イギリス病のすすめ考察

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board4 - No.1116-1118

対談本「イギリス病のすすめ」についての一考察・前編

投稿者:冒険風ライダー
2001年11月09日(金) 19時08分

 少し前に面白いネタになる田中芳樹関連のタネ本を入手しました。本のタイトル名は「イギリス病のすすめ」。
 この本を知らない人のために簡単に説明しますと、この本は小説ではなく、学習院大学時代の田中芳樹の同期生にしてウイスキー評論家の土屋守と田中芳樹との対談本で、2人でイギリスの魅力について色々な観点から語るというコンセプトで構成されています。何でもこの本、元々1997年11月に社会思想社という出版社より刊行されたにもかかわらず、田中芳樹関連の本としては記録的に売れなかったと言われている、いわくつきの本であり、すでに元本は絶版されているとのことです。田中芳樹ファンでも、この本について知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。
 実は私、田中芳樹のイギリス関連の評論や認識に関しては、かつて「私の創竜伝考察32」で、創竜伝10巻における愚劣なイギリス礼賛論を徹底的に叩き潰した時からずっと気になっていたんですよね。あのいつもの犯罪正当化論的な評論内容のバカバカしさとは別に、中国を礼賛し欧米の価値観を否定しているであろう田中芳樹がなぜそれほどまでにイギリスに好意を持っているのか全く理解できなかったですし、またどんな理由でイギリスが好きになったのかについても興味をそそられたものでしたから。
 そんな折、かの対談本「イギリス病のすすめ」が2001年10月12日に講談社文庫より再販されるという情報を聞きつけ、「あの愚劣なイギリス礼賛論の原点が分かるかもしれない」と考え、わざわざ田中芳樹に再販本の印税を恵んでやったわけです(笑)。そしてその「ケナシ代」を回収するためにも、件の対談本の内容について簡単な予測を立てながら一通り閲読してみたのですが……。
 いやはや、この本における田中芳樹と土屋守の対談内容にはさすがの私も思わず絶句してしまいましたね。何しろ、対談内容に関して私はかなり悪い予測を立てていたにもかかわらず、この2人はそんなものを遥かに凌ぐ愚劣な主張ばかり展開していたのですから(笑)。全く、私ごときがいくら頭の中で田中芳樹の主張内容を予測してみても、現実の田中芳樹の愚行ぶりにはとてもかないませんね(笑)。
 そんなわけで、今回から3回に分けて、対談本「イギリス病のすすめ」における田中芳樹と土屋守の愚劣な主張内容の数々、及びこの本の題名にして主要テーマでもある「イギリス病のすすめ」の正体と実態について検証してみたいと思います。
 では始めましょうか。

イギリス病のすすめ・文庫版 P20〜P23
<土屋:
 戦後の日本って、五〇年間ずっと経済至上主義で、「金がすべて」みたいにやってきたでしょ。
 グレンダ・ジャクソンっていう、オスカーを二度とった有名な女優が、六、七年前に労働党から立候補して国会議員になったんだけど、彼女はサッチャーに対する批判として「サッチャーはイギリスにミニ・アメリカを導入した」っていう言い方をしたんだよね。サッチャーの性格に見える「人間の価値を測るのは銀行の預金通帳の残高である」みたいなところは非常にアメリカ的だ、ということで、すごく批判をしたんだ。
 要するに、ここ五〇年から六〇年ぐらいのイギリスは経済至上主義じゃないところにあったと思うんだよね。もちろん一〇〇年前の「大英帝国」は、バブルに浮かれてた日本人といっしょで、世界中のありとあらゆる富を全部一手に集めてしまって、世界一の金持ちだったわけですよ。でもそんなことが続くわけない。ひとりが勝ちつづけることはありえない。地球ってのは有限なものだから、誰かが勝っても誰かが負けるわけですよ。それに気づいて、イギリスはこの一〇〇年でうまく身を引いてきてるんじゃないかという気がするのね。その一〇〇年後に、日本はわずか一〇年くらいで同じことを一気にやってしまったわけだから、反動は当然大きいよね。
 「東京の土地を担保にしたら世界が買える」なんてバカな話を、日本人だけがマジに言ってて、世界中の人間はそれを聞いて「なんてバカな国民だろう」と腹の中では思ってたわけです。そういうことを本気で考える発想が、これはもう、どうしようもなく貧しい、と。だけどバブルがはじけて「大切な物は何か」っていうところに、日本人は今気づきはじめている。まあ、手遅れにならなきゃいいな、と思うけどね。
――:
 身を引いた後の様子もまねできればいいですね。
土屋:
 まねできるかどうかはわかんないけど、とりあえず、日本がこれから進むべき道のモデルがどこかにあるとするならば、ぼくはやっぱりイギリスなんじゃないかな、と思う。アメリカじゃありえないし、ヨーロッパのほかの国をみてもありえないんじゃないかなと。イギリスと日本は共通点がいくつかあるし、メンタリティの部分でもかなり似ているところがあるんでね。
田中:
 二〇世紀に入ってからのイギリスの歴史ってのは、結局のところ「大英帝国の遺産の負の部分からいかにうまく撤退していくか」だったんじゃないかな、と思うのです。第二次大戦後は、実にうまく、ほとんど流血なく植民地から引きあげていってる。非常に象徴的なのが、今回の香港引きあげですけど。(笑)たとえばフランスなんかが、ベトナムとかアルジェリアでずいぶんむだな血を流したことに比べると、すごく上手に「落ちぶれて」いってるように見えますね。イギリスは
土屋:
 そうそうそう。
田中:
 だから、土屋君が言ったように、これからの日本の課題は、ためこんだ金を、どうやって有効に減らしていくかという、そこにあるんじゃないかと思う。とにかくイギリスは、かき集めた金をすごく有効に使ってると思うのですよ。大英博物館ひとつとってもね。日本にもそれができるかどうか……ぼくは自分の作品中に書いたことあるけど、日本の政財界の一番だめなところは、文化芸術に対して、もうまるっきり認識が低いことでしょうね。たとえば日本の銀行屋なんて人たちは、文化とは市場価格一〇億円の絵を五〇億円で買って、地下の金庫に隠しておくことだと思ってるから、もうこれはどうしようもないわけです。(笑)やっぱりイギリスに学ぶべきものがあるとしたら、上手な退場のしかただと思うんですけどね。>

 なぜだか知りませんが、この対談本「イギリス病のすすめ」の中で何度も目の敵のように出てくるのが、上記の文に見られる1980年代の日本におけるバブル景気批判です。しかしこの2人のバブル景気批判は、その発想の出発点自体が完全に間違っているため、批判としても全く見当ハズレなシロモノと化しているところが何とも言えないところなのですけど。
 そもそもあの2人はバブル景気の本質がまるで分かっていません。実はバブル景気というのは、あの2人が散々バカにしている「いつまでも永遠に儲かる」という発想から出発するもので、たとえどんなに投機対象が下らない物であっても「ここに投機すれば永遠に大儲けできる」と信じて投機することこそが最も重要なのです。
 世界的に有名なバブル景気を見てみると、そのいずれもが後世から見るといかにもバカバカしいものに投機が集中することによって始まっていることが分かります。たとえば17世紀に起こったオランダのチューリップ・バブルでは、当時オランダで起こったチューリップの新種作成ブームによって、チューリップの珍品種や完成前の新種に対して投機が集中し、最盛期にはチューリップの球根1つが当時の大邸宅よりも高い値段で取引されるという狂乱状態が出現しました。
 また、以前に「私の創竜伝考察32」で語ったように、イギリスにも「バブル景気」という名前の元となった「南海泡沫会社事件」というバブル景気がありましたし、フランスもアメリカもかつてバブル景気を経験しています。そしてこれらのバブル景気の出発点は全て「ここに投機すれば永遠に大儲けできる」と多くの資産家や投機家が考えて莫大な投機を行ったことにあり、それが投機対象の急激な価格上昇を生み出し、さらにそれが新たな資産家や投機家の参入を促す、という一種の良循環によってバブル景気は支えられたのです。
 しかし、このような動機から生じたバブル景気によって国が衰退したかといえば決してそんなことはありません。バブル景気は国の経済を飛躍的に発展させることによって、投機対象以外の産業発展をも促し、結果的に国民生活水準を著しく上昇させます。そして国民生活水準の向上は、新たな産業や文化を生み出す土壌ともなりえますし、国家としての政治的・社会的安定をももたらすのです。それはバブル景気が発生した国のその後の歴史を見れば一目瞭然でしょう。
 そういうバブル景気の発生事情を全く無視して、日本のバブル景気における土地投機事情を、あたかも日本特有の現象であるかのような印象操作を行って論じるあの2人のバカさ加減には嘲笑を禁じえませんね。

 それと田中芳樹よ、イギリスがカネを有効に使っている例として、以前に私が検証した大英博物館の入館料無料の件を挙げるいつもの無知ぶりもさることながら、よりによってフィクション小説であるはずの創竜伝に書かれた社会評論を「自説の補強材料」として引用してくるとは、アンタも相当にヤキが回りましたな(笑)。これでは創竜伝を擁護するために「創竜伝はフィクション小説なのだから、社会評論も田中芳樹が小説を面白くするために作成した創作である」などと涙ぐましい弁護論を展開していたファンの立場が全くないではありませんか(笑)。
 ちなみに田中芳樹が創竜伝から引用していた社会評論は以下の内容です↓

創竜伝7巻 P128下段〜P129上段
<本来、富は文化を育成するのに欠かせないものである。大富豪メジチ一族の生んだルネサンス文化。足利義満が育てた室町文化。文化とは巨大な富を注ぎこむパトロンなくしては誕生しえないものだ。だが現代日本の富は文化を育まなかった。無名の画家を育成し、そのなかから新たな才能を発掘するというのではなく、すでに世界的な名声をえた大家の作品を買いあさり、独占し、一般に公開しようとしない。他国が生み育てた才能の結実を、金銭でわがものにしてしまう。発掘や育成というリスクを負わず、よい結果だけを横取りしてしまうような姿勢が他国の反発を買うのだ。>

 実は私が今回「イギリス病のすすめ」の論評を行うことを考えた最大の動機は、この本の中で創竜伝の記述を田中芳樹自身が積極的に引用している個所がかなりの数存在することに着目したからです。このことがいったい何を意味するのか?
 最初に説明したように、今回論評している「イギリス病のすすめ」はフィクション小説ではなく対談本です。そのジャンルの本の中で、フィクション小説である創竜伝の記述を「自説の補強」として利用するということは、創竜伝の社会評論が田中芳樹の本心であり、しかも本人はその内容を「正しい」と信じて疑っていないこと、そして創竜伝における社会評論の方向性が「エンターテイメントとしての創作」ではなく「現実世界に対する批判」を志向していたことを、他でもない田中芳樹自身が暴露していることを意味するのです。
 まあ私自身は、アレらの内容が仮に万が一「エンターテイメントとしての創作」を志向したものであったとしても、事実誤認・事実改竄・意図的な歪曲解釈に基づいた見当ハズレの罵倒や誹謗中傷だらけで構成され、かつ創竜伝のストーリー・作品設定を無意味に破壊しているあの支離滅裂な偏向評論群を許すつもりなど毛頭ありませんでしたけど、あれを「エンターテイメントとしての創作」という前提で創竜伝擁護を行おうと考えている人にとっては、「イギリス病のすすめ」における田中芳樹の自白行為はまさに衝撃的な話でしょうね〜(笑)。何しろ、あの自白行為のおかげで、創竜伝の有力な擁護論の前提条件のひとつが完全に崩壊してしまったのですから。
 しかもそれだけではなく、田中芳樹は「自説の補強」としてあの創竜伝7巻の評論を示唆した後に、次のような論評をほざく始末です↓

イギリス病のすすめ・文庫版 P26
<田中:
 熱心なアニメファンは日本にあこがれてるよ。日本アニメ専門の雑誌がスコットランドでも売られているし、「OTAKU」も知られつつある。(笑)すごく日本アニメにくわしい人を「SUPER OTAKU」というんです。(笑)。>

 ちょっとちょっと田中センセイ、アンタ自分が「自説の補強」としてわざわざ示唆した評論内容をすら読んでも覚えてもいないのですか(笑)。問題の評論で確か田中芳樹はこうも言っていましたよね。「現代日本の富は文化を育まなかった」って。
 田中芳樹が(イギリスの)熱心なアニメファンが日本に憧れを抱いていると絶賛している日本アニメは、まさに現代日本の富が生み出した世界に誇るべき文化のひとつではありませんか。田中芳樹の問題評論を私は全面的に否定しますけど、田中芳樹自身はその問題評論に対して「発言者としての責任」を負わなければならないはずです。その田中芳樹が、かの問題評論の訂正も撤回も総括も反省も行わないで、現代日本の富が生み出した文化のひとつである日本アニメを絶賛するなど到底許されることではないでしょう。
 自分の主張に一貫性のある説得力を持たせたいと思うのであれば、あの問題評論と日本アニメ絶賛論との整合性を考えるか、それができないのであればどちらかの主張を「公式の場で」撤回すべきでしょう。何の説明もなしに自らの主義主張を転向するなど、自らの言動に対する責任を放棄する、人として最低の所業であると認識すべきです。
 「現実世界に対する批判」を目的として、フィクション小説の中にストーリーとは何ら関係のない評論を挿入し、本筋のストーリー・作品設定を破壊しておきながら、その評論に対して責任を負うことすらもなく勝手に自らの主張を変更する。田中芳樹が創竜伝で行っている所業がそのような醜悪な行為であることを、他でもない自分自身で自白していては世話はないですね(笑)。

 さて、対談本の冒頭近くにあった上記の日本評論があまりにもうるさかったのでそちらの論評を優先させてしまいましたが(^^;;)、このへんで少し「イギリス病のすすめ」の評論部分以外の構成と内容について簡単な説明を行うことにしましょうか。いくら対談内容に問題がありすぎるとはいえ、批判ばかりというのも何ですし。
 対談本「イギリス病のすすめ」は6章と対談者2人のあとがきによって構成されており、内容を簡略に並べてみると、

1章 ―― 田中芳樹と土屋守の出会いと、2人がイギリスに興味を持ったきっかけの話
2章 ―― イギリスの食べ物および食生活についての話
3章 ―― イギリスの教育制度や階級制度についての話
4章 ―― イギリスの国内問題についての話
5章 ―― イギリスの歴史と文学についての話
6章 ―― イギリスと日本を対比した政治評論集
「イギリス病のすすめ」あとがき
「イギリス病のすすめ」文庫版あとがき

となっています(ちなみに上記で論評した対談内容は1章に属している)。
 このうち、2章と5章に関しては、日本が全く引き合いに出されないこともあってか、内容的にそれほど大きな問題はありません。むしろ、この辺りは田中作品の作品設定がいかにイギリスから多くの元ネタを採集しているかが垣間見られて興味深かったですね。
 たとえば銀英伝でヤンが紅茶好きだという設定がイギリスの紅茶嗜好を元にしているらしいことや、銀英伝にも登場していたフィッシュ&チップスがイギリスの名物であることなどがこの本の対談で分かりましたし、夏の魔術シリーズで使われている単語のいくつかも出てきていました(例えば「トゥミントール」「アニー・ローリー」など)。田中作品のストーリーを構成するエピソードの元ネタと推測される本が色々と紹介されていたのも興味深かったです。
 1章・3章・4章は、多少日本が引き合いに出されて妙な評論が展開されているところもありますが、内容はともかく量的にはそれほど多いものではありませんでしたし、全体的には本筋のイギリス紹介やエピソード紹介に徹していますから、それほど問題にするほどのものでもないでしょう。個人的にはイギリス紹介もさることながら、田中芳樹がイギリス好きになった理由が「子供の頃にシャーロック・ホームズを読んだから」ということが分かったことが最大の収穫でした。
 で、最大の問題は何と言っても6章とあとがきですね。これらは終始イギリスと日本の対比の観点から論じた評論ばかりで対談が構成されており、日本ばかり論評している評論も少なからず存在します。正直、この6章とあとがきで余計な政治評論などかまさなければ、この対談本もイギリス紹介本としてかなりマシな出来になっていたのではないかと思うのですけどね〜。今回論評する問題評論のほとんどが6章とあとがき部分からの抜粋ですし。
 では、いよいよその問題の対談・評論内容について検証してみることにしますか。

イギリス病のすすめ・文庫版 P166〜P169
<――:
 香港か中国の人が、香港の返還について話をしてて、「でもイギリスの教科書にはアヘン戦争についてのことは載ってない」って言っていましたが。
土屋:
 よく分かんないけど、イギリスの教科書にはだいたい日本のこともほとんど載ってないんじゃないかと思うんだよね。(笑)
 アヘン戦争の映画ももちろんイギリスで上映すると思うし、アイルランドの独立の頃の映画もいくつも立て続けに作られたりとかね、それからスコットランドについても「ブレイブハート」もそうだし「ロブ・ロイ」もそうだし、だいたいあの手の映画が作られると、ほとんどイングランド人がよく描かれることってないですよね。でも……今のイングランド人を見てると、非常に寛容な国民だと思う。この寛容さってのはおそらくこの一〇〇年くらいで身につけたもので、ヴィクトリア時代にアヘン戦争を仕掛けてたころのイギリスにはない気質なのかもしれないけど、ああいうものが上映されても、きちんと受け止めて見られるんだよね。
 アヘン戦争のことが教科書に出てないっていうのは、これはイギリスの教育制度の問題であってね。そもそもイギリスの歴史教育って、いつも言われていることなんだけども、レベルがかなり低いんだよね。中学生レベルの人に日本でいうところの歴史常識問題なんかやらせても、ほとんどできない。
田中:
 それと対照的に、日本で習う世界史の教科書で、イギリス中世の土地制度なんてものをえんえんとやってるでしょ。イギリスの学校で日本の鎌倉時代の土地制度なんてやらないよね。(笑)
土屋:
 やったってわかんないよ。(笑)
田中:
分からないよ。生徒から「そういうことをやるのにどんな意味がある?」と問われたら答えられないだろうし。(笑)
土屋:
 アヘン戦争はともかく、イギリスがやった侵略戦争について、イギリスの学校はきっちり教えてないじゃないか、という批判は、ぼくも当たっているとは思う。だけど、それとはまた別の意味で、そういう細かい歴史を教えることが、社会でどうしてもすべてに必要なのかな、って……いやいや、必要だとは思うんだけど。(笑)興味がある人はね、道はいくらでもあるわけですよ。
――:
 隠されているわけじゃないですもんね。
土屋:
 うん、全部公開されているわけだから。隠されているわけじゃないし、そういうことやるなら大学行ってやればいいし。そうなればなったで、ものすごい学問をするわけだから。>

 この2人は何か重大な勘違いをしているようなのですが、アヘン戦争に限らず、またイギリスのみならず日本以外の外国の歴史教育で「侵略戦争の罪悪」について教えられることなどあるわけないでしょう。これはイギリスの教育制度の問題などではなく、第一に国家間における歴史認識の相違の問題であり、第二に歴史教育の存在意義の問題なのです。
 そもそもここで取り上げられているアヘン戦争というのはイギリスと当時の清王朝との戦争です。それぞれの主義主張と利益をかけて互いに対立し、戦った戦争に対して、戦争当事国たる両国が同じ歴史認識を共有することなどありえません。アヘン戦争は中国にとっては確かにイギリスに一方的にいたぶられた、被害者意識をつのらせるような戦争だったという認識なのでしょうが、当のイギリスでは、アヘン戦争を「中国を開国させた意義があった」と評価しているのですし、また実際イギリスにとって多大な恩恵をもたらした戦争でもあるのです。そんなイギリスが、自国の歴史教育でアヘン戦争に対して否定的評価を下すわけがないでしょう。アヘン戦争に関して、イギリスが中国と同じ歴史認識を共有しなければならない理由が一体どこに存在するというのですか?
 それに歴史教育に限らず、外国における初等教育は元々「自国への忠誠と敬愛」を教え、その国に属している国民としての誇りを持たせることを最優先事項として位置づけています。そしてその目的のために、毎日の朝礼の際に生徒に対して自国の国旗と国家に対して忠誠を宣誓させたり、国歌を斉唱することを教えるなどといった、日本の右傾化教育とやらを憂えていらっしゃる田中芳樹が目を剥くような「極右教育」が公然と行われているほどです(笑)。実のところ、日本以外の外国における歴史教育において「歴史の真実を教える」ことなど二義的な問題でしかないのです。むしろ「歴史の真実」とやらを教えることが、初等教育の目的と相反することだってありえるのですから、これはむしろ当然のことでしょう。
 ではなぜ歴史教育というものは必要なのか? どうもこれに関しても田中芳樹と土屋守は、下の対談文で想像力が完全に欠落しているとしか思えない主張を展開しているんですよね〜↓

イギリス病のすすめ・文庫版 P169〜P171
<田中:
 ぼくは昨今の教科書問題について思うんだけど、歴史を教科書からだけ学ぼうというのがそもそもとんでもなくずうずうしい。(笑)
土屋:
 だからイギリス人がよくジョークで言うんだけども、彼らは歴史の年号を一つだけしか覚えてないんだって。一〇六六年、イギリスが最後に負けた年……。
田中:
 はいはい、以来負けてない、という……百年戦争のことは忘れたふりで。(笑)
土屋:
 「一〇六六年年以来、おれたちは負けてないから、それだけ覚えりゃいいんだ」ってね。まあ、ジョークだけど。確かに田中の言うとおりで、日本の歴史教科書に載ってることを教えることの意義を先生が説明できるか、っていったら……あれをやることによって逆に歴史嫌いになる生徒を大量に生み出してるんじゃないかと……。
田中:
 その方が圧倒的に多いだろうね。
――:
 田中先生も著作の中で、「世界史の教師は世界史に興味のある生徒を何人育てられるか」って書かれてますね。
田中:
 だから土屋君の言った通り、その気になったらいくらでも調べられるということの方が重要です。とくに公文書を公開すること。教科書以外の本は読むな、という社会の方がおかしいんでね。
土屋:
 そうそう、教科書以外の本を読んでる暇がないのが現実でしょ? 日本の教育というのは。
田中:
 国語にしても同じことなんで……だから一部の文化人が財界人なんかと組んで今の教科書をどうこうしよう、というのは、何か変だなあと思うんです。教科書の持つ強制力を利用しようとしているとしたら、えらく間の抜けた話でね。おもしろい教科書などありえない、それは強制されるからだ、という根本的なことがわかってない。(笑)>

 私に言わせれば「歴史を教科書からだけ学ぼうというのがそもそもとんでもなくずうずうしい」という発想自体が「そもそもとんでもなくずうずうしい」のですよ、田中センセイ。歴史に興味も関心も持たない・社会科選択教科として歴史を選択しない・理系進学で社会科自体を学ぶことがない生徒にとっては、初等教育で学ぶ歴史授業こそがほとんど唯一の歴史教育であり、それ以降歴史と接することなどほとんどないかもしれないという「根本的なことがわかってない」のですから(笑)。
 確かに歴史に興味と関心のある生徒にとっては、現行の歴史教科書など歴史を知るのには不十分なシロモノでしかないですし、教える側にとって「歴史に興味のある生徒を何人育てられるか」という考え方自体は非常に重要なものでしょう。しかし現実問題として、いくら親切丁寧に教えたとしても「歴史に興味も関心もない、そこそこにこなしていれば充分」と考える生徒は確実に存在しますし、また理系関係に進学したいと考える生徒にとっては、基本的に国語・歴史といった文系教科自体「進学や進路・志望に全くかかわってこないうるさいシロモノ」でしかないのです。そんな千差万別の生徒の価値観を全く無視して「全ての生徒は歴史に関心を持つだろうし、持つべきである」などと主張するのは一種の独善であり、個人的嗜好の一方的な押しつけでしかありません。
 そしてそのような「歴史に興味も関心も持たない生徒」に対しても必要最低限の歴史知識を理解させ、歴史的思考力を身につけさせ、国民としての自覚と資質と養うことこそが、歴史教育の本当の意義であり目的なのです。そしてそのような基礎知識を初等教育において身につけることによって、将来何らかのきっかけで歴史に興味と関心を抱いた時に役に立つことだってあるでしょう。歴史教育が果たす役割としてはそれで良いのではありませんか?
 まあ創竜伝におけるあの3流社会評論を読んでいる限りでは、田中芳樹に自分と異なる価値観を理解することができるような器量があるようには到底思えないのですが(笑)。

 ところで上記の引用対談文についてですが、1996年頃に発生した歴史教科書問題に対して田中芳樹が自分の見解を発言したという事例というのは、私が調べた限りでは実はこれが初めてです。創竜伝の記述の中で、個人的な被害妄想に基づいた、ありもしない日本の右傾化教育とやらに対する批判を行っていた個所ならいくつか存在するのですけど(笑)。
 で、せっかく面白い見解を述べていただいたのですけど、当時の歴史教科諸問題を受けて発足した「新しい歴史教科書をつくる会」を批判するのに「教科書は強制されるから面白くない」云々の話を持ち出している辺りは、残念ながら批判のピントが根本的にズレているとしか評しようがないですね。「新しい歴史教科書をつくる会」は、何も歴史教科書を表面的に面白おかしくするために、歴史教科書を新規に作成しようと考えていたわけではないのですから。
 「新しい歴史教科書をつくる会」の主張・目的は以下の文に代表されるものです↓

新しい歴史教科書をつくる会・平成9年1月30日設立総会<趣意書>
<私たちは、二十一世紀に生きる日本の子どもたちのために、新しい歴史教科書をつくり、歴史教育を根本的に立て直すことを決意しました。
 世界のどの国民も、それぞれ固有の歴史を持っているように、日本にもみずからの固有の歴史があります。
 日本の国土は古くから文明をはぐくみ、独自の伝統を育てました。
 日本はどの時代においても世界の先進文明に歩調を合わせ、着実に歴史を歩んできました。
 日本は自国の伝統を生かして西欧文明との調和の道を探り出し、近代国家の建設とその独立の維持に努力しました。
 しかし、それは諸外国との緊張と摩擦をともなう厳しい歴史でもありました。
 私たちの父母、そして先祖の、こうしたたゆまぬ努力の上に、世界で最も安全で豊かな今の日本があるのです。
 ところが戦後の歴史教育は、日本人が受け継ぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものでした。
 特に近現代史において、日本は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人の如くにあつかわれています。
 冷戦終結後は、この自虐的傾向がさらに強まり、現行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述するまでになっています。
 世界にこのような歴史教育を行っている国はありません。
 私たちのつくる教科書は、世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。
 私たちの先祖の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です。
 教室で使われるだけでなく、親子で読んで歴史を語りあえる教科書です。
 子供たちが、日本人としての自信と責任を持ち、世界の平和と繁栄に献身できるようになる教科書です。
 私たちはこのような教科書をつくり、普及するために必要な一切の活動を力強く推進します。
 私たちの事業に、皆様のご理解とご参加を心からお願い申し上げます。>

 この主張のどこをどう読めば「新しい歴史教科書をつくる会」が「おもしろい教科書」なるものを作成しようとしているように解釈できるのでしょうか(笑)。そりゃ読んでて不快感を覚える既存の自虐とウソまみれの歴史教科書に比べれば「内容的に面白い」ということはあるかもしれませんけど、それはあくまでも結果論の話です。
 そもそも「教科書の強制力」について述べるのであれば、それまでの歴史教科書の方こそが「強制力」を盾に強大な影響力を行使し、国民に自虐史観に基づく原罪意識を刷り込んできたのではないですか。それが教育現場を狂わせ、少年犯罪を激増させる要因のひとつとなったからこそ、日本の歴史教育を正常に戻すことを目的として「新しい歴史教科書をつくる会」は発足されたのです。
 その程度のことも理解できず、昨今の歴史教科書問題を「おもしろい教科書の作成云々」のレベルで論じるとは、冗談抜きで田中芳樹の頭の構造を疑わざるをえませんね。今時これほどまでに理解力の欠如した御仁もなかなかいないのではないでしょうか(笑)。

イギリス病のすすめ・文庫版 P180〜P184
<――:
 イギリスでは今回(引用者注:1997年)の選挙で政権が交代しましたよね。現在のイギリスの国民はどう受け止めているんでしょうか。
土屋:
 まあ、保守党政権が一八年……一八年はやっぱり長いんじゃないかと思う。彼らのバランス感覚だとぼくは思うね。
田中:
 健全な感覚ですよ。(笑)
――:
 「飽きちゃった」と。(笑)
土屋:
 まあ、はっきり言うと飽きちゃったんだろうけども……いや、そうは言わないけどもね。(笑)サッチャーさんにはイギリス病を克服したという功績が確かにあると思う。ただ、行き過ぎた面というのもある。さっきも言ったように、「預金通帳の残高で人間の価値を測る」みたいなこととか。あるいは「自助努力」という言葉を彼女は使ったんだけど、「弱者というのは要するに自分で何とかする気がない。そんなやつに国は金を出せないよ、自分でなんとかやれ」ということで弱者切り捨てをやったんですよ。一八年間イギリス国民もそれを選択してきたんだけども。それがある程度のとこまでいったんでしょう。経済もだいぶ回復したところで、「まあ、もういいかな」と。
――:
 「このへんで、手を打って」と。
土屋:
 まあ、ブレアもかっこいいしね。(笑)メージャーよりいいよね。
田中:
 うん、あれはメージャーよりずっとかっこいい。(笑)
土屋:
 それと保守党の議員とか閣僚のスキャンダルが相次いだしね。イギリス人というのは、ああいうスキャンダルに対して非常に厳しい国民でね。イギリスの特に政治家って、賄賂を受け取ったことが分かったら、政治生命はおしまいなんですよ。
 日本はなんだかわかんないけど、「みそぎ」とかいって、いくらでも賄賂を受け取ってるやつがいまだに長老然として政治家やってるでしょ? それこそ何千万とか一億とか、ふざけた金もらってるけども、あんなことイギリスじゃ考えられないですよ。
田中:
 それで政治資金には税金がかからない。それどころか税金の中から政党助成金なんかもらってる。
――:
 納得できないですね。
田中:
 これで納得するほど、ぼくは心が広くありませんので。(笑)
土屋:
 うん、それは納得できないと思うよね。政治家になると金がもうかる。今の日本はそうなってて、政治家で貧乏したやつっていないわけでしょ? 「政治家になってあれだけ資産が増えるというのは絶対おかしい」っていうふうにみんな思わなくちゃいけない。
 イギリスは日本と同じ二院制だけど、貴族院には給料がないわけですよ。地位の高い者の社会的な義務であって、それが当然。戦前の日本の政治家の中にはそういう人もいてね。政治で自分の身上を全部食いつぶしたとか、無一文になるとか。
田中:
 貴族院の報酬がただ、というのはやっぱり階級社会の正の面でしょう。身分ある人は義務を負わなきゃならない、という。これが日本だとオレンジ共済組合事件になるわけでね。(笑)残念なことですが、日本の政治的な民度というものをよく表してると思います。
土屋:
 日本の民度は世界最低のレベルじゃないかとぼくは思うんだけどね。
――:
 民主主義が根づいてない、国民に主権意識がない国だと言われてますね。
土屋:
 イギリス人は日本の政治のことなんか誰も関心を持ってないからいいけども、もしイギリス人に、ああいう友部の話だとかを親切ていねいに説明したら、イギリス人は開いた口がふさがらないやね。「どうしてそんなことが起きるのか」って。とても考えられないと思う。それがやっぱり世界の常識で、日本だけが非常識なんだとぼくは思うね。>

 いや、あなた方2人のイギリスに対する愛はイヤと言うほどに理解させられましたけど(笑)、お願いですから、たかだか「イギリスに旅行してきた」という程度のウキウキ観光気分だけで、こんなわけの分からないイギリスと日本の比較政治論など語らないで下さい。イギリス人はこんな不様な3流対談本などに誰も興味も関心も持ちはしないでしょうが、もしこの対談本の内容を詳細かつ親切丁寧に説明してあげたら、イギリス人は開いた口がふさがらなくなると思いますので(笑)。
 それにしても、日本の政治家や「日本の政治的な民度」とやらをこき下ろすために、よりによってイギリスの貴族院を持ち出してくるとは、日本憎しのあまり、とうとう田中芳樹は「貴族」という言葉の意味や概念をマトモに理解できるだけの想像力も思考能力すらも失ってしまったというのでしょうか(笑)。今更言うまでもなく「貴族」というのは「社会的・政治的な特権を持つ上流階級」であり、イギリスの貴族院とはその「貴族」階級のみによって構成されている議院なのです。その貴族院に所属している議員の任期は「不定」(死ぬまで議員を務めることも可)であり、しかも議員の選抜にあたっては、国民による直接・間接な選挙で選ばれるのではなく、イギリス国王によって直接任命される制度を採用しています。そのため貴族院議員の大半は代々の「世襲貴族」で構成されており、この点では日本の政治家など足元にも及ばないほどに「民意」が働いていないのです。普通選挙が実施されているイギリスの下院(庶民院)ならまだしも、これほどまでに「排他的」かつ「非民主主義」的な貴族院のどこをどう見れば、「イギリス国民の政治的民度」とやらを語ることができると言うのでしょうか?
 そもそも田中芳樹は以前、日本における「保守系政治家」とやらをこのように評価していたのではなかったのですかね↓

創竜伝5巻 P130上段〜下段
<もともと保守政界というものは、イデオロギーや政策と無縁の利権分配グループである。現在の社会制度下で、政治権力を最大限に活用してどれほど多くの利権をあさり、富をむさぼるか、それが職業であり、生きがいなのだ。
「政治には金がかかる。有権者が政治家にたかるからいかんのだ。政治家は費うだけで、手もとには一円も残りはしない」
 彼らはそう弁解する。信用する者もいるであろうが、結論部分はまっかな嘘である。自分の資産を費いはたした政治家はめったにいない。生活に困窮して生活保護を受けるようになった政治家など、ひとりもいない。その逆に、政治に費用がかかることを口実に政治資金をかき集め、豪壮な邸宅と別荘をかまえる政治家は無数にいるのだ。
 この国では、政治は、個人の利益を追求する事業として成立するのだ。だからこそ、よほどに見識のある一部の人を除いて、引退する保守党政治家は、息子や娘婿を後継者にする。政治家としての権力を世襲させるだけでなく、これまで築きあげてきた利権あさりの組織や人脈をも受けつがせるのだ。権力と利権を、個人の財産と思うからこそ、他人に渡したくないのである。>

 これほどまでに日本の国会議員の世襲化を批判しておきながら、日本よりもはるかに「議員の世襲化」の歴史が長いイギリスの貴族院をあれほどまでに絶賛する理由は一体何なのでしょうか。田中芳樹の論法を使えば、イギリスの貴族院議員もまた「権力と利権を、個人の財産と思うからこそ、他人に渡したくないのである」と言えるのではないのですか?
 今更ながら田中芳樹にひとつ忠告しておきたいのですが、自分の主義主張に他人を納得させられるだけの一貫性と説得力を持たせたいと考えるのであれば、何の理由も明言することなしに、批判対象次第でコロコロ内容が変わるその愚劣なダブルスタンダード評論を吐き散らすのは止めた方が良いですよ。作家・評論家としてだけでなく、人間としても信用されなくなりますから。
 まあ、その忠告はもう手遅れだと言われればそれまでですがね(笑)。

 それからあの2人は貴族院議員の「無報酬」という部分を指して「地位の高い者の社会的な義務であって、それが当然」などとタワゴトをほざいた挙句、全く事情が異なる日本の政治家の台所事情を比較して何やら愚劣な主張を展開しているようですが、そもそもイギリスの貴族院議員が本当に何の見返りもなしに議員を務めていると考える方がどうかしているのではありませんか?
 確かにあの2人が絶賛しているイギリス貴族には、「高貴なる地位にある者には、それに伴う責任を果たさなければならない」という「ノブレス・オブリッジ」の精神があるのですが、これまた今更言うまでもなく、「ノブレス・オブリッジ」の発想はあくまでも「高貴なる貴族階級」としての自覚と特権があるからこそ出てくるものなのであって、イギリスの貴族階級には莫大な資産や領地、それに貴族としての特権を保有することが認められています。そんな彼らが、貴族院議員としての国からの給料など必要とするはずがないでしょう。イギリスの貴族が貴族院議員を務めるのは、貴族としての責務を果たすことによって、貴族階級としての矜持を保つことと、自分達の身分・財産・特権を保全することが大きいのです。
 それに対し、日本の政治家は「国会議員としての収入(これには政治資金・政党助成金も含まれる)」以外に自分の身分と財産を保証してくれるものがありません。それどころか、財産に関してはむしろ政治活動の過程でどんどん目減りしてしまっているのが実情でしょう。何しろ、日本の政治にかかるコストと合法的な収入との間には大きなギャップがあり、合法的な収入だけでは日常の政治活動すら行うことができないのですから。
 故・田中角栄の元秘書を努めていた早坂茂三氏の著書「宰相の器」(クレスト社)によると、ある自民党4年生議員の毎月の活動費が約1000万円なのに対し、出費は230万円が15人のスタッフの給与として支払われ、結婚式その他のパーディのご祝儀代が約80万円、事務所の費用が200万円ほどもかかり、さらに残りのカネは、お客を贅沢に接待し、政治家としての個人的な人脈を作るための費用として使われるため、手元にはほとんどカネが残らないと書かれています。さらに選挙資金に関しては、国から交付される選挙費用の上限が約1500万円であるのに対して、実際の出費はポスター代から地元の選挙運動員の飲み食い代まで含め、すくなくとも2億〜3億円ほどもかかるのだそうです。これでは大まじめに法律を守ってなどいたら、まず間違いなく日本の政治家は破産しますね。
 政治の仕事を全うするためにこの深刻なギャップを埋める必要のあることが、日本の政治で汚職が多発する最大の原因となっており、そのために日本の政治家は様々な法律の抜け穴を探し、カネを調達しようとするのです。この構造的な汚職発生の土台を何とかしない限り、日本で汚職事件が発生するのは避けられないことなのです。本当にこの「構造汚職」をなくしたいと考えるのであれば、政治家のカネの流れをより透明化した上で、政治家が自由に資金調達できる環境を整備していくべきでしょう。そもそも「政治家は清貧であらねばならない」という発想自体が間違いの元です。
 本当に日本の政治家の汚職問題に対して何か考えるところがあるのであれば、なぜそれが何度も起きるのかという理由について詳細に検証し、自分が調べた結果を読者に説明する手間くらい行ってみたらどうなのでしょうか。どうもあの2人は、日本の政治家の汚職事件をただネタにするだけして、面白おかしくこき下ろしているだけであるようにしか見えないのですけど。

イギリス病のすすめ・文庫版 P185〜P186
<田中:
 政権交代があることを当然と思ってるところと、現実にないところではね、意識が全然違う。ぼくは映画の「インディペンデンス・デイ」に見られるようなアメリカ人のセンスをなにかと言うと笑い話のネタにしてるけども……。(笑)
土屋:
 うん、ぼくもそうだから。(笑)
田中:
 でもまあ、アメリカ人の政治感覚というのもひところけっこうバランスが取れてるって言われてたんだ。共和党の大統領に二期八年やらせたら次は民主党に八年、というのがずーっと続いて……それが崩れたのが、あのレーガン、ブッシュと続いたころからでね。とりあえず二期八年、ここらへんが政治のバイタリティを維持する限界だ、というような知恵がやっぱりあるんだと思うんですよ。
土屋:
 まさにその通りだとぼくも思う。政治のバイタリティって、政治家にも言えるし、国民がその政治に対して関心を持てる限界にも言えるんじゃないかな。日本みたいに戦後、一党がずーっとやってきてたら、政治には誰も関心をもてなくて当然だと思う。>

 この2人のおバカな対談を読んでいてつくづく思うのですが、「民主主義国家では政権交代が常に行われなければならない」という考え方って一体どこから出てきたものなのでしょうか? 国民が長期政権を望み、それが選挙に反映されれば、それもまた民主主義の成果であると言えるのではないかと私などは考えるのですけど。
 そもそも戦後の日本における政治の世界に「健全な野党」なるものが存在したためしがありません。かつての55年体制で自民党と2大政党を構成した旧社会党は、何につけても自民党の政策に反対するばかりで何ら代案を提言することもなく、たまに口を開けば日本弾劾・共産圏擁護の発言ばかり繰り返していたからこそ「これは信用ならない政党だ」ということで国民からそっぽを向かれたのでしょう。日本の国益や国民の利益について何ら考えもせず、「反対のための反対」ばかり繰り返す政党などに、誰が日本の政治を委ねようとするものですか。
 実際、自民党の政治スキャンダルに乗じて旧社会党が自民党から政権を奪う機会は何度もあったのですが、そのチャンスを全部逸してきた最大の理由は、全てこの旧社会党の「共産圏擁護に基づく反対のための反対」方針が祟っていたからです。もし旧社会党が自民党から政権を奪った場合、彼らはアメリカと手を切り、旧ソ連をはじめとする共産圏に接近する政策を取ることは確実でしたから、国民多数の意思と全く合致しない政策を行いかねない政党に政権を担わせなかった日本の国民は極めて健全な政治感覚を持っていたと言えます。
 そして冷戦終了後の93年に発足した細川連立政権、および94年以降の自社さ連立政権の様々な失政や節操のない変節行為によって、日本の野党は思想信条・政治手腕においても全く信用できないという評価が国民から下されてしまいました。結局「日本においてとにもかくにも政治を運営できるのは自民党だけ」という状況こそが、戦後の日本で政権交代がほとんど起こらない最大の理由であるわけですから、「政権交代が起こらないから日本の民度は低い」などという愚論にはほとんど何の意味もありません。
 「インディペンデンス・ディに代表されるアメリカ人の政治感覚」とやらを笑いのネタにする前に、田中芳樹と土屋守の両名は、自分達の非現実的な政治的センスに基づく主張こそが笑いのネタになっていないのかどうか、少しは振り返って考えてみてはどうなのでしょうか。まあイギリス礼賛・日本罵倒で頭が凝り固まっているようにしか見えないあの2人に、そんなことを期待するのもどうかと思いますけど(笑)。

 さて、田中芳樹と土屋守の漫才対談はまだまだ続きますが、それらについてはまた次の機会に論評したいと思います。

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