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No. 3950 | ||
山本弘のSF秘密基地 「田中芳樹問題」スレッド(一部転載) | ||
冒険風ライダー | 2003/04/12 19:06 | |
少し前に、「と学会」会長・山本弘の公式サイト「山本弘のSF秘密基地」のメイン掲示板↓ http://www3.rocketbbs.com/13/bbs.cgi?id=hiro15 にて、これまでタナウツで散々論じられたテーマと全く同じ形の「田中芳樹問題」スレッドが立てられ、銀英伝や創竜伝に関する山本弘の公式見解が発表されました。 山本弘については、かなり以前に「トンデモ本を研究し、その破綻の実態をネタにして論い笑う『と学会』の会長でありながら、なぜ創竜伝を『トンデモ本』として取り上げようとしないのか?」というテーマの議論がタナウツ掲示板で行われており(ザ・ベスト「と学会と田中芳樹1−A」参照)、また柳田理科雄氏が「SPA!」誌上で連載している「空想科学研究所」で銀英伝がネタとして取り上げられた際には、下記URL先↓ http://homepage3.nifty.com/hirorin/yanagida09.htm で作品擁護に基づいた反論を展開していることなどから、「田中作品についてかなりの思い入れか何かがあるために、田中作品に対する『トンデモ認定』ができなくなっているのではないか?」という疑問の目が向けられていました。今回の件は、これまで推論で語るしかなかった山本弘の田中作品に対する基本スタンスが、公式の場で、それも山本弘自身の告白によって明らかになったという点で注目されます。 そのため、件の「田中芳樹問題」スレッドでは、タナウツ管理人である石井さんによって、「管理人の本論7 トンデモ本の世界」に対する意見・感想の提示を山本弘に希望した投稿が行われているのですが、これに関する山本弘側からのレスがつかない状態が3週間以上も続いています。しかし、件の掲示板を閲覧している限りでは、山本弘は石井さん以外の人の投稿にはきちんとレスをつけていたり、自ら積極的にスレッドを立てて新規に話題を提供したりしていることから、山本弘は管理人さんの投稿に対して意図的かつ確信犯的な無視を決め込んでいるものと考えられます。 このような反応や下記に引用するような投稿内容などから、山本弘は創竜伝のトンデモ内容を知り尽くしていながら、ストレートに批判するのを何が何でも避けようとしているフシが伺えるのですが、それはさておき、せっかく山本弘が田中作品に対する自らの公式見解を発表してくれたのですから、この件に関してこちら側でも独自に議論展開を行ってみるのも良いのではないでしょうか。 そんなわけで、まずは手始めに、件の掲示板で行われた問題の議論のログを一部こちらに転載したいと思います。 なお、議論の全容を知りたい方は、下記にスレッドの全内容が閲覧可能なURLを記載しておきますので、そちらからROMされることをお勧めします。
山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 「田中芳樹問題」スレッド http://www3.rocketbbs.com/13/bbs.cgi?id=hiro15&mode=pickup&no=8431 |
No. 3951 | |||
山本弘の作品評価基準 | |||
冒険風ライダー | 2003/04/12 19:08 | ||
さて、山本弘は過去に、映画「インディペンデンス・ディ(略称『ID4』)」を、著書や掲示板において以下のようなスタンスで評価しています↓ こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』 P267 <確かにこの映画にはトンデモない描写が多かった。科学が高度に進歩しているはずの異星人のコンピューターが、地球人が一夜で作ったC・ウィルスであっさり麻痺してしまうとか、異星人が意味もなく人類絶滅を企むとか、明らかに頭の悪い奴が書いた脚本だ。>
また、映画「アルマゲドン」のSFX的な演出や描写などについても、山本弘は以下のようなコメントを自分の掲示板に書き込んでいます。
山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 「アルマゲドン問題」スレッド http://www3.rocketbbs.com/13/bbs.cgi?id=hiro15&mode=pickup&no=3603 ここで山本弘は、「フィクション映画」であるはずの「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」の演出効果や「絵になるシーン」を狙って作られた描写に対して、「科学考証に全く耐えられない、間違いだらけのありえない描写を描き出した製作者は本物のバカだ」などと述べた挙句、そのような描写を素直に楽しんだり感動したりしている観客に対してまで「お前らは『本当のファン』などではない、バカな映画制作者の思惑通りに動く『問題のあるファン』だ」とまで罵倒するわけです。 ところが、「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」の「バカな描写」に対してここまで主張しているはずの山本弘が、同じ「フィクション」というカテゴリーに属しているはずの銀英伝に対しては、とても同一人物が発言しているとは思えないほどの正反対な主張を展開しています↓ http://homepage3.nifty.com/hirorin/yanagida09.htm 柳田理科雄・作『ぎんがえーゆーでんせつ』の奇怪な世界! <さて、田中芳樹『銀河英雄伝説』の話である。 この作品の画期的な点は、そうした科学的厳密性をすっぱり捨て去り、艦隊戦を地上戦(それも19世紀以前の騎馬や歩兵による戦闘)の比喩で描いたことである。これは決して作者の無知ゆえではない。科学的に正確に宇宙戦闘を行なうのはきわめて困難であり、たとえうまく描けたとしても、難解すぎて読者に理解できないものになる可能性が高い。巨大怪獣映画を作る際に物理学や生物学を無視せざるを得ないのと同じで、どうしても宇宙で艦隊戦をやりたいのなら、科学的厳密さにはあえて目をつぶるしかないのである。 しかし、科学的な不正確さはこの作品の欠点ではない。『銀英伝』の魅力はそんなところにあるのではないからだ。大勢の個性的なキャラクターたちが織りなすドラマ、智将同士が火花を散らす戦いの面白さ、宇宙的スケールの野心や謀略、ヤンがユリアンやフレデリカに洩らす愚痴の楽しさ、現実の政治や歴史に対する作者のアイロニー、そこかしこにちりばめられたユーモア……それらすべてが『銀英伝』の魅力であり、人気の秘密なのだ。> 山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 山本弘の投稿No.8431より抜粋 <もしあなたが「田中芳樹は本当に無知なのだ。慣性の法則も知らずにデタラメな宇宙戦闘を描いている」と主張されるのであれば、それこそ証拠を示さなくてはならないのではありませんか? そうではなく「慣性の法則ぐらいは知っているかもしれないが、他にも間違っているところがあるだろう」と言われるのであれば、「確かにそうですね。でも面白いからいいでしょ?」と言っておきます。> はて、こんなことが「フィクション作品」に対して述べることができるのであれば、先に山本弘が舌鋒鋭く批判していた「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」の「バカな描写」を描いた「バカな製作者」もまた、山本弘の主張に対して「確かにそうですね。でも面白いからいいでしょ?」と簡単に返すことができるのではないでしょうか? 実際、「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」の「バカな描写」を素直に「面白い」と思ったり、「親子愛」や「自己犠牲」的なストーリーに感動したりした観客は決して少なくはないのですし、そのような観客によって両映画は莫大な興行収益を稼ぐことができたのですから。媒体は違えど、本質的には同じ「SF系フィクション」というエンターテイメント作品に属し、しかも同じくらいに「科学考証無視のバカな描写」が少なからず存在する両作品の間に、何故かくのごとき評価の違いが生じなければならないのでしょうか? また仮に「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」の論評の方が正しいというのであれば、銀英伝に対しても、 <確かにこの小説にはトンデモない描写が多かった。科学が高度に進歩しているはずの未来世界で、宇宙航行を限定する2つの回廊が存在するとか、携帯用のレールガンが存在するとか、宇宙の全ての惑星が同月同日で季節の変化も同一であるとか、氷塊が一恒星系内で一気に亜光速航行に達して軍事衛星を破壊するとか、作中人物が孤立した要塞で何十年間も外部補給なしで籠城することを当然視しているとか、明らかに頭の悪い奴が書いた小説だ。> <読者の知能にあわせて間違った描写をする――そんな原作者や小説家が本当にいるのなら、僕は軽蔑します。そんな奴は人間として最低。そんな奴が作った小説に感動する読者も問題あり。 でも、『銀英伝』はたぶんそうじゃないと思います。だって、いくら何でも「宇宙空間であのような形式の艦隊戦が展開できる」と思ってる読者はそう多くないだろうし、それに合わせて作中の様々に矛盾している戦闘描写を描いたというなら、それ以外の賢い読者にバカにされるであろうことをまったく計算していなかったわけで、これは本物のバカです(^^;)> <他にも細かいことを言い出せば、何十箇所もツッコミどころがあります。 これって、作ってる小説家が何も考えてないことの、まぎれもない証明ではないのですか? これだけの証拠があるにもかかわらず、なおかつ「この小説家は頭がいい」と主張する人は、現実を見失っているとしか思えないのですが。> ↑といった類の主張が間違いなく言えるはずですし、そういった「科学考証無視のバカな描写」に気づかず、「大勢の個性的なキャラクターたちが織りなすドラマ、智将同士が火花を散らす戦いの面白さ、宇宙的スケールの野心や謀略、ヤンがユリアンやフレデリカに洩らす愚痴の楽しさ、現実の政治や歴史に対する作者のアイロニー、そこかしこにちりばめられたユーモア」などを素直に楽しんだり感動したりしている銀英伝読者は、当然のことながら「その作品の欠点がどこにあるか分かっていない人」ということになるわけですから、「本当のファンではなく、バカな小説家の思惑通りに動くバカなファンである」と評されることになるはずでしょう。もし山本弘が「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」に対する自分の評価基準があくまでも正しいと思うのであれば、なぜ銀英伝に対しても同じ基準を当てはめて論評しようとしないのでしょうか? 山本弘の銀英伝評価と、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価は、一方を尊重すれば他方が確実に破綻する関係にあるわけです。こういうのを一般的には「ダブルスタンダード」と呼ぶのではないでしょうかね。 そして、山本弘の創竜伝評価についてですが、こちらに関しても、そもそも「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」の「フィクション描写」と「製作者」をアレほどまでに糞味噌に評価した人が、創竜伝に関して、 山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 山本弘の投稿No.8431より抜粋 <田中氏の作品(特に『創竜伝』など)では、フィクションの設定と作者自身の生の主張がごちゃ混ぜに出てくるので、混乱することがあります。しかし、読者もそれに引きずられて、「田中芳樹はこんなバカなことを信じている」と安直に信じこむのはまずいでしょう。 たとえば地下鉄サリン事件の頃、オウム真理教の機関誌に「四人姉妹は実在する」という記事が載ったことがあります。その記事を書いた奴は、田中氏が小説を通して真実を暴露しているのだと主張していました。 僕は田中氏に直接お会いしたことがありますけど(文庫版『創竜伝』8巻の巻末対談参照)、「四人姉妹」は実在しないと断言されていました。「実在するんだったら僕はとっくに消されてるんじゃないかと思うけど(笑)」と。そりゃそうですわな。 小説家というのは嘘をつくのが商売です。僕だってしょっちゅう嘘を書きます。 だから、小説家の書くことはとりあえず信じないのが、読者として正しい態度です。先のオウム信者の例のように、安易に信じこまれてしまうのは大変に迷惑ですから。> ↑などと述べたところで全く説得力はないでしょう。「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」を評価した手法を用いれば、創竜伝に対してもまた、 <確かにこの小説にはトンデモない描写が多かった。現代世界を舞台にしている小説中で、人間がドラゴンに変身するとか、そのドラゴンが重力制御やソニックビーム・気象制御などの超常的な現象を単体で発生させるとか、現代文明の水準をはるかに上回る技術で動く宝貝やタイムマシンが仙界や天界に存在するとか、人間世界が少数の特定財閥や牛の怪物に支配されているとか、全ての歴史的事件が影の黒幕の陰謀によって操られているとか、明らかに頭の悪い奴が書いた小説だ。> <読者の知能にあわせて間違った描写をする――そんな原作者や小説家が本当にいるのなら、僕は軽蔑します。そんな奴は人間として最低。そんな奴が作った小説に感動する読者も問題あり。 でも、『創竜伝』はたぶんそうじゃないと思います。だって、いくら何でも「輪廻転生が実在する」と思ってる読者はそう多くないだろうし、それに合わせて超常的な力を好き勝手に行使する主人公を描いたというなら、それ以外の賢い読者にバカにされるであろうことをまったく計算していなかったわけで、これは本物のバカです(^^;)> <他にも細かいことを言い出せば、何十箇所もツッコミどころがあります。 これって、作ってる小説家が何も考えてないことの、まぎれもない証明ではないのですか? これだけの証拠があるにもかかわらず、なおかつ「この小説家は頭がいい」と主張する人は、現実を見失っているとしか思えないのですが。> ↑というツッコミがいとも簡単にできるはずですし、山本弘が「本当に熱心な田中芳樹ファン」を自負するのであれば当然行わなければならないことであるはずでしょう。「その作品の欠点がどこにあるか分かっていない人は、本当のファンではない」などと述べているのは他ならぬ山本弘自身なのですから。 「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」の科学考証ミス程度のレベルであそこまで糞味噌に作品と製作者を叩けるのであれば、創竜伝などそもそも最初から論外であるはずなのですから、本来ならば、「小説家の書くことはとりあえず信じないのが、読者として正しい態度です」だの「作家がフィクションの中で書くことは、どこまで本気なのか?」だのと、能天気なテーマなどを語っている場合などではないはずなのですが。 もちろん、田中芳樹は創竜伝8巻文庫本における山本弘との対談でも言明している通り、創竜伝に書かれているその手のオカルトや陰謀論的な作品設定や作中描写を本心から信じているわけではないでしょう。しかし創竜伝の場合、田中芳樹のその「オカルトや陰謀論を否定するスタンス」が、本来「オカルトや陰謀論が存在する作品」の中でさえ開陳されてしまうからこそ、ストーリーの流れや設定がおかしくなってしまうのではありませんか。そしてその象徴が、「管理人の本論7 トンデモ本の世界」でも言及されている「月と空気のエピソード」であり、また倉本さんが指摘された「ランバート・クラークと鳥羽茉理による『輪廻転生』を巡る会話シーン」なのです。 そしてそれ以外にも、創竜伝では「管理人の本論3・5・8・9・10」の批判内容に象徴されるように、本来のストーリーの流れとは全く無関係の社会評論を大量に垂れ流されることによって、ストーリーや作品設定・世界観などを悪戯に崩壊させられている上、田中芳樹関連のインタビュー記事やエッセイ・対談本などの中には、それらの評論が田中芳樹個人の本心であり、かつ読者に対して社会問題を訴える明確な意図をもって書いている旨を自ら告白しているものすら存在するのです。今更言うまでもありませんが、これらは「フィクション小説」のカテゴリーに到底収まるものではありえません。 まさか山本弘はこれらの描写の矛盾や問題点に全く気づかなかったわけではありますまい? もし気づかなかったというのであれば、「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」評で述べていた論理から言えば、山本弘は「実は田中芳樹の本当に熱心なファンではなく、バカな小説家の思惑通りに動く『問題のあるファン』だ」ということになってしまいますし、気づいていたけどあえてツッコミを入れなかったというのであれば、「と学会」会長の看板が泣こうというものでしょう。 「と学会」会長の地位にあり、「田中芳樹の熱心なファン」として知られ、しかもアレほどまでに「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」のフィクション描写および製作者を舌鋒鋭く批判しただけでなく、ファンに対してまで「作品の欠陥にいちいちツッコミを入れるのが『本当に熱心なファン』である」などといった定義を行ったり、山本弘曰く「『バカな描写』を描く『バカな製作者』が作った『トンデモ映画』」を素直に楽しんでいる人達を一方的に「問題のあるファン」などと罵倒したりしていたはずの山本弘が、何故創竜伝のトンデモ性を全く問題視しようとしないのか、私には非常に不思議に思えてなりません。 まさか、ただ単に「個人的な作品の好き嫌い」を理屈付けするだけのために、作品毎にデタラメな評価基準を当てはめているとは考えたくないところなのですが……。 |
No. 3952 | |
山本弘による「創竜伝擁護論」の実態 | |
冒険風ライダー | 2003/04/12 19:09 |
ところで山本弘は、山本弘の掲示板で管理人さんが質問した「管理人の本論7 トンデモ本の世界」で取り上げている「月と空気のエピソード」については、どう見ても意図的としか思えない無視を決め込んでおきながら、「ランバート・クラークと鳥羽茉理による『輪廻転生』を巡る会話シーン」については全く無視することなく、作品擁護に基づいた回答を行っております。 この対応自体も正直どうかとは思うのですけど、それ以前の問題として、そもそも山本弘の論は作品擁護に全くなっていないばかりか、「問題のある描写を意図的に隠蔽する」という最低最悪の所業を、「結果として」自分から進んで行ってしまっている論と化している始末なのです。 問題の「ランバート・クラークと鳥羽茉理による『輪廻転生』を巡る会話シーン」は、以下のような文章で構成されています↓ 創竜伝6巻 P108下段〜P109下段 <クラークは彼にしかできない笑いかたをした。笑いを半分おさめ、彼はあらためて茉理見やった。そして発せられた質問は、かなり風変わりなものだった。 「前世というやつを信じるかい、ミス・トバ」 「いいえ」 「輪廻転生というやつは?」 「ばかばかしいと思うわ」 厳しい口調で茉理が断言すると、クラークは異議ありげな表情をした。 「だがチベット仏教の法王たるダライ・ラマは代々、輪廻転生をくりかえし、不死の人としてチベット人に厚く尊崇されている。君だって知ってるだろう」 「代々のダライ・ラマのうち、チベット人に殺された人が何人もいるのご存じ?」 「うん、まあね、知ってはいるが・・・」 クラークが口をにごす。それと対照的に、茉理の口調は明快だった。 「自分の前世を知ってると称する人の話を聞くと、ほんとに不思議なのよね。前世では名もない庶民だったって人がひとりもいないんだもの。みんな前世では有名な英雄や芸術家だったり、お姫様だったりするのよ。家柄自慢もばかばかしいけど、前世自慢だってくだらないわ。現在の自分自身にそれほど自信がないのかしら」 「東洋人である君が輪廻転生を信じず、西洋人であるぼくのほうが信じているとはね。皮肉だな。だが魂の不滅については、別にぼくがいまさらいいだす必要もなく、古代から多くの賢者がね・・・」> ↑これに対して山本弘は、次のような創竜伝擁護論を展開しています↓ 山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 山本弘の投稿No.8654より抜粋 <でも、ちょっと待ってください。この時点で、彼女は転生が存在することを知ってるんですか? この時点での茉理は、自分が太真王夫人の転生であることを知りません。それが判明するのは8巻です。 もちろん彼女は、竜堂兄弟が竜に変身する力を持っていることは知っています。でも、それについての説明を彼らに要求したことはありません。始たちが自分たちの前世について彼女に説明する場面も、1〜5巻を読む限り、見当たりませんでした(見落としていたならごめんなさい)。彼らの能力が体内に流れる竜種の血であることは知っていても、「転生」という概念には結びつけていないんじゃないでしょうか?> 残念ながら、この山本弘の主張には故意にか否か、重要な要素の見落としが少なからず存在します。「その作品の欠点がどこにあるか分かっていて、いちいちツッコミを入れる人が、本当に熱心なファンである」という山本弘自身のファン定義から言えば、山本弘は「本当の田中芳樹ファン」などではないということになってしまいますね。 まず第一に、件の会話が行われる時点で、「鳥羽茉理が『輪廻転生』の存在を全く知らず、かつ竜堂兄弟の事例とも関連付けられない」という主張自体が間違いです。確かに鳥羽茉理自身の出生の秘密が「作中で公式に」判明するのは8巻であり、それを鳥羽茉理が知ることになるのは9巻なのですが、竜堂兄弟の「輪廻転生」の話についてはすでに創竜伝1巻の時点で出てきているのですし、創竜伝3巻では、どう読んでも竜堂兄弟が自らの「前世」を鳥羽茉理の面前で堂々と誇示しているとしか思えない描写が存在するのです。 その証拠は以下の記述です↓ 創竜伝3巻 P192上段 <「余、いや、北海黒竜王敖炎。東海青竜王敖広が竜王の長として命じる。西海白竜王敖閏を正気にもどし、その矯激をおさえ、もって乱を治に返せ。よいな」 その厳格な命令を受けて、余のほうも首筋を伸ばした。まっすぐ兄を見あげる。 「はい、ご命令どおりにいたします」 意識してか否か、言葉づかいまであらためている。うなづいて、始は末弟の前に両ひざをつき、その額に掌をあてた。 「茉理ちゃん、家長の命令は絶対です。ぼくだって兄さんに命令されれば、どんなことだってしますよ。竜に命令できるのは竜だけなんです」 茉理の肩に手をおいて、続は、おだやかだが確乎たる声でいった。> この場面の後、竜堂始は、竜堂余をオカルティックな暗示だか催眠術だかをかけることによって竜に変身させるわけですが、ここで竜堂始が口にしている「北海黒竜王敖炎」「東海青竜王敖広」「西海白竜王敖閏」という単語は、今更言うまでもなく「創竜伝1巻で竜堂始が船津忠義から聞いた、竜堂兄弟達の前世における名前」です。 もちろん、傍らにいた鳥羽茉理にも竜堂始の言葉ははっきりと聞こえたでしょうし、「中国古典などを読んで名前自体は知っていた」ということはあるにせよ、すくなくとも日常生活の中で鳥羽茉理がそのような名前を聞いたことは今まで一度もなかったはずです。今まで聴いたこともなかったはずのこれらの単語を、さも当然のように並べ立てていた竜堂始の言動を、鳥羽茉理は何ら不審には思わなかったのでしょうか? しかも、この時は同時に竜堂兄弟が竜に変身する場面もまた初めて「眼前で」目撃しているわけですし、鳥羽茉理の立場で常識的に考えれば、後日にでも竜堂兄弟に一切合財の事情説明を求めるのが自然な流れというものでしょう。 それに、すでに竜に変身するところを目撃され、前世の名前さえも聞かれてしまっているというのに、今更そのオマケ的なエピソードでしかない「前世話」を竜堂兄弟が鳥羽茉理にわざわざ隠さなければならない理由が一体どこに存在するというのでしょうか。たとえ竜堂兄弟達が半信半疑であったとしても、「以前に会った船津忠義がこんなことを述べていたのだが……」といった類の前置きでも添えた上で事情を説明することぐらいはできたはずです。それがたとえ「仮説のひとつ」でしかなかったとしても、その時点では最も有力な仮説であり、かつそれを全否定する根拠も代案もない以上、竜堂兄弟が鳥羽茉理に対して「前世話」を話してはいけない理由などどこにも存在しないでしょう。 また、創竜伝4巻および6巻では、鳥羽茉理自身が鳥を操って敵を撃退したり威嚇したりする描写も存在します↓ 創竜伝4巻 P211下段〜P212上段 <「いったい何ごとがおこったんだ」 「見てのとおりさ、鳥が助けてくれたらしい」 「おれたちを?」 「いや、おれたちはついでだな。助けたのは……たぶん、お姫さまだ」 3人の男は、六本の視線を鳥羽茉理に向けた。茉理は松永君を抱いたまま、やや呆然とたたずんでいたが、われに帰ったように、子犬を地面におろした。三人の男は彼女のもとに歩みよった。 「鳥羽君、君はいったい何者なんだ」 どう質問したらよいものか判断がつかず、ごく平凡に蜃海が尋ねると、茉理は、答えるに先だって前髪を指でかきあげた。 「さあ、昨日ぐらいまではわかっていたつもりだけど、ちょっと自信がなくなっちゃいました。わたしって、うーん、何者なのかしらね」 笑ったが、笑いをおさめると、茉理は、自分の姓について、ふと思いをめぐらした。彼女の姓は鳥羽で、いま彼女と仲間を救ってくれたのは羽族(鳥)の群だったのだ。ほんとうに、自分は何者なのだろう。> 創竜伝6巻 P62上段〜下段 <「だめよ、あなたたち、手を出さないで!」 茉理の言葉は、鳥と人間と、どちらに向けられたのか、とっさに誰にも判断がつかなかった。意識的にそうしたのだ。最初、ウェストバージニア州の山中で鳥の大群に救われただけなら、一〇〇万回にひとつの偶然であったかもしれない。だが、いまこのような状況を見ると、けっして偶然ではありえなかった。鳥たちは茉理と仲間を守りに来たのだ。「自分は何者だろう」という疑問が、茉理の胸奥で強さと濃さを増した。> 自ら特殊能力を行使した挙句、自分自身に対して「自分は何者なのだろう」などといった問いかけまで行っているのですから、竜堂兄弟の前世話を知っているのであれば、ただそれだけですぐさま真相にたどり着くことはないにせよ、自分の特殊能力や出生の秘密を、血筋の近い竜堂兄弟のそれと関連付けて考えることくらいはできるでしょうし、仮に万が一知らなかったとしても、やはり自分の特殊能力や出生の秘密について少しは疑問を抱くのが当然なのではありませんか? さらに創竜伝9巻で、鳥羽茉理が竜堂兄弟から「自らの転生」について教えられた際にも、彼女はただひたすら自分のことについてのみ驚いているばかりで、「竜堂兄弟の転生」については何ら言及している形跡がありません↓ 創竜伝9巻 P45下段〜P46上段 <「これまで一八年と何ヵ月か人間をやっててよ、急に、お前は実は仙界の住人なんだっていわれてもねえ。自分で信じこんでいた血液型が実はちがっていた、というのはありふれた話だけど」 自分が神話や伝説に名高い西王母の末娘だ、と先夜知らされて、茉理はさすがに落ちつかなかった。自分の身体が自分のものでないような気がする。 「以前に茉理ちゃんはいってくれただろ、どんなことがあってもおれはおれだって。同じことじゃないか」 「うーん、わたしも偉そうなこといったものよね。自分自身のことじゃないとなると、人間、冷静になれるものだわ。反省してます」 「反省なんてする必要はないだろう」 終に対しては毎日、反省をうながしている始だが、従妹に対してはそういった。> もしこの時初めて鳥羽茉理が「竜堂兄弟の転生」も同時に知ったというのであれば、それは鳥羽茉理にとって、自分の出自と同じくらいに驚くべきことであるはずなのですし、竜堂兄弟が結果として「鳥羽茉理に知らせるべきことを隠していた」ということにもなりかねないのですから、「竜堂兄弟の転生」についてもある程度言及する描写があって然るべきでしょう。これだけの状況証拠がありながら、鳥羽茉理が「竜堂兄弟の転生」について「全く」何も知らないというのは、作品論的に見ても辻褄が合わないように思われるのですが。 そもそも、事情説明のシーンなんて、せいぜい「かくかくしかじか」的な記述のひとつもあればそれで充分に事足りるのですし、しかも前述のように鳥羽茉理自身が竜堂兄弟の前世の名前と変身シーンを目の当たりにしている描写が作中にきちんと存在しているのですから、作者である田中芳樹自身が「それで充分」と考えてあえて省略した可能性が高いですし、作中でただの一度も、鳥羽茉理が竜堂兄弟の前世関連や変身関連の言動や行動について何ら疑問を抱いていないところから見ても、「竜堂兄弟の力やその起源に関しては、全てとは言わないまでもある程度の説明はなされている」と考えるのが妥当な解釈というものでしょう。 すくなくともあの時点における鳥羽茉理が、「輪廻転生の存在を全く知らず、かつ自分自身や竜堂兄弟の出生について全く疑問を感じる必要のない立場であった」ということは全くありえないのです。 そして第二の問題点は、「輪廻転生が存在する」という前提で成り立っている創竜伝世界と鳥羽茉理発言との整合性が全く取れていないことです。これは「鳥羽茉理がいつ『輪廻転生』の存在を知るのか?」という問題とは全く無関係に発生するものです。 すくなくとも創竜伝世界においては、鳥羽茉理自身および竜堂兄弟の事例によって「輪廻転生」が「実在」していることが確認されています。そして「輪廻転生」に関する伏線は、創竜伝1巻の頃から読者や作中のキャラクターに対して提示されていますし、遅くとも創竜伝8巻にはそれが「公式の設定」として作中でも正式に定着することになります。ならば件の会話で、「輪廻転生」を肯定しているランバート・クラークに対して「ばかばかしいと思うわ」とまで啖呵を切ってみせた鳥羽茉理は、結果的には何ら根拠のない「非科学的な」主張と誹謗中傷を、それも「敵」の眼前で開陳するなどという愚行を自分からやらかしてしまったも同然ではありませんか。 鳥羽茉理は件のランバート・クラークとの会話で輪廻転生を否定する際に、チベットのダライ・ラマだの「自分の前世を知ってると称する人」だのといった人々を徹底的にこき下ろしています。しかし、「輪廻転生」の実在が確認されている創竜伝世界を前提に、鳥羽茉理自身や竜堂兄弟が抱えている「輪廻転生」の境遇を当てはめて考えてみれば、鳥羽茉理が一方的にこき下ろしていたチベットのダライ・ラマや「自分の前世を知ってると称する人」もまた、実は単に「自分の前世はこうだった」という事実を淡々と述べていただけであって、鳥羽茉理が言うような前世自慢でも何でもなかったという可能性すら出てくるではありませんか。この時点で、鳥羽茉理が主張する「輪廻転生は一切存在しない」は、すくなくとも「輪廻転生」が実在している創竜伝世界においては全く成立しえないことになってしまうのです。 にもかかわらず、鳥羽茉理は「輪廻転生は一切存在しない」などという「創竜伝世界においては間違った前提」に基づいて他人を一方的にこき下ろしているわけです。これは創竜伝世界においては「根拠のない誹謗中傷」以外の何物でもないのですし、鳥羽茉理は「創竜伝世界においては正しい前提」である「輪廻転生の肯定」を行っているランバート・クラークの面前で、結果として自爆発言を行っていたことにもなるわけで、これは小説の描写としては大いに問題があると言わざるをえないでしょう。 しかも、創竜伝の作中で語られている鳥羽茉理や竜堂兄弟の前世の実態というのは、まさに件の会話で鳥羽茉理が「安易に「前世」などというものを信じこむ人間」をこき下ろした内容そのものです。何しろ「自分の前世を知ってると称する」キャラクター達の前世を見てみると、そこには「名もない庶民だったって人がひとりもいない」上に「みんな前世では有名な英雄や芸術家だったり、お姫様だったりする」というのですから。そのような自分達の境遇を目の当たりにしてなお「輪廻転生」を「前世自慢」として否定するというのであれば、「家柄自慢もばかばかしいけど、前世自慢だってくだらないわ。現在の自分自身にそれほど自信がないのかしら」という件の鳥羽茉理の発言が、鳥羽茉理や竜堂兄弟自身にそっくりそのまま跳ね返ってしまうことにもなりかねません。 そして何よりも重要なのは、鳥羽茉理が自らの出生の秘密が明らかになった後でさえ、件の会話で発言した自らの主張内容の致命的な大間違いを何ら総括することなく、全て「なかったこと」にしているかのような態度を取り続けていることです。その結果、創竜伝世界では全く成立しえないはずの「輪廻転生」否定論が、創竜伝の作中で一度も撤回されることなく機能し続けていることになってしまっており、それが創竜伝の世界観やストーリー・キャラクター設定との整合性に対して大きな害毒を与えているのです。 以上の理由から、「輪廻転生」否定論が、すくなくとも「輪廻転生の実在を前提としている『フィクションとしての創竜伝世界』」においては何ら機能しないどころか、むしろ創竜伝という作品に対して著しい矛盾と弊害を与えることは明白なのです。 さらに、実はこれが一番の問題となるのですが、上記で指摘したような設定破綻は、果たして「作家としての視点」から見て全く予測しえなかった類のものなのでしょうか? 普通に考えれば、ストーリーのプロットを作成している段階で、件の「輪廻転生」否定論が、「輪廻転生」を前提にして成り立っている作中キャラクター達に対する痛烈な皮肉、下手をすればキャラクターとしての存在意義そのものの否定にすらなってしまうということくらい、誰だって簡単に気づきそうなものでしょう。ましてや、創竜伝1巻の頃から「輪廻転生」を伏線として提示し、かつ最終的には作中キャラクター達もそれを知ることになっているのであればなおのことです。 にもかかわらず、なぜ作品のコンセプトとは全く相容れない「輪廻転生」否定論などが作中に挿入されてしまうのか? それは「輪廻転生」否定論が「現実世界における作者個人の考え」であり、それを「現実世界の読者」に対するメッセージとして伝えることが、小説のストーリーや世界観、それにキャラクター設定などの整合性を保つことよりも、作者の中では優先されるべき目標となっていることが何よりの原因なのです。 だからこそ、ストーリーの流れとも作中設定とも無関係どころか、むしろ完全に相反するような論がしばしば作中の中で開陳されてしまい、結果として作品内容が支離滅裂になり、全体的な出来も著しく悪くなる。これこそが、創竜伝という作品を蝕む構造的な問題なのです。 「田中芳樹ファン」を自負し、「その作品の欠点がどこにあるか分かっていない人は、本当のファンではない」とまで豪語しているはずの山本弘ともあろうものが、創竜伝が抱えるこんな問題さえも分からないというのでは、やはり「と学会会長」と「田中芳樹ファン」という2つの看板が泣こうというものではありませんか。 「と学会会長」と「田中芳樹ファン」としての面目を保つためにも、山本弘には是非とも「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」批判で垣間見せた舌鋒鋭い批判手法を、田中作品に対してもまた披露して頂きたいものなのですが。 P.S. そうそう、創竜伝3巻を読み直していて、こんなパロディを思いつきました。 竜堂兄弟が最近の某SFX系ハリウッド映画のビデオを見て喜んでいるのを見て、怒り狂う花井夫人と、花井氏の会話。 >「しかしね、お前、あれは映画だよ。現実じゃないんだ。実際に大都市を狙ったように隕石が落ちてきて街を壊滅させてしまったら、そりゃ赦せないが、つくりごとのお話じゃないか」 >「お話でも赦せないわっ」 (中略) >「そういうお話をつくったり見たりするという行為、そういう行為をしようという思想が赦せないのよ! 科学考証を無視してでも大都市に隕石を落下させればバカな観客が素直に喜んでお金を落としてくれるなどと安直に思っているから、あんな映画を作ったりするのよっ。イ○ディ■ン△ンス・□ィやア▼●ゲ×ンのような映画をつくる者も見る者も、危険思想の持主に決まってるわっ」 >「…………」 >「だいたい、あなたは何でそう寛大なのっ。偉大な科学考証をないがしろにしたバカな映画は、あなたが映画館で支払った映画料金でつくられてるのよっ。そんなものが大ヒットしているのに、どうして怒らないのっ」 > お前とちがって、ちゃんと現実とフィクションの区別がつくからだよ、と、花井氏は答えた。心の中で。(後略) ……もしかして、本当にこういうことを言ってきた観客がいるのかな?(笑) |
No. 3954 | |
なるほど「ダブルスタンダード」 | |
パンツァー | 2003/04/13 00:30 |
> 山本弘の銀英伝評価と、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価は、一方を尊重すれば他方が確実に破綻する関係にあるわけです。こういうのを一般的には「ダブルスタンダード」と呼ぶのではないでしょうかね。 冒険風ライダーさんは、 よくもすばらしく、このような分析をすることができるものです。 まったく、感嘆です。 この冒険風ライダーさんの投稿内容を読む限りでは、田中芳樹氏と山本弘氏とは、思考パターンが一致する部分がありそうですね。 私は、この掲示板を見るまで、田中芳樹氏のことは良く知らず、知っていた作品も銀英伝のみで、どちらかといえば好意的評価を持っていたものです。 ところが、そのような認識が誤りであることを、本掲示板の管理人さんおよび冒険風ライダーさんの諸意見により、まざまざと実感させられた次第です。 (銀英伝しか読んでないせいもあるかと思いますが) 引用個所を忘れましたが、田中芳樹氏は「日本の左翼」というより「中国の右翼」、という冒険風ライダーさんの指摘には、まったく目の覚める思いがしました。 銀英伝中において、同盟がもろくも専制の帝国に敗れるストーリーは、民主主義国家の一員として権利と義務とを読者に再確認させるような、現実社会に対する優れたアンチテーゼとして設定されたものかと、私は考えていたのです。そうではなく、単に中国的ラインハルト王朝を勝たせたかっただけ、という結論が提示されるに至って、ここでも私は、田中芳樹氏に対する幻滅を感じたのです。 (もっとも、それでも銀英伝自体には、一作品として見事である、というふうに考えております。「アスターテ会戦」の投稿で述べたような不満点ばかりではありません。) また、 この掲示板中で、田中芳樹氏と小林よしのり氏とを同列にならべるが如き意見を見ましたが、「ダブルスタンダード」を用いるか用いないか、という基準で見るならば、両人は、まったく異なるものです。 小林よしのり氏は、本人が述べているように、以前は、朝日新聞に代表されるような「サヨク」(本人使用のカタカナ表記とする)に賛成する立場だったにも関わらず、それに対立する意見を深く知るにあたって、「転向」したわけです。 この「転向」しうる、という事実が意味するところに、私は、小林よしのり氏の「正しさ」を感じるのです。 つまり、「より優れた意見」に出合ったならば、現時点で自分が持っている考え方を放棄するだけの度量を、小林よしのり氏が持っていることを意味するのです。 そしてこれは、自らが持っている基準を、正直に告白し、その基準に基づいてのみ意見の構築を図っている人にのみ、見られる姿勢です。この種の人は、自らの基準を、明示しているのです。 一方、「ダブルスタンダード」を用いる人は、基本的には、自らの基準を隠している人です。 田中芳樹氏の場合であれば、「中国の美化」という基準が存在しているのでしょう(冒険風ライダーさん等の過去ロクを参考にしております)。 「隠している」というのは、田中芳樹氏が、例えば、民主主義とか、イギリスや日本の姿やその精神構造といったテーマ(価値)を論じていながら、その価値自体を論じているわけではなく、別の価値基準「中国の美化」のための、「手段」としか用いていない、ということを意味します。 つまり、「中国の美化」があくまで前提だから、それの擁護材料としての他の価値は、都合に応じて、部分的にいいとこどり、をするためだけの引用しかしないわけで、場合によっては、当然矛盾することも生じるわけです。 具体的な例をあげて見ましょう。 冒険風ライダーさんの創竜伝に関する指摘の中には、この種の矛盾の指摘が数多くあります。例えば、世界支配を企む牛種を悪と断じておきながら、一方でその産物たる民主主義を擁護したり、牛種支配による第二次世界大戦の勝利を正義とする話なども、確かに一見矛盾した「ダブルスタンダード」の話です。しかし、「日本を貶める」(中国の礼賛)という観点で見ると、これは一つの一致した基準に収斂するわけです。 本人(田中芳樹氏)は、「中国の美化」という基準にしたがっているわけですから、本人自身としては、全然「ダブルスタンダード」じゃないんでしょう。 しかし傍から見たら、あくまで隠された基準「中国の美化」ではなく、民主主義がどうだといった「個々の価値」の話しか見えないから、田中芳樹氏が主張する個々の価値に対する意見を照らし合わせて見ると、矛盾が生じる、つまり「ダブルスタンダード」としか見えない、ことになるんでしょうね。 加えて、今回冒険風ライダーさんが提示してくれた資料内で判断する限りにおいて、山本弘氏の場合はどうでしょうか。 私が考えるに、「田中芳樹ファン」という基準に基づいて、他の価値に対する「ダブルスタンダード」の適用が、本人的には不自然なく行われている、という状況でしょうか。 山本弘氏は、 「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」に関しては、面白いけど、その脚本家は馬鹿な奴だ、と言っているわけです。 これを「銀英伝」に適用すれば、 「銀英伝」に関しては、面白いけど、その作者(田中芳樹氏)は馬鹿な奴だ、ってことになるわけですね。 でも、「田中芳樹ファン」だから、こんなことは絶対に言わない。 だから、 作品批判における明示される(隠されない)一つの基準があって、それに基づいて、個々の作品を論じているわけではなく、 「擁護したい作品」に関しては擁護論を展開し、「擁護したくない作品」に関しては否定論を展開するわけですね。 「俺は自分の嫌いな奴(作品・価値)は論理をすりかえても批判するし、好きな奴(作品・価値)は同じく論理をすりかえても擁護する」、と明言でもして欲しいものですね、田中芳樹氏にも山本弘氏にも。 そうすれば、少なくとも、自らの基準を隠したことにはならず、傍から見ても「ダブルスタンダード」に映ることもなくなるでしょうから。 しかし、私はあまりよく知らないのですが、ト学会ってかなり評判の良い団体ではありませんでしたっけ。それだけに、山本弘氏のマイナス面は残念ですね。 |
No. 3957 | |
山本弘ダブルスタンダードの例、追加(疑問から確信へ | |
モトラ | 2003/04/13 22:33 |
以前、山本弘が「戦争論」批判を展開したことに関して >ところで、山本弘が今回行った「記述内容の間違いと論理の破綻の指摘」ですが、なぜこれを無印「ゴーマニズム宣言」の頃に行わなかったのでしょうか。「記述内容の間違いと論理の破綻」は昔からのコト。読者に対する影響力も当事とさほど変化しているとは思えない。なのに今更取り上げたのは、結局山本弘の目にタカ派チックに映った「戦争論」が気に入らなかっただけなのでは。 と書きましたが(と学会と田中芳樹3−B)、「インディペンデンスディ」や「創竜伝」におけるスタンスのズレを見るにつけ、判断基準は「氏のお好み次第」で間違いなさそうですね。 その他の例を挙げれば、氏は「トンデモ大予言の後始末」において、ノストラダムスの予言(正確には、五島勉の主張)を本気で信じ込み、著書や大学の講演で「終末の日に備えて生きる心構えを持つべきだ」といった趣旨の主張を繰り返した作家に対し、「読者への影響力を考えたことがあるのか。その主張を信じて、どうせ1999年7月には死ぬんだからと、人生設計を狂わせる者が出たら、責任を取る覚悟があるのか」といった趣旨のかなり強い批判を展開しております。同じ人が、「創竜伝」については「信じる読者が悪い」でケリ… |
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