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田中芳樹の中国認識
1−A

隋唐演義について(1)


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No. 559
お願い
投稿者:本ページ管理人 1999/1/10 11:56:30
 みなさんの中で、田中芳樹版の「隋唐演義」と、同時期に出版されたもう一人の「隋唐演義」(安能務だったかな? 確か教授の方)を読み比べた方はいらっしゃいますか?
 田中芳樹の中国小説を語る上で、絶好のシチュエーションだと思うのですが、恥ずかしながら、機会が無くて未だに読んでいません。
 両方、またはどちらかを読んだか方がいらしたら、感想を聞かせていただけるとうれしいです。


No. 560
隋唐演技
投稿者:ドロ改 1999/1/10 22:41:41
読み比べていませんが、というか冒頭3ページ読んだだけです。でも、あれからですね。田中芳樹に距離を置くようになったのは。
なにせ、サイン会に行ってまで(愚)買ってきたのに、これしか読まずに押し入れ封印と相成ったわけですから。何がひどいって、中学の教科書に載ってる訳文並の直訳で、とてもハードカバーで出すような(それどころか、そもそも売るような)代物では無かったですから。
ある意味、田中芳樹に対する無条件の信頼に、抜きがたいヒビを入れてくれた恩書ですかね。
当然ですが、2巻以降など手にとっても居ません。


No. 562
隋唐演義
投稿者:小村損三郎 1999/1/11 21:57:51
安能務氏のは読んでませんが、田中氏のは一応読みましたよ。
当時、「本邦初訳」とか言ってTVCMまでやってたんですよね。
最終巻のあとがきによると、田中氏の奥さん(大学でアジアの留学生に日本語を教えてらして、田中氏より中国語が上手いそうです。「翻訳協力」としてクレジットされている「田中洋子」なる女性がそうだと思われます)が直訳したものを氏がリライトする、という形式だったようです。
ただ、あくまで「編訳」であって、吉川英治「三国志」のようなオリジナル作品化ではありませんので、省略や意訳はともかく原典に無い文言を付け加えたりはしてないと思います。(故に安能氏のと大差無いのでは?)
まあ、近代文学ではないので、心理描写なんかも「〜と思った。」なんて書き方ばかりになってしまい、田中氏の装飾過剰な台詞と文章に慣らされてしまうと随分と無味乾燥に見えますが、中国古典の訳文というのは概してあんなもんです。

田中氏は何かと言うと
「諸葛孔明や「三国志演義」なんて中国ではワン・オブ・ゼムでしかない。中国にはもっと沢山のすばらしい物語やヒーローが存在するのに日本人の興味が偏ってるのはけしからん。中国人に「日本の人は岳飛なんて知らないでしょう。」と言われると申訳無く思う。」
なんて言うんですが(だったら中国人が「平家物語」や「太平記」を読んでるのか、をい。)、この「隋唐演義」の感想を言わせてもらうと、申訳ないが、やっぱり「三国志演義」や「水滸伝」と比べちゃうと「つまらない」です。
「ストーリーの焦点になるキャラ」と「(黒旋風李逵や武松みたいな)突き抜けたキャラ」の不在が大きいですな。
一応、前半は秦叔宝という豪傑が主役格なんですが、この人肝心の太宗李世民に仕えてからは殆ど活躍せず(劉備に仕えた後の馬超みたい)、いつ死んだかもよく分らないという(笑)。
各キャラの個性と役割分担も不明確で(「義侠心に厚い」とかばっかり)、孔明と周瑜みたいな面白い関係もありません。女性キャラは多いものの、これも「水滸伝」のグレイトな女性達に比べると見劣りします。
以上、まさに「キャラの立ち方が中途半端。三国志に似て三国志に及ばず、水滸伝に似て水滸伝に及ばず」というのが正直な感想。
ただ、「風よ万里を翔けよ」で主役を張っていたムーランこと花木蘭のあまりにあっけない死に方には驚いたけど(笑)。
以降「岳飛伝」「楊家将演義」と続くはずでしたが、これも止まってますね。


No. 563
安能版が読んでみたくなった
投稿者:本ページ管理人 1999/1/12 02:11:49
>当時、「本邦初訳」とか言ってTVCMまでやってたんですよね。

 この当時、ちょうど阪神大震災やオウム事件の時で、そんなときにこのCMを見て、更に自分の厭世観が増幅されたのをおぼえています。


>あくまで「編訳」であって、吉川英治「三国志」のようなオリジナル作品化ではありませんので、省略や意訳はともかく原典に無い文言を付け加えたりはしてないと思います

 意見は分かれると思うのですが、これなのならば、「小説家」田中芳樹が訳す意義はゼロだと私は思います。
 「訳文」を書いて時間を潰す暇があったら、とりあえず「小説」を書くべきではないでしょうか?


>田中氏は何かと言うと
>「諸葛孔明や「三国志演義」なんて中国ではワン・オブ・ゼムでしかない。中国にはもっと沢山のすばらしい物語やヒーローが存在するのに日本人の興味が偏ってるのはけしからん。中国人に「日本の人は岳飛なんて知らないでしょう。」と言われると申訳無く思う。」

 こんなところでも、徹底して、少数派の味方(のつもり)思考、野党精神なのですね(私には、「主義」ではなくて「趣味」の問題にしか見えないですが)。
 今回は大不発でしたけど、もし「隨唐演義」が大ヒットしていたら、「岳飛や「随唐演義」なんて中国ではワン・オブ・ゼムでしかない。中国にはもっと沢山のすばらしい物語やヒーローが存在するのに日本人の興味が偏って…」
 とか言い出しそうな気がしますね。


No. 564
安能務は別に教授じゃないです。
投稿者:とっちゃんぼうや 1999/1/12 11:18:35
あのひとはただのしろうと。しかもまちがえまくり(隋唐演義はどうでしょうね。知らないんですけど。封神演義はだめです)。


No. 566
勘違いだったのか
投稿者:本ページ管理人 1999/1/13 01:24:35
>安能務は別に教授じゃないです。

 ありゃりゃりゃ? どこで勘違いしたのだろう? どこかで、「田中芳樹じゃない隨唐演義は教授が書いている」という話を聞いた記憶があったのだけど…
 やっぱり、裏付けのない発言はすぐにボロが出ますね。申し訳ありません。


No. 570
封神演義を買ってしまった
投稿者:小村損三郎 1999/1/13 22:11:38
>あのひとはただのしろうと。しかもまちがえまくり(隋唐演義はどうでしょうね。知らないんですけど。封神演義はだめです)。

安能務ってそうなんですか。
数ある中でこの人の封神演義を買っちゃったんですけど。理由は安くてコンパクトだから(^^)。
まだ、読んでないんですけどどの辺が間違ってるんでしょう。

>今回は大不発でしたけど

あれって売れなかったんですか。
たしかに、元々のファンのニーズとはずれてるし、単価は高いし、中国物のメインユーザーである中高年層には田中芳樹のネームバリューは通用しないし、でマーケティングに問題があったとは思いますが。
若い人に布教したいならやっぱり自分のオリジナルの「隋唐演義」を書いた方が良かったのでは。(「風よ万里を翔けよ」がそうなのかもしれんが。)
たしかにアレは1巻で挫折した人が多そうではあります。皇なつきのイラストは良いんだけど。
「岳飛伝」「楊家将」の下訳は出来てる、と言ってたけど(出来てるってアンタ、訳したのは奥さんだろ(笑))未だに出ないのは打切りってことか?


No. 571
まちがってるのか、わざとなのか
投稿者:とっちゃんぼうや 1999/1/13 23:22:00
 ナタクじゃねえよ、ナタだよお、とか、楊ゼンじゃねえよ、楊「セ」ンだよお、だとか、申公豹は許由じゃねえよお、とか、申公豹は封神されるはずだろ、なんでされてないの、とか、黄天化は長男だろー、とか、四不象じゃなくって四不「像」でしょ、とか。

 「翻訳じゃないよ。編訳なの」と書いてはいるんだけど、編訳というよりは翻案。だから、確信犯とまちがいが混在してます。しかも筋がかなり改変されてる。

 講談社はなぜか+α文庫で正確なダイジェスト版(それでもダイジェスト版)を出してますが、何で正確なのを出す気になったのか結構解せないものが(しかもまだ人名で間違いデタラメを踏襲している)。

 だいたい、封神演義は「数多く」はないでしょう。完訳版はまだ一つも出ていません。


No. 574
ほーしんえんぎ
投稿者:荒井きらら☆ 1999/1/14 05:19:41
はじめまして。いつも楽しみに見ていますが、只今マイブーム中の「封神演義」に
ついて話題が出ていたので書込みします。

私も藤崎竜氏のマンガ版と安能版しか読んでないので、原典とどれほど違うのか
詳しい事は判らないのですが、どうやら安能版は翻案とか「超訳」と呼んでよい
レベルの作品のようですね。
原典ファンからは「あれは違う〜」と言われてしまうものかもしれないと(汗)。
でも誤訳はともかく、翻案自体は、それが悪いとは私はあんまり思ってないです。
私自身は安能版は、藤崎竜氏のマンガ版と同じレベル(笑)で受け止めております。
あれは現代的に面白くなるように翻案された、私家版「封神演義」ですと。

中国文学に詳しい友人に聞いたところ、「封神演義」というのは元々は、文字が
読めない民衆の前で演じられてきた講談やお芝居だったそうです。
それも通しで演じられるものではなくて、皆に馴染みの名場面をピックアップした
(三国志だったら赤壁の戦いに当たるような部分)、一幕芝居のようなものだった
そうでして。
んで、講談やお芝居を演じる人たちが、勝手に新しい場面やお話をこさえて、どんどん
元の話に追加していき、それが明代にまとめられたのが、今ある「封神演義」なのですと。
(でもどの話を取り入れるのか編者によって違うから、百回本や百二十回本とまちまちに
なってたりもして)

これを聞いちゃったら誤訳はともかく(^^;)、翻案はアリだよなーと思っております。
ちゅうか、演じたり語ったりする者が、自分の好きなように世界を表現する事は、
大衆娯楽としての「封神演義」においては正統的なスタイルのような気すらしております。
これが学者さんの仕事だったら問題アリだけれど、一人の作家が娯楽小説として、
「これが自分の「封神演義」です」として提出する事自体は、別に構わないのでは。
日本でも「忠臣蔵」という素材が、様々な作品として料理されているので、それと
同じ事ではないかしらと。


No. 584
モデルの話・その他
投稿者:小村損三郎 1999/1/15 02:27:14
>中国文学に詳しい友人に聞いたところ、「封神演義」というのは元々は、文字が
読めない民衆の前で演じられてきた講談やお芝居だったそうです。
>それも通しで演じられるものではなくて、皆に馴染みの名場面をピックアップした
>(三国志だったら赤壁の戦いに当たるような部分)、一幕芝居のようなものだった
そうでして。
>んで、講談やお芝居を演じる人たちが、勝手に新しい場面やお話をこさえて、どんどん
元の話に追加していき、それが明代にまとめられたのが、今ある「封神演義」なのですと。
>(でもどの話を取り入れるのか編者によって違うから、百回本や百二十回本とまちまちに
なってたりもして)

「三国志演義」、「水滸伝」、「平家物語」にしても王朝文学に対する大衆文学というのはこのパターンが多いですね。
余談ですけど、「平家物語」は元々琵琶法師が調べに乗せて唄ってまわったのが本来の姿なので、これを本で読むというのは、今で言えば歌謡曲を譜面で読むのと同じことなんだそうです。


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