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薬師寺シリーズ考察2
薬師寺涼子の怪奇事件簿2巻 「東京ナイトメア」


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No. 8042
薬師寺シリーズ考察2
冒険風ライダー 2008/05/18 14:32
 薬師寺シリーズ考察の2回目は、薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」についての論評となります。
 ミステリー路線とホラーアクション路線の間をウロウロしていた感のある1巻「魔天楼」から一転、2巻以降の薬師寺シリーズは、ホラーアクション路線が確定したこともあってか、「お決まりのパターン」というものに沿う形でストーリーが進行していくことになります。
 たとえば1巻「魔天楼」では、怪奇事件の発生から怪物の出現までかなり間があった上、事件の背景説明になりえたであろう様々な伏線を全て投げ捨てた挙句、事件は最終的に怪物の単独犯行(?)という形で収まっていましたが、2巻以降は序盤で事件が発生すると同時に妖怪・怪物も一緒に出現し、またそれらの妖怪・怪物を操る「陰の黒幕」的な「オカルトに精通した【人間】」が最終的なラスボスとして登場するという構図でストーリーが進行するようになっています。
 また、その手のラスボスは全て権力者かお金持ちである、ということもこれまた当然のように決まっていて、たとえば全く無名の一般人がある日突然オカルト的な力を手に入れて自分なりの正義を貫いた末に薬師寺涼子一派の前に立ちはだかる、といった類のような事例は(すくなくとも8巻までは)存在しないんですよね。まあこの辺りは創竜伝から続く田中芳樹の伝統芸能なのでしょうけど(苦笑)。
 正直、読んで面白いものになっているかどうかはともかく、良くも悪くも読者が「先の展開にハラハラドキドキすることなく安心して」読めるようなテンプレート的妖怪・怪物&勧善懲悪的権力者退治なストーリーの型に収まってはいるわけで、これで作中に余計な社会評論やオカルト否定などをぶちこまなければ、たとえ凡作な出来であっても凡作なりに評価できるものにはなっていたかもしれないのでしょうけどね〜(>_<)。
 それでは、今回の考察を進行していくことに致しましょう。


薬師寺涼子の怪奇事件簿2巻「東京ナイトメア」
1998年10月5日 初版発行



薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P60上段〜P61下段
<「西太平洋」ということばで、私は思わず涼子の顔を見た。涼子がみじかく説明する。
「石油開発公団から融資を受けてる会社よ」
「石油開発公団から資金を借りるのは、いくつかの石油探査会社なんだけど、この会社そのものが、公団からの出資でつくられたものなの。社長以下、役員すべてが天下リ」
 そうつけくわえたのはジャッキーさんだ。女ことばそのままだが、きびきびした説明ぶりが、何とも奇妙な感じだった。
「しかも、石油が出なかったら、公団から借りた資金は一円も返さなくていいのよ」
「……まさか」
「あら、ほんとよ。何千億円借りていようと、石油が出なかったら一円も返さなくていいの。法律でもちゃんとそうなってるの」
 ジャッキーさんは、むずかしい表情になり、トルコ石らしい指輪をはめた太い指で書類をめくった。
「この西太平洋石油開発とかいう会社は、公団から四〇〇〇億円ほど借りてるのね。でもって、石油は一滴も出てないから、もちろん一円も返さなくていい。まじめに働いて石油が出たら借金を返さなくちゃならないんだから、何もしないで遊んでいるほうが得なわけよね。よくもつごうのいいこと考えたもんね」
「何にいくら費ったと思う?」
「さあね、でも、仮に半分しか本来の目的――油田を発見するために費っていないとすれば、二〇〇〇億円がどこかヤミに消えたってことだわね」
 これが先進国のできごとだろうか。私は頭痛がしてきた。国民が支払う税を、役人が好きかってに浪費して、罰せられることがない。そういう国を後進国というのではないだろうか。>

 創竜伝の竜堂兄弟一派もそうでしたが、薬師寺シリーズの主要キャラクターもまた、表層的な事象を表層的に眺めただけで表層的な評価を下す、という点において全く変わることがありませんね。「何故そんなことになっているのか?」ということについての検証を少しでも行ってみれば、自分達がいかに見当ハズレな前提に基づいたタワゴトをのたまっているのかが簡単に理解できるはずなのですが。
 そもそも、石油を産出する油田の開発というのは勝算の低いギャンブルのようなもので、そのほとんどが失敗に終わるものばかりです。採掘・発見自体が難しい&莫大な費用がかかるというだけでなく、たとえ石油やガスが出ても、産出量が少ない等の理由で商業ベースに乗せることができないケースも数多く、商業油田の開発成功率は全体のわずか数パーセント程度しかないというのが実情です。しかも、何とか商業生産ができるところまでこぎつけた後も、原油価格や為替相場の変動による利益減等の問題が待ち構えています。こういう多大なリスクを伴う事業は、安定した利潤が必要不可欠となる民間企業だけではとても運営できたものではありません。
 しかし、今更言うまでもなく、石油および天然ガスをはじめとするエネルギーの安定確保は、資源小国の日本にとってはまさに死活問題です。だからこそ、採算をある程度度外視してでも、国が油田開発のリスクの一部を負担し、国策としてエネルギーの安定供給を目指すという観点から、石油公団(現石油天然ガス・金属鉱物資源機構)は生まれたわけです。
 石油開発にはかくのごとく高いリスクと不採算性があるからこそ、油田開発が失敗に終わった場合や、不測の事態により石油生産が著しく減退した際には、油田開発の融資を行った開発会社の債務を減免することができる「石油開発の事情に応じた特別ルール」が法律で決められたのです。特殊な事業にはそれに応じた特別ルールが必要となるわけで、それを決めることのどこが「後進国」だというのでしょうか。


薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P82上段
<石油開発公団とは特殊法人である。特殊法人とは、国民のおさめた税金をもとにして官僚たちがつくった組織で、あくまでも「公共の利益」が目的ということになっている。だが税金を何兆円も費いながら、経理を公開することはけっしてない。ただ、官僚たちが特殊法人をやめてはすぐつぎの特殊法人につとめ、そのたびに何千万円という退職金を受けとる、ということは報道され、人々の怒りを買っている。だが官僚には市民の怒りなど通じない。その証拠に、何十回も何百回もおなじことがくりかえされ、あらためられることはない。>

 田中芳樹は特殊法人や官僚の天下りによほど恨みでも持っているのか、創竜伝13巻でも、「特殊法人はすべて廃止し、官僚の天下りは禁止」というスローガンを竜堂兄弟一派に提唱させていますし、対談本「イギリス病のすすめ」でも、イギリス貴族のノブレス・オブリッジを引き合いに出して官僚批判を展開しています。
 で、それに対応して私も「私の創竜伝考察40」「イギリス病のすすめ」考察後編でそれらの論述に対する反論を展開しているのですけど、まず特殊法人の目的が「公共の利益」であるというのは認識および説明不足もいいところで、正確には「国策として遂行すべき事業」や「収益性は低いが公共性の高い事業&業務」を遂行させるために設置された組織形態です。前述の石油開発のように、採算性を第一に考える民間の企業ではリスクやコストが大き過ぎて実施できないが国益および国民生活の観点からは必要不可欠とされる、そういう事業や業務を国が支援し、遂行するのが特殊法人の本来の目的であるわけです。それを「官僚の天下り先になっているから潰せ」というのではあまりに乱暴な発想でしょう。
 また、官僚の天下りが絶えないのは、官僚の給与が民間と比べて安く設定されている上に残業代も労働三権も認められない就労環境に根本的な原因があるのであって、特殊法人を廃止すれば解決するなどという単純な問題ではありません。官僚達だって自分の生活がかかっているのですから、その根本的な原因を除去しないまま締めつけ「だけ」を強めたところで「背に腹は変えられない」とばかりに「何十回も何百回もおなじことがくりかえされ」るのは、それこそ改められようがないでしょうに。
 特殊法人や官僚の天下りに限らず、何か問題を論じる際にはその問題の表層的な部分をただなぞるだけでなく、「何故そのようなことになっているのか?」「問題の本質や根本的な原因はどこにあるのか?」を徹底的に検証し、提示するようにしていかなければならないと私などは考えるのですが、創竜伝以来、田中芳樹がその手のことを真剣にやろうとした形跡すらも、私は全く見出すことができないのですけどね〜(>_<)。

 さて、話が少し作家論へと逸れてしまいましたが、薬師寺シリーズの方に焦点を戻しますと、ここで薬師寺涼子や泉田準一郎は、まるで他人事のように特殊法人や官僚の天下りに否定的な見解を示しているわけですが、ではこれについては石油公団以上に問題であるという認識はないのでしょうか↓

薬師寺シリーズ1巻「魔天楼」 講談社文庫版P21〜P22
<JACESの社長の娘、というだけでも、薬師寺涼子という女性には、たいへんな社会的価値があるのだ。
 もともとJACESは「大日本警備保障」という社名で、ガードマンと探偵調査の二部門を柱として活動していた。その二部門は現在、日本で最大の業績を誇っている。それに加え、各種のホームセキュリティ、損害保険、企業情報、救命医療、ビル管理システム、海外での日本人の安全確保などさまざまなビジネスの手をひろげ、創立五〇年で年商五〇〇〇億円の巨大企業となっていた。
 さらにJACESが出資して、いくつもの財団を作っている。「海外危機管理協会」だの「コンピューター・セキュリティ協会」だので、これらの財団の役員はほとんど警察官僚OBだった。JACESの創立した薬師寺正基、つまり涼子の祖父は、最初から計画的にそうやって、警察との関係を深めていったのである。>

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P11下段〜P12上段
<JACESという会社はもともと警備と探偵調査の事業からはじまったのだが、いまや巨大コンツェルンとして多角的な経営をおこなっている。アメリカの保険会社と手を組んで、生命保険や損害保険の分野にも進出した。病院、老人ホーム、護身術の教室、現金輸送会社、貸金庫、環境保全システムなど、「安全」をキーワードとして、あらゆる分野に進出している。そして、いたるところに警察OBを配置しており、社長自身から平のガードマンにいたるまで、その数は一万人にもなる。
 つまり警官にとってはたいせつな再就職先だし、知人やかつての上司、同僚がうようよいるわけだ。今後、涼子がどの程度出世するにしても、いつかかならずJACESのオーナー社長になり、OBたちの生殺与奪の全権をにぎることになる。涼子より階級の高いオエラガタが、涼子の顔色をうかがうのも当然だった。なさけないが事実は事実だ。>

 「警官にとってはたいせつな再就職先」というのはつまるところ「(警察)官僚の天下り先」以外の何物でもないわけですが、「最初から計画的に」自ら進んで警察官僚に天下りポストを提供し、警察との癒着関係を築いてきたJACESは、薬師寺涼子や泉田準一郎が「後進国」と罵る象徴的存在である特殊法人などよりもはるかに問題だらけな組織と評されなければならない存在ではないのでしょうか(苦笑)。
 しかも、所詮は薬師寺一家の「三代目どら娘」に過ぎないはずの薬師寺涼子は、この「自分自身で作ったわけではない」JACESの先人が構築した警察との癒着関係を葵の印籠のごとく振りかざして警察内で好き勝手に振舞っているだけでなく、JACESの組織や人脈を事実上私物化して数々の違法行為を繰り広げている始末です。これから考えれば、JACESおよび薬師寺涼子こそが、「頭痛がしてくる」くらいに「後進国」の象徴的存在とすら言えるではありませんか(笑)。
 実はこれこそが、1巻「魔天楼」で論じたオカルト否定すらも凌ぐ薬師寺シリーズ最大の構造的欠陥なんですよね。薬師寺シリーズの作中で展開されている社会評論モドキは、ここで論じたように、その大部分が薬師寺涼子および彼女をバックアップするJACESに跳ね返ってくる構造になっているのです。いくら薬師寺涼子や泉田準一郎が社会派を気取って俗耳に入りやすい大衆迎合的な社会評論を繰り広げたところで、薬師寺涼子の言動とJACESの基本設定を鑑みれば「お前が言うな!」「そういうツッコミは目の前の人間以上に薬師寺涼子に対してこそ行うべきだろう」で終わってしまうものばかりであるわけです。
 社会派気取りの評論がすぐさま薬師寺涼子に跳ね返る、という構図は、以下の描写にも現れています↓

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P91上段
<べつに涼子を応援するわけではないが、地球上には、涼子に追い出されてもしかたのないような王さまたちがいる。好色と巨億の富で有名な東南アジア某国の王さまを、私は思い出した。二〇〇もトイレのある宮殿を建て、トイレの水道の蛇口をすべて純金でつくったその王さまは、アメリカの美人モデルを監禁して、「きわめて非紳士的に」ふるまった。モデルは帰国後、王さまを性的虐待で告発したが、「外国の元首に対する告発は法的に不可能」という理由でしりぞけられた。富と権力に値しない王さまというのは、過去にも現在にも、童話の中にもいるものだ。>

 ここで挙げられている「好色と巨億の富で有名な東南アジア某国の王さま」というのは、ブルネイ・ダルサラーム国のハサナル・ボルキア国王(スルタン)および弟のジェフリ・ボルキア王子のことを指しています。「アメリカの美人モデル」が両者を訴えたのが1997年8月のこと。
 で、そんな元ネタ話はこの際どうでもいいことでして、ここで問題なのは「富と権力に値しない王さま」というのがそっくりそのまま薬師寺涼子にも当てはまってしまう、ということですね。さしあたっては、1巻「魔天楼」で愚劣なオカルト否定などのために高市理事長を無実の罪に陥れた、というだけでも充分以上に「紳士淑女にあるまじき極めて悪質な振る舞い」であると言わざるをえませんし、そもそも薬師寺涼子はJACESの組織力を背景に以下のような言動および所業を行っている始末ですからね〜↓

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P12上段〜P13下段
<しかも涼子はうら若い女性ながら、警察内部でひそかに「日本のJ・E・フーヴァー」と呼ばれている。
 J・E・フーヴァーはアメリカ連邦捜査局(FBI)の創立者で、「二〇世紀アメリカ最大の怪物」といわれた男だ。表の顔は、アメリカ社会をおびやかす犯罪組織や外国スパイと戦いつづけた正義のヒーロー。裏の顔は、脅迫と情報操作の達人で、自分の地位と権力を守るため多くの人々をおとしいれた陰謀家。盗聴、盗撮、手紙の無断開封などあらゆる不法な手段を使って、歴代の大統領や大物政治家の個人的な弱みをつかんでいた。その結果、フーヴァーは四八年間にわたってFBI長官の座をしめつづけ、その間、ただの一度も議会によってFBIの予算を審査されることがなかった。
 フーヴァーは巨大な組織と巨額の資金を好きかってに使い、きらいな人間には無実の罪を着せて社会的に葬り、歴代の大統領を脅迫することによって、FBI長官の地位を守りつづけた。J・F・ケネディ大統領やキング牧師の暗殺にかかわった疑惑さえある。彼が死んだとき、ときのニクソン大統領は秘密エージェントを送りこんで、多量の書類を盗み出させたという。
「あたしはFBIのフーヴァー長官を尊敬しておりますの、オホホ」
 と涼子がいったとき、まぬけな上層部は感心したのだが、ほどなく真の意味をさとって青くなった。お涼はすくなくともウソつきではなく、フーヴァー長官を見ならって、せっせと上層部のスキャンダルをさがし、弱みをつかんだ。そのやりくちは、主としてJACESの組織を使ったらしいのだが、企業秘密というわけで、真相は誰も知らない。とにかく、涼子が笑いとともにすべてのデータを公開すれば、日本警察はスキャンダルの泥沼に沈みこんで崩壊してしまう、といわれているほどだ。
 「六社会」と呼ばれる警視庁記者クラブまでもが、涼子にさまざまな弱みをつかまれている。なかには涼子を女王さまとあおいで奉仕につとめる物好きもいるので、新聞もTVも涼子に対しては全面屈伏というありさまなのだ。
 かくして、一警視のブンザイで、薬師寺涼子は日本警察を乗っとりつつあるのだった。>

 男女の性別を問わず、常日頃からこんなことを言っている&やっている人間が「富と権力に値」するかと言われれば、大いに疑問符をつけざるをえないところではあるのではないですかね、これって。泉田準一郎も、「涼子に追い出されてもしかたのないような王さまたちがいる」ことを心配するよりも先に、まずは薬師寺涼子こそが「彼らを非難する資格すらもない、法律違反と超低レベルのモラルで国外追放されてもしかたがない存在」であることを指摘すべきだと思うのですけどね〜(>_<)。
 そのくせ、一方では薬師寺涼子の行動を弁護するかのような記述が、泉田準一郎の語り部という形で作中では存在していたりします↓

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P100下段〜P101下段
<兵頭は長いこと警視庁総務部人事第一課につとめていた。ここでは、警官たちの行動を調査して、さまざまな不祥事を起こした者を、外部に知られないよう処分する。処分というのは左遷とか退任とかであって、涼子のように「消しておしまい!」ということではない。
 ミス警視庁の候補になったこともある美人の婦人警官が、道で財布をひろってそれを自分のものにしてしまった。金額は五〇万円ほど。子供を有名私立幼稚園に通わせる費用がほしくて、でき心をおこしたのである。
 どうやってか、そのことを察知した兵頭は、婦人警官に強要して肉体関係をむすんだ。それも一度ではすまなかった。夫に知られ、逆上した夫は、男の名前をいえとどなって、彼女に暴力をふるった。彼女が気づくと、手に包丁があり、夫は血の池のなかに倒れてこんでいた。死んではいなかったが、彼女は殺したと思いこんだ。彼女は子供を実家にあずけにいき、帰途、高層マンションの屋上から身を投げた……。
(中略)
 他人の弱みをにぎって脅迫するという点では、薬師寺涼子も兵頭とおなじことをしているように見える。だが決定的なちがいがあった。涼子がおどす相手は、自分より地位が上の者にかぎるのだ。私にとって、これはきわめて重大な事実だった。>

 「JACESの社長の娘」という立場を盾に好き勝手に振る舞い、その上「一警視のブンザイで日本警察を乗っとりつつある」薬師寺涼子の場合、「涼子がおどす相手は、自分より地位が上の者にかぎる」ということに一体何の意味があるというのでしょうか? 「涼子より階級の高いオエラガタが、涼子の顔色をうかがうのも当然だった」と他ならぬ泉田準一郎自身でさえ明言しているというのに(笑)。
 ここで本当に比較しなければならないのは「地位の上下」ではなく「力関係の強弱」であるはずでしょう。そして「強者が弱者の弱みを握って脅迫する」という点では、薬師寺涼子は、まさにその地位を利用して婦人警官を脅迫して自殺に追い込んだ兵頭と全く同じ行為をやっていることになるのですし、両者に「決定的なちがい」などありはしないわけです。こんな中途半端な擁護論などを展開しても、却って薬師寺涼子の問題点が浮き彫りになるだけだと思うのですけどね(苦笑)。
 作品設定上、何故薬師寺涼子にこれほどまでに強大な権力が付加されているばかりか、あたかも絶対的な独裁権力者であるかのごとき言動が展開されるのか? その理由は簡単で、警察官僚の一員である薬師寺涼子に、リナ・インバースや美神令子が持つ「何者にも縛られない自由」という特性を無理矢理与えようとしたことにあるのです。
 自由奔放な冒険者であるリナ・インバースや、ゴーストスイーパーの個人事務所を経営している美神令子と異なり、警察官僚たる薬師寺涼子には、常に自分を束縛する上司および官僚機構というシロモノが存在します。薬師寺涼子が自由奔放に振舞う際の障害となるそれらの「壁」を破壊する解決策として田中芳樹が考えたのが、「目には目を」とばかりに上司および官僚機構を力ずくで抑え込めるだけの権力と財力と暴力であり、それらを全て保持している組織を薬師寺涼子のバックにつける、というものだったのでしょう。その結果、薬師寺涼子は、権力が絶対悪視されている創竜伝からは到底考えられないほどに強大な権力と財力と暴力を行使できる存在となったわけです。
 ところが、それほどまでに強大な権力と財力と暴力を行使する立場にあるはずの薬師寺涼子およびお付きの泉田準一郎が唱える社会評論モドキの源泉は、こともあろうに権力が絶対悪視されている創竜伝レベルからただの一歩も脱却していないのです。その結果、金持ちの権力者が金持ち批判と権力批判を展開している、という自己否定的な構図が自然発生するようになってしまっているわけで、これが薬師寺シリーズにおける社会評論の大部分が、薬師寺涼子およびJACESにそっくりそのまま跳ね返ってくる最大の原因なのです。
 リナ・インバースや美神令子のごとき「何者にも縛られない自由」を薬師寺涼子の属性として付加したかったのであれば、たとえば探偵事務所を経営する個人が警察にサポート的な協力をする、という形にでもした方が、上司や官僚機構の束縛を打ち消すこともできますし、外部の身近な視点から警察を観察する、という特性もつけることができて一石二鳥かつ(社会評論を語る背景的にも)自然な設定になったでしょう。また、あくまで現行の権力者状態のままで薬師寺涼子(および泉田準一郎)に社会評論を語らせるというのであれば、むしろ権力肯定・金持ち肯定的な主張やノブレス・オブリッジ的な理論をこそ主張させるべきだったのです。そのどちらもやることなく、強大無比な権力者(およびその従者)に大衆迎合的な権力批判などを語らせたことこそが、薬師寺シリーズ最大最悪の失敗です。
 前回の薬師寺シリーズ考察で論じたオカルト否定もそうでしたし、創竜伝のストーリー破綻全般に対しても言えることですが、どうして田中芳樹はストーリーのプロットを考える際に、作品設定と作中キャラクターの言動との整合性についてこれほどまでに無思慮かつ無頓着でいられるのでしょうか?



薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P142上段〜143下段
<「大胆きわまるお嬢さんだ。なかなかみどころがある。私たちがこの建物を本拠地として何をしようとしているか、ひとつ私の口からゆっくり説明させてもらおうかね」
「必要ないわ」
 即答されて、百目鬼はめんくらったように涼子を見なおした。
「……ちょっと待て、君は我々の目的を知りたくないのか」
「べつに」
 涼子は冷淡に答え、百目鬼はさらに当惑したようすで、二度せきばらいした。
「ではいったい何のために我々のことを調べまわっているのだ。我々がここ一〇年で二〇〇〇億の資金を使って何をしているか知りたくないという。こちらこそ君の目的を知りたくなるね」
「あんたたちを再起不能なまでに痛めつけてやること。あたしがやりたいのはそれだけよ。あんたたちが何を望み、何をたくらんでいようと、あたしの知ったことじゃないわね」
 いまさら涼子の言動にいちいちおどろいてはいられない。それにしても、名探偵というものはだいたい、「私の目的は犯人を罰することではない、真実を知ることだ」というものだ。涼子は名探偵ではない、といってしまえばそれまでだが。
 由紀子が無言で肩をすくめるのを、私は見た。
「世の中には信じられない大量殺人犯の心情を理解してやらねばならない、なんていうのよね。そいつらが自分の正しさを確信しているなら、アウシュビッツで殺されたユダヤ人の遺族にお説教してやればいい。『お前たちはアドルフ・ヒットラーの心情を理解してやるべきだ』ってね。できたとしたら、えらいものだけど」>

 本当にアドルフ・ヒットラーを徹底批判したいのであれば、彼の心情をも正確に理解した上で、それをも含めた彼の思想・行動全般を叩き潰すべきなのではないのですかね? アドルフ・ヒットラーに限らず、心情や背景事情などについて全く考慮することなく、風聞と偏見だけで人を悪と断定し、人民裁判などをやらかす人間の方が、歴史的に見てもはるかに危険な存在でしょうに。
 それにしても、ここで薬師寺涼子が主張しているセリフ「あんたたちを再起不能なまでに痛めつけてやること。あたしがやりたいのはそれだけよ」は、薬師寺涼子の本性をこれ以上ないほど全て言い表しているという点において、創竜伝の竜堂兄弟一派が座右の銘にしていた「感情に基づいて行動する」に匹敵する醜悪極まりないシロモノですね。作者である田中芳樹のインタビュー記事でも「犯人をあざ笑う探偵が書きたかった」という主旨の話がありましたし、これこそが薬師寺涼子を彩る最大の魅力である、と作品的にも作者自身も主張したいところなのでしょう。
 このタワゴトが抱える致命的欠陥は、「痛めつけてやる」相手が、問答無用で「100%確実に有罪判決を下されるべき悪辣な犯人」であるという前提から出発していることにあります。「真犯人は別にいるのではないか」とか「相手は実は全くの無実OR無関係なのではないか」とか「その犯行には情状酌量の余地があるのではないか」とかいった発想の介入する余地がどこにも存在しないわけです。
 犯罪捜査の際に「こいつは犯人に違いない!」という予断と思い込みで見込み捜査を進める愚行については、他ならぬ薬師寺シリーズの中でさえきちんと指摘されているはずなのですけどねぇ〜↓

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P44上段
<だいたい日本の警察は能力的にはわりと優秀なのである。それなのに迷宮入り事件がしばしば発生するのはなぜだろう。まず最初に捜査ミスがある。「あいつが犯人だ」と思い込んで、他の可能性を無視し、その線ばかりを深追いしてしまう。結局ちがうとわかったときにはもうおそく、証拠も容疑者も消えてしまっている。>

 薬師寺涼子の犯罪捜査手法というのは、1巻の妖怪犯人電波推理もそうでしたし、実は2巻もそうなのですが、「こいつは犯人に違いない!」と最初に決めつけたら、もう他の可能性を全く顧みることなく、しかも場合によっては地道な証拠固め等の手間隙すらも省いてただひたすら一直線に突き進むだけのシロモノですからね〜(苦笑)。その点に関しては、見込み捜査によって迷宮入り事件をしばしば発生させてしまう日本警察を笑う資格など最初からないわけです。
 また、前回の薬師寺シリーズ考察でも論じたように、薬師寺涼子は1巻「魔天楼」の最後で、妖怪を使った犯罪行為を立証する証拠も証言もない高市理事長に対して、「怪物の存在は絶対に認められない」「警察と科学者がオカルトを認めちゃいけない」などという意味不明のタワゴトをほざいて無実の罪をかぶせた前科も存在します。彼はすくなくとも妖怪との因果関係が(作品の中でさえ)何ら証明されていないにもかかわらず、薬師寺涼子から「痛めつけてやる」対象にされてしまっているわけで、こんな「ヤクザの言いがかり」的な手法で痛めつけられる方はたまったものではないでしょう。
 さらに言えば、同じ殺人という犯罪行為でも、動機や背景によって裁判所が下す量刑の判決が異なる、ということが当然のごとくあるわけです。たとえば「カネが欲しい」と言う動機で犯した殺人と、「脅迫されて生命の危険を感じたから」という状況から発生した殺人を、同列に並べて同じ量刑でもって裁くのはむしろ不当です。だからこそ裁判所では、容疑者の犯行の動機や背景についても詳しく審議されるのですし、それに応じて量刑も左右されるようになっているわけです。犯罪の動機や背景は、量刑の軽重を決定する一要素としては決して軽視できるものなどではないのです。
 ミステリー系推理小説の名探偵のみならず、日本の警察でさえも「真実」や「(犯罪の)動機や背景の理解」に努めるのは、犯罪の全体像を把握することによって、誤認逮捕や冤罪の可能性を排除し、不当な量刑を容疑者に課す危険性を抑えることを目的とするためです。「【犯人】は【痛めつけてやればいい】」などという発想法は、ヨーロッパ中世の魔女狩り裁判か、時代劇に見られるような江戸時代以前のお白洲裁きレベルの前近代的水準の思考形態でしかありえないのです。
 こんな考え方の一体どこがスバラシイのか、薬師寺涼子にも田中芳樹にも問い質してやりたいところなのですけどね、私は。



 さて、2巻「東京ナイトメア」の物語終盤、陰陽師の末裔を名乗る七条熙寧なる人物がラスボスとして薬師寺涼子と対峙し、舌戦および戦闘を繰り広げることになります。
 当初、七条熙寧は薬師寺涼子に「私と結婚して対等なパートナーになろう」と迫ってきますが、薬師寺涼子は「あたしに対等のパートナーなんて必要ないの」とここぞとばかりに劣化リナ・インバースっぷりを発揮して七条熙寧のプロポーズを拒絶します。
 そして、トドメとばかりに薬師寺涼子はこんな啖呵を七条熙寧に叩きつけることになるのですが……。

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P177上段〜下段
<呼吸をととのえると、七条は涼子に問いかけたが、すでに声から余裕は失われていた。
「たいそうな自信だが、世の中には君よりすぐれた人間がいないとでもいうのか」
「もちろんいるわよ、何人か。でも、それはあんたじゃないわね」
 涼子はせせら笑った。
「あんたはさっき中神や百目鬼にお説教したわね。自分以外の者の力をあてにしてるのがみぐるしいって」
 たしかに彼はそういった。
「でも、それをいうなら、黒魔術そのものが、自分以外の者の力を借用することじゃないの。預金者からあずかったおカネを自分自身の財産と思いこんでるバカな銀行家がいるけど、あんたはそいつらとおんなじよ。ケチくさい魔術で他者の力を借用したら、いつか利子をつけて返さなきゃならないのよ。利子が高利貸しでなきゃいいけどね!」>

 あの〜、せっかく得意気になって御高説をのたまっているところを申し訳ないのですけど、「預金者からあずかったおカネを自分自身の財産と思いこんでるバカな銀行家」と黒魔術との間に、一体どんな共通項が存在するというのでしょうか?
 薬師寺涼子がたとえ話として持ち出している「バカな銀行家」の場合、預金者から「銀行」が預かったお金の所有権はあくまでも預金者のものであって、それを「自分自身の財産」として銀行および銀行家が勝手に使用することは法律的にも道徳的にも許されることではありません。だからこそ「預金者からあずかったおカネを自分自身の財産と思いこんでる銀行家」はバカと評されることになるわけです。
 しかし2巻「東京ナイトメア」で登場している黒魔術の場合、そもそも薬師寺涼子が主張している「自分以外の者の力を借用する」という前提自体が実は全く成立していないんですよね。他ならぬ薬師寺涼子自身がこんな解説を行っているせいで↓

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P180上段〜下段
<「いったい悪夢館(マルペルチュイ)というのは何ですか」
 私の問いに、涼子は、考えこむこともなく明快に答えた。
「アルファベットだとMalpertuis。ベルギーの作家ジャン・レイが紹介した黒魔術の館よ。黒魔術師の名は老カッサーブ」
「七条がとなえていた名前ですね」
「そう。老カッサーブは黒魔術を使って、退化し衰弱した異教の神々や怪物を剥製にしてたの。それを集めて閉じこめた場所がマルペルチュイ。つまり悪夢館」
 私たちはいくつめかの角を曲がった。その間にも会話はとだえない。
「七条のやつ、ヨーロッパ留学の間に、老カッサーブの黒魔術を学んできたに違いないわ。それに家伝の陰陽道やら反魂術やらを加えて、東西文化交流の実をあげたってわけね」>

 ここで薬師寺涼子が述べているように、七条熙寧が「ヨーロッパ留学の間に、老カッサーブの黒魔術を学んできたに違いない」のであれば、その黒魔術は紛れもなく七条熙寧自身の努力と学習によって勝ち取られた「自分自身の力」以外の何物でもないのですし、彼はそこからさらに「家伝の陰陽道やら反魂術やらを加えて」黒魔術に相応のアレンジを加えているわけなのですから、もはやそれは「七条熙寧オリジナルの能力」としか評しようがないでしょう。これが何故「バカな銀行家」と同じ「自分以外の者の力を借用する」ということになるのでしょうか?
 実はこの薬師寺涼子が言い放っている主張は、夏の魔術シリーズ2巻「窓辺には夜の歌」にも全く同じものが存在しています↓

夏の魔術シリーズ2巻「窓辺には夜の歌」 徳間ノベルズ版P211下段〜P212上段
<近石の声がひび割れた。尊大な帝王の仮面が一部ながら剥がれ落ちて、卑俗な小人の素顔が大気に触れた。そのありさまを見て、耕平はさとった。この男の邪悪さも尊大さも、他者の力を借りてこそのものだったのだ。卒業した大学の権威。つとめていた役所の権威。先妻の実家の門地と財力。そして魔道書からえた知識。何もかも他人の力を借りて、そしてそれを自分自身の力だと錯覚していた。あげくに、思いもよらぬ造反と抵抗に直面して、借物の力が通用しなくなると、ヒステリックに狼狽するしかなくなってしまったのだ。>

 もしかしなくても、田中芳樹はこの論法を流用して、七条熙寧の黒魔術を「自分以外の者の力を借用することじゃないの」と薬師寺涼子に主張させたのでしょう。
 しかし、夏の魔術シリーズのオカルト系能力は、熾天使(セラフィン)という異次元エネルギー生命体を自分の身体に寄生させ、寄生された人間がその力を利用することで発動されるという一定の法則が最初から一貫して存在していました。ですので、寄生体の力を利用するという一点において「自分以外の者の力を借用する」という評価は(それが妥当かどうかは別にして)とりあえずは成立しえなくもありません。
 それに対して「東京ナイトメア」の黒魔術の場合、他ならぬ薬師寺涼子自身が明言しているように、元々七条熙寧がヨーロッパ留学の際に「学んできた」ものである上に、「家伝の陰陽道やら反魂術やら」をブレンドして独自のアレンジを加えて自家薬籠のものに仕上げてまでいるわけです。七条熙寧は黒魔術を手に入れる際はもちろん、その力を行使する際にも、他者の力に依存しているのでなければ、何らかの権威を借りているということもないわけで、七条熙寧の黒魔術に対する「自分以外の者の力を借用することじゃないの」という薬師寺涼子の評価は、事実無根の捏造から生み出された極めて的外れなものであると言わざるをえません。
 さらに奇怪なのは、そのような薬師寺涼子の見当ハズレなタワゴトを、泉田準一郎もまた何の疑問を抱くことすらなく踏襲していることです↓

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P198下段〜199下段
<「七条大臣!」
 他に呼びようもないので、そう呼んだ。
「こそこそ隠れてないで出て来い。話があるんだ。あんたの頼りにしている手下どもは、もうみんなかたづけたぞ」
 安っぽいプライドを傷つけるのが、戦術的にもっとも効果がある。そう涼子はいい、彼女は正しかった。ゆらり、と影がゆれて、七条熙寧が私の前に立った。
「話とは何だね。涼子クンに見切りをつけて、私の臣下になる気にでもなったのかな」
「ご冗談を。あんたはお涼に遠くおよびないよ」
 できるだけ冷淡に、私はいってやった。七条の頬がかるく引きつるのが見えた。正直なところ、ずいぶん気味が悪かった。兵頭のみじめな死体のありさまが脳裏をよぎった。だが、涼子との打ち合わせどおりに事を運ぶほうがたいせつだ。さりげなく話をつづけた。
「あんたは黒魔術を悪用している」
 いってから、このいいかたが変なことに気づいた。黒魔術はもともと悪用するものだ。そのことにやはり気づいたか、七条は、優等生が劣等性を見下す目つきをした。私のほうは、それに気づかないふりをする。
「いっぽう、お涼のほうは警察権力を悪用している」
「おなじではないか」
「ところが、ちがうんだな。この悪夢館のなかで、警察権力なんか何の役にもたたない。あんたはあいかわらず黒魔術という他者の力を借りているが、お涼は自分だけの力であんたと戦っている」
 できるだけ憎らしげな表情をつくってみせた。が、成功したかどうかはわからない。
「だから、あんたは絶対にお涼に勝てないのさ」>

 作中記述のどこをどう見ても、「警察権力なんか何の役にもたたない」悪夢館を作り出しているのは、七条熙寧の黒魔術+陰陽道の力の産物によるものであり、前述したようにそれは七条熙寧自身の努力と学習によって獲得されたものである以上、七条熙寧もまた「自分だけの力で薬師寺涼子と戦っている」ということになるわけなのですが、何故薬師寺涼子だけ特別扱いされなければならないのでしょうか?
 第一、泉田準一郎が主張している「お涼のほうは警察権力を悪用している」には肝心な点が抜けています。正確には「お涼のほうは【JACESの組織力およびそれをバックにした】警察権力を悪用している」でしょうに(苦笑)。他ならぬ泉田準一郎自身、薬師寺涼子について作中で説明する際に、「JACESの社長の娘」という立場を背景に警察内外で好き勝手に振舞っていることを何度も強調していますし、そもそも2巻「東京ナイトメア」のストーリーで最終的に七条熙寧と対峙できたこと自体、JACESの力を背景にした警察権力濫用のやりたい放題の末に実現できたものではありませんか。
 しかも薬師寺涼子は、2巻に限らず、オカルト関連の騒動が終わった後は、常にJACESおよび警察権力を駆使して事件の後始末および真相の隠蔽を行わせています。薬師寺涼子の個人的な力だけで、そのようなことができるはずもありませんし、またその手の事後処理ができるからこそ、薬師寺涼子が「後顧の憂いなく安心して」好き勝手に振舞えるという側面も当然あるわけです。これから考えても「薬師寺涼子が自分だけの力で戦っている」などとは到底言えたものではないでしょう。
 常日頃から、それこそJACESや警察権力といった「自分以外の者の力」に依存し、他者を好き勝手に罵っておきながら、都合が良い時だけ「自分には何のバックアックもないし、自分だけの力で戦っているんだ!」と言わんばかりのポーズを取るのは止めてもらいたいですね。性別を問わず、そんなことをする奴はダブルスタンダードに満ちあふれた愚劣で醜悪な人間以外の何者でもないのですから。



 薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」の論評はこれにて終了です。
 次の考察では、薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」について論じてみたいと思います。


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