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第33回ゴールデンラズベリー賞の結果発表

2012年にアメリカで公開された映画の中で最低の作品を決める第33回ゴールデンラズベリー賞、通称ラジー賞の授賞式が行われ、「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2」がその栄冠(?)に輝くこととなりました↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0050509
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] その年に公開された中で最低の映画を決める第33回ラジー賞授賞式が現地時間23日に行われ、映画『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』が最低映画賞・最低女優賞を含む最多7部門で受賞した。同シリーズはラジー賞の常連でありながらこれまで1度も受賞には至っておらず、シリーズ完結編で有終の美(?)を飾った。同作は全10部門・11ノミネートを記録していた。
>
>  前年の同賞を『ジャックとジル』で全部門制覇したアダム・サンドラーの新作コメディー映画『ザッツ・マイ・ボーイ(原題) / That’s My Boy』は最低男優賞・最低脚本賞の2冠。また浅野忠信が出演したことも話題になった『バトルシップ』からは、リアーナが最低助演女優賞を受賞している。
>
> 受賞結果は以下の通り。
>
> ■最低映画賞
> 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低監督賞
> ビル・コンドン 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低女優賞
> クリステン・スチュワート 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』『スノーホワイト』
>
> ■最低男優賞
> アダム・サンドラー 『ザッツ・マイ・ボーイ(原題) / That’s My Boy』
>
> ■最低助演女優賞
> リアーナ 『バトルシップ』
>
> ■最低助演男優賞
> テイラー・ロートナー 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低スクリーンアンサンブル賞
> 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低脚本賞
> 『ザッツ・マイ・ボーイ(原題) / That’s My Boy』
>
> ■最低リメイク、パクリ、続編映画賞
> 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低スクリーンカップル賞
> マッケンジー・フォイ&テイラー・ロートナー 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』

しかしまあ、事前予測が完全に覆る逆転劇があったアカデミー賞と比べると、今年のラジー賞はあまりにもミエミエな出来レース過ぎて面白くなかったですね。
正直「もうネタが尽きたのか?」とすら言いたくなるほどに、受賞作のラインナップが乏しすぎるきらいがあります。
何故「トワイライト・サーガ」シリーズをそこまで目の敵にするのかという理由すら、全く提示されることがないというのでは、誰も納得のしようがないでしょうに。
一方では、ラジー賞常連のシルヴェスター・スタローンが出ているにもかかわらず、「エクスペンダブルズ2」が全くノミネートすらされないという珍事すら発生しているのですし。
駄作認定の基準があまりにも意味不明かつ恣意的過ぎて、もはやシャレどころかエンターテイメントショーとしてすらも成り立っていないような感すら漂っているありさまなのですが。
「とりあえず売れている映画にスポットを当ててみよう」的なスタンスではなく、売れていようがそうでなかろうが、本当の意味で誰もが納得せざるをえないような駄作を理由も付属させて発掘・発表した方が、まだ「ラジー賞」という賞の主旨にも合致するラインナップができるのではないかと思えてならないのですけどね。


第85回アカデミー賞の結果発表

2012年にアメリカで公開された映画の中で最高の作品と俳優を決定する、第85回アカデミー賞の授賞式が行われ、ベン・アフレックが監督と主演を務めた「アルゴ」が作品賞を含む3部門で受賞となりました。
「アルゴ」も含めた各賞の内訳は以下の通り↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0050523
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 第85回アカデミー賞授賞式が現地時間24日に行われ、ベン・アフレックが主演・監督を務めた映画『アルゴ』が作品賞を含む3部門で受賞した。監督賞にノミネートされていない作品が作品賞を受賞するのは第62回の『ドライビングMissデイジー』以来、23年ぶりの快挙。7部門でノミネートされていた同作はほかに、編集賞・脚色賞を受賞している。
>
>  受賞に際しては、監督賞にノミネートすらされなかったベン・アフレック監督もプロデューサーとして登壇。15年前に『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』で脚本賞を受賞して以来のオスカーとなったベンは涙をこらえるように「15年前は子どもでした。また戻ってくるとはそのとき思いませんでした。何の得にもならないときから、わたしを助けてくださった方々に感謝を言いたいと思います」とスピーチ。共同プロデューサーのジョージ・クルーニーらから「この素晴らしい作品を監督してくれてありがとう」との言葉を送られる一幕もあった。
>
>  一方、
最多4部門を獲得したのはアン・リー監督の映画『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』。リー監督自身も『ブロークバック・マウンテン』に続く2度目の監督賞を受賞した。アン・ハサウェイが助演女優賞を受賞した『レ・ミゼラブル』が3部門で続いている。
>
>  
最多12部門でノミネートされ、本命視されていた映画『リンカーン』はダニエル・デイ=ルイスの主演男優賞、美術賞の2冠にとどまった。ダニエルはこの受賞により、史上初となる3度目の主演男優賞獲得を達成した。
>
> 受賞結果は以下の通り。
>
> ■作品賞
> 『アルゴ』
>
> ■監督賞
> アン・リー 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』
>
> ■主演男優賞
> ダニエル・デイ=ルイス 『リンカーン』
>
> ■主演女優賞
> ジェニファー・ローレンス 『世界にひとつのプレイブック』
>
> ■助演男優賞
> クリストフ・ヴァルツ 『ジャンゴ 繋がれざる者』
>
> ■助演女優賞
> アン・ハサウェイ 『レ・ミゼラブル』
>
> ■外国語映画賞
> 『愛、アムール』(オーストリア)
>
> ■脚本賞
> クエンティン・タランティーノ 『ジャンゴ 繋がれざる者』
>
> ■脚色賞
> クリス・テリオ 『アルゴ』
>
> ■ドキュメンタリー長編賞
> 『シュガーマン 奇跡に愛された男』
>
> ■ドキュメンタリー短編賞
> 『イノセンテ(原題) / Inocente』
>
> ■短編実写賞
> 『リッチーとの一日』
>
> ■長編アニメ賞
> 『メリダとおそろしの森』
>
> ■短編アニメ賞
> 『紙ひこうき』
>
> ■視覚効果賞
> 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』
>
> ■撮影賞
> クラウディオ・ミランダ 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』
>
> ■メイクアップ&ヘアスタイリング賞
> 『レ・ミゼラブル』
>
> ■歌曲賞
> 「スカイフォール」 『007 スカイフォール』
>
> ■作曲賞
> マイケル・ダナ 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』
>
> ■編集賞
> 『アルゴ』
>
> ■音響編集賞
> 『007 スカイフォール』
> 『ゼロ・ダーク・サーティ』
>
> ■音響賞(調整)
> 『レ・ミゼラブル』
>
> ■衣装デザイン賞
> ジャクリーン・デュラン 『アンナ・カレーニナ』
>
> ■美術賞
> 『リンカーン』
>
> (編集部・福田麗)

作品賞を受賞した「アルゴ」は、日本ではあまり知名度がなく、興行収益的にもヒットしているような感じでさえもありませんでしたが、なかなかの良作です。
アクションシーンなしでアレだけの緊迫感を生むというのは、そうそう簡単に出来ることではないのですし。
前回のアカデミー賞で作品賞を獲得した「アーティスト」や、その対抗馬とされた「ヒューゴの不思議な発明」などは、どちらかと言えば映像美に傾斜していたきらいがあったのですが、「アルゴ」はストーリーと演出が評価されたということになるのでしょうか?
「アルゴ」の対抗馬たる「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」の方は、完全に映像美が評価されての受賞だったのでしょうけど。
親友との約束を破って逃亡した「走れメロス」のごとき構成になってしまっている「レ・ミゼラブル」などは、しかしそのミュージカルな構成がヒットして未だにロングランな上映が続いていますし。
一方でスティーブン・スピルバーグは、去年の「戦火の馬」に引き続き、またしてもアカデミー賞から梯子を外される羽目になっていますね(T_T)。
ノミネートだけはされまくっていましたし、今年は「本命」とまで言われていたというのに、何とも運に恵まれない話で。

今回受賞が決定された映画の中で、私が観賞する予定のある作品は「ジャンゴ 繋がれざる者」「世界にひとつのプレイブック」「リンカーン」の3つですね。
「世界にひとつのプレイブック」は2013年2月22日から全国公開されているのですが、熊本では4月6日からしか解禁されないという、相変わらずな地方の映画格差の煽りを食らっている始末で、その時までお預けということになります。
アカデミー賞受賞作品ですらこういう弊害があるのですから、何とも泣けてくる話ですね(T_T)。
もちろん、アカデミー賞受賞作品だからといって、その映画が名作であることが保証されるわけではなく、また莫大な興行収益を叩き出せるというわけでもないのですから、それも止むを得ない一面があったりするのですが。
カンヌのパルムドール賞を受賞していながら「史上最悪のクソ映画」という栄冠に輝いた、「ツリー・オブ・ライフ」のごとき悪例もあるのですし。
現時点では未だ未観賞の3作品についても、アカデミー賞の権威に恥じないだけの出来であることを期待したいものです。


映画「草原の椅子」感想

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映画「草原の椅子」観に行ってきました。
芥川賞作家の宮本輝による同名作品を原作し、日本映画では初めてパキスタン・イスラム共和国の北西部に位置するフンザでの映画撮影を実現させた、佐藤浩市主演の人間ドラマ作品です。

物語の冒頭は、明らかに外国と思しき風景が映し出され、その中で4人の日本人が集まって和やかに談笑している場面から始まります。
4人の日本人の構成は、男性2人に女性1人、そして子供がひとり。
彼らは地元のものとおぼしきマイクロバスに乗り、どこかへと向かっていくのでした。

ここで時系列は過去に戻り、4人が冒頭のようになった経緯が、4人の中のひとりで今作の主人公でもある遠間憲太郎の視点から語られていきます。
彼は、とある大手企業の中間管理職的な地位にあるサラリーマンで離婚歴があり、現在は大学に通っている娘の遠間弥生との2人暮らしをしています。
会社ではそれなりに人望もあるらしい遠間憲太郎は、部下達の悩みや相談にもしばしば丁寧に応じる人格の持ち主でもありました。
そんなある日、遠間憲太郎は、勤めている会社の取引先企業「カメラのトガシ」の社長である富樫重蔵からの電話を受けることになります。
何でも富樫重蔵は、激昂した不倫相手から灯油をぶっかけられてしまい、その強烈な臭気のためにタクシーの乗車を完全に拒否されてしまっている状態にあるのだとか。
遠間憲太郎はすぐさま、自家用車で富樫重蔵を迎えに行き、風呂に入れて新しい服を与え、さらには不倫相手と示談させるべく弁護士の紹介まで取り計らってやったのでした。
これに恩義を感じた富樫重蔵は、遠間憲太郎に対して「敬語や肩書は一切なしで語り合う親友になって欲しい」と申し出、遠間憲太郎は戸惑いながらもこれを受け入れます。
その後2人は、年齢が同じということもあってか、しばしば飲み屋で互いに悩みを打ち明け、忌憚なき会話を交わすことができる関係に昇華していくことになります。

また遠間憲太郎は、会社の過重労働が原因で居眠り運転を行い事故を起こしてしまい、病院で入院生活を送っている部下を見舞いに訪れていました。
部下は過酷な労働環境に自分を置いた会社を訴えると遠間憲太郎に告げており、遠間憲太郎は部下を何とかなだめすかしてその場を収めることになります。
部下を見舞った病院からの帰り道、雨が降る中タクシーで移動していた遠間憲太郎は、その途上で雨宿りをしている、ひとりの着物姿の女性を目撃します。
その女性が雨の中を走って一軒の骨董屋へ入っていくのを確認すると、彼女のことが妙に気になったのか、遠間憲太郎はタクシーを停車させ、後を追うようにその骨董屋へと入っていくのでした。
その女性・篠原貴志子は骨董屋を営んでおり、遠間憲太郎は彼女のためにわざわざ10万円もする骨董の皿を購入したりするのでした。
その後、遠間憲太郎は、骨董について独学で学びつつ、篠原貴志子の骨董屋にしばしば足を運ぶようになっていきます。

そしてまた別の日。
バス停でバスに乗ろうとしていた遠間憲太郎は、すぐ近くで自分の娘である遠間弥生が見知らぬ中年男の車に乗り込む光景を目撃します。
タクシーでその後を尾けた遠間憲太郎は、その中年男が住んでいるとおぼしきアパートのベランダで、遠間弥生が洗濯物を干している様子を見出すことになるのでした。
娘がいかがわしい男と、それも下手すれば援助交際や不倫の疑いすらもある付き合いをしているのではないかという疑問に駆られた遠間憲太郎は、その日娘が家に帰って来るとすぐさま中年男の件について問い質します。
奇しくもその時、遠間弥生は問題の中年男とその子供を家まで連れてきており、あわや一触即発の事態になりかけました。
しかし遠間弥生は、別に中年男とその手の関係にあるわけではなかったのです。
彼女は、同じバイト先で働いていた中年男の子供に懐かれており、子供の面倒を見るために中年男の家に出入りしていたとのこと。
そして中年男こと喜多川秋春と遠間弥生は、子供の喜多川圭輔を一時的に遠間家で世話をすることはできないかと遠間憲太郎に持ちかけてくるのでした。
喜多川圭輔の母親は、2年にわたって育児放棄と虐待を繰り返した挙句に男を作って家を出て行ってしまっており、また父親も一時的に遠出をしなければならない仕事ができたため、子供の面倒を見ることができなくなったのだそうで。
中年男の得手勝手な態度に怒りを覚えながらも、遠間憲太郎はしぶしぶその申し出を承諾し、喜多川圭輔の面倒を見ることになります。
母親の育児放棄と虐待から、精神的に深刻な外傷を被っている気配すらある喜多川圭輔を相手に、遠間憲太郎は様々な試行錯誤を繰り返していくことになります。

これら3つの出会いがやがてひとつの流れを生み、やがてそれは遠間憲太郎とその周囲の人間に少なからぬ転機をもたらすこととなっていくのですが……。

映画「草原の椅子」に登場する主要人物達は、全員が何らかの形で心に傷を抱え込んでいます。
バツイチかつ浮気の経歴を持つ主人公の遠間憲太郎。
会社経営で少なからぬトラブルを抱え、リストラした元社員に自殺されて落ち込んでしまう富樫重蔵。
何度も不妊治療をしながら子宝に恵まれず、それが災いして夫と離婚する羽目になった、主人公と同じく同じくバツイチの篠原貴志子。
遠間憲太郎の娘と元妻も、離婚絡みでそれぞれ少なからぬ傷を負っていた様子が描かれています。
しかし、作中で一番大きな精神的ショックと外傷を被っているのは、価値観が俺様至上主義かつ電波入りまくりであまりにもゴミ過ぎる両親の得手勝手な自己都合に振り回された挙句、わずか4歳でありながら実の両親から事実上捨てられることになった喜多川圭輔でしょうね。
自分のこと以外全く眼中にないあの2人の実の両親のクズっぷりは、傍目から見ている分にはなかなかに笑えるものがありました。
もちろん、当事者にとっては深刻な問題以外の何物でもありませんし、親が子供を捨てるという行為が許されるはずもないのですが。
ただ喜多川圭輔の場合、実の両親があまりにもあっさりと子供を捨てる態度を取っていたことは、むしろ逆に幸いな側面もあったでしょうね。
作中で遠間憲太郎も述懐していましたが、あのまま実の両親の下にいたら、両親による更なる育児放棄と虐待によって殺されていた可能性すら充分にありえたわけですし。
また、これは意外な話ではあるのですが、子供を虐待する親というのは、実際には作中の両親とは逆に、子供を自分の管理下から放したがらないという問題もあったりするんですよね。
もちろんその理由は決して子供の将来等を考えてのことなどではなく、単に世間体が悪く自分に非難の目が集中するからとか、子供に暴力を振るって自分の不満のはけ口にするためとか、およそ自己中心的な事情によるものでしかないのですが。
虐待の疑いのある親や、実際に子供を殺してしまった親が、行政の干渉をすら跳ね除けて子供を執拗に自分の管理下に置こうとする事例は、実際に数多く存在していたりします。
もし喜多川圭輔の両親がそんな態度に打って出ていたら、喜多川圭輔自身にとっても不幸なことはもちろんのこと、遠間憲太郎も余計な法廷闘争を強いられることになったのは確実だったことでしょうね。
まあ遠間憲太郎には知り合いに弁護士がいるみたいですし、状況証拠的に見ても遠間憲太郎側に有利に戦いを勧められはしたでしょうけど、それが子供に少なからぬ悪影響を与えるであろうことは避けられなかったでしょうし。
その点で、あのゴミな実の両親が喜多川圭輔をあっさりと捨て去ったことは、結果的に見れば、あの2人が子供にしてやった唯一の「善行」だったとすら言えるのかもしれません。
もちろん、そんなシロモノをそんな風に評価しなければならないこと自体、あの両親の救いようがないクズっぷりを充分に証明して余りあることでしかないのですけどね。

物語冒頭と終盤で舞台となるパキスタン・イスラム共和国のフンザは、さすが「世界最後の桃源郷」と言われるだけのことはあり、雄大かつ美しい光景をまざまざと見せつけていました。
ロードムービー的な構成としては、なかなかに良く出来ていたのではないでしょうか。
ただ、ああいうのってやはり映像や写真ではなく、実際に自分の目と耳で実地で確認してこそ、本当の意味で実感できるものなのでしょうね。
だからこそ作中の主人公達も、写真集で何度も風景を見ていながら、実物のフンザへ足を運ぶことを決断したわけで。
フンザは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、パキスタンがイスラム国家ということもあり観光客が減少傾向にあるとのことなのですが、今作の上映で客足に弾みがつくことになるかもしれませんね。

登場人物の設定に暗い要素はあるものの、全体的には安心して観賞できる構成ですし、個人的にも結構オススメできる作品ですね。


映画「遺体 明日への十日間」感想

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映画「遺体 明日への十日間」観に行ってきました。
2011年3月11日の東日本大震災発生直後に臨時に設置された岩手県釜石市の遺体安置所を舞台に、遺体を管理する人達と遺族の姿を描いたヒューマン・ドラマ作品。
内容的には非常に地味かつ起伏のないストーリーなのですが、西田敏行・佐藤浩市・柳葉敏郎などの豪華キャストが多数出演しています。

今作の物語は、東日本大震災が発生する約10分前の日常風景が展開されるところから始まります。
何故10分前と分かるのかというと、西田敏行が演じる今作の主人公・相葉常夫が地元の老人?達と卓球レクリエーション?をしていた場所に時計があり、その時刻が昼間の2時35分頃を指している描写があるためです。
その他、患者を診る医者、学校から帰宅する小中高の学生、買い物をする主婦、港で働く人達など、どこにでもある日常風景が続いていきます。
そして、ひとしきりその手の日常風景が展開された後、画面が暗転し、ナレーションのみで東日本大震災の発生および津波で海沿いの街が壊滅したことが掲示されます。
そして次の場面では、冒頭で相葉常夫が卓球レクリエーションをしていた場所の「震災で被害を受けた後」の光景が映し出されます。
震災で停電し、卓球のボールなどが散乱した部屋で相葉常夫が後片付けに精を出している中、震災直後に帰宅した(らしい)はずの老人達が戻ってきていました。
海沿いにある家に帰ろうとしていた彼らは、海沿い方面への道が通行止めになってしまっていて帰れなくなってしまったこと、海沿いが津波で壊滅状態となってしまったことなどを相葉常夫に教えるのでした。
一方、釜石市の役所では、震災で犠牲となった遺体を一時的に置いておくための安置所を設置することが決定され、3人の職員がその責任者として指名されていました。
遺体安置所は、数年前に廃校となった中学校が使用されることとなり、自衛隊や役所の職員によって発見された犠牲者の遺体が続々と運ばれていました。
その遺体安置所を訪ねた相葉常夫は、あまりの被害の大きさと、遺体安置所における遺体への扱いに愕然とします。
震災当時66歳だった相葉常夫は、定年まで葬儀会社の仕事に就いていたこともあり、運ばれてきた遺体が雑に扱われていることに口を出さずにはいられなかったのでした。
そして相葉常夫は、震災で混乱している市政の指揮に当たっていた、震災当時の釜石市市長・野田武則に直談判し、遺体安置所でボランティアとして働きたいと申し出ることになります。
ボランティアでありながらも、葬儀関係の経験が相葉常夫は、役所から派遣されてきた職員達の上に立ち、遺体安置所の管理運営を任されることになります。
次々と運ばれてくる遺体と、行方不明となっている親類縁者や知人を探してやってくる遺族達を相手に、相葉常夫は対処していくことになるのですが……。

映画「遺体 明日への十日間」では、東日本大震災をメインテーマに扱いながら、「被災者や犠牲者が震災の被害を【直接】受けている様子」というのが一切描かれていないのが、大きな特徴のひとつであると言えますね。
津波に襲われる市町村の様子とか、津波に巻き込まれ流されていく人々とか、そういった直截的なシーンが一切ないわけです。
あくまでも「震災後」が舞台であり、震災で死んだ人と向き合わなければならない「生き残った人達」にスポットを当てた作品なのです。
ただそうは言っても、震災の凄惨さを演出するという意図から、震災や津波等の光景自体はそれなりに描写するのではないかと個人的には予想していたので、これは少々意外な展開ではありましたね。
まあ、予算の都合や「作品のテーマが拡散する」等の理由で削られたのかもしれませんが。

また今作は、最初から最後までとにかく起伏のない淡々としたストーリーが延々と展開されていきます。
「遺体 明日への十日間」という題名といい、「東日本大震災の真実」という題材といい、事前予測でも明るい要素が欠片も見出せない上に事実暗いストーリー構成だったりもするので、
エンターテイメント的な爽快感などとはおよそ無縁な映画であると言えます。
ただその分、出演している俳優さん達の真に迫った名演技が光っていますね。
個人的に考えさせられたその手の描写は2つ。
ひとつは、自分と全く面識のない遺体に懇切丁寧に話しかけるという、傍から見たら奇異な対応をする主人公・相葉常夫の言動。
彼がそうする理由については、老人の孤独死を見続けてきたことから、死んだ老人が哀れになって話しかけてみたところ、遺体が変わったように見えたという過去の経緯が作中でも語られています。
そして相葉常夫は、次々と際限なく運ばれ続ける遺体管理の仕事に嫌気がさして不満を述べる職員に対し、「ここにあるのは死体ではない、御遺体なんです」と主張するのです。
相葉常夫的には、そうやって「遺体」と接することで故人を労わると共に、哀しみに押しつぶされそうな遺族の心情に若干ながらの安息を与えるという意図があるのでしょう。
ただ実際には、この手の遺体管理の仕事場では、相葉常夫とは逆に「遺体について感情移入するな、ただのモノとして考えろ」などという考え方も普通にあったりするんですよね。
故人の遺品整理を行う仕事を扱っている映画「アントキノイノチ」などでは、作中の人物が主人公に対してまさにそういう主旨のセリフを述べているシーンがあったりします。
下手に故人に感情移入してドツボに填ってしまったり、余計なお節介をやってしまって遺族からウザがられ、場合によっては無用な揉め事の種にまで発展するリスクもあったりするわけで、これはこれで間違った考え方というわけではないわけです。
特に、震災の現場で何百体もの死体を捜し出し遺体安置所へ運び続けなければならない職員や自衛隊の人間などは、そうでもしないと自分の心が押し潰されることにもなりかねないケースもあったりするのではないかと。
相葉常夫のような考え方は、自身のメンタル面が相当なまでに強くかつ柔軟性がないと、その実行は難しいものがあるでしょうね。

もうひとつ印象に残ったのは、津波の犠牲となった小学生の遺体が運ばれてきた際に、釜石市の女性職員・照井優子が壁を叩きながら「幼い生命が死んでいるのに私なんかが生きているのが申し訳なくて……」と泣き叫ぶシーンです。
その小学生が津波で犠牲になった件について、別に照井優子が直接手を下した等の責任があるわけでもないのに、何故照井優子が自分を卑下しなければならないのでしょうか?
照井優子が生きていることと、震災で小学生が死んだ件とは何の相関関係もないのですし、そもそもその小学生と照井優子とは一面識すらもなかったわけでしょう。
「自分より幼い人間が死んだこと」について嘆くのであれば、それは別に東日本大震災に限らず、毎日世界中のどこかで日常茶飯事に起こっていることであるはずなのですが。
第一、本当に故人に対して自分が生きていることに申し訳ないと考えているのであれば、自分がその場で自殺でもしてしまえば一瞬で解決する話ではないのかと。
こういう発想が、「英霊に申し訳が立たない」からと戦場での犠牲を悪戯に増やした戦前の一億総玉砕論や、「被災者に申し訳ない」という理由から始まったあの愚かしい自己満足の産物でしかない震災自粛の温床でもあることを考えると、とても賛同なんてできるようなシロモノではなかったですね。
自分の責任の範疇外で発生した「他人の死」に自責の念など抱いていては身が持ちませんし、そんなものでは死者も生者も、何よりも自分自身も救われることなどないのです。
自分を責めるよりも行動した方が、はるかに生者どころか死者さえも含めた他人のためになるのではないのでしょうか?

全体的には、豪華キャストな出演者の顔ぶれを見てさえも、やはり万人受けはしなさそうな構成の作品だよなぁ、というのが正直な感想ですね。
人間ドラマとしてはそれなりのものがありはするのですけど、映画は「派手な演出」こそが大きな売りのひとつでもあるわけですし。
原作が「遺体 震災、津波の果てに」というルポルタージュ本とのことなので、その手の要素は最初から望みようがなかったのでしょうけどね。


「くまモン」関連商品が年間で総額293億円以上の売上を達成

2012年における、熊本県のPRマスコットキャラクター「くまモン」の関連商品の売上総額が293億円以上にも達したそうです↓

http://www.nikkei.com/article/DGXNZO51948870Q3A220C1LX0000/
>  熊本県は20日、県のPRキャラクター「くまモン」を利用した商品の2012年の売上高が、少なくとも前年比11.5倍の293億6200万円に達したと発表した。また、カラオケ配信最大手の第一興商が3月から「くまモン体操」の配信を始めることも決まった。
>
>  売上高は使用許諾を受けた企業などからの回答額を合計した。対象となる2112業者のうち1172業者が回答した。
>
>  商品の内訳では、食品が前年比16倍の246億円で最も多く、グッズが6倍の26億円と続く。使用許諾も13年1月末で約8200件に達し、11年12月末の3倍以上に増えた。
蒲島郁夫知事は「熊本のPRまで考えると効果は年1千億円ぐらいになると思う」とした。
>
>  くまモンが歌に合わせて体操する「くまもとサプライズ!」のカラオケは、くまモンの誕生日で九州新幹線鹿児島ルートが全線開業した3月12日から配信する。「ゆるキャラ」中心のカラオケは初めてという。

上半期だけで118億を稼いでいましたし、相変わらず「くまモン」人気は相当なものがありますね。
ただでさえこの人気の上に、著作権の制約が少ない「くまモン」は、企業にとっても使い勝手の良いキャラクターではあるのでしょうけど。
映画「テッド」でも、翻訳の副産物でありながらもさりげなく友情出演したりしていましたし(苦笑)。
元は九州新幹線全線開業までの限定的なキャンペーンキャラクターだった「くまモン」がここまで人気を博するなんて、誰も想像できなかったでしょうしねぇ。
2013年は世界展開も視野に入れる活動をするらしいですし。
この「くまモン」ブーム、一体いつまで続くことになるのでしょうか?


東九州自動車道の現状から見た公共事業否定論の問題

福岡県の北九州市から大分・宮崎を経て鹿児島県鹿児島市に至るルートで構成される東九州自動車道。
これって実は未だに全面開通していないんですね。
2013年2月16日になって、ようやく大分と宮崎の県境を結ぶ高速道路が開通したのだそうで↓

http://www.nikkei.com/article/DGXNASJC16016_W3A210C1ACY000/
>  東九州自動車道の蒲江(大分県佐伯市)―北浦(宮崎県延岡市)間の14.2キロメートルが16日開通した。蒲江と北浦の中心部は約23分で結ばれ、一般道利用より30分以上短縮される。通行料は無料。大分、宮崎両県が高速道路でつながるのは初めてで、地元は地域活性化や災害時の交通網確保などを期待している。
>
>  同日午前、蒲江インターチェンジ(IC)の近くで開通式典を開催。その後、蒲江ICでテープカットを行い、北浦ICまでパレードを実施した。一般の通行は同日午後3時から可能になった。
>
>  沿線海岸部は南海トラフの巨大地震で津波被害が懸念されている。このため、東九州道では初めて地元住民が災害時に避難できる進入路を2カ所に設置した。
>
>  今回の開通区間は国と両県が総事業費439億円を分担する新直轄方式で整備。
隣接する佐伯(佐伯市)―蒲江間と北浦―須美江(延岡市)間は2016年度に開通する予定だ。東九州道はこの2区間を除き、北九州(北九州市)―清武(宮崎市)間が14年度までに完成する計画のため、地元はこの2区間も14年度に前倒しするよう国に求めている。

全国的に見れば、西九州の高速道路もかなり全面開通が遅かった部類に入るのですが、東九州の道路事情の悪さは悲惨もいいところとしか言いようがないですね。
私は仕事の関係で何度か宮崎県北部に行ったことがあるのですが、高速道路が全通していない宮崎県北部は、宮崎県南部の宮崎市や、隣県にある大分市や熊本市へ向かう際にも、2~3時間近く普通にかかったりします。
高速道路が近くに存在しないという問題は、地元住民にとって大きな負担となりますし、観光や企業誘致の観点からも多大な支障をきたすことにもなりかねません。
東九州は新幹線どころか通常の鉄道網でさえも、西九州に劣る小規模なシロモノしかないのですし。
かつて宮崎県知事を務めていた「そのまんま東」こと東国原英夫が、「宮崎に高速道路は不可欠」と公然と主張していたのも、それなりの理由と必然性があったわけですね。
今現在も、宮崎県が置かれている状況はまるで変ってなどいないのですし。

しかし、高速道路に限らず、この手の公共事業を「無駄の象徴」として否定する人達は、地方の生活には必要不可欠な公共事業でさえも「無駄」と切り捨てる傾向があります。
建設にカネがかかるとか、地元の土建屋を儲けさせるだけでしかないとか、普段は誰も使っていないからとか、その手の「使い古されたキャッチフレーズ」をしばしば使ってきます。
ところが、この手の主張を展開している人達というのは、実は自分が都会に住んでいて公共事業の恩恵を存分に受けている立場を顧みることなく、高みの上から口上を述べている、というパターンが少なくないんですよね。
あくまでも自分達の生活が基準になっていて、公共事業の恩恵が受けられない地方の人間の生活や実態については全く考えもしないわけです。
高速道路の利便性や恩恵を受けられない田舎の人間にとって、高速道路の全面開通は今後の生活にも大いに関わってくる重大事項もいいところなのですけどね。
熊本でも、高速道路や九州新幹線の全面開通は経済効果が少なくなかったのですし、利便性の向上を肌で実感した人は決して少なくなかったのですし。

地方の公共事業批判が特に滑稽なのは、自分とは全く関係のない地方の公共事業は「無駄」として切り捨てていながら、こと自分達の周囲にある交通事情等については「渋滞が酷すぎる、もっと道路を作れ!」などと、冗談やネタではなく真顔で主張したりするダブルスタンダードにあったりします。
また、公共事業のための予算を削った結果として、笹子トンネル崩落事故などの問題が発生すると、公共事業を批判していた事実を棚に上げ「何故きちんとした備えをしなかった!」などと喚く人達が、特にマスコミを中心に後を絶たないものですからねぇ(苦笑)。
結局のところ、地方の公共事業に批判的な人達というのは、目先の利益に固執するあまり、大局的な視点や危機管理意識といったものが完全に欠如しているか、そうでなければ「他人のところにカネを使うな! 自分の周囲のインフラを最優先で整備しろ!」というエゴまる出しなシロモノでしかないのでしょうね。
公共事業というものを、利益と効率性だけでその真価を評価するというやり方そのものに大きな問題と無理があるのです。
そのグロテスクな象徴が、かつてのゴミな民主党政権が実施していた「事業仕分け」とかいう名の茶番劇だったりするのですし。

第二次安倍内閣では、国土強靭化をはじめとする公共事業を積極的に推し進めていく方針とのことなので、中小の地方都市を結ぶ高速道路を次々と増設してほしいですね。
元々、大都市と地方で大きな格差が生じているのは、交通事情の問題という要素も意外と少なくないのですし。
また、いざ何らかの災害や事故が発生した際、大動脈となる道路が一本しかない場合は交通に多大どころではない支障をきたすことにもなりかねないので、スペアとなりえる非常路の存在は「いざという時の備え」として絶対に必要となります。
東日本大震災などでも、貧弱な道路網のために救援物資等の輸送に大きな支障をきたした、という問題がしばしば発生していたのですし。
安全保障と地域経済の発展、この両観点から公共事業を推進することは、最終的には「デフレの脱却」という、日本経済全体にとっての恩恵にもなりえるであろうと、私は思えてならないのですけどね。


タイタニア4巻の2013年2月18日時点の執筆状況

2013年2月18日に、らいとすたっふでタイタニア4巻の原稿引き渡しがあったみたいですね↓

https://twitter.com/adachi_hiro/status/303675590270144513
<今日は軽井沢に行くのだが(というか、いま行く土地なのだが)、会社では田中さんが編集さんに「タイタニア」の原稿を渡すことになっている。さて、今回は何枚くらい渡せるのかな。まだまだ先は長いのだけどね。>

https://twitter.com/wrightstaff/status/303704932803039235
<本日、『タイタニア4』の原稿受け渡しがありました。少しずつですが、着実に進んでいます。>

去年の年末にタイタニア4巻第1章の原稿を編集に渡していたとの情報がありましたから、今回は2章~3章辺りの引き渡しといったところになるのでしょうか?
未だ折り返し地点にも到達していないようで、確かにまだまだ先は長いと言わざるをえないですね(-_-;;)。
この調子では、やはり年内に新刊が刊行されるのは難しい状況であるのではないかと。
何しろ、最近は田中芳樹の執筆速度の問題だけでなく、脱稿してから出版されるまでについても相当な時間がかかるみたいなのですし。
過去には、脱稿から初版発行まで4ヶ月近くも費やした、などという事例まであったくらいですからねぇ。
何か出版社の経営的な事情でも絡んでいるのでなければ、田中芳樹の担当編集が相当なまでに無能であるとしか言いようがないのですが。
年内に刊行できるためのタイムリミットがあるとすれば、それは今年の9月一杯ということにでもなるでしょうか。
正直、とてもそれまでに田中芳樹がタイタニア4巻を脱稿するとは思えないところなのですけど……。


「家族の法制に関する世論調査」における不公正な選択項目

2013年2月16日に内閣府が発表した「家族の法制に関する世論調査」で、夫婦別姓導入に反対する割合が賛成のそれを上回ったのだそうです↓

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1601S_W3A210C1CR8000/
>  内閣府が16日発表した「家族の法制に関する世論調査」で、夫婦が希望すれば結婚前の姓を名乗れる「選択的夫婦別姓」制度を導入する法改正を「必要ない」とする反対派が36.4%となり、「構わない」と答えた容認派の35.5%をやや上回った。年長世代に加え、若い世代でも慎重論が広がりつつあるが、賛否は依然拮抗している。
>
>  同様の調査は4回目で、反対派は2006年の前回調査と比べて1.4ポイント微増した。容認派は同1.1ポイント減。反対が容認を上回ったのは初回の1996年以来となった。
>
>  調査は
(1)夫婦は必ず同じ姓を名乗るべきで法改正は必要ない(2)希望すれば結婚前の姓を名乗れるよう法改正しても構わない(3)夫婦は同じ姓を名乗るべきだが旧姓を通称としてどこでも使えるようにする法改正は構わない(4)分からない――の4つから選んでもらった。
>
>  96年調査では反対派が容認派よりも多かったが、01年に容認派が10ポイント以上の差を付けて逆転。06年は反対派が急増して35.0%となり、36.6%の容認派とほぼ並んだ。
>
>  今回調査で、旧姓を通称使用できる法改正を容認するとの回答は1.1ポイント減の24.0%だった。
>
>  夫婦別姓の影響については67.1%(前回66.2%)が「子供に好ましくない」と回答し、「影響ない」の28%(同30.3%)を上回った。容認派のうち制度が導入されたら別姓を希望する人は23.5%(同20.9%)だった。
>
>  また、非嫡出子を「法制度面で不利益な取り扱いをしてはならない」と答えた人は60.8%で、2.5ポイント増えた。
>
>  調査は昨年12月6~23日、全国の成人男女5千人を対象に実施した。回収率は60.8%だった。

この調査は質問のやり方自体に問題があり、夫婦別姓賛成に有利なように細工されているのが丸分かりな構成になっています。
そもそも、(3)の「夫婦は同じ姓を名乗るべきだが旧姓を通称としてどこでも使えるようにする法改正は構わない」という設問は、文言の中ではっきりと謳っている通りに「夫婦別姓導入反対」として数えるべきものであるはずなのに、全く別個にカウントされている始末なのですから。
また(2)の選択項目にしても、これは「結婚前の姓を通称として名乗る法改正」をも含めた意味合いの文言となっているため、(2)の意見全てがただちに夫婦別姓賛成を表すわけでもありません。
そんな選択項目の内容を無視して、(1)と(2)の対比だけで夫婦別姓の賛否を問うという構図そのものに非常に大きな無理と偏向があるのです。
実際には「家族の法制に関する世論調査」における回答の割合は、以下のようになっています↓

http://www8.cao.go.jp/survey/h24/h24-kazoku/2-3.html
(1)姻をする以上,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきであり,現在の法律を改める必要はない → 36.4%
(2)夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望している場合には,夫婦がそれぞれ婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない → 35.5%
(3)夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望していても,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきだが,婚姻によって名字(姓)を改めた人が婚姻前の名字(姓)を通称としてどこでも使えるように法律を改めることについては,かまわない → 24.0%

「夫婦別姓導入反対」の本当の割合は、(1)と(3)の割合を合計した60.4%と算出すべきであり、反対と賛成の間には若干どころか圧倒的な差があると評価すべきなのです。
ここまで事実を無視した偏向報道をやらかしてさえ、(1)の割合が(2)のそれを上回ってしまうというのは、何とも笑える話ではあるのですけどね。
半分以上の日本国民の総意は「夫婦別姓は導入すべきではない」で固まっていると評価すべきではないのかと。
にもかかわらず、何故夫婦別姓がここまで長きにわたって導入の是非を問われなければならないというのでしょうか?

そもそも私に言わせれば、「男女平等」の観点から夫婦別姓を推進すること自体が滑稽極まりない話でしかないのですけどね。
夫婦別姓は元来「妻を余所者扱いすることで家を乗っ取られるのを抑止する」ことを目的とする制度であり、むしろ封建的な家父長制度や男女差別から生まれた存在なのです。
現に夫婦別姓発祥の地とされる中国や韓国の儒教圏では、桁外れの男女差別が横行している始末なのですし。
中国や韓国の悪しき慣習でしかないものを、何故わざわざ日本で導入したりしなければならないのかと。
また、夫婦別姓導入の理由とひとつとされてきた「仕事上の問題」についても、通称使用を認める企業が増えてきたことにより解消されつつあります。
わざわざ法改正などしなくても通称使用が可能な環境が整いつつあるわけで、この観点から見てさえも夫婦別姓導入の必要性は以前よりさらに薄れていると考えるべきでしょう。

夫婦別姓導入に際して一番問題なのは「子供の姓をどうするのか?」という点です。
内閣府の「家族の法制に関する世論調査」でも、夫婦別姓導入の影響として「子供に好ましくない」という意見が67.1%と多くを占めています。
家族にとって一番重要な要素となる子供の問題について全く顧みることなく、ただ表層的な「男女平等」の概念だの、単なる利便性だのをゴリ押しするから、夫婦別姓導入は大きな支持を得ることができないのだと、もう理由は誰の目にも一目瞭然ではありませんか。
それこそ前近代な時代の中国や韓国で導入されていた夫婦別姓と同じく、父親の姓で子供のそれを統一する、と強制するのであればともかく、そうでなければ子供の姓の問題は夫婦間および家族間の揉め事のタネにもなりかねないのですが。
ここまでのリスクを内包する夫婦別姓を導入することで、「子供への悪影響」というデメリットをも上回る、一体どんな「利益のあるメリット」がもたらされるというのでしょうか?
20年近くも調査を続けてあまり変化が見られない結果しか出ていないのですし、いいかげん夫婦別姓制度はその導入自体を諦めれば良いのに、と考えずにはいられないのですけどね。

しかしまあ、ここまで夫婦別姓に否定的な調査結果が出るのを見ると、かつて創竜伝で2回にわたって夫婦別姓導入に積極的なスタンスを見せつけていた我らが田中芳樹御大の雄姿を想起せずにはいられないですね(苦笑)。
何しろ田中芳樹は、創竜伝10巻と13巻で夫婦別姓導入の持論を作中キャラクター達に延々と語らせていたわけで。
しかも13巻に至っては、10巻で「実施された夫婦別姓制度」となっていたはずの作中設定を覆しての導入論だったのですから、もう笑うしかなかったですし。
自分が作中で提言していた(作中キャラクターに言わせていた)政策のひとつが、こうまで明確な形で否定されてしまった田中芳樹御大の心境は如何ばかりなのでしょうかね。
まあ、薬師寺シリーズの最新刊を見る限り、今現在の田中芳樹の政治思想も十年一昔のごとく相変わらずなシロモノではありそうなのですが(爆)。


コメント一覧

たまご (02/20 23:20) 編集・削除

逆ですよ。

回収率を見ると、選択敵夫婦別姓賛成の多い20代、30代の人の回収率が逆に少ない50代、60代よりもはるかに低く、調査数が半分程度になっていることがわかります。

ということで、よくみれば、実情では選択的夫婦別姓支持が反対をずっと上回っていることは確実ですね。

冒険風ライダー(管理人) (02/21 01:06) 編集・削除

>たまごさん
20代や30代でも、(1)と(3)を総計した夫婦別姓反対の割合は(2)を余裕で上回っているのですけど。

http://www8.cao.go.jp/survey/h24/h24-kazoku/zh/z17.html
(1)20代=21.9%、30代=21.4%
(2)20代=47.1%、30代=44.4%
(3)20代=28.9%、30代=33.1%

(1)+(3)20代=50.8%、30代=54.5%

20代や30代の回収率とやらが多かったとしても、さして状況が変わるようには見えないのですが。
それに、この手の世論調査は主婦や高齢者からの回答が多くなる傾向にあるのですし、少子高齢化が進んでいる昨今の状況を鑑みても、高齢者の割合が世論調査で多くを占めるのは必然的な話なのでは?

この世論調査は、別姓導入の是非について問う際には、現行の4択ではなく「賛成」「反対」「分からない」の3択にすべきですね。
(3)の調査結果は完全無視するための全く無意味なシロモノにしかなっていないのですし。

http://www.tanautsu.net/

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」感想

ファイル 902-1.jpg

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」観に行ってきました。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンの所在を10年にわたって探し続け、ついに殺害するに至ったCIAの女性分析官にスポットを当てたサスペンス作品。
映画のタイトルは、2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードに潜伏していたオサマ・ビン・ラディンの邸宅への攻撃を開始した時刻、午前0時30分を指す軍事用語です。
今作は、アルカイダの関係者に拷問を加える描写などの残虐シーンがてんこ盛りなため、PG-12指定されています。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロから2年が経過した2003年。
今作の主人公で当時高校を卒業したばかりのマヤは、すぐさまCIAにスカウトされ、パキスタンのアメリカ大使館でオサマ・ビン・ラディンを追跡するチームの一員としての任務に就くことを命じられます。
初仕事となる彼女が初めて目の当たりにしたのは、現地のオサマ・ビン・ラディン追跡チームのリーダーで彼女の上司となる人物でもあるダニエルが、アルカイダの関係者を吊るし上げ、水責めや箱詰めなど様々な拷問をかけて情報を引き出そうとしている場面でした。
その光景に最初は引きつつも、すぐさま順応して「早く情報を吐いた方が良い」と捕縛者に忠告すらしてみせるマヤ。
以降、マヤはCIAにもたらされる情報を分析しつつ、オサマ・ビン・ラディンの行方を知るとおぼしきアルカイダ関係者から情報を引き出す日々を送るようになっていくのでした。

2人は、アルカイダの関係者を(拷問その他の手管も交えて)取り調べていく中で、オサマ・ビン・ラディンの連絡役と思しきアブ・アフマドなる人物の存在をキャッチします。
しかし、その足取りや所在については全く手がかりが掴めないまま、5年の歳月が流れていきます。
その間、2005年7月7日にロンドンで同時爆破テロ事件が発生したり、2008年9月30日にはマヤ自身がイスラマバードのマリオット・ホテル爆破テロ事件に巻き込まれたりするなど、アルカイダが関与したとされるテロ事件が後を絶ちませんでした。
また、マヤの上司だったダニエルも現場を離れCIA本部の勤務になるなど、オサマ・ビン・ラディン追跡チームの構成員にも少なからぬ変化があったりもしました。
そんな中、マヤの同僚で親しい友人関係にもあったジェシカが、アルカイダの関係者から有力な情報を得られることになったとの報告がもたらされます。
マヤは素直に友人の功績を絶賛し、アフガニスタンにあるチャップマン基地で行われる予定のアルカイダ関係者との接触に期待を寄せるのでした。
ところがそれはアルカイダ側が仕組んだ罠であり、2009年12月30日の接触当日、ジェシカを含めたCIA職員7名は、アルカイダによる自爆テロによって帰らぬ人となってしまうのでした。
これがきっかけとなってマヤは、オサマ・ビン・ラディンの殺害を心から願うようになり、半ば狂信的な手法と態度でオサマ・ビン・ラディンの追跡を行っていくようになります。
その努力が実り、ついに彼女はアブ・アフマドの特定に成功し、パキスタンのアボッターバードにある邸宅の存在を掴むまでに至るのでした。
しかし、そこに何らかの重要人物がいるという点ではCIA内部でも見解の一致を見たものの、その組織がアルカイダの、ましてやオサマ・ビン・ラディンであるという確証など誰も持ち合わせていませんでした。
100%の確証があると断言して憚らないマヤに同意する者はCIA内部には誰もおらず、彼女は孤立無援も同然の状態でした。
しかしアメリカ政府上層部は、そんなマヤの可能性に着目し、攻撃の許可を与える決定を下したのです。
かくして2011年5月2日の「ゼロ・ダーク・サーティ」に、オサマ・ビン・ラディンの殺害作戦が、総勢15名で構成されるネイビー・シールズの部隊によって展開されることになるのですが……。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」は、良くも悪くもオサマ・ビン・ラディンが殺害されるに至るまでの全行程を余すところなく再現していますね。
捕縛したアルカイダ関係者達を、CIAの面々があの手この手で拷問にかける様子まで普通に描写されていますし。
今作がアメリカで公開された際には、アメリカの一部議員達が「CIAは拷問なんか行っていない、そんな間違った印象を与えるこの映画はケシカラン」などと映画の製作元に抗議したこともあるのだそうで。
しかし、日本の警察でさえ自白強要や誘導尋問等の事例が普通にあるというのに、それ以上に強権を持つ上に外国人を相手とするCIAで、その手の拷問が全くなかったとは到底考えられるものではないでしょう。
ましてや、相手がアメリカ同時多発事件の首謀者であり、かつ大多数のアメリカ国民からも当然のごとく成果を求められる状況ではなおのこと。
一応アメリカ政府も、公式発表上では「人道的な取り調べを行っている」ことを強調してはいるでしょうが、実際には拷問その他の強権発動があったことは「公然の秘密」というものでしょう。
民主主義国家であることと、その警察機構が人道的であることは、必ずしも両立するわけではないということですね。
むしろ、相手が外国人の場合は人権適用の対象外になっても本来はおかしくないくらいなのですし、下手に穏便に扱うと、テロ組織側に「捕まっても大したことはない」などと舐められてしまうリスクもあるのではないかと思うのですが。
一方のテロ組織の方は、アメリカ兵を捕まえたら一切容赦しないであろうことは、映画「ブラックホーク・ダウン」のモデルとなった「モガディシュの戦闘」におけるアメリカ兵の死体の扱いを見ても一目瞭然なのですし。
アメリカにばかり人道的措置を求められるのに、テロ組織はやりたい放題が許される、というのはあまりにもアンフェア過ぎるのではないのかと。
まあアメリカの方も、国内への配慮以外にも対外的にイイ顔をしなければならない事情もあるわけですから、別に好き好んで単なる足枷にしかならない「人道」を前面に掲げているわけではないのでしょうけど。

作中のマヤは女友達をチャップマン基地の自爆テロで殺されてしまった後、まるでそれが生きがいであるかのごとくオサマ・ビン・ラディンの抹殺に奔走するようになってしまっていましたが、その目的が達成された後、彼女は何に生きがいを見出すことになるのでしょうかね?
高校卒業直後からあしかけ8年近くもオサマ・ビン・ラディンの追跡に従事し続け、それ以外の分野における実績も功績もこれといってないわけですから、マヤはある種の「つぶしがきかない」人間と評されるべき人物であるわけです。
しかも、アレほど熱望していたオサマ・ビン・ラディンの殺害が実現したとなると、マヤは今後の「生きる目的」を一時的にせよ失った状態にもあるわけでしょう。
下手すれば「生ける屍」のごとき生気の抜けた状態になってもおかしくなさそうに見えますし。
まあ、オサマ・ビン・ラディンの殺害に成功したという事実自体が巨大な功績たりえるのですから、CIA内部における彼女の地位は不動のものになったのかもしれませんが、彼女、今後もCIAでの仕事を生業にしていくのでしょうかね?
彼女の後日談がどうなったのか、是非とも知りたいところです。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」は上映時間が158分と非常に長く、しかもアクション映画にありがちな派手で観客受けする描写がまるでないため、観る人を選びそうな構成の作品ではありますね。
一応アカデミー賞有力候補作のひとつというのも売りな映画ではあるのですが、だからと言ってそれは必ずしも「名作」であることを保証するものでもないのですし。
アメリカほどにはオサマ・ビン・ラディンに執着がない日本ではなおのこと、その傾向がより強くなりそうです。
アメリカでは大ヒットを記録した映画だったそうですが、果たして日本ではどれくらい興行収益的な成功を収めることになるのでしょうかねぇ。


映画「レッド・ライト」感想

ファイル 901-1.jpg

映画「レッド・ライト」観に行ってきました。
超常現象を科学的に解明すべく奔走する主人公達が、稀代の超能力者として名を馳せるサイモン・シルバーと壮絶な心理戦を繰り広げる、異色のミステリー作品。

物語は、ポルターガイストとおぼしき超常現象に見舞われている家に、マーガレット・マシスンとトム・バックリーという2人の人物が訪れるところから始まります。
2人は、巷で評判の超常現象に懐疑的な立場から調査・検証を行うことを生業とする大学の物理学者で、マシスンが教授・バックリーが助手という関係にありました。
家主?の依頼で訪問した今回の家では、奇妙な物音が響き渡ったり、机が浮き上がるなどの現象が頻発しており、住人は引っ越しを検討すらしていました。
しかし、マシスンはポルターガイストの原因が家主のひとり娘にあり、かつ家の中で頻発していた超常現象も科学的なトリックによるものであることを喝破します。
ひとり娘にこれ以上イタズラをしないよう言いくるめ、2人はその家を後にするのでした。

その後、2人は大学の講義で、冒頭の家で発生した「机が浮き上がる」現象のトリックを解説しています。
サリー・オーウェンという若い女子学生がその講義の内容に興味を抱き、それが縁となってバックリーと恋仲になっていきます。
そして彼女は、バックリーとマシスンと共に、超常現象を調査するチームに入ることとなるのでした。
その頃、巷ではかつて「伝説の超能力者」と言われたサイモン・シルバーなる人物が、30年ぶりに復活を遂げるということで大きな話題となっていました。
バックリーは自分達の生業から言っても当然のごとくサイモン・シルバーを調査すべきと考え、上司たるマシスンに掛け合います。
しかしマシスンは、40年近く前にサイモン・シルバーと公開討論を行った際に彼のトリックを見破ることができずに撤退を余儀なくされた過去があり、「彼は危険だから近づくな」と全く取り合おうとしません。
しかし、サイモン・シルバーの弟子と称するレオナルド・パラディーノの超能力のタネも暴いたバックリーの、サイモン・シルバーの調査を行いたいという欲求は募るばかり。
ついに彼は、単独でサイモン・シルバーの調査を行うべく、サイモン・シルバーが公演を行っている劇場へと向かうのでした。
ところがそれ以降、バックリーの周囲では不可解な異常現象が次々と発生するようになり……。

映画「レッド・ライト」の大部分は、超常現象がどのようなトリックを駆使して展開されているのか、その種明かしを売りとしている感のある作品ですね。
机が浮き上がるトリックの解説とか、頻繁に変わる通信波を使用して観客のことを教える人間の存在とか、アレだけ超常現象の種明かしに終始している映画というのも珍しいのではないかと。
ただ、終盤近くまで続く科学考証至上主義的なストーリー進行自体が、ラストの大どんでん返しの伏線だったりもするのですが。
あの大どんでん返しは、確かに映画の予告編でもあったように「視点を変えてみる」にも合致しますし、ある意味作中の怪奇現象の謎を解くものでもあります。
あえてネタばらしをすると、サイモン・シルバーに関わって以降にトム・バックリーの周囲で発生していた超常現象は、全てトム・バックリー自身の超能力で引き起こしていたものだった、ということになるらしいのですが。
その結末を知った上でよくよく作中の描写を見てみると、トム・バックリーは最初から自分のことを「超能力者だ」と告白しているシーンもあって、「ああ、アレって社交辞令ではなく本当のことを言っていたのか」と納得することしきりではありました。
ただ、一応は「ミステリー」「超常現象への懐疑」を前面に打ち出しているはずの物語で、それを完全に否定する形での超能力を突然持ってくるという展開は正直どうなのでしょうか?
ミステリー作品の基本ルールと言われる「ノックスの十戒」にある「探偵方法に超自然能力を用いてはならない」「探偵自身が犯人であってはならない」にも、真っ向から反した結末となっていますし。
この辺りの構成は、やたらとミステリーな謎を予告編その他で協調しまくっていた映画「シャッターアイランド」と似たり寄ったりな雰囲気があって、どうにも微妙なイメージが否めなかったですね。

それと、アレのせいでサイモン・シルバー絡みの謎のひとつが、結果的に作中で明確に解明されることなく曖昧な形で残ったままになっていますね。
「サイモン・シルバーを非難する者は突然死をする」という謎は、結局作中ではどういう形での決着となったのでしょうか?
特に、1975年にサイモン・シルバーが引退するきっかけとなった、サイモン・シルバーに懐疑的な記者がショーの最中に死亡したという事件は、結局真相が如何なるものだったのかは何も分からずじまいです。
一応作中では、サイモン・シルバーの部下の男が、トイレで一緒に居合わせたトム・バックリーに襲い掛かり、半殺しにするという行為をやらかしているので、サイモン・シルバー
の一派が手を下していたという解釈は成り立たなくもないのですが、それにしても所詮は「疑惑」止まりでしかないのですし。
まさか、30年前の1975年の事件についてもトム・バックリーが関与していた、などというオチはいくら何でもないでしょう。
トム・バックリーは学生と恋仲になれる程度には「若い」という設定のようなのですし、マーガレット・マシスンと違ってサイモン・シルバーとは過去にこれといった面識もなかったようでしたからねぇ。
あそこまで科学にこだわるのであれば、せめてあの事件の真相についても「サイモン・シルバー関係者辺りの過去の回想」的な形で明確な答えを出して欲しかったところではあります。

基本的に超常現象に対する科学的なアプローチが延々と続く作品なので、全体的に派手な描写や手に汗握る展開といったものがなく、その点では万人向けの作品であるとは言い難いですね。
また、ミステリーの観点から言っても、ラストの展開は見る人によってかなり賛否が分かれそうな内容ですし。
超常現象懐疑論が好きな方にはオススメな作品と言えるかもしれませんが。
アメリカでも興行収益は製作費を下回ったほどに低調だったようですし、日本でも大ヒットは難しいかもしれませんね。


コメント一覧

ももこ (02/21 13:48) 編集・削除

管理人とほとんど同じ感想です。特に、シルバーに懐疑的な記者が死亡した事件は、結局真相が何も分からずじまいで、消化不良。恋人役もこれといって活躍の場面がないし、キレイでもない。マシスンのスプーンを曲げたのは誰?という疑問も残るし、トムは窓になぜ鳥を激突させるのか?極めつけは、あれだけトイレでやられれば、死ぬけど。超能力者は死なない??

冒険風ライダー(管理人) (02/22 00:40) 編集・削除

>ももこさん
やはり、「サイモン・シルバーを非難する者は突然死をする」は作中でも上位に入る謎のひとつであるだけに、明確な解答が欲しかったところではありますね。
ラストの真相で作中全ての謎を解消するのが、ミステリーの醍醐味でもあるのですし。
その点でも今作は、ミステリーとしては失格な出来と言わざるをえないかなぁ、と。

http://www.tanautsu.net/

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