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創竜伝のエンターテイメント性
4−B

創竜伝の勧善懲悪性(2)


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No. 389
水戸黄門
NNG 1999/12/08 00:02:07
最近初めて水戸黄門を真面目に見て気付いたんですが、水戸黄門が印籠を出すタイミングは、悪代官とかの悪事をあばいて、悪代官けしかけた手下を「懲らしめた」後なんですね。

すぐに印籠を出さないのはエンターテイメントのため?竜堂兄弟も膝なんて砕かず、そこそこでやめておけば、エンターテイメントとして許容されたんでしょうか?


No. 392
竜堂兄弟を見て…
本ページ管理人 1999/12/08 01:57:45
NNGさんは書きました
> 最近初めて水戸黄門を真面目に見て気付いたんですが、水戸黄門が印籠を出すタイミングは、悪代官とかの悪事をあばいて、悪代官けしかけた手下を「懲らしめた」後なんですね。
>
> すぐに印籠を出さないのはエンターテイメントのため?竜堂兄弟も膝なんて砕かず、そこそこでやめておけば、エンターテイメントとして許容されたんでしょうか?

 この兄弟を見て、「降りかかる火の粉を払っているだけ」と見る人はいないでしょう。
 彼らのデンで行けば、肩がぶつかったという「被害」だけで、相手をボコにするのも、「降りかかる火の粉を払っているだけ」な訳で、こんなチンピラヤクザみたいなところが不快感の原因ではないかと。


No. 398
Re: 創竜伝の設定など(長文注意!)
仕立て屋 1999/12/08 19:13:20
NNGさんは書きました
> 最近初めて水戸黄門を真面目に見て気付いたんですが、水戸黄門が印籠を出すタイミングは、悪代官とかの悪事をあばいて、悪代官けしかけた手下を「懲らしめた」後なんですね。
>
> すぐに印籠を出さないのはエンターテイメントのため?竜堂兄弟も膝なんて砕かず、そこそこでやめておけば、エンターテイメントとして許容されたんでしょうか?

毎度、仕立て屋です。

はじめまして仕立て屋と申します。

これは二重基準と言われるかもしれませんが、水戸黄門の場合、いわゆる「おやくそく」と考えればよろしいかと思います。
つまり、作品の「意図」が何処にあるか考えた場合、その設定に無理がなければ、それはO.Kだということです。
水戸黄門の場合、葵の御紋を翳したときに、悪代官どもが、その威光に平伏さなければ「お話」として成立しませんが、だからといって、初っ端から御紋を出して悪代官どもが観念してしまい、殺陣のシーンが無ければ、これまた「お話」として成立しません。
そこに懲らしめというものが存在しなければ観客は納得しないのですから、作品の「意図」を考える上で、この設定は ”無理がない ”と言えます。

こうしたことは、どの勧善懲悪モノにも共通することで、ウルトラマンがいきなりスペシウム光線を出したら「お話」にならないのと同じことです。
それに水戸黄門の場合、角さん、助さんの懲悪方法は素手や峰打ちですし、模写がリアルでない分だけ凄惨さもなく安心して見ていられます。
まあ、くの一は真剣で殺ってますけど、彼女は忍ですし、その仕事の性格を考えれば、許容の範囲でしょう。逆に、忍が峰打ちなんかしていたら必然性がなく不釣合いです。 また、竜堂兄弟とやられ機動隊員との力量差は、角さん、助さんとやられ敵役のそれと比較にならないくらい大きく、彼らほどの超人性の持ち主ならば、相手の膝を蹴り砕くようなシュートぶりを発揮せずとも対象を無力化させるに苦労しないでしょう。
竜堂兄弟の戦闘目的が身に降りかかる火の粉を払うことならば、膝なんか狙うより頭たたいて昏倒させたほうがスマートですし、より効率的で、技術的にも容易です。

懲悪モノにおける設定の必然性に話を戻せば、水戸のご老公一行には悪代官らを「懲悪」する必要性を作品上認められますが、竜堂兄弟には機動隊員を「懲悪」する必要性を認められません。
機動隊員個々人は職務を遂行しているだけで悪でないのですから。
しかし、筆者が機動隊員それ自体に悪の属性を与えている場合は、話は別ですけれどね(これが真相か?)。
もちろん、「御前」など悪玉を懲悪の対象にする場合、その必要性は認められるかもしれませんが。

そもそも「身に降りかかる火の粉を払う」のが竜堂兄弟の身上ならば、竜堂兄弟が「懲悪」する必要性って一体何?って感じです。
水戸のご老公一行やウルトラマンには、悪を打ち倒し公正と平和を守る、という使命があります。
しかし、「身に降りかかる火の粉を払う」という限界からか、竜堂兄弟には良くも悪くも「懲悪」するための積極的な理念がありません。あるとすれば、個人的な憂さ晴らしぐらいか。
おそらく、田中センセの中途半端な相対化主義趣味が、竜堂兄弟に完全正義を標榜させることを避けさせ、創竜伝における「 超人的な”一般市民 ”である竜堂兄弟 VS 一般市民も内包する悪の組織」という設定と相俟って、彼らの行動理念に確固たる正当性を付与しづらくさせているのではないでしょうか。
もし、個人対悪の組織という図式でやるならば、悪の組織はその構成要員の個々にいたるまで悪でなければ、懲悪の対象足り得ません。
従って、創竜伝の場合のように悪の組織に機動隊員のような一般市民まで含まれている場合は懲悪の対象足り得りえず、主人公が懲悪の正当性を発揮しづらくなってしまいます。

組織の個々にいたるまで悪であるような典型的な敵役を考えてみれば分かりやすいのですが、一般市民が洗脳されて悪に利用されている場合、ヒーローは決して、洗脳された一般市民に危害を加えたりしませんよね。
なぜなら、ヒーローにとって倒すべき相手はあくまで敵の親玉であって一般市民ではないからです。ヒーロー自身も自覚しています。
だからこそ、ヒーローの正当性が確保されるわけです。
一方、竜堂兄弟は「身に降りかかる火の粉を振り払う」という理由から平気で一般市民である機動隊員をぶちのめしてしまいます。もし、竜堂兄弟が正義を標榜し、悪を打ち倒す義務と責任を自覚しておれば、一般市民である機動隊員に過剰な暴力を振るったりすることはあり得ないでしょう。
こうした竜堂兄弟の理不尽さの問題は「身に降りかかる火の粉を振り払う」という理念性に乏しい自己保存本能をその暴力の判断基準としているところに起因しています。
本来ならば、こうした自己保存のための実力行使と、その妥当性のチェックは両輪を為していなければなりません。正当防衛に妥当性の検討が常に付随しているのと同様です。
でなければ、ナチスのように歯止めが無くなってしまいます。
竜堂兄弟が機動隊員の膝を蹴り砕く際に感じる気持ち悪さは、彼らが自らの暴力に対する妥当性の検討も行わず、またそのことに無自覚であり、ともすれば誇りにすらしているフシが見受けられるところに有ると考えます。

しかし一方で、いちいち自らの暴力の妥当性を吟味したり、読み手に考えさせたりするような設定では、読み手はカタルシスを得られにくいとも言えます。
やはり、創竜伝のように個人対悪の組織(もしくは軍団、怪獣なども含む)の図式では、個人はあくまで正義であり、悪の組織はあくまで悪でなければ、勧善懲悪の図式は成り立ちにくいと考えます。
この図式であれば、正義のヒーローが少々無茶しても、お約束ということで許されます。っていうか許したい。
ウルトラマンがビルをぶっ壊して、ひょっとして中の市民が数百人死んでいるかもしれませんが、許したい。
実際、創竜伝の舞台設定(体制が悪で人民、市民が善であるなどという時代錯誤な設定)は、一見して勧善懲悪の図式成立の要件を満たしているように見えますが、現実の世界(平凡な一般市民も例外無く善にもなれば悪にもなりうる)と極端な遊離を引き起こしており、キャラの性格設定も正義の標榜に対する疑念と否定の意識を隠さず自己保存のみを行動原理にしていることから、上のような分かりやすい勧善懲悪の図式にはまりにくくさせています。

つまり、創竜伝の設定は、話は勧善懲悪モノの単純さを有している一方で、肝心な舞台設定と構成キャラの作りが勧善懲悪の成立を阻害しているという中途半端なものになってしまっているのです。
まあ、途中から敵役がはっきりし、勧善懲悪の図式の成立用件を満たしてきてはいるのですが、如何せん、竜堂兄弟のキャラ設定に難ありです。

因みにもし、善悪の相対化をやりたければ、やはり組織対組織(国家対国家など)の図式で設定するしかありませんね。
これならば、組織の中にただの一般市民が属していようと、組織の成立理念の対立という図式で相対化が成り立ちます。
大の為には小が犠牲になるという必要悪も成り立ちますし。良い例が銀英伝でしょうか。


ところで水戸黄門ですが、フィルム撮りからビデオ撮りに変わり、画面がセットっぽく映ってしまうせいか、なんだか舞台を見ているようで、ちゃっちい印象を受けます。個人的に残念です。


No. 400
Re: 創竜伝の設定など(長文注意!)
NNG 1999/12/08 23:26:56
ありがとうございました。
感想と言うか、竜堂兄弟に一言。
「『自制』と『自省』は共和学院の校訓じゃなかったんだっけ、始さん?」


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