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反銀英伝・思想批判編
3−B

民主主義と専制政治(2)


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No. 1438
(いまさらヤン・ウエンリー)民主主義を、リセット
投稿者:ベルクアイサル 1999/6/26 04:21:29
 ずいぶん前にライト兄弟ネタで書き込みさせていただきましたベルクアイサルです。皆様、お久しぶりです。

 さて、半年も前にとある超メジャー(でもヌルいBBSの代名詞でもあります)BBSでヤン・ウエンリーを批判した際に、私の達した結論を記したファイルが出土したので、こちらでも論じていただきたく書き込ませていただきます。
 いや、ずいぶん遅いってのは、解ってるんですけど。(^^;

以下本文です。

 ヤン・ウエンリーは、彼なりに理念と現実の折衷を試みていたと考えていたと、考えることができるようになりました。

 彼は自由惑星同盟を見捨ててしまいましたが、その発想自体には矛盾は無かった(理念に負けたタダのアマちゃんではなかった)と、今は考えています。

 ヤンは自由惑星同盟を守護するのではなく、歴史の流れを観て敢えて流されたと考えます。人類はラインハルトという希代の英雄を得て、再び統一される時を迎えた。(と、ヤンは考えた)そこで彼は、行き詰まっていた「自由惑星同盟の民主主義」に、「リセットをかけた」のではないかと考えます。

 本当はそういう役目を負いたくはなかったのだけれど、たまたま、そういう時節に同盟の重要なポストを得てしまった自分の、これは歴史に対する義務なのだ。とでも考えていたのでしょうか?(これって、後世の歴史家に酷評されるのは目に見えている行動ですよね)

 民主主義再生の希望は、ありますね。もとはといえば自由惑星同盟だって、ゴールデンバウム王朝から飛び出したのですから。
 歴史を「繰り返すもの」として認識していれば、バーミリオンの時点でラインハルトを殺すことは「リセットを遅らせる」ことにしかなりません。民主主義は何度でも再生する。おそらくは、イデオロギーとしての完成に近づきつつ。

 こう考えると、バーラト星系のユリアンたちの政府が、民主主義の寄り代となり得るかどうかは、問題ではありません。無限に生まれ、死ぬであろう、民主主義の胎動の一つに過ぎなくなるからです。

 はたして、意外と次に来るのは,人民解放宇宙軍による共産革命(田中芳樹的にはオッケーか?)だったりするかも知れませんね。

 それでも、ヤンがシビリアンコントロールを、男気のない行動をとった免罪符とした疑いも、私の中では否定しきれていないのですが。

 みなさんは、どう思われますか?


No. 1439
見捨てた?
投稿者:satoko 1999/6/26 05:37:54
ベルクアイサルさんへ

ヤンは果たして同盟を敢えて見捨てたのでしょうか?私はそうは思いません。退役した後の同盟を脱出した後の事をお話になっていると思うのですが、ヤンはあくまで同盟に復帰する事を望んでいた事が、エルファシル共和政府に合流する以前に彼の行動を鈍らせていた原因でもあるという記述がありますし、それがラインハルトの機先を制した宣告でたたれた時「これで完全に同盟に復帰する道は断たれた。」と発言している事からもわかります。

そして何より、ヤンがカイザーラインハルトが最高の専制君主となり得る事をわかっていながらの誘いに乗るわけではなく、彼と戦いつづけた事から考えても、ヤンが民主主義を完璧に近づけるために専制政治に一時的なら奪われてもいいなどと思ったとは思えないのです。

ヤンはシャーウッドの森を残した理由もまた「同盟が帝国によって民主主義が犯されるような日が来た時のために」といったものだったと思います(ちょっと記憶があいまい)

私は、ヤンは同盟の悪い部分を完全に理解しながらも、同盟の中にある民主主義をあくまで守り通したいと考えていたと思います。それは確かに同盟でなくてもよかったのかもしれませんが(たたが国家と発言してるし(^^;)媒体としてその時期、最適(?)だったのはやはり同盟だと考えていたのではないかと思います。

なんかたくさん書いてるうちに焦点がぼやけてきたのですが、結論としては
ヤンは選択の余地のない状況に追い込まれ、同盟から脱出せざるをえなかったけど、あくまで同盟、そして民主主義への復帰を望んでいたがラインハルトやその他の理由でその道をたたれ、民主主義を守るための手段としてエルファシルにいった。でも、彼の戦力や(確かヤンは同盟が最後の決戦に臨むの知らなかったはず)その他の事情で同盟そのものを救う(少なくとも手段を講じる)事はできなかったというだけで(まあ、冷静に考えると結構間抜けな話かとも思いますが(笑))見捨てたという事ではないと思います。

あともう一つの「ラインハルトに委ねる」という事に関しては確か「一度民主政治の火種が消えてしまうと再興するのに、何百年という時間がかかる・・・・。」という感じの発言があったと思いますが、はっきりしないので調べてまた今度かきます。

雑文で失礼いたしました。


No. 1440
あっ、しまった。ごめんなさい。
投稿者:satoko 1999/6/26 07:16:51
ベルクアイサルさんへ
ねぼけてて、かなりずれたことかいてました。ごめんなさい。

とりあえず、同盟から脱出云々の部分は抜きにして、ヤンの考えとかそういったものは私なりに前のものに書いていたもので一貫してたと思います。

ほんと、寝ぼけ文章ですいませんでした。


No. 1441
ヤン・ウエンリーの本質とは?
投稿者:ベルクアイサル 1999/6/26 07:27:00
 速攻レスに、ちょっとビックリしながらお返事します。

 さて、私はヤン・ウエンリーは同盟ではなく民主主義という理念そのものに仕えていると考えています。
 SATOKOさんの仰った「たかが国家」などの台詞・行動から、ヤンにとって政体とは民主主義の寄り代に過ぎず、逆に言えば健全な民主主義を育むものでなければ、そんな政体は(民主主義そのものを至上とする)ヤンにとって無意味なのではないでしょうか?
 もちろん、そこに所属する人々への情はあるんでしょうが、彼にとってあまり大した問題じゃないような気がするのですよ。

>ヤンは同盟の悪い部分を完全に理解しながらも、
>同盟の中にある民主主義をあくまで守り通したいと考えて

 ココのところですが、ヤンにとって同盟の中にある民主主義は、死んだ。と解釈しています。
 事、ココに至れば、理念を優先するヤンが、同盟を維持する必要は決して大きくありません。

 以上を前提として考えると、同盟が敗北を喫し、隠棲?していたヤンが決起したという行為は、自らを民主政治の火種としたと解釈できるのではないでしょうか?

 絶大な人気をバックボーンに政治家として立ち、自ら強権をふるって同盟の民主主義を矯正することも可能だったはずですが(それこそトリューニヒトと手を組むくらいしなくてはなりません)しかし、彼にはそれは不可能であったため、新たな民主政体をおこす事を目標とした・・・・自由惑星同盟の失敗を糧とする、「同盟以後」の民主政体を・・・・

 あと、彼が本当に歴史研究と紅茶を愛するだけの、お気楽な人生を求めていたのなら、あのまま隠棲してれば良かったのであって、「民主主義の闘士」(笑)となる必要はどこにもないわけです。
 ヤン本人も自覚していない部分が闘争を求めていたとも考えられます。ただ、自分の存在そのものが帝国にとって危険で有ることを知っているヤンならば、生きるために敢えて「火種」となったとも考えられますが・・・・

 酷い表現を敢えて用いれば、帝国による同盟の併合すらも、自らの理念達成のために利用した・・・・

 以上が、かなり乱暴な解釈であるのは承知しているのですが、私としては、この様な解釈をすることが、ヤン・ウエンリーを最も高く評価する方法なのです。

 いやしかし、こんな手前勝手な解釈すら何とか成り立ってしまう銀英伝って、まったく奥が深いですね。


No. 1455
的確な指摘
投稿者:本ページ管理人 1999/7/03 02:56:05
終『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」というのと同じだもんな。これ以上の無責任はないよな。』
続『終君、どうしたんですか、えらく的確な発言ですよ、それは。』
始『まったく終のいうとおりで、「みんなに責任がある」というのは、責任の所在をごまかすために最高責任者が使う詭弁なんだ。(後略)』
(創竜伝10 P229)

 大蔵省の住専対応を揶揄するセリフですが、タワゴトばかりの最近の田中芳樹の政治認識の中では、おそろしく的確な発言だと思います。
 同時に田中芳樹自身の思想を解体する的確さをも持っています。

 まず、『「みんなに責任がある」は詭弁』論ですが、この論法を普段使うのは、田中芳樹がいうところの「リベラル」派ではなく、「御用文化人」…もとい「保守」派である事に留意する必要があります。巻町の原発反対の住民投票や沖縄の基地反対住民投票のような直接投票を批判する論法です。つまり、『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」というのと同じであり、従って「みんなに責任がある」としなければ成立しない住民(直接)投票はきわめて無責任な制度だ』というものですね。


 事態はそれだけに止まりません。『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」』というのが正しいのならば、そもそも民主主義自体が詭弁的な思想と言うことになります。ちょっと前にヤンと民主主義についてのログがありましたが、誰かに責任を押しつけるのではなく、市民一人一人に責任を持つのが民主主義なのですから。そういえば、ヤンはだからこそ、ラインハルト独裁にあえて背を向け、民主主義を選択したのでしたね。


 本質的に『最高責任者が「みんなに責任がある」と責任の所在をごまかせない』制度というのは、ちょっとラインハルト的専制政治しか思いつきません。少なくとも私は。
 住専問題でのあの論法は、議会制民主主義だからこそ出てきたものだと思います。


No. 1463
法的問題とヤン・ウェンリー
投稿者:satoko 1999/7/06 01:38:03
ベルクアイサルさんへ
レスが遅れてすいません。そんなつもりはないのですが言葉がきつくなったらすいません。

銀英伝は架空歴史小説ですし、その解釈は広くていいと思うのですがベルクアイサルさんの解釈でどうしても理解できないのは「ヤンが民主主義は死んだと判断した。」ということと「自主的に同盟を倒す側に回った。」という点です。

ベルクアイサルさんがおっしゃるようにヤンがそれほどの冷酷な部分を持っていたなら、彼の目的を果たすのに一番手っ取り早かったのは同盟でクーデターが起こった時点でヤンはラインハルトの策謀と見抜いていたわけですから、片棒担いでしまえばよかったわけです。でもそうしなかったのはなぜか。それはヤンが救国軍事同盟に言った言葉にあると思います。

「政治家がリベート(つまり個人的な欲求を満たすもの)は政治家個人の腐敗であって政治の腐敗ではない。政治の腐敗とはそれを指摘する事のできない状況になる事だ。」

つまりこれが彼の民主主義が死んだかどうかという基準であると思います。それを考えた時、ヤンがシャーウッドの森を作っておいたり、また同盟を脱出した後に同盟への復帰を最後まで望んでいた理由はあくまで同盟をつぶす事ではなく、民主主義を殺してしまう要因である帝国に対抗するためのものであったものだと私は考えます。

あともう一つの「自発的に行動したか」という点では、前回も書いたと思うのですが「シャーウッドの森を作っておく事自体無駄になるかもしれない。」というヤンの発言の通り、特に何かの要因がなければヤンは動くつもりはなかったんだと思います。そういう状況に追い込まれての、ある意味仕方ない行動であったと思うんですが・・・。

ホントにいろいろな解釈のできる銀英伝。奥が深いですね。(^^)


No. 1468
いろいろ
投稿者:本ページ管理人 1999/7/06 02:36:14
>「政治家がリベート(つまり個人的な欲求を満たすもの)は政治家個人の腐敗であって政治の腐敗ではない。政治の腐敗とはそれを指摘する事のできない状況になる事だ。」

つくづく銀英伝と創竜伝の間に田中センセにナニがあったのかと思ってしまいます。


>これが彼の民主主義が死んだかどうかという基準

 ヤンの民主主義の定義ってのは結構重要なテーマだと思います。ちなみに、上のヤンの言を民主主義の定義とするならば、たとえばラインハルト独裁はどうでしょう? おそらく同盟末期より風通しは良いと思いますが。



No. 1469
Re:1468
投稿者:satoko 1999/7/06 07:41:58
>ヤン
ヤンは何度か同じような事を言うんですが「最悪の民主政治でも、最良の専制政治にまさると私は思っている。」で、だからラインハルトの政治は最良のものだとわかっていながら戦うと。
まあ、それに対して「だが市民が自発的意志で専制政治を選んだときどうするのだ。」というパラドックスで悩んだりもしてるんですが。

ヤンが魅力的なのは、常に何かにすがって自分の正義を信じきるような事をしないその姿勢なんですが、その辺は個人のもので多数論ではないんですが・・・。


No. 1470
あと一歩
投稿者:本ページ管理人 1999/7/06 23:53:46
>No. 1469
>ヤンは何度か同じような事を言うんですが「最悪の民主政治でも、最良の専制政治にまさると私は思っている。」で、だからラインハルトの政治は最良のものだとわかっていながら戦うと

「最悪の民主政治でも、最良の専制政治にまさる」という「信念」の是非はともかくとして(ちなみに私は全く別の信念を持っていますが)、ヤンがその信念を抱く理由が「民主主義の最悪の政治は少なくともそれを選択した市民それぞれに責任があるが、専制の最悪の政治は為政者個人の責任である(大意。うろ覚えなので勘違いがあったら指摘していただけるとありがたい)」というところが興味深いんですね。

 ここで、私が前に書いたNo. 1455が出てくるんですが、抜粋すると、
終『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」というのと同じだもんな。これ以上の無責任はないよな。』
続『終君、どうしたんですか、えらく的確な発言ですよ、それは。』
始『まったく終のいうとおりで、「みんなに責任がある」というのは、責任の所在をごまかすために最高責任者が使う詭弁なんだ。(後略)』
 つまり、この終君の言によると、ヤンが信念とする「民主主義という理念」は、その理念自体の中に自ら腐敗する構造を持っていることになります。つまり、民主主義がヤンの理想に近ければ近いほど、大蔵省の責任逃れ(これは一部分の例に過ぎないが)的な腐敗が避けられないという事になります。


 これは田中芳樹の思想の矛盾撞着と取るか、変節と取るか、はたまたあくまでキャラクターの発言であるとして竜堂終Vsヤン・ウェンリーの夢の論壇キングオブファイターズと取るか(笑)、見方はいろいろありますが、私がヤンの民主主義の定義が結構重要なテーマだと思うのはこんな理由です。


No. 1486
いわれると思っていたんですよね(笑)
投稿者:satoko 1999/7/08 17:19:06
>No.1470
1455があったので、こういう感じで返されるだろうと思ってました(笑)で、突っ込まれると嫌な(というか、私もそう思わないでもない)のでヤンのあの発言はかかないでおいたのですが・・・。

あまり自分自身完全に納得いく考えではないのですがとりあえず。

ヤンが主張したかったのは、「専制君主の責任・・・。」の後に続けた「つまり、どんな悪政になろうとも自分の責任を言い逃れする事ができない、そこが民主政治の一番大事な所で・・・(正確じゃないけどこんな感じの事でした)。」という事なのだろうと思います。

で、創竜伝での終や始の発言はそのことを否定しているわけではなく、「みんなの責任」という発言の使い方が間違っている、もしくは悪用されているという事を言ってるのではないでしょうか。

民主政治では確かにみんなに責任がある、だがそれを自分の責任を言い逃れするための道具として用いる事は許されるものではない。だから、そういう言い方をしたその政治家個人(官僚全体でもいいけど)に向けられたもので、終や始(ひいては田中氏)が「民主政治はみんなに責任がある。」という事を否定しているわけではないと考えます。

つまり、民主主義ににたいする考え方や、ラインハルトの独裁政治云々という話とはまったく別次元の話のようにも思うのですが。

あんまり強く主張できるものではないのですが、こうとも取れるかなと思ったもので


No. 1487
みんなに責任がある=無責任!?
投稿者:Merkatz 1999/7/08 18:03:05
ここでいう「責任」には2種類の意味があるのではないでしょうか。
すなわち、「直接的」責任と「間接的」責任です。

例えば政治家が不正を働いた場合、彼の責任とは彼自身が不正を働いたという直接的な行為に関する責任です。したがって刑事罰等を受けるのは彼自身です。
しかしその彼を選んだのは民衆であるから、民衆にも責任があるといいますね。ここでいう責任とは、直接不正を働いたことに対してではなく、そのような人物を選んだことに対するもの、つまり間接的な責任です。

したがって「民衆にも責任がある」というとき、それは行為の直接責任を指すのではなく、その行為が為された遠因となったことを指していっているのではないでしょうか。

ではここでもう一度竜堂兄弟の言を見てみますと、

終『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」というのと同じだもんな。これ以上の無責任はないよな。』
続『終君、どうしたんですか、えらく的確な発言ですよ、それは。』
始『まったく終のいうとおりで、「みんなに責任がある」というのは、責任の所在をごまかすために最高責任者が使う詭弁なんだ。(後略)』

なぜこれが詭弁なのか。それは直接的責任と間接的責任を混同しているからではないでしょうか。為政者が処断されるのは、彼が不正や背信を働いたからです。つまり直接その行為を為したことを非難されている。
しかしそれを「みんなに責任がある」というのは、まさに責任の混同です。何故なら、非難されるべき不正行為を働いたのは民衆ではなく、その為政者本人だからです。あくまで問題なのは直接行為を働いたものの責任、つまり直接的責任であります。
民衆の責任も免れ得ませんが、それは行為を為したことではなく、そのような人物を選んだことに対する責任、間接的責任です。明らかにこれら二種類の責任は同一線上に並べるべきものではありません。

それを強引に同一線上に並べ、自己の直接責任をうやむやにするからこそ、これが「詭弁」と称される所以でしょう。

さて次はヤンの言葉を見てみましょう。

「専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきるのです」

何故ヤンはこのような言い方をしたのか。ここでヤンが意識している「民衆の責任」とは実に間接的責任ではないでしょか。
不正を働いた者の直接責任という点において、実は専制でも民主制でも同じです。しかし問題はそこから先です。その遠因としての間接的責任を民衆が感じることができるか否か。
ここにおいて専制は「他人のせいにでき」ますが、民主制はそうではないことが分かります。これこそが肝心なところではないでしょうか。

つまり民主制のもとでは民衆は間接的責任を意識させられますから、必然的に政治に関心を持ちます。為政者の不正も糾弾します。
しかし専制のもとではそれがありません。為政者がどんなに不正を働こうとも民衆には間接的責任すらない、つまり無責任な状態ですから、まったく気にする必要はない。民衆にとってはどこまでも「悪政は他人のせい」なのです。

「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することのできない状態を、政治の腐敗というんだ」

民主制においては、民衆は間接的責任により政治家の腐敗を批判する状態を維持することができますが、専制においてはそもそも批判する状態が発生することすらありません。
だからヤンは言うのです。

「最良の専制政治より最悪の民主政治の方がマシ」

だと。

民主制の優れた点とは、実に民衆に間接的責任を負わすことにより、政治意識を高めるところにあるのではないでしょうか。そしてヤンはそれを分かっていたからこそ、あんなにも必死に戦ったのではないでしょうか。


No. 1488
それでは更に問題提起
投稿者:本ページ管理人 1999/7/09 01:50:18
 田中思想の矛盾撞着、というよりかは、キャラクターのセリフを使った言葉遊びといった感の趣向だったのですが、なかなか面白い提案になったようです。
 そもそも、銀英伝自体、田中氏の民主主義の存在意義に対する思考実験でもあったので、この件について考えてみるのも面白いかも知れません。


>民主政治では確かにみんなに責任がある、だがそれを自分の責任を言い逃れするための道具として用いる事は許されるものではない。

>したがって「民衆にも責任がある」というとき、それは行為の直接責任を指すのではなく、その行為が為された遠因となったことを指していっているのではないでしょうか。


 たとえば、天下り先から接待を受けた類の明白な背任行為に関しては直接的責任と間接的責任の違いはわかりやすいでしょう。不正が不正として明白だからです。
 では、バブルのように「結果として間違った政策」を取ってしまった責任に関してはどうでしょう?
 例として、第二次大戦中ユダヤ人を殺戮した「結果として間違った政策」は、誰の責任でしょう? ヒトラー個人の責任でしょうか。ワイマール憲法下できわめて民主的に彼を選んだ国民は「選んでしまった責任」だけでしょうか? だとしたら、民主制とは構造的にファシズムの温床ではないでしょうか。
 小林よしのりが激怒する「私たちは軍部(オウム)にだまされていたんだ!」もこれと同質で、結果として「民主制は人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきる」事になってしまうことになります。


>民主制の優れた点とは、実に民衆に間接的責任を負わすことにより、政治意識を高めるところにあるのではないでしょうか

 さらに責任には法的責任と道義的責任に分けられると思います。議会制民主主義の場合、民衆に法的責任を負わすことは事実上不可能です。となると、このMerkatz さんの言う「責任」は道義的責任と言うことになります。
 この道義的責任は社会を構成する上で不可欠ですが(ex.人を殺すな、物を盗るな)、制度として見た場合、非常に脆弱な物です。よく言われるとおり、「ゴメン(道義的責任)で済んだら警察(法的責任)はいらない」のであって、強制力を有する法的責任が必要です。
 道義的責任に依拠した民主制はきわめて脆弱で危なっかしい制度とはいえないでしょうか?




 ちなみに皇帝には道義的責任も法的責任もないと言われそうですが、道義的責任で言えば結構な責任はあると思います(「朕たらふく食う汝ら臣民飢えて死ね」とはたぶん言えないですよ。いくら絶対君主制でも)。法的責任においても、文字通りの法的責任はないかもしれませんが、政治力学的な意味での法的責任は厳然としてあると思います(歴史を見れば滅んだ帝国の皇帝の末路がよく物語っている)。ただ、世界にただ一つの国家しかないという状況はきわめて特異なので、その状況下ではちょっと興味深い物がありますけど。


No. 1494
ヤン・タイロンとヤンの悩みとユリアン
投稿者:satoko 1999/7/09 09:41:08
>民主制政治とはファシズムの温床・・・。
>惰弱なもの

そのとおりでしょう。創竜伝はどうかわかりませんが(政治云々は斜め読み(笑))少なくとも銀英伝ではこの事は何度も指摘されています。

ヤン・タイロンはヤン少年にルドルフがなぜ民主政治の中で台頭し、銀河帝国を作ったか説明しています。
「みんながめんどくさい事をルドルフすべてまかせ、権力を与えていってからだ。」

そしてヤンはラインハルトとの戦いのなかで次の疑問に悩まされつつけています。
「民衆が自発的意志によって専制政治を選んだらどうするのだ。」と

これら二人の考えは管理人さんが指摘する事と同じ事だと思います。民衆が自分の責任を放棄する事で簡単に崩れてしまうものが民主主義だと。しかし、それでなおヤンがいう「最悪の民主政治でも最良の専制政治はまし。」(理由についてはMarkatzさんの指摘や本編の中に出てるので省略しますが)というものにもとづいた最終的な結論としてユリアンが本編の最後にカリンに言います。

「政治は政治に関心を失ったものに必ず復讐する。だからこそ僕たちは政治への関心を失ってはいけないのだ。」と

三者の意見は田中氏が自身の民主政治への思いを反映させたものだと思います。

民主政治は惰弱で移ろいやすいものだ。その事を認識し、自身の責任を放棄するような事はしてはいけない。それをすればどういう結果になるか歴史が証明している、と(まあ、こんな単純な話じゃないんでしょうけど)

「少なくとも」銀英伝では民主政治の長所のみではなく短所も踏まえた上での結論を出しています。だから、管理人さんの指適は正しいけどそこに留まるものではない思います。

雑文で失礼しました。


No. 1497
では目先を変えて
投稿者:本ページ管理人 1999/7/10 01:17:25
>「少なくとも」銀英伝では民主政治の長所のみではなく短所も踏まえた上での結論を出しています。だから、管理人さんの指適は正しいけどそこに留まるものではない思います


では、ちょっと目先を変えて「ローエングラム帝国」が最良の政治形態になる可能性についてはどうでしょうか。

 いきなりですが、最大の問題は帝国誕生後あっという間に世襲慣習が成立してしまったことですね。これによって歴史上の凡百の君主制と同じ道を歩むことが決定付けられてしまったわけですからね。

 つまり、ローエングラム帝国はラインハルトによって最良の政治形態であるのであって、制度として最良であるわけではありません(というかむしろ何の変革もない旧態依然のもの)。結局ラインハルトはゴールデンバウム朝に復讐しても、それの本質である制度に対して復讐できなかったのではないでしょうか。


 どんなに皇帝が神聖不可侵だとしても、帝国が近代国家として成立するためには「皇帝機関説」とならざるを得ません。つまり、皇帝すらも帝国という制度の歯車なのであって、結局ラインハルトは歯車を差し替えただけにとどまり、彼の悲劇を生みだした構造を変革することは出来なかったのではないでしょうか。


 民主主義が進歩の可能性によって欠点が留保されるのであれば、ローエングラム朝の可能性について考えてみるのも面白いと思います。


No. 1498
ファンサイトでの意見で
投稿者:satoko 1999/7/10 14:19:24
>ローエングラム王朝の・・・

家系による継続なんてことは、民主主義者から見ればおわらいぐさだ、というのがヒルダとラインハルトの結婚の際にヒルダひいては皇后に権限をどこまで与えるか、という会議においての部分で聞かれますね。

「可能性」とはちょっと違いますが、歴史的視野から見たという意見ではファンサイトのものなんですが面白い意見がありました。

http://www.linkclub.or.jp/~suno/

のなかの「銀英独り言」のところにある「ラインハルトはルドルフの後継者か。」という意見が面白かったです。ファンサイトは嫌いだとかいわずに一度見てみてくださいな。


No. 1507
雑談的レス
投稿者:本ページ管理人 1999/7/12 07:31:19
>No. 1498
>http://www.linkclub.or.jp/~suno/

 面白かったですね。確かにここに来ている方には一読の価値があると思います。

>「ラインハルトはルドルフの後継者か。」
>人類の歴史がもっていた君主制→共和制というベクトルに対して,結局,そのあるべき歴史の流れを停滞せしめ,かえって逆行させてしまったことになるのではないだろうか

 うーん、「人類の歴史がもっていた君主制→共和制というベクトル」「あるべき歴史の流れ」という未論証の根拠を持ってローエングラム朝を批判するのはどうかと思いましたね。「人類の歴史がもっていた君主制→共和制というベクトル」「あるべき歴史の流れ」が本当にそうなのか、という思考実験が銀英伝のテーマの一つですから。
 これについてはまた、そのうち。


>単一国家(であるはず)の銀河帝国において,端的に国力の増進を図る必要性があるとは思えない。また,搾取階級である貴族の子弟に義務教育を行う必要もないだろうし,ましてや被搾取階級の平民たちに皇帝が教育の義務を課するはずもない

私があのサイトでもっとも興味深かったのがこれです。「単一国家」は人類が未だ経験していないシミュレーションとして非常に面白い。義務教育は富国強兵制度の一環であり、近代国家においては権力者が人民の無知蒙昧を望むことはあり得ません。
自国民の知能指数の高さを誇るのが、ある意味近代国家の為政者の本音でしょう(銀英伝の世界だって宇宙船によって戦う以上は一般兵でも高度なレベルの知識が必要)。が、専制によって人類統一国家が誕生したら富国強兵の必要性がない以上人民に知識がある必要はない。むしろ、無知蒙昧のほうが扱いやすいはずですし、必要な知識は一部階級によって独占された方が支配には効率的です。
 同盟という恒久的な敵が居てはじめて、帝国は強力な近代国家たりうるのではないでしょうか。
 となると、どうも、帝国には同盟の存在がないと成立し得ない逆説があるような気がします。

 この帝国の病的な論理はソ連の病理に通じるものがあります。「我が国は社会主義国であり貧困は存在しない」という理論を現実に優先させたことが現実に貧困があってもそれを認めない(認めてはいけない)という病理的社会を生み出しましたが、「我が国は単一国家であり、他の国も敵国も存在しない(存在してはいけない)。あくまでも反乱軍である」という理論がある以上、どこかで現実と理論が矛盾を起こしそうな気がします。反銀英伝ではありませんが、帝国が同盟に優越するのは疑問ですね。


No. 1516
なんかとりとめなくなってしまった・・・
投稿者:Merkatz 1999/7/13 03:07:27
>http://www.linkclub.or.jp/~suno/

これはなかなか良いですね。確かにルドルフの敷いた「専制」という道から一歩も出ることがなかった以上、ラインハルトはルドルフを超えることはついに出来なかったといえるでしょう。
彼は善政を敷きましたが、所詮「専制」という枠内での話です。「俺はルドルフのようにならない」と少年の頃誓いましたが、専制そのものの打破をしなかったのですから、「ルドルフのように」なってしまったといえるでしょう。単に権力の使い方が違っただけで。

>うーん、「人類の歴史がもっていた君主制→共和制というベクトル」「あるべき歴史の流れ」という未論証の根拠を
>持ってローエングラム朝を批判するのはどうかと思いましたね。「人類の歴史がもっていた君主制→共和制という
>ベクトル」「あるべき歴史の流れ」が本当にそうなのか、という思考実験が銀英伝のテーマの一つですから。
>これについてはまた、そのうち。

基本的に人類史は民主共和制という、よりベターな方向に進んだと私は思います。ただこれからの未来において、つまり銀英伝の世界のような時代にもその流れが続くかどうかは分かりません。
あくまで民主共和制は「よりベター」ですから、将来的により良いシステムが産まれればそちらに流れるでしょう。
また、専制への逆行も当然ありうるわけで、そのなかでラインハルトのように「非民主的な制度がきわめて民主的な政治を行なう」という皮肉が生じる可能性もあるわけです。

ですから、「ラインハルトがあるべき歴史の流れに逆行した」とはいえないでしょうね。民主制→専制という流れが「あるべき歴史の流れ」なのかもしれないのですから。

>私があのサイトでもっとも興味深かったのがこれです。「単一国家」は人類が未だ経験していないシミュレーション
>として非常に面白い。義務教育は富国強兵制度の一環であり、近代国家においては権力者が人民の無知蒙昧を望むこと
>はあり得ません。
>自国民の知能指数の高さを誇るのが、ある意味近代国家の為政者の本音でしょう(銀英伝の世界だって宇宙船によって
>戦う以上は一般兵でも高度なレベルの知識が必要)。が、専制によって人類統一国家が誕生したら富国強兵の
>必要性がない以上人民に知識がある必要はない。むしろ、無知蒙昧のほうが扱いやすいはずですし、必要な知識は
>一部階級によって独占された方が支配には効率的です。
>同盟という恒久的な敵が居てはじめて、帝国は強力な近代国家たり
うるのではないでしょうか。
>となると、どうも、帝国には同盟の存在がないと成立し得ない逆説があるような気がします。

これについては一つ考えてみました。
「宇宙の摂理は弱肉強食であり、適者生存、優勝劣敗である。人類社会もまたその例外ではありえない」と主張したルドルフのことですから、バカな国民というのは「弱者」であり、生きる価値のないものだと考えた。したがって義務教育を施し、優秀で強健な帝国臣民を育成した、というのはいかがでしょう?

ルドルフは単なる権力者ではなく、人類に対する異常な使命感を持っていましたから有り得るのではと思いますが。

>さらに責任には法的責任と道義的責任に分けられると思います。議会制民主主義の場合、民衆に法的責任を
負わすことは事実上不可能です。となると、このMerkatz さんの言う「責任」は道義的責任と言うことになります。
>この道義的責任は社会を構成する上で不可欠ですが(ex.人を殺すな、物を盗るな)、制度として見た場合、
非常に脆弱な物です。よく言われるとおり、「ゴメン(道義的責任)で済んだら警察(法的責任)はいらない」のであって、
>強制力を有する法的責任が必要です。
>道義的責任に依拠した民主制はきわめて脆弱で危なっかしい制度とはいえないでしょうか?

純粋に道義的責任に依拠しているのなら、確かに危なっかしいでしょうが、それを権利且つ義務として法に定めることにより、擬似法的責任と化していますよね。
もちろんそれだって放棄ということがあるわけですから、完全ではありませんが、現段階における人類の試行錯誤の結果としては、まあまあではないかと私は思います。

>ちなみに皇帝には道義的責任も法的責任もないと言われそうですが、道義的責任で言えば結構な責任はあると
>思います(「朕たらふく食う汝ら臣民飢えて死ね」とはたぶん言えないですよ。いくら絶対君主制でも)。
>法的責任においても、文字通りの法的責任はないかもしれませんが、政治力学的な意味での法的責任は厳然として
>あると思います(歴史を見れば滅んだ帝国の皇帝の末路がよく物語っている)。ただ、世界にただ一つの国家しかない
>という状況はきわめて特異なので、その状況下ではちょっと興味深い物がありますけど。

私は皇帝に対するそれは甚だ弱いと思います。
道義的責任は暴君の例を見れば明らかでしょう。ゴールデンバウム朝のアウグスト2世が、果たして道義的責任を1ミクロンでも感じていたでしょうか。
現実の歴史でも「いくらなんでもそんなことすれば滅びて当たり前だ」と思える暴君はいくらでもいますよね。彼らが道義的責任を感じていたとは到底思えない。
まさに彼らは「朕たらふく食う汝ら臣民飢えて死ね」だったわけです。

法的責任についても「政治力学的な意味」というのは確かにあるでしょう。しかし皇帝自身が、それを感じてなければ意味がない。
対抗勢力に滅ぼされた皇帝というのは、直前までその動きに気付かなかったなんていう事はよくあります。
存在していても、本人が感じてなければ、ない事と同じです。

したがって法的責任・道義的責任の両者において、民主制は専制よりは「マシ」だといえると思います。

究極的な事を言えば、どんな制度も運用する人間次第なんですけどね(^^;;。


No. 1526
まとめレス
投稿者:本ページ管理人 1999/7/13 06:46:13
>No. 1516

>「宇宙の摂理は弱肉強食であり、適者生存、優勝劣敗である。人類社会もまたその例外ではありえない」と主張したルドルフのことですから、バカな国民というのは「弱者」であり、生きる価値のないものだと考えた。したがって義務教育を施し、優秀で強健な帝国臣民を育成した、というのはいかがでしょう?
>
>ルドルフは単なる権力者ではなく、人類に対する異常な使命感を持っていましたから有り得るのではと思いますが。

 なるほど、これは面白いですね。


>道義的責任は暴君の例を見れば明らかでしょう。

 ちょっとラインハルト派的見地から言ってみれば、「暴君の例によって専制が否定されるなら、ファシズムの例によって民主主義は否定されるべき」ですかな? この現実に生きる我々が民主主義を擁護する最大の論拠は(創竜伝の田中芳樹には皮肉なことに)「現在の日本の民主制が不完全な『そこそこ』の制度と理念ながら(だから、か)、小さな不満は列挙できても大きな不満のないそれなりに満足のいく社会を保証している(たった小さな幸せを保証できる社会だが、これだけのことでも人類史的に見れば偉業といってもよい社会である)」点に尽きると思うのですが、一度それを離れて考える点で銀英伝は面白い題材だと思います。
 さて、人間のすることにベストは無いとはいうものの、ラインハルトの専制政治がベストに限りなく近いという点ではほとんどの人の賛同するところでしょう。「ラインハルトの専制=専制政治の理想」という図式は非常に分かり易い等式です。
 では、「理想の民主政治」とはどのようなものでしょうか。ヤンは「最良の専制政治より最悪の民主政治の方がマシ」というように、どうも消極的民主支持という印象を私は感じるんですが(ちゃんと理想を語る場面があったっけ?忘れてる可能性が高いので指摘をいただけるとありがたいですが)、ヤンの理想社会とはどのようなものだとみなさんは思いますか?



No. 1554
はるか昔になっちゃったので、もう続かないだろうか。
投稿者:satoko 1999/7/16 02:30:25
>NO.1525
のなかで管理人さんがおっしゃってた
>ラインハルト派的見地から言ってみれば、「暴君の例によって専制が否定されるなら、ファシズムの例によって民主主義は否定されるべき」ですかな

というのは、実はあのHPにも書いてあったのですが、民主主義と民主主義における制度を取り違えているのではないかと思います。
まあ、受け売りなんですが(笑)民主主義というものの本来の概念は「絶対的少数の意見も取り入れよう」というもので、それが必ずしも選挙などでいかされているかといえばそうではない。選挙というのは民主主義の中で運営していくのに効率的に意見をまとめるためのシステムで必ずしも民主主義の基本理念に完全に答えるものではないそうです。
つまり、絶対的強者によって支配される専制政治が民主政治から生まれるという事は絶対にありえず、民主国家(なり媒体)からあらわれた専制というものはシステムの使い方の方に問題があったといわざるをえないのではないかという事です。

もちろん、銀英伝の中ではルドルフが生まれたのは「民主政治の中から・・・。」みたいな記述が多く見られるので、管理人さんが間違ってるというよりは田中氏がそもそも間違ってるって言えるんでしょうけど、専制政治の生まれる可能性をもって民主主義を否定するというのは、それ以前に専制政治が生まれる可能性というものそのものが成り立たないので、できないという事になります。

その事とは話が変わって、ラインハルトは何度か「自分の子供に自分の後を継がせる気はない。」といっています。「継ぐだけの能力があるものに・・・。」と

ちょっと極端なんですが、ラインハルトは専制政治そのものに対するこだわりってあんまりなかったんではないでしょうか?単に自分が運用するのに専制ならば都合(?)がよいから今はそれでいい。専制以上に民主政治がうまく運用するものであるならばそれに変わっていくのもいいだろうと考えていたのではないでしょうか?(現にユリアンに民主政治を命を懸けて守る決意があるかどうかを試してから、その後はヒルダの判断に委ねてますし)

もちろん、「自分の地位を子供に継がせる・・・。」云々は宰相時代に言っていた事なので帝位に就いてから考えが変わった可能性もありますが(あれ?死ぬ前にもヒルダにその事言ったかな?すいません。わすれました)


No. 1563
私もsatokoさんに続いて(終わらせるなんてとんでもない)
投稿者:Merkatz 1999/7/16 19:54:23
ああ、なんかめちゃくちゃですなあ・・・。続きを投稿しようかと思ったらあんな状態でちょっとゲンナリしちゃいまして。でもsatokoさんが投稿なさったんで私もマイペースでやっていこうかなと思います。

> > ラインハルト派的見地から言ってみれば、「暴君の例によって専制が否定されるなら、
> > ファシズムの例によって民主主義は否定されるべき」ですかな

> 絶対的強者によって支配される専制政治が民主政治から生まれるという事は絶対にありえず、民主国家(なり媒体)からあらわれた
> 専制というものはシステムの使い方の方に問題があったといわざるをえないのではないかという事です

民主主義という理念が専制の母体となるのではなく、民主主義の理念を実現する為のシステム(選挙・多数決など)が、運用を間違えば専制を生み出すという話ですね。
結局のところどのようなシステムも、実現しようとしている理念を忘れてしまっては役に立たないということでしょうか。

> では、「理想の民主政治」とはどのようなものでしょうか。ヤンは「最良の専制政治より最悪の民主政治の方がマシ」というように、
> どうも消極的民主支持という印象を私は感じるんですが(ちゃんと理想を語る場面があったっけ?忘れてる可能性が高いので指摘を
> いただけるとありがたいですが)、ヤンの理想社会とはどのようなものだとみなさんは思いますか?

確かにヤンは民主政治を積極的に支持する発言はしていませんよね(私もうろ覚えなのでちょっと自信がないが)。しかし、にもかかわらず何故ラインハルトに抵抗するか、彼自身の苦悩が語られていましたね。
ラインハルトの専制は効率極まりないものであり、人類の統一と発展の為には自分がやろうとしていることは妨害でしかないのでは、と。
しかしヤンはやはり個人の才幹にすべてを託すような危険なことは出来ないと、民主主義の芽を残す行動をとる決意を新たにします。
私はヤンは民主主義の理念に消極的だったのではなく、それを実現する為のシステムに懐疑的だったのではないかと推測するのです。
アーレ・ハイネセンが掲げた「自由・自主・自尊・自律」の精神は、おそらくヤンの心の中に深く刻み込まれていたのではないでしょうか。だからこそ、それを貶めるような輩に激しい嫌悪を覚え、ラインハルトに「民主共和制とは、人民が自由意志によって自分たち自身の制度と精神を貶める政体のことか」といわれたとき、反論せざるを得なかったのでしょう。

ヤンの苦悩は民主主義という理念(精神)を、制度(システム)が貶めることがあるということに起因するものではないでしょうか。
敢えてどのような理想があったか忖度すれば、「民主主義の理念を守り、実現できる制度、そしてその理念を理解した民衆により制度が維持・運用される社会」ということでしょうか。
ヤンが専制を否定できるのは、実に専制が民主主義の理念をいっさい含んでいないことあるのでしょう。
ラインハルトの民主的政策にしたって、専制そのものの理念が産み出したものではなく、単にラインハルト個人の才幹が産み出したものです。決して恒常的に民主主義の理念が実現されるわけではありません。
ファシズムはまさに、制度が理念を貶めた瞬間であり、それは民衆が理念を忘れて行動したことに原因があるのです。しかし専制は常に為政者の個人的才幹にすべてがかかっており、民衆の理念などまったく関係ないものです。

「私はベストよりベターを選びたい」というヤンの言葉は、そのような苦悩から導き出された、実は最大限積極的な支持ではないかとすら思えるのです。

> ちょっと極端なんですが、ラインハルトは専制政治そのものに対するこだわりってあんまりなかったんではないでしょうか?
> 単に自分が運用するのに専制ならば都合(?)がよいから今はそれでいい。専制以上に民主政治がうまく運用するものであるならば
> それに変わっていくのもいいだろうと考えていたのではないでしょうか?(現にユリアンに民主政治を命を懸けて守る決意が
> あるかどうかを試してから、その後はヒルダの判断に委ねてますし)

ラインハルトの理想って、なんとなく尭舜の政治みたいですね。しかし実力主義は絶え間ない戦乱を誘発しますからね(中国の歴史を見れば歴然)。誰だったかそのことをラインハルトに指摘して、だから結婚して子を作れといってませんでしたっけ?
ラインハルトにとって政体そのものには興味なかったのではと思います。ようは命を懸けるだけのものがあるかどうか、それがすべてだったのでしょう。

それにしても改めて「銀英伝」の奥の深さに感心しました。それに比べて創竜伝の底の浅さといったら・・・。


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