交官としても有能で、人格者としても知られていた。りっぱな大統領になるだろうと思われていたのだが、ハーディングやクーリッジ以来の無策のつけがついに来て、一九二九年、株は大暴落し、「大恐慌」がはじまった。
 最初のうちフーバーは事態を甘く見ていた。株の暴落も、企業の倒産も、失業者とホームレスの急増も、一時的なことで、そのうち景気はよくなるはずだ、と信じていた。ところが、いっこうに景気は回復せず、治安は悪化し、人心は荒廃するばかりだ。あわててフーバーは対策に乗り出し、ホームレスに食事を配ったり、財界に呼びかけて失業者救済基金をつくったりしたが、時すでに遅し。彼の任期中に、アメリカの国民総生産は四四パーセントへり、失業者は三〇倍になってしまった。
 ノックアウトをくらったフーバーが退場し、一九三二年末の大統領選挙でF・D・ルーズベルトが勝利する。一二年ぶりに民主党が政権をにぎったのだ。
 大統領に就任したルーズベルトは、「そろそろビールでも飲もうか」という名台詞で禁酒法を廃止する。これによって、アメリカ全土を荒れくるっていたギャング組織は、一挙に収入源を断たれた。「ボスの中のボス」アル・カポネも、ついに脱税容疑で逮捕された。音をたてて、時代は変わろうとしていた。>

キング・コング集英社文庫版 P65〜P66
<「ミスター・デナムは恩人よ。わたしに未来をあたえてくれたの。顔をあげて歩くよう教えてくれた。彼のためなら、わたし、できるだけのことはするつもり」
 明快にアンはいいきった。
「わたしはこの不公正で残酷な世の中に復讐してやるつもりだったの。でも、どうやったらいいのか、具体的な方法はわからなかった。ひとつまちがえば、犯罪者になっていたかもしれない」
「そいつは君個人の問題にとどまらないね」
 しかつめらしく、ジャックは応じた。
「弱肉強食の論理がまかりとおり、貧富の差が開いて、不公平感がつもりつもると、犯罪やテロという形で敗者の復讐がはじまる。貧しい人たちをサポートするのは、ただ人道上の措置というだけでなくて、社会全体の平和と安定にとって必要なことなんだ。だけど共和党政権は、ずっとそれをおろそかにしてきた」
「むずかしいこというのね」
「そうかい」
「あなた、もしかして共産主義者?」
 まじめくさったアンの問いかけを、一笑に附そうとして、ジャックは失敗した。コーヒーをひと口飲んで、その間に答えをまとめる。
「そいつは嬉しくない誤解だね。共産主義者は、むしろぼくの敵といっていい。なぜなら、彼らは、地上に天国がある、というとんでもない虚構を、善良な人々に信じこませようとしているからな」
 ジャックは一時ロシア革命に期待したこともある。だが亡命者の話によると、ソビエト・ロシアでは何かおそろしいことが起こり、多くの死者が出ているらしい。共産党書記長スターリンによる独裁は、すでに五年めにはいっていた。>

 ……キング・コングって、1920年代〜30年代前半における共和党政権の政治&経済政策を批判する作品でしたっけ? 田中小説版およびリメイク映画版を鑑賞するまでは、原作をあまり知らなかったこともあって「巨大なゴリラがエンパイア・ステート・ビルを上り、飛行機に狙撃されて墜落していく」というラストシーンくらいしかキング・コングの前評を知らなかった私にとって、「1930年代当時の政治経済ハウツー作品」というキング・コング評はいささか新機軸過ぎるのですが(爆)。
 キング・コングという作品自体にメロン財務長官が登場する箇所も、共和党政権を批判する描写も全く存在しない上、批判理論自体も見当ハズレなことをのたまっているときては、ここでメロンおよび共和党政権の経済政策が論われることに「キング・コングという作品における必然性」は全くなく、これは田中芳樹個人の私怨から無為無用に書かれたものであると言わざるをえません。
 こんなザマで「どういう時代でどういう人たちがいて」「そういう時代、その雰囲気を」「ストーリーを妨げない範囲内で描く」などということができるとは、私には到底思えないのですけどね。というか、原作・田中芳樹であるはずの創竜伝や薬師寺シリーズでさえ完全に失敗していることが、他者が原作であるキング・コングでできるなどと考える方がおかしいだろうと普通は真っ先に気づけるはずなのですが(笑)。



2.科学にこだわる「気の毒な人」である田中芳樹

 本来、政治経済を扱っているわけでもないキング・コングという作品に、創竜伝や薬師寺シリーズでさえ破綻している評論手法を採用しただけでは飽き足らないのか、田中芳樹はさらに無為無用な作外設定をキング・コングの作中に挿入しています↓

キング・コング集英社文庫版 P304〜P305
<編集:
 次に映画と小説という表現の違いについてうかがいたいのですが。
田中:
 これはちゃんと申し上げておかないといけないんですけど、小説を書き上げた時点で新作の映画はまだ完成していません。僕は関係者用の最初の試写フィルム八分と、劇場用の予告編四分、それしか観ていないんです。で、映像を全く観ないうちに、設定やキャラクターをいろいろ考えながら一部分書けるところを書き始めたりしました。このときは同時進行で『アルスラーン戦記』を書いていましたから我ながら、働き者だと思うわけですが(笑)、ただこれは本当にぶっちゃけた話、今回一番困ったなぁと思ったのは、新作シナリオが届いてそれを読んだときだったんですよ。
編集:
 一番の問題はなんだったんでしょう。
田中:
 第一に、ハリウッドの映画人はどうやらあまり気にしていないようなんですけど、要するに離れ小島に巨大な生物がウヨウヨいるということですね。それこそ一種の金字塔になりましたけど、『ジェラシック・パーク』でさえそうです。第一作では「恐竜というのは人為的に産み出されたもので、大陸では危険だから離れ小島で繁殖させているんだ」という説明がありましたけど、続編になるともう勝手に繁殖しちゃってますからね(笑)。
 そもそも髑髏島の面積っていうのはそんなに大きくない。で、現実に離れ小島にそんな巨大な生物がいたという実例はない。となるとそれなりに科学的というか、疑似科学というレベルでかまわないから、どうして髑髏島に恐竜が繁殖しているのかについて、シナリオではまったく説明されていない部分を小説では書き加えなくてはならないわけです。で、これは僕がいつか秘境冒険物を書くときのために温めていたモデルだったんですが、「実は離れ小島が地底世界とつながっていて、地底世界に押し込められた生物が太陽の光を求めてさまよううち地上に通じる穴を見つけて出てくる」というような設定を付け加えたんです。>

 あの〜、過去の田中作品でも創竜伝や薬師寺シリーズ、夏の魔術シリーズのように「現代科学では到底説明できないオカルト的要素」をそれなりに出しているものがありますよね? それらの作品でも、オカルト的要素はストーリーおよび作品設定面でそれなりに重要なポジションにあったにもかかわらず、それらについては科学的な説明など最初から放棄しているかのようなスタンスを貫いていらっしゃるはずの田中センセイが、どうしてキング・コングについて「だけ」は科学的な説明にこだわるのでしょうか?
 ここで田中芳樹自身が明言しているように、髑髏島(スカル・アイランド)にどうして恐竜や巨大生物が存在するのかについては、原作にもリメイク映画版にも一切説明がありません。しかし、そこで説明が無いからといって、ことさら田中小説版にその手の科学的説明を加えなければならない理由など、どこにも存在しないはずではありませんか。そもそも「科学的」云々を主張するのであれば、田中芳樹が声を大にして主張する「地底世界」云々だって「そんなものが果たして成立しえるのか?」という疑問がでることになって更なる科学的な説明が必要となりますし、そこから芋蔓式に大量の問題点が無限噴出して際限がなくなるのですが。
 しかも田中芳樹は、元々が文系出身である上、銀英伝のような理系的知識を必要とするSF設定を取り扱った作品でさえ、その手の問題をあえて避けてきたように、科学的な分野に精通しているとは到底言えないタイプの人間です。そして銀英伝等のインタビュー記事を見ても、田中芳樹はすくなくともその点に関しては己の特徴をきちんと把握できていることは間違いないわけです。にもかかわらず、全く畑違いの分野、下手すれば苦手分野ですらあるかもしれない科学分野などに、どうして田中芳樹は身の程をわきまえずに突っ走ろうとするのか、全くもって理解に苦しみます。
 第一、田中芳樹はフィクション作品に対して科学を持ち込み、科学的価値観を元に一方的な断罪でもって切り捨てる手法を、以下のごとく嘲笑っていたはずなのですけどね↓

創竜伝9巻 P93下段〜P94下段
<「『竹取物語』は、月に人間が住んでいるという嘘を人々に植えつける非科学的な物語だから読んではいけない」
 と主張する科学者はいないだろう。いるとすれば、その人は文学的真実というものを理解できない点で、野蛮人の名に値する。
(中略)
始は祖父にいわれたことがあった。
「科学者を畏れ、尊敬しなさい。だが科学教の信者に対しては、その必要はない。彼らは科学と技術を独占して一般市民を遠ざけ、権威と権力に近づくことしか考えていないんだからな」と祖父はいったのだ。子供だった始はよくわからないままにうなずいたが、いまでは子供のころよりもわかっている。皮肉なことに、自分たちに説明できないことをすべて錯覚や幻想としてかたづける人々のおかげで、ドラゴンたちは正体を広く知られずにすんでいるのだ。>

とっぴんぱらりのぷぅ 〜田中芳樹のブックガイド〜 P79〜P80
<――:
 謎の出し方、ギミックもそうだし、小説的な盛り上げ方が完璧にできているということですね。
田中:
 そして最初から終わりまで、ムダなことは何ひとつ書いていない。エンターテイメント小説を書く人の模範だと思いますね。ぜひ読んで勉強してほしいです。
 まともによみもしないで「透明人間なんて科学的じゃない」なんて言う人はほっときましょう。フィクションをフィクションとして楽しむのは、人間だけが享受できる特権なんですけどね(笑)。
――:
 『宇宙戦争』はいかがですか。
田中:
 これは、以前お話しした『ドラキュラ』と相似形で、「海の向こうから得体のしれないものがやってくる」という設定、海を空に変えたわけですね。
 そして火星人。もちろん非科学的だとせせら笑う人がいるけど、気の毒な人ですね(笑)。これは非常に皮肉なことなんですけど、科学的な理屈に基いてひとつひとつ考えていったら、現実とかけ離れたものができあがってしまうんです。
 たとえば他の星に宇宙人がいたとして、そこから地球を見たとき、そこにどんな生物がいると想像するか。地球の八割は海ですから、生物は海に棲んでいると考えるのが自然なんです。そうすると鯨やイルカのほうが本来あるべき知的生物の姿になるわけです。人類はむしろ惑星の環境に適応していない、ということになるんですよ。>

 ……キング・コングを執筆する際に「それなりに科学的というか、疑似科学というレベルでかまわないから、どうして髑髏島に恐竜が繁殖しているのかについて、シナリオではまったく説明されていない部分を小説では書き加えなくてはならないわけです」などと言った人の言葉とは思えませんね。田中小説版キング・コングにおける田中芳樹の科学的云々に拘るスタンスって、他ならぬ自分自身で批判しているはずの「科学教の信者」そのものではありませんか(苦笑)。キング・コングを非科学的だとせせら笑い、身の丈に合わない不得意分野に邁進する様は、全くもって気の毒な人だと言わざるをえないのですが(爆)。
 そもそも、この手の科学に関する田中芳樹の主張には全くと言って良いほどに一貫性が無いんですよね。銀英伝の時はハードウェアよりもソフトウェアに重点を置いていると言ったかと思えば、創竜伝4巻では「ムー大陸伝説」を科学的見地および資料主義から批判していたりしますし、創竜伝8巻で「月に空気がある」という説を開陳したかと思えば、次の9巻ではそう主張していたはずの同一人物が否定する。科学教を振り回して作品を一方的に断罪することを批判していたかと思えば、田中芳樹的価値観からはどう見ても科学教の狂信者集団としか認識されないであろう「と学会」の自称SF作家なキチガイ会長とニコニコ対談していたり、挙句の果てには創竜伝の輪廻転生や薬師寺シリーズ全般に見られるがごとき「オカルトに依存しながらオカルトを否定する」描写が多発したりする始末です。科学に対する田中芳樹のスタンスは支離滅裂もいいところで、拠って立つ基盤そのものが上下左右にブレまくっているとしか評しようがありません。
 こういう惨状を見ていると、田中芳樹は科学または理系的発想というものに対して何らかの深刻かつ重度のコンプレックスでも抱えこんでいるのではないか、などと私は推察せずにはいられないのですが。



3.アン・ダロウを取り巻く三角関係?

 さて、前2者の問題については、その結果はどうであれ、原作版キング・コングで特に言及されることのなかった時代背景の説明や設定を補完するという観点から出発したものであり、いわば「無から有を作る」ものでした。しかし、田中小説版キング・コング最大最悪の欠陥は、元々原作に存在するはずの設定を意図的に改変した挙句、およそ原作とは全くかけ離れた(悪い意味での)オリジナル要素を造成してしまったことにあるんですよね。
 その最大最悪の欠陥を招いた大本の原因は、田中芳樹が原作版キング・コングに対して以下のような感想を持っていたことから始まります↓

とっぴんぱらりのぷぅ 〜田中芳樹のブックガイド〜 P121〜P123
<田中:
『オペラ座の怪人』など見て思うのは、『ドラキュラ』も『キング・コング』も構造上は全部同じ話なんだなということです。
――:
 え、『キング・コング』も?
田中:
 ちょっと乱暴なくくりに思えるかもしれませんが(笑)、そういうふうにできてるんですね。
 ようするに美女がいて、ふたり以上の男性が彼女を手に入れようと争うんですが。その男性の一方は文明を……あくまで欧米人感覚の文明ですが、象徴してるわけです。そしてもう一方は野蛮だったり異形である、これも欧米人感覚。ドラキュラも、ヒロインを巡ってその旦那と争って、つまり野蛮が文明と争って負ける、というパターンが共通するわけです。
――:
 最後はどうしたって文明が勝つんですね。
田中:
 ただ、そういう単純な価値観では、人はだんだん満足できなくってくるんですね。最初の映画のファントムは身の程知らずに美女に横恋慕する怪物で、ただの悪役・敵役だったわけですが、これがロイド・ウェバーにかかると……。
――:
 うんと魅力的になってくるわけですね!
田中:
 とくに女性にとってはね(笑)。
 キング・コングも同じで、野蛮・野性を象徴しています。ニューヨークに連れてこられても彼女を求めて追いかけて、結局機関銃で撃ち殺されてる。文明が野蛮をやっつけて、美女は文明人の手の中に戻ってめでたしめでたし。ドラキュラも最後には滅びて、美女は旦那のところに戻っていくわけです。『オペラ座の怪人』のヒロインはあれだけ劇的な恋をしてどうなったかといえば、結局、子爵のラウールと結婚して子どもを産んで長生きをして……つまり平和な文明世界の住人に戻りました、で終わるんです。
 このへんの基本的なパターンを押さえておけば、映像化や舞台化したとき、演出家の意図しだいでいろんなやり方ができるという例ですね。ファントムを単純な敵役にもできるし、悲劇の主人公にもできるというわけです。でも結局は全部負けるわけですけど(笑)。
――:
 要はどういう負け方をするかってことで、負けは運命づけられてるわけですね。先に舞台から降りなければいけない。そして最後に残るのはヒロイン。
田中:
 いずれの話でもヒロインはわりと受動的で、「こっちが好きだけどこっちにも惹かれる、どうしよう」って。そういうところがまた前時代的なんですが、女性の主体性を重んずるようになると、「野性だってけっこういいわ」とか言うようになります。だからってキング・コングといっしょに島に帰ったりはしないし(笑)。
――:
 でも女の子のためにもキング・コングは死ななければならないと思わせますよね。
田中:
 そこなんです。キング・コングが死ぬことによって、皮肉な言い方になりますけど、女性は手を汚さずして平和に戻れるわけですからね。
――:
 そして助けられなかったと悔いながら、よろよろっともうひとりの男の胸に。「あ、この女ずるい」と(笑)。大人になると子どものころとは全然違う、苦い思いがありますね。田中さんの『キング・コング』のノベライズ版だとまた違った結末になってますけども。
田中:
 まあそのへんはある意味、永遠の構図、黄金のパターンなんですね。だから前回のハーレクインにおける二股(笑)、っていうのと、スケールはかなり違いますけど、似たところはあります。>

 要するに、田中芳樹の頭の中で展開されているキング・コングという作品は、「文明の象徴」であるジャック・ドリスコルと「野蛮・野性の象徴」であるキング・コングが、アン・ダロウというヒロインの心を奪うために互いに競い合う三角関係的なものになっている、というシロモノであるらしいんですね。これって前提条件そのものが間違っているとしか評しようがないのですけど。
 アン・ダロウを取り巻くジャック・ドリスコルとキング・コングの関係というのは、まずアン・ダロウとジャック・ドリスコルの関係が先にあり、両者が協力してキング・コングの問題に当たっていく、という2対1的な構図こそが正しい図式でしょう。すくなくともリメイク映画版では、アン・ダロウとジャック・ドリスコルの恋愛関係は髑髏島に辿り着く前の時点で(接吻シーンが描写されるという形で)とりあえず暫定的には成立していますし、そもそも、キング・コングを拉致してニューヨークに強制連行したのは全てカール・デナムの出世欲から来る策謀によるものなのであって、それについてはアン・ダロウもジャック・ドリスコルも一緒になって反対していたではありませんか。
 それに、アン・ダロウがキング・コングに対して抱いていた感情は、恋愛ではなく「種族を超えた友人」といった類のシロモノでしょう。一時囚われの身になったとはいえ、キング・コングはティラノザウルスの脅威からアン・ダロウを守ってくれた実績があるわけですし、アン・ダロウとキング・コングの心の交流が展開される描写もあるのですから、「友人」や「仲間」といった感情を持つのは別に不思議でも何でもないでしょう。男女の主人公の恋愛を描きつつ、人間以外の種族と人間が友情や仲間意識を共有する、というエピソードを持つ作品は、キング・コング以外にも、たとえばハリウッド映画だと「グレムリン」シリーズがありますし、決して珍しいものではないでしょう。
 それとも、「野蛮・野性の象徴」キング・コングと相対する「文明の象徴」というのは、作中でアン・ダロウと直接的な恋愛関係になるジャック・ドリスコルではなく、直裁的にキング・コングを拉致したカール・デナムや、機関銃で殺してしまうアメリカの政府・社会・軍だとでもいうのでしょうか。しかし、カール・デナムはアン・ダロウではなくキング・コングの獲得自体が目的だった上、肝心要のアン・ダロウにはそっぽを向かれていますし、アメリカの政府・社会・軍は、アン・ダロウではなく社会的秩序を守るためにキング・コングを敵視し、攻撃の際にアン・ダロウを巻き込んですらいたのですから、「ふたり以上の男性が彼女を手に入れようと争うんですが」というテーマとは全く合致しません。
 作中におけるキング・コングとジャック・ドリスコル以外の登場人物は、アン・ダロウに対して特にこれといった執着など抱いてはいなかったのですから、アン・ダロウとジャック・ドリスコルとキング・コングの三者でもって「ふたり以上の男性が彼女を手に入れようと争うんですが」というテーマを論じているのでなければ、田中芳樹はキング・コングについて全く関連性のない意味不明な主張を展開していることにもなりかねないのですが。

 さて、原作キング・コングに対してかくのごとく誤った事実認識を抱いていた田中芳樹は、その原作の結末にすくなからぬ不満を抱いていたようで、田中小説版キング・コングを執筆するに際して、自らの手で結末を変更することを考えるに至ります。
 そして、その結末を変更するに当たって、徹底的に設定を根本から改変させられた挙句、原作とは似ても似つかない異形の存在と成り果ててしまった田中小説版キング・コングの悪しきオリジナル要素、それが何であろう、キング・コングのヒロインたるアン・ダロウなのです。



4.「強さ」の意味を履き違えた自己中心的権力亡者と化したアン・ダロウ

 何故田中芳樹は、原作キング・コングのヒロインであるアン・ダロウの設定を改変しようと考えたのか? その理由は、原作版アン・ダロウの性格設定が、田中芳樹の嗜好と全く合致していなかったことにあります。
 前項の「とっぴんぱらりのぷぅ 〜田中芳樹のブックガイド〜 P121〜P123」からの引用をよく見てみると、田中芳樹の原作版アン・ダロウ評は、「わりと受動的」「そういうところがまた前時代的」「女性は手を汚さずして平和に戻れる」といった言葉に象徴されているように極めてマイナス要素に満ちたものであることが分かりますし、インタビュー記事全体の流れを見てもマイナス評価ばかりが飛び交っています。ここからまず、田中芳樹が原作版アン・ダロウのようなタイプの女性を嫌う傾向にあるという仮説が導き出されます。
 そして、他のインタビュー記事や対談などを読んでも、この仮説が正しいものであることを立証するようなことばかり田中芳樹は主張しているわけです↓

書物の森でつまずいて…… P59〜P60(毎日が八月三十一日 作家生活二十五周年インタビュー/聞き手・赤城毅)
<赤城:
 世界がどんどん広がっていく中で、ついに最強のスーパーヒロイン、といいましょうか(笑)、薬師寺涼子の登場となるわけですが。
田中:
 どうも、避けては通れないようですね(笑)。
赤城:
 田中さんの作品の中では、たいてい女性はみんな強くて、よよと泣き伏すヒロインって出てきた覚えがないんですけども。またこれは群を抜いて、軽く三、四馬身は抜いて強いように思います。どうしてまたこういうヒロインを?
田中:
 そう、おっしゃったようにぼくは、よよと泣き伏すヒロインって、書かないというより書けないんですね、どうも。『銀英伝』のアンネローゼは泣き伏すタイプかと読者は思われたようですが、最後にちゃんと刺客にスタンド投げてますし(笑)。どうも女の人が元気なほうが、書き手としても読み手としても気持ちいいんですね。
赤城:
 それはまったく同感ですね。一昔前のハリウッドの冒険映画みたいに、ヒロインは気絶するしか能がないのでは困っちゃいますから。
田中:
 気絶してくれるならまだいいんですが、殺人鬼を見かけてキャーと叫んでわざわざ居場所を教えたりね(笑)。>

薬師寺シリーズハンドブック「女王陛下のえんま帳」 巻頭対談 田中芳樹×垣野内成美
光文社版P18〜P19
<垣野内:
 現代では「きゃ〜」って言ってるヒロインってあんまりなくて、基本的に自分で攻撃してますよね。昔のロボットものとかいろいろ見てて、女キャラがたいてい足手まといになってるのが、すごく嫌だったんですよー。アニメに限らず、ドラマの刑事ものとか見てても、きゃあ、って座り込んじゃってどうにもならないとか。「アナタがいなかったら、この戦い勝てたのにぃ〜!」っていうのあるじゃないですか。子供の頃から嫌でしたね。「なぁんで邪魔するんだろうこの女は」(笑)。だからいっしょに戦ってくれると実に爽快感があります。
――:
 確かに一時期、かわいいヒロインは足手まといでしたよね。
田中:
『スター・ウォーズ』のころはどうでしょうね。
垣野内:
 レイア姫はまだ「きゃ〜」でしょう。けっこう邪魔なんですよ、あれ(笑)。
田中:
 そういう意味で画期的だったのはやっぱり『エイリアン』かな。
垣野内:
 それでも女はワガママなのか、いい男が後ろでフォローしてくれるのが理想なんですよね(笑)。女から見ると泉田クンはかなり……いい男ですよね。あんなにフォローのきく人は、そうそういないでしょう。
田中:
 まあ、本人は苦労してるつもりでも、ハタから見ると「ひょっとしたらけっこう楽しいんじゃないか?」とか、そこらへんのいろんな落差が重なり合って笑いを呼びたらいいなぁとは思ってたんですが。>

 これらの記事の内容から考えれば、原作版キング・コングのアン・ダロウをそのまま描写することに、田中芳樹が相当な抵抗感を覚えていたであろうことは容易に推察できます。何しろアン・ダロウは、「一昔前のハリウッドの冒険映画」に登場する「とにかくキャーキャー叫びまくる足手まといなヒロイン」の典型(というよりも原型?)なのですから。
 そのため、田中芳樹は集英社から小説版キング・コング執筆の依頼を受けた際、わざわざこんな条件まで提示しています↓

とっぴんぱらりのぷぅ 〜田中芳樹のブックガイド〜 P252
小説宝石特別編集「英雄譚」 対談 田中芳樹×藤田和日郎
<田中:
 『アルスラーン戦記』がひとまず書けたら、この増刊号が出るころには……実は『キング・コング』を書いてます。
藤田:
 ……『キング・コング』?
田中:
 はい。『指輪物語』の映画監督のピーター・ジャクソンが、一九三三年に作られた『キング・コング』のリメイクをして、来年の正月に日本で公開されるんです。それに合わせて『キング・コング』小説版を書くことになりました。単なるノベライズではなく、小説として独立したものを書いてほしいということだったので、ずいぶん考えてお引き受けしました。生意気にもいくつか条件を出して、たとえば「ラストシーンが映画と違ってもいい?」と尋いたら、OKということでしたので。>

 そして、この「ラストシーンが映画と違」う方向へ向かうようなストーリーの流れを作るため、徹底的に性格設定を改変させられたのが、田中芳樹が最も嫌うタイプの女として目の仇にしていたであろうアン・ダロウだった、というわけです。
 で、わざわざ出版社に頼み込んでまで原作ラストシーンの変更を行った結果、原作と同等かそれ以上の傑作ができるのであれば読者としては万々歳だったのですが、実のところ、これこそが先に私が挙げていた無為無用な偏向社会評論および科学理論の挿入以上に、田中小説版キング・コングの出来を致命的なまでに悪化させている元凶ときていますからね〜(>_<)。正直、この原作設定の改変、もっとはっきり言えば「改悪」こそが、私が今回の考察を書こうと決意するに至った最大の動機ですらありますし。
 田中芳樹は、自分で「受動的で前近代的なずるい女」と評したアン・ダロウの性格設定を、以下のような性格に改変しています↓

キング・コング集英社文庫版 P147〜P148
<アンは自分自身の悲鳴を聞くことすらできなかった。口を完全にふさがれ、両手首をおさえられ、ベンチャー号の舷側から小船へ、荷物みたいに運ばれていったのである。
 髑髏島の島民たちは、訓練された兵士のように行動した。無言で、すばやく、手ぎわよく、一滴の血も流さずに目的は達成され、「黄金色の女」は島に不本意な再上陸をはたした。正確にいうと、ふたたび島の土を踏んだのは村にはいってからだが。
 高床式の家から、つぎつぎと住民があらわれ、アンを包囲した。音楽的なリズムとイントネーションをつけて叫びたてる。「コング」という単語が聞こえたような気もするが、はっきりしない。自分の無力が、アンは腹立だしかった。もしおそわれたら、
「けとばして、かみついて、ひっかいてやる」
 と、アンはデナムに言明したのだ。嘘ではなかった。ほんとうに彼女は、加害者に対してそうしてやるつもりだった。だが、両手首を完全に拘束され、暗い地面をつまずかずに歩くことだけで精いっぱいである。
「ちょっと、ほどきなさい。わたしを自由にしなさいよ。いまだったらまだ恕してあげるから。そうしないと、おそろしいことになるわよ。わたしは合衆国市民なの。わたしの祖国は、ひとりの有権者を救出するために、ひとつの都市を丸ごと焼きはらう国よ。覚悟はあるの!?」
 不穏をきわめた脅迫も、残念ながら効果がなかった。>

 また、田中小説版のアン・ダロウは明らかに野心家として描かれていますし、常に他者を見下しているかのような傲慢な態度を取ったりしています↓

キング・コング集英社文庫版 P225
<巨大な類人猿はアンの傍にひかえている。そうとしか表現できないほど、人間に近い態度だった。それも女主人につかえる従僕といってよいほどだ。いまやアンはキング・コングに対して一片の恐怖も抱いてはいなかった。今の彼女の心情は、猛獣使いが従順なライオンに対して抱くものと似ていたかもしれない。
「この島にいて、あんたに守られて暮らすのも、悪くはなさそうだけど……」
 アンはキング・コングの手の甲に掌をすべらせて、剛毛の感触を味わってみた。
「でも、わたしは汚れきった文明社会に帰りたいの。そこで成功して、世間を見返してやる。わたしと、わたしの家族を、ひどい境遇に落としこんだやつらを後悔させ、くやしがらせてやりたいのよ」>

 一言で評価するならば「他者に対して異様に挑発的・攻撃的な言動を行い、かつ著しい上昇志向を持つ権力亡者」としか言いようのない性格に、アン・ダロウは変貌させられているわけです。田中芳樹的には、これこそが「積極的かつ近代的で正々堂々とした現代女性のあるべき姿」であるらしく、田中小説版キング・コングでは、この田中芳樹的「近代女性な性格」がストーリーの特に後半部分を引っ張っていく原動力になっています。
 このアン・ダロウの性格変貌は、必然的にアン・ダロウとキング・コングの関係をも一変させることになりました。リメイク映画版のアン・ダロウとキング・コングの関係は、すでにアン・ダロウとジャック・ドリスコルの恋愛関係が成立していたこともあって「対等の友人」に近いものであり、キング・コングがアン・ダロウに執着するのと同じくらい、アン・ダロウもまたキング・コングに親近感と友情的な感情でもって接しています。
 しかし、上記の引用を見れば分かるように、田中小説版のアン・ダロウはキング・コングに対して「対等の相手」とは全く認識しておらず、「自分が上位に立つのは当然」とでも言わんばかりの見下した態度を取っています。キング・コングという作品における、リメイク映画版と田中小説版の最大の違いはここにあると言っても過言ではないでしょう。
 この作中事実が、田中小説版キング・コングに如何なる形で最悪の結果をもたらしたのか? その第一のターニングポイントは、ストーリーが髑髏島編の終盤戦にさしかかり、カール・デナム提唱によるキング・コング捕縛作戦が展開されたところにあります。リメイク映画版ではカール・デナムと船の乗組員が主導的に行い、アン・ダロウはその作戦に終始反対かつ非協力的だったものが、田中小説版ではアン・ダロウもまた積極的にキング・コング捕縛作戦に参画することになるのです。

キング・コング集英社文庫版 P243〜P246
<荒れくるうキング・コングの姿を月下に見やりながら、ジャックが告げた。
「アン、彼は君に対しては優しかっただろう。だが、他の者に対してはあのとおりだ。彼は神なんかじゃない。ただの猛獣だよ」
「ちがうわ」
 アンは怒りの声をあげたが、ジャックを説得することはできなかった。
「わたし、彼をなだめる。これ以上、暴れないようにいうわ」
「そして山に帰るよう命令するか? だめだね。君が同行するならともかく、ひとりで帰るものか」
 そういうと、デナムは、キング・コングの巨影に指を突きつけた。
「おれはお前を神だなんて思わないぞ。お前はただの猛獣だ。ゴリラに似ていて象よずっと大きいが、ただそれだけで、高貴でも神秘でもありやしない。ただ力が強くて、わがままなだけだ」
 デナムは強い視線でアンをとらえた。
「アン、やつをとらえるんだ。いまさら原因を論じてもはじまらん。キング・コングが村を破壊するのをやめさせる。もちろん君をやつの手に渡すわけにはいかん。だとしたらどうする? やつをとらえる以外に、方法があるか?」
 方法はなかった。すくなくとも、アンには名案が思い浮かばなかった。
(中略)
「アン、やつをおびき寄せてくれ」
 デナムがいうと、アンは、しかたなさそうにうなずいた。
「ここに?」
「いや、いま最適の場所を決める」
(中略)
「アン、これ以上、犠牲者は出せないぞ」
 デナムに強くいわれて、アンはもう一度うなずいた。
 荒くるうキング・コングの動きが、急停止した。巨眼を細め、姿勢を低くして確認する。まだこわされていない高床式の家の前に、金髪白皙の人間の女性が立っている。両腕を大きくかかげ、巨大な類人猿を呼んだ。
「わたしはここにいるわよ!」
 キング・コングが咆哮する。これまでとは違う叫び、歓喜の叫びだ。地をゆるがして走り寄ろうとしたとき、なぜか女は地面に倒れた。理由をさぐるより、まず女の身を地面からひろいあげようとして、キング・コングは巨体をかがめた。家の屋根の上で、数人の男が、身をおこすと、無防備になったキング・コングの頭上に網を投げかけた。>

 リメイク映画版のアン・ダロウが、クロロフォルムの攻撃でダウンして捕縛されたキング・コングに涙を流して嘆き悲しんでいたのとは完全に対極を為す描写ですね。この田中小説版のキング・コング捕縛作戦は、アン・ダロウに対して、原作にもリメイク映画版にも全く存在しないはずの「カール・デナムと同格の主犯的共犯者」という地位を冠することになります。
 そして、「自分も一緒になって」捕縛してキング・コングと共にニューヨークへ帰還したアン・ダロウは、キング・コングを手土産に女優としてのデビューを果たすことが作中で語られており、それをアン・ダロウは了承すらしています。原作およびリメイク映画版では、件のキング・コング捕縛作戦における態度も相まって、カール・デナムに対する一切の協力を拒否するかのような描写がなされているにもかかわらず。
 さてここで、田中小説版キング・コングのみに限定される全くオリジナルな問題が発生することになります。原作およびリメイク映画版のキング・コングのニューヨーク編ストーリーは、キング・コングを披露するショーにおいて、アン・ダロウの協力を得ることができなかったカール・デナムが、仕方なしにアン・ダロウの代役を立ててショーに望んだ結果、激怒したキング・コングがニューヨークを暴れ回るという流れになっています。しかし前述のように、田中小説版キング・コングでは、カール・デナムとアン・ダロウは対キング・コングについては立派な共犯関係にある上、利害関係も完全に一致しています。そのままの状態では、カール・デナム主催のキング・コング披露ショーにアン・ダロウが出演しなくなる理由がありません。
 そのため田中芳樹は、田中小説版キング・コングにおいて、件のショーの前にカール・デナムとアン・ダロウを決裂させるための理由を新規に創作しなければならなくなったのですが、その理由こそが田中小説版キング・コングを駄作に追いやる第二のターニングポイントになるのです。

キング・コング集英社文庫版 P261〜P265
<「今夜はミス・ダロウはいませんよ」
 プレストンにそうささやかれたとき、ジャックは声も出ないほどおどろいた。彼がここにやって来たのは、ひとつには連邦捜査局の件でデナムに相談するため、もうひとつはアン・ダロウの姿を見るためだったのだから。
「あそこにいるのは、金髪の鬘をかぶった偽者です。デナムさんが選んだくらいだから、なかなか美人ですけど、でもしょせん偽者です」
 このようなことになったのも、つい三日前、デナムとアンが決裂したからだった。彼らはコングに鎖をかけるかどうかで対立し、激論のあげく、とうとう妥協できなかったのだ。
「だめよ、ミスター・デナム。キング・コングに鎖をかけるですって? そんなこと、わたしが断然、許しませんからね」
 デナムのオフィスで、アンは両腕を組んでデナムをにらみつけた。デナムは頭を振り、肩をすくめ、理を説いて、アンを説得しようとこころみた。
「いいかね、アン、おれは何もやつを虐待しようというんじゃない。ひとえに安全のためだ。わからないのか? わかるだろ?」
「キング・コングは安全よ。鉄の鎖なんかで縛る必要なんてないの。世界一美しい鎖が、とっくに彼を縛ってるんだから」
「世界一美しい鎖? ああ、君自身のことだな」
 デナムはかろうじて舌打ちをこらえた。
「ま、自信を持つのは、けっこうなことだ。君は自分がキング・コングの女主人だという。その点はおれも認めてもいい。だが、君とおれだけじゃ、どうしようもないんだ。みんなが、キング・コングに鎖をかけるよう求めている」
「みんなって、誰のこと?」
「まず警察だ。やつに鎖をかけることが、ショーを許可する条件だったんだ。当然だろ。サーカスのライオンにだって虎にだって、鎖をかけるんだからな」
 アンが黙っているので、デナムは猛然たる口調で話を続けた。
「つぎに投資家連中だ。やつらは無用なリスクを冒したくない。キング・コングが暴れ出して、観客を死傷でもさせたら、皮算用がすべて水の泡だ。それから観客だ」
 ここでアンが反問した。
「あら、観客はスリルを求めてるんじゃないの? 最大限のスリルを。だとしたら鎖がないほうがいいと思うけど」
 デナムが発した声は、うなり声に近かった。
「ああ、観客はスリルを求めてるさ。安全なスリルをな! 自分たちが負傷したいなんて思っちゃいないよ。やつらの安全を、目に見える形で保障するのが鉄の鎖なんだ」
 何かいおうとするアンを、デナムは片手をあげて制した。
「自分がいる、といいたいんだろ、ミス・美しい鎖。だが、いいかね、観客が求めてるのは、君の美しさであって、君の強さじゃないんだ。君の要求どおりしたら、観客は失望し、はてはコングをあざ笑うだろう。『何だ、図体がでかいだけで、鎖の必要もないほど弱い猿が、ぺこぺこ女の命令を諾いてるだけじゃないか』とね。そしてぞろぞろ席を立って帰っていく」
 アンは紅唇をかるく開いたが、声を発せずにふたたび閉じた。それを確認して、デナムはいささかわざとらしく、うなずいてみせた。
「わかってくれただろう? おれのいうとおりにしてくれれば、万事まちがいないんだから、演出にしたがってくれよ」
 アンはまた口を開き、今度は言葉の弾丸を吐き出した。
「演出って、なに? 鎖に縛られたキング・コングの前で、わたしがキャーキャー泣き叫んでみせる、あの茶番劇のこと?」
「演出だよ、アン、演出だ」
「ばかにしないでよ!」
 組んでいた腕をほどいて、アンは叫んだ。デスクをはさんで、デナムはかるくのけぞった。
「わたしはキング・コングの餌でも生贄でもないわ。彼が命令にしたがう、世界で唯一の存在よ。キング・コングは恐怖でわたしにしたがうのじゃない。わたしを愛し、崇拝しているから、喜んでわたしに服従するの! 演出だっていうなら、わたしとキング・コングとの関係を、観客たちに正しく理解させたらどうなのよ!」
 姿勢をたてなおして、デナムは、はっきりと舌打ちした。
「理解だって? 聞いてあきれるね! 観客が理解なんぞしたがるわけないだろう! やつらは、ただもう、兇暴な巨大獣の前で金髪美女が泣き叫ぶのを見たがってるんだよ」
「下種なやつらね」
「いまのアメリカじゃ、下種ほどたくさんのドルを持ってるんだよ」
「あなたもドルがすべてなの?」
「ドルに対抗するにはドルしかないんだ。自分の手にドルをかかえていれば、下種どもに頭をさげなくてすむ。万事はそれからだ」
「つきあいきれないわ!」
「おお、そうかい、ひさしぶりに意見が一致したな!」
「わたしは絶対、出演ないわよ!」
「かってにしろ、代役を立ててやる。キング・コングの代わりはいないが、君の代わりなら、このニューヨークに、いくらでもいるさ!」
 どなった瞬間に、デナムは後悔したが、すでに遅かった。音もなく亀裂がひろがり、その向こうに、両肩をそびやかして憤然とドアをあけるアンの後姿が見えた……。>

 一体どこの世界に、こんな支離滅裂かつ下らない理由で、それも自分の輝かしいデビューを飾ることになるであろう舞台の出演依頼を断る俳優ないしは女優がいるというのでしょうか? 田中小説版のアン・ダロウは、キング・コングと出会ったことで何か妙な電波でも受信した挙句、脳に重大な障害が発生してしまったのではないかとすら、私は考えてしまったくらいなのですが。
 まず第一に、上記口論の中でアン・ダロウは「キング・コングに鎖は必要ない」とキング・コングの安全性を強調しているわけですが、そもそも他ならぬ自分自身がキング・コングと初めて対面した際、その姿を見ただけで恐怖のあまり絶叫していたつい先日の作中事実の記憶をもう忘れてしまったのでしょうか? 件のキング・コング披露ショーにおける観客達は、その時のアン・ダロウと同じ知識と状況からキング・コングを観覧することになるのですから、「初対面時のアン・ダロウと同様の」パニックが発生する要素は可能な限り排除しておくことが、ショーを主催するカール・デナムの義務ですらあるではありませんか。
 しかもその義務は、カール・デナム自身も明言しているように、カール・デナムが自発的にやっているだけでなく、警察および資本家・観客から要請されたものでもあるわけですし、それをしなかったらショーの開幕自体が許可されなかったという事情もあります。社会的常識から考えてもそれは当然のことですし、カール・デナムと出会うまで貧民同然の底辺生活を強いられてきたアン・ダロウも、その手の社会的常識を全く把握していないというわけではないでしょう。にもかかわらず、カール・デナムの案に一切妥協せず、己の我をひたすら通そうとするアン・ダロウの理屈は全くもって理解に苦しみます。
 第二に、キング・コング披露ショーの際に「キャーキャー泣き叫んでみせる、あの茶番劇」を、女優を志向しているはずのアン・ダロウが何故拒否しなければならないのでしょうか。端役だろうが何だろうが、俳優や女優は舞台出演してナンボの商売ですし、ましてそれが「主演」ともなればまさに晴れ舞台、カネも手に入るし名声も得られると良いこと尽くしでしょう。しかも田中小説版のアン・ダロウは、物語の序盤でカール・デナムにスカウトされる際、まさにカネと名声を餌にスカウトされたのですし、その自分をスカウトしてくれたカール・デナムを「恩人」と評していた上、「彼のためなら、わたし、できるだけのことはするつもり」などという所信表明まで行っていたではありませんか。今こそ自分の野望を実現させ、カール・デナムの恩に報いる時であると、この時何故考えられなかったのでしょうか?
 この一連のやり取りから垣間見られる田中小説版アン・ダロウの人物像というのは、自分以外の何者も眼中になく、ガキのワガママレベルな要求を乱発しまくる自己中心的なヒステリー女というものであり、しかも出世欲や社会に対する復讐心が旺盛な上、キング・コングを「対等の友人」ではなく「自分に仕える従者」としか見做していないことや、演技レベルでさえ「他人に諂う」ことを拒否するところから考えても、「他者を支配すること」それ自体が自己目的化しているレベルの一種の権力亡者であることは明白です。田中小説版アン・ダロウは、上記引用のカール・デナムとのやり取りで、観客や資本家達のことを「下種なやつらね」などと罵っていますが、そういうアン・ダロウ自身もまた、自分が憎悪しているであろう観客や資本家達と最大限贔屓目に見ても同レベル程度には「下種」だと私は思うのですけどね。

 そして第三の、そして一番致命的な問題は、このカール・デナム主催のショーが失敗してカール・デナムが破滅すると、田中小説版の場合はアン・ダロウも一緒に破滅すること、それでいてアン・ダロウ自身がそのことに全く気づいていない、という点です。原作およびリメイク映画版と異なり、キング・コングを捕縛してニューヨークに連行し、それをネタに己の立身出世を図る、という点において、田中小説版のアン・ダロウとカール・デナムは一蓮托生な関係にあるのですし、両者は互いに手を取り合ってすらいるわけです。ならば一方が破滅すれば他方も道連れになる、というのもまた、その関係から言えば当然の話ではありませんか。
 にもかかわらず、その当然の構図が、田中小説版のアン・ダロウは全く理解できておりません↓

キング・コング集英社文庫版 P280
<この日、彼女は自分のアパートに閉じこもり、ラジオを聴いていたのだが、キング・コングが暴れ出したことを知って、劇場の方角へ向かったのである。
 アンはカール・デナムを信じていた。彼女を発見し、発掘したデナムの眼力を信じていた。デナムにとって「女優」とは彼女ひとりのことだと、信じていた。それが、こともあろうに身がわりなどを立てて、彼女を排斥するとは! アンは自尊心を傷つけられ、デナムの過ちを糾弾せずにはいられなかった。
「わかってるの、ミスター・デナム! わたしの身がわりがつとまる女がいるということは、わたしがかけがえのない存在ではない、ということよ。私を見出したあなたの眼力が問われるんじゃない?」
 デナムと顔をあわせたら、「そら、ごらんなさい」といってやりたいところだ。だが、すでに死傷者が続出している以上、個人的な感情より、破壊の増大をふせがなくてはならなかった。>

 カール・デナムがアン・ダロウの身代わりを「立てざるをえなかった」のは、アン・ダロウが5歳児レベルのワガママをこねまくってカール・デナムに無理難題を次々と叩きつけたことにそもそもの原因があるのですが、確かにカール・デナムの眼力については問われなければならないかもしれませんね。こんなキチガイ女を見出した挙句、女優としてデビューさせようとしてしまった責任は、カール・デナムが100パーセント負うべきものなのですから(苦笑)。
 それに、キング・コングが暴れ出して死傷者が続出している現状は、ワガママをこねまくって舞台への出演を拒否したアン・ダロウにも主犯クラスの責任の一端があるのですから、カール・デナムに対して意味不明な勝利宣言などしていないで、少しは後悔なり自己反省なりしてみせたらどうなのですかね。第一、この騒動はカール・デナムのみならず、カール・デナムと一緒になってキング・コングをネタに出世しようとしていたアン・ダロウの野望にさえも終止符を打つことになるのですから、こんな暢気に構えていて良いはずがないでしょうに。
 キング・コングの暴走でカール・デナムが破滅するということについては、田中小説版キング・コングの作中における登場人物のセリフという形で何度か表現されているのですが、アン・ダロウも一緒に破滅せざるをえない、という点については作中で全く言及されていないんですよね。それどころか、キング・コングがエンパイア・ステート・ビルから墜落死した後、アン・ダロウに対してこんなインタビューまで展開されている始末です↓

キング・コング集英社文庫版 P296〜P298
<アン・ダロウがあらわれた。金髪を乱し、カシミアのコートは血に汚れ、ストッキングは破れているのに、惨めなようすはまったくない。まっすぐに顔をあげて、死せるキング・コングへと歩む。後を追ってきたジャック・ドリスコルが、まるで従者のようだった。
「アン、君の勝ちだ」
 そう語りかけたデナムに、落ちつきはらった一瞥を投げかけて、彼女は応えた。
「ええ、わかってるわ」
 アンの足はとまらず、デナムの前を通りすぎた。彼女に向かって、すでにフラッシュが光りはじめている。いくつもの声が飛んだ。
「ミス・ダロウ、こっちを向いて!」
「ミス・ダロウ、今のお気持ちは!?」
「ミス・ダロウ、何か一言どうぞ!」
 それらの声は呼びかけというより怒号であり、怒号というより咆哮であった。点滅するフラッシュは、何か猛々しく兇々しい怪物の眼光に似ていた。
 いや、似ているのではない。怪物そのものだ。
 アンはさとっていた。キング・コングより一〇〇万倍も凶暴で猛悪な怪物が、彼女を包囲していることを知っていた。それはマスメディアという二〇世紀の怪物であった。他人の不幸と破滅を餌として無限に肥え太る異形の怪物。
「ミス・ダロウ、何とも思いませんか。悲しくはないんですか!?」
 人間の形をした怪物の細胞がわめいた。
 あいつはわたしの涙を要求している。わたしが泣き叫ぶのを期待している。舌なめずりしながら待ちかまえている。それこそが、怪物にとってこの上なく甘美な餌であり、栄養源でもあるからだ。
 泣くもんか。
 アンは昂然と胸を張り、かるく両手をひろげた。詰問した記者を見返し、微笑を浮かべる。神さま、どうかこの微笑が、勝ち誇った征服者のものになっていますように。
「悲しいか、ですって? とんでもない、嬉しいわ。だって、キング・コングがわたしのために死んでくれたんですもの。あなたはどう? 誰かがあなたのために、喜んで死んでくれる?」
 相手がひるんだか唖然としたか、アンにはわからなかった。すぐ、べつの方角を向いたからだ。無数にひらめく怪物の目を見わたし、アンは高々と両手をかかげた。
「さあ、撮しなさい。キング・コングではなくて、わたしを撮すの。わたしはキング・コングに勝った女。キング・コングが生命をすてて守ろうとした女主人。この上なく美しく、わたしを撮しなさい。そうすれば赦してあげる。わたしのキング・コングを殺した、あなたたちの罪をね!」
 フラッシュが光の嵐となって、アンの全身をつつむ。カール・デナムとジャック・ドリスコルは、敗北と讃歎の思いをこめて、そのありさまを見つめていた。>

 ……何というか、この女、最後の最後まで自己中心的権力亡者を貫き通すしか能がないのですかね。一連の騒動における一番の被害者はキング・コングでなく、キング・コングの暴走に巻き込まれて犠牲となった無辜のニューヨーク市民であるはずですし、その元凶としての責任の一端を担っているアン・ダロウとしては、まず自分の非を謝罪した上で、犠牲となったニューヨーク市民に対して哀悼の意くらい表するべきではありませんか。一般のニューヨーク市民がアン・ダロウのインタビューを聞いたら、「何でお前に赦してもらわなければならないんだ!」と激怒どころか殺意すら抱いてもおかしくないでしょうに。
 しかもアン・ダロウは、上記のインタビューで、自分はキング・コングの女主人であること、およびキング・コングが自分の所有物であることを明言しているわけですから、今回の騒動における資産家や被害者遺族が、この言質を元にアン・ダロウを相手取って訴訟を起こす可能性だって発生しえるのですけどね。下手をすれば、自分と同格の主犯であるカール・デナムでさえ、「この女が全ての元凶だ!」と言わんばかりの主張を展開してアン・ダロウに全ての罪と責任を擦りつけてくることだって考えられます。
 自分の責任を棚に上げ、他者の被害者感情をないがしろにしながら「自分こそが最大の被害者だ!」と言わんばかりの態度を取っていると、そういう意趣返しが起こっても文句は言えないのですけどね。




 それにしても、田中芳樹の女性観というのは想像を絶するレベルで歪んでいると言わざるをえないですね。原作キング・コングのアン・ダロウに見られるような「受動的で前近代的なずるい女」は書けないと主張しながら、そのアンチテーゼとして出してきた「積極的で正々堂々とした近代的な」女性像が、これまで論じてきた自己中心的権力亡者のアン・ダロウときているのですから(>_<)。
 しかも、田中小説版キング・コングのアン・ダロウが保有する自己中心的権力亡者な性格設定は、薬師寺シリーズにおける薬師寺涼子のそれと双生児のごとき相似性を示しているんですよね。何しろ、薬師寺涼子からJACESとカネと警察権力を奪い取り、代わりにキング・コングを与えてやれば、それで田中小説版アン・ダロウが出来上がるわけでして(爆)。自分のことを全く顧みることなく、自分にも跳ね返ってくる罵倒でもって他者を挑発してばかりいるところとか、まさにそっくりではありませんか(笑)。
 最近の、特に薬師寺シリーズ以降の田中作品って、多かれ少なかれ、こういう「周囲にやたらと攻撃的・挑発的言動を無為無用に繰り広げる女性」ばかり描かれる傾向にあるんですよね。田中芳樹的にはそれが「積極的で正々堂々とした近代的で理想的な女性像」ということにでもなっているのでしょうが、男女を問わず、周囲への攻撃に熱中するあまり、実現不能のワガママをこねまくった挙句、自分の足元をおろそかにするような人間のどこが近代的だというのでしょうか? 田中芳樹自身、かつて自分の作品の中でこんなことを述べていたはずなのですが↓

カルパチア綺想曲 P111下段
<剛毅というのは自分自身が苦痛に耐える人を指していうのであり、他人に苦痛を与えて平然としているのは単なる変態にすぎない。>

 最近の田中芳樹が描いている女性達って、まさに田中芳樹自身が主張する「変態」そのものでしかないのですが、このような性格の一体どこに田中芳樹は女性としての魅力を感じているのか、一度本人に問い質してみたいところですね。あいにくと私はマゾではない上に、某「と学会」会長的ダブルスタンダード言動は蛇蝎のごとく嫌っていますので、そんな女性に魅力を感じることなどありえないのですが。



 さて、次回の考察は再び薬師寺シリーズに戻り、6巻「夜光曲」について論じてみたいと思います。


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