山本弘論争顛末記

ダブスタまみれの田中作品評
過去ログC

WEBRANKING テキストサイト部門 サイトランキング 文学・小説・童話部門 mixiチェック

コンテンツの総収録投稿数37件の内、14~27件目の投稿を掲載

収録投稿14件目
board4 - No.4033

Re:Re3997:一応返答

投稿者:デーストロン幹部
2003年05月02日(金) 19時52分

>  意図的にかどうかは知りませんが、山本弘が声を大にして主張している肝心要の要素を勝手に取り落としてもらっては困りますね。一連の投稿で山本弘は、単に「創造的でない行為をそう指摘する」だけでなく、それを論拠に「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」の映画制作者達を「頭の悪いバカである」とまで断じているのであり、しかもそれこそが一連の議論における山本弘の主張の骨子なのですがね。

「創造性」を発揮すべき仕事において、何の目新しさも認められないような「作品」を提出したのではクリエイターとして無能の烙印を押されても、全く無理は無いと思いますが? 最初からマニュアル通りの作業をこなす事を求められる職業に従事している人への差別など、どこをどう読めば出てくるのでしょう? 私には、流石に本格的な料理とマックのバーガーを全く同列に扱うのは無理と判断して、ありもしない職業差別観を持ち出しているように見えます。
もし本気でマックバーガーとシェフの料理が等価であると主張されるのであれば、あなたはよほどの味音痴か、高級レストランでファストフードを出され、料金はフルコース分請求されても腹を立てない方なんでしょうね。

>  それと、私が提示した5つの論点中、異論があるのは2つだけで、残り3つの論点は全てノープロブレムということでよろしいのですか?

…「モンティ・パイソン ホーリーグレイル」に登場する黒騎士を思い出してしまいました(^^)。やはり右腕を溶かされたくらいでは足りないようですね。
基本的にあなたは誤読の自由を悪用して言いがかりをつけている上、本質的に同一の内容を蒸し返しているだけなので、総レスする必要が認められないのですよ。
1に関しては、氏は決して「完全否定」などしていないし、その骨子は2、3における問題点とまったく同じなので必要なし。
4…2、3を否定されて成り立ちうるとお思いですか? カートゥーンのギャグで、足場を失った物体がそうと気づかれるまでしばらく宙に浮いているというのを良く見かけますが、その手の冗談なんですかね?
氏は一貫して、マニュアルから1歩も外に出ないような映画作りを創作の名に値しない、(クリエイターとして)馬鹿だと言っているのですが。
5、専門家の意見が門外漢より重視されるのは当然の事ではありませんか。氏自身映画雑誌に連載を持っていましたし、こと特撮、SFに関して、審美眼は確かだと思われますがね。
科学的事実や名のある評論家の評価を引いて自説を展開する事のどこが客観性を欠いているのでしょう? この段の内容はほぼそっくりお返ししましょう。

>  念のため先に言っておきますけど、あなたがもし山本弘を本気で擁護するつもりなのであれば「反論する価値もない」という類の返答はなしですよ。

…随分極端な反応を想定されますね。それほど頻繁に論戦相手から見捨てられてこられた訳ですか。

>私が提示する5つの論点全てを論破しなければ、私の山本弘批判論を完全に葬り去ることはできないのですから。

やはり「モンティ・パイソン…」あ、いや。重複は無駄な長文を生むだけですな。5つ(実質的には2つ)の内4つも間違いが指摘されれば大した物だと思いますが。他人の粗は針小棒大に言いたてて、自論に対しては全て論破されるまで問題なしとは、御立派ですな。こういうのを、ダブルスタンダードと言うんじゃありませんでしたっけ?

収録投稿15件目
board4 - No.4061

Re4033:テンプレート作品の存在意義

投稿者:冒険風ライダー
2003年05月07日(水) 20時29分

<「創造性」を発揮すべき仕事において、何の目新しさも認められないような「作品」を提出したのではクリエイターとして無能の烙印を押されても、全く無理は無いと思いますが? 最初からマニュアル通りの作業をこなす事を求められる職業に従事している人への差別など、どこをどう読めば出てくるのでしょう? 私には、流石に本格的な料理とマックのバーガーを全く同列に扱うのは無理と判断して、ありもしない職業差別観を持ち出しているように見えます。>

 非常に簡単な話ですよ。今回山本弘が行った一連の主張のほとんど全てが、ただひたすら山本弘個人の主観的価値観のみに立脚したものでしかなく、それとは異なる価値観を抱いている他人を納得させられるだけの客観的な根拠や普遍的な概念ないしは理論といったものが全く存在しないのですから。
 たとえば、今回山本弘は「何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」などといった主張を展開しているわけですが、「何も考えずに」も「テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」も、ただ単に「山本弘個人の主観的価値観からはそのように判断される」というだけのことでしかなく、その根拠にしても「映画に詳しいマニアや、創作を生業としているプロには、あの映画は根本的にダメだってことが一目で分かる」などという、これまた「山本弘個人の主観的価値観に基づいた推論」が展開されているだけです。
 しかし、山本弘曰く「テンプレート通りの物語を書く奴」は、実は「ストーリー構成や演出、それに客受けなどといった要素を配慮して『考えた』上で」、あえてテンプレート通りのシナリオや設定や描写を作ったのかもしれませんし、それで作品が客受けして大ヒットすれば、すくなくとも製作者の意図に沿ったエンターテイメント作品制作の観点から言えば「頭の悪いバカ」とは到底言えないでしょう。その手のエンターテイメント作品の製作者にとっては「テンプレート通りの設定や描写を織り交ぜてテンプレート通りの作品を制作し、大ヒットを狙うこと」こそが「頭の良い利口なエンターテイメント作品制作手法」なのですから。
 もちろん、作品の基本的なコンセプトを理解した上で、あえて「科学考証の正しさ」や「独創性の有無」などについて「作品を」論じることにはそれなりの意義があるでしょうし、それがきちんとした理論によって構成されていればそれなりに賛同する人も出てくることでしょう。しかし、当の製作者達自身が意図しても考慮してもいないばかりか、むしろ「作品製作にとっては邪魔なもの」としてすら見ていたであろう、「科学考証の正しさ」だの「独創性の有無」だのといった「個人的な主観的価値観にのみ立脚しているに過ぎない作品評価基準」に基づいて「この作品の製作者は頭が悪い」などと述べたところで、そんなものに「客観的な作品評価」としての存在意義など何もありはしないのです。
 前にも言いましたが、そんな「中身がスカスカな【なんちゃって評論】」で良いのだったら今時小学生でもできる程度のことでしかないのですよ。それで「映画評論の専門家」を名乗るなど、おこがましい限りでしょうね。

 また、山本弘が「悪の代名詞」のごとく全否定的な定義をしている「テンプレートの多用」にしたところで、単純かつ分かりやすい設定や描写でお客を作品世界に感情移入させ、一定の客受けを狙う手法としては、それなりに意義のある作品製作方法ではあるでしょう。映画に限らず、エンターテイメント作品というものは、作品を熟知して粗を探すことに精を出すマニアだけでなく、初めて作品を観る人や、その場の雰囲気を楽しむだけですぐに作品を忘れ去ってしまうような「にわかファン」などをも全て対象にした上で、それでも大ヒットできる作品を制作しなければならないのですから、その目的を達成する手段として有効活用できる「テンプレートの多用」は「賢い作品製作方法」として立派に成立しえるではありませんか。
 そして、そのような「テンプレート作品」を楽しんだ客が、それをきっかけに「にわかファン」になったり、そこから発展して「(山本弘定義による)本当に熱心なファン」になったりすることもあるでしょう。「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」のような映画を観て映画ファンになった人だっているでしょうし、山本弘がNo.10063で挙げていた「水戸黄門」や「遠山の金さん」などのような「テンプレート作品」を観て時代劇ファンになった人も決して少なくはないでしょう。このような「ファンの大量獲得」を、客受け要素を無視してただひたすら「科学考証の正しさ」や「独創性の有無」を優先する「マニア向けの作品」がそうそう簡単にできると思いますか?
 つまり、山本弘にとっては非常に不快な話ではあるでしょうが、「テンプレート作品」には「テンプレート作品」なりのエンターテイメント性や創造性といったものが存在するし、また「テンプレート作品」にとっては、山本弘が心底憎んでいるであろう「単純かつ使い古されたコピーであるが故の分かりやすさ」や「科学考証無視の派手な演出」こそが「客を引き込む魅力」になっているということです。だからこそ、このような「テンプレート作品としての存在意義」を何ら考慮することなく件のマクドナルドハンバーガーの「たとえ話」を持ち出し、「テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」などと主張する山本弘は、「たとえ話」の逆用によって「【マニュアルに従って何かを成功させる仕事に従事する人達】に対する明白な職業差別意識を持っている」と評価されるわけです。
 そもそも単純に考えてみても、自分から例の「たとえ話」を元に「『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』は料理ではなく冷凍食品だし、スタッフはマニュアル通りに作っているだけだから『頭が良い』とは言えない」と他人にお説教しておきながら、他ならぬ自分自身が「料理」の論法を使って「冷凍食品」を糞味噌に評価した挙句、「スタッフはマニュアル通りに作っているだけだから『頭が悪いバカ』である」などと主張するという、あまりにも御都合主義かつダブルスタンダードな「頭の悪い」矛盾に、山本弘は自分で書いていて気づかなかったのですかね? 先にも述べたように、「【マニュアル通りに作っているだけの】テンプレート作品」にもまた、エンターテイメント作品としての存在意義があるはずなのですが。

 そして、実はこれが一番重要なことだったりするのですが、もし万が一、山本弘が主張する「何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」が一定の論として成立しえるのであれば、何故山本弘は田中作品を「テンプレート通りの物語」として批判しようとしないのでしょうか?
 田中芳樹ファンの間では結構知られていることなのですが、銀英伝は「三国志演義」辺りの世界観やストーリーテリングを「テンプレート」にすることで成立している作品です。しかも、銀英伝の作品世界の設定や描写の中には、明らかに銀英伝以前に登場している過去のSFシリーズ作品(宇宙戦艦ヤマト・ガンダム・スタートレック・スターウォーズなど)の作中に存在する「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーン」を流用しているものが多数存在するのです。
 たとえば、銀英伝1巻におけるトリューニヒト演説の論調にヤンが辛辣に切り返すシーン(銀英伝1巻P92「市民諸君、私はあえて問う。一五〇万人の将兵はなぜ死んだのか?」「首脳部の作戦指揮がまずかったからさ」)は、ファーストガンダムにおけるギレン・ザビ演説のパクリと言われていますし、銀英伝世界の要塞は明らかにスターウォーズに登場するデススター要塞のコピーです。また銀英伝に登場する超光速通信や3次元チェスなどは、銀英伝が出版される以前から放送されていたスタートレックにも同様のものが登場しているにもかかわらず、銀英伝の作中では名前が登場しているだけで、その内容や原理に関する具体的かつ「正しい科学考証」に基づいた独自の理論的説明すら全く行われておりません。これらの作中設定や描写などは、山本弘が声を大にして主張する「何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」や「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」などに該当するのではないのですか?
 また、銀英伝以外の作品でも、たとえば創竜伝では「全ての歴史的事件を裏で操る影の黒幕および陰謀論」だの「超人的な肉体能力を持つ主人公」だの「何故か前世では有名な英雄や芸術家だったり、お姫様だったりする輪廻転生」だのといった「使い古されたテンプレート」を使ってストーリーが構築されていますし、「薬師寺シリーズ」などに至っては、キャラクターの設定・描写・ストーリー進行などのあらゆる面で「スレイヤーズ」と「極楽大作戦」という「他人が考えた」作品の「しかも使い古されたシーンをコピーする」行為が「平然と」行われています。これらの事実を山本弘的理論に従って評価するならば、田中芳樹は「何も考えてない」で自分の作品を作ったことになるわけですから、当然こちらに対しても「このような作品を作った人間は頭が悪いバカだ」式の山本弘的批判手法で徹底的に斬りまくっていくべきではありませんか。
 もちろん、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」や田中作品だけでなく、ありとあらゆる全てのエンターテイメント作品を評価するに際して、山本弘は自分が提唱する作品評価基準を適用していくべきです。是非とも「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーン」を少しでも使用しているような作品や、「テンプレート通りの物語を書く」人達全てに対して、「自分では何も考えてない頭の悪いバカである」という批判を大々的に展開して頂きたいものです。果たしてどれだけの作品が生き残ることができるか、非常に見物なのですが。
 にもかかわらず、実際には山本弘は、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」などの「自分個人の好みに沿わない特定の作品」に対してしかこの手の作品評価基準を適用しないばかりか、田中作品の「杜撰なテンプレート設定や使い古されたシーンのコピー」に至っては「それまで誰も書いたことのないタイプの小説だから」だの「もちろん科学的な間違いをはじめ、欠点はいろいろあるけど、それは全体から見れば些細な傷です」だのといった「山本弘個人の主観的価値観」のみに立脚したものでしかない理由で擁護までするというのですから、御都合主義も甚だしい話で、やはり「山本弘はダブルスタンダード」としか言いようがないのではありませんかね。

<もし本気でマックバーガーとシェフの料理が等価であると主張されるのであれば、あなたはよほどの味音痴か、高級レストランでファストフードを出され、料金はフルコース分請求されても腹を立てない方なんでしょうね。>

 そもそも「マックバーガー」と「シェフの料理」を同一基準に基づいて評価すること自体が大間違いである、とは思わないのですかね? 大量生産用のファーストフードにも「食べ物」としての存在価値はあるのですし、それは「質にこだわるシェフの料理」とは全く異なる基準で評価されるべきものでしょう。「マックバーガー」と「シェフの料理」を同一基準に基づいて評価してもかまわないというのであれば、「シェフの料理」だって「マックバーガーのような大量生産能力と安定供給能力を兼ね備えていない【不安定な食品】だから、こんな非効率的かつ手間のかかるシロモノを作っている奴は頭の悪いバカである」などと評価してもOKということになってしまうではありませんか。
 これはエンターテイメント作品にしても同じ事で、あえて「テンプレート作品」を好む人もいれば、分かりづらく難解な「マニア向けの精緻な作品」よりも、単純明快で分かりやすい「テンプレート作品」を選択する人もいるのです。また「マニア向けの精緻な作品」が好きな人でも、気分によっては「テンプレート作品を手軽に楽しみたい」と考えることだってあるでしょう。これは人それぞれの趣味や嗜好、それにタイミングなどの問題であって、別に「マニア向けの精緻な作品」を好む人間が「テンプレート作品」を愛好している人間よりも優れているというわけではないでしょうに。
 「人間の好み」というのは非常に不条理かつ非論理的なものでしてね。これを正面から見据え、「他人の価値観は、常に自分とは異なるものである」という前提に立った上で、それでも他人を納得させられるだけの説得力を持つ客観的根拠に基づいた理論を展開する、これこそが作品評論の際には本当に必要不可欠なことなのではありませんか? すくなくとも、山本弘などのように、自分個人の主観的価値観のみに依存した御都合主義かつダブルスタンダードな作品評価などを行っていては、いつまでたっても「3流評論家」としてしか周囲から評価されることはないでしょうね。

<1に関しては、氏は決して「完全否定」などしていないし、その骨子は2、3における問題点とまったく同じなので必要なし。>

 すいませんが、今回山本弘が行っていた一連の投稿内容のどこをどう読んだら「完全否定などしていないし」なんて説が導き出されてくるのですかね?
 この件に関する山本弘の論って確かこんなシロモノ(↓)でしょ?

「『時限爆弾に赤と青のリード線』とか『脱出寸前に車がエンストを起こす』なんてシーンを平然と書く脚本家は頭が悪い、と言っているのです」
「何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」
「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」

 はっきり言いますけどね、これだけ「定型パターン描写」を完全否定している発言を行っている人が、別のところで「定型パターン描写」を肯定するような発言をしているとしたら、それは「完全否定などしていない」のではなく「ダブルスタンダードに陥っている」としか、周囲には評価されないのですよ。実際、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」と田中作品における作品評価のあまりに隔絶した差を見ても、山本弘は「ダブルスタンダードに陥っている」ようにしか見えませんし。
 それに「1」の骨子のどこが「2」「3」の問題点と同じだというのでしょうか? 「1」における「映画制作者は観客受けを狙って熟考した末にあえて定型パターン描写を挿入しているのだろうし、それ自体は否定されるべきことではない」という主張の骨子が、「2」「3」の問題点である「マニュアル万能主義」「職業差別意識」と関連性があるとは思えませんが。

<4…2、3を否定されて成り立ちうるとお思いですか? カートゥーンのギャグで、足場を失った物体がそうと気づかれるまでしばらく宙に浮いているというのを良く見かけますが、その手の冗談なんですかね?
氏は一貫して、マニュアルから1歩も外に出ないような映画作りを創作の名に値しない、(クリエイターとして)馬鹿だと言っているのですが。>

 本当に私の投稿をきちんと読んでくれたのですかね? 「4」は別に「2」「3」が存在しなくても成立するものですし、山本弘が「マニュアルから1歩も外に出ないような映画作りを創作の名に値しない」という態度を見せるからこそ「2」「3」で論じたような問題点が出てくるのだと私は指摘しているのですが。
 第一、私は「4」の問題点を論じるに際して、その冒頭にこう書いているではありませんか。

<では上記で挙げた2つの欠陥をあえて無視して、山本弘の事例を「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」に当てはめてみるとどうなるか? 実はこの条件でさえ、山本弘の論が間違いであることは一目瞭然なのです。>

 今更言うまでもないでしょうが、「上記で挙げた2つの欠陥をあえて無視して……」というのは「『2』『3』の論が一切存在しないと仮定する」という意味ですよ。そして山本弘が提示した「たとえ話」の問題点を指摘した上で、さらに最後にはこういう主張で締めくくっています↓

<それとも、あくまで前項で論じたように、マクドナルドのアルバイトも「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」の映画制作者達も「マニュアルに従っているだけであるが故に頭の悪いバカである」ということで一括りにでもしますかね? その場合は間違いなく「職業差別論者」として認定されることになってしまいますが。>

 つまり「4」の問題点は、仮に「2」「3」の問題点が万が一成立しなくても論として成り立つばかりか、むしろ逆に「2」「3」の補強にすらなっているわけです。
 私の論に賛成するにせよ反対するにせよ、わけの分からない見当ハズレなたとえ話などを開陳するよりも先に、もう少し相手の主張を正しく読解する努力くらいしたらいかがです? 今のままでは私に反論する以前の問題だと思うのですが。

<5、専門家の意見が門外漢より重視されるのは当然の事ではありませんか。氏自身映画雑誌に連載を持っていましたし、こと特撮、SFに関して、審美眼は確かだと思われますがね。
科学的事実や名のある評論家の評価を引いて自説を展開する事のどこが客観性を欠いているのでしょう?>

 「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」を評する際の下地となっている「科学考証的に見て正しくなければならない」「使い古されたシーンを多用してはならない」という2つの前提と、「それを満たさない2作品の映画制作者は頭の悪いバカである」という結論が、共に山本弘個人の主観的価値観のみに依存した「客観性を著しく欠いている上に間違っているシロモノ」でしかないので、その途中過程でいくら「科学的事実」や「名のある評論家の評価」を引いてきても意味がない。これで理解できませんかね? 「始め良ければ全て良し」にも「終わり良ければ全て良し」にも全く該当しませんが。
 ついでに言うと、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」と同じくらいに「杜撰な科学考証に基づいたバカな描写」や「テンプレート通りの設定」が多数存在する田中作品を、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」と同一の基準を使うことなく擁護に走る行為もまた、「著しく客観性を欠いている」と言われても仕方がないでしょうね。私が一連の議論で何度も繰り返し主張していることですが。
 それと、「専門家の意見が門外漢より重視されるのは当然の事ではありませんか」という観点からいくと、映画制作の専門家でもない「門外漢」の山本弘が、映画制作の「専門家」に対してあれこれ評価を下した挙句、身の程知らずにも「自分だったらこんな描写にする」と言わんばかりの映画制作手法を「門外漢の分際で」開陳する行為はいささかマズイのでは? 山本弘が映画制作の専門家だった、という経歴は、すくなくとも私が調べた限りでは見つからなかったのですが。
 作品評価に専門家も素人もありませんし、「専門家だから」という理由で無条件に論説を信じる行為も危険なことなのではないかと、私などは思うのですけどね~。

収録投稿16件目
board4 - No.4062

Re:Re4033:テンプレート作品の存在意義

投稿者:倉本
2003年05月09日(金) 10時29分

実際問題として山本弘もテンプレート通りのシーンのある作品を書いてるんですよね。
ですから山本弘に批判する権利があるのかという気もします。
そもそもあらゆるストーリーシナプスは聖書で出尽くしてるという言葉もあるようにオリジナルな作品を作ることがどれだけ困難か創作者ならわかってないといけないはずですが。

収録投稿17件目
board4 - No.4066

創作論を騙る原理主義者へ

投稿者:デーストロン幹部
2003年05月11日(日) 16時44分

「全く! マニュアル通りにやっていますと言うのは、阿呆の言う事だ!」
 ――ギム・ギンガナム

相変わらず重複の多い長文をどうも。

それほど権威盲従がお嫌いであるにも関らず、マニュアル盲従には何故そこまで寛容でいられるのか理解に苦しみますね。
既存のテンプレートを作品に用いる事と、「何も考えずに使う」事の間には14万5000光年ほどの隔たりがあると思いますが? 部分否定を全否定と言い張る方には言っても詮無い事かもしれませんね。
既存のテンプレートを用いる事で作品を親しみやすいものにする事と、オリジナリティを発揮する事。この二つは果たして止揚不能な矛盾でしょうか? 卑しくも創作者を名乗るならばその程度の事は弁えておくべきですし、あたかも解消不能な対立概念であるかの如く言いたてることで自作が擁護されていると知ったら、マイケル・ベイも多少は心を入れ替えるかも知れませんな。

山本氏の主張は「作品」は作品として「工業製品」は工業製品として評価しようと言うものです。
ですから「天文学には占星術という娘がいた。出来の良い娘では無かったが、娘がせっせと稼がなければ母親は飢えてしまっただろう」方式の長々とした擁護は最初から無意味ですが?

そもそも、作品を主観ぬきで評価する事など可能だとお思いですか? 完璧な客観性等という物は幻想に過ぎません。せいぜい努めて客観的に判断材料を集め、評価するのが精一杯。最終的な判断は主観的に行う他無いでしょう。あなたの要求は不当なものであるばかりか、例によってご自身を例外としておられるようですね。少なくとも氏の判断基準は(作中の描写という)事実に基づくもので、意図的に文意を捻じ曲げる事で捏造されたものではありません。
あなたの主張は要約すれば「山本弘は「科学考証」と「他の評論家の意見」を判断基準に「アルマゲドン」を評価した。だからけしからん」というものです。
仮にもSFの体裁を取った映画作品で、より適切なものさしがあれば是非教えて頂きたいものですね(「スターウォーズ」のような明らかにFTのテンプレートを用いた作品ならともかく)。以上を根拠に「アルマゲドン」を「工業製品」と判断する事は、適切な評価と言えるでしょう。

>映画制作の専門家でもない「門外漢」の山本弘が、映画制作の「専門家」に対してあれこれ評価を下した挙句、身の程知らずにも

ええ、”映画を映画とも思わない”という素晴らしい評価を得ておられる「専門家」ですけどね(^^。
専門家にももちろん優劣はある。こんな当たり前の事をわざわざ断らなければいけないのですか?

>作品評価に専門家も素人もありませんし

「悪貨が良貨を駆逐する」かの如き素人評論を心底憎んでおられるなら、優れた専門家の下した評価と、バカ映画に涙した人々の感想を同列に扱うべきではありません。撮影術や物語構成術に関する知識と経験、こうしたものが鑑賞能力に全く何の影響も及ぼさないと考える方がどうかしているのです。それこそ映画や評論に対する冒涜ではありませんか。
判断基準と情報源を明示することで、氏は充分に責任ある発言をしていると言えます。その上更に根拠を示せ、と迫るのは立証責任の転嫁と言うものです。それに反対意見を述べるのであれば、氏の文意を捻じ曲げるなどと言う姑息な手段に拠らず、「判断基準と情報源」の誤りを指摘されるがよろしいでしょう。

あなたのスタンスを一言で要約するならば、「平等原理主義」とでも言うべきでしょう。その実態は破壊的なニヒリズムに通じる腐った悪平等ですが。その特徴を挙げるなら、
1、相手の意見を一方的な主観に基づくものと規定した上で、無価値なものとする。
2、1を持ってそれならば別の主観に基づく意見も(少なくとも同程度には)重んじられるべきものだと主張する。
3、結果的に、相手が意見を述べる事自体が別の主観に基づく意見を持つ者への差別であると主張する。
――以上を持って「仮面ラーイダ変身セット」と呼んでも差し支えないかと思います。これで君も今日からnetの害虫だ!
――仮面ラーイダは平等原理主義者である! 彼が槍玉に挙げるクリエイター達は、彼に成し得ない創造的な作品を世に問うてきた人々である! 己のチンケなプライドのため、仮面ラーイダは今日も誹謗中傷を続けるのだ!

最大の問題点は、あなたの主張が山本氏の発言への反論、批判ではなく、山本氏が「発言する事」自体への非難になっていることです。
それは、自由な批判精神を必要とする評論からは、最もかけ離れたものだと言わざるを得ませんね。

「あらゆるアイデアには価値がある、という考えはあらゆるアイデアに価値など無い、という考えと同じくらいおぞましい」
  ――カール・セーガン

収録投稿18件目
board4 - No.4067

Re:創作論を騙る原理主義者へ

投稿者:山本弘問題連絡会から来ました
2003年05月11日(日) 20時59分

冒険風ライダーさん、およびこの板の住人の皆様へ。
山本信者の定義によると、

1.内容の如何に関わらず、表現の無礼な書き込みは荒らしである。

2.反論されたにもかかわらず、しつこく再反論を書き込むヤツは荒らしである。

3.長文の書き込みは荒らしである。

だそうです。
ゆえに信者ルールにより、デーストロン幹部氏は荒らしであると認定されました。
だからもうこいつの相手にしなくていいですよ~!

ちなみに山本弘およびその信者の生態についてもっとよく知りたい方は、こちらのサイトにどうぞ。↓

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/5254/

収録投稿19件目
board4 - No.4070

Re:創作論を騙る原理主義者へ

投稿者:本ページ管理人
2003年05月12日(月) 00時05分

別に冒険風ライダーさんはインデペンデンス・デイやアルマゲドンの評価などどうでも良く、「優れた専門家」とやらからみたらどう見ても取るに足らない田中芳樹の『バカ』小説を擁護しつつ、同じく『バカ』映画を根底から批判している矛盾を指摘していると思いますが。
個人的には、田中芳樹作品をファーストフードと認めていれば、別に論そのものは変なことを言っていないと思いますよ。でも、田中芳樹の小説は「手間ヒマかけたシェフの料理」って評価しているんですよね。自分で自分の言ったことを否定してどうする(笑)
ちなみに、前にこの掲示板で田中芳樹の小説を料理に例えたとき、肯定派も否定派も「田中芳樹の小説はファーストフード」という大意では同意していました。

収録投稿20件目
board4 - No.4071

Re4066:相手の論をでっち上げる山本弘信奉者へ

投稿者:冒険風ライダー
2003年05月12日(月) 21時46分

<既存のテンプレートを作品に用いる事と、「何も考えずに使う」事の間には14万5000光年ほどの隔たりがあると思いますが? 部分否定を全否定と言い張る方には言っても詮無い事かもしれませんね。>

 あなたも本当に分かっていませんね。山本弘が主張する「何も考えず」の定義は、あちらの掲示板のNo.9685で山本弘自身が「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」とこれ以上ないほど明確な「全否定的な定義」を提示しているではないですか。
 そしてこの定義を元に山本弘は「『時限爆弾に赤と青のリード線』とか『脱出寸前に車がエンストを起こす』なんてシーンを平然と書く脚本家は頭が悪い」だの「テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」だのといった主張を展開した挙句、「既存のテンプレートを作品に用いる映画制作者」を「頭の悪いバカ」と断定しているのですから、論の主旨や流れから言っても、山本弘の作品評価は「既存のテンプレートを作品に用いる=何も考えていない」という図式を基準にしていなければ論として全く成立しえないではありませんか。第一、この図式を映画評価の前提にしていないというのであれば、山本弘は一体何を根拠に「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」の映画制作者達を「頭の悪いバカである」と評価していることになるのですか?
 本当に山本弘を擁護したいのであれば、せめて山本弘の発言内容をもう少し熟読・理解した上で私に反論して頂けませんかね。擁護すべき山本弘的理論の論旨ひとつ正確に理解できていないようでは、擁護される山本弘も迷惑でしかないと思うのですが。

<既存のテンプレートを用いる事で作品を親しみやすいものにする事と、オリジナリティを発揮する事。この二つは果たして止揚不能な矛盾でしょうか? 卑しくも創作者を名乗るならばその程度の事は弁えておくべきですし、あたかも解消不能な対立概念であるかの如く言いたてることで自作が擁護されていると知ったら、マイケル・ベイも多少は心を入れ替えるかも知れませんな。>

 それは私ではなく山本弘に対してこそ主張するべきことですね。山本弘こそが「既存のテンプレートを用いる事で作品を親しみやすいものにする事」に対して「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」などという、何ら客観的根拠のない独り善がりな定義を勝手に行った挙句、ただそれだけをベースにして「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」の作品および映画制作者達を「オリジナリティがない」「創作者として失格」「頭の悪いバカである」として一方的に斬り捨てている張本人なのですから。
 山本弘が卑しくも創作者を名乗るならば、「既存のテンプレートを用いる事」と「オリジナリティを発揮する事」とが両立するものである事くらいは当然弁えておいて然るべきことであるはずですし、それをあたかも解消不能な対立概念であるかの如く言いたてることで自分の作品や自分自身が「オリジナリティがない」「創作者として失格」「頭の悪いバカである」などと糾弾されていると知ったら、マイケル・ベイもそれこそ「頭の悪いバカな奴もいたもんだ」と爆笑してしまうかも知れませんね~。

<山本氏の主張は「作品」は作品として「工業製品」は工業製品として評価しようと言うものです。
ですから「天文学には占星術という娘がいた。出来の良い娘では無かったが、娘がせっせと稼がなければ母親は飢えてしまっただろう」方式の長々とした擁護は最初から無意味ですが?>

 だから「作品は作品として、工業製品は工業製品として評価しよう」と主張し、「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」を「工業製品」と定義しているはずの山本弘自身が、「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」を「作品」の基準で評価した挙句、その製作者達を「オリジナリティがない」「創作者として失格」「頭の悪いバカである」と評価していること自体がおかしい、と私はNo.3986とNo.4061で何度も繰り返し主張しているはずなのですけどね。
 そもそも、山本弘の「たとえ話」は「『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』がハリウッドのアクション大作映画マニュアルに忠実に作られている典型的かつテンプレート的な大衆娯楽映画である」ことを示す例としては適切であっても、「そのような映画を製作した人間は頭が悪いバカである」ということを立証する根拠になど全くなっていないのですよ。私がNo.3986とNo.4061で述べたように、マニュアルに忠実にエンターテイメント作品を制作することにもそれなりの技術や責任意識というものが必要不可欠なのですし、テンプレートだらけの作品にもエンターテイメント作品としての存在意義があるのですから。そして、これを踏まえた上で山本弘の論に従うのであれば、「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」は「工業製品(テンプレート作品)」の判定基準に基づいてその良し悪しが評価されるべき、ということになるはずですし、論の流れから言っても当然そのような結論が導かれなければならないのです。
 にもかかわらず、山本弘は自分が提示した「たとえ話」の構図を自分で全く理解することなく、また「テンプレート作品の存在意義」を少しも顧みることすらもなく、「作品」の評価基準に基づいて「工業製品」を糞味噌に評価した挙句、「たとえ話」とは全く無関係な「オリジナリティがない」「創作者として失格」「頭の悪いバカである」などという評価を「どこからともなく」持ち出してくるわけです。だからこそ、山本弘の「たとえ話」は「テンプレート作品を制作する人間は頭の悪いバカである」という結論を導く論拠としては辻褄が合わないし、もしそんな「たとえ話」本来の道筋にすら反する愚劣な論法が万が一成立するというのであれば、山本弘が「マニュアル万能主義」と「マニュアルに忠実に働く人達に対する職業差別意識」という誤った考えを抱いていることになるということを、私は今まで繰り返し論じてきたのです。
 つまり私は、山本弘が提示する「たとえ話」にあえて乗った上で、山本弘の論が致命的に間違っていることを立証しているわけで、その私に対して「(私自身も前提とし、かつ破綻していると主張している)山本氏の主張」なるものをただひたすら振りかざしたところで、そんなものは反論にも何にもなってはいないのですよ。だからこの件にするあなたの山本弘擁護は最初から無意味ですが?

<そもそも、作品を主観ぬきで評価する事など可能だとお思いですか? 完璧な客観性等という物は幻想に過ぎません。せいぜい努めて客観的に判断材料を集め、評価するのが精一杯。最終的な判断は主観的に行う他無いでしょう。あなたの要求は不当なものであるばかりか、例によってご自身を例外としておられるようですね。少なくとも氏の判断基準は(作中の描写という)事実に基づくもので、意図的に文意を捻じ曲げる事で捏造されたものではありません。>

 私が予め予防線を張っておいたのに、わざわざ誤読して私が言ってもいない主張を勝手にでっち上げないでくれます? 私はNo.3986で以下のような主張を行っていたはずなのですがね↓

<世の中には人間の数だけ「主観的価値観」というものが存在するわけなのですから、他人に自説を認めさせようとするのであれば、「山本弘個人の主観的価値観」を肉付けする「客観的根拠」が必要であることなど自明の理であるはずではありませんか。「個人の主観的価値観」でもっともらしく作品を論評するだけならば今時小学生でもできます。ましてや「と学会会長」である山本弘ともあろうものが、泣き喚く子供のワガママのような主張を行ってどうするのでしょうか。>

 つまり私は、「『山本弘個人の主観的価値観』で作品を論じること【自体】」を否定しているのではなく、「『山本弘個人の主観的価値観』【だけ】で作品を論じること」を問題視しているわけです。そして仮にも「と学会会長」だの「映画評論の専門家」だのといった肩書きを名乗っているのであれば、自分の主観的価値観を絶対視してそれに依存する「だけ」でなく、万人に正しいと納得させられるだけの客観的根拠「も」伴わせた上での作品評価を行うべきだ、と私は主張しているのですよ。「肉付け」という言葉でもその文意は充分に読み取れるでしょう。
 だからここの文章も、私に対する反論としては最初から完全に無意味なシロモノでしかありませんね。

<あなたの主張は要約すれば「山本弘は「科学考証」と「他の評論家の意見」を判断基準に「アルマゲドン」を評価した。だからけしからん」というものです。
仮にもSFの体裁を取った映画作品で、より適切なものさしがあれば是非教えて頂きたいものですね(「スターウォーズ」のような明らかにFTのテンプレートを用いた作品ならともかく)。以上を根拠に「アルマゲドン」を「工業製品」と判断する事は、適切な評価と言えるでしょう。>

 ムチャクチャな要約であり主張でしかありませんね。誰もそんな事言ってなどいませんし、最後の文章に至っては前述のように全く無意味な反論でしかないのですが。
 今回の件に関して私が最初からずっと一貫して主張していることは、

「山本弘は、SFフィクション作品である『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を、作品中でも特に重要視されているわけでもない【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】を見ただけで『これらの映画製作者は何も考えていない頭の悪いバカである』と評価するのに、何故同じカテゴリーに属し、かつ同じくらい【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】が多数存在する田中作品については何ら批判の声を上げようとしないのか? これはダブルスタンダードではないのか?」

 ↑というものですし、それに対して提示された山本弘の主張が、どれもこれも「山本弘個人の主観的価値観【のみ】に依存しただけの、何ら客観的根拠を伴っていないシロモノ」でしかないために、ダブルスタンダードの正当化どころか、件の「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」評価における「このような映画を製作した人間は頭の悪いバカである」という主張の「万人を納得させられるだけの説得力を持つ作品評価基準の論拠」にすら全くなっていないからこそ、山本弘の主張が問題視されるわけです。
 それと、もし仮に山本弘が「『仮にもSFの体裁を取った映画作品』では『科学考証』と『他の評論家の意見』を判断基準にしなければならない」などと考えているのであれば、山本弘が大絶賛している「仮にもSFの体裁を取った」銀英伝に対しても、当然同じ基準を当てはめて評価するべきなのではありませんか? それをしないということは、やっぱり「山本弘の作品評価基準はダブルスタンダードである」ということになるのではないのですかね?

<ええ、"映画を映画とも思わない"という素晴らしい評価を得ておられる「専門家」ですけどね(^^。
専門家にももちろん優劣はある。こんな当たり前の事をわざわざ断らなければいけないのですか?>

<「悪貨が良貨を駆逐する」かの如き素人評論を心底憎んでおられるなら、優れた専門家の下した評価と、バカ映画に涙した人々の感想を同列に扱うべきではありません。撮影術や物語構成術に関する知識と経験、こうしたものが鑑賞能力に全く何の影響も及ぼさないと考える方がどうかしているのです。それこそ映画や評論に対する冒涜ではありませんか。>

 あなたも本当に山本弘同様に「頭が悪いバカ」としか言いようがないですね。自分で書いていて気づかなかったのですか?
 あなたの主張によれば、「専門家の意見が門外漢より重視されるのは当然の事」だし「優れた専門家の下した評価と、バカ映画に涙した人々の感想を同列に扱うべきではない」のでしょう? にもかかわらず「専門家にももちろん優劣はある」ということが、何故「撮影術や物語構成術に関する知識と経験」がはるかに豊富な映画制作の「専門家」に対して映画評論家という「素人」があれこれと「評価という名の感想」を並べる行為を正当化することに繋がるのですか? あなたの主張に従えば、たとえ優劣があろうがなかろうが、あくまで「専門家」は専門家、「素人」は素人なのですから、専門家の優劣に関係なく、「専門家」の意見の方が「素人」のそれより当然優先されて然るべきでしょうに。
 第一、「優れた専門家」だの「劣った専門家」だのといった判定は、一体誰が、どんな基準に基づいて行うというのでしょう? すくなくとも、映画制作に一度も携わったことのない「映画評論家という名の素人」がそれを行ったら、それは構造的に矛盾していますし、ダブルスタンダードもいいところでしょう。山本弘の論法を「専門家だから」という理由で正当化する行為は、結果としてこのような論理の破綻をきたすことにもなりかねないのですがね。
 前の投稿でも言いましたが、作品評価に専門家も素人もないのですよ。「映画評論家の作品評価」など、所詮は人間の数だけ存在する数多くの作品評価のひとつに過ぎませんし、「専門家」だからという理由「だけ」でそれを読んだ赤の他人が賛同しなければならない理由もありません。定量的に量れるわけでも、何らかの確固たる法則などが存在するわけでもなく、評価基準も評価手法も千差万別な作品評価に「これこそが絶対的に正しい模範解答」と呼べるものなど原理的に存在しえないのですから当然のことです。
 だからこそ、映画に限らず、エンターテイメント作品評価で自分の価値観を共有しない不特定多数の人間からの同意や賛同を得ようとするのであれば、自らの主観的価値観「のみ」に依存することのない、客観的根拠を伴った作品評価基準や観察眼に基づいた理論を展開する必要があるのです。そして、それができて初めて、エンターテイメント作品の評論家は「作品評価の専門家」として周囲から敬意を払われるのであって、それのできない「映画評論家」とやらがいくら肩書きや自分の専門性を強調したところで、そんなものは嘲笑と哀れみの対象にしかなりません。そして山本弘の「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価は、まさに山本弘の「専門家」としての地位と名声を自ら貶める愚劣で醜悪で滑稽なシロモノでしかないのです。
 山本弘の愚劣な作品評価およびその作品評価基準を「専門家だから」という理由だけで内容を検証することなく免罪し、正当なものであると認めてしまうことこそ、本当の意味での映画や評論に対する冒涜ではありませんか。こんな当たり前の事がわざわざ懇切丁寧に説明されなければ分からないというのですか?

<判断基準と情報源を明示することで、氏は充分に責任ある発言をしていると言えます。その上更に根拠を示せ、と迫るのは立証責任の転嫁と言うものです。それに反対意見を述べるのであれば、氏の文意を捻じ曲げるなどと言う姑息な手段に拠らず、「判断基準と情報源」の誤りを指摘されるがよろしいでしょう。>

 私の文章を誤読しまくりながら、本来の文意を徹底的に捻じ曲げた誤解釈を当てはめて見当ハズレな反論ばかり展開しているあなたが、私に対して「氏の文意を捻じ曲げるなどと言う姑息な手段に拠らず、『判断基準と情報源』の誤りを指摘されるがよろしいでしょう」などと説教するのも笑止な限りでしかありませんが、情報源はともかく、判断基準についていつ山本弘が「充分に責任ある発言をしている」のですか?
 そもそも、今回山本弘が本当に回答しなければならないのは以下のようなテーマを持つ問題に対してであるはずでしょう↓

「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】のみをベースに評価しなければならないのか?」
「なぜ【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】が存在するだけで『このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである』と評価されなければならないのか?」
「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』と同様の評価基準が田中作品には全く適用されないのか?」

 で、私はこれまでに行われた山本弘の掲示板投稿を今まで検証してきたわけですが、山本弘の主張のほとんど全てが、ただ単に「山本弘個人としてはそう考えたから」といった類の主観的価値観の表明レベルで終わっているものばかりではありませんか。そして、唯一何とか客観的な理論らしきものを出してきた例の「たとえ話」の件にしたところで、実際には自説を立証する論として何ら機能してなどいないことは私が今まで散々述べてきた通り。あなたが血相変えて主張している「山本弘は専門家だから……」にしたところで、結局のところそれは「山本弘の論」自体には何ら客観的な根拠も論としての一貫性や正当性も存在しないがために「肩書き」などに頼らなければならなくなっている懐事情を図らずも暴露してしまっているようなものです。
 こんな体たらくで「山本弘が充分に責任ある発言をしている」などと言えるわけがないでしょう。そして上記3つのテーマに対する明確な回答なしに「杜撰な科学考証」だの「テンプレート的作品描写」だのに「充分に責任ある発言をし」たところで、そんなものに何の意味もありはしないのです。前の投稿でも言いましたが、前提と結論が間違っているのに、過程だけを固めても全く無意味なのですから。
 繰り返しますが、山本弘が本当に回答しなければならないことは、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価における「前提および結論」の「客観的根拠を伴った正当性の立証」と、田中作品に対して犯しているダブルスタンダードの「客観的根拠を伴った否定の立証」なのです。そこを履き違えないで頂きたいものですね。

<最大の問題点は、あなたの主張が山本氏の発言への反論、批判ではなく、山本氏が「発言する事」自体への非難になっていることです。
それは、自由な批判精神を必要とする評論からは、最もかけ離れたものだと言わざるを得ませんね。>

 この文章はそっくりそのままあなたにお返ししましょう。何しろ、自分と異なる意見を持つ人間というだけで、誤読と誤解釈に基づいて私が言ってもいない主張をでっち上げ、見当ハズレな反論を展開した挙句、最後には「ネットの害虫」などというレッテルを貼って憚らないというのですから。
 山本弘を擁護したいと考えるあまり、自分がどんなにバカな事を主張しているのか、もう少し頭を冷やして考え直してみることですね。

収録投稿21件目
board4 - No.4074

Re:メインテーマに対する回答がないのでは?

投稿者:パンツァー
2003年05月13日(火) 00時38分

>  そもそも、今回山本弘が本当に回答しなければならないのは以下のようなテーマを持つ問題に対してであるはずでしょう↓
>
> 「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】のみをベースに評価しなければならないのか?」
> 「なぜ【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】が存在するだけで『このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである』と評価されなければならないのか?」
> 「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』と同様の評価基準が田中作品には全く適用されないのか?」

確かに、これこそがメインテーマであるのに、
3997のデーストロン幹部さんの本掲示板における初投稿は、
全然関係のない側面攻撃でしたね。

山本弘氏が、『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』と、田中作品とで、ダブルスタンダードを適用してしまったのは、まぎれもない事実でしょう。

ここで、山本弘氏がダブルスタンダードを用いてないとか、この矛盾をうまく回避するとかいう見事な統合化とかあるのなら、つまり、これに対する有効な反論ができるものなら、是非とも聞いてみたいものです。

くれぐれも、次の回答で、デーストロン幹部さんが、
全然関係のない側面攻撃に逃げないことを期待します。

山本弘氏の掲示板中の討論で、
山本弘氏は、
『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を科学考証の点で非難しながら、
田中作品である銀英伝に関しては、問題なしとしていましたね。
科学的に考えて、宇宙空間では艦隊戦は成立しがたいとしながら、敢えて、歩兵戦闘のような艦隊戦を描いているのは独創性のなせる技であると。
そうすると、科学考証はどうでもよく、独創性があればよいってことになるんでしょうが、それは、
『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』
に当てはまってしまうんですよね。
『インディペンデンス・ディ』のコンピュータウイルスも独創的であれば、
『アルマゲドン』の燃える隕石において、敢えて、科学考証を無視する部分があっても、観客を圧倒する材料が欲しかった、というクリエイターの考えも独創的ですね。
模倣に過ぎないと言う観点からすれば、銀英伝の艦隊戦など、古代中国やナポレオン戦争期の歩兵戦闘等の類似に過ぎないわけですし(未来のハイテクがあるんですから、歴史にも他の作品にもないような独創的な戦闘を描き出すことも理論上可能でしょうし。作者の想像力の限界を別とすれば)。

『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』だけを貶めて、
田中作品を擁護する、
というのは、なかなか、難しいでしょうね。

収録投稿22件目
board4 - No.4075

Re:Re4033:テンプレート作品の存在意義

投稿者:Night
2003年05月13日(火) 01時06分

 『創作をする上では、オリジナリティが必須』なんて基本的なことは、別に山本氏個人の主観的価値観の産物というわけじゃなく、小説や漫画の賞の選評を見てればざらに出てくる意見だと思いますけど。
 で、ここで言われているオリジナリティとは、『他からのアイデア(例えばワープとか超光速通信とか)を混入することは一切許さない。これまで誰も想像したことがない新しい要素だけで構成された作品でなければ認めない』というような意味だと思いますか。
 山本氏がアルマゲドンを叩いているのは、他からの借り物が多すぎる上、それに自分なりの工夫やオリジナリティを上乗せする姿勢が見受けられないということを問題にしているからだと思いますが。

 単純な話、「時限爆弾に赤と青のリード線」とか、「遅刻しそうな少女がパンをくわえて全力疾走していると、運命の相手と衝突」のような手垢の付いた場面と展開をまるまるコピーで多用した作品を出版社なり映画会社なりに持ち込んだとしたら、『どこかで見たような場面と展開が多すぎる。あなたなりの工夫やオリジナリティはどこにあるのか』というような評価が返されるのはほぼ必至と思いますよ。
 そこで今回、冒険風ライダーさんが展開されているような主張(テンプレート作品にはテンプレート作品なりのエンターテイメント性や創造性といったものが存在するとか、テンプレート作品を読んで増えるファンもいるはずだとか)をしたとして、それでその評価者は納得すると思いますか。
 罵声の一つも浴びせられた上で、原稿を突っ返されるのがオチでしょうし、また、それが健全な姿だと思いますが。

収録投稿23件目
board4 - No.4077

Re4075:商品を選択する「お客」は誰なのか?

投稿者:冒険風ライダー
2003年05月14日(水) 21時42分

<で、ここで言われているオリジナリティとは、『他からのアイデア(例えばワープとか超光速通信とか)を混入することは一切許さない。これまで誰も想像したことがない新しい要素だけで構成された作品でなければ認めない』というような意味だと思いますか。>

 「オリジナリティ」の一般的な意味や解釈としてはともかく、山本弘的理論から判断するならば「全くその通り」としか言いようがないでしょう。No.4071でも述べているように、山本弘は「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」と自分で定めた定義を元に、「『時限爆弾に赤と青のリード線』とか『脱出寸前に車がエンストを起こす』なんてシーンを平然と書く脚本家は頭が悪い」だの「テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」だのといった主張を恥ずかしげもなく堂々と展開しているのですから。
 山本弘にとっては、「『時限爆弾に赤と青のリード線』とか『脱出寸前に車がエンストを起こす』なんてシーン」といった類の「テンプレート的作品描写」を使用すること【自体】が「自分では何も考えてない」ことの証なのであり、「創作者として失格」「頭の悪いバカ」という烙印を押されるべき「忌まわしき所業」でしかないのです。とてもプロのエンターテイメント創作家から出た発言とは思えないほどに「頭の悪いバカ」としか言いようのない主張ですが、これは本人がはっきり明言していることなのですからどうしようもありません。
 したがって、

<山本氏がアルマゲドンを叩いているのは、他からの借り物が多すぎる上、それに自分なりの工夫やオリジナリティを上乗せする姿勢が見受けられないということを問題にしているからだと思いますが。>

 といった「好意的解釈」の類は到底導き出せませんし、あのような発言を行っている山本弘が、もし他の作品を評価する際に「テンプレート的作品描写」を少しでも無視したり絶賛したりするようなことがあろうものなら、それこそ「ダブルスタンダードに陥っている」と評価されるしかないのです。
 いかに山本弘が愚かなことを口走っているか、これだけでも一目瞭然なのではありませんか?

<単純な話、「時限爆弾に赤と青のリード線」とか、「遅刻しそうな少女がパンをくわえて全力疾走していると、運命の相手と衝突」のような手垢の付いた場面と展開をまるまるコピーで多用した作品を出版社なり映画会社なりに持ち込んだとしたら、『どこかで見たような場面と展開が多すぎる。あなたなりの工夫やオリジナリティはどこにあるのか』というような評価が返されるのはほぼ必至と思いますよ。
 そこで今回、冒険風ライダーさんが展開されているような主張(テンプレート作品にはテンプレート作品なりのエンターテイメント性や創造性といったものが存在するとか、テンプレート作品を読んで増えるファンもいるはずだとか)をしたとして、それでその評価者は納得すると思いますか。
 罵声の一つも浴びせられた上で、原稿を突っ返されるのがオチでしょうし、また、それが健全な姿だと思いますが。>

 これはこじつけもいいところですね。私はあくまで「大多数の素人を含めた不特定多数の人達に読まれることを想定した作品評論」の話をしているのであって、「出版社や映画会社などに持ち込まれる作品向けの作品評論」はそれとは全く正反対の性質を持っているのですけど。
 出版社や映画会社は、外から持ち込まれた作品の採用を決定する権利を持つと同時に、採用した作品を制作した人に対してお金を支払う義務があります。それに対して、外から作品を持ち込む側は、出版社や映画会社に対して自分の作品を提示し、採用してもらうよう「相手に頼み込む」立場です。分かりやすく言えば、この場合、外から作品を持ち込む側は「商品を売り込むセールスマン」であり、持ち込まれる側は「商品購入を決定するお客」の立場にあるわけです。ならば持ち込まれた作品に対して「お客」としての権利を行使し、また義務を果たすべき立場にある出版社や映画会社が、自社の「専門的な」基準に基づいた作品評価を行うのは当然のことです。
 しかも、出版社や映画会社にとって、作品は「商売道具」であり、作品評価は「商売道具の質を見極めるための仕事」です。そして出版社や映画会社の社員は、日々の生活の生計を立てるためにも、会社としての事業展開のためにも、また将来有望な作家や脚本家などを育て上げるためにも、外から持ち込まれた作品に対して厳しい水準の「専門的な」作品評価を行わなければならない立場にあるのですし、それこそが会社から任された「仕事」でもあるのですから、作品評価が専門的になり、批評が厳しくなるのも当たり前でしょう。
 もちろん、作品を持ち込む側もまた、自分の作品が出版社や映画会社などによる「専門的な作品評価」に晒されることを最初から承知の上で持ち込みに臨むわけです。だから、このようなケースで「専門的な作品評価」が行われる事は何ら不思議なことではありません。

 しかしそれに対して、「大多数の素人を含めた不特定多数の人達に読まれることを想定した作品評論」というのは、上記の持ち込み作品の事例とは立場が完全に逆転するのです。つまり、作品を論評する「専門家」側が「商品を売り込むセールスマン」になり、それを読む「素人」側が「商品購入を決定するお客」となるわけです。そして「お客」の大多数が「素人」であり、かつ彼らの選択が「セールスマン」側の評価や生活を左右することになる以上、「素人」にも分かりやすく、また受け入れられやすい作品評論を提示する義務が「専門家」側の方に発生するのもこれまた当然のことではありませんか。
 しかも、実はこれこそが一番重要なことなのですが、「素人」の間では「オリジナリティのある作品」と同等か、あるいはそれ以上に「テンプレート作品」が大いに受け入れられているのです。山本弘が口を極めて罵っている「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」が大ヒットしているのもその一例ですし、また「水戸黄門」や「遠山の金さん」のような時代劇や、「サザエさん」や「ドラえもん」のような「テンプレート作品」が長期にわたってTV放送されているのもそうでしょう。その他、マンガやゲームなどにも、一時期のみヒットしたバブル的なものも含めれば、「素人」に受け入れられた「テンプレート作品」はたくさん存在するのです。
 そして、大多数の「素人」がそのような「テンプレート作品」を欲しているからこそ、出版社や映画会社もまた当然のように「テンプレート作品」を「お客」に対して提供しているのです。特に出版社では、編集者が実力のある作家やマンガ家などに対して「型に嵌ったテンプレート路線」に沿った作品を書くことを要望するという話も決して珍しいことではありません。出版社側にしてみれば、多くの読者に受け入れられないかもしれない「オリジナリティ溢れる作品」で危険な賭けに打って出るよりも、分かりやすく単純であるが故に読者に受け入れられやすい「テンプレート作品」の方が安心できるのですから当然のことです。もっとも、それに対して作者側がどのようなリアクションを返すかについては、あくまで作者自身の自由意思に委ねられることになるでしょうけど。
 「大多数の素人を含めた不特定多数の人達に読まれることを想定した作品評論」というのは、自分自身の「専門家」としての知識や作品評価基準をベースにしつつ、今まで述べてきたような「素人の価値観」や「素人向けの分かりやすさ」をも前提かつ考慮に入れた上で、それでも万人に受け入れられる内容で構成されているものを提示するべきものなのです。そして一方、巷の作品評論に「お客」の立場として閲覧する「素人」側が、無条件かつ無批判に「専門家」とやらの作品評論を常に受け入れなければならない理由や義務など、どこにも存在しないのです。作品評論という名の「商品」を選ぶ権利は「素人」側にあるのですから当然でしょう。
 こんな「素人」側の事情や「専門家」としての自分の立場を黙殺して、あくまで「自分個人の主観的価値観」のみをベースにした支離滅裂かつダブルスタンダードだらけの作品評価基準に基づいた作品評論で、作品も製作者もファンも一切合財糞味噌に罵るしか能のない山本弘は、「【お客に奉仕するべき】作品評価の専門家」として完全に失格なのではないかと私は思うのですがね。

収録投稿24件目
board4 - No.4081

Re:Re4075:商品を選択する「お客」は誰なのか?

投稿者:Night
2003年05月17日(土) 00時30分

 始める前に言っておくと、私も、山本氏は創竜伝がダメ小説であることを認めるべきだと思いますよ。
 要らぬ社会評論が入りすぎていて、ストーリー進行は滅茶苦茶になってしまっているし、前世論や月世界の話からも判るように、作者自身の主張をしたいがばかりに、基本設定を破壊しかねないことを平気で書いてしまっている。これは明らかにダメ小説です。
 プロの、それも同じジャンルの物書きである山本氏がそれに気が付いていないはずがない。だから、この件に関しては、山本氏はダブルスタンダードと言われても仕方ないと思います。

> <で、ここで言われているオリジナリティとは、『他からのアイデア(例えばワープとか超光速通信とか)を混入することは一切許さない。これまで誰も想像したことがない新しい要素だけで構成された作品でなければ認めない』というような意味だと思いますか。>
>
>  「オリジナリティ」の一般的な意味や解釈としてはともかく、山本弘的理論から判断するならば「全くその通り」としか言いようがないでしょう。No.4071でも述べているように、山本弘は「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」と自分で定めた定義を元に、「『時限爆弾に赤と青のリード線』とか『脱出寸前に車がエンストを起こす』なんてシーンを平然と書く脚本家は頭が悪い」だの「テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」だのといった主張を恥ずかしげもなく堂々と展開しているのですから。
>  山本弘にとっては、「『時限爆弾に赤と青のリード線』とか『脱出寸前に車がエンストを起こす』なんてシーン」といった類の「テンプレート的作品描写」を使用すること【自体】が「自分では何も考えてない」ことの証なのであり、「創作者として失格」「頭の悪いバカ」という烙印を押されるべき「忌まわしき所業」でしかないのです。とてもプロのエンターテイメント創作家から出た発言とは思えないほどに「頭の悪いバカ」としか言いようのない主張ですが、これは本人がはっきり明言していることなのですからどうしようもありません。

 山本氏は、他からのアイデア(例えばクトゥルフ神話やフォーセリアや妖怪)を素材にした作品をいくつも書いている人です。
 そういった背景や前後の文脈を常識的に考えれば、山本氏は、既存のシーンを何も考えずに丸ごとコピーする行為を批判しているのであり、『これまで誰も想像したことがない新しい要素だけで構成された作品でなければ認めない』などという極端かつ馬鹿げたことを言いたいのではないことなど、余りに明らかです。
 どうして上のような極端な受け取り方をされるのか分かりません。はっきり言えば、故意に曲解しているとしか思えません。

 結局、冒険風ライダーさんが【山本弘的理論】と呼んでいるものは、山本氏が本当に言いたかったことからは余りにかけ離れた代物なんです。それは山本氏の言葉尻を捕えては、極端に解釈して醜悪にした虚像でしかない。
『対象をことさらに醜悪かつ矮小な像として歪めて描写する。そして、その像の醜悪さ、矮小さをもって対象を批判し、罵倒する』という手法は、田中氏が創竜伝の中で散々使っているものです。そのことに気づいていらっしゃるんですか。

 この後に続く部分も読みましたけど、正直な所、冒険風ライダーさんが何を言いたいのか良く分かりません。様々なメディアに、【大多数の素人を含めた不特定多数の人達に読まれることを想定した作品評論】がたくさんありますけど、それこそ『どこかで見たような場面と展開が多すぎる。この作者なりの工夫やオリジナリティはどこにあるのか』というようなことを、厳しい言葉で言っている評論など、山ほどありますよ。そういうことを言う評論家は全て作品評価の専門家として失格である、というようなことを仰りたいのですか。

収録投稿25件目
board4 - No.4086

Re4081:山本弘問題の本質

投稿者:冒険風ライダー
2003年05月18日(日) 20時01分

<山本氏は、他からのアイデア(例えばクトゥルフ神話やフォーセリアや妖怪)を素材にした作品をいくつも書いている人です。
 そういった背景や前後の文脈を常識的に考えれば、山本氏は、既存のシーンを何も考えずに丸ごとコピーする行為を批判しているのであり、『これまで誰も想像したことがない新しい要素だけで構成された作品でなければ認めない』などという極端かつ馬鹿げたことを言いたいのではないことなど、余りに明らかです。
 どうして上のような極端な受け取り方をされるのか分かりません。はっきり言えば、故意に曲解しているとしか思えません。>

 「故意に曲解している」のはそちらの方でしょう。「前後の文脈を常識的に考えれば」山本弘の一連の主張は「杜撰な科学考証」や「テンプレート的作品描写」が存在すること「自体」をもって「このような作品を作った奴は何も考えていない頭の悪いバカである」と断定している以外に解釈のしようがないのですし、「他からのアイデア(例えばクトゥルフ神話やフォーセリアや妖怪)を素材にした作品をいくつも書いている」に至っては、ダブルスタンダードの否定どころか、むしろ反対にダブルスタンダードの立証ないしは補強材料にすらなってしまうシロモノでしかないのですから。
 何度も言っているように、山本弘はあちらの掲示板No.9685の投稿で、エンターテイメント作品における「テンプレート的作品描写」の使用を「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」と明確に定義しているのですし、オリジナリティについてもまた、あちらの掲示板No.9795で「今までになかったことを考えつくがオリジナリティというものであり、作家の頭の良さを示すものなのです」などとこれまた明確過ぎるほどの定義を行っています。そして、山本弘はこれらの定義と科学考証理論に基づいて「俺だったらこうする、『今まで誰も見たことのないオリジナリティに溢れた』アルマゲドンの架空映画描写」なるシミュレーションまで行っている始末なのです。これらの山本弘の言動をいくら振り返ってみても、あなたのような「好意的解釈」の類を導くことはほとんど不可能ですよ。
 それに前にも言ったでしょう。山本弘が主張する「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」という発言の「何も考えてない」は単なる山本弘個人の主観的感想の類でしかなく、何ら客観的根拠に基づいたものではない、と。映画制作者達は「ストーリー&演出重視路線で【熟考した末に】」あえて「杜撰な科学考証」や「テンプレート的作品描写」を入れることにしたのかもしれないし、それはノンフィクションでもドキュメンタリーでもない「大衆受けするフィクション作品」を製作する手法としては、むしろ当たり前すぎる「常識」の部類にすら属するものです。そして、それで映画がコケたとでもいうのならばともかく、実際には映画は大ヒットしたわけですから、すくなくともその意図に沿って映画を製作した人達が、山本弘曰く「頭の悪いバカ」に該当などするわけがないでしょう。その手の作品制作手法が単に山本弘の個人的趣味には合致しない、ただそれだけのことでしかないのです。
 第一、「テンプレート的作品描写を【何も考えずに】使用すること」と「テンプレート的作品描写を【活用して】オリジナリティを出すこと」の区別は、一体どのような判定基準に照らし合わせて行うというのでしょうか? その区別の(ある程度の客観性ないしは普遍性を伴う)判定基準すら全く提示することなく「既存のシーンを何も考えずに丸ごとコピーする行為を批判」などしたところで、そんなものは「山本弘個人の主観的価値観」のみに依存した感情論と、「テンプレート的作品描写の使用=何も考えていない」「オリジナリティ=今までになかったことを考えつく」という誤った前提をベースに語られているとしか解釈のしようがないではありませんか。しかも、前述のように他ならぬ山本弘自身が「テンプレート」と「オリジナリティ」に関する明確な定義の提示まで行っているのですからなおのことです。
 他にも細かいことを言い出せば、何十箇所もツッコミどころがあります。
 これって、発言している山本弘が何も考えてないことの、まぎれもない証明ではないのですか? これだけの証拠があるにもかかわらず、なおかつ「山本弘の『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』評価はダブルスタンダードに陥っていない」だの「山本弘は『科学考証無視のフィクション描写』や『テンプレート的作品描写』の存在を全面否定などしていない」だのと主張する人は、現実を見失っているとしか思えないのですが。

 そして、一連の愚劣な発言の数々を行っている山本弘が、もし自分の発言内容について何ら総括を行うことなしに、「他からのアイデア(例えばクトゥルフ神話やフォーセリアや妖怪)を素材にした作品をいくつも書いている」という自分の作家履歴について何ら言及しなかったり、他の作品における「杜撰な科学考証」や「テンプレート的作品描写」といった要素を無視したり絶賛したりしているというのであれば、そんなものはそれこそ「ダブルスタンダードの証明」にしかなりえないのですよ。それでは結局のところ「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」などの特定の作品に対して「だけ」、「杜撰な科学考証」だの「テンプレート的作品描写」だのといった「山本弘個人の主観的価値観のみに依存しているだけの」作品評価基準を当てはめ、他の作品には一切適用しないという「ダブルスタンダードの決意表明」にしかなっていないのですから。
 そもそも、あなたはあの文章を自分で書いていて気づかなかったのですか? あの文章で提示されている論法をあなたが一番最初に書いていた、

<始める前に言っておくと、私も、山本氏は創竜伝がダメ小説であることを認めるべきだと思いますよ。
 要らぬ社会評論が入りすぎていて、ストーリー進行は滅茶苦茶になってしまっているし、前世論や月世界の話からも判るように、作者自身の主張をしたいがばかりに、基本設定を破壊しかねないことを平気で書いてしまっている。これは明らかにダメ小説です。
 プロの、それも同じジャンルの物書きである山本氏がそれに気が付いていないはずがない。だから、この件に関しては、山本氏はダブルスタンダードと言われても仕方ないと思います。>

 ↑に適用すると、こんな文章だって成立しえるということに↓

<山本氏は、いわゆる「トンデモ本」を批判する著書を「と学会会長」の名義でいくつも書いている人です。
 そういった背景や前後の文脈を常識的に考えれば、山本氏は、巷に存在するトンデモ本の記述内容を批判しつつ笑い飛ばしているのであり、『どんなトンデモな要素があろうと、俺は絶対に創竜伝をトンデモ認定しない』などという極端かつ馬鹿げたことを言いたいのではないことなど、余りに明らかです。
 どうして上のような極端な受け取り方をされるのか分かりません。はっきり言えば、故意に曲解しているとしか思えません。>

 今更言うまでもなく、こんな「こじつけ論法」の類など成立しえるはずがないでしょう。山本弘が「『トンデモ本』を批判する著書を『と学会会長』の名義でいくつも書いている人」【だからこそ】、創竜伝を公式の場で「トンデモ本」認定しないことが「ダブルスタンダード」として問題になるのですから。それと同じように、山本弘に「『他からのアイデア(例えばクトゥルフ神話やフォーセリアや妖怪)を素材にした作品をいくつも書いている』という作家履歴」が存在するのであれば【なおのこと】、自分自身の作家履歴について公式の場で言及することなく「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」評価の際に適用している作品評価基準を自分自身の作品や作家履歴に当てはめない「ダブルスタンダード」とのそしりを受けても文句は言えないのです。
 もっとも、他ならぬ山本弘自身が「他からのアイデア(例えばクトゥルフ神話やフォーセリアや妖怪)を素材にした作品をいくつも書いている」自分のことをあえて「何も考えていない頭の悪いバカである」と定義し、自分自身がバカにされることをも覚悟した上で「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価を行っているとでもいうのであれば話は別でしょうが、そんな余程の例外的事実でも存在しない限り、山本弘の作品評価ダブルスタンダードを擁護するのに、山本弘自身の作家履歴などを持ち出すのは自殺行為以外の何物でもないでしょう。
 ひょっとして、Nightさんは一連の山本弘ダブルスタンダード問題の本質が全く理解できていないのではありませんか? こんな「反論にもなっていない反論」を展開してくること自体、その証明であるように思えてならないのですが。

<この後に続く部分も読みましたけど、正直な所、冒険風ライダーさんが何を言いたいのか良く分かりません。様々なメディアに、【大多数の素人を含めた不特定多数の人達に読まれることを想定した作品評論】がたくさんありますけど、それこそ『どこかで見たような場面と展開が多すぎる。この作者なりの工夫やオリジナリティはどこにあるのか』というようなことを、厳しい言葉で言っている評論など、山ほどありますよ。そういうことを言う評論家は全て作品評価の専門家として失格である、というようなことを仰りたいのですか。>

 どうして前回の私の投稿から「そういうことを言う評論家は全て作品評価の専門家として失格である」などという誤った解釈を導き出すことができるのでしょうかね。決してそうは読み取られないようにと、今回も一応予防線はそれなりに張っておいたはずなのですが↓

<「大多数の素人を含めた不特定多数の人達に読まれることを想定した作品評論」というのは、自分自身の「専門家」としての知識や作品評価基準をベースにしつつ、今まで述べてきたような「素人の価値観」や「素人向けの分かりやすさ」をも前提かつ考慮に入れた上で、それでも万人に受け入れられる内容で構成されているものを提示するべきものなのです。そして一方、巷の作品評論に「お客」の立場として閲覧する「素人」側が、無条件かつ無批判に「専門家」とやらの作品評論を常に受け入れなければならない理由や義務など、どこにも存在しないのです。作品評論という名の「商品」を選ぶ権利は「素人」側にあるのですから当然でしょう。>

 というわけで、私は別に「専門家」としての知識や作品評価基準に基づいた評論を否定しているわけでもなければ、作品を酷評したりエンターテイメント創作家をバカにしたりするような評論を展開すること自体を否定しているわけでもなく、作品評価の「専門家」が不特定多数の「お客」を対象に自分の作品評価を開陳する際には、「お客」である「素人」にもすんなり受け入れられるような作品評論を行うように努めるべきである、という、ごくごく当たり前のことを言っているだけでしかないのです。これは逆に言えば、その条件を満たしさえすれば、「専門家」としての知識や作品評価基準に基づいた評論を行ったり、作品を酷評したりエンターテイメント創作家をバカにしたりするような評論を展開しても一向にかまわないし、「素人」の中にも一定の賛同者は現われるだろう、ということでもあるのですがね。
 で、一連の議論で本来山本弘がやらなければならなかったのは、前にも述べた通り、

「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】のみをベースに評価しなければならないのか?」
「なぜ【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】が存在するだけで『このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである』と評価されなければならないのか?」
「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』と同様の評価基準が田中作品には全く適用されないのか?」

 という3つの問題点を解消する説明を、自分個人の主観的価値観のみに依存するだけでなく、それなりの客観的根拠なりある程度の普遍的な価値観なりをベースにした説得力のある理論構築を、「素人にも分かるような形で」行うことだったのです。「素人」が「お客」であることも理解せずに、「専門家の意見は絶対に正しいんだ!」などとただ絶叫したところで、そんなものは嘲笑と哀れみの対象にしかなりません。
 あるいは「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価と田中作品評価のどちらか一方を撤回し、改めて他方の評価基準に一方を合わせた作品評価をやり直す、という方法でも良かったでしょう。それで結果として田中作品が「杜撰な科学考証」や「テンプレート的作品描写」に基づいて改めて糞味噌に評価されることになったとしても、すくなくとも私が一貫して主張している「山本弘のダブルスタンダード性」は消えることになるわけですから、私個人としてはそれでも納得して矛を収めるつもりではあったのですけどね。
 ところが何度も言っているように、一連の問題提起に対する山本弘の主張は、そのほとんど全てが「山本弘個人の主観的価値観」に依存しただけの、客観的根拠や普遍的な価値観といったものを何ら伴っていないものでしかなかった上、せっかく持ち出した「たとえ話」も全く辻褄が合っておらず、最後には「一般観客は泣いたかもしれないけど、映画マニアの多くは『アルマゲドン』をひどい映画だとみなしている。これはまぎれもない事実なんです」(No.9795)だの「いくら世間でヒットしようが、映画に詳しいマニアや、創作を生業としているプロには、あの映画は根本的にダメだってことが一目で分かるんだから」(No.10063)だのといった、「お客」を無視した「虎の威を借る自説の権威付け」まで行う始末。このような一連の議論で垣間見られた山本弘の言動のどこが、「【お客に奉仕するべき】作品評価の専門家」として妥当なものだったというのですかね? 山本弘のあまりの醜態に、私は何度爆笑したか数える気にもなれないのですけど。
 こんな「お客」に対する必要最低限の基本すらも全くなっていないような人間が「作品評価の専門家」を名乗るなど、それこそ作品や作品評論というジャンルそのものに対する冒涜でしかないと私は思うのですがね。

 で、以上のように山本弘の理論も私の主張も徹底的に誤読と誤解釈を行った挙句、反論にも何にもなっていない見当ハズレな投稿を行っているあなたが、

<結局、冒険風ライダーさんが【山本弘的理論】と呼んでいるものは、山本氏が本当に言いたかったことからは余りにかけ離れた代物なんです。それは山本氏の言葉尻を捕えては、極端に解釈して醜悪にした虚像でしかない。
『対象をことさらに醜悪かつ矮小な像として歪めて描写する。そして、その像の醜悪さ、矮小さをもって対象を批判し、罵倒する』という手法は、田中氏が創竜伝の中で散々使っているものです。そのことに気づいていらっしゃるんですか。>

 ↑などと私に対してお説教するなど醜悪かつ滑稽な喜劇以外の何物でもないでしょう。
 この文章はむしろ、あなたの私に対する反論の方がはるかに当てはまるのではないですかね? 反論すべき私の主張も、擁護すべき山本弘の主張も、その全てがああまで曲解されてしまうのでは、私としても非常に迷惑でしかありませんし、何よりも見当ハズレかつ不当な擁護論によって、結果として山本弘自身を不当に貶めることにも繋がりかねないのですけど。

収録投稿26件目
board4 - No.4096

Re:Re4081:山本弘問題の本質

投稿者:Night
2003年05月22日(木) 02時34分

 そもそもの話、冒険風ライダーさん自身が引用してきた

【オリジナリティ】=「今までになかったことを考えつくがオリジナリティというものであり、作家の頭の良さを示すものなのです」
【テンプレート的作品描写】=「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」

という山本氏の定義は、世間一般の定義からそれほど大きく外れてないと思っています。
 #4075の繰り返しになりますけど、上のようなオリジナリティ重視、コピー排除の思想は、別に山本氏個人の主観的価値観というわけじゃなく、創作系の業界ではごく普通の意見ですよ。(そもそも長い目で見れば、お客が素人だろうと何だろうと、オリジナリティ軽視でコピー偏重の風潮など、衰退を招くだけでしょうに)
 で、上の定義が、どうして【山本弘的理論】になると知らない内に

【オリジナリティ】=「他からのアイデア(例えばワープとか超光速通信とか)を混入することは一切許さない。これまで誰も想像したことがない新しい要素だけで構成された作品でなければ認めない」
【テンプレート的作品描写】=「超光速通信やクトゥルフ神話など、背景世界を構成する道具やシェアードワールドという概念そのものまで含む」

というような常識外れなレベルにまで拡大されてしまうのか。
 このような【山本弘的理論】に対して、山本氏が賛同する可能性などあると思いますか。「そんな常識外れなことを言った覚えは全くありません」とか「それとこれとは全く話が違うでしょう」というような答が返ってくることは、火を見るより明らかです。
 相手に聞かせれば絶対否定するようなところまで拡大解釈した理論を、相手の主張として批判し、罵倒することにどのような意義があるのですか。
 こういうことを普通、『相手の言ってもいないことに反論する』と言うのではありませんか。全く不毛なだけです。

 他にも言いたいことは色々あります。例えば、『田中氏は客受けの要素を熟考した末、創竜伝に一見杜撰とも思える社会評論を入れているのであり、事実、創竜伝は出るたびにベストセラーなのだから、それに物語上不要だとか何だとか文句をつけるのは、お客を無視した下らない評論である』というような結論でよろしいですか、とか。
 ですが、もういい加減やめようと思います。掲示板の趣旨から脱線してきていますし、この言い争いそのものが不毛な泥仕合になるのが目に見えていますから。
 ただ、私としては、今回のような論理で散々罵倒された山本氏に同情しますし、同じような形で田中氏が「撃たれる」ことがあれば、田中氏にも同情するでしょう。それだけです。

収録投稿27件目
board4 - No.4099

Re4096:Nightさん向けの最終投稿

投稿者:冒険風ライダー
2003年05月23日(金) 19時48分

<#4075の繰り返しになりますけど、上のようなオリジナリティ重視、コピー排除の思想は、別に山本氏個人の主観的価値観というわけじゃなく、創作系の業界ではごく普通の意見ですよ。(そもそも長い目で見れば、お客が素人だろうと何だろうと、オリジナリティ軽視でコピー偏重の風潮など、衰退を招くだけでしょうに)>

 私に対してこんな見当ハズレな反論を未だに展開してくること自体、あなたが一連の山本弘問題の本質も、私の主張の論旨や意図も、どちらも全く理解できていない何よりの証拠であるとしか言いようがありませんね。議論の流れを素直に読んでいれば、こんなバカな反論が飛び出してくるはずがないのですけど。
 いいですか。私が主張する「テンプレート作品にもまた、エンターテイメント作品としての存在意義はある」という主張は、山本弘が「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」を批判する根拠として持ち出してきた「マクドナルドハンバーガーのマニュアル作成手順」の論法が、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」の映画および映画制作者を「頭の悪いバカ」呼ばわりする根拠になどなりえないことを立証するために出したものです。まず、ここを押さえてもらわないと全く話になりません。
 そもそも、あの「たとえ話」を元に「『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を『料理(作品)』として評価することは間違いです」と最初に主張していたのは他でもない山本弘自身です。ならば山本弘が持ち出した「たとえ話」の論法から言えば、「アルマゲドン」は「冷凍食品(テンプレート作品)」の基準で評価しなければならない、という流れになるのが自然であるはずなのに、何故か山本弘は、自分が否定したはずの「『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を『料理(作品)』として評価する」ことによって、映画制作者達を「頭の悪いバカ」呼ばわりしているわけです。
 そして、あのような山本弘の「たとえ話」から「このような作品を作る人間は頭の悪いバカである」などという「たとえ話の流れからは辻褄の合わない結論」が導き出せるというのであれば、それは「テンプレートの使用【それ自体】がすでに悪であり、完全に否定されなければならないものである」という前提を元にしていなければならないのです。そして実際、山本弘はそのような前提に基づいて「何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」だの「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」だのといった発言まで行った挙句、「俺だったらこうする、『今まで誰も見たことのないオリジナリティに溢れた』アルマゲドンの架空映画描写」まで行っていたのです。ならばそれに対する反論として「テンプレート作品の存在意義」を主張する事は何らおかしなことではないでしょう。
 にもかかわらず、それに対する更なるアンチテーゼとして「創作をする上では、オリジナリティが必須」だの「オリジナリティ重視、コピー排除の思想」だのの重要性なるシロモノを提示したところで、そんなものは反論にも何にもなっていないばかりか、そもそも私の主張とまともに噛み合ってすらいないのですよ。私は山本弘のあまりに愚劣で醜悪で滑稽な「テンプレート完全否定論」的な発言に対するアンチテーゼを提示しているだけなのであって、「オリジナリティの重要性」という問題などそれとは全く関係のないシロモノでしかないのですから。
 他人と議論を行う際に、議論の流れや他人の投稿をきちんと把握しておくというのは基本中の基本でしかないのですがね。あなたの反論は全く話にならないほどに私の投稿も山本弘の論旨も掴めていないのですけど。

<で、上の定義が、どうして【山本弘的理論】になると知らない内に
【オリジナリティ】=「他からのアイデア(例えばワープとか超光速通信とか)を混入することは一切許さない。これまで誰も想像したことがない新しい要素だけで構成された作品でなければ認めない」
【テンプレート的作品描写】=「超光速通信やクトゥルフ神話など、背景世界を構成する道具やシェアードワールドという概念そのものまで含む」
というような常識外れなレベルにまで拡大されてしまうのか。
 このような【山本弘的理論】に対して、山本氏が賛同する可能性などあると思いますか。「そんな常識外れなことを言った覚えは全くありません」とか「それとこれとは全く話が違うでしょう」というような答が返ってくることは、火を見るより明らかです。
 相手に聞かせれば絶対否定するようなところまで拡大解釈した理論を、相手の主張として批判し、罵倒することにどのような意義があるのですか。>

 簡単な話ではありませんか。私は別に山本弘に対して賛意を求めているのではなく、「山本弘が提唱する論法と定義を突き詰めれば、最終的にはこういうところにまで辿り着いてしまう」ということを指摘しているだけなのですから。
 そもそも「何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」だの「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」だのといった主張を最初に展開し、作品評価基準としての「テンプレート」と「オリジナリティ」に対して、客観的基準に基づいた留保条件のような類を何ら付加することなく無限の拡大解釈が可能な定義を与えたのもまた、他ならぬ山本弘自身ではありませんか。ならば、その理論と定義に添った色々な事象を当てはめてみることによって論のおかしさを指摘するのは、反論側としてはむしろ当然の戦術でしょう。
 第一、山本弘的理論をベースにした「テンプレート的作品描写」の定義では、一体どのような客観的基準によって「何がテンプレートで、何がテンプレートではないのか?」の判定を行うというのですか? 「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーする」という山本弘的理論に基づいた「テンプレート的作品描写」の定義では、「赤と青のリード線」や「脱出寸前に車がエンストを起こす」どころか、「窮地に陥った主人公が起死回生の策で逆転する」とか「悪役に身内や恋人を人質に取られて悪役の言いなりになるキャラクター」とか「行く先々で常に殺人事件が慢性的に発生する推理探偵」とか「主人公が恋しているヒロインと仲良くなろうとする恋敵の存在」とか「最初からカップル誕生が予測されるお約束だらけの恋愛描写」とかいった「エンターテイメント作品全体にありがちな王道・お約束的な展開」までもが「テンプレート的作品描写」として徹底的に弾劾されなければならないことになってしまうではありませんか。そんな無差別攻撃的かつ愚かな「テンプレート完全否定」を行いたくないのであれば、「何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」だの「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」だのといった主張を行っている山本弘自身が「何がテンプレートで、何がテンプレートではないのか」を判定する客観的基準を提示しなければならないのです。
 もちろん、これは世界設定などについても当然適用されます。そもそも、作品描写と作品設定というのは非常に密接不可分な関係にあり、作品設定抜きに作品描写は成立しませんし、逆に作品描写から作品設定が導き出せることもあるのです。山本弘が散々罵倒していた「赤と青のリード線」や「脱出寸前に車がエンストを起こす」の描写にしても、それを可能とする作品設定があって初めて成立しえたわけなのですし、また山本弘が「科学考証の観点から見て不可能」と断じている「宇宙空間でメラメラ燃える流星」「小惑星の上で風が吹き、火が燃えている」もまた、すくなくとも作品世界の中では「現実問題として」実現してしまっている以上、科学考証的に見たらどうであれ、そのような描写を可能にする作品設定があると「作品描写から逆算して」導き出せるでしょう。このように作品描写と作品設定とが表裏一体の密接不可分な関係にある以上、作品描写を論じるのであれば、作品設定もまた同時に論じていかなければならないのはむしろ当然のことです。
 そして、山本弘があくまで「何がテンプレートで、何がテンプレートではないのか」を判定する客観的基準を自ら提示することなく、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価の客観的正当性と一貫性を保持したいと考えるのであれば、山本弘はありとあらゆるエンターテイメント作品に存在する「テンプレート的作品描写およびそれを支える作品設定」の全てを一切合財まとめて全否定し、かつ「このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである」とただひたすらに断罪し続けなければならないのです。それこそが、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価および一連の問題発言を乱発してきた山本弘に課せられるべき言論責任というものではありませんか。
 そのいずれも行うことなく、ただ「自分個人の主観的価値観」のみに基づいて「赤と青のリード線」や「脱出寸前に車がエンストを起こす」のような特定の「テンプレート的作品描写」【だけ】をあげつらい、かつ「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」のような特定の作品【のみ】を「テンプレート的作品描写を使用した」と断罪したところで、そんなものは小学生でも可能な「幼稚なイチャモン」の類でしかありません。ましてや他の「テンプレート的作品描写」を持つ作品を無視ないしは絶賛するに至っては「ダブルスタンダードに陥っている」としか見なされないのです。
 山本弘個人の意思に関わらず、山本弘が主張する「杜撰な科学考証」「テンプレート的作品描写」のみをベースとした作品評価に一定の客観的正当性と一貫性が付加されるためには、最低限今まで私が述べたようなテーマに沿った理論展開を山本弘は当然行わなければならないはずなのですよ。私はそれを強調してみせただけなのですがね。

 それと一連のあなたの投稿を読んでいて思ったのですけど、あなたはそもそも山本弘が「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」という作品全体を俯瞰した上で「あれらの映画にはオリジナリティがない」と評価しているなどと根本的に勘違いしているのではないですかね? 実際には、山本弘は「杜撰な科学考証」と「テンプレート的作品描写」という、作品全体の1%もあるかどうか、それも作品全体の出来にも面白さにもさしたる影響も与えないであろう瑣末な作中描写の瑕疵の存在「のみ」を根拠に「このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである」という「作品全体の評価」を行っているだけでしかないのですけど。
 そもそも、山本弘が主張する「オリジナリティ」というのはあくまでも「作品描写」に関するものでしかなく、作品全体におけるそれを指しているわけではありません。そして、山本弘が得意になって披露していた「俺だったらこうする、『今まで誰も見たことのないオリジナリティに溢れた』アルマゲドンの架空映画描写」なるシミュレートも、単に「【作品描写の】オリジナリティ」を論じていただけで、作品全体に対して根本的な影響を与えるものではないのです。あんなものはせいぜい「杜撰な科学考証」と「テンプレート的作品描写」を病的なまでに気にするような人にとっては、そこそこに満足できた「かもしれない」、という程度のシロモノでしかないでしょう(しかも、あのシミュレーションで山本弘が提示した、「ベーリング海に隕石が落ちて氷の混じった大津波がアラスカの海岸を襲う」などに至っては、アルマゲドンと同時期に公開された「ディープインパクト」のパクリなのではないかとすら私は考えたくらいなのですけど)。
 しかし本来、「作品のオリジナリティ」というものは、そんな瑣末な作品描写だけを元に評価するようなシロモノなどではないでしょう。「作品のオリジナリティ」というのは、オリジナリティ&テンプレートな作品描写だけでなく、作品のテーマやコンセプト、ストーリー構成、キャラクター描写や魅力、シナリオ全体の流れ、伏線の処理など、様々な要素が絡まって発生するものなのですし、作品のどこにオリジナリティを見出すかもまた、作品を評価する人それぞれの主観的価値観・知識量・着眼点・発想法・思想的傾向などによって常に異なってくるものなのです。
 たとえば、山本弘が散々「『宇宙戦争』のパロディ」としてバカにしている「インディペンデンス・ディ」のコンピュータ・ウィルスを使った逆転劇にしたところで、何も知らない人にとっては「オリジナリティ」溢れるものに見えるでしょうし、「アルマゲドン」についても、「政府や軍ではなく、民間人が活躍する」というコンセプトや、終盤付近にかけて展開される「感動の親子愛」のシーン、さらには山本弘が全否定したがっている「科学考証無視の迫力ある演出」などに「オリジナリティ」を見出す人もいるでしょう。また逆に、山本弘が「オリジナリティ」を見出している田中作品に対して、「全くと言って良いほどオリジナリティが認められない」と主張する人だって確実に存在するでしょうし、さらに場合によっては、作者ですら全く意図していなかったところに「オリジナリティ」を感じ取る人だっているかもしれません。このように、作品評価に「絶対的に正しい模範解答」が存在しないのと同様に、作品のどこに「オリジナリティ」を見出すか、もしくは全く見出さないかについてもまた、「絶対的に正しい模範解答」など存在しないのです。
 だからこそ、自分が認識した「作品のオリジナリティ」、もしくは「作品のオリジナリティ」を全く感じられなかった理由を論じて他人の賛同や同意を得ようと考えるのであれば、そして仮にも「作品評価の専門家」を名乗るのであればなおのこと、上記のような事は当然踏まえた上で、作品全体を俯瞰した評価を「客観的根拠を伴った」「説得力のある理論構築を基に」「素人にも分かりやすく」行うべきなのです。そうすれば、結果として「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」が酷評されたり、「このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである」といった評価が下ったりしても、ここまで問題が深刻化することはなかったでしょうし、場合によっては、山本弘とは異なる価値観の人達からも一定の賛同が得られたかもしれなかったのです。
 しかし、作品全体のテーマやコンセプトから見て考えてもさして重要な要素であるとも思われない「杜撰な科学考証」と「テンプレート的作品描写」のみをベースに「作品全体の評価」を行った挙句、そんな「山本弘個人の主観的価値観」に立脚しただけでしかない評価基準に沿って「このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである」と断罪しただけでなく、同種の欠陥を持つ田中作品や自分の作品履歴などについては何ら言及しようとしないばかりか、むしろ絶賛すらしているというのですから、この件に関する山本弘の主張が、あらゆる観点から見て支離滅裂かつダブルスタンダードだらけの愚劣で醜悪で滑稽なシロモノでしかないことは一目瞭然ではありませんか。
 だからこそ、私は一連の議論で常に、

「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】のみをベースに評価しなければならないのか?」
「なぜ【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】が存在するだけで『このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである』と評価されなければならないのか?」
「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』と同様の評価基準が田中作品には全く適用されないのか?」

 ↑という3つのテーマに沿うように自説を論じてきたのです。
 にもかかわらず、それに対するあなたの反論は、「山本弘の作家履歴」だの「『創作をする上では、オリジナリティが必須』は常識」だの「【山本弘的理論】は山本弘本来の主張とはかけ離れている」だのといった、私や山本弘の主張も、議論の流れも全く把握できていないものばかり。下の例もその典型ですが、あたかも無から有を作るかのようなやり方で私に反論しないでもらいたいのですけどね↓

<他にも言いたいことは色々あります。例えば、『田中氏は客受けの要素を熟考した末、創竜伝に一見杜撰とも思える社会評論を入れているのであり、事実、創竜伝は出るたびにベストセラーなのだから、それに物語上不要だとか何だとか文句をつけるのは、お客を無視した下らない評論である』というような結論でよろしいですか、とか。
 ですが、もういい加減やめようと思います。掲示板の趣旨から脱線してきていますし、この言い争いそのものが不毛な泥仕合になるのが目に見えていますから。
 ただ、私としては、今回のような論理で散々罵倒された山本氏に同情しますし、同じような形で田中氏が「撃たれる」ことがあれば、田中氏にも同情するでしょう。それだけです。>

 頼みますから、いいかげん真面目に他人の文章はきちんと読むように努めてくださいよ。そんな愚劣な反論が展開できないように、前々回と同様に、前回の投稿でもまた、

<というわけで、私は別に「専門家」としての知識や作品評価基準に基づいた評論を否定しているわけでもなければ、作品を酷評したりエンターテイメント創作家をバカにしたりするような評論を展開すること自体を否定しているわけでもなく、作品評価の「専門家」が不特定多数の「お客」を対象に自分の作品評価を開陳する際には、「お客」である「素人」にもすんなり受け入れられるような作品評論を行うように努めるべきである、という、ごくごく当たり前のことを言っているだけでしかないのです。これは逆に言えば、その条件を満たしさえすれば、「専門家」としての知識や作品評価基準に基づいた評論を行ったり、作品を酷評したりエンターテイメント創作家をバカにしたりするような評論を展開しても一向にかまわないし、「素人」の中にも一定の賛同者は現われるだろう、ということでもあるのですがね。>

 ↑という、これ以上ないほどに分かりやすい予防線を張っておいたのに、またしても完全に無視すると言うのですから。誰も「作品を批判すること」それ自体を問題視しているのではなく、「一連の議論で私が問題視している3つのテーマに対して、山本弘側から具体的な客観的根拠を伴う形では全く説明されていない、仮にも『作品評価の専門家』を名乗るのであれば、自分個人の主観的価値観【だけ】に依存するのではなく、自分がそう考えるに至った道筋や自説の正当性などを【素人にも分かりやすい形で】、かつ【具体的な客観的根拠や理論を伴わせた上で】説明するべきだろう」ということが私の主張なのですがね。
 そして、今回の件で山本弘が本当に果たさなければならない立証&発言責任が何であるかもまた、私は今までの投稿で何度も何度もくどいくらいに述べてきたのですけど、冒頭のオリジナリティ関連の件といい、あなたは私の文章も山本弘の投稿も最初から全く読んでなどいないのではないですか? そうとしか思えないくらいに反論が全く的外れなシロモノでしかないのですけど。
 正直、ここまで不正確な引用と理解力によって支離滅裂な反応ばかり返ってくるのでは、議論以前にそもそも互いの意思疎通自体に支障をきたすというレベルの問題でしかないのですよ。山本弘の主張が「山本先生の立場から言えば(実際に論が存在せずとも)このような考え方は当然導き出せる」だの「作家である山本先生がこんな事を言うはずがない」などといった形で勝手にでっち上げられる一方で、私の主張については(そう解釈されないように予め予防線まで張ってあるにもかかわらず)私の事前予測通りの歪曲解釈しかされないというのですからね。
 この件に限らず、これ以上、あなたと何かを議論しても意味がないことは今までの議論経過からすでに明白となっていますので、今後あなたの投稿に対して、私は一切返答に応じないことをここに宣言させて頂きます。

山本弘論争顛末記の関連リンク一覧

田中芳樹周辺および出版事情関係
各種コンテンツ別先頭ページ全一覧

WEBRANKING テキストサイト部門 サイトランキング 文学・小説・童話部門 mixiチェック