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銀英伝考察1
ヤン・ウェンリーの思想的矛盾
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No. 482
銀英伝考察 〜ヤン・ウェンリーの思想的矛盾〜
冒険風ライダー 2000/1/14 23:57:43
 今回は創竜伝から少し離れて、銀英伝を論じてみたいと思います。
 あまりにも創竜伝批判のネタが多すぎ(笑)、なかなか銀英伝にまで手が回らなかったのですが、思想的に銀英伝にはかなり大きな疑問点があります。特にヤン・ウェンリーの思想に関してなのですが、どう考えても説明できない思想を開陳したり、自らの思想信条と相反するような行動を取ったりしているために、どうしてもヤンの思想に対する疑問を消す事ができず、思想的にはあまり感情移入できるキャラではありません。性格的にはかなり好きなキャラなのですが。
 銀英伝全体を通じて見ると、ヤンは基本的に民主主義者以前に理想主義者ですね。政治におけるマキャベリズム的発想をかなり嫌っているふしがあります。このことが、ヤンが政治を語る際に思想的矛盾となって現れてきています。
 その思想的矛盾とは次の3つに大別されます。

1. 国家的謀略に対する認識
2. 信念否定論
3. シビリアン・コントロールの矛盾

 他にも「ヤンの国家に対する認識」というものがありますが、これは以前にも語られた事なので省略しましょう。
 私がヤンの3つの矛盾に注目したのは、これが全く最悪の形で創竜伝に受け継がれており、しかも創竜伝のストーリー破綻にも少なからず影響していると考えるからです。まあヤンと竜堂兄弟に思想的共通項があるのは当然といえば当然なのですが。
 ではその思想的矛盾とは何か、それを検証していく事にしましょう。



1. 国家的謀略に対する認識

 ヤンの思想のひとつに「戦争否定論」があります。「戦争は多くの流血を伴う空しいものであり、だから否定されるべきだ」というシロモノで、一部例外はあるものの、ヤンの基本思想として貫かれています。まあこれ自体は特に間違った思想というわけでもなく、むしろ普遍的な思想といえるものでしょう。
 しかしヤンの考え方で全く理解できないのは、「より多くの流血を避ける事ができる謀略」という考え方を、「多くの流血を伴う戦争」以上に否定した事です。それが最もよく表れているのが、下の文章です。

銀英伝4巻 P180下段
<ヤンは明らかに謀略家としての才能を有していたが、才能だけが資質のすべてではなかった。性格や志向もさることながら、彼は謀略が成功すること自体に、意義を見出していなかったのである。彼にとって最高の価値観が、戦争と謀略による国家的利益の追求になかったことも明白であり、職業軍人、しかも若くして高い地位を得た軍人としては尋常ではなかった。>

 しかし、ただ「謀略否定論」だけが問題であるのならば、ヤンに限らずラインハルトも似たような思想信条を持っていますし、オーベルシュタインを除く帝国軍の将軍達のほとんど全てが、政治的謀略に対しては否定的な態度を取っています。したがって表面的には、ヤンの謀略に対する否定的態度はそれほど奇異なものには見えないかもしれません。
 しかしラインハルトや帝国の将軍達の場合、その謀略否定の態度の理由として、「謀略家であるオーベルシュタインに対する反感」「ラインハルトの潔癖な性格」「常勝不敗の帝国軍としての矜持」などと明確に説明できるのに対し、ヤンの謀略否定の態度は理解不能であると言わざるをえません。ヤンは「多くの流血を伴う戦争」を否定していたはずなのですから、それを回避する手段としての謀略に価値を見出す事はそれほど異常な事ではありません。それに感情の問題にしても、そもそも同盟は戦争をやっているのであり、毎年戦場で多くの人間が死んでいくのですから、それを防ぐために謀略をめぐらすという事は、むしろヤンの思想から言っても人道にかなう事であるはずです。さらにヤンは自分を「常勝不敗の名将」などと規定してもいなかったのですから、そもそもヤンには理論的に謀略を否定しなければならない理由がないのです。
 むしろ戦争を否定するのならば、その分謀略を肯定し、積極的に謀略を張り巡らすぐらいでなければならないはずです。それこそが、ヤンの嫌う「戦争による流血」を防ぐ最善の手段だったでしょうに。それともヤンは、戦争における死を直視する事はできても、謀略による死というものは直視できないというのでしょうか? どちらも同じ「人の死」ですし、数の上で言えば圧倒的に謀略の方が、すくなくとも味方の犠牲を少なくすることができるはずですがね。
 そもそも謀略の目的とは何か? それは最小限の犠牲で政治的課題を克服することです。ヤンは常に戦争を嫌い、そして戦争を遂行する立場にある自分自身を嫌悪していました。そうであるならばなおのこと、ヤンにとって、謀略というものは肯定して然るべきものだったのではないでしょうか? 謀略を使えば、南宋における秦檜のように、たった一人の人間を無実の罪に陥れるだけで、平和と経済的繁栄を享受する事だってできるのです。歴史をよく知っているであろうヤンの事ですから、この秦檜の事例を知らないはずもなく、ヤンには謀略家としての才覚も充分にあったのですから、「流血を回避するため」という一事のために、謀略家の道を歩む事だってできたはずではありませんか。別に「国家のためである」と考える必要はないのです。
 銀英伝でも、ヤンの死後になりますが、「オーベルシュタインの草刈り」が行われる過程で、オーベルシュタインが次のように主張しています。

銀英伝10巻 P78下段
<「軍事的浪漫主義者の血なまぐさい夢想は、このさい無益だ。一〇〇万の将兵の生命をあらたに害なうより、一万たらずの政治犯を無血開城の具にするほうが、いくらかでもましな選択と信じる次第である」>

 また、ミュラーの反論に対してこうも言っています。

銀英伝10巻 P79下段〜P80上段
<「軍務尚書はご自信をお持ちのようだが、人質を盾に開城をせまるような手段を、誇り高い皇帝がご承知になるでしょうか。吾らに艦隊をひきいさせ、この地まで派遣なさったからには、皇帝の御意は堂々たる正面決戦にあること、明らかではありませんか。軍務尚書は、あえてそれを無視なさると?」
「その皇帝の誇りが、イゼルローン回廊に数百万将兵の白骨を朽ちさせる結果を生んだ」
「……!」
「一昨年、ヤン・ウェンリーがハイネセンを脱してイゼルローンに拠ったとき、この策を用いれば、数百万の人命が害なわれずにすんだのだ。帝国は皇帝の私物ではなく、帝国軍は皇帝の私兵ではない。皇帝が個人的な誇りのために、将兵を無為に死なせてよいという法がどこにある。それでは、ゴールデンバウム王朝の時代と、何ら異ならぬではないか」>

 ここにおけるオーベルシュタインの主張ほど、謀略の存在意義を見事に表現した部分はないでしょう。そして、オーベルシュタインのラインハルト批判は、ほぼそのまま、戦争以上に謀略を否定したヤンにも当てはまります。もちろん、オーベルシュタインの謀略重視の姿勢は、市井の倫理観から言えば全く誉められたものではないでしょうが、政治・軍事に携わるものとしては当然すぎる態度です。むしろ感情だの倫理観だので政治を行えばロクでもない結果を導くことは歴史が証明していますし、銀英伝でもアムリッツァとラインハルトのイゼルローン遠征という2つの事例があるではありませんか。歴史に詳しいヤンが、この事を知らないはずがありません。
 もちろん、謀略によって犠牲になる人が全くのゼロというわけにはいかないでしょうし、謀略が失敗して却ってひどい目に遭うという例もないわけではありませんが、それは戦争の駆け引きにしても同じ事ですし、すくなくとも戦争よりもはるかに少ない犠牲者で事が収まることは確実でしょう。ヤンには謀略の才覚と、先見の明があったのですから、ヤンが本気になって謀略の分野に辣腕をふるえば、戦争による犠牲者を大幅に減らし、ひいては民主主義を守る戦いもはるかに容易になっただろうに、なぜ「流血を回避できる謀略の利点」を顧みる事がなかったのか。
 ヤンの戦争否定の思想から言っても、私にはそれが不思議でならないのです。


2. 信念否定論

 私が田中芳樹作品を読んでいく過程で一番最初に疑問を抱いたもの。それがヤン・ウェンリーの「信念否定論」です。
 ヤンの信念についての考え方は、下の文章に代表されるようなものです。

銀英伝2巻 P178上段〜P179上段
<「人間は誰でも身の安全をはかるものだ。この私だって、もっと責任の軽い立場にいれば、形勢の有利なほうに味方しよう、と思ったかもしれない。まして他人なら、なおさらのことさ」
 歴史を見ても、動乱時代の人間というものはそういうものだ。それでなくては生きていけないし、状況判断と柔軟性という表現をすれば、非難することもない。むしろ、不動の信念などというしろもののほうが、往々にして他人や社会に害を与えることが多いのである。
 民主共和制を廃して銀河帝国皇帝となり、専制政治に反対する人民四〇億人を殺したルドルフ・フォン・ゴールデンバウムなど、信念の強さでは誰もおよばない。現にいま、ハイネセンを占拠しているクーデター派の連中も、信念によって行動しているはずだ。
 人間の歴史に、「絶対善と絶対悪の戦い」などなかった。あるのは、主観的な善と主観的な善との争いであり、正義の信念と正義の信念との相克である。一方的な侵略戦争の場合ですら、侵略する側は自分こそ正義だと信じているものだ。戦争が絶えないのはそれゆえである。人間が神と正義を信じているかぎり、争いはなくなるはずがない。
 信念といえば、ヤンは、「必勝の信念」などという台詞をきくと、鳥肌がたつのである。
「信念で勝てるのなら、これほど楽なことはない。誰だって勝ちたいんだから」
 ヤンはそう思っている。彼に言わせれば、信念とは願望の強力なものにすぎず、なんら客観的な根拠を持つものではない。それが強まれば強まるほど、視野はせまくなり、正確な判断や洞察が不可能になる。だいたい信念などというのは恥ずかしい言葉で、辞書にのってさえいればよく、口にだして言うものではない。>

 この「信念否定論」ほど、ヤンの思想的矛盾が最もよく表れているところはないと言っても良いでしょう。銀英伝全編におけるヤンの行動が、「信念否定論」と全く合致しないのですから。
 まず、上記のように信念を完全否定しているはずのヤン自身が「民主主義は理想的な政治形態」であるという「信念」を持ち、それに基づいて帝国と戦争を行っているというのがあります。ヤンのこの「信念」に基づいて、一体どれほど多くの人が敵味方を問わず殺された事でしょう。ヤンの主張に従えば、ヤンの行動は「民主主義形態を守る」という「強力な願望による根拠のない信念」に盲従したものでしかなく、無益かつ無駄な戦いでしかないのだから、「信念」など投げ捨ててさっさと帝国に降伏した方が良かったという事になるではありませんか。
 また、ヤンはラインハルトを非常に高く評価していましたが、そもそもラインハルトの行動は「ゴールデンバウム王朝を滅ぼし、公正な政治を実現させる」とか「全銀河を統一する」といった「信念」に基づいたものなのではないでしょうか? そしてこのラインハルトの「信念」のためにどれほど多くの人が殺されたか分からないし、銀英伝8巻のイゼルローンの遠征などでは「全銀河を統一する」などという「余計な信念」のもとに、無益な戦いで無為無用に大量の戦死者を出すに至りましたが、ヤンがこれを批判した形跡がどこにもありません。自分の否定的思想が目の前で実行されたにもかかわらずです。
 さらに、ヤンがあそこまで「信念」を否定するということは、逆にいえば「信念のない人間は理想的である」という事になりますが、それではその「信念のない人間」というものをヤンがどのように評価したのか?
 銀英伝における「信念の全くない人間の代表格」と言えば、私は真っ先にヨブ・トリューニヒトを挙げます。この御仁はその場その場の状況でコロコロと主張を変えます。ある時は好戦主義者的な主張をし、またある時は反戦主義者に転向する。民主主義を崇拝していたかと思えば、同盟降伏後はさっさと帝国に仕官し、そこで権力を握ろうとする。さらにバーミリオン会戦時には、「余計な信念」を全く発揮することなくさっさと降伏を申し出て、惑星ハイネセンの10億の民衆を帝国軍の手から救いました。まさにヤンが理想とするであろう「信念の全くない人間」であると言えます。
 その「ヤンの信念否定の思想からすれば理想的な人間」であるはずのトリューニヒトを、ヤンは徹底的に嫌いぬきました。しかもその理由はというと「あいつはいつも主張をコロコロ変えるから」とか「徹底的なエゴイストだから」と言った、まさに「信念欠如の行動原理」が原因だというのですから、ヤンの人物評価は、自らの主張であるはずの「信念否定論」を全く厳守していないと言わざるをえません。
 ルドルフを批判するための手段として「信念否定論」を展開しておきながら、それを自分自身に対して適用できないというのでは、ダブルスタンダードのそしりは免れないでしょう。いくらルドルフを否定したいからといって、これではルドルフが気の毒なのではないでしょうかね。

 ヤンの「信念否定論」というのは、実はここまでヤンの行動や人物評価と乖離しているのですが、ではなぜ、このような矛盾が発生するのか? おそらく理由は2つでしょう。

 ひとつは、ルドルフの行動が信念に基づくものであるという「固定観念」があったがために、信念の内容に全く言及することなく「信念を持つ事それ自体が悪」と規定してしまった事。
 確かにルドルフの弱者撲滅政策や自己神格化などは「自分の考えは絶対に正しい」という信念に基づいて行われた事でしょう。しかしルドルフの考えの致命的な間違いは、「強固な信念」を持っていた事それ自体にあるのではなく、自らの「信念」が絶対的に正しいと思いこみ、他者を顧みる事も、自らの思想の検証も全くやらなかった事にあるのですし、民衆の圧倒的な支持によって独裁者となることで強大な権力を握り、反対者を徹底的に弾圧する事ができる立場にあったことで、議会やマスメディアのチェック機能が全く働かず、それによっていっそうルドルフの暴走を加速させたというのが、ルドルフがあそこまで「悪」となった真相なのではないでしょうか。
 そもそもヤンの「信念」に対する定義「願望の強力なものにすぎす、なんら客観的な根拠を持つものではない」というのは、それこそ「信念の一断面」のみを見ただけのものでしかないし、「何ら客観的な根拠をもつものではない」のです。「信念」というのは確かに「強力な願望」という一面もありますが、それと同時に「行動指針」「行動方針の最終目標」という一面もあるのです。これは特に政治を行うときには重要なものです。これがないと、そもそも何をすれば良いのかさえ分からないのですから。
 ラインハルトの「信念」などはその好例でしょう。彼の「ゴールデンバウム王朝の打倒と全銀河の統一」という「信念」がなかったら、銀河帝国は衰退の一途をたどったあげく、多くの小国家に分裂していた事でしょう。帝国と同盟の100年以上にわたる戦争を終結させ、ローエングラム王朝が成立したのは、ラインハルトの「信念」が常にその方向を指し示し続け、ラインハルトがひたすらそこを目指す事によって見事に成就したからではありませんか。
 ラインハルトの例とトリューニヒトの例を比較してみれば、人間が政治を行う場合、多かれ少なかれ「信念」を持って政治をしなければならないという結論に達するでしょう。何らかの理念を持ち、国民を説得しなければ政治はできませんし、「惰性」や「その場の雰囲気」や「人気取り」などで政治をやられては国民はたまったものではありません。したがって、政治を行う際に「信念」を持つ事それ自体は決して悪い事ではないし、むしろ推奨すべき事なのです。

 もうひとつは、「では信念がない人間というものがいかに醜悪であるか」という点に対する考察が全く欠けていた事。
 これはトリューニヒトのあの「厚顔無恥な転向ぶり」を見ていればすぐに分かると思うのですけどね。トリューニヒトだけでなく、トリューニヒトの取り巻きの政治家を見ても、汚職と保身にふける彼らに「確乎たる信念」というものがかけらでも見出せたでしょうか? 彼らはむしろ、ヤンの主張とは逆に「信念」というものがなかったがために、政治の方向性を見出す事ができず、腐敗していたのではないでしょうか。ただひとり、銀英伝5巻におけるアイランズ国防委員長のみは「民主国家を守る」という使命に突如目覚め、末期の同盟を引っ張る姿勢を見せましたが、これこそ「信念に基づいた行動」以外の何物でもありません。
 また、帝国と同盟は100年以上にもわたって惰性的な戦争を行っていましたが、この期間の間に「戦争を止めなければ」という「確乎たる信念」を戦争指導者達が持っていれば、双方が停戦するという形で戦争を止める事ができたかもしれません。これなどはヤンの考え方とは全く逆の現象ですね。現実には、原理主義者や主戦論者が幅をきかせていたためにダメだったようですが。
 さらに、これは現実世界の話になりますが、現在、リベラル・平和主義の代表格と言われる朝日新聞は、戦前はそれこそ「右翼の軍国主義」的な言動ばかり繰り返して日本を戦争に導いたあげく、敗戦を迎えるや、自らの言動の総括や反省を何ら行わず(←これが重要)に現在の路線に「転向」するという、まるでトリューニヒトのような行動をやってのけたのですが、これが果たして誉められた行為なのでしょうか? まあ処世術に長けていると言われれば全くその通りなのですが(笑)。
 このように「信念が全くない」というのも「信念が強すぎる」と同程度、あるいはそれ以上に問題があると言わざるをえません。そもそもヤンにはトリューニヒトという「信念の全くない人間」とも言うべき人物が目の前にいたのですから、すこしは自分の「信念否定論」がいかにおかしいのか、気づく余地は充分にあったと思うのですがね。

 ただ、私はヤンの「信念否定論」にも一定の理はあったと思うのです。「強すぎる信念、自らの考えを絶対のものであると盲信する信念」というものは確かに害を及ぼします。しかし一方では「信念」という概念も必要不可欠である。
 だから私は、「信念」を頭ごなしに否定するのではなく、「信念」が「絶対的な信仰」に陥る事がないように常にチェックするという事こそが、重要であると思うのですが。


3. シビリアン・コントロールの矛盾

 銀英伝5巻、バーミリオン会戦において、ヤンはラインハルトを射程に収めながら、トリューニヒトの停戦命令を受けいれました。これが「ヤンはシビリアン・コントロールに忠実であったからこそ停戦したのだ」と評価されています。しかしヤンの行動は、本当にシビリアン・コントロールの原則にかなったものだったのでしょうか?
 これが問題になるのは、停戦を受けいれた後のヤンの行動です。
 まず彼は、いずれ帝国に引き渡さなくてはならないからという理由でメルカッツ提督を逃しました。そしてそれにともない、何隻かの戦艦およびそれに伴う燃料・食糧・人員を持たせ、そのことを戦場で失われたということにして偽装報告を行いました。
 ヤンのこれらの行動は、政治的には正しいものであったかもしれません。しかしシビリアン・コントロールの観点から見れば、実にとんでもない話であるといわなければなりません。
 そもそもヤンは、政府の命令ないしは許可を得ていないにもかかわらず上記のような行動を行っているのです。それどころか、この場合の同盟政府(正確には同盟元首トリューニヒト)の命令は「無条件停戦命令」です。つまりこの命令を受けたヤンは、ラインハルトに対する攻撃を停止しなければならないだけでなく、全ての軍事行動を止めなければならないのです。
 その状況下でメルカッツ提督を、ある程度の戦力を伴わせて逃がすという事は何を意味するのか? それは一定の軍事力を隠蔽するという事であり、その部隊に戦闘を継続させるということです。しかもヤンはそんな命令を同盟から受けたわけではないのですから、これは明らかに「無条件停戦命令違反」でしょう。しかも戦艦や人員などを「政府の命令なしに無断で」隠蔽し、それを「戦場で失われた」などと報告する事は、同盟の国防軍基本法における職権濫用にあたり、また背任横領罪と公文書偽装の罪にもあたります(銀英伝6巻 P132)。
 シビリアン・コントロールの原則を守るということは、政治家の命令を忠実に守るというだけでなく、法を忠実に守るという事もその中に含まれるのです。停戦受けいれ後のヤンの行動は、このシビリアン・コントロールの原則から大きく逸脱していると言わざるをえません。帝国に降伏してまでシビリアン・コントロールを厳守したかったのならば、同盟軍を全面武装解除した上で、メルカッツ提督を帝国に引き渡して「自分は同盟元首の命令に忠実である」ということを示すべきだったのです。そこまでの覚悟がないのならば、さっさとラインハルトを砲撃で吹き飛ばしてしまうべきでした。これでは一体何のためにヤンは帝国に降伏したというのでしょうか。
 さらに奇怪なのは、これほどまでにヤンの思想を覆しかねないであろう重大な事実に、ヤンを含めた銀英伝のキャラクターの誰ひとりとして気がつかなかったという点です。上記のような「違反行為」を列挙していけば、銀英伝6巻にてレンネンカンプないしレベロは、ヤンを合法的に逮捕する事ができたのです。しかもその「罪状」には「シビリアン・コントロールの逸脱」というオマケまでつきます。ヤンの民主主義思想に対する大ダメージとなったことは疑いの余地がないでしょう。同盟市民にも、ヤンの民主主義思想が全くの偽りであるという印象が与えられたかもしれません。何も「反和平活動防止法」などという「事後法」を使わずとも、この方がはるかに効果的ではありませんか。完全に事実なのですし、法的にも万全なのですからヤンもさぞかし困る事でしょう。まあ証拠集めに少々てこずるかもしれませんが、公文書偽装の線から攻めていけば、これも楽勝でしょう。全く証拠が挙げられない、という訳ではないのですから。
 民主主義とシビリアン・コントロールの概念は銀英伝の重要なテーマのひとつだったはずですし、それからいくと「法の問題」というのは避けて通れない場所であるはずです。それなのに、なぜこれほどまでに肝心なところが抜けてしまっているのでしょうか?



 ヤンの思想と行動原理がこれほどまでに乖離しているのは、結局のところ、ヤンに「自らの思想に殉じる覚悟」が欠如していたからなのではないでしょうか。民主主義の理想を唱えつつ、「敵味方を徹底的に利用し、目的を果たす」というところまで冷酷になる事ができない。それこそがヤンの思想的矛盾の根本にあるのではないかと思います。
 このヤンの思想的矛盾の最も最悪な部分を最悪な形で受け継いだのが、創竜伝の竜堂兄弟でしょう。連中の「感情に基づく行動原理」の起源が、ヤンの理想主義的な甘さにあるのではないかと考えるのは私だけでしょうか?


No. 483
あとがき 再開篇(の醜悪なるパロディ)
冒険風ライダー 2000/1/15 00:05:21
 さまざまな事情があって、半月ほど「眠り姫」状態がつづいていた私の田中芳樹作品に対する批評ですが、このたびようやく(2000年1月のうちに)起床の運びとなりました。長いこと忍耐の美徳をしめしつづけてくださったROMの皆様に、心からおわびとお礼を申しあげます。
 私としても宿題をかたづけてひと安心―――とはなかなかいきません。なるべく早くつぎの宿題を、と思っておりますが、生産力の低さと不定期な連載で定評のある私のこと(そんなことで定評を得てどうする)、今後ともなにとぞ気長におつきあいくださいますよう。
 さて、今回、内容的には予定どおりの銀英伝の批評ではありますが、田中芳樹作品の批評がはじまって以来もっとも作品に敬意をはらった批評となりました。「(笑)」が2個ていどですんで、まことにめでたい気もいたしますが、これをもって「平和篇」と呼ぶのは、あつかましいかぎりですね。
 批評開始以来、一方的になぎ倒される運命にある竜堂兄弟をはじめとする創竜伝のキャラクターと社会評論も、今回は小休止。他の作品といっしょに本棚でお留守番とあいなりました。次の「私の創竜伝考察シリーズ」での反動がこわい。完膚なきまでに叩き潰されるであろう犠牲者たちに、あらかじめお悔やみ申しあげておくことにいたします。
 今回ひさしぶりに創竜伝という腐臭を放つ下水道からぬけだして、銀英伝の大地を吹きぬける風に身と心をさらし、なつかしく、蘇生するような感覚をおぼえました。この感覚をROMの皆様にも共有していただけたなら、投稿者としては無上の喜びです。


PS
 う〜ん、わざと醜悪に書いたとはいえ、我ながらひどい文章だ(笑)。
 それにしても、アルスラーン戦記10巻のあとがきを見る限り、田中芳樹に全く反省の色が見えませんね。読者の田中芳樹に対する信頼が年を経るごとにどんどん下がっているという事実が、あの御仁には分からないのでしょうか?


No. 484
オーベルシュタインという矛盾の効用
新Q太郎 2000/1/15 01:55:33
部分的なレスですが。

> 1. 国家的謀略に対する認識
>
>  しかしヤンの考え方で全く理解できないのは、「より多くの流血を避ける事ができる謀略」という考え方を、「多くの流血を伴う戦争」以上に否定した事です。
>  そもそも謀略の目的とは何か? それは最小限の犠牲で政治的課題を克服することです。そうであるならばなおのこと、ヤンにとって、謀略というものは肯定して然るべきものだったのではないでしょうか
> 「オーベルシュタインの草刈り」

> 「その皇帝の誇りが………」

この「オーベルシュタインの草刈り」に置ける軍事会議は、銀英伝十巻の中でも白眉といえるシーンです。そして私が思うに、この部分がそれだけの評かを得るのは、まさに指摘の通り、オーバルシュタインの論理がヤン(及びラインハルト)の思想的矛盾、弱点を的確に付いているからでしょう。そして、おそらく両者ともそれには答えられない。

で、ここが重要。
その矛盾を矛盾として放置しているからこそ、「銀英伝」のドラマはそのテーマに緊張感を内包させることが出来続けた。そういう点で、オーベルシュタイン的謀略論とヤン・ラインハルト的謀略否定論は、矛盾それ自体が、ひとつの価値を持っているのであろう、と思う次第。

私がこの個所で思い出したのが、同時期(高校時代)読んでいた「翔ぶが如く」での西郷的価値観と大久保的価値観の対立であった。


No. 485
明治日本のオーベルシュタイン
平成の一軍人 2000/1/15 11:26:25
新Q太郎さんは書きました
> 私がこの個所で思い出したのが、同時期(高校時代)読んでいた「翔ぶが如く」での西郷的価値観と大久保的価値観の対立であった。
>
 軍人でありながら、内務官僚にも子飼いの勢力を扶植し、軍・警の両方を
握って一大権力者になりおおせながら、結局誰からも尊敬されなかった
(しかし国家への功績は無視し難いくらい巨大)という点で、大久保以上にオー
ベルシュタインに似ているのは、山県有朋ですね。軍閥の親玉として嫌悪の
的になっている人物ではありますが、明治国家を強大ならしめたという功績
は無視できません。「嫌われた功臣という」点で、山県元帥はまさに明治国
家のオーベルシュタインです。


No. 487
Re484/485 謀略否定論の弊害とオーベルシュタインについて
冒険風ライダー 2000/1/15 17:01:47
<この「オーベルシュタインの草刈り」に置ける軍事会議は、銀英伝十巻の中でも白眉といえるシーンです。そして私が思うに、この部分がそれだけの評かを得るのは、まさに指摘の通り、オーバルシュタインの論理がヤン(及びラインハルト)の思想的矛盾、弱点を的確に付いているからでしょう。そして、おそらく両者ともそれには答えられない。>

 実は私が銀英伝で一番感銘を受けた個所が、まさにあのオーベルシュタインのラインハルト批判だったんですよ。銀英伝7〜8巻におけるラインハルトのイゼルローン遠征は、読んでいく過程で「何でこんなに無益な戦いを行うんだ?」と疑問に思ったものでしたからね。ヤンもラインハルトを全く批判しようとしないし。
 だいたいあのイゼルローン遠征は、オーベルシュタインが批判したとおり「ラインハルトの個人的な誇り」のためだけのために行われたようなものでしたし、そのヤンが地球教徒に暗殺されて、とにもかくにも戦略目標が達成されたかと思えば、「喪中にある軍を討つことはできない」などという「個人的な倫理観」によって軍を還してしまう始末。イゼルローンを放っておいたら、いずれはそれなりの脅威になるかもしれないのですから、相手が喪中にあろうがなかろうが、あのときこそ武力を背景にしてさっさとイゼルローンを制圧してしまうべきだったのです。ヤンの死で混乱し、しかも指導体制が全く整っていないイゼルローンを降伏させることなど、赤子の手をひねるくらい簡単な事であったはずですし、ラインハルトの宿願であるはずの「全銀河の統一」だって達成されるのですから。
 迷惑なのは帝国軍の将兵ですよ。なぜ「ラインハルトの個人的な誇り」などのために何度も何度も無益な出征をしなければならないのか。私にとって、ヤンやラインハルトの倫理観重視・謀略否定の姿勢は、彼らの人道思想から言っても理解に苦しむものでしかありませんでした。
 だからこそ、そのような矛盾を見事に突いてみせたオーベルシュタインに、私は賞賛を惜しまないのです。思想的にオーベルシュタインが一番好きなのもそのためですよ。


<その矛盾を矛盾として放置しているからこそ、「銀英伝」のドラマはそのテーマに緊張感を内包させることが出来続けた。そういう点で、オーベルシュタイン的謀略論とヤン・ラインハルト的謀略否定論は、矛盾それ自体が、ひとつの価値を持っているのであろう、と思う次第。>

 オーベルシュタインの謀略論を出すために、あえてヤン・ラインハルト的謀略否定論を出してきた、というのならば確かに「矛盾それ自体が、ひとつの価値を持っている」ともいえるのでしょうけどね〜。田中芳樹の意図はむしろ逆でしょう。
 理想主義や個人的倫理観を振りまわしているだけでは政治は行えない、ということを彼らが知らないはずがないのに謀略を否定するというのならば、それなりの理由を説明して欲しいのですが、どうも単なる感情論だけなのではないかという結論しか導き出せません(ヤンに至ってはそれでさえ説明できない)。彼らは、戦争による死と謀略による死とは、何か全く別のものであるとでも考えているのでしょうか?
 せめてオーベルシュタインの主張にまともに対抗できるだけのアンチテーゼでもあれば何とかなるのでしょうが、銀英伝でもその辺が曖昧になっていますからね〜。この命題は非常に面白いものであったので、この辺は曖昧にして欲しくはなかったのですが。


<私がこの個所で思い出したのが、同時期(高校時代)読んでいた「翔ぶが如く」での西郷的価値観と大久保的価値観の対立であった。>
<「嫌われた功臣という」点で、山県元帥はまさに明治国家のオーベルシュタインです。>

 少しニュアンスは違いますが、歴史上の人物でオーベルシュタインに似た人物を挙げるのならば、私は南宋の秦檜を挙げますね。まさにオーベルシュタインの命題を実際に行ってみせた人物です。宋の存続のために宋と金との和平を結んだというのに、850年以上たった今でも嫌われている(というよりも不当評価されている)というのですから、「嫌われた功臣」という点ではオーベルシュタイン以上です。
 オーベルシュタインについては、MerkatzさんのHPにもかなり興味深い評論がありますので、そちらもご覧になってはいかがでしょうか。
URLはこちら↓ 「田中芳樹を撃つ!」のリンクからも行くことができます。
http://ww3.tiki.ne.jp/~yang/g-chara.htm


No. 488
山県有朋について
小村損三郎 2000/1/15 20:24:18
平成の一軍人さんは書きました
>  軍人でありながら、内務官僚にも子飼いの勢力を扶植し、軍・警の両方を
> 握って一大権力者になりおおせながら、結局誰からも尊敬されなかった
> (しかし国家への功績は無視し難いくらい巨大)という点で、大久保以上にオー
> ベルシュタインに似ているのは、山県有朋ですね。軍閥の親玉として嫌悪の
> 的になっている人物ではありますが、明治国家を強大ならしめたという功績
> は無視できません。「嫌われた功臣という」点で、山県元帥はまさに明治国
> 家のオーベルシュタインです。

う〜ん、そうでしょうか。

私の意見としては似ても似つかない、というかむしろオーベルシュタインとは正反対の人物、という印象があります。
似てるのは性格が酷薄という点ぐらいで(^^;;)。
この人って終生自らの勢力の扶植に血道を上げ続けた人ですよね。

一般に、奇兵隊は高杉晋作が創立したとされており、たしかにそうではあるのですが、実際は発足間も無くして高杉は隊を離れてしまい、実質的に組織を整備したのは山県です。
で、彼は乗っ取り同然に奇兵隊の徹底した私物化を進めました。
もちろん自分の地位と発言力のバックボーンにする為です。
その結果、『開闢総督』たる高杉が藩内俗論派に対する決起を決意した際も山県が渋った為に隊を動かすことができず、ほとんど破れかぶれに近い形でわずか数十人での決起を余儀なくされる羽目に陥りました。
山県が重い腰を上げたのは、初動を見て高杉らに同調した方が得だ、と見極めたからです。

明治後も彼の性向は変わらないどころかますます酷くなり、新政府の土台を固めねばならない時期に政商と結託して汚職を重ね、司法卿の江藤新平に厳しく追及されて政治生命の危機に陥ると(ここで抹殺されてさえいれば・・・)西郷に泣きつく始末。

国家の存亡をかけた戦いである日露戦争においても派閥の論理と情実を優先させた人事でいたずらに軍の指揮系統を弱体化させ、無用の犠牲を増やしました。

挙句の果てに若き日の昭和天皇と現皇太后さまのご婚約の時も不敬極まるイチャモンをつけて妨害を図ったりと(いわゆる「宮中某重大事件」)わがままのし放題。

とまあ、終始「公」よりも「私」(それも自分一個の)を優先させた人で、どちらかというとオーベルシュタインよりラングに近いような(笑)。
正直言ってこの人が居なくても「明治国家は強大ならしめられた」と思いますが、彼が垂れ流した害毒の方は計り知れず、到底好きになれない人物ですね。
明治天皇や昭和天皇も山県をひどく嫌っておられたようです。


No. 490
Re: Re484/485 謀略否定論の弊害とオーベルシュタインについて
本ページ管理人 2000/1/16 19:24:10
 ヤンの矛盾に関しては、「後世の歴史家」によってたびたび指摘されていましたね。
 人間が書いた小説である以上、完全な客観視は無理でしょうが、少なくとも、このころの田中氏には客観的であろうとする意気は感じられます。
 そのあたりは、以前の雑誌インタビューでも語っていましたし。

>田中芳樹の意図はむしろ逆でしょう。
 しかし、そのオーベルシュタインの論理に反論出来ないことは、書いた時点で田中氏は気づいていたのではないでしょうか(さすがにそれくらいは気づくでしょう)。結果的にそれから逃げてしまっていても、その逃げた矛盾自体が物語に活力を与えていると思います。

 創竜伝の御一行に一人くらいこういう御仁がいても良いような気もしますがねぇ…そもそも、世界的な謀略組織に暴力だけで勝てるのかどうか疑問ですね。
 その点、地球儀とカラトヴァには大きなギャップがありますね(地球儀の主人公はヤンを超えて竜堂兄弟的理想家ですし、カラトヴァの主人公は謀略家ですよね)。もし、一巻の社会評論ぶりが「謀略の世界に巻き込まれて自らの主張の無力を痛感する主人公」というような話のための伏線であるなら、これは一巻に対する評価を180度変えるかも知れませんが(笑)、まあ、これはないでしょうな。



No. 492
Re490:謀略論その他
冒険風ライダー 2000/1/17 02:48:08
<ヤンの矛盾に関しては、「後世の歴史家」によってたびたび指摘されていましたね。
 人間が書いた小説である以上、完全な客観視は無理でしょうが、少なくとも、このころの田中氏には客観的であろうとする意気は感じられます。
 そのあたりは、以前の雑誌インタビューでも語っていましたし。>

 確かに「客観的であろうとする意気が感じられる」という点では、銀英伝は創竜伝などよりはるかに秀逸であるといえるでしょう。
 ヤンと竜堂兄弟の決定的な違いは何かと言えば、「自分たちの主張が正しいものであるかどうか」ということを常に自分自身に問いかけている姿勢につきるでしょう。ヤンが私の挙げた3つの思想的矛盾に気づいていたかどうかは分かりませんが(おそらく気づいていなかったのではないかと思いますが)、すくなくとも「自らを客観視しようとする姿勢」において、ヤンは竜堂兄弟などと同列に並べるべきではないでしょうね。この点は、私も高く評価するところです。


<しかし、そのオーベルシュタインの論理に反論出来ないことは、書いた時点で田中氏は気づいていたのではないでしょうか(さすがにそれくらいは気づくでしょう)。結果的にそれから逃げてしまっていても、その逃げた矛盾自体が物語に活力を与えていると思います。>

 はたしてそうでしょうか? 銀英伝以降の田中芳樹作品を見ていると、とても田中芳樹が「オーベルシュタインの論理に反論出来ないことに気づいていた」とは思えないのですが。
 それが最も典型的に表れているが、竜堂兄弟の感情的な謀略否定論であり、そして私がしつこく主張している秦檜評価論です。特に秦檜評価論などは、批評の本文や前の投稿でも書いたように、まさにオーベルシュタイン的謀略論の至上命題であるといえる、
「正々堂々と戦って一〇〇万人の血を流すことと、最低限の犠牲で平和と統一を達成することと、どちらがより歴史に貢献するのか」(銀英伝10巻 P97)
という問題提起(しかも当時の宋の国情からしても、いっそう秦檜側に有利になっている)を最も忠実に表現しているにもかかわらず、田中芳樹がこの命題を顧みた形跡がありません。紅塵と銀英伝とは別作品であるとはいえ、他でもない自分自身がやったはずの問題提起ですよ。ならばそれに対して自分なりの解答を与えずして、どうやって秦檜を公正に評価できるというのでしょうか? 紅塵におけるあのような「謀略完全否定論的な評価」では、作品に対しても、自らの主義主張からしてもマイナスにしかなりようがありません。だからこそ、私はあの秦檜評価論にこだわるのですし、また創竜伝の支離滅裂ぶりに至っては言うまでもないでしょう。

 それからヤンの謀略否定論にはもうひとつ問題があるのです。批評本文でも「主題」として書きましたが、ヤンの戦争否定論的な思想からいっても、戦争犠牲者に対する感情からいっても、ヤンが謀略を否定すべき理由がないという事です。これがヤンの謀略否定論が「特に」問題になる最大の理由でして、例えばラインハルトならばまだ理由は理解できるのですよ。賛同はしませんけど。
 なぜヤンは謀略を否定するのか? これを突き詰めると、さらにヤンの思想的矛盾が拡大するように思うのですが、これについて管理人さん、そして皆さんの考えはどうでしょうか?


<創竜伝の御一行に一人くらいこういう御仁がいても良いような気もしますがねぇ…そもそも、世界的な謀略組織に暴力だけで勝てるのかどうか疑問ですね。>

 そもそも政治的・経済的な影響力という観点から見れば、竜堂兄弟も市井の庶民と全く異なる点はないのですからね。現に四人姉妹の政治的・経済的世界戦略に対して竜堂兄弟は全く無力です。
 あそこまで絶望的な力の格差を超人的な暴力だけで埋めようなどという発想自体、トンデモであると言わざるをえないのですが…………まあ「感情によって行動する」などと自ら公言しているような連中に謀略の意義を分からせる事など、まず不可能でしょうけどね(笑)。


<その点、地球儀とカラトヴァには大きなギャップがありますね(地球儀の主人公はヤンを超えて竜堂兄弟的理想家ですし、カラトヴァの主人公は謀略家ですよね)。もし、一巻の社会評論ぶりが「謀略の世界に巻き込まれて自らの主張の無力を痛感する主人公」というような話のための伏線であるなら、これは一巻に対する評価を180度変えるかも知れませんが(笑)、まあ、これはないでしょうな。>

 地球儀シリーズについては、私は少し違った感想を持っております。

地球儀の秘密 P33下段〜P34上段
<これが近代以前の中国ででもあったなら、説話の材料にでもなっていたところである。不幸で孤独な少女が、親族の大半からも見すてられ、貧しく育ちながら美貌と才知と野心に磨きをかけ、天子の後宮にはいりこみ、最下級の女官から寵妃へ、さらに皇后へとのしあがってゆく。その背後には、陰謀に長じた叔父がいて、全ての糸をたぐり、国家と宮廷をあやつっていくのだ……。
 周一郎は乱読と雑学の徒であるだけに、右のような情景をふと空想して、ひとり笑いをすることがあった。むろん、どこまでも冗談である。世界はかならずしも平和ではないが、そのなかでもきわめて平和で安定しているように見える国に、彼は生まれてしまった。どのような腐敗も不公正も笑って受け容れる人々のなかで育ち、表面的な繁栄のどぎつさに多少のいらだちを感じながら、どうすることもできずにいる。そのような心境が、現実化するはずもない説話の世界に、つい深入りしたくなる原因であったろうか。>

地球儀の秘密 P34下段〜P35上段
<周一郎は別の時代に生まれたら、けっこう陰謀とか叛乱とかをたくらむタイプであるかもしれなかった。そう、中国の歴史物語に登場するような。これで多夢が絶世の美女であるなら、いよいよ説話的世界が近づいてくるのだが、将来の可能性はともかく、まだ一三歳ではしかたない。>

 これらは白川周一郎と多夢の境遇について書かれたものですが、これから判断すると、むしろ白川周一郎は謀略志向の人間なのではないでしょうか。それが現実世界では発揮しようがないという事に対する不満という意味で社会評論が展開されている、と私は解釈したのですが。
 もちろん、地球儀シリーズの社会評論も創竜伝並に低レベルなものですからツッコミどころはいくらでもありますが、すくなくとも創竜伝のように「ストーリー構成に不必要かつ無関係にもかかわらず大量に挿入することによってストーリーを破壊している」というレベルには至っていないのではないかと。
 だから私は、3巻以降に展開されるであろう、白川周一郎とグントラムとの政治的駆け引きを結構楽しみにしていて、田中芳樹の現代物では珍しく「夏の魔術」と並んで続巻を待っているのですよ。すくなくとも「将来的な面白さが期待できる」という点で、スレイヤーズと極楽大作戦の3流以下のパクリでしかない「薬師寺シリーズ」などよりもはるかに良質な作品であると思いますけどね(パクリそれ自体がけしからん、と言っているわけではありません。念の為)。


No. 493
「明確な理由」を設けていないことが問題
北村 賢志 2000/1/17 13:01:21
冒険風ライダーさんは書きました
>そもそも政治的・経済的な影響力という観点から見れば、竜堂兄弟も市井の庶民と全く異
>なる点はないのですからね。現に四人姉妹の政治的・経済的世界戦略に対して竜堂兄弟は
>全く無力です。
>あそこまで絶望的な力の格差を超人的な暴力だけで埋めようなどという発想自体、トンデ
>モであると言わざるをえないのですが…………

 この点は創竜伝のストーリーにおける非常に大きな問題点だと思います。
 そもそも創竜伝に出てくる敵方の世界支配は個々人の能力とは切り離されたものであり、個体としては無敵でも集団として全く無力な竜堂兄弟は、全く脅威ではありません。
 しかし彼らがその力を振るえば、その個体としての能力で世界は根底からひっくり返ってしまいます。
 つまり竜堂兄弟は一般人にとっての猛獣や劇薬と同じく「脅威ではないが危険な存在」なわけです。
 常識的に考えれば明らかなように、こんな相手には関わるだけ無駄であり、監視するに留めるのが普通の反応でしょう(そう言えば西谷史の「神々の血脈」にて、敵が主人公達をそう評価するところがありました)。
 ところが1巻はまだいいとして、それ以降の敵は特別な必要もないのに竜堂兄弟を(特に精神面で)追い詰める行動をとっています。早い話、「ガソリンスタンドで火遊び」しているようなものです。
 もし竜堂兄弟が追い詰められた結果キレてしまい、ウォール街や中東の油田等を破壊しまくれば、それこそ彼らの世界支配はひっくり返ってしまうにも関わらず、そのような危険を犯してまで積極的に「竜堂兄弟に関わらなければならない」理由が全く見えてきません。
 確か「自分たちと無縁に自由でいる存在そのものが許しがたいのだ」と言った描写がありましたが、そんな理由で竜堂兄弟に手を出すようなバカ揃いだったら、そもそも「巧妙な世界支配」なんてできないと思うんですがね…
 田中氏よりはるかに格下の三文小説家でも「主人公と敵が関わるに至る明確な理由」が設けてあるのが普通であるにも関わらず、創竜伝においてはこの重要な部分がすっぽり抜け落ちているのです。
 少なくとも明確な理由さえ設けてあれば、この点は問題にはされないと思いますが、創竜伝における敵キャラは田中氏が散々揶揄した子供向け作品に出てくる悪役の多くが明確な理由もなしに「世界征服」や「人類滅亡」を意図するのと同じように、「そうしないと話にならないから」理由もなしに竜堂兄弟に関わってくるようにしか見えません。
 この問題は恐らく何度も言われているように、田中氏が「一方的に権力の犠牲とされる一般市民」として竜堂兄弟を描こうとしているからだろうと思いますが、それは一回やれば十分です。


No. 494
Re: 銀英伝考察 〜ヤン・ウェンリーの思想的矛盾〜
あしだ 2000/1/17 13:15:22
長いことROMを続けておりましたが、初めてカキコいたします。どうぞよろしくお願いいたします。>冒険風ライダーさま、ALL

さて、冒険風ライダーさんは書きました

>  しかしヤンの考え方で全く理解できないのは、「より多くの流血を避ける事ができる謀略」という考え方を、「多くの流血を伴う戦争」以上に否定した事です。

ヤンがラインハルトの気質(すなわち、

> 「謀略家であるオーベルシュタインに対する反感」「ラインハルトの潔癖な性格」「常勝不敗の帝国軍としての矜持」

といった)を熟知しており、あえて謀略主義を採らず、大量の流血を伴う(いわば「正々堂々とした」)行動原理を選択したのだとは考えられないでしょうか。

結果論ですが、ヤン−ユリアンがそのような行動原理をとったことによって、イゼルローンの完全粉砕という最悪の事態(民主共和勢力にとってのですが)を免れ得たと言えるのではないかと。


No. 495
Re謀略論その他
本ページ管理人 2000/1/17 17:06:51
>銀英伝以降の田中芳樹作品を見ていると、とても田中芳樹が「オーベルシュタインの論理に反論出来ないことに気づいていた」とは思えないのですが。

 そのとおりなんですが、つまるところ、作品論としてみるか、作家論としてみるかで評価が大きく違ってくると思うんですね。
 作品として見た場合、あのセリフをオーベルシュタインに言わせた時点で「勝ち」なんですよ。この作品の中で、無理にオーベルシュタインの理論に反論せずに「矛盾を矛盾として」終わらせたと言うことが、「書いた時点で田中氏は気づいていたのではないか」ということなのではないか、と言うことなんです。
 もし(私の想像ではおそらく)、田中氏が「正論は正論だけどいけすかない」というある種逃げのモードに入っていても、この矛盾を放置したこと自体は作品と評価されるべきだと思います。
 ただし作家論としてみると、次から「逃げ」の部分が拡大再生産ってところがややこしいし痛いんですけど…



>これらは白川周一郎と多夢の境遇について書かれたものですが、これから判断すると、むしろ白川周一郎は謀略志向の人間なのではないでしょうか。それが現実世界では発揮しようがないという事に対する不満という意味で社会評論が展開されている、と私は解釈したのですが。
地球儀の秘密 P33下段〜P34上段
<これが近代以前の中国ででもあったなら、説話の材料にでもなっていたところである。不幸で孤独な少女が、親族の大半からも見すてられ、貧しく育ちながら美貌と才知と野心に磨きをかけ、天子の後宮にはいりこみ、最下級の女官から寵妃へ、さらに皇后へとのしあがってゆく。その背後には、陰謀に長じた叔父がいて、全ての糸をたぐり、国家と宮廷をあやつっていくのだ……。
 周一郎は乱読と雑学の徒であるだけに、右のような情景をふと空想して、ひとり笑いをすることがあった。むろん、どこまでも冗談である。世界はかならずしも平和ではないが、そのなかでもきわめて平和で安定しているように見える国に、彼は生まれてしまった。どのような腐敗も不公正も笑って受け容れる人々のなかで育ち、表面的な繁栄のどぎつさに多少のいらだちを感じながら、どうすることもできずにいる。そのような心境が、現実化するはずもない説話の世界に、つい深入りしたくなる原因であったろうか。>
地球儀の秘密 P34下段〜P35上段
<周一郎は別の時代に生まれたら、けっこう陰謀とか叛乱とかをたくらむタイプであるかもしれなかった。そう、中国の歴史物語に登場するような。これで多夢が絶世の美女であるなら、いよいよ説話的世界が近づいてくるのだが、将来の可能性はともかく、まだ一三歳ではしかたない。>

 引用された部分のように書かれているのはその通りなんですが、私には過分な評価に思えるんですよね。ちょうど親が子供に「末は博士か大臣か」っていっているようなもので。
 上司が気にくわない行動をしたからって逆上して殴って失業するような人間に陰謀もへったくれもないように思えます。派閥闘争嫌いの島耕作だってもう少し腹芸くらいのことはするでしょう。
 会社だったらクビになるくらいで済みますが、前近代の政治闘争だったら文字通り首が離れるでしょう。失業くらいで済んで、しかもそれでも本なんか読んで暮らせるのは「世界はかならずしも平和ではないが、そのなかでもきわめて平和で安定しているように見える国に、彼は生まれ『ることができた』」おかげですよ。「生まれてしまった」から「どうすることもできずにいる」のではありません。事実は逆です。
 自分から失業して、それでも本を読んでいるような輩が「日本の社会が悪いせいだよーん」なんていったら、彼が大好きであろうアジアの貧しい人に袋叩きにされるでしょう。貧民街が出来る大きな要因は、失業率の高さにあるわけですし。更に言えば、貧民街のあるアジアの国々でも、前近代(中世くらいですよね?)の社会に比べれば、ずば抜けてマシであるという事実です。

 ほかにも、多夢の学校問題や地球儀を巡っての駆け引きなど、ヤン以上の直情さで、この主人公に謀略の才能があるなどヒトラーに絵の才能があるというのと同じくらいバカげていると思います。
 もし現実に才能としての謀略が表に出てくるのであれば、それはこのような今までの甘い生き方の全否定をされるような時でしょうね(たとえば自分の甘い判断のために目の前で多夢が酷い目に遭うとか)。
 もしそうであれば、前述したように評価を180度変えてもいいですが、まあ、あり得ないでしょうね。


No. 496
Re493/494:悪役の矛盾と謀略否定論について
冒険風ライダー 2000/1/17 20:16:34
>北村さん
<ところが1巻はまだいいとして、それ以降の敵は特別な必要もないのに竜堂兄弟を(特に精神面で)追い詰める行動をとっています。早い話、「ガソリンスタンドで火遊び」しているようなものです。
 もし竜堂兄弟が追い詰められた結果キレてしまい、ウォール街や中東の油田等を破壊しまくれば、それこそ彼らの世界支配はひっくり返ってしまうにも関わらず、そのような危険を犯してまで積極的に「竜堂兄弟に関わらなければならない」理由が全く見えてきません。>

 創竜伝1巻における船津忠義には、「竜種の力を得るため」という確乎たる目的があり、そのために竜堂兄弟にしつこくこだわったのですが、2巻以降の「悪徳政治業者」はただ「船津忠義が追っていた」という「惰性的な理由」でつけまわしただけですし、四人姉妹に至っては、むしろ竜堂兄弟とは「日本否定」という共通項すらあり、主義主張では「悪徳政治業者」以上に敵対すべき理由がないのです。
 その矛盾を何とかつじつま合わせるために出してきたのが「牛種」と「染血の夢」だったのでしょうが、それが却って創竜伝のストーリー矛盾を拡大させてしまっているのが何とも言えませんな(T_T)。
 竜堂兄弟の敵対陣営のマヌケぶりの最もたるものは、四人姉妹の機密であるはずの「染血の夢」を、わざわざ竜堂兄弟一派に教えてやった事でしょうな。黙っていれば竜堂兄弟は何もしてこないだろうに、それこそガソリンスタンドに爆弾を投げ込むような愚行を、わざわざ自分からやらなければならない理由がどこにあると言うのでしょうか?

<田中氏よりはるかに格下の三文小説家でも「主人公と敵が関わるに至る明確な理由」が設けてあるのが普通であるにも関わらず、創竜伝においてはこの重要な部分がすっぽり抜け落ちているのです。
 少なくとも明確な理由さえ設けてあれば、この点は問題にはされないと思いますが、創竜伝における敵キャラは田中氏が散々揶揄した子供向け作品に出てくる悪役の多くが明確な理由もなしに「世界征服」や「人類滅亡」を意図するのと同じように、「そうしないと話にならないから」理由もなしに竜堂兄弟に関わってくるようにしか見えません。>

 ストーリーを組み立てる手法としては、「主人公と敵が関わるに至る明確な理由」をあえて分からないようにし、敵が自分達に関わる理由を追及していく過程を楽しむ、というのもアリだと思いますが、創竜伝の場合はそれすらもありませんからね〜(>_<)。
 第一、「主人公と敵が関わるに至る明確な理由」がなかったら、相手を「悪」とみなして完膚なきまでに叩き潰す、という事自体、全く正当化できないではありませんか。勧善懲悪に必要不可欠であるはずの設定さえまともにできていないと言うのでは、創竜伝は「子供向け小説」としてさえ失格であると思うのですが。



>あしださん
 始めまして。こちらこそよろしくお願いいたします。
 さて、問題提起についてですが、

<ヤンがラインハルトの気質(すなわち、「謀略家であるオーベルシュタインに対する反感」「ラインハルトの潔癖な性格」「常勝不敗の帝国軍としての矜持」といった)を熟知しており、あえて謀略主義を採らず、大量の流血を伴う(いわば「正々堂々とした」)行動原理を選択したのだとは考えられないでしょうか。>

 これはヤンの性格からしても、またヤンを取り巻く現実問題からしてもあまり考えられないのではないかと思います。
 そもそもラインハルトが戦争好きの気質を持っているからと言って、ヤンがそれにつきあわなければならない理由はありません。ヤンは「帝国」と戦争をしているのであって「ラインハルト個人」と戦争をしているわけではありませんし、ヤンの戦略目的はあくまでも「民主主義の擁護」であり、「帝国」から民主主義を守る事にあります。そうであるならば、むしろラインハルトの「戦争好きな気質」に合わせることは、ヤンの戦略目標からしても、また手持ちの戦力と戦略的優位が著しく帝国に劣る実状からしても愚策であると言わなければなりません。そんなことをすれば、最終的には物量と戦略で著しく優位に立っている帝国に踏み潰されるのがオチですし、実際、8巻のイゼルローン遠征におけるラインハルトの物量戦略によって、ヤンは敗北寸前にまで追いこまれました。
 それに「圧倒的な戦略的格差を埋めるためにラインハルトの戦争好きな気質に活路を見出す」という考え方は、ヤンが否定しているはずの「戦略レベルにおける劣勢を、戦術レベルで挽回する」というシロモノであり、ヤンの思想からいっても感情からいっても全面肯定すべきものではないでしょう。したがって、ヤンがわざわざそのような道を自発的に選択したとは考えられません。
 それにしても、「個人的な感情」に基づいてバーミリオン会戦の挑発に応じたり、イゼルローン遠征を開始したりしているラインハルトを、なぜヤンは批判しようとしないのでしょうか? ヤンの戦争否定の思想からしても、これはおかしいと思うのですが。

<結果論ですが、ヤン−ユリアンがそのような行動原理をとったことによって、イゼルローンの完全粉砕という最悪の事態(民主共和勢力にとってのですが)を免れ得たと言えるのではないかと。>

 これはあくまでも「幸運な結果論」であり、ヤンの「謀略否定の選択」ではむしろ「イゼルローンの完全粉砕という最悪の事態」が起こる可能性のほうがはるかに高かったと言えます(実際、何度もそうなりかかっています)。そうならなかったのは、結局のところ「ラインハルトの病気」という「相手側の都合」によるところが大きかったのであって(銀英伝8巻及び10巻参照)、「謀略否定思想」が幸いしたのではありません。
 自らの目的達成のためにも、また自らの思想や感情と整合性をつけるためにも、ヤンは謀略の効用を直視すべきであったと思うのですが。


No. 497
Re495:ちょっと質問
冒険風ライダー 2000/1/17 22:53:37
<作品として見た場合、あのセリフをオーベルシュタインに言わせた時点で「勝ち」なんですよ。この作品の中で、無理にオーベルシュタインの理論に反論せずに「矛盾を矛盾として」終わらせたと言うことが、「書いた時点で田中氏は気づいていたのではないか」ということなのではないか、と言うことなんです。
 もし(私の想像ではおそらく)、田中氏が「正論は正論だけどいけすかない」というある種逃げのモードに入っていても、この矛盾を放置したこと自体は作品と評価されるべきだと思います。>

 実は恥ずかしながら、新Q太郎さんと管理人さんのこの主張の部分が私にはよく分からないのですよ。私は基本的にストーリー矛盾については、
「作品中のストーリー矛盾というのは、それについて考えたり議論したりする事には意義があるが、矛盾それ自体はあくまでも矛盾でしかない」
 という考え方を持っていますので。私が銀英伝を「名作」と考えるのも、ストーリーの面白さや問題提起もさることながら、こういった「思想的矛盾」について「いろいろと考える事」こそが面白いものであると思うからでして。
 新Q太郎さんや管理人さんの主張を私なりに解釈してみると、
「あの矛盾は田中芳樹が銀英伝の重要な一テーマとして『故意に作り上げて放置しておいた』のであり、銀英伝のストーリーの根幹を支える要素の一つとなっている」
 となったのですが、この解釈で正しいのでしょうか? この解釈なら納得できますが、それとも何か他に別の解釈なり理由なりがあるのでしょうか? 教えていただければ幸いです。


<ほかにも、多夢の学校問題や地球儀を巡っての駆け引きなど、ヤン以上の直情さで、この主人公に謀略の才能があるなどヒトラーに絵の才能があるというのと同じくらいバカげていると思います。
 もし現実に才能としての謀略が表に出てくるのであれば、それはこのような今までの甘い生き方の全否定をされるような時でしょうね(たとえば自分の甘い判断のために目の前で多夢が酷い目に遭うとか)。
 もしそうであれば、前述したように評価を180度変えてもいいですが、まあ、あり得ないでしょうね。>

 しかし今までの地球儀シリーズのストーリーの展開から考えてみると、どうもそういった挫折なしに白川周一郎は謀略を振るいそうな気がするのですけどね。あるいは「西風の戦記」のように、ただ情報提供者兼傍観者になるだけであるとか。
 いずれにしても、管理人さんの言うようなストーリーには絶対にならないであろうと私も思います。もっとも、それ以前に続編がいつ出るやらも分かったものではありませんがね。


No. 498
銀英伝における謀略否定論。
ふみさとけいた 2000/1/18 00:14:51
はじめまして。いつも楽しく見させてもらってますが、なんとか僕でもカキコが出来そうな話題なので書き越した次第です。
「『オーベルシュタインの論理』にヤンやラインハルトは反論できないし、田中氏自身も逃げた」
と言う話ですが、ユリアンが一応それに対する回答らしきことを言ってます。(以下抜粋)

 納得できないということ。まさしく、それが問題なのだ。仮にオーベルシュタイン元帥の策謀が成功し、共和主義が独立した勢力として存続し得なくなったとき、何が宇宙に残されるのか。平和と統一? 表面的にはまさしくそうだが、その底流には憎悪と怨恨が残る。それは火山脈のように、岩盤の圧力下に呻吟しながら、いつかは爆発して、地上を溶岩で焼き尽くすだろう。岩盤の圧力が大きいほど、噴火の惨禍もまた大きいはずである。・・・・・・・・
(銀英伝10巻より)

これは、少なくとも田中氏の考えではあるだろうと思います。
また、ヤンに関してもこう言った考え自体はあったのでないかと考えてます。論理だてて述べる、というところまでにはいかないにしても。
皆様はどうお考えでしょうか?


No. 499
Re: 面白いですね
不沈戦艦 2000/1/18 01:21:48
ふみさとけいたさんは書きました
> はじめまして。いつも楽しく見させてもらってますが、なんとか僕でもカキコが出来そうな話題なので書き越した次第です。
> 「『オーベルシュタインの論理』にヤンやラインハルトは反論できないし、田中氏自身も逃げた」
> と言う話ですが、ユリアンが一応それに対する回答らしきことを言ってます。(以下抜粋)
>
>  納得できないということ。まさしく、それが問題なのだ。仮にオーベルシュタイン元帥の策謀が成功し、共和主義が独立した勢力として存続し得なくなったとき、何が宇宙に残されるのか。平和と統一? 表面的にはまさしくそうだが、その底流には憎悪と怨恨が残る。それは火山脈のように、岩盤の圧力下に呻吟しながら、いつかは爆発して、地上を溶岩で焼き尽くすだろう。岩盤の圧力が大きいほど、噴火の惨禍もまた大きいはずである。・・・・・・・・
> (銀英伝10巻より)
>
> これは、少なくとも田中氏の考えではあるだろうと思います。
> また、ヤンに関してもこう言った考え自体はあったのでないかと考えてます。論理だてて述べる、というところまでにはいかないにしても。
> 皆様はどうお考えでしょうか?
>


「流血によって納得が得られる」これ、まさに戦争の意義にもなっています。何もすることなく他勢力に屈服するのは感情的に納得し難いが、全力で戦い多量の血を流し敗退した後なら、屈服もやむを得ず、ってところでしょうか。

 でも、ラインハルトが仕掛けた「回廊の戦い」はそうでしょうかね?単なる軍事的ロマン主義のような気が。「強い相手(ヤン)と戦って、戦術的に勝ちたい」っていうだけの。戦略的にはとっくに勝っているのに。国家の指導者にそういうレベルで戦いを起こされては、迷惑な気はしますよ。

 それに、イゼルローンを制圧する必要が本当にあるのかどうか。回廊の両側に2個艦隊ずつ貼り付けて封鎖しておけば、ヤンはイゼルローンに逼塞しているだけで何も出来んでしょう。その間に、新帝国はフェザーンに遷都して発展する訳ですし。彼我の勢力差は増大するばかりで、なおかつ回廊が封鎖されているので、新帝国内の地下民主勢力との連絡も不可能。時間が経てば経つほど新帝国に有利になり、そのうち「イゼルローン共和国」は自己崩壊するような気がしますけど。せっかくヤンの軍事カリスマに依存しているのに、肝心の戦闘が発生しないのでは、志気の維持が困難でしょう。イゼルローン側から仕掛けた場合は、帝国軍の方が戦力が多い上に回廊の出口での戦いになるから、単なる消耗戦になってイゼルローン側圧倒的不利と見ますけど。


 それと、私はラインハルトの「軍事ロマン主義」は支離滅裂だと思いますわ。5巻の18ページでは、「敵の姿を見てその場で戦わないのは卑怯だ、などと考える近視眼の低脳が、どこにもいるからな」などと「同盟軍の架空の敵将」を嘲笑しているクセに、バーミリオンではラインハルト自身がその「近視眼の低脳」になっていますから。はっきり言ってバーミリオン会戦は、ラインハルト側が勝つ為には必要ない戦いですからね。やるにしても、張り切って攻勢かける必要はないんですし。持久戦に持ち込めば勝ちだし、戦術的に負けても、ヤン艦隊を消耗させてラインハルトが逃げ出して生存していれば勝ちです。いっその事、ブリュンヒルトを囮にするような戦法考えてもいいくらいだと思いますし。



No. 501
Re498:ユリアンの謀略否定論とは
冒険風ライダー 2000/1/18 03:51:26
 ふみさとけいたさん、始めまして。
 いや〜、やはりユリアンのあの文章に目をつける人が表れましたか。実は私、これが出てくるのを手くずね引いて待っていたのですよ(^^)。あの文章を知った上て、私はあえてヤンの謀略否定論を批判してみせたのです。言うまでもなく、ユリアンの主張は私にとっては単なる感情論でしかありません。
 あのユリアンの主張の全文を引用した上で反論してみましょう。

銀英伝10巻 P100上段〜P101上段
<人間の生涯と、その無数の集積によって練りあげられた人類の歴史とが、二律背反の螺旋を、永劫の過去と未来に伸ばしている。平和を歴史上でどのように評価し、位置づけるか、その解答を求めて伸びる、永遠の螺旋。
 オーベルシュタイン元帥のような手段を用いなくては、平和と統一と秩序は確立しえないのであろうか。そう結論づけるのは、ユリアンにとっては耐えがたかった。もしそうであるとすれば、皇帝ラインハルトとヤン・ウェンリーとは、なぜ流血をくり返さなくてはならなかったのだろう。ことに、ヤン・ウェンリーは、戦争を嫌い、流血が歴史を建設的な方向へむけることがありうるか、深刻な疑問をかさねつつ、不本意に、手を汚しつづけざるをえなかった。オーベルシュタインのやりかたは、ヤンの苦悩や懐疑を超克するものだというのだろうか。そんなはずはない。そんなことがあってはならない。ユリアンはそんなことを認めるわけにはいかなかった。
 もっとも卑劣に感じられる手段が、もっとも有効に流血の量を減じえるとしたら、人はどうやって正道を求めて苦しむのか。オーベルシュタインの策謀は、成功しても、それによって人々を、すくなくとも旧同盟の市民たちを納得させることはできないだろう。
 納得できないということ。まさしく、それが問題なのだ。仮にオーベルシュタイン元帥の策謀が成功し、共和主義が独立した勢力として存続し得なくなったとき、何が宇宙に残されるのか。平和と統一? 表面的にはまさしくそうだが、その底流には憎悪と怨恨が残る。それは火山脈のように、岩盤の圧力下に呻吟しながら、いつかは爆発して、地上を溶岩で焼き尽くすだろう。岩盤の圧力が大きいほど、噴火の惨禍もまた大きいはずである。そのような結果を生じてはならず、そのためにはオーベルシュタインの策謀を排さなくてはならなかった。
 ユリアンは甘いのだろうか。甘いのかもしれない。だが、オーベルシュタイン流の辛さを受容しようとは、ユリアンは思わなかった。>

 この主張のどこがおかしいのか、要所要所を挙げて説明しましょう。

<オーベルシュタイン元帥のような手段を用いなくては、平和と統一と秩序は確立しえないのであろうか。そう結論づけるのは、ユリアンにとっては耐えがたかった。>

 ユリアンの嘆きとは全く逆に、歴史的に言っても、まさにオーベルシュタインのような手段を用いる事こそが、「平和と統一と秩序」を確立する一番有効な道であると断言できます。私がよく問題にする南宋の秦檜などはその典型ですし、また徳川幕府250年の平和も、豊臣家をあらゆる謀略の手段を使って陥れ、滅亡に追いやった事によって完成したのです。銀英伝だって、オーベルシュタインの策がなかったら、全銀河の統一はかなり遅れ、その間に無用な戦争による犠牲者が増大していたのですし、アルスラーン戦記でも、軍師ナルサスの策謀力がなかったら、ルシタニアからパルス全土を奪回する事などできなかったに違いありません。すくなくとも戦争を惰性的にやっているだけでは平和が訪れる事はまずないと言っても良いでしょう。それは帝国と同盟が100年以上も慢性的に戦争をしていた事でも証明されています。
 歴史を少しでも知っていれば、謀略もまた「平和と統一と秩序」に必要不可欠であることはすぐに分かるはずです。だからこそ、ユリアンの謀略否定論は感情論でしかないと言わざるをえません。


<もっとも卑劣に感じられる手段が、もっとも有効に流血の量を減じえるとしたら、人はどうやって正道を求めて苦しむのか。>

 「正道を求める」など、ヤンの「信念否定論」からすれば全面否定の対象でしかないではありませんか。「正道を求める」などという「信念」によって、一体どれだけの血が流れると思っているのでしょうか。ヤンの「信念否定論」は、まさに「信念」を持つ事によって争いが起こることを否定しているのですから、ヤンは自らの主張である「信念否定論」から言っても、謀略を肯定すべきだったのです。
 政治を行う際に「正道を求める」という「ポーズを取る」ことは政略的な観点から言っても重要ですが、「正道を求める」などということを本当にバカ正直にやっていては、いたずらに味方の犠牲を増やすばかりで、百害あって一利なしです。ラインハルトがその良い例でしょう。政治家というものは多かれ少なかれ「政治的課題を最小限の犠牲で克服するために」謀略をめぐらすものであり、ヤンやラインハルトのような「謀略否定論的な考え方」の方が異常なのです。


<オーベルシュタインの策謀は、成功しても、それによって人々を、すくなくとも旧同盟の市民たちを納得させることはできないだろう。>

 同盟の市民がオーベルシュタインの謀略に納得しようがしまいが、そんなものは謀略とは全く関係のないことです。そもそも「万民に納得できる謀略」なるものが存在するのでしょうか? 秦檜の和平論だって、徳川家康の謀略だって、誰もが卑劣であり、納得のいくものではないと思ったことでしょう。しかし彼らは自分達が憎まれる事と引き換えに、平和をもたらす事に成功しましたし、その功績を否定することは誰にもできません。そもそも憎まれる覚悟がなければ、誰かを陥れる謀略など展開できないでしょう。
 政治責任は結果が全てなのであって、「卑劣な手段を使った過程」など全く問題ではないのです。ここにユリアンの感情論が入る余地は全くありません。
 それに「オーベルシュタインの草刈り」における人質の政治犯とは、旧同盟やエル・ファシル独立政府の要人であって、市井の庶民ではありません。しかも彼らの政体はあまり旧同盟市民に支持されてはいませんでした。旧同盟市民は、民主主義の希望をヤンに期待していたのであって、彼らはヤンの足を引っ張っていただけではありませんか。彼らが人質にされたところで、同盟市民がそれほど同情するとも思えないのですがね。


<ユリアンは甘いのだろうか。甘いのかもしれない。だが、オーベルシュタイン流の辛さを受容しようとは、ユリアンは思わなかった。>

 これこそまさに「逃げ」でしょう。いくらユリアンが「オーベルシュタイン流の辛さ」を否定したところで、オーベルシュタインの謀略がどうにかなるわけではないのです。オーベルシュタインの謀略に対抗しなければならないのに、倫理観の優越などを論じて一体どうしようというのでしょうか? はっきり言ってこれは、ユリアンのオーベルシュタインに対する全面屈服宣言と言っても過言ではないでしょう。政治的責任に対する自覚という点において、ユリアンはオーベルシュタインの足元にも及ばない、という事を自ら証明してくれたわけですから。
 ユリアンが考えるべきだったのは「オーベルシュタインの謀略にどう対抗するか」であって、謀略否定論をぶつことではなかったのです。


 以上の事から、ユリアンのオーベルシュタイン的謀略論に対する「反論」は、オーベルシュタインの謀略論に対抗するには極めて不充分であるといわなければなりません。そもそもユリアンの謀略否定論は「市井の倫理観」に立脚したものでしかなく、現実の政治には何の役にも立たないシロモノなのです。
 しかも、この考え方を最も醜悪に実行しているのが、何度も言うように創竜伝の竜堂兄弟と紅塵の秦檜評価論なのですから、政治的にいかにいかがわしいか分かろうというものです。


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