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映画「王になった男」感想

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映画「王になった男」観に行ってきました。
17世紀前半の李氏朝鮮の宮廷を舞台とし、イ・ビョンホンが一人二役で主演を担う韓国映画となります。
今作は韓国で製作された映画ということもあり、当初は観賞予定作品のリストにも全く入っていなかったのですが、久々に試写会に当選するという僥倖に恵まれたため、「まあタダなのであれば……」ということで観賞に臨むことと相成りました。
韓国映画は、心理描写一辺倒&ラスト30分がグダグダの「リベラ・メ」や、トンデモ反日臭があまりにも強すぎる「マイウェイ 12,000キロの真実」と、どうにも良い印象を持ちようがないのが実情だったのですが、今作は如何に?

1616年の李氏朝鮮。
日本では徳川幕府が豊臣家を滅ぼし太平の世の礎を確立しつつあり、支那では明王朝が衰退から滅亡へと邁進しつつあったこの時代、当時の李氏朝鮮では光海君という人物が15代国王として君臨していました。
この光海君というのは、1623年に政敵にクーデターを起こされ廃位させられたという経緯も手伝い、李氏朝鮮では「暴君」という評価を受けている国王だったりします。
後世でもそんな評価な光海君は、作中でも周囲から恐れられる暴君として振る舞っており、それ故に自身も他者から暗殺される危険に怯えていました。
特に食事時などは、毒殺されるリスクが少なからず存在することもあり、光海君も毒見役に当たり散らすなど神経を尖らせていました。
暗殺のリスクを何とかして減らしたいと考える光海君は、国王の意思を臣下達に伝達したり、逆に臣下や民の意見を国王に伝える役割を持つ承政院の都承旨(トスンジ・承政院の長官)の地位にあるホ・ギュンに対し、自分とよく似た影武者を探させろという命令を下します。
しかし、影武者がなかなか見つからない中で、光海君に対する暗殺の脅威はますます増大するばかり。
光海君もホ・ギュンも、光海君の影武者をますます切望するようになっていきます。

そんなある日。
光海君の部下達は、ついに光海君と瓜二つの人間を見つけ出すことに成功します。
その男は、事実上の売春婦に相当する妓生(キーセン)達のたまり場である妓生宿のひとつで、妓生達を相手に国王の道化として振る舞っていたのです。
その道化師の名前はハソン。
目的の人物をついに見つけ出した彼らは、ハソンを家から宮廷に連れ出し、光海君と対面させることになります。
一時は光海君の不興を買う危機に直面しながらも、ハソンは持ち前の機転で逆に気に入られ、当人は乗り気ではなかったものの、光海君の意向により彼の影武者として採用されることとなります。
当初は3日に1度宮廷に赴けば良いとされた影武者役だったのですが、ハソンが最初に影武者を務めた夜の直後、光海君は突如体調を崩し倒れ意識不明の状態となってしまいます。
光海君は政敵から毒を盛られた可能性もあり、彼が死ねば宮廷、ひいては李氏朝鮮そのものが混乱することは必至でした。
事態を重く見たホ・ギュンの判断により、ハソンは四六時中宮廷内で光海君を演じることを余儀なくされるのですが……。

映画「王になった男」は、ひたすら周囲に恐怖と威圧感を与える暴君と、右も左も分からない宮廷でコメディな言動に終始しつつ、次第に王としての風格を持ってくる道化師という、全く異なる役柄を演じきったイ・ビョンホンの好演が光る作品ですね。
全体的にはシリアスな展開ですが、物語中盤はコメディとしても成り立っており、どちらの観点でも一見の価値はあります。
ただ、当時の朝鮮の独特な文化や政治情勢が何の説明もなく当たり前のように作中に挿入されているため、李氏朝鮮の知識がない人が見たら理解に苦しむ描写が少なくないのがやや難点なところです。
その手の歴史用語でマトモな説明があったのは、税制改革の一環である大同法くらいなものでしたし。
また、韓国映画なのですから韓国文化を前面に出すのは良いにしても、当時の宮廷におけるトイレ事情とか、国王の糞便を舐めて健康状態を判断する「嘗糞」なんてシロモノを、しかも全年齢対象の映画で出してくるのは正直どうなのかと。
ウンコを元に製造される「トンスル」なる人糞酒などというシロモノが現代にいたるまで存在する朝鮮では、嘗糞なんて行為も当たり前の文化なのかもしれませんが、朝鮮以外の文化圏の人間は確実に引かざるをえないでしょうに(苦笑)。
嘗糞描写では、試写会のスクリーン内でもどよめきが起こっていましたし、ある程度朝鮮文化を知っている私でさえ「そこまでやるか」と思わずにはいられなかったですからねぇ。
この手の描写って、韓国以外の国で果たして一般受けしえるものなのかと、いささか心配せずにはいられないですね。

また、韓国映画の弊害のひとつである「ラスト30分の展開が暗い」という要素は、今作でも健在ですね。
道化師のハソンは、最終的に李氏朝鮮の宮廷から逃亡を余儀なくされ、船に乗って難を逃れるという結末で終わっていますし。
一応、若干妙な感動エピソードなシーンが挿入されてはいるのですが、基本的な流れは「陰々滅々なまでに暗い」の一言に尽きます。
この辺りは、「マイウェイ 12,000キロの真実」でも似たような流れがありましたし。
何故韓国映画は毎回毎回「暗い結末」な話ばかり作ろうとするのか、全くもって理解に苦しむのですが。
個人的には、ハリウッド映画によくある「爽快感に満ちたハッピーエンド」的な終わり方をする方向で作品を製作していった方が、韓国のみならず他国でも一般受けしやすい映画ができるのではないかと思えてならないのですけどね。
アクションシーンとか演出面などは結構良いものを持っているのですから、ストーリー展開の問題を改善さえすれば、韓国映画はもっと飛躍しえる可能性があるはずなのですが……。

韓国映画として見た場合、今作は過去2作と比較しても意外なくらいに良く出来ている部類に入るとは思います。
ただ、これがハリウッドや躍進著しい日本映画に対抗しえる作品なのかというと、やはり首を傾げる評価にならざるをえないところですね。
内容的に見てもあまり万人向けに作られているとは言い難く、明らかに人を選ぶ映画なのですし。
ただでさえ今週は「ダイ・ハード/ラスト・デイ」などの大作が目白押しなのですし、また昨今の日韓関係の悪化という政治事情もありますから、興行収益的には結構厳しい戦いを強いられる映画と言えそうです。


コメント一覧

sanae (03/27 23:26) 編集・削除

失礼いたします。

ファンなので何回見ても飽きません。
時代劇苦手な人にも‥
どなたでも普通に楽しめる映画だと思いました。

http://blogs.yahoo.co.jp/sanae11000

冒険風ライダー(管理人) (03/28 00:39) 編集・削除

>sanaeさん
確かに品質的に悪い映画ではないのですが、全体的に見ればやはり暗いストーリーと、嘗糞をはじめとする朝鮮文化の描写は、人を選ぶ要素が少なからずあるのではないかと。
ハリウッド映画のようにスッキリした爽快感を伴うエンドであれば、まだ「観れる」人も多いでしょうけど。
ああも韓国独自の「色」を出していたら、韓国以外ではやはり受けにくいところはあるのではないかなぁ、というのが私の感想でしたね。

http://www.tanautsu.net/

週刊少年ジャンプのイロモノ漫画「究極!!変態仮面」が実写映画化

かつて週刊少年ジャンプで連載されていたマンガ「究極!!変態仮面」が、「HK/変態仮面」というタイトルで実写映画化されるとのことです。
全国的な劇場公開は2013年4月13日なのだそうで↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0050235
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 1990年代に「週刊少年ジャンプ」誌上で連載され、常識を超越したヒーロー像が話題を呼んだ人気コミックを実写化した『HK/変態仮面』の公開が決定し、予告編も公開された。原作を「世界で最も愛する」という俳優・小栗旬の声掛けをきっかけに実現した企画で、小栗は脚本協力に名を連ねる。
>
>  原作の「究極!!変態仮面」は、1992年から1993年まで連載された、あんど慶周のギャグ漫画。SMの女王である母と刑事でドMの父を持つ男子高校生・色丞狂介が、女性のパンツをかぶった正義のヒーロー「変態仮面」となり、悪と戦う姿を描く。頭のパンツに、ブリーフと網タイツという変態仮面のビジュアルや、「それはわたしのおいなりさんだ」などの名セリフが、ジャンプ読者の間で一大ブームを巻き起こした。
>
>  
実写化のきっかけとなったのは人気俳優の小栗旬。自身のラジオにあんどを呼ぶほどの原作ファンで、本作の映画化を熱望する小栗の気持ちに、福田雄一監督が共鳴し、映像化に挑むことになった。脚本の打ち合わせで小栗は、パンティーをかぶる衝動を抑えられない変態仮面ならではの哀しみや、変態的で風変わりなアクションの再現に本格的に取り組むことの重要性などを、熱く語ったという。
>
>  変態仮面を演じるのは、そんな小栗が「ほかには考えられない」と指名した鈴木亮平。役のため1年にわたる肉体改造に取り組んだという鈴木は、「迫力ある生身のアクションはもちろん『俺は変態じゃないんだ!』という思春期の悩みに苦しむ少年の心を真摯(しんし)に演じきりたい」とコメント。またヒロイン・愛子を演じるのは「仮面ライダーフォーゼ」の清水富美加。鈴木の肉体を「ほんとに良い体で、気分はエクスタシー! でした」と振り返る清水は、清純派の役に抵抗があったとしながら「女の子女の子した子はこんな感じ! としゃべり方や仕草を気にしながらやるのは面白かったです」と語っている。
>
>  予告編では、忠実な再現度の変態仮面に感心させられるばかり。映画『コドモ警察』『俺はまだ本気出してないだけ 』を手掛けるなど、人気監督として活躍する福田監督が、この変態的な世界観を小栗や、キャスト陣とどのように再現するのか、公開が楽しみだ。(編集部・入倉功一)
>
>
映画『HK/変態仮面』は4月6日より新宿バルト9にて先行公開 4月13日より全国公開

週刊少年ジャンプの中でも相当なまでにイロモノかつマイナーな作品を、しかもよりによって実写映画化とは、小栗旬の「究極!!変態仮面」への愛情はなかなかに凄まじいものがあると言わざるをえないですね(苦笑)。
「究極!!変態仮面」は連載が1年弱と短かった上、内容がPTAから目の敵にされても不思議ではないほどに過激過ぎたために、これまでアニメ化すらもされていないのが実情だったというのに、ひとっとびに実写化を達成したというのですから。
アニメ化よりも実写化が先行した事例としては「デスノート」があるのですが、これは元々社会現象を起こしたほどの人気作品だった上、内容的にもアニメより実写向けの作品だったことが大きかったのに対し、「究極!!変態仮面」はどう考えてもアニメの方が向いている作品でしょう。
女性のパンティを顔に被って活躍する、などという設定自体が何らかの規制に引っ掛かりそうなシロモノでしかないのですし(爆)。

まあ、宣伝効果や話題性としては面白いものがあると思うのですが、原作ファンや映画ファンにとって問題なのは「映画そのものの出来が如何なるものなのか?」ですね。
いくら奇抜な宣伝で衆目を集めたとしても、内容がゴミであれば論外もいいところなのですし。
ただ私としては、内容がどうであれネタとしては面白そうな感じではあるので、熊本でも公開されるのであれば観に行こうかとは考えてもいるのですが。
小栗旬の決断が果たして吉と出るか凶と出るのか、注目の作品ですね。


映画「脳男」感想

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映画「脳男」観に行ってきました。
首藤瓜於の同名小説を原作とする、生田斗真主演のバイオレンス・ミステリー作品。
バイオレンスの名が示す通り、今作は人から切り取られた舌の描写や、爆弾で阿鼻叫喚の地獄絵図のごとく人が次々と死んでいくなどといった描写があったりするため、PG-12指定されています。

今作の主人公は、とある病院で精神科医を務めている鷲谷真梨子(わしやまりこ)。
今作における彼女は、「脳男」の精神鑑定と正体を突き詰める役を担っています。
ある日、仕事から帰ろうとしていた鷲谷真梨子は、バスに乗り込もうとするもギリギリのところで間に合わず、バスに乗っていた小学生達にからかわれながらバスを見送る羽目となります。
元来自分が乗るはずだったバスを見送っていたところ、彼女は次にバスが停車したバス停で、口に血の跡がついている女性が乗り込む姿を目撃します。
その女性を乗せ、バスが出発した次の瞬間、突如バスは轟音を立てて爆発炎上!
しばらくは周囲の人間共々茫然としていた鷲谷真梨子でしたが、バスからよろよろと歩き出てきた子供を見るや、ハッと我に返り子供の元に駆け付け、「早く救急車を!」と叫び始めます。
周囲は騒然となり、ただちに警察による現場検証が開始されました。
しかし、事件の物珍しさもあってか、周囲の野次馬達は携帯を片手に現場の写真を撮ろうとするありさま。
現場検証に当たっていた刑事のひとり・茶屋(ちゃや)は、そんな野次馬に腹を立て、野次馬のひとりが現場に向けていた携帯を取り上げ、その場で叩き壊してしまいます。
当然、周囲は彼に非難の目を向けるのですが、彼は平然としていました。
茶屋は、今回の事件を起こした犯人を憎悪し、何が何でも自分で検挙すべく、執念を燃やしていたのでした。

今回の爆破事件は単独で発生したものではなく、個人をターゲットとし、そのターゲットの舌を切り取った上で爆殺するという同じ手口が既に何度も実行されていた、連続性・関連性の極めて強いテロ事件でもありました。
事件で使用されている爆弾はありふれた市販の製品を元に構成されており、物流ルートの追跡が事実上不可能であることから、警察の捜査は難航していました。
しかし、爆発物のスペシャリストである黒田雄高の調査結果により、爆弾製造の際に特殊な素材が使用されていることが判明し、これが容疑者を割り出す大きな手掛かりとなります。
その特殊な素材の購入者リストを入手した茶屋は、ひとりずつ購入者を洗い出していき、ついに有力な容疑者とそのアジトの割り出しに成功するのでした。
部下の広野と共にアジトへと向かう茶屋。
アジトでは侵入者を想定していたのか、入口に爆弾が設置されており、ドアを開けると同時に爆発に巻き込まれた広野は、2階から地面に叩きつけられてしまいます。
重傷ながらも意識はある広野の無事を確認した茶屋は、アジトの中でひとりたたずむ男に対し銃を向け、爆破事件の共犯者としてその身柄を確保することになります。
連続爆破事件があまりにも犠牲が大きく異常性のあるものであったことから、その男は精神科医による精神鑑定を受けることになりました。
その精神鑑定を受けることとなったのは鷲谷真梨子。
彼女は、鈴木一郎という露骨な偽名を名乗るその男の鑑定結果に興味を持ち、彼の素性を調べ上げていくことになるのですが……。

映画「脳男」は、「脳男」に出会いその正体や誕生に至るまでの経緯を把握するためのパートと、「脳男」と警察と爆破テロ犯との3つ巴の戦いが繰り広げられるパートの2つに分かれるストーリー構成となっています。
前半は、主人公である鷲谷真梨子、および「脳男」こと鈴木一郎(本名:入陶大威(いりすたけきみ))の過去や生い立ちなどがメインで語られており、どちらかと言えばやや退屈な展開が続きます。
一応、ミステリー的な謎解き要素を入れることで、話にそれなりの起伏や演出を盛り込んではいますが。
そして後半、特に病院が爆弾魔に襲撃されてからは、とにかく緊迫感に満ちたストーリーが展開されることになります。
派手な爆破シーンやアクションシーンがてんこ盛りな上、誰が最終的に勝つのか全く予測不可能な話の進め方でしたし。
世界観の解説に終始する前半とアクションメインの後半という今作の構成は、映画「インセプション」と比較的良く似た構成であると言えるでしょうか。
映画の製作者達も、宣伝などで「衝撃のラスト30分」と豪語していましたが、確かにそれにふさわしい出来ではありましたね。

個人的に「ちょっとそれは違うだろ」と考えずにいられなかったのは、鷲谷真梨子が数年?かけて更生させ社会復帰させた自分の弟を殺した犯人を「脳男」が殺した際の、鷲谷真梨子の激情ですね。
あの犯人は、上辺だけの更生した態度を見せつけることで鷲谷真梨子を騙していたのであり、「脳男」があの犯人を殺害していなかったら、かつて弟が殺された時の惨劇を、しかも彼女自身の手で再現することにもなりかねなかったのです。
にもかかわらず、鷲谷真梨子が殺された犯人ではなく「脳男」に対して「私が長年かけて築いてきたものを壊した」などと怒りをぶつける光景は、「脳男」にしてみれば八つ当たりもいいところだったでしょう。
あの犯人が再び犯行を繰り返すことを見抜けなかったのは明らかに鷲谷真梨子の大失点だったのですし、それは精神科医としての自身の責任を問われ、下手すれば自分の地位も立場も失いかねないほどのものですらあったはずです。
もし「脳男」があの犯人を殺さなかったら、鷲谷真梨子はまさにそういう立場に追いやられていたかもしれないのですし。
自分の無能と見る目の無さを、綺麗事を並べて誤魔化していた以外の何物でもなかったのではないですかね、あの時の鷲谷真梨子の態度は。
その前にも鷲谷真梨子は、爆弾魔を殺そうとしていた「脳男」を制止して動きをとめ、ここぞとばかりに爆弾を起爆させようとした爆弾魔の行動によって、結果的に自分達を危険に晒すことにもなっていたのですし。
何というか、作中後半における鷲谷真梨子は、「無能な働き者」の代名詞な言動に終始していたと言っても過言ではないのではなかったかと。

ミステリーとして見てもアクションシーン等の演出面でも、映画館で見てまず損はない良作ですね。


映画「恋する歯車」感想

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映画「恋する歯車」観に行ってきました。
「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」シリーズで活躍してきた若手俳優達にスポットを当てる映画シリーズ「TOEI HERO NEXT」の第三弾。
今作では、「海賊戦隊ゴーカイジャー」に出演していた俳優達にスポットが当てられています。
同シリーズの第二弾「ぼくが処刑される未来」と同じく、上映される映画館も少なくマイナーな作品ではあるみたいなのですけどね(T_T)。
作中ではセックスを連想させる微妙な描写の他、血を流して死んでいる人間の描写等もあることから、PG-12指定されています。

今作の主人公で弁護士志望の大学院生・高岡祐市は、ある日突然両親を事故で失ってしまったことから、チンピラに喧嘩を売るなどの自暴自棄な生活を送っていました。
その日も、複数のチンピラ達にボコボコにされているところを、通りがかった警官に助けられる始末。
その警官は、元警察官であった死んだ父親の元部下だったということもあり、「いざという時にはここに連絡して」と高岡祐市相手に世話を焼くなどの親切ぶりを披露していました。
結果、高岡祐市はボロボロになった身でありながら、警察の世話になることもなく帰宅の途につくことができていました。
しばらく道を歩いていると、高岡祐市は、道路に飛び出したひとりの女性がそのまま道の真ん中で立ち尽くしている光景を目撃します。
さらにそこへ、お約束のごとく大型トラックがスピードを出し、女性めがけて突っ込んできました。
高岡祐市は女性を助けようと自分も道路に飛び出し、間一髪のところで女性を突き飛ばし大惨事を回避することに成功します。
助かった女性は自分の事情や自殺に至るまでの経緯については何も語ろうとしませんでしたが、自分を助けてくれたことについては、高岡祐市にキスし礼を述べることで応じるのでした。
その女性の名は藤島リサ。
これがきっかけとなり、2人は交際する関係となり、次第にその仲を深めていきます。

そんなある日、高岡祐市の両親の死後49日が経過したことから、高岡家では父母の生前の知り合いや親族等を集めて49日法要が行われていました。
その最中、高岡祐市は「両親の死に際しての事故報告書で、ブレーキ痕の形跡がない」という不審な内容に疑問を抱きます。
そこで彼は、法要を取り仕切っていた父親の元同僚で現職の警察官である曽根隆三に警察内部での調査を依頼。
また事故報告書によれば、両親が乗っていた車は、時速75㎞ものスピードで交差点の角に激突していたとのことだったのですが、高岡祐市が直接事故現場に赴いてみると、そこは極めて狭い道路の交差点であり、普通に運転していて時速75㎞ものスピードが出せるような場所ではなかったのです。
やがて高岡祐市は、両親の死そのものに対し疑問を抱くようになっていくのですが……。

映画「恋する歯車」は、派手なアクションなどの演出はおよそ皆無で、どちらかと言えばミステリーな謎解きが醍醐味な作品ですね。
最初はいくつもの謎が次々と出現しつつ、わけが分からないままに翻弄されるのですが、物語後半でちりばめられた謎がこれまた次々と解明されていくという構図が展開されています。
ただ正直、ミステリーとしてはあまりにも色々なものを詰め込みすぎている感が否めないところではあります。
25年前の事件を隠蔽するために、殺人はもちろんのこと、25年近くにわたって家を監視する警察とか、そのためにわざわざ恋人に偽装した監視役までつけるとか、当事者以外の人間が聞いたら誇大広告の陰謀論も甚だしいことを、しかし作中の公安警察は大真面目にやっていたりしますし。
警察もまあ、昔の汚点を隠蔽するためとはいえ、ずいぶんとまだるっこしいことをやっているなぁ、と見ているこちらの方がツッコミを入れずにいられなかったのですけどね。
元々作中の警察は、犯罪捜査や真実の隠蔽のためならば手段を問わず、殺人も拷問でさえも躊躇しない集団として描かれているのに、わざわざ25年も監視「のみ」を続けなくてはならない理由が必然性が一体どこにあったというのでしょうか?
あんなことをするよりも、25年前に事件の関係者一同を全員殺してしまっていた方が、事件の隠蔽という観点から言っても、面倒な手間やゴタゴタを事前に抑止するという観点から見ても上策だったでしょうに。
25年前に高岡祐市が高岡家に引き取られた理由も、養父たる高岡宏則の個人的な「罪滅ぼし」でしかなかったのですし、高岡祐市を殺してはいけない理由自体がないに等しいのですが。
そのくせ25年後になると、今度は高岡家の面々を殺すことに何の躊躇もないときていますし。
どうにも作中の警察は、悪逆な組織であるかのごとく描かれている割には、肝心なところで冷酷に徹しきれない中途半端ぶりが浮き彫りになっているとしか評しようがありませんでした。
物語のラストで高岡祐市に銃を発砲しその場で倒しておきながら、それを介抱していたリサも口封じに一緒に殺そうとしたのを制止した行為も意味不明でしたし。
主人公死亡?のためにほとんどバッドエンド的な終わり方になってしまったことも含め、あのラストシーンは映画の評価を大きく下げるシロモノにしかなりようがなかったですね。

また、日本に革命をもたらすために活動しているという、一昔前の左翼学生運動を髣髴とさせるテロ組織も、関口琢馬の狂人ぶりが前面に出過ぎていて、狂信的な過激派以上のものが今ひとつ伝わりにくいものがありますね。
一応彼らも、警察の陰謀論や監視の仕掛けを見破るだけの知識や能力は持っているわけですし、もう少し冷静沈着かつ警察に対抗しえるだけの存在として描く余地は充分にあったのではないかと思えてならないのですが。
ある意味「古典的」な警察の悪逆描写と併せ、昔懐かしい左翼思想のノスタルジアをベースに今作の脚本は制作されたのではないかとすら思えてしまうほどに、ストーリー構成や設定面については時代錯誤かつチープな内容もいいところでしたね。
それこそ25年前に今作が製作・公開されていたら、あるいは「時代のニーズと合致した作品」として大ヒットしえたのかもしれませんが(苦笑)。

ところで、細々とながらも上映されてきた「TOEI HERO NEXT」シリーズというのは今作で終了、ということになるのでしょうか?
前回のシリーズ作品である「ぼくが処刑される未来」では、エンドロール後に今作の次回予告みたいな特典映像が出てきていたのですが、今作にはそれが全くなかったんですよね。
となると、「TOEI HERO NEXT」シリーズは今作で打ち止め、という可能性も大いに考えられることになってしまうのではないかと。
まあ、劇場公開される映画館の数からして全国20箇所程度、しかも公開時期も2~3週間あるかどうかというレベルでは、興行収益的な観点から見ても採算が取れるようにはまるで見えないのですし、いつ打ち切りになっても何の不思議もないシリーズではあるのですが。
正直、次代の映画俳優を育成するための映画作品というコンセプト自体は必要な部分もあると思いますし、個人的にはもう少し続けてもらいたいところではあるのですけどね。


映画「ゴーストライダー2」感想

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映画「ゴーストライダー2」観に行ってきました。
マーベル・コミックの同名マンガを原作とする、ニコラス・ケイジ主演のホラー・アクション映画「ゴーストライダー」の続編作品となります。
ただ、続編とは言っても、前作を観賞せずとも楽しめるストーリー構成にはなっていたりします。
……あまり良くない意味において、ではあるのですが。

前作から8年後。
東ヨーロッパの断崖絶壁のような場所にある修道院に、バイクに乗ったひとりの男がやってきました。
モローと名乗るその黒人風の男は、その修道院が匿っているダニーという名の少年を、ただちに「聖域」と言われる場所へ移送するよう要求します。
その子は悪魔が狙っており、ここは今すぐにも悪魔の襲撃を受ける危険がある、と。
修道院側は圧倒的に有利な地の利と近代設備があるから大丈夫だろうと主張するのですが、その直後、修道院は本当に襲撃を受けてしまいます。
安全だったはずの修道院はあっさり壊滅してしまい、モローはダニーを死守すべく襲撃者と単独で一戦交える羽目に。
一方、襲撃者がターゲットしていたダニーは、母親のナディアと共に修道院を脱出。
襲撃者達はただちにダニーの追撃を開始しますが、その襲撃者をさらに追ってきたモローの必死の妨害により足止めをされてしまい、ダニーを逃がすこととなってしまうのでした。

その頃、前作から引き続き主人公のジョニー・グレイズは、アメリカから遠く離れ、東ヨーロッパの一角に身を潜めるような生活を送っていました。
そこへ、修道院で襲撃者達を妨害した際に断崖絶壁に落ちていったモローがやってきます。
警戒感を露わにするジョニーでしたが、モローはジョニーが「ゴーストライダー」であること、そして彼がゴーストライダーの暴走に悩まされていることを喝破した上で、ジョニーに対しダニーを守るように依頼を持ちかけるのでした。
そして、依頼が達成されれば、ジョニーにかけられた「ゴーストライダーの呪い」から解放してやる、とも。
一方、修道院から逃走していたダニーとナディアは、修道院を襲撃したのと同じキャリガン一派に見つかってしまい、今まさに囚われの身になろうとしていました。
そんな中、悩んだ末にジョニーはモローの依頼を受けることを決心し、ダニーを守るべくゴーストライダーに変身してダニーの元へと急行するのですが……。

映画「ゴーストライダー2」は当然のことながら前作「ゴーストライダー」の続編であるはずなのですが、前作とのストーリー的な整合性がなく、また設定も前作とは大きく異なっている部分が多々あります。
今作のために私は前作の「ゴーストライダー」も事前に観賞していたのですが、それと比較してみると「こんな設定あったっけ?」と首を傾げたくなるシーンがしばしば展開されていたりするんですよね。
序盤で早くも判明するその手の設定の齟齬の第一手は、前作でジョニー・グレイズがゴーストライダーの契約を悪魔メフィストと結んだ際の回想シーンです。
今作の回想シーンでは、悪魔メフィストとの契約の際、ジョニーが自分から契約書に血をバラまき、契約が成立した様が描かれています。
しかし前作におけるジョニーは、巻き物状になっていた契約書を広げる際、誤って自分の指を切って契約書に血をつけてしまったに過ぎないのです。
また、ジョニーが父親を助けたいがためにゴーストライダーの契約を交わしたのは前作と同じなのですが、作中では真の動機として「それは父親のためではなく、父親と一緒にいることを願った自分のためだった」と告白するシーンがあります。
しかし前作におけるジョニーは、元々父親とは仲が良くなかった上、病気のことを知る前には恋人と駆け落ちをする約束まで交わしており、父親の回復後には父親と決別する気満々だったのではないかというフシが多大なまでに伺えるのですが……。
回想シーンと前作における実際の契約の描写がまるで違っていて、「何故こんな変なことをやっているんだ?」と疑問に思わずにはいられませんでした。
その理由はどうやら、前作と今作で悪魔メフィストを演じている俳優さんが異なっていることにあるようなのですが。
前作で悪魔メフィストを演じたのはピーター・フォンダという俳優だったのですが、今作でその役を担っているのはキーラン・ハインズという全くの別人だったりします。
当然、その外見も姿形も全くの別物で、この2人が同一人物と断じるのはほぼ不可能なレベルなんですよね。
というか実際、前作と今作を立て続けに観賞した私自身、物語終盤までこの2人が同一人物とは全く考えておらず、終盤付近におけるジョニーとメフィストの会話でやっとその事実を把握したくらいでしたし。
前作と今作で同じ登場人物を出すのであれば、俳優もまた前作と同じ人にして欲しかったところだったのですけどね。

また、ジョニー・グレイズがゴーストライダーから解放されたがっているという作中の設定にも違和感があります。
そもそもジョニーは、前作のラストシーンで「契約は達成されたからお前の呪いを解いてやろう、君は自由だ」と申し出たメフィストに対し、「この呪いは俺が背負っていく、そしてこのゴーストライダーの力でお前を倒す」と啖呵を切って拒絶していたはずではありませんか。
このラストシーンから考えれば、今作でジョニーが「ゴーストライダーの力」を疎んじ、その呪いから解放されたいと願うこと自体がおかしな話であると言わざるをえないのです。
ジョニーの目的だった「ゴーストライダーの力を使ってのメフィストの打倒」は全く達成されていなかったのですし。
にもかかわらず、その目的も達成されないままに「ゴーストライダーの呪い」からの解放を切望し、それが達成されると喜びまくっていたジョニーの描写は、何とも支離滅裂なものがあるとしか評しようがありません。
メフィストを倒した後に「ゴーストライダーの呪い」からの解放を願う、というのであればまだ理解できなくもなかったのですが。
まあ最大限好意的に解釈すると、前作から8年もの歳月が経過したことで、ジョニーの精神も摩耗してしまっており、目的を見失い精神的な挫折状態にでもあったのかもしれないのですが、この期に及んでそんなことを考えるくらいならば、前作のラストでメフィストの申し出を素直に受けていれば良かったじゃないか、と当然のごとく私はツッコミを入れずにいられなかったですね。

さらに、ゴーストライダーの特性自体も大きな変更点が発生していたりします。
ゴーストライダー最大の武器である「贖罪の目(ペナンス・ステア)」の描写がなくなり、使用武器はほぼ「地獄の炎(ヘルファイア)」オンリーとなっています。
その代わり、巨大なクレーン車やトラックなどを炎で包み込んで敵を攻撃する描写が追加されてはいましたが。
そして何よりも大きな変化は、物語終盤でゴーストライダーが陽の光が出ている中でも堂々と活動できていたことにあります。
前作のゴーストライダーは、太陽の光に当たるとゴーストライダーの変身が解除されジョニー・グレイズに戻ってしまうという問題があり、彼の活動時間は夜がメインだったのですが、今作の終盤では太陽が出ている朝の時間帯に敵とカーチェイスを繰り広げていたりします。
一体いつの間に陽の光の弱点がなくなったんだ、と疑問に思わずにはいられなかったところですね。
こちらの場合は、一度「ゴーストライダーの呪い」から解放されたジョニーが再度ゴーストライダー化を望み、悪魔の力を覚醒させつつあったダニーによってそれが実現するという描写があったので、その際に陽の光の弱点も解消されていたのかもしれませんが。
この辺りも、作中では説明がまるでないので非常に困惑させられたものでした。
今作の映画製作者達は、今作を製作する際に映画版の前作の流れをきちんと踏まえていたのだろうか、という疑問符すらつけざるをえないですね。

確かに今作は、前作を観賞していなくても充分に楽しむことができる構成にはなっていると言えるでしょう。
何しろ、前作との繋がりや整合性がまるでないのですから、むしろ前作を観賞する方が混乱させられることにもなりかねないわけで(苦笑)。
作品単独としてはともかく、作品毎に相互の時系列や関連性のあるシリーズ物としては完全に失格な出来なのではないですかね、今作のシナリオ構成は。


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暇でして (09/21 04:40) 編集・削除

ゴーストライダー2は前作の続編ではなくリメイクのようなもの。
そもそも始めに契約している悪魔の名前が違うことから
全くの別物と考えていいのでは?
「ゴーストライダー2」は日本の映画宣伝会社が前作を詳しく調べず勝手に付けた名前であり正しくは「ゴーストライダー: 復讐の精霊」と・・・・・まぁ宣伝係がやらかしたということです。

映画「ムーンライズ・キングダム」感想

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映画「ムーンライズ・キングダム」観に行ってきました。
1960年代、アメリカ北東部に浮かぶ小さな島を舞台に、一組の少年少女の行動とそれに振り回される大人達の姿を描いたコメディドラマ。
「ダイ・ハード」シリーズのブルース・ウィリス、「ゴーストバスターズ」シリーズのビル・マーレイなどといった豪華俳優が出演しています。
ストーリー自体はほのぼのとした展開ではあるのですが、作中では犬が矢に射抜かれ殺されている光景や、微妙なエロネタがあったりするため、PG-12指定されています。

アメリカ北東部のニューイングランド沖に浮かぶ、全長26㎞程度の小さな島・ニューペンザンス。
その島の西部に位置するサマーズエンドという地区に建てられている赤い家に、スージー・ビショップという12歳の少女が住んでいました。
彼女は、本を読んだり双眼鏡で自宅の周囲を観察したりすることを趣味としていましたが、やたらと厳格な父親と口うるさい母親、そして一日中管弦楽の音楽を聴き続いている3人の弟の存在に日々閉口していました。
そんな彼女の生活は、同じ島にあるカーキ・スカウトのキャンプ場で、ひとりの隊員が「スカウトを抜ける」との書き置きを残して脱走したことから一変することになります。
脱走から遡ること1年前、彼ら2人は「ノアの方舟」の演劇が行われている楽屋で出会ったのをきっかけに意気投合し、1年間の文通を通してついに2人で駆け落ちを決行するに至ったのでした。
サムはカーキ・スカウトのキャンプ場からサマーズエンドまでひとりで歩き続け、スージーとの邂逅しそのまま2人で道なき道を進み始めるのでした。
事情を知ったカーキ・スカウト、およびビショップ家の面々は、島唯一の警官であるシャープ警部に事の次第を伝えると共に、2人を探し出すべく行動を起こします。
島を上げて2人を捜索する捜索隊と、人目を避けるように島を渡り歩く少年少女のサバイバルな探検がここに始まることとなるのですが……。

映画「ムーンライズ・キングダム」のタイトル名の由来は、駆け落ちした2人が逃避行の末にたどり着いた、ニューペンザンス島の中央北部にある入り江の浜辺にあります。
そこは元々「3.25海里 潮流口」などという、およそ地名とも言い難い散文的な名前で呼ばれていた場所だったのですが、その名前が気に入らなかった2人が代わりに名付けたのが映画のタイトルだったというわけです。
その場所は一応、2人が初めてダンスを踊りキスを交わし、一夜を共に過ごした場所でもあったので、思い出の地ということで映画のタイトルにもなったのではないかと。
ただその割には、作中における扱いがどうにも小さかった感は否めなかったところなのですが。
作中におけるあの場所の扱いがそこまで重要なものだったことが理解できたのは、サムがスケッチであの場所を描いていたラストシーンからでしたし。
あの場所で大人達に見つかり連行された後もさらに物語は続き、第二の逃亡先となった隣の島では疑似結婚式まで上げていたので、浜辺のエピソードよりもそちらの方が重要度は高いのではないかとすら考えていたくらいでしたからねぇ。
12歳であそこまでの行動力があるというのは、ある意味羨望に値することではあるのかもしれませんが、作中の子供達は良くも悪くも「純真」なのだなぁ、とついつい考えてしまったものでした。

あと、今作は1960年代が舞台だからなのか、年端もいかない子供に対してロボトミー手術だの電気ショック療法だのを行うなどといった行為が、作中でも誰に憚ることなく登場人物達によって堂々と語られていたりします。
当時のアメリカって、現代から考えるととんでもない非常識がまかり通っていた時代なのですね。
同じような精神科関係の用語が語られている「シャッターアイランド」「エンジェルウォーズ」なども、今作と比較的近い時代が舞台となっていますし。
複数の作品で同じように語られる傾向にある1900年代半ばにおける精神科系の外科手術療法というのは、現代のアメリカにとってもやはりそれなりに印象に残るダーティな歴史だったりするのでしょうか?
今となっては倫理どころか科学的にも医学的にも完全に間違っているシロモノでしかないのですから、その手の外科手術療法が映画の中で肯定的に語られるわけもないのですが、当時としては一体どんな形で受け入れられていたのでしょうかね、これって。

今作ではブルース・ウィリスとビル・マーレイが出演していたということが観賞を決めた最大の要素となったのですが、個人的にはブルース・ウィリスよりもビル・マーレイの方が期待値は高かったんですよね。
アクションスターとしてではないブルース・ウィリスって、「サロゲート」や「LOOPER/ルーパー」のごとくイマイチな感が否めないところですし。
しかしいざ蓋を開けてみると、ビル・マーレイはイマイチ見せ場がなく、むしろブルース・ウィリスの方が「カッコイイ大人」を演じていましたね。
正直、全く期待していなかっただけに意外な感がありましたが。
それと、ブルース・ウィリス演じるシャープ警部が島を走り回っていた際に乗っていたパトカーが、かつての「ゴーストバスターズ」シリーズで使用されていたクルマと同じ形であるように見えたのは、オマージュを意図したものなのか単なる偶然なのか、ちょっと考えてしまったものでしたね(^^;;)。
同シリーズの主人公を演じたビル・マーレイが出演していることを考えても、まるきり偶然であるようにも見えなかったですし。

豪華俳優が出演してはいるものの、演出や構成などはかなり安っぽく作られている感がどうにも拭えない作品ですね。
出演している俳優さんのファンの獲得を意図して作られた映画である、ということになるのでしょうか。


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sakurai (02/24 09:55) 編集・削除

どんな豪華な役者さんを使っても、安っぽい味わいになるのが、この監督さんの妙というか、ウェス・フィルターと言いましょうか、特徴ですよね。
わりと好きですわ。
この監督さんの純愛ものが見れるとは思ってもいませんでした。

http://blog.goo.ne.jp/sakura1043_2004/

冒険風ライダー(管理人) (02/24 10:56) 編集・削除

>sakuraiさん
私はウェス・アンダーソン監督製作の映画は今作が初めてとなるのですが、1960年代の映画を製作するに当たり、作品構成や映像の質までその時代に合わせているような作りではありましたね。
それが一般受けするのがどうかは微妙なところではあるのですが。

http://www.tanautsu.net/

映画「アウトロー」感想

ファイル 887-1.jpg

映画「アウトロー」観に行ってきました。
イギリスの作家リー・チャイルド原作のハードボイルド小説「ジャック・リーチャー」シリーズを映画化した、トム・クルーズ主演のハードボイルド・アクション大作。
英語の原題は、原作小説と同じ「JACK REACHER(ジャック・リーチャー)」だったのですが、何故これが「アウトロー」なんて邦題に変更されたのでしょうか?
そのままでも良いじゃないか、と思わなくもなかったのですが……。

物語の冒頭は、アメリカ・ペンシルバニア州のピッツバーグ近郊にある公園と川を挟んだ対岸にあるとある駐車場に車を停め、銃を構えて公園の通行人達に狙いを定めるひとりのスナイパーの存在が描かれています。
スナイパーは公園の通行人に向けて総計6発の銃弾を発射し、5人の生命を奪ってその場から車で逃走。
ただちに現場に駆けつけ、狙撃地点となった駐車場の実況検分を開始した地元の警察は、残された証拠品や指紋、監視カメラの映像などから、元アメリカ陸軍のスナイパーであるジェームズ・バーの存在が浮上。
家宅捜索した彼の家でも、監視カメラに映っていた車や、事件で使われていた銃弾など、犯行を裏付ける証拠が次々と出てきたため、警察は一連の事件の主犯をジェームズ・バーと断定し、彼の取り調べを始めます。
しかし、事情聴取を受けているジェームズ・バーは黙秘を続けた挙句、メモに「ジャック・リーチャーを呼べ」などという謎めいた文字を書き綴ります。
その直後、ジェームズ・バーは、収監されていた刑務所で他の囚人達から暴行を受け意識不明&記憶喪失状態に。
一方、警察はメモに書かれていたジャック・リーチャーという名の人物について調べ始めるのですが、経歴は判明したものの、現在も含めたここ2年における足取りがまるで掴めない状態が続いていました。
ジェームズ・バーが昏睡状態となり、捜査が止まってしまった警察が悩んでいる中、何とジャック・リーチャーを名乗る人物がジェームズ・バーに面会しに警察へやってきたというではありませんか。
すぐさま警察はジャック・リーチャーにジェームズ・バーのことを聞き出そうとするのですが、それを制止した人物がいました。
それは、警察のお偉方のひとりであるアレックス・ロディンの娘でジェームズ・バーの弁護人でもあるヘレン・ロディン。
彼女は、自分の許可なくジャック・リーチャーとジェームズ・バーを立ち合わせた父親と警察の非を問い詰めて退散させると、ジャック・リーチャーに対し、自分が担当することになったジェームズ・バーの弁護の手助けをしてほしいと持ちかけます。
しかし、当のジャック・リーチャーは、別にジェームズ・バーの無罪を信じているわけではなかったのです。
それどころか、連続狙撃事件の真犯人がジェームズ・バーであることを疑っておらず、自分の手でジェームズ・バーを殺そうとしていたとすら告白する始末。
ただ、ヘレン・ロディンを介してジェームズ・バーのことを調べることについてはジャック・リーチャーにも異存はなく、かくして彼はヘレン・ロディンの下でジェームズ・バーと連続狙撃事件について調べていくことになります。
しかし、そのことを快く思わない勢力が蠢き始めて……。

映画「アウトロー」では、無差別狙撃事件の犯人と目された人物の嫌疑を晴らすべく、主人公ジャック・リーチャーとヘレン・ロディンの2人が真相を暴くべく奔走するという構図がストーリーの基本ベースとなっています。
しかしそのためなのか、物語の序盤から中盤頃にかけては、事件の現場検証と聞き込みをひたすら行っていく地味な作業とミステリー的な推理描写がメインなんですよね。
トム・クルーズ主演作品にしては、なかなかアクションシーンが出てこない映画と言って良く、かろうじて繰り広げられるそれも、これまでの作品と比較すると何とも地味過ぎる感がどうにも否めなかったですね。
敵の数自体が少ない上に、明らかに無名かつ雑魚な敵の後方からの奇襲であっさりダウンさせられたり、カーチェイスで車がエンストを起こして再起動に必死になっていたりと、ある意味現実的ではあるがカッコ悪いシーンが描写されていたりもしましたし。
原作からしてそうなのかもしれないのですが、これまでのアクション映画で開陳されていたようなトム・クルーズの「圧倒的な強さ」を今作でも期待していただけに、個人的には少々肩透かしを食らわざるをえなかったですね。
まあこれについては、比較対象がどうして直近の作品である「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」にならざるをえなかったりするので、仕方ない一面もあるのですが。

一方で、作中におけるジャック・リーチャーの推理は、裏稼業に携わる人間ならではの発想ではあったにせよ、一見奇想天外ながらもミステリー的な王道に沿ったものとなっています。
これを見ると、今作はアクション要素ではなく「トム・クルーズがミステリーに挑戦!」的なキャッチフレーズで宣伝広報を繰り広げていた方が、映画の実態を的確に表現できていたのではないかと思えてならなかったですね。
トム・クルーズ的にも、今回の映画は一種の新境地開拓的なものがあったのでしょうし。
原作小説たる「ジャック・リーチャー」シリーズは現時点で17巻ほど刊行されているとのことで、それから考えても今作は、今後も続編があることを前提として作られた映画であることは一目瞭然でしょう。
しかしその1作目が、それもトム・クルーズ主演でありながらここまで地味というのは、先行き不安な要素を窺わせるに充分なものがあります。
今後も続編を製作するのであれば、もう少し派手なアクションシーンを挿入していかないと、映画の出来に影響するだけでなく、トム・クルーズの持ち味的なものも生かせないのではないかと思えてならないのですが、どんなものなのでしょうか?

トム・クルーズのアクションや活躍を期待してみると、期待外れに終わること間違いなしの作品ですね。
ミステリー的な推理物や「ジャック・リーチャー」シリーズとして観る分にはまた違った評価もあるかもしれませんが、全体的な評価としては「過大な期待は禁物」といったところになるでしょうか。


2012年における邦画の年間興行収益

日本映画製作者連盟が発表した2012年の全国映画概況によると、邦画の興行収益が2000年以降最高の額となる約1282億円を記録したとのことです。
しかも邦画の興行収益については、5年連続で洋画のそれを大きく上回ったのだそうで↓

http://megalodon.jp/2013-0201-1846-23/sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130130/ent13013016270010-n1.htm
>  日本映画製作者連盟(映連)は30日、2012年の全国映画概況を発表した。邦画の興行収入(興収)は前年比28.8%増の約1282億円を記録し、興収ベースで発表を始めた2000年以降で最高となった。
>  
>  洋画と合わせた興収総額は約1952億円で、7.7%増。
興収総額のうち、邦画が占める比率は65.7%で、5年連続で洋画を上回った。
>  
>  作品別では邦画1位の「BRAVE HEARTS 海猿」(73億3千万円)をはじめ、50億円を超える作品が5本。うち洋画は「ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル」(53億8千万円)のみだった。
>  
>  公開本数は昨年から184本増えて983本になったが、映画館で上映する演劇や音楽などの映像作品が増加したためとしている。

この近年の邦画の躍進ぶりは、「邦画は駄作の代名詞」とまで言わしめた1990年代の惨状を知る人間の視点から見ると、「時代は変わった」レベルで隔世の感がありますねぇ。
何しろ、1990年当時の邦画は、「日本文化を強調する外国向けの芸術作品」か「『日本は全て悪かった』的な爽快感の欠片もない反戦・啓蒙映画」のどちらかしか作れなかった感が多大なまでにあったのですから。
何故あそこまで駄作しか作れなかったのか、つくづく疑問に思えてならなかったですね(T_T)。
当時は「日本映画はエンタメを製作できる能力そのものがない」とまで酷評していたくらいですし、「いっそハリウッドを丸パクリして映画を作った方が却って受けるのでは?」とすら考えたことがあったほどでした。
いくら映画産業がテレビの台頭などで斜陽の憂き目に遭っていたとはいえ、当時の映画の衰退ぶりはあまりにも異常過ぎましたね。
一体どうやったらあそこまで支離滅裂になりえるのか、と逆に疑問すら抱いてしまったくらいでしたし。
1990年代でもハリウッドは頑張っていたわけですし、邦画「だけ」が衰退しなければならない理由はなかったはずなのですが。
2000年代に入って以降の邦画の再台頭は、テレビ局が映画を担うようになったことで邦画の質が上がってきたこともさることながら、シネコンの普及が何よりも大きかったのでしょうけどね。

とは言え、興行収益で見ればともかく、映画の本数では未だに洋画の方が邦画のそれよりも多いような感じではあるのですけどね。
シネマトゥデイなどの映画ラインナップを見ても、そこに並んでいるのは洋画の方が圧倒的に多いのですし。
熊本の映画館でも洋画タイトルの方が邦画よりもよく見かけますし、私個人の年間映画観賞でも、常に洋画の方が邦画よりも数が多いという状態が続いていたりします。
あれらのラインナップを見ると、未だ洋画の方が邦画よりも元気なようにすら見えるだけに、興行収益で見れば洋画よりも邦画の方がはるかに上というのは少々驚きな話ではあるのですけどね。
数も多ければ宣伝も派手なはずの洋画が、邦画よりもはるかに少ない興行収益に終始しているというのは、商業的な問題から見ても正直どうなのかと。
洋画を上映するよりも、邦画を積極的に製作して映画館とタイアップでもした方が、すくなくとも日本では金儲けできるのではないか、と昨今の映画事情を見る限りでは思わなくもないですね(苦笑)。
まあ、洋画の宣伝が結果的に客を惹きつけている、という側面もあるでしょうから、そこまで単純な話にはならないでしょうけど。

邦画の隆盛はこのままどんどん続いてもらいたいものです。
1990年代の暗黒時代はもうたくさんですし(-_-;;)。


「スターウォーズ」既存シリーズ作品の3D映像化が延期

「スターウォーズ」シリーズのエピソード2と3の3D映画版公開が、事実上の無期限延期になったそうです。
表向きは「エピソード7の製作に専念するため」と発表されていますが、去年公開されたエピソード1の3D版の興行収入があまり芳しいものではなかったことも背景にあるとのことです↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0049785
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 3D版『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』の公開を延期するとルーカスフィルムが発表した。これらは2010年9月に発表された『スター・ウォーズ』全6作を最新の3Dでよみがえらせるという企画の一部で、2013年秋に全米公開されることが決まっていた。
>
>  延期決定の理由は、新作『スター・ウォーズ:エピソードVII(原題) / Star Wars: Episode VII』に集中するためとのこと。ルーカスフィルムは「われわれは現在、ファンが満足できる作品にするために『エピソードVII』に100パーセントの力を注いでいます」との声明を発表している。
>
>  
『スター・ウォーズ』シリーズ3D化企画の第1弾『STAR WARS エピソードI/ファントム・メナス 3D』は昨年公開されたが、興行収入は全米で4,345万6,382ドル(約35億円)と振るわなかった。また、人気キャラクター「ヨーダ」をパペットからCGに差し替えるなどの改変が熱狂的ファンを激怒させていたこともあり、3D版を延期し、新作に打ち込むというのはベストな選択といえそうだ。(数字はBox Office Mojo調べ・1ドル80円計算)
>
>  
『スター・ウォーズ:エピソードVII(原題)』の監督には、「LOST」などで知られるJ・J・エイブラムスが決定。ディズニーがルーカスフィルムを買収した際には公開は2015年と発表されたが、エイブラムス監督の起用によって公開時期は流動的になったと報じられている。(編集部・市川遥)

この辺りはやはり、「既存作品を3D化しただけで劇場公開」という手法自体に無理があったと評さざるをえないところでしょう。
過去作品の復習なんてレンタルDVDでも充分間に合っているのに、わざわざ劇場に、それも3D料金増しなどという条件で映画館に足を運ぶ物好きなんて、この不況時にそうそういるわけもないわけで。
「スターウォーズ」シリーズにそれなりの固定ファンがいることを勘案しても、こんな「取らぬ狸の皮算用」的なことを一体誰が考えついたのやら。

「スターウォーズ」全シリーズに限らず、全く何の儲けにもならず誰も得をしない既存映画の3D改変版は、可能なことなら今後も一切劇場公開しないでもらいたいところですね。
アレが上映されるだけで、映画館の貴重なスクリーンのひとつが占有され、結果として新作映画がその分ワリを食らうことになるのですから。
ただでさえ大都市圏と比べて映画公開事情がお寒い地方では、スクリーンの減少は死活問題にもなりかねないのですし。
どうにもハリウッド映画業界では、3D映像が「金のなる木」であるかのごとく見られているような気配すらありますね。
そんなのは既に効力を失った幻想の類に過ぎないのですから、いいかげんそんな固定観念から目を覚ましてもらいたいところではあるのですが。


映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」感想

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映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」観に行ってきました。
カナダ人小説家のヤン・マーテル著「パイの物語」を原作とする冒険映画。
第85回アカデミー賞に11部門ノミネートを果たしている作品でもあります。
今作はあの忌まわしき3D映像が駆使された映画でもあったのですが、2D版も公開されていたので、スケジュール調整を行った末に、何とか3D版を回避することに成功しました(^^)。
映画料金節減の観点から言っても、無駄な労力を省きたいという視点から見ても、やはり可能な限り3D版は回避したいものですからねぇ(苦笑)。

今作は、映画の原作「パイの物語」の作者であるカナダ人作家ヤン・マーテル本人が、小説のネタを求め、インド人のパイ・パテルの元を訪れ、2人で会話を交わしているシーンから始まります。
このパイ・パテルが今作の主人公ということになるのですが、今作のストーリーは、パイ・パテルがヤン・マーテルに過去の自伝を語っていくという形式で進んでいくことになります。
パイ・パテルの語りは、そもそもの自分の名前の由来にまで遡ります。
パイ・パテルの本名はピシン・モリトール・パテルといい、これはパイと家族ぐるみで親交のあるママジという人物がよく通っていたフランス・パリのプールの名前から付けられたものなのだそうです。
しかし、彼が在住するインドでは、「ピシン」という単語に「尿」という意味が含まれているため、彼は名前が原因で幼少時からイジメを受けることとなります。
そのことに嫌気がさした彼は、11歳の頃、名前を現在のパイに改め、そのことを周囲に周知させるべく奔走することになります。
学校の授業毎に自分の名前の由来が円周率の「π(パイ)」であることを強調し、さらに円周率の数字を延々と黒板に書き綴っていく荒業まで見せたりしています。
そんな地道な努力が功を奏したのか、パイ・パデルの名は次第に周囲に認められていくのでした。

またパイ・パデルは、様々な宗教についても多大なまでの関心を持っていました。
元来信仰していた宗教のヒンドゥー教はもちろんのこと、キリスト教もイスラム教も一緒に信仰するという、ある意味節操のなさっぷりを発揮していたりします。
パイ・パデルの父親は「全ての宗教を信じることは、何も信じていないのと同じことだ」などとのたまっていましたが。
そんなある日、市から土地を借りて動物園を営んでいたパデル家は、市から援助を打ち切られ経営状態が悪化。
家の主であるパイ・パデルの父親は、動物をカナダに売り払い、新しい生活を始めることを決意し、結果、パデル家は動物達も含めた一家総出で日本船籍の船に乗り込むことになります。
パイ・パデルには当時、学校で知り合ったアナンディという恋人がいたのですが、結局彼女とは別れる羽目になり、彼は悲しみを抱いたまま、日本船籍の貨物船ツィムツァム号に乗り込むこととなります。
ところが、船が日本の南にあるマリアナ海溝へさしかかった時、巨大な嵐が船を襲います。
ちょうど深夜だったこともあり寝静まっていた船は、原因不明な理由でそのまま沈没してしまいます。
船の乗員乗客どころか動物達をも含めて生き残ったのは、人間のパイ・パデルと、同じ救命ボートに何かの偶然で乗り合わせていたシマウマ・オランウータン・ハイエナ、そしてベンガルドラの4匹のみ。
そしてここから、あしかけ227日間にも及ぶ、パイ・パデルの漂流生活が始まることとなるのです。

映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」は、人間だけでなく動物もまた、自身の生存のためならば他者を平気で殺す存在であるという、ごくごく当たり前の事実を再確認させてくれる作品ですね。
パイ・パデルを除く動物4匹のうち、シマウマは足の負傷に加えて飢えと乾きに苦しめられて早々に死亡。
するとハイエナが早々にシマウマの死骸を食べようと蠢動し始め、それに反応してオランウータンがキーキー喚き出すと、ハイエナはオランウータンを半殺しにしてしまいます。
そしてその直後、勝利の雄叫び?を上げたハイエナにベンガルトラが襲い掛かり、一瞬にしてハイエナの息の根を止めてしまったのでした。
こういう光景を見ると、よく環境保護団体辺りが主張する「動物は人間に比べれば理性のある知的な生き物なのです」などというスローガンも、完全に空しいものにしかなりえないですね。
今作を観ると、生物の中ではむしろ人間の方が知恵と理性がある分、他の動物よりもはるかに道徳的な存在なのかもしれない、という感慨すら抱きたくなってくるくらいです。
人間であるパイ・パデルなんて、自身の生命の危機すら招いている感すらあったベンガルトラを作中で何度も助けていましたし。
にもかかわらずベンガルトラは、飢えの苦しみからパイ・パデルを何度も襲撃してきましたし、ようやくメキシコの海岸に漂着して自由の身になった途端、パイ・パデルに目もくれずにさっさと森の中に消えてしまう始末。
アレだけ助け合ったのにと号泣していたパイ・パデルは少々お人良し過ぎる部類に入るのかもしれませんが、動物の無情ぶりをあれほど正面から突き付けられた描写というのはなかなか見れるものではなかったですね。
まあ、アレはあのベンガルトラ個体がそうだったというよりは、ベンガルトラがネコ科の動物で、かつ人にあまり懐かない部類の動物だったという事情もあるのかもしれませんが。

作中の映像は、さすがアカデミー賞にノミネートされるだけのことはあり、かなり綺麗かつ自然の美しさと脅威の双方を上手く表現するものではありましたね。
主人公が漂流しているという事実がなかったら、「ライフ -いのちをつなぐ物語-」辺りにでも普通に出てきてそうな自然風景が展開されていたりもしましたし。
ただ一方で、アレだけ嵐に遭遇する場面やトラとのにらみ合い等のシーンがありながら、アクション&SFX系映画で見られる爽快感をもたらす描写の類はまるでないので、その辺は余計な期待をしない方が良いかと。

全体的な構成としては、自然の雄大さと人間の無力さが前面に出ていて、かつ宗教的な要素が少なくないストーリーが展開されるので、観る人をかなり選びそうな作品ではありますね。
まあ、最終的に主人公は助かっているわけですし、自業自得的な結末で終わってしまった「パーフェスト・ストーム」などよりはまだマシな展開ではあるのですけど。


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