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反創竜伝・評論批判編
3−A

鄭和評価論と南海遠征の実態(1)


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No. 436
平和のミッション?
投稿者:ありゅう 1998/12/18 17:07:31
こんにちは。始めて書き込みします。
このHP大変面白いと思います。
前々から田中芳樹の創竜伝に漠然と異和感を覚えていたのですが
ここの掲示板を拝見するかぎりでは、同じような思いをしている
方が結構多いようですね。

ところで、前に、田中氏が塩野氏をあてこすったとかいう話題があった
とおもいましたが、田中氏も結構でたらめなことを言っていると
思うのです。

創竜伝のどっかの巻で 明の宦官 鄭和に言及して
彼の大航海は全く平和的な目的だった、
後々のイギリス人が支那に働いたような残虐行為を行ったりは
しなかったなどという主旨を述べていたと記憶しています。
でもこの間、図書館で鄭和艦隊の業績(行跡?)を調べたら、
セイロンでは政争に介入して国王を捕まえたりしているそうです。
平和のミッションどころか武力介入してるとおもうのですが。
だれかこの辺の経緯を詳しく御存じないですか?
田中先生 例のごとく 二重基準を行使か?そんなことを感じました。


No. 437
田中センセと読者
投稿者:本ページ管理人 1998/12/19 05:11:44
>創竜伝のどっかの巻で 明の宦官 鄭和に言及して
>彼の大航海は全く平和的な目的だった、
>後々のイギリス人が支那に働いたような残虐行為を行ったりは
>しなかったなどという主旨を述べていたと記憶しています。
>でもこの間、図書館で鄭和艦隊の業績(行跡?)を調べたら、
>セイロンでは政争に介入して国王を捕まえたりしているそうです。
>平和のミッションどころか武力介入してるとおもうのですが。
>だれかこの辺の経緯を詳しく御存じないですか?
>田中先生 例のごとく 二重基準を行使か?そんなことを感じました

 鄭和に関しては、伴野朗氏の小説で読んだことくらいしか知らないので、情報を求めます。二重基準については、充分あり得そうですね。
 鄭和には罪はないのだけど、あそこまで徹底的に「善」として描かれていると、かえっていかがわしい(笑)。世の中に絶対的な「善」と「悪」の区分がないという事をはじめて私に教えてくれたのは田中先生の小説ですから、私は先生に教えられたことを先生に返します。


No. 438
宦官鄭和について知ってる限り
投稿者:カエルサル 1998/12/19 13:22:07
 宦官とは去勢した後宮管理人兼側近のことです。後宮には皇帝と皇太子、未封の太子しか入れません。その管理のため去勢した男性が必要でした。

 しかし職務上国家機密を握り外宮の臣下より皇帝に近いことから宦官は歴史上様々な政治的混乱を招く原因となりました。秦の始皇帝の遺言を独占して改竄し、一番愚かな胡亥を擁立して横暴を極めた趙高などが有名です。

 特に宦官が専横を極めたのは明代です。一見不要の長物に見える宦官ですが絶対君主制で太子や妃にも心を許せない皇帝にとって幼い頃から世話をしてくれた宦官は特別な存在だったみたいです。
明を創業した洪武帝は漢唐両朝における宦官の弊害を嫌って徹底的に弾圧し、儒教思想と士大夫による官僚政治を進めました。2代目建文帝もこの政策を引き継いでます。そのころモンゴル族の侵入に備えて華北に封じられていた燕王が北京を中心に巨大な勢力を築いてました。建文帝はこれを潰そうとし、燕王も挙兵し3年にわたる内戦になります。(端難の役)

 雲南省昆陽県の貧しいイスラム教徒の家に生まれた鄭和はその時燕王の宦官でした。戦況は建文帝を怨んでいた宦官が機密情報をもらしたため燕王側の逆転勝利となりました。このとき鄭和は将軍として出陣し、卓越した軍略で勝利に貢献します。どうやら宦官ながら軍事的才能があったようです。南京を占領した燕王は即位して永楽帝となります。(1402年)
ところがこのとき官僚の統御がうまくいかず、彼らに不信を抱き、ますます宦官を寵重します。彼は特務機関「東廠」を創設しスパイで政府に批判的な官僚を摘発し、重罪犯用の1000人の番卒を揃えた収容所にぶち込みました。政治犯の捜索、逮捕には宦官の命を受け錦衣衛(憲兵隊)があたり、さらに勅命で逮捕する詔獄を設け、在官の大臣も有無を言わせずぶち込みました。この役所を「北鎮撫司」と言い、同じく「東廠」の指揮下におかれました。「東廠」の長官には宦官の最高官職の2番目のへい筆大監(副宰相)があたりました。初代長官は鄭和です。(「東廠」は以後強大な警察力で明末まで猛威を振るう)

 宦官が政治の表舞台にでて来たのはこのあたりからです。永楽帝が遷都した北京は元朝の大都のあったところで雑多な人種であふれ、永楽帝に仕えた宦官も異民族出身が多くいました。女真人のイシハモンゴル人のハイトンなどです。永楽帝は彼らに幼い頃から海外事情を聞かされてたのでモンゴル親征に南海遠征、ベトナム占領を行いました。(今の感覚で言えば侵略)

 鄭和はイスラム教徒で父がメッカに巡礼に行っていたため、、鄭和が南海遠征の総司令官になりました。南海遠征は1405年から1433年にかけて行われ、恩赦が約束された囚人を中心に27800名の将兵が参加しました。長さ140メートル幅50メートルの大船62隻で編成された大艦隊は東南アジア、インド、ペルシャ湾岸アラビア海周辺、アフリカ東海岸など32の港に寄りました。結果、イスラム圏を中心に三十数カ国の使節が明に朝貢に来ました。永楽帝は自由貿易を許可し国際貿易が活発化しました。ちなみにここから華僑がうまれ、鄭和は彼らに神として崇められてます。

(ここから私見)
 このように明の海外進出は中華帝国の威光を天下(世界)に知らしめるためのものです。よって中華帝国に都合のいいよう内政干渉したこともあります。(内政干渉について詳しく知らない)たしかにイギリスの植民地政策に比べて遙かに穏やかですが、この場合鄭和の遠征の引き合いにするのなら(何でそんな逸話を挿入するのかは別として)ポルトガルの遠征の方が的確だと思いますが。年代的に。意地の悪い批判をしますと、中国に侵略したイギリスを陥れたいだけで書いたように思えます。また、公安警察も真っ青の「東廠」(鄭和が初代長官)については書かれません。田中先生が大っ嫌いな秘密警察だから、いつものように強引に文脈を考えず批判するのに十分な事実のハズですが。

 あと、文部省を批判するのに宦官の「皇帝洗脳」を引き合いに出してますが(無茶具茶)これぐらいに強引にやるンなら、宦官が無くてはならないような中華帝国の絶対君主制を批判する方が無理がないと思います。氏は華僑に友好的みたいなので、「残虐な」イギリスの交易と対比させようして書いたとみることもできますが。どうでしょうか。


No. 467
遅れ馳せながら
投稿者:小村損三郎 1998/12/22 21:08:28
ここ数日で色々と面白い話題が出ていますが、まず鄭和の話題から考えたこと。(古いか?)
「戦争や政治に於いて、どちらの陣営にも正義があり、絶対的な正義と悪など存在しない」のと同様に、「1人の人間の中にも評価されるべき面と否定されるべき面が必ず存在する」のではないでしょうか。
 豊臣秀吉や毛沢東なんかはその最たるもので、庶民の英雄、建国の英雄であると同時に恐ろしい独裁者でもあるという2面性をコインの表裏のように持った人物でしょう。(田中氏は豊臣政権を「日本史上最悪の政権」と言ってますが。)
ヒトラーやスターリンについても否定されるべき部分の方が圧倒的に多かった、ということで、評価されるべき部分が皆無だったという訳ではないかもしれません。実は毛沢東もそうか(笑)。
でも麻原彰晃については・・・「評価されるべき部分」なんて見出したくないな(^^;;)。

勿論小説やドラマのキャラクターについてはこの限りではありません。善玉・悪玉がはっきりしていた方が書き易いし読み易い、感情移入もし易いに決まっています。
が、小説と評論をごっちゃにしている創竜伝等に於いて、小説の中の人物たちの描写と同じ手法・判断基準で歴史上の人物である鄭和やヴラドを切ってしまっている所が、読者を鼻白ませる原因になっているのでは?

田中氏は昔、富野由悠季監督との対談で山岡荘八の「徳川家康」や新田次郎の「武田信玄」を「「家康教」「信玄教」の布教本」と呼び、又、何とかいう女性が書いた武則天に関する本を「力作ではあるが、イデオロギーに染まっていて、武則天のやったことは何でも正しい、と言ってしまっている」と評してますが、こと(お気に入りの)中国の人物に関してはご当人自身がすっかりその弊に陥ってしまっていることに気づいてない様ですな。(何かこのパターンばっかり。他者に対して批判してる部分をご自分が完全に実践できているのかどうか一度総括してみてほしいものです。岳飛に関しては冗談半分に「布教して回ってる」と言ってますがね。)

結局田中氏の歴史評論や中国史小説の人物描写が他の作家に比べて薄っぺらいのもこの辺に原因がありそうです。一般には知られてない人を取り上げることが多いから目新しさはあるものの、思い入れのあまり贔屓の引き倒しが過ぎて、読者が引いてしまうんですな。
やっぱり小説なら作者の言葉ではなくキャラクターの言葉と行動を通して読者に自然な共感を覚えさせてこそ、でしょう。この点司馬遼太郎っていう人はやっぱりすごい。
田中氏も銀英伝はじめオリジナル作品では成功してるんですがねー。
実は今の本人の志向とは全然違っていて、やっぱり架空世界を舞台にした小説の方が向いてる人、なんでしょうね(爆)。


No. 6021
鄭和の大航海について
Vermeer 2004/11/05 18:39
明の永楽帝期の宦官・鄭和の大航海についてですが、
中国の外交は、建前としては朝貢外交にあります。
日本を始めとする周辺国が、中国に朝貢するのは2つの意味が合ったと思われます。
一つは朝貢する事で、その政権が中国の皇帝の臣下の立場で、その地域の支配者である事を認めてもらう事。
次は朝貢に対する見返り品です。
前者は教科書などでもよく記述されていますが、後者は等閑にされている傾向が有ります。
中国人にとって朝貢外交とは、世界の主として中華の優れた文物を、
非文明的で野蛮な周辺地域の臣下に施す事にほかなりません。
また、体面上も臣下が貢いだ品物に倍する品々を下賜する義務もあるのです。
当時の周辺国において、この下賜品の生む利益は半端でなかったようです。
例えば、明代の勘合貿易ですが、
五隻の船で船団を組んだ勘合貿易船の往復の純利益は、いまの価格にして約200億円もあったといわれています。
(当時の米の価格と現代の米の価格を基準に算出したもので適切でない部分もあるかと思いますが、まぁ、現在では一応信憑性のある算出方法とされています)
中国の王朝の権力が衰退すると、この下賜品がおざなりになるのです。
平安時代に遣唐使が廃止された背景にも、朝貢交易の利潤の衰退と言うのが上げられています。
その後、遣唐使は廃止されたものの、
大宰府管理の私貿易が盛んに行われるようになったと言われています。


時は永楽帝の時代。
蒙古民族の元朝を打ち倒して、漢民族の新たな王朝が立ったばかり。
永楽帝は、漢民族の皇帝としては初めて北京を首都に定めて天下に号令をかけ、
王朝の興隆の気概に溢れた時代です。
鄭和の大航海は、中国の朝貢貿易を
中国自身が積極的に行った拡大版と言う事が出来るでしょう。
この点が、後の大航海時代の西洋の立場と大きく異なるところです。
西洋は、新大陸に渡った多くのスペイン人が
餓狼の様に黄金を求めたように、あくなき利益の追求が目的です。

「黒人は聖書に載っていないから白人の下にいるべきだ」とは、
僅か30年ほど前のアメリカ合衆国南部のKKK団が本気で主張したことです。
西洋人にとって、アジア・アフリカ文明圏の人々は、非キリスト教者に過ぎなかったのだと思います。
それでなければ、お茶の輸入が膨れ上がって膨大な対清貿易赤字に苦しむ英国が、
ついにはアヘンを輸出し始め、アヘン交易をゴリ押しするためのアヘン戦争が勃発した事は
説明がつきにくいと思います。
非キリスト者に対する徹底的な利益追求。
それが、大航海以降の西洋の基本的な交易スタンスと言えるのではないでしょうか?

鄭和も、訪れた国の政権への内政干渉や軍事介入は行いました。
その意味で、全く平和的な対外遠征と決め付けるのは問題があるでしょう。
しかし、朝貢外交を建前として、
「父なる中華」が、「子たる蛮夷」に恵を施す事を建前としている以上、
自ずと西洋の「非キリスト者に対する徹底的な利益追求」とは異なるスタンスだったと思われます。
まぁ、誤謬を恐れずに言うのなら、
鄭和の内政干渉や軍事介入は、
「グローバルスタンダード」を主張し、世界各国を巻き込んでアフガニスタンに侵攻した
現在のアメリカに似ている感じがして仕方ないのですが…..。


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