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薬師寺シリーズ考察6
薬師寺涼子の怪奇事件簿6巻 「夜光曲」


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No. 8161-8162
薬師寺シリーズ考察6
冒険風ライダー(管理人) 2009/05/17 00:43
 2008年10月頃に、私は作品検証兼ケナシ用資料として、垣野内成美女史によるマンガ「SP薬師寺涼子の怪奇事件簿短編集」なるものを購入したのですが、それに収録されていた垣野内成美女史のあとがきマンガに「田中芳樹先生のお言葉」と題する描写が描かれています↓

SP薬師寺涼子の怪奇事件簿短編集 P165
<田中芳樹先生のお言葉
 お涼さんと泉田君、二人の関係はねー、上司と部下ですからね――
 あと、このシリーズはサ●エさんやド●●もんなんですね――
 涼子は永遠に27歳なんです。ですから‥‥
 涼子と泉田君も永遠に上司と部下なんじゃないですかね――>

 ……何と言うか、「心は永遠の15歳」などというタワゴトをキャッチフレーズにしている某「と学会」の自称SF作家なキチガイ会長を想起せずにはいられない発言なのですけど(苦笑)、しかし薬師寺シリーズって、ここで言及されているサザエさんやドラえもんのような形態の時間概念が成立しえるものなのでしょうか?
 確かに薬師寺シリーズの構成というのは1巻毎に異なる妖怪・怪物およびそれを使役する黒幕を敵役としたストーリーがまとめられているので、1巻完結方式であるかのように見えるのですが、主人公達の視点から書かれている地の文を参照すると、薬師寺シリーズを構成する各巻には明確な相互関連性および時間の流れが存在することが分かるんですよね。
 たとえば薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」講談社ノベルズ版P9には、2巻の開始冒頭に1巻の事件から1ヶ月後の話であることが明示されていますし、同P31には、泉田準一郎が薬師寺涼子の下につけられる人事が(2巻時点から)2ヶ月前に行われているということが書かれています。また、3巻「巴里・妖都変」光文社ノベルズ版P177にも2巻のエピソードをベースにした回想描写が存在します。
 さらには、3巻で初登場した薬師寺涼子御付のメイド2人組は、4巻以降の巻でも何らの自己紹介も作中の登場人物に対して行うことなく、かつ3巻で初めてその存在を知ったはずの泉田準一郎がその存在を最初から認識しているという前提でもって登場・活躍しているのです。これらの事例の数々から考えれば、薬師寺シリーズという作品には、現実世界と全く同じ時間経過の概念が存在することが明白なわけです。
 そして、各巻で明示されている作中の時間は以下のようになっています↓

・1巻「魔天楼」
  <秋風が夏の残存勢力を追い払ってから半月ほど後のこと>
・2巻「東京ナイトメア」
  1巻から1ヶ月後
・3巻「巴里・妖都変」
  12月上旬〜1月
・4巻「クレオパトラの葬送」
  2月半ば〜3月
・薬師寺涼子の怪奇事件簿ハンドブック「女王陛下のえんま帳」
  <春は酔ったような足どりで大都会に近づいてきた。>(5巻開始前 4月上旬?)
・5巻「黒蜘蛛島」
  4月半ば〜4月下旬
・6巻「夜光曲」
  5月
・7巻「霧の訪問者」
  7月
・8巻「水妖日にご用心」
  9月

 この時間経過から面白いことがひとつ浮かび上がってきます。それは、薬師寺シリーズにおける作中の時間経過が、1巻開始からまもなく1年になろうとしていることです。
 作中の時間経過が1年になるということは、現実世界と同様の時間経過の概念で考えれば、当然のことながら作中キャラクター達の年齢も1年分加算しなければならないことになります。つまり、作中のどこかの段階で薬師寺涼子は確実に28歳の誕生日を迎えざるをえなくなり、必然的に「涼子は永遠に27歳」という田中芳樹の御託宣そのものが崩れ去ってしまうことになるわけです。
 ここで最大限好意的な解釈を行って薬師寺涼子の誕生日を1巻開始直前とし、1巻開始時間を10月と仮定して見たとしても(9月では8巻の時点で薬師寺涼子は28歳になってしまい、11月では2巻・3巻との整合性が取れなくなる)、今のペースで時間が進むと、次の巻以降では確実に薬師寺涼子を「28歳」として紹介しなければならなくなってしまうはずなのですが、田中芳樹は一体この命題をどのようにして乗り越えるつもりなのですかね? 私は件の「田中芳樹先生のお言葉」を読んだ時、「次の巻で薬師寺シリーズは完結するのか?」とさえ考えたくらいでしたし、作品を完結させずにあくまで「涼子は永遠に27歳」にこだわるとなると、他に考えられる手法としては、薬師寺涼子の誕生日を銀英伝のオリビエ・ポプランよろしく「15月36日」とかいった類のトンデモ日付にでも設定するか、さもなければ「27歳と●ヶ月」と表記する(例:50歳の場合は「27歳と276ヶ月」)か、くらいの対処法しか考えられないのですが。
 実際問題として、ここで何らかの対処法を施しておかないと、このまま「涼子は永遠に27歳」を貫き通した場合、時系列的な矛盾が大量噴出することになる事態は避けられないのではないでしょうか。8巻のストーリーの後に1巻の話が展開されるとか、どう考えてもありえないのですから。本当にサザエさん時間やドラえもん時間のような概念を導入したかったのであれば、下手に各巻の物語に前巻のエピソードを髣髴とさせるような回想描写や関連性を付与せず、また作中に具体的な時間経過など書くべきではなかったでしょうに。
 薬師寺シリーズの世界でも「現実世界と同じ時間概念でもって、作中のキャラクターも同様に年を取っていく」で本来何ら問題はないはずではありませんか。しかも、他の田中作品でもサザエさん時間やドラえもん時間を導入しているものは見当らない上、創竜伝に至っては現実世界の時間経過に合わせて作品世界丸ごとの時空転移まで行うという醜態まで晒している前科まであるというのに、何故薬師寺シリーズについては「涼子は永遠に27歳」などという、今後の作品破綻をもたらしかねない余計な言及を行ったのか、一度本人に問い質してみたいところですね。


 さて、いささか前フリが長くなってしまいましたが、今回の考察の舞台となる薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」の検証を始めることに致しましょう。


薬師寺涼子の怪奇事件簿6巻「夜光曲」
2005年2月10日 初版発行



薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P9上段〜下段
<ずっと昔、といっても二〇世紀後半のことだが、ベトナム戦争と呼ばれる戦争があった。その歴史的・国際政治的な意味はともかく、ジャングルを利用した敵のゲリラ戦に苦しめられたアメリカ軍は、他の誰も考えつかなかった作戦を考えついたのだ。
「ジャングルがあるから、我々は苦戦するのだ。ジャングルをなくしてしまえば我々の勝利だ」
 かくして「枯葉剤」と呼ばれる化学兵器が、白い霧となってベトナムのジャングルに降りそそいだ。木は枯れ、草はしぼみ、広大なジャングルが丸裸になった。ついでに周囲の田や畑も不毛地になった。植物を殺す化学兵器が動物にとって無害なはずもなく、野生動物が倒れ、家畜が死に、人間も倒れた。とくに世界各国が眉をひそめたのは、枯葉剤の最大の犠牲者が胎児だったことだ。生まれつき両眼や両手のない赤ん坊の写真が全世界に流れ、批判の声が嵐となり、それが世界最強の軍隊を敗退させることになる。>

 薬師寺シリーズに限らず、田中作品におけるゲリラ戦に対する認識には「神出鬼没」という面だけが強調されていて「民間人を巻き込む」という要素が故意にか否か、完全に欠落しているように思えてなりませんね。「灼熱の竜騎兵」では、ゲリラ部隊を率いる主人公達が「いかにして民間人を巻き込まないようにするか」に腐心する様が描かれていますし、銀英伝や創竜伝でもゲリラ戦術は礼賛傾向にあるのですから。
 薬師寺シリーズ考察4でも述べたことですが、ゲリラというのは一般人と同化し、盾とすることで敵からの攻撃をかわしつつ、奇襲・待ち伏せ・後方撹乱といった行為を展開するものなのであり、民間人を巻き込むことが最初から想定されている戦法です。それはベトナム戦争でも例外ではなく、ベトナム戦争におけるゲリラ戦の中心的存在となった南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front 通称「NLF」)は、ジャングルだけでなく都市や農村にも潜み、そこに住んでいた住民達を隠れ蓑にしつつ、様々なテロ行為を繰り返していました。
 NLFはただ単に神出鬼没なだけでなく、一般人の格好で敵の背後から攻撃を加えるだけでなく、一般人も多く集まる施設にテロ行為を行ったり、意図的に一般人を戦闘の巻き添えにすることでアメリカ軍に対するネガティブキャンペーンを展開したりすることを組織的かつ確信犯的に行っていたのです。ベトナム戦争におけるアメリカ軍が残虐行為を行ったと非難するのであれば、手段を問わず意図的に一般人を巻き込み、惨禍を悪戯に拡大させたNLFも大いに批判されるべきではありませんか。
 田中芳樹および泉田準一郎は、ゲリラというものが清廉潔白な存在であるなどというありえない前提でもって、ゲリラについて語っているとしか思えないのですけどね。

 それと、ベトナム戦争におけるアメリカの敗因は枯葉剤の散布などという要素のみに矮小化されるものなどではありません。アメリカ敗戦の原因は主に3つの要素が存在します。
 第一の原因は、アメリカが支援していた南ベトナム政府の権力闘争です。ベトナム戦争時、アメリカは共産圏に属していた北ベトナムと対峙する南ベトナムの支援という形で戦争を遂行していたのですが、その南ベトナムでは、最高権力者達が戦争そっちのけでクーデターや権力闘争に熱中するありさまでした。結果、南ベトナムはベトナム国民の支持を失った上、本来「支援」でしかなかったはずのアメリカ軍が戦争の矢面に立たされ、全力で介入せざるをえない状況に陥ったわけです。
 第二の問題は、この当時のアメリカ軍が政治的な制約をがんじがらめに受けていたことです。当時のアメリカ軍はマクナマラ国防長官指揮の下、軍人は専門職に徹し文民行政官の指導に服せば良いとされ、それに基づいて政府による軍部への様々な政治的干渉が盛んに行われました。北ベトナムを軍事的に支援していたソ連や中国を刺激することを避けるために、補給ルートの越境攻撃やソ連の軍事顧問団が存在する施設への攻撃を禁じて自らに足枷をはめたり、兵器や人員の調達を、現場の要求と実情を無視して費用対効果だけで判断して策定したりするなど、ベトナム戦争におけるアメリカ軍の軍事作戦は、机上の数値を弄ぶ現場無視のエリート官僚達による中央統制型の文民統制によって何重もの制約を受けていました。そのためアメリカは短期決戦で勝てるチャンスを自ら潰してしまい、何年もダラダラと長期戦を戦わなくてはならなくなったのです。
 そして第三の要因は、何といってもマスメディアに対するアメリカ政府の報道規制がほとんど存在しなかったことです。ベトナム戦争期間中、アメリカをはじめとする各国の報道機関はベトナム国内で自由に戦争取材を行うことができたため、戦場の実態が生々しく報じられていました。その結果、ソンミ村虐殺事件や枯葉剤の散布などといった「アメリカ軍の悪行」が世界中に知れ渡ることによってアメリカ国内で反戦運動が大いに盛り上がり、それが現地のアメリカ軍およびアメリカ国民の士気を著しく低下させ、それがアメリカの政府および議会をも動かして戦争撤退の決断が下されることにつながったわけです。
 泉田準一郎(=田中芳樹)は「枯葉剤の散布」という事実が自動的に世界的な非難を呼び、ベトナム戦争におけるアメリカ軍の敗北に直結したなどと考えているようですが、実はその事実自体はさして重要な問題ではなく、それがアメリカ政府の規制を介することなく世界中に大々的に報道され、しかもそれにアメリカ国民が共鳴したことこそが真の敗北要因(のひとつ)なのです。アメリカは別にベトナム戦争「だけ」で残虐行為を繰り広げてきたわけではありませんし、アメリカの軍と政府を本当の意味で掣肘できるのは(アメリカ本土を武力で完全征服できる組織が存在しない現状では)アメリカ国民のみなのですから。
 実際、ベトナム戦争後のアメリカは、戦場における軍に対する政府の現場無視かつ過剰な政治的介入を最小限に抑える意識改革と、報道機関に対するメディアコントロールに腐心するようになります。そしてそれが、湾岸戦争やイラク戦争における短期間かつ電撃的な戦闘行為の終結を実現させる原動力となったのですから、転んでもただでは起きないアメリカの基本スタンスには、結構学ぶべきところが多いのではないかと思うのですがね、私は。


薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P10上段〜下段
<涼子は足を下ろし、睫毛の長い目をかるく細めた。
「あんたたち、公安部ね」
 今度は、男は返答しない。ひときわ陰険に両眼を光らせただけである。内心で、私は苦笑した。へたな俳優がシナリオどおりに型どおりの公安警察官を演じているような印象だ。だが、これで私は確信した。公安部がこの件にからんでいるからには、テロと断定された、ということだ。
 意外だったのは涼子が踵を返すようすを見せたことだ。めずらしいことだが、粘りもせず、ダダもこねず、どうやら出直すつもりらしい。
「いくわよ、泉田クン」
「いいんですか」
「どうせ公安部が事件を解決できるわけないでしょ。見込み捜査で、無実の人間を逮捕したあげく迷宮入り、というのが公安部の伝統芸なんだからさ。今度は誰を不当逮捕して恥をかくか、楽しみよねえ、オーホホホホホ!」
 一秒で一〇〇人の敵を生産する、ドラよけお涼の高笑いである。公安警察官の顔がひきつって、ウサギを連想させる顔に肉食獣の影がよぎった。>

 いつものことなのですが、薬師寺涼子はこのような言動を展開する際に「己を顧みる」とか「鏡を見る」とかいった類の行動が取れないのですかね? 「見込み捜査で、無実の人間を逮捕したあげく迷宮入り」などという「公安部の伝統芸」とやらは、同時に薬師寺涼子の行動原理でもあるでしょうに(笑)。
 そもそも薬師寺涼子は、シリーズ開始の1巻目からすでに「見込み捜査で、無実の人間を逮捕したあげく迷宮入り」的な行為を公然と行っていたではありませんか。何の脈絡もなく「犯人は怪物だ!」などと突発的かつ一方的に断じたその迷推理は、見込み捜査どころか「ある種の電波を受信していた」としか評しようがないシロモノでしたし、わざわざ真相を隠蔽するために「怪物の存在は絶対に認められない」「警察と科学者がオカルトを認めちゃいけない」などという、薬師寺シリーズの世界では完全に破綻している理論をほざき倒した挙句、犯罪を立証する証拠どころか証言さえもなかった高市理事長に無実の罪を着せて事件を迷宮入りにしていた己の過去の罪業を、まさか薬師寺涼子は忘れてしまったわけではありますまい?
 また2巻では、作中の地の文で「巨大な組織と巨額の資金を好きかってに使い、きらいな人間には無実の罪を着せて社会的に葬」ってきたと評されているJ・E・フーバーなる人物を薬師寺涼子は尊敬していると語っていますし、実際にJ・E・フーバーに倣った対人諜報工作を薬師寺涼子は積極的に行っています。3巻ではJACESという身内から出た犯罪者の存在そのものを隠蔽する行為もやらかしていますし、その他、数え切れないほどの見込み&違法捜査を繰り返してきた薬師寺涼子が、どのツラ下げて公安部を罵ることができるというのでしょうか。
 しかも薬師寺涼子には、かつてこんなタワゴトをほざいていた前科も存在します↓

薬師寺シリーズ1巻「魔天楼」 講談社文庫版P70〜P71
<「さしあたり、日ごろ公安部が監視している過激派の連中を逮捕して、事態をとりつくろうのね。そのあとゆっくり真犯人を捜せばいいわ」
 涼子の発言に、室町由紀子が屹となった。
「薬師寺警視! 公務員でありながら憲法をないがしろにするつもりなの」
「フン、憲法がこわくて警察官がやってられますか」
「ちょっと、あなた、そういう誤解を招くようなことを人前で……」
「うるさいわね。警察官が憲法をきちんと守っていたら、冤罪事件なんておこるわけがないでしょ! 法をねじまげ、無実の人間を牢獄に放りこむ。これこそ権力者でなければできない楽しみじゃなくって?」>

 薬師寺涼子は、他ならぬ自分自身の口で、自分が「見込み捜査で、無実の人間を逮捕したあげく迷宮入り」にして恥をかく公安部と同類であることを自ら積極的に認めるばかりか全面肯定すらしているわけです。にもかかわらず、発した直後に自分自身にギロチンブーメランとして跳ね返ってくる罵倒文句を敵に向かってヒステリックに喚き散らす薬師寺涼子。もしこれが無知と低能と不定見のなせる技ではないというのであれば、「実はこいつはあえて自分を痛めつけて快楽に浸っているマゾ女では?」という疑惑すら浮かび上がってくるくらいなのですけどね。
 この薬師寺涼子がカマしまくる桁外れの天然自爆ギャグには、さすがの泉田準一郎も少しは危機感を覚えたのでしょう。その後の描写で、「薬師寺涼子は公安部などとは違うんだ!」と言わんばかりの涙ぐましい弁護論を披露するに至っています↓

薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P66上段〜下段
<「への一番のヤリクチを見てると、チンケなわりにハデな騒ぎをおこして、人の耳目をおどろかそうとしてる。自己顕示欲のカタマリよ。あたしにはすべてお見通し」
「同類だからですか」
 とは口にせず、私は、せいぜいつつましい表情で上司の話をうけたまわった。
「そこで断定できること。への一番は今夜にでもまたつぎの騒ぎをおこそうとしている。今夜やつがあらわれるのは、政財界のVIPが集まる場。そこで待ちかまえて、やつがノコノコあらわれたところをとっつかまえるのよ!」
 仮定に仮定をかさねた上での結論だ。何の確証もない。理性がそう私に告げた。ところが私は涼子の自信過剰の断言を否定できないのだ。涼子は天才である。単に知能が高いのではなく、その直感はつねに事件の核心を衝き、犯人の意図と行動を透視してしまう。これまでいくつの怪事件が、彼女の独断的直感によって解決されたことか。堅実で科学的な捜査が最終的な勝利をおさめるべきではあるのだが、現実はかならずしもそうではないのだ。
 いや、それだけでは実現できない。むしろ涼子は、犯罪捜査におけるブラックホールなのである。怪事件と怪犯罪者は、さからいがたい重力に引かれて涼子に近づき、コッパミジンに粉砕されてしまう。推理力ならぬ破壊力によって、彼女は過去の名探偵たちを圧倒するのだ。>

 しかしねぇ泉田準一郎君、せっかく涙ぐましい上に薬師寺涼子信者丸出しで醜悪な弁護論を繰り出しているところを申し訳ないのですけど、薬師寺涼子の電波な「独断的直感」とやらによる見込み&違法捜査では、怪事件の怪犯罪者とやらを起訴して有罪にするどころか、そもそも逮捕すら本来ならばできません。違法行為によって得られた証拠および証言は法律上では証拠能力がないと見做され、裁判所に提出するどころか、裁判の場でそれを見ることすらも許されないのです。薬師寺涼子が違法行為の限りを尽くして「逮捕」した容疑者達は、法理論上ではまさに薬師寺涼子の違法行為によって有罪どころか起訴すらも免れることができるわけで、こういうのを普通「解決」とは言わないのですがね。
 そういう意味で薬師寺涼子は、やはり刑事事件を「見込み&違法捜査で、無実の人間を逮捕したあげく迷宮入り」にしてしまう公安部と同レベル、いや、意図的かつ全面肯定的にそれを行っているという点では公安部よりもはるかに悪質かつ無為無能の極みにある、といっても差し支えはないのではないかと思うのですが、それについてはどう考えているのか、是非とも薬師寺涼子の狂信者筆頭である泉田準一郎には答えて頂きたいところです(爆)。


薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P17上段〜下段
<それにしても、テロ対策といえば、どんな規制でも監視でも強要でも認められるご時世だ。空港で靴をぬがされても、駅のゴミ箱を使えなくされても、アメリカ大使館前の道路を通行禁止にされても、誰も文句はいわない。官憲はどんどん増長している。官憲のひとりである私でさえ、心配になってくる。
「『安全』という通貨で、いまや日本人はプライバシーも社会的権利も、ためらいなく売り渡すわ。つまり、JACESにとっては、ますます商売がやりやすくなる、ありがたいご時世ってわけ」
 皮肉だか本心だか、うそぶきながら涼子がアイリッシュコーヒーを口につける。>

 この薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」が刊行された2005年という年の4月1日に「個人情報の保護に関する法律(個人情報保護法)」が全面施行されている、という事実ひとつを取っただけでも、薬師寺涼子曰く「『安全』という通貨で、いまや日本人はプライバシーも社会的権利も、ためらいなく売り渡すわ」などという戯言が完全に的外れなシロモノであることは自明なのですが、現職の警察官、それも東大法学部卒業のキャリアであるはずの薬師寺涼子ともあろうものが、個人情報保護法の存在すら知らなかったというのでしょうか(笑)。まあ相方の泉田準一郎も、これまた現職の警察官でありながら「不法入国者と聞いただけで犯罪者と同一視してヒステリーをおこす連中もいるが」などという、法律知識が完全に欠如している以外の何物でもない妄言をほざく始末なのですし、常に違法行為を心掛けている薬師寺涼子に「法の番人」としてのモラルどころか知識さえも求めるのは酷だという意見だってあるのかもしれませんが(爆)。
 それにしても、空港で靴を脱がされたり、駅のゴミ箱が使えなくなったり、アメリカ大使館前の道路が通行禁止になったりすることのどこに、プライバシーや社会的権利の侵害があるというのか、実に電波過ぎて面白い発想としか言いようがありませんね(苦笑)。空港も駅もアメリカ大使館も全て「公開された公共機関」なのであって、そんなところで私生活に関するプライバシーを主張する人間はよほどワガママかつ頭のおかしい低能連中くらいでしょうし、その安全が確保されることを「社会的権利の侵害」などと主張する人間も、薬師寺涼子や泉田準一郎レベルの知能指数の持ち主ぐらいしか存在しないでしょう。こんなことでプライバシーや社会的権利の侵害が主張できるのであれば、禁煙や校則、道路工事の類でさえ「『安全』という通貨で、いまや日本人はプライバシーも社会的権利も、ためらいなく売り渡す」ということになってプライバシーや社会的権利の侵害を訴えることができてしまうではありませんか(>_<)。
 そもそもこの連中は、日本国憲法第12条の存在すらも知らないのでしょうか? 日本国憲法第12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とあるように、国民の自由と権利を濫用することを戒めていますし、公共の福祉のために自由と権利を制限する事態が起こりうるということも想定されています。しかもテロや犯罪の横行によって国民の安全が侵害され、個人の自由と権利どころか生命の危険すらありうるという時に、それも「公開された公共機関」という場で、自分ひとりのプライバシーだの社会的権利だのを優先しろなどと主張する人間は、法理論的にも倫理道徳的にも弾劾されるべき存在でしょう。「公開された公共機関」における安全を確保することは、国民から政府に突きつけた要望であり、政府はそれに応える義務があるのです。
 というか、オウム真理教の地下鉄サリン事件やアメリカ同時多発テロ事件等の社会的脅威を目の当たりにしてなお、こんな能天気な主張ができること自体、個人的には大いに驚きなのですけどね。しかも薬師寺シリーズ6巻の世界では、警察によってテロと断定された怪事件が現在進行形で勃発しているというのに。


薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P40上段〜下段
<一夜明けて。
 新宿御苑の怪事件も、人食いホタルの出現も、新聞のトップニュースにはならなかった。私が官舎のDKでトーストをくわえたままひろげた朝刊の一面トップは、つぎのようなおめでたい記事だった。
「やったぞニッポン大金星!
 王者ブラジルを撃破!
 列島興奮! 感動をありがとう!」
 前日、つまり東京で怪事件があいついだ日のことだが、名古屋でサッカーの「五大陸杯」とやらが開催され、日本代表チームがブラジル代表を二対一で破ったのだ。スポーツの世界では壮大なる快挙にちがいないが、スポーツ新聞ならともかく、一般紙でトップニュースにすることもないだろう、と思ってしまう。日本のメディアは、国営放送協会(KHK)をはじめとして、とっくに報道機関ではなくイベント広報機関になってしまっている、というイヤミな指摘は、真実かもしれない。>

 そりゃ目の前で警察がテロと断定した怪事件が横行しているにもかかわらず、およそ的外れかつ能天気な官憲批判やプライバシーや社会的権利の侵害云々を主張するようなバカ連中が存在するような世界であれば、新聞がテロ事件そっちのけでスポーツニュースを第一面に取り上げるというのも充分にありえる話でしょうよ(苦笑)。薬師寺シリーズにおける日本のマスメディアもまた、薬師寺涼子と泉田準一郎と同様の知能レベルで行動しているという、何よりの証ではありませんか(爆)。
 第一、ここで取り上げられているスポーツ報道というのは、日本国内限定のものではなくて、ワールドカップサッカーやオリンピック、それにWBC(ワールドベースボールクラシック)レベルの国対国の戦いなのでしょう? それは単にイベントとして視聴率が取れるというだけでなく、政治的効果も経済的効果も多大に挙げることができるのですし、何よりも国民大多数が観たいと考えるものであるわけです。そしてそれに勝利を収めるということは「スポーツの世界では壮大なる快挙」であると同時に「国としても誇らしい栄誉」「国民が一体となって喜ぶことができる大功」でもあるのですから、テロ事件より優先すべきものか否かは置いておくにしても、一般紙でトップニュースとして報じるに値する価値自体は十二分に存在するのです。
 そしてスポーツに限らず、こういう国対国の戦いが繰り広げられる場で自国贔屓の報道が行われるのは万国共通で見ることのできる現象なのであって、ことさら日本だけが異常なわけではありません。どこの国でも自国が勝てば大きく報道するものですし、お隣の韓国に至っては、国を挙げて日本に対する敵愾心に満ちた報道を行うばかりか、2002年ワールドカップサッカーでは、韓国チームに対する批判を繰り広げていた中国のメディアの報道に対して、わざわざ国が直接抗議して態度を改めさせたなどということすら行っているほどです。
 日本のスポーツ報道に特有の異常な事象があるとすれば、それは中国・韓国がその手のスポーツイベントに絡んできた際に、そちらを優先する報道を行うことでしょう。2002年の日韓共催ワールドカップサッカーにおける日本のマスコミ報道は、自国日本の応援以上に日韓友好および韓国の応援が大々的にクローズアップされた上、韓国の反則行為や誤審判問題を意図的に報道しないといった行為が問題になりましたし、2008年の北京オリンピック開催の際には、北京オリンピックの報道利権を餌に、中国から日本のマスメディアに対して「批判報道をするな」という旨の報道規制の通達がなされ、しかもそれに唯々諾々と従う始末です。こういう事例こそが日本のマスメディアが抱える本当の問題なのです。
 おかしな創竜伝モドキの現実無視な社会評論を吹聴するより前に、少しは問題の本質というものをきちんと把握・認識し、検証を行う必要があるのではないですかね、この2人は。


薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P44下段〜P45下段
<はいってきた部長は、私に気づいて何かいいかけた。だが涼子に、「どうぞお気になさらず」といわれ、しかたなさそうに用件を切り出す。
「じつは薬師寺君にちょっと苦情がきとるんだ」
「あら、何でしょう。想像もつきませんわ」
「つまり、君は、その、私的なスタッフを持っていて、それを捜査に使っているというじゃないか」
 もちろんマリアンヌとリュシエンヌのことだ。まさか平松警部とは思えないが、涼子をこころよく思っていない何者かが密告したのだろう。
「あら、何の問題もございませんわ」
 シガにもかけぬ態で、ほがらかに涼子は応じた。
「彼女たちは捜査協力者ですもの」
「捜査協力者……」
「ええ、しかも無料でやってくれますのよ。タダで! 他の協力者みたいに、報酬をくれ、なんて一言もいいませんの。ほんとに協力者のカガミですわよねえ」
 刑事部長は沈黙した。こういう反撃をされるとは思ってもいなかったにちがいない。
 捜査協力費というのは、警察の捜査に協力してくれた民間人に対して支払われる謝礼のことだ。多くは情報の提供者で、悪い表現を使えば、密告者とか警察のスパイということになる。もともと公金なのだから、いつ誰にいくら支払ったのか公開されるべきなのだが、
「そんなことをしたら捜査上の秘密にかかわるじゃないか」
 という理由で、警察は絶対に公表しない。
 りっぱな理由の裏には、うんざりするような真実がある。警察内部の人間なら誰でも知っていることだが、捜査協力費にあてられる予算の半分以上は、裏金として警察内部にたくわえられ、さまざまな費われる。何に費ったか、正確なことを外部に知られたら、各県の警察本部長は辞任に追いこまれるだろう。
 涼子はすました表情で、刑事部長の痛いところを突いたのだ。予算のすべてが非公開の公安部にくらべればささやかなものだが、刑事部にだって多少の裏金は存在するだから。>

 「刑事部長の痛いところを突いた」のではなく、ただ単に論点をズラして己の悪行を誤魔化しているだけではないですか、薬師寺涼子のやっていることは。第一、ここで言われている捜査協力者というのは、上でも書かれている通り「情報の提供者」であって「警察と一緒になって捜査を行う外部の人間」ではないのですし、「捜査協力費」も「情報提供料」とでも呼ぶべきものなのですが、それが「薬師寺涼子が私的なスタッフを捜査に使っている」ということと一体どんな関係があるというのでしょうか?
 捜査協力費というものが何故存在するのか? それは警察が捜査対象にしている反社会的団体の監視や情報収集を行うことを第一の目的としています。警察がマークしている反社会的団体は、オウム真理教のごときカルト宗教団体、革マル派や中核派に代表される極左団体の他、共産党、暴力団、朝鮮総連およびその関連団体など多種に及びます。こういう反社会的団体の情報を得るためには、一般市民からの協力を欠かすことができません。
 一般市民から捜査上の情報を聞く際には、ただ単純に捜査協力者に対してお金を渡すというだけでなく、話を聞くための場所を警察外で確保したり、茶菓子を用意したり、タクシーや自家用車を使って話を聞きに行くといった「雑費」も含まれることになります。これらの措置は、捜査協力者の心証を良くして情報を引き出しやすくするという処世術だけでなく、捜査協力者の安全を確保するためのカモフラージュ的な手段としても必要なのです。
 その捜査協力費および捜査協力者の内実を公開すると、捜査上の機密が漏れて反社会的組織や事件の真犯人達が証拠隠滅をはじめとする捜査対策を打つばかりでなく、捜査協力者の身に危害が加えられる可能性が想定されます。警察に協力することで自分の名前が公開され、それによって自分の身に危険が迫る、という状況で、一体誰が警察に協力するというのでしょうか。警察側が捜査協力費および捜査協力者の内実を非公開にしているのは、捜査上の機密を守るというだけでなく、捜査協力者の身の安全を守る、という側面も多く含まれているのです。
 そういう事情を何ら顧みることなく、薬師寺シリーズではさらにこれを裏金と定義してこう畳み掛けるわけです↓

薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P123下段〜P124上段
<何十億円という裏金が何に費われているか。実際に捜査のために費われているならまだしも、そうではない。幹部たちが好きかってに費っているのだ。ゴルフにマージャン、宴会に贈答品買い。すべては内外の人脈づくり、派閥づくりのためである。それにくらべれば、涼子のほうがリッパに見えるのだ。たとえ錯覚だとしても。>

 まさしく「錯覚」以外の何物でもありませんね(笑)。薬師寺涼子が警察内で裏金や人脈作りに奔走しないのは、別に薬師寺涼子が人格的に高潔であるからなどではなく、薬師寺涼子のバックにJACESが控えているからでしかないでしょう。薬師寺涼子はJACESの権力と財力を背景に好きなだけカネを浪費したり、警察を脅したりすることができるのですから、裏金や人脈作りをする必要がないというだけのことです。
 そして、そのような他人よりもはるかに有利な立場にいる薬師寺涼子が何をしているかと言えば、他者の弱みを握るための諜報工作や脅迫、己の違法捜査および犯罪行為の隠蔽工作、挙句の果てには「怪物の存在は絶対に認められない」「警察と科学者がオカルトを認めちゃいけない」などという意味不明な理由でもって他者に無実の罪を擦りつけるときているわけです。これに比べれば、たとえそれが犯罪であるにせよ、己の利益のために必死になって裏金や人脈作りに奔走する高級官僚達の方が、人間としてはまだはるかにマトモな存在ですらあるでしょう。薬師寺涼子の行動は、ただ己のストレス解消と精神的快楽を満足させるためだけのシロモノでしかないのですから。
 創竜伝もそうなのですけど、ある事象を論評するに際して、その背景や事情についてロクな検証ひとつすることなく、民主主義や情報公開といった概念を「錦の御旗」のごとく振り回して一方的に断罪する行為は、その批評対象に対する有効な批判にならないだけでなく、却って問題が悪化する方向にミスリードすることにもなりかねない、ということが、何故(作者も含めた)この連中はいつまで経っても理解できないのですかね? 日本を罵倒するための道具としてこんな杜撰な使われ方をする民主主義や情報公開といった概念が、私は哀れに思えてしかたがないのですが(T_T)。


薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P46下段〜P47上段
<「泉田クン、TVつけて。都知事のバカ息子のアホ父親が、何か緊急会見するらしいから」
 ややこしい表現をしたが、要するに涼子は首相とおなじくらい都知事をきらっているのだった。
 「お台場にカジノをつくる」「アメリカ軍の横田基地を返還させて国際空港にする」「銀行に特別課税する」と、公約だけはハデだったが、すべて失敗、あるいは口先だけ。成功したのはカラス退治だけというみじめなありさまなのだが、都民の支持率は高い。まじめな行政上の実績など、都民は求めていないのだろう。放言や暴言で都民をおもしろがらせていればよいと見える。>

 東京都民も舐められたものですね。東京都民が政策の良し悪しをマトモに評価することもできない愚か者揃いだから、愚かな都知事(石原慎太郎氏)が居座っているのだ、と泉田準一郎は主張しているのですから。
 石原慎太郎氏の東京都知事として上げた第一の功績は、何と言っても東京都の財政を立て直したことにあります。石原慎太郎氏が東京都知事に就任する前の1998年当時、東京都の一般会計決算は1068億円もの財政赤字を出していた上、赤字はその後もさらに増加すると見込まれていました。それを東京都知事に就任した石原慎太郎氏は、自身の10%の給与返上をはじめとする公務員の大規模な給与カットおよび職員削減政策を行うことや、社会保障費の削減・合理化を目的とした福祉改革で大規模な支出削減を実現、徴税率の向上や景気回復に伴う税収の増加にも助けられた結果、2005年に東京都の一般会計を黒字化することに成功しています。
 また、大型公共施設の「命名権」の売却や、都営バスの車体に広告を載せるなどの増収政策は、石原都知事下の東京で初めて行われたもので、これはその後全国各地の自治体に広がっていきました。自身が成功するだけでなく、他者にも模倣されるだけの価値を持つ政策を作ったという点においても、石原都知事は功績を収めていると言って良いでしょう。
 そして何よりも石原慎太郎氏の都知事(というよりも政治家)として国民を魅了する要素は、日本および日本人が持つべき国益をきちんと理解し、守ろうという気概が感じられることですね。薬師寺シリーズ5巻「黒蜘蛛島」で泉田準一郎が罵っていた不法入国者批判にもそれは表れていますし、阪神大震災における村山富一の大虐殺に対する反発からか、ビッグレスキューのような東京都を挙げての大規模防災訓練にも力を注いでいます。この人は都民、ひいては日本国民のことを真剣に考え、確固たる実績を上げていると「己の利益」という観点から都民がきちん考えた上で自主的に認め、評価するからこそ、石原慎太郎氏はあれほどまでの都民の支持を得ることができるわけです。
 「何故都知事はアレほどまでの都民の支持を得ているのか?」ということについて何ら真剣に考えることなく、「都民は愚かだから」と思考停止した挙句、「不法入国者と聞いただけで犯罪者と同一視してヒステリーをおこす連中もいるが」などという法律および日本の国内事情に対する無知丸出しなタワゴトをほざく現職の警察官と、巨大な権力と財力を背景に法律を蹂躙するために生きているようなキチガイ女、さらには己の小説の刊行についての公約を何度も破った挙句、己の作品を己が批判していたはずのパチンコに売り飛ばした遅筆な某ベストセラー作家などよりは、石原慎太郎氏の方がはるかに政治家どころか人間としてはるかに評価できると私などは思うのですがね。


薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P60上段〜P61上段
<「町というか、その地方の地下に棲んでいて、五〇〇年に一度、地上にあらわれる妖怪がいるというの」
 私はどういう表情をしてよいかわからず、ただ二度くりかえしてうなずいた。
「その妖怪は地上にあらわれる直前、山がひとつ丸ごと草も木も枯れてしまうんですって。妖怪が栄養をすべて吸収してしまうから」
 現代から五〇〇年前というと戦国時代、さらに五〇〇年をさかのぼると平安時代だ。その当時の記録が残っているというのは、正直なところ信じがたい。郷土史家の大半はもちろんまじめな人だが、郷土に対する愛情と誇りが暴走して、偽史をつくりあげるという例もままある。
 だが、山ひとつ丸ごと草も木も枯れてしまう、というのは、たしかに新宿御苑の事象を連想させる。だからこそ、室町由紀子もおどろいたわけだ。私も落ちつかない気分になりながら、肝腎なことを尋ねてみた。
「地上に出た後のそいつは、どんな姿をしているんでしょう?」
「はっきりとはわからないわ。その郷土史家、金森さんというのだけど、彼ならくわしく知ってるでしょう。わたしは、悪いけど、あんまりそのころはまじめに話を聞く気になれなくて……」
 もっともな話である。
「そのことを、公安部にお話しになったんですか?」
「話せると思う? こんなこと?」
 反問されて、私には再反問の余地がなかった。山ひとつの草木をすべて枯らしてしまう地底の妖怪。民話か怪談の世界である。頭のかたいことを自慢の種にしている公安部の連中が、まともに話を聞くはずがない。>

 どうしてこいつらはこの期に及んで「民話か怪談の世界」の妖怪や怪物が事件に関わっているという説を警察が一切聞く耳持たないなどと思い込んでいるのでしょうか? 薬師寺シリーズ6巻の時点では、「妖怪や怪物は存在しない」という世界観も世間一般の認識も、もうとっくの昔に崩壊してしまっていると言うのに。
 そもそも薬師寺シリーズでは1巻「魔天楼」の時点で、妖怪・怪物の類が日本の警察関係者および一般人が大勢いる中で大手を振って暴れまわっているのですし、2巻「東京ナイトメア」でも同様の状況が発生しています。そしてこれが何よりも重要なことなのですが、4巻「クレオパトラの葬送」では、薬師寺涼子がホセ・モリタを捕まえるための手段として、妖怪・怪物の存在を世界的なメディア媒体を使って全世界にリアルな実写画像付で公表しているのです。これから考えれば、遅くとも5巻以降の薬師寺シリーズの世界では、全世界の人間が「妖怪・怪物は現実に存在する」と認識し、かつ「妖怪・怪物を使った犯罪行為も成立しうる」と考えるようになるのが自然な流れというものではありませんか。
 本来ならば、5巻以降の薬師寺シリーズ世界における警察では、現実の犯罪に対処するためにも、妖怪・怪物の犯罪を専門に扱う部署が設立されなければなりませんし、妖怪・怪物の対処マニュアルだって手探りながらも作成されて然るべきでしょう。当然、現実の組織犯罪を追う公安部だって妖怪・怪物が絡んだ犯罪行為が発生する可能性を無視するわけにはいかなくなりますから、現在発生している事件と現象が一致する「民話か怪談の世界」が存在するのであれば、すくなくともそれが目の前の事件にある程度関わっている可能性については検討しなければならないはずです。
 オウム真理教の地下鉄サリン事件やアメリカ同時多発テロ事件で奇抜な発想によるテロが行われて、かつその事実をきちんと掌握しているにもかかわらず、それでもなお「そんな犯罪は非現実的で存在するはずがない!」などと頑迷に否定する人間がいたら、そいつの現実認識能力および頭の構造自体が疑われるのは至極当然のことでしょう。にもかかわらず、それと全く同じことを、薬師寺シリーズ世界の主人公格であるはずの薬師寺涼子や泉田準一郎、それに室町由紀子は大真面目に主張しているわけです。「オカルトに依存しながらオカルトを全否定する」という薬師寺シリーズ全体を蝕む病理もここに極まれりですね。
 他ならぬ自分達自身が行ったことの重大さを全く理解することなく、いつまで経っても「世間は妖怪・怪物の存在を否定している」などという固定観念を抱き続けるほどに「頭のかたいことを自慢の種にしている」のは薬師寺涼子・泉田準一郎・室町由紀子の3者の方ではありませんか。どう見ても頭か精神の病気を患っているとしか思えないので、一度脳外科医と精神科医にでも診てもらってはいかがです?


薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P108下段〜P109下段
<「お祖父さん、それまではご機嫌どうだった?」
「祖父はすごく機嫌が悪かったんです」
「どうして?」
「町村合併で、あたらしい市ができて、わたしたちの町、なくなっちゃうんです」
「まあ、そうなの。金森さんだけではなくて、わたしにとっても残念だわ」
「それだけじゃなくて、あたらしい市の名前がひどいって……」
「どんな名前?」
 と、涼子が割りこむ。トラブルを期待して、両眼がきらめいている。こまった女だ。
「かんとうちゅうおう市っていうんです」
 三人のおとなが、発音を漢字に変換しようとしていると、少女がつづけた。
「ひらがなです。関東地方のほぼ中央にあるから、関東中央市。でもって、ひらがなの名前のほうが流行してるからって……」
「ハッ」
 涼子があざ笑う。もちろん少女をではない。由紀子もあきれたような表情を隠しきれずに尋ねた。
「その名前、住民投票で決まったの?」
「とんでもない、誰がどうやって選んだ人たちか知らないけど、審議会とかいう人たちがかってに決めたんです。祖父はすごく怒って、あいつらは日本語の敵だ、鎌倉時代からつづく古い地名をかってに抹殺する権利を誰からもらった、っていってました」
「そうなのよ、役人ってやつは日本語の敵なの。歴史のある地名を破壊することが大好きなのよね。ほら、四国でも九州でも……」
「お涼、悪いけど、ちょっとだまってて」>

 「日本語の敵」って言葉は、薬師寺涼子および泉田準一郎が一番使ってはイケナイ言葉ではないかと思いますけどねぇ〜。話し言葉の中で、漢字言葉の表記を「嫌われる⇒キラわれる」「お偉方⇒オエラガタ」「とてつもないお金持ち⇒トテツモナイ・オカネモチ」といった類のカタカナ言語にわざわざ変換していた実績をもつアンタらが(笑)。
 第一、現代の市町村合併でこれまでの町名がなくなる、という話が成立すること自体おかしいのですけどね。現代の市町村合併では、これまでの町名は「市町村」でなくなるだけで、旧市町村名自体は「新市町村」の下に属する「大字」としてそのまま残るケースがほとんどです。
 一例として、上で挙げられている「かんとうちゅうおう市」の元ネタであろう、愛媛県の四国中央市の合併を見てみましょう。四国中央市は、川之江市・伊予三島市・宇摩郡土居町・宇摩郡新宮村からなる2市1町1村の合併によって生まれた合併市です。これらの旧市町村の名称が合併後どうなったかについて調べてみると、まず1町1村については以下のような変更になっています↓

宇摩郡土居町 ⇒ 四国中央市土居町
宇摩郡新宮村 ⇒ 四国中央市新宮町

 この2つの町村は、これまで単体の自治体として存在していたものから、四国中央市という自治体に属することになったため、「四国中央市+旧市町村名」という形で合併市の大字に旧市町村名がそのまま追加され、結果として従来からの旧町村名はそのまま存続しているわけです。
 残る2市のうち、川之江市の場合は、旧川之江市の大字名に「川之江町」「川之江町長須」「川之江町余木」という旧市名と同名の町名が存在し、その大字名がそのまま四国中央市にも反映されています。また伊予三島市も「三島朝日」「三島金子」「三島紙屋町」「三島中央」「三島宮川」の5つの大字の頭に旧市名が反映されています。
 このように、市町村合併における旧市町村名は、これまで挙げた3つのケースのような形で合併新市町村の大字として残る場合がほとんどで、「鎌倉時代からつづく古い地名をかってに抹殺する」などという事例は、すくなくとも市に昇格するクラス以上の大規模合併では存在しえないんですよね。ただ「村→村」「町→町」への小規模合併の場合は、上記3ケースいずれも適用できずに大字からも旧市町村名が消えることがあるのですが、そういう事例は市町村合併全体の中でもごくわずかな事例しかありません。
 上の引用で挙げられている「かんとうちゅうおう市」の場合は、四国中央市と同じケースがそのまま当てはまりますから、すくなくとも旧市町村名が消滅するという事態は想定のしようがないのです。ここで怒りをあらわにしていた金森のお祖父さんとやらのクレームの根拠のうち「あいつらは日本語の敵だ、鎌倉時代からつづく古い地名をかってに抹殺する権利を誰からもらった」という主張は全く成立しえないことになってしまいますね。

 それと、10代前半の金森少女に市町村合併に関する法律的な知識を求めるのは酷でしょうけど、その周囲で話を聞いている大人達は「一応」現職の警察官で「東大法学部卒業」のエリートも含まれているのですから、無為無用な日本の悪口にウツツを抜かしていないで少しは金森少女の疑問と誤解を解いてあげるように努めてはどうなのですかね。
 そもそも、この金森少女のお祖父さんとやらは、市町村合併に反対であるにもかかわらず、「誰がどうやって選んだ人たちか知らないけど」などというレベルで見当外れな組織にクレームをかけています。2005年4月1日までの市町村合併では「市町村の合併の特例に関する法律(旧合併特例法 2005年4月1日失効)」の第3条で、

<市町村の合併をしようとする市町村は、地方自治法(昭和22年法律第67号)第252条の2第1項の規定により、合併市町村の建設に関する基本的な計画(以下「市町村建設計画」という)の作成その他市町村の合併に関する協議を行う協議会(以下「合併協議会」という)を置くものとする。>

 と規定されており、この「合併協議会」が合併市町村の新市町村名および合併後の運営を決めることになります。また、その構成員の選定については同3条の第2〜5項で次のように書かれています。

<合併協議会の会長は、地方自治法第252条の3第2項の規定にかかわらず、規約の定めるところにより、関係市町村の議会の議員若しくは長その他の職員又は学識経験を有する者の中から、これを選任する。>
<合併協議会の委員は、地方自治法第252条の3第2項の規定にかかわらず、規約の定めるところにより、関係市町村の議会の議員又は長その他の職員をもつて充てる。>
<次条第18項又は第4条の2第27項の規定により置かれる合併協議会には、前項に定めるもののほか、地方自治法第252条の3第2項の規定にかかわらず、規約の定めるところにより、次条第1項又は第4条の2第1項の代表者を委員として加えることができる。>
<合併協議会には、前2項に定めるもののほか、地方自治法第252条の3第2項の規定にかかわらず、規約の定めるところにより、学識経験を有する者を委員として加えることができる。>

 かくのごとく、「合併協議会」の構成員は「関係市町村の議会の議員若しくは長その他の職員又は学識経験を有する者」の中から選ばれるとはっきり規定されており、「誰がどうやって選んだ人たちか知らないけど」ではなく、調べればすぐに分かることでしかないのです。
 また、「合併協議会」と「審議会」は法律的に見ても全く別物で、「審議会」は旧合併特例法の第5条の4で「合併協議会」とは別に独自の規定が存在します。

<合併関係市町村の協議により、期間を定めて合併市町村に、合併関係市町村の区域であつた区域ごとに、当該合併市町村が処理する当該区域に係る事務に関し合併市町村の長の諮問に応じて審議し又は必要と認める事項につき合併市町村の長に意見を述べる審議会(以下「地域審議会」という)を置くことができる。>

 つまり、金森のお祖父さんとやらは、「かんとうちゅうおう市」という新市名に怒ったまでは良かったのですが、その抗議をする際に、合併新市町村名を直接決めた「合併協議会」ではなく、合併する市町村の長に合併のための意見を述べるための一組織に過ぎない「地域審議会」を目の敵にしていたわけで、「地域審議会」の人達も相当に困惑していたのではないですかね(苦笑)。しかも上で述べたように「鎌倉時代からつづく古い地名をかってに抹殺する権利を誰からもらった」などというクレームは見当違いもいいところだったのですし。
 それに、金森のお祖父さんとやらの住む町が「かんとうちゅうおう市」の市町村合併に参画するに至ったのは、それこそ町議会の決議か住民投票の結果によるものでしょう。この2つのいずれかで賛成多数を獲得できなければ、その町は市町村合併そのものに参画すること自体不可能なのですから、その結果はすくなくとも「町の住民の総意」としてきちんと認めるべきではありませんか。もちろん、「町の総意」と認めた上で「俺はあくまで反対だ、その結果は住民の意思もろとも絶対に変えてみせる」と運動するのは個人の自由ですが。
 こういう知識を、10代前半の少女にも分かるように懇切丁寧に説明した上で「あなたのお祖父さんの怒りは理解できるが、その行動は誤解と無知に基づいた見当外れなものだった」ということを柔らかいオブラートに包んで優しく諭してやれば、その少女も己が住んでいる市町村に対する不毛な憎悪と誤解を解くことができたかもしれないでしょう。にもかかわらず、その少女が抱いている誤解を何ら正そうとしないどころか、その尻馬に乗っていつものごとく日本の悪口を、しかも他ならぬ自分達自身もまた「日本語の敵と定義される役人」であることすら自覚できないままに吹聴するときているのですから、相も変わらず救いようのない大人達としか評しようがないのですけどね、あの3人は。


薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P196下段〜P197上段
<「海上へ出るわ。東京湾マリンドライブ、わかる?」
 いそいで私は脳裏の地図を確認した。東京湾マリンドライブ、正式名称はたしか東京湾横断自動車道路。神奈川県川崎市と千葉県木更津市との海上を、海底トンネルと橋でつないだ海上道路だ。泡沫経済の時代を象徴する巨大公共事業の産物である。
 最初、東京湾横断自動車道路の通行料は、片道五〇〇〇円に設定されていた。往復で一万円になる。
 一日一万円、一ヵ月に二〇日通勤で二〇万円。そんな大金を支払って通勤するサラリーマンが五万人以上もいる、と、国土交通省のお役人たちは考えていたのだ。通勤定期券を発行し、企業に負担させればいい、というわけである。だがむろんそんな気前のいい企業が、この不景気な時代でなくとも、存在するはずがない。
 ときどき私は、中央官庁の官僚というやつらは、知能指数(IQ)を高く見せること以外まるきりアホではないか、と思うことがある。半分は非秀才のヒガミだが、あれほど巨額の国民の血税を公私にわたって浪費し、何の責任もとらず天下りまでして平気でいられるのは、アホでなければ生来の犯罪者だろう。>

 その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。薬師寺涼子や泉田準一郎は、知能指数(IQ)を高く見せること以外まるきりアホか生来の犯罪者であろう、とね(爆)。何しろこの連中は、現職の警察官でありながら警察官に必須の法律知識が皆無な上、オカルトが目の前で跳梁跋扈していながらその存在自体を必死になって否定しようとするばかりか、その頭の硬直性を自慢の種にし、さらには違法捜査・冤罪・犯罪隠蔽工作を数え切れないほどにやり抜いているときているのですから(笑)。
 そして、上記の文章も「まるきりアホか生来の犯罪者」ぶりが前面に噴き上がっていてなかなかにイイ味出していますね。ここで挙げられている「東京湾マリンドライブ」とやらの実態が「東京湾アクアライン」そのものであることは、「神奈川県川崎市と千葉県木更津市との海上を、海底トンネルと橋でつないだ海上道路」というコースと中身までが現実世界の「東京湾アクアライン」と全く同じ設定であることからも明白なのですが、どうしてこれって、「最初に設定された通行料」についてしか言及されていないのですかね?
 東京湾アクアラインの場合、最初の料金設定は4900円でしたが、これではあまりに高すぎるということで「1997年12月の開通より5年間は特別割引期間」ということで実質料金は4000円となり、それでも通行量が伸び悩んだことから、さらに2000年〜2007年までは3000円、2008年〜2012年は4000円とする料金改定が行われました。さらにはETC割引も適用され、ETC搭載の普通車は2320円でアクアラインを横断することができるようになっています。2005年の時点でもこれだけの料金改定が行われているのですから、「最初」の予定、それも実際には実施されなかった料金だけ書いても片手落ちになるだけでしかないでしょうに。
 東京湾アクアラインの通行料金が高めに設定されていたのは、第一にアクアライン横断の一日の交通量を多めに見積もり過ぎたことがありますが、東京湾を横断する既存のフェリーや連絡船との兼ね合いの問題も無視できません。アクアライン横断の料金をいきなり安くすると、利便性および横断時間で大きく遅れを取る既存のフェリーおよび連絡船が壊滅的な打撃を受け、その関連業者が倒産の憂き目に遭う恐れがあったわけです。アクアラインの完成によって少なからぬ打撃を受けることになることが最初から分かっている彼らを見捨てて道路の利益だけを追求すれば、それはそれで非難を招くことは確実ではありませんか。
 また、これは東京湾アクアラインに限らず全ての有料高速道路について言えることですが、高速道路が持つ最大の強みは「人単体の移動」ではなく「人と物の輸送」、すなわち、トラックによる物資輸送や、バスを使った大量人員輸送にこそあります。アクアラインの場合、トラックの交通量および輸送量はさほど多くはないのですが、バスについては時間短縮および運賃が比較的安価に設定できるメリットから、高速バスの路線が大変充実しています。交通量が少なくても、バスを介した「アクアラインの利用者」はそれなりに多いと見ることもできるのです。
 「泡沫経済の時代を象徴する巨大公共事業の産物」だの「中央官庁の官僚というやつらは、知能指数(IQ)を高く見せること以外まるきりアホではないか」だのといった「頭のかたいことを自慢の種にしている」それこそアホな言動に終始していないで、すこしは己を顧みるということをやってみたらどうなのですかね、この連中は。



 薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」の論評はこれにて終了です。
 次回は、薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」についての検証を行いたいと思います。


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