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私の創竜伝考察13
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No. 1102
私の創竜伝考察13
投稿者:冒険風ライダー 1999/4/15 13:48:01
 最近新学期が始まり、かなり忙しくなってきました。そのため、前は「私の創竜伝考察シリーズ」を、ほとんど一日おきに投稿していましたが、さすがにペースダウンしてきましたね。時間をかける分、整然とした批判ができればよいのですが、遅筆の田中芳樹の二の舞にはなりたくないものです(^^;)。
 さて、批評の続きを展開しますか。

P90下段
<つぎにあらわれたのは、蛙のような顔に卑しい笑いを浮かべた初老の評論家で、いろいろと名雲にお世辞を並べたあげく、つぎのようにしめくくった。
「名雲家は日本のメディチ家でございますからな。ますますのご発展を祈らせていただきますよ」
 メディチ家はイタリアの歴史的な大富豪の一族で、その財力と政治権力と教養とを最大限に生かして、多くの芸術家を保護し、ルネサンスの華麗な文化をきずきあげた。名雲家がそのメディチ家と同様だというのは、寒気のするおべっかだ。だが、世の中には、富や権力を持った人間に対しておべっかを使うことを恥ずかしいと思わない人がいくらでもいる。そして、そういう人は、富や権力を持たない人間に対しては冷酷なものだ。>

 メディチ家をそこまで手放しで賞賛するあんたのほうこそ「富や権力を持った人間に対しておべっかを使うことを恥ずかしいと思わない人」でしょうが。どうも田中芳樹は、メディチ家が聖人君子のような徳によって財産を得、偉大な慈善家として芸術や文化を保護したのだと考えているように見えますね。「そんなわけないでしょう」という考えは、メディチ家についてあまり知らない私でさえ、すぐに思い浮かびますよ。
 それにどうも日本の財産家は、田中芳樹から見れば存在それ自体が極悪非道のごとく写っているかのようですね。あえて言いますが、日本の財産家を賞賛してどこが悪いのでしょうか? 御用文化人とやらが企業経営者や金持ちを賞賛するという光景を一度でいいから私は見てみたいものなのですけど。「金持ちは全て悪い」という考えならば、メディチ家も悪の権化のように批判してくださいよ。変な2重基準を使うことなく。

P92下段
<さて、中国にはこういう警句がある。「李白は酒飲みだが、酒飲みがみんな李白とはかぎらない」この警句は、いくらでも応用がきくので、たとえば「英雄は色を好むが、色を好むものが全て英雄とはかぎらない」「有能な政治家はしばしば腐敗しているが、腐敗した政治家がみな有能とはかぎらない」とかいうぐあいに使える。それはともかく、終も余も李白ではなくて、「水滸伝」の武松か「三キョウ五義」の艾虎であったらしい。アルコールが体内を駆けめぐるにつれて気分が浮きたち、しかも好戦的になってきた。>

 ここに書いてある人物達を、まるで知ってて当然みたいな書き方を田中芳樹はしていますが、これらの人物を知らない私にはどんな比喩的表現をしているのかさっぱり分かりません。こんな中国通にしか分からないような人物を取り上げるのならば、最低注釈ぐらい入れていても良さそうなものなのですが、どうやら田中芳樹も講談社の編集者も、その辺の配慮など全く考えていないようですね。田中さん、創竜伝を読んでいる大半の読者は少なくともあなたよりは賢明ですが、同時にあなたほど中国知識に詳しくはないという事を念頭において小説を書いてくださいよ。

P95上段
<権威や権力を異常に愛するタイプの人物は、儀式やパーティーが予定どおりに運ばないと、ヒステリーをおこすのである。ごく手近な例でいうと、運動会の予行演習のとき足なみがそろわなかったという理由で小学生をなぐりつける体育教師がそれだ。>

 すいません田中さん、それ、たとえが間違っていませんか? 「小学生をなぐりつける体育教師」が「権威や権力を異常に愛するタイプの人物」って、一体どうやってそんな決めつけができるのです? 体育教師は権力をふるっているのではなく、生徒を教育しているのですよ。全然たとえが違うではありませんか。体育教師は権力者ではないのですよ。体罰を否定したい気持ちは分かりますが、全国の体育教師に対して有害な偏見を読者に持たせるような記述はやめてください。

P110上段
<市町村議会から都道府県議会、そして国会に至るまで、権力と野次を売りものにしてする品性下劣な政治屋や、利権の汚泥にまみれた悪徳政治業者は、いくらでもいる。そして、そういう政治家を支持し、汚れた金銭のおこぼれにあずかることを喜び、自分自身の人格と権利を嘲笑する有権者も、数おおくいる。そういった連中の後始末を、竜堂兄弟がしてやる義務は、どこにもなかった。>

 「そういった連中の後始末」とやらを、竜堂兄弟に頼まなければならない義務もこちらにはありませんよ。自分で好き勝手に善悪を決める竜堂兄弟などに。
 それにしてもここまで政治家や有権者を貶める事もないでしょうに……。あまりにも下劣な主張は反論の元気さえ吹っ飛んでしまう、と以前読んだ本で谷沢永一氏が言っていましたが、その気持ち、私もよく分かりますよ。自分の考えと違う人間をここまで貶められる記述は、とても銀英伝やアルスラーン戦記を書いた作家とは思えません。創竜伝の社会評論は「相手の立場に立って考える」という視点が完全に抜け落ちていますね。

P123下段
<教育の理想は金銭で購えるものではないが、学校の設備をととのえたり、人材によい待遇を与えたりするには、どうしても資金が必要である。文部省から補助金を受ければ、その分は干渉も受けやすくなってしまう。独立した資金源があるにこしたことはないのだ。>

 田中芳樹は、何か私立学校に思い入れでもあるのでしょうか? 「私立学校は文部省の言いなりにならない聖域である」という幻想でも抱いているかのような記述が、創竜伝だけでなく他の作品でもよくみかけます。現実には、文部省の学習指導要領を一番忠実に守っているのが私立学校なんですけどね〜(^_^)。むしろ公立学校の方が、公然と文部省に逆らっている例も多いですからね。田中芳樹が理想とすべきは公立学校だと思いますよ。

P126下段〜P127上段
<「いじめ」という行為の構造は複雑なものではなく、きわめて単純である。誰かをいじめる人間は、かならず他の誰かから抑圧を受けているのだ。第二次大戦中の日本陸軍のように、あるいは企業社会のように、上から下へと抑圧が連鎖している。
(中略)
 タマネギの皮を剥く行為に似ている。同じような抑圧の状況がくりかえして再現され、あげくのはてに核心は空洞なのだ。文部省は教育委員会をしめつけ、教育委員会は校長をしめつけ、校長は教師をしめつけ、教師は生徒をしめつけ、生徒のなかで強い生徒が弱い生徒をいたぶり、弱い生徒は学校で飼育されているウサギを惨殺する。誰もがみんな抑圧され、自分は被害者だと思いこんでいる。連続幼女殺人事件の犯人とされる人物も、社会心理学からいえば疎外と抑圧の被害者なのだそうだ。>

 あの〜、ここもたとえが間違っているような気がするのですが……。「第二次大戦中の日本陸軍のように、あるいは企業社会のように、上から下へと抑圧が連鎖している。」って、要するに階層社会それ自体を否定しているのですね? 権力=抑圧とでも考えているのでしょうか。「みんなが全て平等に」なんてできるわけないじゃありませんか。そんなことをしたら日本の社会は崩壊しますよ。社会の秩序維持や命令系統の統一のために下からトップまでの序列があるという事が、この人には分かっているのでしょうかね。
 「誰もがみんな抑圧され、自分は被害者だと思いこんでいる」これは左翼の皆さんがよく陥る被害妄想ですね。だから連中は自分が強者である事が自覚できないのです。そして田中芳樹もまた、同じような妄想にかられて日本否定をしているのですからお笑いですね。
第一、上記の「抑圧の過程」には、「教育組合が文部省に反抗し、教育委員会と校長を脅す」という肝心なものが抜けています。文部省が全ての元凶のように言うのはやめましょうね。

P127上段〜下段
<もともと日本は個人の責任というものが厳格に追及されることのない社会であるようだ。第二次大戦の指導者から、いじめの主謀者に至るまで、みんなが決めたことに自分はしたがっただけで自分に責任はないと主張する。その結果、「みんなが平等に悪かった、みんなで反省しよう」といいだす者が出てきて、責任の所在は不明になり、まともな反省もおこなわれず、事態もさして変わらず、誰も罰せられずに終わってしまう。五〇〇人以上の生命が失われた航空機事故でも、ついに誰ひとり刑事責任を問われずに終わってしまうのだ。>

 「第二次大戦の指導者」って、一切の責任を問われずに無罪放免されましたっけ? それに航空機事故で問われるのは会社の過失責任と賠償責任であって、誰かが飛行機を意図的に墜落させたのでない限り、個人の刑事責任は問われないと思いますが。第一、この「航空機事故」というのが一体何のことかも書かれていません。これでは一体何について話しているのかも読者には分かりませんよ。当時で「五〇〇人以上の生命が失われた航空機事故」といえば、日航機墜落事故と大韓航空機撃墜事故でしょうけど、一体どっちのことを言っているのでしょうか?
 また、いつものことですが「日本は個人の責任というものが厳格に追及されることのない社会であるようだ」と断定しておきながら、「なぜそうなったのか」については何も検証していませんね。井沢元彦氏がこの問題を非常に詳しく検証していますので、少しそれについて説明しましょう。
 日本という国の国民性は、もともと独裁者という存在を非常に嫌っています。日本の権力者の中で独裁的な権力を振るったものは、例外なく短命政権に終わるか非業の死を遂げています。で、いつごろからそうであるかというと、少なくとも聖徳太子の時代からなんです。17条憲法第一条に「和をもって尊しとなす」と書いてありますが、これは「みんなで話し合うのが一番」と言っているようなものです。第二条に「仏をうやまえ」そして第三条にやっと「天皇に従え」というようなことが書かれていますが、それら以上に第一条が重要なんです。この「第一条」の考え方が、今でも日本を支配しています。
 これに逆らうような独裁者、歴史上の人物だと織田信長や井伊直弼、大久保利通などは、特に悪政を働いたから殺されたのではなく、単に「独裁者だから許せない」という理由で殺されたようなものです。日本では、ひとりで責任をとる独裁者は危険だと判断されるので、責任を分散させて個人の責任を問われないようにしているのです。
 もちろん異論もあるでしょうけれど、「日本は個人の責任というものが厳格に追及されることのない社会であるようだ」と断定するのならば、「なぜ」というものをきちんと説明すべきではないのですか? 田中さん。

P130上段〜下段
<もともと保守政界というものは、イデオロギーや政策と無縁の利権分配グループである。現在の社会制度下で、政治権力を最大限に活用してどれほど多くの利権をあさり、富をむさぼるか、それが職業であり、生きがいなのだ。
「政治には金がかかる。有権者が政治家にたかるからいかんのだ。政治家は費うだけで、手もとには一円も残りはしない」
 彼らはそう弁解する。信用する者もいるであろうが、結論部分はまっかな嘘である。自分の資産を費いはたした政治家はめったにいない。生活に困窮して生活保護を受けるようになった政治家など、ひとりもいない。その逆に、政治に費用がかかることを口実に政治資金をかき集め、豪壮な邸宅と別荘をかまえる政治家は無数にいるのだ。
 この国では、政治は、個人の利益を追求する事業として成立するのだ。だからこそ、よほどに見識のある一部の人を除いて、引退する保守党政治家は、息子や娘婿を後継者にする。政治家としての権力を世襲させるだけでなく、これまで築きあげてきた利権あさりの組織や人脈をも受けつがせるのだ。権力と利権を、個人の財産と思うからこそ、他人に渡したくないのである。>

 「保守政界というものは、イデオロギーや政策と無縁の利権分配グループである」って、よく日本をここまで牽引してきた「保守政界」をこき下ろせますね。じゃあ当時の社会党や共産党はどうなんです? 「必要以上にイデオロギーをがなりたてる、ソ連を始めとする共産主義陣営の忠実な下僕」だったのではないのですか? この連中に比べれば、少なくとも「保守政界」はベストとは言わずともベターな存在でしょう? あなたはいつからベストを望むようになったのです?
 それにあんたねえ、「自分の資産を費いはたした政治家」や「生活に困窮して生活保護を受けるようになった政治家」なんて、私に言わせれば政治家失格ですよ。自分の財産管理もできていないってことではないですか。それに「豪壮な邸宅と別荘をかまえる」ってのは、国民に政治家の権威を示したり、外交や政治家同士の話し合いの場として使用するといった、政治的な意味もあるのではないのですか? アルスラーン戦記8でも人心を安心させるために、ルシタニア軍によって破壊されたパルス王宮の復旧をやっているではないですか。第一、政治家が貧しかったら政治もできませんよ。金銭的な事情によって生活が不自由しているような政治家は、簡単に金の誘惑に乗ってしまうでしょうし、金銭を出してくれる人のいいなりになってしまう恐れもあります。金持ちであれば、そんな事を気にせずに余裕をもって政治に専念できるではないですか。
 政治にはやはり金がかかるものです。そして金をかけるべきものです。「金のかからないクリーンな政治」などというシロモノがどれほど恐ろしいものか、戦前の日本の軍部やかつての共産主義諸国、そして銀英伝の救国軍事会議のお歴々を見れば分かりそうなものだと思いますけどね。それに比べれば、金権政治はベストではないでしょうけどベターな選択だと思いますよ。
 最後に、日本の政治家に二世や三世議員がいるのは、何も「保守党政治家」だけの特殊現象ではありません。なぜ「野党政治家」の皆さんの姿勢は批判しないのでしょうか?

P145下段〜P146下段
<この日、始は、白楊学院で国語教師と衝突してしまったのである。同僚といっても、国語科主任で学校図書館も担当する中年の教師だった。つい最近まで市の教育委員会につとめていた人物だというが、この人が学校図書館の蔵書を検査して、中学生や高校生の教育に有害な本をこのさい追放しようとしたのである。主任はすでにブラックリストを作成しており、幾人かの作家の名をあげて、反社会的であるとか反体制的であるとか決めつけた。聞くうちに、始はつい口をはさんでしまったのだ。
「でしたら夏目漱石も禁書にしたらいかがですか」
「な、何をいうのかね、君は!?」
 国語科主任は目をむき、始の無知をたしなめるように手を上下に動かしてみせた。
「夏目漱石は日本人の誇りともいえる大文豪ではないか」
「そうですか。ところが彼は作品や日記のなかで、手きびしく明治政府を批判していますよ。明治天皇が病気になって、国民に自粛が押しつけられたとき、『官憲いたずらに民衆の生活に干渉するべからず』と書いています。ひょっとして、ご存じなかったんですか?」
「…………」
「それに、時の総理大臣が文士を集めて会合を開いた時も招待をことわっているし、文部省が文学博士号を授与しようとしたときにも、そんなものいらんと拒絶しています。どうです、国家にさからうけしからん奴だと思いませんか」
 国語科教師は顔を赤黒くして黙りこんでいたが、ひとつ頭を振ってわめいた。
「きみはたかが臨時講師じゃないか! えらそうな口をきくのはやめたまえ、そもそも何の権利も資格も君にはないんだからな」>

 あほらしい。いくらフィクションといっても現実離れしすぎてます。こんなことをしている私立学校は日本には存在しませんよ。反日主義で凝り固まっている公立学校ならばなおさらです。むしろ「こいつは体制的だ」「あれは社会的だ」などと決めつけて反日主義的な本で蔵書をかためるという、ここの記述と全く反対のことならば公立学校で日常茶飯事に行なわれているのでしょうけど。

P147下段〜P148上段
<「この世界一の経済大国とやらでは、政策の九九パーセントに利権がからんでるんだ。交通安全のキャンペーンでさえ、保険金の多さに音をあげた損害保険会社の思惑がからんでいるというんだからな」
 そしてそういう実情を批判すると、たちまち御用文化人が動員されて、「日本の悪口をいう奴は愛国心がたりない」という。そういう権力維持のためのシステムが完成されているのだ。>

 ならば謝罪外交もオウムの破防法適用も少年法改正も、全て「利権がからんで」いると言いたいのですね(^^)。誰がどのように利権を得る事ができるのか説明してほしいものですが。まさか「これは残りの1パーセントなんだ」という言い訳はしないでしょうね。
 それに「権力維持のためのシステム」というのはずいぶん不良品ですね〜(^_^)。ひょっとすると電源が入っていないんじゃありませんかね? 私はこのシステムが作動している光景を全く見たことがありません。どんなに見事なシステムでも、作動しなければ意味がありませんよ。それに、「日本の悪口をいう奴は愛国心がたりない」などと主張する「御用文化人」とやらがいたら、ぜひ一度この目で見てみたいですね。

 いつもの事ですが、投稿が長くなりすぎるのがこのシリーズの欠点ですね。今日はこの辺で終わりにしておきましょう。次こそ創竜伝5の批評を終わらせます。


No. 1107
結局、吊るし上げが好きなのかも
投稿者:M野 1999/4/16 02:17:38
>冒険風ライダー様


ますますもって物凄い。
引用部分さえ全部読むことが苦痛です。

>P90下段
<つぎにあらわれたのは、蛙のような顔に卑しい笑いを浮かべた初老の評論家で、

これを読んだだけで、その後に続く文章を読むのが嫌になりました。
その後に続く文章が悪意と偏見に満ちていることが想像できてしまいます。


>P110上段
<市町村議会から都道府県議会、そして国会に至るまで、権力と野次を売りものにしてする品性下劣な政治屋や、利権の汚泥にまみれた悪徳政治業者は、いくらでもいる。そして、そういう政治家を支持し、汚れた金銭のおこぼれにあずかることを喜び、自分自身の人格と権利を嘲笑する有権者も、数おおくいる。そういった連中の後始末を、竜堂兄弟がしてやる義務は、どこにもなかった。>

なんという思い上がりでしょう。
それに竜堂兄弟による後始末って、竜に変化して「粛清」することでしょう?
虐殺ですよ。テロですよ。そんなこと、間違ってもやってもらいたくは無いです。


>P127上段〜下段
<もともと日本は個人の責任というものが厳格に追及されることのない社会であるようだ。第二次大戦の指導者から、いじめの主謀者に至るまで、みんなが決めたことに自分はしたがっただけで自分に責任はないと主張する。その結果、「みんなが平等に悪かった、みんなで反省しよう」といいだす者が出てきて、責任の所在は不明になり、まともな反省もおこなわれず、事態もさして変わらず、誰も罰せられずに終わってしまう。五〇〇人以上の生命が失われた航空機事故でも、ついに誰ひとり刑事責任を問われずに終わってしまうのだ。>

> 「第二次大戦の指導者」って、一切の責任を問われずに無罪放免されましたっけ? それに航空機事故で問われるのは会社の過失責任と賠償責任であって、誰かが飛行機を意図的に墜落させたのでない限り、個人の刑事責任は問われないと思いますが。

そのくせ誰かに責任を限定して吊るし上げると、今度は「トカゲの尻尾切り」とでも
おっしゃるのでしょう。
私はサラリーマンをやっていますが、もし仕事で大失敗が生じて、その全責任が
社員の誰かに限定されて、その個人が吊るし上げをくらうことを想像すると、
ぞっとします。


井沢元彦の「逆説の日本史」は、私も読みました。
最近では、SAPIOに連載中の「逆説のニッポン歴史観」を愛読していたりします。


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